デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.340-371(DK250011k) ページ画像

明治35年9月3日(1902年)

是日栄一、四度ロンドンニ入ル。七日同地ヲ発シテフランスニ向ヒ、パリニ入リ、十五日同地ヲ発シテリヨンニ着シ、十七日同地ヲ発シテ翌十八日イタリーニ向ヒ、ローマニ入ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250011k-0001)
第25巻 p.340-347 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
九月三日 晴
倫敦着、後公使館又ハ三井物産会社等ヨリ届来レル郷書其他ノ書類ヲ検閲シ、且来ル七日ニ当地出立巴里ニ赴キ、同地一覧ノ後、里昂ヲ経
 - 第25巻 p.341 -ページ画像 
伊太里ニ抵リ、ミラン・羅馬府等ヲ巡遊シテ、廿四日ホルトセード出帆ノ日本郵船会社船神奈川丸ニ乗組ノ事ニ決定セシヲ以テ、倫敦ニ於ケル公私ノ用向ハ、六日マデニ整理ヲ要スルニヨリ、一同ニモ之ヲ示シ、従来ノ引合先ナル、ベヤリング、ホーナー、サミユール商会、シヤンド氏等ヘモ通達ス、又本邦ヨリ出張セル各商店ノ人々ヘモ之ヲ通シ、郵船会社ニ向テハ、神奈川丸乗組ノ約束及伊国ブリンヂシヨリ、ホルトセードマテノ便船ノ手配ヲ托ス、午後根岸練次郎来リテ乗組船ノ事ニ関シ詳細ノ手続ヲ協議ス、午前十一時岩崎男爵、昨日仏国ヨリ倫敦ニ来リ同旅舎ニ止宿セラルヽヲ以テ訪問セラル、別後東西旅行ノ景況ヲ話ス、小室三吉来ル、夜岩崎男ヲ其室ニ訪ヒ、相共ニ市中ヲ散歩ス
九月四日 晴
午前二三ノ来人アリ、十一時サミユール商会ニ抵リミツチヨル氏ニ面会シテ京釜鉄道会社々債ノ件ヲ談判ス、余ハ先ツ曾テ同商会ヨリ提出スル発行価格ノ割合低下ニ過クルヲ説キ、軍事公債証書ノ倫敦市価トノ権衡ヲ論ス、ミツチヨルハ、一手引受ニ付テハ少クトモ百分ノ七・五位ハ、引受人即オンドルライトルニ付与スル差額其他ノ手数料ヲ要スル旨ヲ主張ス、依テ余ハ縦令其言ノ如クスルモ、ミツチヨルヨリ申出タル価格ハ低下ニ過クルヲ詰問シ、ミツチヨルハ時機ニヨリテハ更ニ増加ノ見込アル旨ヲ答フ、依テ此件ハ暫ク此儘ニ止メ置キ、余カ帰京ノ後政府ト会社トノ協議ヲ遂ケ、弥実施ノ機ニ至ラハ速ニ談判スヘキニ付、サミユー支店デヒス氏ニ通知セラレ全権ヲ与ヘラレン事ヲ談シ、且其手続ニ関シテ種々ノ談話ヲ為シテ告別ス、十一時半パルスハンク支店ニ抵リテ、シヤンド氏ニ会見シ、軍事公債ト整理公債ノ事ヲ談シ、且大蔵省証券ノ事ヲ諮問ス、明日前総支配人ダン氏及現総支配人ト本店ニ於テ会見ノ事ヲ約ス、倫敦交換所一覧ノ事ヲ曾テシヤンドニ依頼セシヲ以テ、此日之ヲ一覧ス、其方法東京ニ於テ取扱フ所ト略同一ナリ、只地方手形ノ交換ヲ別ニスルノミ、一覧畢テシヤンド氏・清水泰吉ト共ニ一料理店ニ於テ午飧シ、午後二時鉱山会社ニ抵リ、ミワ氏ニ面会シテ稷山金鉱ノ事ヲ談ス、市原盛宏・清水泰吉二氏同行ス談話ノ要旨ハ適当ノ技師ヲシテ、鉱山ノ実況ヲ調査セシメテ後ナラテハ、何等ノ契約モ為シカタキニヨリ其人ヲ撰定スルヲ要ス、而シテ適当ノ人ヲ得ルニハ少クトモ七・八千ノ経費ヲ支出セサルヘカラサルニヨリ、其出処ニ関シ種々ノ協議ヲ為シ、追テ鉱山所有本人ト議シテ、更ニ清水氏ヨリ再ヒ相談スヘキ旨ヲ告ケテ去ル、午後三時三井物産会社支店ニ抵リ、渡辺・小室二氏ニ面会ス、四時ボルツ会社ニ於テホーナル氏ニ面会シ、ベヤリング商会ト交渉セル鉄道法律案ノ事ヲ談シ、明日午後二時同商会ヲ訪ヒハラ氏会見ノ事ヲ約ス、午後六時頃帰宿、更ニ又当地ニ開設スル日本人会ニ出席ス、蓋シ根岸練次郎氏ヨリ過日来書アリテ、余ノ出席ヲ請ハレタルヲ以テナリ、日本会《(人脱カ)》ニハ林公使・荒川総領事ヲ始メ、日本人概算六十人余集会シテ頗ル盛況ナリ、食卓上一場ノ演説ヲ為シ、夜十一時帰宿ス
 日本人会ニ対シテ金額二十キニーノ寄附ヲ為ス
九月五日 晴
 - 第25巻 p.342 -ページ画像 
午前十一時シチーニ抵リ、昨日注文セシ船中用夏服ノ仮縫ヲ試ミ、十二時シヤンドヲハルスバンク支店ニ訪ヒ、同行シテ其本店ニ抵リ、前ノ総支配人ダン氏及現支配人ニ面会シテ、軍事公債・整理公債ニ関スル意見ヲ諮詢ス、談話数十分ニシテ辞シ去リ、更ニホルツ会社ニ抵リホーナル氏ト共ニ一料理店ニ於テ午飧シ、午後二時ベヤリング商会ニ抵リ、ハラ氏ニ面会シテ法律案ニ関スル爾来ノ手続ト、及向後取扱ニ付テノ見込等ヲ談話シ、社債ニ関シテハ、他日法律制定ノ後再議スヘキモノトシテ其商会ヲ辞シ、領事館・日本郵船会社・高田商会・大倉組・正金銀行支店等ヲ歴訪シ、更ニ公使館及鍋島桂次郎氏ト訪ヒ《(ヲ)》、告別シテ午後五時過ニ帰宿シ、再ヒ萩原氏ヲ伴ヒ荒川総領事ヲ其寓居ニ訪ヒ、日本料理ノ夜飧ヲ饗セラレ、閑談数時ニシテ夜十一時帰宿、此夜本邦ニ発スル書状、篤二宛及佐々木勇之助・益田・大倉・京釜鉄道会社・仙石貢・渡辺嘉一・小村外務大臣等ヘノ数通ヲ認ム、二時後寝ニ就ク
九月六日 晴
午前種々ノ来人アリ、十一時寸暇ヲ以テハイデパークヲ散歩ス、蓋シ明日発足スルニ付最終ノ一覧ヲ試ムル為ナリ、十二時帰宿ス、午後一時ステツト氏来ル、共ニ午飧シテ種々ノ談話ヲ為ス、食後シヤンド夫妻来ル、告別ノ為ナリ、青木鉄太郎氏ノ夫人モ来訪セラル、午後四時過市原氏ヲ伴ヒ林公使ヲ郊外ノ寓居ニ訪ヒ、着英来ノ要務ニ付テ其成行ヲ告ケ、且京釜鉄道会社々債ニ関スル顛末ヲ公使ヨリ外務大臣ニ文通セラレン事ヲ依頼シ、公使之ヲ領諾ス、午後六時過別ヲ告テ辞シ去リ七時帰宿ス、夜当地公債仲買人ノ一人ナルヒル氏ニ面会ス、蓋シヒル氏ハゴルトン氏組合ノ一人ニテ、曩ニ我政府ノ募集セシ四分利公債ニ付テモ種々尽力セシ人ナリ、依テ軍事公債ト整理公債トノ価格ニ大ニ相違アル事ニ付テ質問ヲ試ミ、又大蔵省証券ノ発行ニ関シ其意見ヲ問ヒ、更ニ政府保証ノ会社々債ニ関シ其考案ヲ叩キタリシニ、種々ノ説明ヲ為シ、他日実際必要ノ事アラハ、同氏ハ充分ニ尽力スヘキ事ヲ述フ
九月七日 晴
午前九時旅装ヲ理シ岩崎男爵ニ面会シテ告別ヲ為シ、送別ノ為メニ来訪スル諸人ト談話シ、十時旅宿ヲ発シビクトリヤ停車場ニ於テドーバー行ノ汽車ニ搭シ午後一時ドハー着、直ニ汽船ニテ英仏海峡ヲ超ヘ二時半仏国カレー港ニ着ス、此日ハ風ナクシテ有名ノドバカレー海峡モ船極テ平穏ナリキ、カレー到着ノ際、井上金治郎夫妻来リ迎フ、直ニ同車ニテ巴里行ノ汽車ニ搭シ午後六時五十分巴里府ガールジユノールニ着ス、停車場ニハ林忠正氏兄弟・西尾・佐野ノ諸氏来リ迎フ、相伴フテガランドホテルニ投宿ス、夜林・井上氏等ト滞留中諸方歴覧及訪問スヘキ人々ヘノ紹介手続ヲ協議ス
九月八日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時半井上金治郎氏来ル、相伴フテ同氏ノ寓居ニ抵リ、堀越商会営業ニ関スル要務ヲ談シ、紐克堀越氏ヨリノ来状数通ヲ一読シ将来ノ方針ニ付、井上氏ヘ説示スル所アリタリ、畢テ兼子ノ来会スルアリテ共ニ午飧ヲ畢リ、午後三時井上氏夫妻同伴ニテルー
 - 第25巻 p.343 -ページ画像 
プル街ノ一商店、即マガザンデループルニ抵リ、其支配人ニ面会シテ従来堀越商会即井上氏ト、種々商品ノ取引アル事ヲ悦フ旨ノ謝詞ヲ述ヘ、夫ヨリ旅宿ニ抵リテ、一行ト共ニ馬車ニテ市街ヲ通過シ、プラスドラコンコルド、シヤンゼリゼーヲ経テ凱旋門ノ傍ナル本邦公使館ニ抵リ、安達書記官ニ面会シテ公使ニ来意ヲ告ケ、去テボワデブロンギユニ抵リ、大瀑布ニテ馬車ヲ下リ一小茶店ニ休憩シ、更ニ馬車ニテ公園内ヲ巡遊シ、午後七時半再ヒ井上氏寓居ニ抵リ、一同日本食ノ夜飧ヲ饗セラル、林忠正氏来リテ明日ヨリ諸方巡遊及歴訪ノ順序ヲ協議ス本野公使ヨリ書状ニテ明夕招宴ノ事ヲ申越サル、夜十一時一同相伴フテ市街ヲ徒歩シテ旅宿ニ帰ル
九月九日 晴
午前九時井上金治郎氏来リ、相伴フテミゼーループルニ抵リ仏国歴代ノ油絵ヲ観ル、其名品ニ富ムコト実ニ驚クニ堪ヘタリ、一覧畢テヱツヘル塔ニ上ル、高サ三百メートル、四個ノ基礎ヨリ築成セシモノナリ蓋シヱツヘルナル技師ノ設計ニシテ、世界ニ無類ノ建築トシテ十ケ年前ニ落成セシモノナリト云フ、午後一時旅宿ニ帰リ、午飧後林忠正氏ト共ニドロネベルビル氏ヲ巴里府郊外ノサントニーニ訪ヒ、経済上ノ談話ト煉炭事業ノコトヲ為シテ午後六時帰宿シ、七時半本野公使ノ招宴ニ応シテ一同公使館ニ抵ル、本邦駐在ノ仏国公使アルマン氏モ来会ス、食事畢テ夜十一時帰宿ス、此夜公使ハ来ル十五日ヲ以テ仏国政府ノ各大臣招宴ノ事ヲ協議セラレ、同日迄余ノ滞在ヲ望ム由ヲ告ク、又余カ英国滞在中及白耳義ニ於ル経済談ノ概況ヲ談話ス
九月十日 晴
午前十時林忠正・井上金次郎二氏誘引シテ一行ウヱルサイユニ抵ル、十一時同地停車場ニ抵レハ、ゼネラールビレツト氏来リ迎フ、蓋シ氏ハ、三十六年前余民部大輔ニ随従シテ此地来遊ノ際、当時ノ帝王ナホレオン三世ノ命ヲ以テ、民部大輔ノ附人トシテ百事ノ世話ヲ為シタル人ナリ、今ヤ其齢八十歳ナリト云フモ、尚健全ニシテ余等ヲ其家ニ迎ヒテ款待頗ル懇篤ナリ、其家ニ抵レハ家人相集リテ往時ヲ話シ、午飧ヲ饗ス、畢テウヱルサイユ宮殿ヲ一覧シ、更ニ大小トリヤノ宮ヲ参観シ、午後六時過巴里旅宿ニ帰ル、此夜八時大劇場ニテ観劇ノ事アリ、劇場ノ壮大美麗ナル、名優ノ技芸巧妙ナル、只感服ノ外ナキナリ、夜十二時帰宿ス
九月十一日 雨
午前十時林忠正氏来ル、同行シテクレヂリヨネニ抵リ、ジヤルマン氏ニ面会ス、談東邦経済ノ事ニ及フ、氏ハ日本ノ財政ニ付テ種々論難スル所アリ、談話ノ後行内ヲ一覧ス、其諸調査ノ手続ト金庫ノ設備トハ殊ニ整備ヲ尽シ感服スヘキモノ多シ、十二時帰宿、午飧後井上金治郎案内ニテ煙草製造所ヲ一覧ス、此製造所ハ政府ノ管理ニ属シテ、規摸大ナラサルニアラサルモ、器械・職工ノ配置等所謂御役所事業ノ有様アリ、畢テ初代ナホレオンノ墓所ニ抵リテ墳墓ヲ拝ス、墓所ハセーヌノ河辺ニアリ、構造頗ル壮大ナリ、堂宇広クシテ其中央ニ大理石ヲ以テ墳墓ヲ構成ス、実ニ美観ト云フヘシ、堂宇ノ後部ニ武器ノ沿革ヲ一目スルタメ種々ノ器品ヲ陳列ス、且此陳列所ハ独リ欧洲ノモノノミナ
 - 第25巻 p.344 -ページ画像 
ラス、世界ノ武器悉ク具備ス、我邦ノ甲冑其他ノ兵器モ多ク見ルヲ得タリ、一覧畢テ旅宿ニ帰リ、午後四時アルベルトカン氏来ル、蓋シ此日ハ同氏ヨリオートモビルヲ以テ《自動車》、其家ニ一行ヲ招宴スルノ約アレハナリ、四時半一行二台ノオートモビルニテ旅宿ヲ出テ、シヤンゼリゼー、アルクデトリヨンフヲ経テ、ボワドブロンギユヲ通過シ、グラントカスカードヨリ左折シテセーヌ河辺ニ出テ、橋ヲ渡リサンクルーニ抵リテ其旧宮殿ニ属スル公園内ヲ馳セ、更ニウイルサイユニ抵リテ、再ヒ帰途同シクウイルサイユ及サンクルーヲ経テ同氏ノ家ニ抵ル、家ハセーヌ河ニ沿フテ極テ閑静ナル地ニアリ、庭園ノ設備尤モ愛スヘキモノアリ、広大ナル破璃造ノ温室アリ、種々ノ植物ヲ培養ス、別ニ日本風ノ茶席及小庭園アリ、百般ノ器具及風致皆本邦ヨリ移シ来レルナリ、一覧畢リテ夜飧ヲ饗セラレ、夜十時過再ヒオートモヒルニテ旅宿ニ帰ル、此日一行ノ外林忠正氏同行ス
九月十二日 雨
午前九時ガールサンラザルニ於テ汽車ニ搭シ、ガイヨンナル国有ノ感化場ヲ一覧ス、林忠正・井上金治郎二氏同行ス、汽車ノ行程二時間余ヲ費シ十一時ガイヨンニ抵リ、馬車ニテ感化場ニ抵ル、行程凡ソ壱里余アリト云フ、場ハ皆煉化石ヲ以テ構造シ、数棟ニ分レテ設置ス、収容ノ児童ハ悉ク男子ニシテ、父母ナク親戚ナク、悪習ニ感染セシ少年ナリ、十二歳ヨリ二十歳未満ヲ以テ制限スト云フ、在場ノ総人数ハ三百人ナリ、都テ農務・工務及簡易ノ文学・算術等ヲ教授スト云フ、其設備及方法政府ノ施為ニ属スル為メ極テ鄭重ナリ、経費ハ拾万フランクノ予算ニシテ、場ニ属スル土地三百ヘクター、即凡我三百町歩ヨリ生スル農産モ、皆場ニ於テ費消スルノ方法ナリト云フ、懲艾ノ制度ハ減食・労役・入監等ノ差等アリ、場長ニ於テ決行ス、而シテ場長ハ殆ント在場少年ノ親ノ如キ有様ナリ、場長ノ名ヲブラオント云フ、其官舎ニ於テ余等ノ一行ニ午飧ヲ饗シ、且感化実施ノ手続又ハ其注意等ヲ詳話ス、真ニ心ヲ尽セル所アリ、各室ノ装置及授業ノ順序又ハ農場等ヲモ一覧シ、午後四時過カイヨン発ノ汽車ニテ帰宿ス、此夜食後ニ曲馬ヲ一覧ス
九月十三日 曇
午前シーボルト氏来着スルヲ以テ、旅宿ニ於テ面会ス、十時シヤンゼリセーニテ美術館ヲ一覧シ、十一時バンク・ド・フランスニ抵リ、当直ノ役員ニ請フテ行内ヲ一覧ス、機械室・印刷局等極テ整頓セリ、営業ノ各局ハ他ノ家屋ニアルヲ以テ一見スルヲ得ス、午後一時帰宿、午飧後株式取引所・商品取引所及商業会議所ヲ一覧ス、林忠正氏誘引セラル、株式取引所ニ抵リテ仲買ノ一人ニ就テ取引ノ実況ヲ質問ス、倫敦又ハ米国ニ於テ聞知セシ処ト大同小異ナリ、転売・買戻ノ方法ハ規則上ニ之ヲ禁スレトモ実際ハ都テ行ルヽモノナリ、三時半商業会議所ニ抵レハ会頭ヒモーズ氏ハ十数名ノ重立タル会員ヲ集メテ余ノ訪問ヲ待テリ、面会ノ後縷々訪問ノ趣旨ヲ通シ、先方ヨリ答詞ヲ受ケ、待合室ニ於テシヤンハン祝盃ヲ挙ケ両国商業ノ未来ニ繁盛ヲ祝シ、夫ヨリ貿易調査会ノ事ヲ質問シ其取扱方法ヲ一覧ス、此調査会ハ政府ト商業会議所トニテ協議上設立スルモノニシテ、外務・大蔵・農商務等ノ諸
 - 第25巻 p.345 -ページ画像 
官衙ハ何レモ戮力スル所アリト云フ、午後五時過帰宿、此夜在巴里ノ日本人会ニ於テ臨時会ヲ開キ、余ノ一行ヲ饗宴スル由ニテ曾テ案内セラレタレハ、午後七時ヨリハレーロワヤルノ一料理店ニ抵ル、来会スル者三十余名、官吏・軍人・商工業者・学生等種々ノ種類皆集マル、食卓上一場ノ演説ヲ為シ、夜十時過其席ヲ辞シ、林氏ノ案内ニテ各種ノ狭斜場裏ヲ一覧シ、十二時帰宿ス
九月十四日 曇
午前十時林氏来リ、一行ヲ誘引シテ先ツボワテブロンキユニ抵リ、夫ヨリ動植園《(物脱)》ヲ一覧ス、午後一時、シヤンゼリゼーノ一茶店ニ於テ、午飧ス、此日シーホルト氏モ同行ス、午飧ハ巴里風ノ尤モ高尚ナル調理ナリキ、午後三時ホテル・デ・ビルノ建築ヲ一覧シ、更ニノートルダムパンテオン等一覧ノ筈ナリシモ、土曜日ナルヲ以テ之ヲ止メ、一ノ古博物覧《(館カ)》ニ抵リ庭中ヲ一覧ス、午後六時帰宿、再ヒ理装シテ林忠正氏ヲ其家ニ訪ヒ、一行共ニ日本料理ノ夜飧ヲ饗セラル、種々ノ注意ニテ其味頗ル美ナリ、宴終テ夜十一時帰宿ス
九月十五日 晴
午前九時旅装ヲ理シ旅宿ヲ発シ、ガールジユリオンニ抵リ汽車ニ搭ス林忠正氏及其附属ノ人、井上金治郎氏ノ妻、シーホルト氏等モ停車場ニ来リテ行ヲ送ル、カン氏及日本人数名同シク来リ送ル、汽車直行、午後五時過リオン着ス、山田領事及書記生小野政吉、其他在里昂本邦人数名来リ迎フ、領事夫妻ト共ニ馬車ニテ〔   〕《(欠字)》ニ投宿ス、夜山田領事・小野政吉氏等来リテ旅情ヲ慰ス、着後此地ノ商業学校出身ノ人々六名ヨリ一茶店ニ招宴セラレテ夜飧ヲ饗セラル、閑話数時ニシテ帰宿
井上金治郎氏ハ、里昂ニ於テ諸方案内ノ為、一行ト共ニ里昂ニ赴ク
九月十六日 晴
午前八時過里昂ヲ発シ、汽車ニテブルゴワンスニ抵リ、ミトリー氏織物器械製造所ヲ一覧ス、此工場ハ織物器械ノ外ニ汽織機六百台ヲ有シテ多数ノ織物ヲ製出ス、其機場ノ構造及女工操業ノ現状等悉ク一覧シテ後、此地ノ小旅亭ニ於テ午飧ス、此日同行セシハ山田領事及里昂留学ノ練習生二名、井上金治郎ノ諸氏ナリ、午飧後ブーシイユーニ於テ瑞西人ノ設立セル織物会社ニ抵リ、其工場ヲ一覧ス、畢テ六時三十五分里昂ニ帰リ、衣服ヲ整理シテ夜八時山田領事ノ饗宴ニ出席ス、夜十一時宴散シテ帰宿ス
九月十七日 晴
午前山田領事及留学生来リテ一行ヲ誘ヒ、先ツブーシヤル氏ノ織物工場及ソシエテーセネラールドタンチユールノ染工整理工場ヲ一覧シ、十一時半井上金治郎氏ト共ニ正金銀行支店ニ抵リ小野支店長ニ面会シ相伴フテ里昂ノ倶楽部ニ於テ午飧シ、堀越商会営業見込及金融ノ事ヲ談話ス、午後二時小野氏ニ分レ、井上氏ト共ニ里昂商業会議所ニ抵リ書記ニ面会シテ来意ヲ告ケ、更ニ其楼上ニ設置セル織物沿革ヲ一覧スル為メ設ケタル博物館ヲ見ル、紀元前ヨリ千九百年代ニ至ルマテ歴々観ルヘキモノアリ、畢テ一行ノ来会ヲ待テ山田領事ノ案内ニテホンセイ父子会社ニ抵リ、製織物ヲ一覧シ、夫ヨリ家内的織物工業一覧ノ為
 - 第25巻 p.346 -ページ画像 
某織物家ニ抵リ、数台ヲ以テ一家経営ノ現況ヲ見、更ニ下等織物工業ヲ覧テ後一商店ニ於テ一・二ノ製品ヲ購入シ、午後六時旅宿ニ帰リテ旅装ヲ整ヒ、直ニ小野政吉氏ノ招宴ニ抵ル、午後八時食事畢リテ同家ヲ辞シテリオンノ停車場ニ抵リ、伊国羅馬行ノ汽車ニ搭シ夜九時里昂ヲ発ス、山田領事・小野政吉・領事館員・練習生等一同来リテ行ヲ送ル、井上金治郎氏ハ伊国ヘ随行スルトテ一行ト共ニ発ス、此夜天気朗晴ニシテ月色清絶、時々遠山ヲ見ル、田圃ノ夜景殊ニ佳麗ナリ、十二時頃山間ニ入リテ時々墜道ヲ通過ス、蓋シモンスニー山脈ヲ超ユルナラン、午前三時モダント云フ地ニ於テ伊国税関吏出張シテ荷物ヲ検査ス、午前八時伊国チユランニ到着ス
九月十八日 晴
午前八時過チユランヲ発シ、ゼノア港・ピーザ市等ヲ経テ夜十一時羅馬ニ着ス、停車場ニハ市来書記官・甘利書記生等来リ迎フ、直ニ公使館ノ馬車ニテホテル・ド・キーナールニ投宿ス、此夜里昂ニ於テ汽車ニ托セシ荷物到着セサルニヨリ、井上金治郎氏頻ニ苦配シテ各停車場ニ電報シテ其所在ヲ問合ハス
 チユランヲ過キ《(欄外)》ゼノワ、ピーザニ至レハ、気候全ク仏国ト異リテ残暑頗ル強キヲ覚フ、羅馬ニ於テハ恰モ本邦八月頃ノ暑熱アリ
九月十九日 晴
午前十時、先ツ当地ニ有名ナルサントピートル寺院ヲ一覧ス、寺院ハ羅馬法王ノ宮殿ニ隣レル大伽藍ニシテ、寺院中ニ種々ノ大理石彫刻物及絵画ノ名品頗ル多シ、一覧畢テ別ニ寺院ノ後部ニ設ケタル陳列場ニ抵リテ、多数ノ彫刻人形其他ノ諸品ヲ見、更ニ寺中ニ入リテ堂宇ノ全体ヲ一覧ス、実ニ壮大美麗ニシテ、其構造ノ注意、意匠ノ精緻ナル、筆紙ノ尽ス処ニアラス、一覧畢テ午後一時帰宿ス、午飧後再ヒ旅館ヲ出テ、古昔羅馬王ノ遊覧場ニ供セル曲馬場体ノ建設物ノ遺址ヲ見ル、更ニ路ヲ転シテ同時代ニ於ル倶楽部様ノモノニ使用セシ古跡ヲ見、最後ニサントポールト云フ寺院ヲ一覧ス、此各名場巡覧ノ際ニ、或ハシーザー殿宇ノ跡、又ハ凱旋門等各所ニ布置スルアリ、夕方ニ至リ一高処ニ於テ古代羅馬ノ歴史中ニ著名ナルシーサル時代ノ政庁ノ跡、及其残基礎等ヲ一覧ス、午後六時過帰宿ス、夜飧後市中ヲ散歩シテ一遊戯場ニ抵リ、歌曲ヲ聴キ曲芸ヲ見ル
   ○明治三十五年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩・和歌・狂歌ヲ記ス。左ハソノ中ノ漢詩四首及ビ和歌三首ナリ。
    巴里にて
目にふるゝものにむかしのしのばれて夢もわかやく巴里のうまやぢ一邱一壑総関情。相見山河皆旧盟。俯仰豈無今昔感。秋風送夢到巴城。那帝宮辺花闘紅。凱歌門外月横空。算来三十年前事。総在有無髣髴中。
    伊太里名物
寺絵画古代の歴史石細工椰子さぼてんに乞食まかろに
    羅馬懐古
古城荒苑昼蕭条。古刹只看護寂寥。児女尚知千古事。向人仔細説前朝。家つとゝいえしもミちハたおらねと秋《(ひ)》のにしきを故郷に見る
    武侖公園
 - 第25巻 p.347 -ページ画像 
那王豪奢蹤銷沈。往事追懐涙満襟。愛此園林存故態。秋風尚護旧時陰。
   ○京釜鉄道社債ニ関シテハ本資料第十六巻所収「京釜鉄道株式会社」明治三十五年九月四日ノ条参照。


渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編 第四六―五四頁 明治三五年一二月刊(DK250011k-0002)
第25巻 p.347-349 ページ画像

渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編
                     第四六―五四頁 明治三五年一二月刊
  ○欧米各地商業会議所訪問顛末
○上略
    巴里
同年九月十三日、渋沢男爵ハ林商会林忠正氏同道、萩原源太郎及八十島親徳ノ両氏ヲ随ヘ、巴里商業会議所ヲ訪問シタルニ、会頭ヒユームーズ氏(Mr.Fumouze)ハ重立タル会員数名ト共ニ之ヲ待受ケ、同男爵及一行ヲ別室ニ招延シ、特ニ小宴ヲ設ケテ之ヲ歓迎シタリ、当日列席者ノ氏名左ノ如シ
 巴里商業会議所会頭 ヒユームーズ(Mr.Fumouze.)
 同理事       ミツシア(Mr.Michaud.)
 同会計主任     ルジール(Mr.Lesieur.)
 同会員       ユーゴー(Mr.Hugot.)
 同同        ポヂー(Mr.Pozzy.)
 同同        シヨック(Mr.Choquet.)
 同同        ジヨルジ・サルモン(Mr.Georges Salmon.)
 同同        ブリカール(Mr.Bricard.)
 同同        アンスロ(Mr.Ancelot)
 同同        ヂユブルジヨウ(Mr.Durubeaud.)
 国民貿易会主事   コラン・ドウラバウ(Mr.Collin Delabaud.)
 巴里商業会議所書記長 ラクロアー(Mr.Lacroix.)
斯クテ席定マルヤ、会頭ヒユームーズ氏ハ全会ヲ代表シテ左ノ趣旨ヲ演述シタリ
 今回、東京商業会議所ノ会頭ニシテ日本全国商業会議所ノ代表者タル渋沢男爵カ巴里ニ来遊セラルヽニ当リ、本日本会議所ノ決議ニ依リ玆ニ同男爵ヲ歓迎スルノ機会ヲ得タルハ、本会議所ノ最モ光栄トスル所ナリ云々
之ニ対シ渋沢男爵ハ先ツ来意ヲ告ケ、且ツ曰ク
 余カ曩ニ日本ヲ出発スルニ当リ、当時東京ニ開設中ノ日本全国商業会議所聯合会ハ我商工業者ト欧米商工業者トノ間ニ交誼ヲ親密ナラシムルノ必要ヲ認メ、特ニ其決議ヲ以テ余ニ附託スルニ相互ノ間ニ意思ノ疏通ヲ図ランコトヲ以テセリ、願ハクハ諸君ニ於テ充分之ヲ領意セラレ、機会アラハ貴地商工業者ニモ此意ヲ伝達セラレンコトヲ、云々
於是会頭ヒユームーズ氏ハ、更ニ起立シテ酒盃ヲ挙ケ渋沢男爵ノ健康ヲ祝シ、宴終ルノ後、同男爵ハ会頭ヒユームーズ氏及国民貿易会主事コランド・ウラバウ氏ノ案内ニテ執務ノ状況ヲ視、猶国民貿易会ニ至リ其組織事務等ニ就キ懇切ノ説明ヲ受ケタリ ○中略
巴里ノ仏国亜細亜協会ニ於テハ、渋沢男爵ノ来巴ヲ機トシ一日之ヲ歓
 - 第25巻 p.348 -ページ画像 
迎セントノ計画アリシ趣ニテ、巴里日本公使館ニ向ケ左記ノ書状ヲ寄セ来リシカ、既ニ同男爵カ巴里ヲ出発シ帰朝ノ途ニ就キタルノ後ナリシヲ以テ、同公使館ハ更ニ之ヲ日本ニ転送シ、随テ同男爵ハ其招待ニ応スルノ機会ヲ得サリキ
      訳文
 謹啓、然レハ亜細亜大陸ニ処スル日仏両国ノ経済目的ハ、二・三共通ノモノ可有之、随テ該大陸全土ニ於ケル両国ノ経済関係ハ益々密切ニ可相成ト奉存候、就テハ今回貴下ノ御来巴ヲ機トシ、此有益ナル経済関係ニ就キ是非御会談申上度、小生等ノ希望ニ堪ヘサル処ニ御座候、小生等ハ此経済的関係ヲ明瞭ニ説示シテ遺憾ナカラシムルモノハ、蓋シ貴下ヲ措テ他ニ索ムヘカラスト確信致居候故ニ御座候尤モ本問題ニ関シテハ小生等モ亦攻究上多少得タル所モ有之候ヘハ乍失礼御高説トノ交換マテニ聊カ御高閲ニ供シ度存居申候、右ハ当協会ノ名ノ下ニ、陸軍大佐子爵パヌーズ並ニ小生ヨリ申進候
 尚小生等ハ、当協会々頭ナル商業会議所副会頭ヱチヱンヌ氏ノ名ヲ以テ、貴下ニ対シ我殖民界カ有スル好情ノ最モ剴切ナルヲ貴聞ニ達シ、敢テ憚ラサルヲ得ルハ、実ニ小生等カ無限ノ光栄トスル所ニ御座候
 右ノ次第ニ御座候ヘハ何卒生等ノ意ヲ諒トシ、会見ノ日時御指定被成下候様只管奉懇願候 恐惶謹言
  巴里千九百二年九月十九日
                  書記長 ジュアネン
  東京商業会議所会頭
    男爵 渋沢栄一殿
渋沢男爵ハ帰朝後此書状ヲ接手シ、即チ之ニ対シ左ノ答書ヲ発シタリ
      訳文
 拝啓、陳者九月十九日附ヲ以テ小生ヘ宛テ在巴里日本公使館ヘ御送致ノ貴翰ハ、恰モ小生巴里出発後ニ付同公使館ヨリ当地ヘ転送シ、小生帰朝ノ上ニテ拝見仕リ候
 亜細亜大陸ニ於ケル仏日経済上ノ関係ニ就キ、貴協会々員諸君ト会談候事ハ、小生ニ於テモ大ニ愉快トスル所ニ有之、然ルニ小生ハブリンヂシ発船ノ時期切迫ノ為メ去九月十五日貴地出発候次第ニテ、御懇招ニ応スルノ機会ヲ逸シタルハ、小生ノ深ク遺憾トスル処ニ有之候
 亜細亜大陸ニ於ケル仏日両国ノ経済関係ハ、御申聞ノ如ク今後追々密切ト可相成、随テ此際両国商工業者ノ交誼ヲシテ益々親厚ナラシメンコトハ、東京商業会議所及日本全国商業会議所ノ斉シク希望スル処ニ有之候、玆ニ小生ハ貴協会ノ御懇情ニ対シテ謝意ヲ表シ、併セテ貴下ニ向テ貴協会々頭ヱチヱンヌ君・陸軍大佐子爵ハーヌーズ君其他会員諸君ニ宜シク御伝声アランコトヲ相願候、先ハ此段乍延引御回答旁得貴意候 敬具
  明治三十五年十一月十九日
                    男爵 渋沢栄一
   仏国亜細亜協会
 - 第25巻 p.349 -ページ画像 
     書記長 ジユアネン殿
    里昂
同年九月十七日、渋沢男爵ハ領事山田忠澄氏同道一行ヲ随ヘ里昂商業会議所ヲ訪問シ、執務ノ状況ヲ視、猶同会議所管理ノ織物博物館ヲ一覧シタリ ○中略
又渋沢男爵ハ、同地滞在中里昂商業会議所ヨリ山田領事ヲ経テ同商業会議所設立二百年祭ノ招待ヲ受ケシモ、出発ノ期日切迫ノ為メ応諾スルコトヲ得ス、随テ其会頭ニ会見シテ親シク全国商業会議所聯合会附託ノ趣旨ヲ伝フルノ機会ヲ得サリシニ付、山田領事ニ其旨伝達方ヲ依頼シ置キタルニ、其後同領事ハ同商業会議所会頭ニ向テ左ノ公文ヲ発セラレタリ、依テ為念玆ニ之ヲ附記ス
      訳文
 拝啓、余ハ玆ニ東京商業会議所会頭渋沢男爵ノ請求ニ依リ、貴下ニ向テ一書ヲ裁シ、同男爵カ本月二十一日ブリンヂシ出帆ノ便船ニヨリ帰国ノ予定ナルカ為メ、貴会議所設立二百年祭ノ招待ニ応スルコトヲ得サルノ事情ヲ陳述致候
 今回貴会議所ニ於テ設立二百年祭ヲ挙行セラルヽニ当リ、同男爵カ日本全国商業会議所ノ代表者トシテ参列シ、其機会ヲ以テ我国ノ各商業会議所カ貴会議所ニ対シテ有スル友情ヲ表明スルコトハ同男爵ノ素望ニ有之候処、帰期切迫ノ為メ其望ヲ果スヲ得サルハ、同男爵ノ深ク遺憾トセラルヽ所ニ有之候
 同男爵カ今回欧米ノ旅行タル、主トシテ漫遊ノ為メニ過キスト雖トモ、又之ト同時ニ日本全国商業会議所聯合会ノ附託ニヨリ、我国ノ各商業会議所ト貴会議所トノ間ニ於テ今後一層親密ナル関係ヲ保維センカ為メニ有之、而シテ若シ此関係ニシテ益々親密ヲ加フルニ於テハ、之カ為メ彼我法令及慣習ノ異ナルヨリ生スル衝突ヲ円滑ナラシムルヲ得ヘクト存候
 将来貴地及我国ノ関係ニ影響スヘキ重要問題ニ就キ、貴会議所ト共ニ意見ヲ交換スルノ機会ヲ得ルコトハ、我国各商業会議所ノ最モ希望スル所ニ有之候、又同男爵ハ、相互ノ協力ニヨリ彼我商業ノ発達ニ対シ充分意思ヲ疏通シ得ヘシト信シ居ラレ候
 先ハ此段得貴意候也
  一千九百二年九月十八日
                 里昂駐在日本領事
                      山田忠澄
    里昂商業会議所会頭殿


竜門雑誌 第一七三号・第二一―二二頁 明治三五年一〇月 ○青淵先生より本社々長に宛てたる書翰(DK250011k-0003)
第25巻 p.349-350 ページ画像

竜門雑誌  第一七三号・第二一―二二頁 明治三五年一〇月
    ○青淵先生より本社々長に宛てたる書翰
其後貴方も無別条と遥祝いたし候、老生及一行爾来不相替健全にて仏国旅行相済し、一昨夕伊国羅馬に着、昨今同地の古跡又は寺院等見物中に御座候、曾て貴所の幻灯にて一覧せし法王の宮殿も「セントペートル」の大伽籃も、古代羅馬の旧跡も、実物を見て却て写真を追想するの奇観有之、頗る趣味ある事に御座候
 - 第25巻 p.350 -ページ画像 
古代のものに感すへき事共の多きに引替へ、現況の不体裁にも一驚いたし候、「乞食」「マカロニ」の地口は決て人を欺かす、昨日も下等市街一覧中頻に馬車に追随せられ、鬱陶敷の涯に御座候、今日も尚各処一覧の上六時過の汽車にて「ブリンチン」に罷越、夫より乗船、地中海を航し廿四日に「ポルトセイド」に於て郵船会社船神奈川丸に乗組候筈に候、故に神戸着は十月廿九日の予定にて、最早帰途一方しかも船に任せ候までに御座候
神戸着の上もしも同地大阪にて歓迎等の挙有之候てはと相考へ、先日神戸へは熊谷氏へ宛て、今日大阪は長谷川氏へ一書を送り謝絶仕置候是は帰京取急候為にて、可成は十一月一日位に東京に帰着候様致度と存候、御含可被下候
留守宅の近況も、銀行及各会社営業の摸様も最早帰京後の直話にて承及可申、又欧米見物細大之事共も面会の談に相尽し可申候、只仏国にて曾遊の土地を一覧し、三十年前之友人に会話せし有様は実に夢とも現とも難申有様にて、所謂今昔の感多く、旅行中尤以て価値ある事柄に御座候、夫等に付ても詳細は帰着拝眉にて可相尽と存候
益田・大倉両氏より其後来状を得候得共、至急の事にも無之、又不日帰途に就候義に付、回答相発し不申候間、丁寧に御伝声可被下候、又京釜鉄道会社へも重役中へ宜敷御申通し可被下候
第一銀行の方へは佐々木・長谷川両氏へ委細出状仕候、同行営業之都合は不相替恰好の由、先頃の書状にて承知安心仕候、是又宜敷御申通し被下、店員一同へも其内会話之事御伝へ置可被下候、仏国旅行中に穂積歌子の来状有之候、其中に不相替和歌寄送せられ、月ばかりの歌尤も面白く感吟いたし候、老生も和歌と拙詩と一首宛を得申候に付、別紙に相認申候、御一覧後歌子へ御廻し可被下候、先は旅行中最終の一書として如此に御座候 匆々不一
  九月廿日                   栄一
    篤二殿
   ○和歌二首「目にふるゝ」(第三四六頁)・「かたもにハ」(第二六三頁)及ビ漢詩一首「一邱一壑云々」(第三四六頁)前掲ニツキ略ス。


竜門雑誌 第一七一号・第三六頁 明治三五年八月 ○和歌(穂積歌子)(DK250011k-0004)
第25巻 p.350 ページ画像

竜門雑誌  第一七一号・第三六頁 明治三五年八月
  ○和歌 (穂積歌子)
    ○巴里にまします渋沢大人の御許へよみて送り奉りける
月はかり昔忍ふの友ならん
      星うつりたる巴里の都に
その昔栄えし人のあとゝひて
      なけきこるらんぶうろんの森
三十あまり年波越えしせゐん川
      昔なからの影やうつれる


竜門雑誌 第一七三号・第三五頁 明治三五年一〇月 欧米漫遊中之青淵先生(DK250011k-0005)
第25巻 p.350-351 ページ画像

竜門雑誌  第一七三号・第三五頁 明治三五年一〇月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○青淵先生の帰朝期
 - 第25巻 p.351 -ページ画像 
青淵先生の帰朝期に就ては、既に前号に記載する所ありしが、先生の秘書八十島親徳君が、九月十一日付を以て巴里より発せられたる信書に依れば、先生には愈々九月廿四日ポートセイドに於て神奈川丸に搭乗せられ、本月廿九日神戸着の上、直に入京の由なるも、既に京都の如きに於ては、歓迎の準備等もある赴きなれば、入京の期は或は来月一・二日頃となるやも計られずと云ふ、右八十島君の書信は左の通りなり
 渋沢男爵一行は来十五日(九月)巴里出発、一両日里昂に滞在、羅馬を経てフリンヂシ港に出で、同廿一日同港出帆ポートセイドに着廿四日同港より神奈川丸に塔し愈々帰朝の途に就き申候、神戸着は十月廿九日の予定に有之、男爵にも種々要務の都合も有之帰京を急かれ居候に付、京坂地方には暫時も滞留せず、同港着匆々帰京の筈に御座候
    ○青淵先生及一行諸氏の消息
青淵先生の帰朝期は、別項記載の如く来る廿九日なるが、先生一行には去八月十九日を以て第一回の欧洲大陸漫遊の途に就き、白耳義・独逸両国を歴遊の上九月一・二日頃倫敦に帰着し、次で同七日を以て倫敦を辞し、帰朝の途次再度の欧洲大陸漫遊の途に上れる由にして、同一行中の梅浦精一氏は九月十八日を以て一行と離れ単身露国漫遊の途に上りたる由なれば、同氏は一行より二・三週間遅れて帰朝することとなるべしといふ


中外商業新報 第六二三八号 明治三五年一一月三日 ○渋沢男爵の談片(三)(DK250011k-0006)
第25巻 p.351-352 ページ画像

中外商業新報  第六二三八号 明治三五年一一月三日
    ○渋沢男爵の談片(三)
○上略
夫から仏蘭西に往つても段々人に遇ひましたが、短日の間でありますから十分に見ることも聞くことも出来なかつたが、彼の有名なるクレヂー・ヂオネーのゼルマンと云ふ人に、独逸人シーボルト男の紹介に依つて遇つて色々話をしたり、意見を聞きました、此人は七十近い老人であるが、どうも此の人に付て銀行のことを話をし又向ふの話しを聞いたが、随分尤なことを云ふて居る、此人が常に調べて居る統計と云ふものは実に驚くべきことをして居るです、各国の財政に付ても又経済事情に付ても精密なる調査をして居る、此人が日本の経済界のことを彼是と評し、又日本の財政に付て評論をして居つたが、其評言は随分思ひ切つたことを云つて居るです、段々話をして往く内に、私も尋ねて見たいことがあるので種々問を発して、英吉利では日本の公債が売買されて居つて随分沢山に所有して居るものも見たり聞いたりするが、仏蘭西ではさふ云ふ風に日本公債を取引をしたり之を所有して居ると云ふことを見ることも聞くことも出来ないが、どう云ふ訳であらうかと云ふことから段々話が出て、夫は持たぬのが至当である、日本の財政を見ろと云はぬばかりに云つてお前は嘗て三十五・六年前に仏蘭西に来て居つた縁故もあるし、又遠慮なく打解けて話をしやうと云ふことで、私も遠慮なく話したいのであるから、忌憚なく日本の経済界、日本の財政に付て評しようと云つて色々と話しをしたが、其意
 - 第25巻 p.352 -ページ画像 
味は日本の経済界が進んで居ると云ふことは世界に隠れない事実であるか、併し財政のことに至ては実に驚かざるを得ないと云ふやうな口調で、先づ日清戦争後支那から得た償金其他の五億円と云ふ大金を如何に使つたかと云ふと、僅々数年の間に使つて仕舞つたらしい、そこで金高の多少もあらうし年月の長短もあらうが、欧羅巴各国何処でも斯程に短い間に斯程の金額を使つて仕舞つたものは殆とあるまいと云はんばかりに評言して、詰りマア斯う云ふ事実に依つて想像をして見ると日本の財政も思ひ遣られるではないかと云ふやうな意味に話したやうに思はれたです、夫からマアさふ云ふことで、何だか日本の財政が窮乏して居ると云ふやうな意味合に取れましたから、自分は経済界には身を委ねて居るが、財政の局には自ら当つて居るのでないから精しいことは分らぬが、親しく財政の事情をば見たり聞いたりしたところに依ると、なにも左様に他の人が気遣ふが如くに財政の基礎か薄弱であるとか云ふことは決してない、斯く云へば自分が日本の公債を募らうと思ふのではないかと云ふ疑があるかも知れぬか、現に日本目下の財政は外国債を募る必要がないと云ふことも伺つて居る位であるから、決して日本財政の将来はさう気遣ふべきものではないと云ふことを十分に弁明し、又日本はどうしても露西亜と戦争することが避くべからざる勢になつて居る、開戦の機間近に迫つて居ると世間の人か気遣つて居るやうであると云ふ話もあつたから、いや夫も大変な誤解で決してさふ云ふことはあるまい、全く一の杞憂に過ぎないことであると懇々弁解して、兎に角自分の思ふには日本政府か公債に裏書をして如何に為替相場の変動があつても日本の金貨は仏蘭西の金貨にして是丈である、日本政府公債の額面は仏蘭西の金貨にして是丈であると云ふことをチヤント極めて夫を払ふと云ふことにしたら、仏蘭西の人か十分に信用して居る国の公債を扱ふ程には往かぬかも知れぬか、昨年のやうな安い相場で売買取引をするやうなことはなからうと云ふた所か、夫は御尤な説であるけれども、何分日本の財政はどうも真面目でないやうに思はれるし、戦争をすると云ふ懸念も容易に去らぬやうであるから如何のものであらうかと云ふやうな話しであつたです、で既に各国の財政経済の事情を詳密に調査し統計を明にして居る人が右様な意見を持て居る所を以て見ると、仏蘭西の人が日本の財政経済を見て、如何なる感を抱いて居るかと云ふことを、想像するに難からぬことゝ存じました ○下略
   ○右ハ「竜門雑誌」第一七五号(明治三五年一二月)ニ転載サル。


神戸又新日報 第五八八二号 明治三五年一一月一日 【上略 次に仏蘭西に入れり…】(DK250011k-0007)
第25巻 p.352-353 ページ画像

神戸又新日報  第五八八二号 明治三五年一一月一日
○上略 次に仏蘭西に入れり、仏は往年予が曾遊の国にして、其当時と今日とを比較せば多少の進歩ありしは疑なき事実なるも、耳目を驚かす程進歩せる形跡は認むるを得ざりし、只世界に於て最も美麗なる花の都と評せんのみ、而して巴里滞留中東洋にも関係あるクレヂツトリヲネーなる銀行を訪ひしが、此銀行は仏国中有力なるものなり、同行の重役は予に向ひて日本の悪口を吐けり曰く、日本は英国と同盟し常に露国な敵視せり吾邦は日本が悪感を懐ける露国と同盟を結ぶの国なる
 - 第25巻 p.353 -ページ画像 
を以て、貴下に対して列国に於ける日本の批評如何と云ふに、多くは日本の事を賞揚するものなく、日清戦役後に於ける日本の財政は政府の所置其当を失し、数億の償金を得たるに拘らず一時の狂喜心に駆られ将来の財政策如何を考慮するの遑なく、過大の膨脹を諸般の事物に加へ、為に数年ならずして国庫窮乏し外債を募集せざるべからざる今日の境遇となりたるは余りに軽卒にして、戦勝に狂熱したる結果なり抔と非難を加ふるものあり、尤も英国の如きも常に日本に対し非難を唱へ居れど、是は全く親切上より云へるものにして大に傾聴すべき価値あり、仏国抔の悪評とは其感情に於て霄壌の差あるを知らざるべからず、之を要するに欧米各国の進歩富有を巡察し、翻つて日本国の現状如何を考察せば千万無量の感に堪へざるなり、日本は如何にしても此際大奮発せざるべからず、此儘に捨て置くべきにあらずとの観念は急迫的に頭脳を刺戟して已まざるなり、然らば如何にして此場合に処する日本人の覚悟を定むべきか、我国をして富国強兵の実を挙げ欧米と比敵すべき国たらしめんと欲せば、迚も一・二先覚者の力に依頼すべからず、挙国一致し新智識の団結に依り文物進歩の実を挙げざるべからず、終りに臨み桂内閣が否興業銀行が先般公債の売出に成功したるを喜ばざるを得ず、価格の点に就ては一・二の非難なきにあらざるも、兎に角公債の売出は我公債をして世界の市場に上らしめ価格の昂騰を計るべき最良の方法なれば、今後益々此事あらんことを希望す、又英国の如きは日英同盟の影響多少なきにもあらざるべけれど、外債募集に就ては確に成功すべき見込充分なり、予も此事に関しては多少の抱負もあり、多少の周旋をもなしたるが、成功すべき形跡あるは明なり、兎に角列国が今日長足の進歩をなしつゝある際、吾邦のみ空しく拱手傍観すべきにあらず、奮然蹶起して起ち大に為すあるの覚悟を定めざるべからざるは、予が今回の漫遊に依りて得たる感想なり
   ○右ハ「竜門雑誌」第一七四号(明治三五年一一月)ニ転載サル。


欧米紀行 大田彪次郎編 第三三四―三九二頁 明治三六年六月刊(DK250011k-0008)
第25巻 p.353-362 ページ画像

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竜門雑誌 第一七四号・第二五―三五頁 明治三五年一一月 ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)(DK250011k-0009)
第25巻 p.362-370 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第二五―三五頁 明治三五年一一月
  ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)
○上略
    △英国帰着
九月三日 小雨、午前六時、船英国のクヰンスボロウに着す、直に汽車に投じ同九時倫敦ウヰクトリア停車場に着、馬車を駆りて「コー@ーク・ホテル」に投ず、要するに第一回大陸旅行は僅々二週間に過ぎざるの短時日の間なりしにも拘はらず、随所内外人士の非常なる厚意と殊遇とに依り、予想外に弘く且つ深き視察を遂ぐるを得たるは、先生を始め一統の甚だ満足する所なりとす
岩崎弥之助男昨日大陸より帰りて同一のホテルに在り、此日先生と会見せらる、外に根岸・関・清水諸氏の来訪あり
    △日本人会の宴会
九月四日 晴、午前先生は「サミユール」商会のミツチエル氏、「パース」銀行のシヤンド氏及三井物産会社の渡辺専次郎氏等を往訪す、午後はホテルに在りて渡辺・小室・門野諸氏の来訪を受く
午後七時、在倫敦日本人会の招待に依り先生を始め萩原氏及余等「コルビール・テレス」の倶楽部に到る、同会は根岸練次郎氏を会頭として在留日本人百数十名より成り、毎月一回相会して日本料理を食するを例とす、今夕は渡辺専次郎・荒川巳次両氏の送別に、岩崎男及青淵先生の歓迎を兼ねて集会を催せるものにして、来会者七十名、食事終りて根岸会頭の演説に引続き、青淵先生起て謝辞と所感とを述べ、次て岩崎男・荒川・渡辺諸氏の謝辞あり、邦人数十名一堂に会し所謂水入らずの会なれば快談湧くが如く、主客歓を罄して更の闌くるを忘る
 ○第十九信(仏国巴里九月十一日発)
    △倫敦出発
九月五日 小雨、午前、先生は「パース」銀行支店にシヤンド支配人を訪ひ、其案内に依りて本店に到り、前任総支配人ダン氏及新任総支配人等に面会し対談数刻、辞して「ジヨン・パーチ」商会にホーナー氏を訪ひ、午餐を共にし、更に氏と共に「ベーリング」兄弟商会を訪
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ひ、重役フアーラー氏と会談す、帰路三井物産会社・横浜正金銀行・領事館・大倉組・郵船会社・公使館及鍋島氏寓居等を歴訪して告別をなす
夕刻総領事荒川氏の招待に応し、同氏の邸に於て晩餐、日本料理の饗応を受く、一行中萩原源太郎氏随行せり
九月六日 晴、先生は午前中少閑を得「ハイド・パーク」を逍遥す、午後一時アルフレツド・ステツド氏を案内して午餐を共にし、夕景より市原氏を随へ林公使を「モートレーキ」の避暑地に訪ふて告別す
愈々明七日を以て倫敦を辞し、大陸を経て帰朝の途に着くことに決したれば、内外人の来訪多く、一行は各行李の整理其他に忙はし、此夜ヒル氏来訪、先生と会談す
九月七日 快晴、午前十一時ヴヰクトリア停車場発の急行列車に搭して倫敦を去る、倫敦には前後六十日間(此間蘇国及大陸旅行の日数を控除するも尚三十九日間)滞在し、今回の旅行中最も長く逗留せる所なれば自ら玆に親むの情を生し、去るに臨みて先生以下頗る名残の惜まるゝものありたり
岩崎男及び渡辺専次郎氏夫妻は送別の為め今朝旅館に来訪せらる、又荒川総領事・青木正金銀行支配人・根岸練次郎・小室三吉氏夫妻・ステレー・柳谷巳之吉・木村楠弥太・植松幹・関周助・井上治兵衛・三上真吾・田中穂積・杉浦燾太郎・清水泰吉の諸氏は停車場迄見送られたり
日本出発以来久しく一行は九人なりしに、其中清水泰吉氏は倫敦に、渋沢元治氏は伯林に留学し、梅浦精一氏は露国視察の途に上りたれは本日以降一行は先生・同夫人・市原・萩原・西川の諸氏及余の六名に減せり、斯くて列車は午後一時を以てドーヴアー停車場に着す、直にカレー行の汽船に搭し仏国に向ふ、此日海上波穏にして、名にし負ふドーヴアー、カレー間の大英海峡も宛も湖上を行くか如く、航行一時二十分にして午後二時四十分、仏国カレー港に安着す、埠頭には堀越商会巴理出張員井上金次郎氏夫妻出迎はれ、税関の検査を終りたる後共に巴里行急行列車に搭し、行程四時間にして午後七時巴里市ノード停車場に着す、此所には林忠正・長崎・佐野・西尾の諸氏出迎はれ、直に「グランドホテル」に投す
同「ホテル」は、今を去ること三十六年前先生が民部公子に随行して渡航の際止宿せられたる所なれば、先生には懐旧の情転た禁する能はざるものありしか如し、晩餐後林・井上其他の諸氏と共に、明日以後に於ける漫遊の日程に就ぎ協議す
    △巴里滞在
九月八日 快晴、午前、先生は井上金次郎氏方に到り、堀越商会の業務を視る、夫人は他の一行と共に市中繁華の状況を巡見し、「パレー・ロワイヤール」、「ルーブル」、「アーク・ド・トリアムフ」(ナポレオン一世の凱旋門)等を見物す
午後四時、先生以下一同井上金次郎氏の案内にて先づ公使館を訪ひ、次でボア・ド・ブーローニユの公園に馬車を駆る、規模の宏大なる、風光の絶佳なる、未だ曾て見ざる所なり、此夜先生を始め一行は井上
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金次郎氏の招に応じ、同氏の寓に到りて日本食の饗応を受く
九月九日 晴、午前先生は一行を従へ、井上金次郎氏の案内にて先づルーブルの博物館を見、絵画・彫刻等珍奇の夥しきを嘆賞し、更に有名なるエツフエル塔に至り、三百メートルの頂上に上りて巴里及近県の全景を瞰下す
午後、先生は萩原氏を随へ、林忠正氏と共に「サンドニー」に「バンク・ド・フランス」の重役にして、商業会議所前会頭・世界大博覧会前事務長官たりしドロネー・ベルビール氏を訪ひ、暫く会談の上、帰途林氏の商店を訪ふ
夜七時半、本野公使の招待に依り先生以下一行公使館に到り、日本料理の晩餐を饗せらる、目下賜暇帰朝中なる東京駐剳仏国公使アルマン氏・安達書記官・林忠正氏等列席せり
九月十日 快晴、午前十時二十分発汽車に搭し、先生及同夫人は林忠正氏と共にベルサイユにビレツト老将軍を訪ひ、午餐の饗応を受く、将軍は今より三十六年前民部公子仏国留学中、侍従武官として仏国政府より公子に付せられたる人にして、当時より先生と旧交あり、今や老齢八十歳に及ふも尚钁鑠として徒歩停車場に出迎はる、三十六年振りの会見なれば互に其健在を祝し、旧談新話湧くか如し
終てベルサイユ宮殿、「グランド・トリアノ」、「プチー・トリアノ」等の各宮殿及庭園を見物す、一行亦同列車にて「ベルサイユ」に到り、名所旧蹟を観覧して、午後七時巴理の旅館に帰る
夜八時カン氏及ベルビール氏の招待に依り先生以下一行「グランド・オペラ」を見物す、名女優マダーム・アクテの一座にして「ローエングリン」を演す、建築の宏壮、修飾の艶麗、舞台の大、道具の巧、演舞の伎、歌の調、一として嘆賞を価せざるものなし、此オペラはナポレオン三世の建築に掛り、三十六年前先生渡仏の際には尚未だ工事中なりしと云ふ、今は政府の所有に係り、音楽奨励の為め国費を以て此オペラに費す所少なからずと云ふ
九月十一日 雨、先生は午前十時より林忠正氏と共に「クレヂー・リオネー」銀行頭取ジヤーマン氏を訪ひ、会談の後行務の実況を見る
午後先生以下一行、井上氏と共に官立煙草製造所に到り製造場及荷造り等の実況を見、帰路ナポレオン一世の墓に展す、壮大比稀なり
夕刻アルベルト・カン氏の招待に依り、先生以下一行は同氏より迎の為に送られたる自動車に搭じ、ボア・ド・フローニユの公園を過ぎ、セイヌ河を渡り、更にサンクルー公園を経てベルサイユに到り、終にサンクルーに在るカン氏の邸に到り、至て鄭重なる待遇を受け、晩餐を饗せらる
同氏は数年前我邦に来遊し、先生と旧交あり、頗る本邦の風俗・習慣を愛し、帰仏に臨み東京より大工・園丁等を伴ひ、邸内に日本部の一区劃を設け、玆に日本風の庭園・家屋等を建築す、設備周到、一度其庭に入り其室に上れば恍惚として身の本邦に在るの感を生ぜしむ
 ○第二十信(印度古倫母十月八日発)
    △懐古
九月十二日 雨、先生は午前八時二十分発汽庫にて一行を随へ、林忠
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正・井上金次郎の両氏と共に「ドレール」国立感化院を視察す、汽車行程二時間にしてガイヨン駅に下り、特に感化院より差廻はされたる馬車にて同院に到る、院長ブラウン氏一行を引て鄭寧に院内を観覧せしめ、且つ午餐の饗応をなす、同院は在院者三百名、院内の設備能く整頓し、国内有数のものなりと云ふ、此日予はホテルに留りて通信往復等の整理に従事す
一行は夕景巴里に帰着し、夜は更に井上氏等と共に「ヌーボー・シルク」(雑演伎場)に到る、偶々来遊中の彼斯国王来観の為め、装飾・演伎特に壮観を極む
此日先生の詩歌あり左に録せん
   ○前掲(第三四六頁)ノ「巴里にて」ト題スル漢詩二首及ビ和歌一首ト同一ニツキ略ス。
    △仏蘭西銀行
九月十三日 晴、午前九時、先生始め一行は井上金次郎氏の案内に依りて、世界大博覧会跡に於ける美術館を見る、ゴブラン織を始め諸種織物・絵画・彫刻・陶磁器等現代美術の精粋に乏しからず、観覧を終りし後一行は二組に分れ、先生は市原・萩原・井上の諸氏を伴ひ仏国中央銀行に到り、書記長・発行局長等に面会し、親しく事務の実況を視る、就中発行局の景況は先生の最も精査せられたる所なり、又令夫人の一行はパンテオン寺・ルーブル勧工場等を見物し、孰れも正午を以てホテルに帰着す
今を距る三十六年前、先生が民部大輔に随ふて仏蘭西に在りし時、一行の通訳の任に当りたる独逸人男爵シーボルト翁は、過日先生の伯林に赴きたる際郷里ルキセンボルグより出でゝ数日間先生と会談し、以て旧交を温めたるが、今回は特に送別の為め巴里に来遊し先生の投ぜる「ホテル」に泊したれば、先生は本日を以て翁と午餐を共にす、翁は極めて日本語を巧にして主客交々三十余年前の往事を語り、談笑時の遷るを忘る
    △取引所及商業会議所
午後、先生は萩原氏及余を随え、林忠正氏の案内にて先づ有価証券取引所に到る、時恰も本日の立会を終りたる後なりしも、仲買人ド・ベルヌイユ氏其他取引所書記長等の先導に依り普く場内を視察す、抑も当取引所は三十余年前、先生の嘗て当市に在りし時、民部公子学資金の利殖を計る為め自から往きて有価証券を買入れ、始めて国債証書・合本会社等の性質を研究し大に自得する所ありて、将来身を実業界に投ずるの希望を生じたる処なりと云へば、三十五年を経過せる今日、而も其素望を達して再び此取引所を見る、先生の胸中如何に今昔の感沸如たりしやを窺知するに余あるべきなり、終りて商品取引所に入り其概略を視察す
次で郵便電信本局に到り其執務の概況を見、午後四時巴理商業会議所に赴く、予て同刻往訪の約ありしを以て、会頭フユミユーズ氏は重立たる会員十五名と共に先生及随員一同を接待室に導き、少憩の後先生を出席員に紹介し丁寧なる拶挨をなしたる後、日仏両国は益々相親交して特に相互の商工業的関係を密接ならしめんことの希望を述べ、且
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つ幸に渋沢男爵の尽力に依り向後益々其効果を挙げんことを望む旨を陳ぶ、先生は之に対して其厚意を謝し、且つ余の出発に際し全国商業会議所より委托せられたる所は全く貴会頭の希望せらるゝ所と符節を合せるが如し、実に我国商工業者の希望する所は宛も諸君の期せらるる所に異ならざれば、今後互に力を協せて共に美果を収めんことを望むと述べ、更に進て此事に関する自己の所信と所期とを詳述せらる、双方の応答は林忠正氏逐一之を通訳し、和気洋々互に充分意志の疎通せる者あるを認めたり、次で会頭はシヤンペンの杯を挙けて男爵の為に健康を祝し、夫より会議所内の書籍館並に半ば附属せる半官立の貿易調査所に誘ひ、其状況を示し整理の方法を証明す、是より先米国・英国等に於て見たる商業会議所は、多く便宜上土地の情況に随て設立したる商人の組合たるか如き観あり、規模随て小にして其動作の範囲も広からざるか如くなりしも、此巴里商業会議所は所謂大陸の制度に拠るものにして、規模大に、組織整ひ、其動作の効果亦深く且つ広きこと遥に英米の比にあらざるを知れり、帰途アルベルト・カン氏を其事務所に訪ひ、懇談に時を移して黄昏旅館に帰る
    △日本人会の饗宴
此夜在仏日本人会の催に係る先生歓迎会の招待に応じ、バレー・ロアイヤール内の料理店「グランド・ベフール」に到る、来会者は安達・田附・林・長崎・西尾・鹿古木・佐野其他の諸氏三十名、皆職を公私の事務に奉じ又は留まりて学を修むるの人なり、偶々欧米漫遊中なりし北尾次郎氏夫妻並に寺尾亨(昨日来着の由)氏来会す、軈て鄭重なる晩餐の終らんとするに臨み、幹事田附氏は起て一同を代表し、日本人会の例会に兼ねて先生の為め歓迎会を催したる趣意を述べ、且つ青淵先生の徳を頌し、更に先生の老躯を提げて遠く欧洲に出遊し以て国家の為に尽すの労を犒ふ、次に先生は起ちて今夕特に宴を張りて歓迎せられたるの好意を謝し、続て三十六年前民部公子に随従して当市に来遊したる当時最も深く心を衝きたる所感、即ち民部公子学資の利殖を計るため取引所に至りて公債証書の買入をなし、玆に文明国の財政及商工界に於ける資本の投下・運用の方法を研究したる事、並に白耳義皇帝に謁見の際、皇帝は尚幼冲なる民部公子に対し一国に於ける鉄の製産若くは使用高は必然其国文明の程度と並行する所以を説き、延て日本に於ても成るべく外国より鉄を輸入し以て弘く之を使用するの方法を講すべしと教え給えるを傍聴し、皇帝の真理を語らるゝと、自ら其国商工業の事に注意の厚きとに感佩し、立国の基礎は商工実業にある事を肝銘して、終に他日身を実業に委ぬるの基をなせることを説き、更に今回米・英・白・独・仏等順次歴遊して各国の制度文物殊に物質的進歩の偉大なるに感じたるは勿論なれども、就中我国民が彼等に習はざるべからざるの急務は、国民相互間に於ける公徳心の熾なる事、及公私を問はず事を為すに団結力又は共同心の盛なる事等にあり云々と、所感を兼ねて警告をなす所あり、拍手喝采の裡に席に復し、食事終りて後喫煙室に転じ快談数刻、十一時を過ぎて漸く散会す
    △市中遊覧
九月十四日 曇、朝シーボルド男及佐野氏等の来訪に接せられたる後
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本日は日曜なるを以て、午前十一時より先生は夫人始め一行を随え、シーボルト男並に林忠正氏と共に、市中の遊覧に出づ、先づ馬車をポア・ド・ブローニユの公園に駆りて動植物園に入る、玆には各種の犬属・土鼠等殆んど他の動物園に於て嘗て見ざりしものあり、園内の設備頗ぶる整ひ、園中アルゼリヤ村と称する一区あり、頃者仏領アルゼリアより土人の老弱男女二十数名を従え来り、鉄柵を囲みたる中に棲息せしめ、入場者をしてアルゼリア人の風俗を観覧せしむる趣向なり文明国の趣向としては聊か非難を加ふるの余地あるを感す
尚園内に於て西印度噴火の惨状を描きたるパノラマを観、午餐後転して巴理の市庁「ホテル・ド・ピーユ」に入りて縦覧をなす、其建築の宏壮、廻廊、室内の修飾、彫刻、絵画等の華美を極めたる、流石に世界の花を集めたる巴理市代表の役所たるに恥ぢざるを見る、曩に驚嘆せるグラスコー、漢堡等の市庁も、到底日を同ふして語るべからざるべし
次に「パビオン・ド・レリジエ」の外観を見、更らに羅馬時代の古館「ミユージユム・ド・クルニー」を参観し、午後五時帰館、此夜林忠正氏の宅に招かれ日本料理の饗応を受く、一行の外井上金次郎氏亦列席す、林氏は店員長崎氏兄弟及西尾氏等と共に款待を尽す、後十一時帰館、今巴理に在りて途上瞥見する所に依れば、街衢の行人我等の一行を顧みて多くは日本人と呼び、仮令徒歩することあるも特に一行の周囲に群るものなし、蓋し世界の遊覧地として日常に種々の外国人に慣れたるの故ならんか、先に米国に於ては西部即ち桑港等に於ては居留日本人の多きを以て、別に一行を珍とするものなき有様なりしも、東部に到るに随ひ、殊に紐育附近の如き行人一行の四辺に蝟集し、多くは呼ぶに支那人を以てし、甚しきは悪戯児の瓦石を抛つものありたり、英国は流石に大国たるの故か行人の一行を顧みるものなく、随つて蝟集するか如きは絶無なりしも、白耳義に入るに及びては尚ほ珍らしき為にや、到る所に群集の囲繞を受け、屡々支那人と呼ふを耳にし児童の為め土砂を投せられたることも一再にして止まらず、独逸に於ては街頭の人足を停めて一行を顧み、多くは呼ぶに支那人を以てせり蓋し支那人とは彼等の黄色人種に対する総称なるべきも、而も欧米人中流以下の社会には未だ洽く日本又は日本人なるものゝ知悉せられざるに職由するものなるべく、思ひ来れは聊か遺憾に堪えざるものなしとせず
    △巴里出発、里昂着
九月十五日 曇、巴理は遊覧の個所多く、殊に男爵には三十六年前旧遊の地なれば、僅々一週間の滞在を以て此地を辞するは頗る残り惜しき感なきにあらざるも、前途の日程に限りあるを以て、已むを得す此日巴里を出発することゝなり、午前九時二十分ガル・ド・リオン停車場発の急行列車に投して里昂に向ふ、井上金次郎氏特に伊太利迄一行を送る為め同行し、又シーボルド男・林忠正氏・佐野氏・長崎氏兄弟井上金次郎氏夫人其他十数名は、停車場迄見送らる
出発後途上瞥見する所丘陵稍々起伏し、其間村落点在し、畑あり、牧場あり、稍々北仏と其趣を異にす、斯くて午後五時二十分里昂に着し
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山田領事・同夫人・小野正金銀行支配人・津田領事官補・時田外務書記生・藤田卯之助・今井孝吉・益子金太郎・長沼恭爾・鳥居精三郎・菅善三郎・笠原吉太郎・森田儀郎・梅川徳次郎・井上格の諸氏等二十余名の出迎を受け、「ホテル・ド・ユーロープ」に投宿す
午後七時、高等商業学校卒業生里昂在留者の招待に依り割烹店「マデレーン」に到る、井上金次郎氏及余随従す、主人側の出席者左の如し
 領事官補    津田五郎   正金銀行員   宮岡武吉
 正金銀行員   酒井健之助  原商店出張員  藤田卯之助
 飯田商店出張員 太田有二   実業練習生   長沼恭爾
鄭重なる晩餐の饗応終るや、男爵は極めて満足の情態を以て、三十六年前に於ける巴里所感及今回の漫遊所感より商業教育談並に商業大学設立の必要等を演へ、且つ日本商工業の将来に対する希望として、内外人間の障壁を去り、共同して事業を経営するの方針を執るべきことを談じ、夫より雑談に移り快談湧くが如く、夜半に及て退散す
    △織物工業視察
九月十六日 晴、本日は山田領事の案内を得て、里昂近郊に於ける絹織物工業を視察する予定なりしを以て、男爵以下一行山田領事・森田鳥居両実業練習生に伴はれ、午前八時四十分発の汽車に搭し同十時ウイゼール県ブルゴアン町に着し、直に同町所在ジエドリシ織物器械製造所及製織工場を見る、此社の織物器械は殆ど全世界を顧客とするものにして、京都・桐生・紫野等我国に於ける絹織物会社も亦多くは此社の製作品を使用すと云ふ、製織工場にては織機六百台を備へ、白地羽二重の類を製織せり
午餐後、更に転じて村道を行くこと十数町、ブーシイユ村所在シユワルツワンバ会社の織物工場に到り、支配人の丁寧なる案内に依り、製織場(ジヤカード機六百余台を以て重にダマと称する緞子の類を織れり、婦女の下衣袴即ちペテコートとなるものにして、需要最も広きものなり)・染工場・仕上場・意匠室・寄宿舎及附属唖聾院等を観覧す、当業者としては世界有数の中に列するものにして、百般の設備頗る整頓せり
右終て近郊に馬車を駆り、午後五時四十分プルゴアン発列車にて帰途に上り、七時前里昂に着す
此夜、山田領事の邸に招かれ、先生以下一行及井上金次郎氏同行す、領事は夫人(仏国人)・津田領事官補・時田書記生等と共に款待せらる領事の令嬢長七歳・幼五歳、日本語は解せざるも友染縮緬の日本服を着し一座に加はりて食卓に着きしは、領事夫婦の遠客を待つの懇情に出で、漫に床しき心地せられたり、蓋し山田領事は在勤十数年に亘り土地の状態就中絹織物の実況に通暁し、其談話は吾人に裨益する所尠少ならざりしを覚ゆ
九月十七日 快晴、本日は里昂市内の織物業其他を観覧することゝし午前七時半より一行は山田領事及森田・鳥居の両氏に伴はれ、先づブーシヤル氏製織工場に到る、同工場はジヤカード機台を以てダマ其他の紋織を製織す
次に「ソシエテー・ゼネラル・タンチユール」里昂染工会社に到り、
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工場長マルナス氏の懇篤なる先導に随ひ、原料絹布絹糸の扱場より染糸場・染布場・仕上場・木目形附場・化学的試験場等を見る、諸般の設備頗る広大にして且つ整然たるを見る、就中糊付け・火熨斗・毛焼き等仕上の手続に至りては最新式の方法を採用し、大に見るべきものありと云ふ
途次領事館を訪問し、ホテルに帰りて午餐を終へ、更に先生は山田領事と同行して里昂商業会議所を訪ふ、会頭不在にして面会を得ず、次て絹織物博物館に到る、玆には世界各国古今織物の分類的陳列及織物器械発達の順序を示す摸型あり
次に製絹業者ポンセイ父子会社に到り、其社製造の婦人服用新形優等織物を一覧し、終て更に製絹業者「シヤテル・ヱ・タシナリー」会社に到り、同社製造の室内装飾用美術織物を一覧す、如何にも精巧美麗を極むるもの多く、各国王室の御用品に係る緞帳類の如き一「メートル」の代価百「フラン」を超ゆるものありき
終りて更に市内山ノ手に到り、家内的手機工場及家内的器械織工場の一・二を視察す、何れも下等の生活をなすものゝ自宅に於ける賃機織にして此類亦甚だ多しと云ふ、手機工場に於ては同じく「ジヤカード」機械を以て巾広物を織出せり、聞く巾広ものは悉く手機を以て製織するものなりと
    △里昂出発
山田領事の懇篤なる斡旋に依り、僅々二日間にして略々里昂の視察を終へたるを以て、今夜伊太利に向け此地を出発することゝし、夕刻旅館に於て行李を整へ、午後六時三十分正金銀行支配人小野氏の宅に招かれ、先生以下一行は同氏夫妻並に菊地法学士の鄭重なる接待に依りて日本料理の饗応を受け、軈て九時二分の列車に搭して里昂を発し、羅馬に向け、二十七時間直行の旅程に上る、山田領事・同夫人・小野正金銀行支配人・同夫人を始め、津田・時田・菊地・宮岡・森田・鳥居・太田・藤田・酒井・長沼其他廿余名の諸氏停車場に見送らる、里昂より伊太利行の汽車には寝台車の設備なきを以て、先生・同令夫人を始め、一行は普通の一等客車に着座し、而も一人に対し一人の座を得るに過きす、拠なく腰掛の儘一夜を過し窮窟此上なく、連日の疲労に更に一層の疲労を加へたり、汽車の進むに随ひ漸く山間に入る、十六夜の明月巍峩たる山嶺に掛り、夜景の好佳幾分の旅情を慰むるを得たり
    △羅馬到着
九月十八日 快晴、払暁四時頃仏伊の国境モダーンに於て手荷物を卸し税関官吏の臨撿を受く、此の駅はアルプス山脈中の一邑にして山巓には白雪あり、暁風凛として肌に徹す、已に伊太利の領域に入り、夜明くるに従ひ山河の好景画も亦及ばず、午前八時チユランに着し、玆に列車の乗換をなし、山又山の間十数個の隧道を通過し、正午ゼノア駅に於てサンドウヰツチの弁当に腹を肥し、夫より以後伊太利の西海岸に沿ふて南行し、常に眼下に海波の打寄するを見、且つ時々隧道を通貫するの状宛も我東海道線の興津附近、又は常磐線の磐城海岸を行くが如し、然れども暑熱俄に加はり、気温八十六度、静座尚ほ汗する
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に至る、斯くて午後五時頃ピサの傾斜塔を左方に望みて進み、夕刻より漸く涼風を感し、午後十一時五十分羅馬に着す、市来公使館書記官及甘利書記生等の出迎を受け「ホテル・ヂユ・キリナール」に投宿す
    △羅馬遊覧
九月十九日 快晴、本日気温八十七度、暑気頗る高し、今回の旅行は去五月末米国に到着せる以降、夏季中英・独・仏等を通過せしに常に涼気身に適し、敢て暑中の苦熱を感せさりしが、昨今伊太利に入り仲秋却て盛暑に逢ひたるの感あり、本日は先生以下一行一人の案内者を伴ひ市内の名所旧蹟を巡覧す、即ち先づ羅馬法皇の宮殿・博物館及ひサント・ポーロの寺院等を見る、宮殿博物館等には壮大美麗の絵画・彫刻等多く、又サントポーロ寺院は宏大世界第一の名に背かす、建物の奥行百間以上に達し、高さ又之れに適ふ壁間飾さるに「モザイク」の大幅絵画を以てし、其他彫刻等の大にして巧なる、唯驚嘆の外なし男爵狂歌あり曰く
    伊太利名物
  寺絵画古代歴史に石細工
       榔子シヤボテンに乞食マカロニ
午後は、往時猛獣と捕虜若くは罪人とを格闘せしめたりと称する「コロセヲム」及び、共同の浴場なりしと云へる「バツス・オブ・カラカラ」等の古蹟に到りて当時の旺盛を追懐し、次に羅馬盛代に於ける政庁及王宮の古蹟を見、一行今更の如く盛者必衰の道理を観して、薄暮ホテルに帰り、夜は納涼旁々コンソルトの劇場に到る
○下略


東京日日新聞 第九三一五号 明治三五年一〇月一九日 ○渋沢男爵(DK250011k-0010)
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東京日日新聞  第九三一五号 明治三五年一〇月一九日
    ○渋沢男爵
は伯林を去て倫敦に帰り、数日滞留の後、九月七日巴黎に向け出発したり、巴黎にては凡そ一週間ばかり滞在して後、里昂市に赴き二日間同市の視察を遂げて羅馬に到り、数日滞在して更にプリンヂシよりポートサイドに出で、同港にて日本郵船会社の神奈川丸に乗組み帰国せん筈なりしといふ、澳匈国をも巡視せん予定なりしが、帰国の日迫れるを以て此れは見合せたるよし、倫敦の一新聞紙は記して曰く、渋沢男爵が欧洲を巡遊せる目的は、主として日本の諸鉄道を担保として外資を輸入する件に付き当業者と相談し、進んでは此の輸入をも協定せん筈なりしが、我輩の聞込める所を以てすれば男爵は諸方面に於て多く当業者と会見したれども、未だ取留めたる約束もあらざりし由、但し将来外資を日本へ輸入する上には、男爵の外遊は洪益を与へたるに相違なしと


雨夜譚会談話筆記 下・第六五四―六五六頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK250011k-0011)
第25巻 p.370-371 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六五四―六五六頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十四回 昭和四年九月十七日 於飛鳥山邸
    一、日英関係に就て
先生「何分問題が古い事で、且直接関係して居ないから特に之を取立
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てゝお話する程の事がない。併し立入つて申せば、二・三云ふべき事もないではない。日英同盟が始めて結ばれたのは、明治卅五年だつたと記憶する。何でも日露戦争の少し前の事だつたと思ふが、露西亜との関係がどうなるかと云ふ事は頗る気遣はれて、私等は直接政治には携はつてゐなかつたけれども、今後我国はどうなるだらうかと云ふ事が常に念頭にあつた。露西亜は朝鮮を自分の版図に入れようとの野心があつた。若しそうなれば拭ふべからざる我国の恥辱である。加之日本の安寧は之が為めに傷けられる事になる。故に之は政治家仲間のみの問題ではない。先是私は明治の初めから朝鮮に第一銀行の支店を設け、又朝鮮で種々な事業を興したりして、朝鮮の運命には少からず意を用ひて居た。此関係からも朝鮮はどうしても他国に渡してはならぬと考へ、又左様のことがあると我国の将来に拘はると深く感じて居つた次第である。斯る事情であつたから英吉利と相当な繋ぎを附ける事は必要ではあるまいかと、空想乍ら思つて居つた。小村寿太郎さんが時の外務大臣であつて、日英同盟があの時成立したので、私も自ら其思を強うした訳である。私は明治卅五年の五月に欧米視察旅行に出掛けた。其前に英国のレヴユー・オブ・レヴユースをやつてゐる人の息子が日本へ来て、私が其世話をした事がある関係から、私が英国へ行つた時、其親父さんと度々会見した。此人は所謂ジヤーナリストの立場から日露の関係や、朝鮮問題等も論じて居た。併しそれはどうも実際を知らずに想像で言つてゐる様に私には思へた。余事だけれども其時私と一緒に出掛けたのは、清水泰吉・渋沢元治・市原盛宏それから八十島親徳と云つた人々で、先方でも相当の歓迎を受けて帰つて来た。 ○下略
   ○此ノ回ノ出席者、栄一・渋沢敬三・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。