デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.414-452(DK250013k) ページ画像

明治35年11月8日(1902年)

是日東京商業会議所主催渋沢男爵帰朝歓迎会同会議所ニ開カル。栄一見聞スル所ヲ詳細ニ演述ス。十一月六日日本倶楽部晩餐会、十八日日本貿易協会主催歓迎会、二十日同気倶楽部主催歓迎会、二十二日深川区有志者主催歓迎会、二十三日竜門社主催歓迎会、二十七日東京銀行集会所等主催歓迎会、二十九日東京高等商業学校職員主催歓迎会、十二月一日朔日会主催歓迎会催サレ、八日臨時商業会議所聯合会ニ渡欧ノ報告ヲナス。更ニ十二日東京高等商業学校同窓会主催歓迎会、十三日八王子商業会議所等主催歓迎会等催サル。尚、翌三十六年三月二十一日国家学会総会ニ臨ミ、欧米視察談ヲ講演ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250013k-0001)
第25巻 p.414-415 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月六日 晴
○上略 畢テ七時日本倶楽部晩餐会ニ出席シ、会長其他ノ委員一同ニ面話シ ○下略
   ○中略。
十一月八日 曇 気候寒冷ナリ
○上略 三時半東京商業会議所ニ抵リ、役員会ヲ開ク、大倉・井上・雨宮藤山・朝吹ノ諸氏来会ス ○中略 畢テ歓迎会ニ臨ミ食事後一場ノ演説ヲ為ス ○下略
   ○中略。
十一月十八日 曇
 - 第25巻 p.415 -ページ画像 
○上略 六時貿易協会ヨリノ招宴ニ応シテ其事務所ニ抵リ、宴会ニ列ス、一場ノ演説ヲ為ス、会員来集スル者五・六十人余ナリシ ○下略
   ○中略。
十一月二十日 曇
○上略 午後七時同気倶楽部ニ抵リ、欧米視察談ヲ演説ス、蜂須賀・板垣其他ノ会員約八・九十人出席ス ○下略
   ○中略。
十一月二十二日 曇
○上略 午後一時銀行集会所ニ抵リ深川区内有志者ノ歓迎会ヲ受ケ、一場ノ演説ヲ為ス ○下略
   ○是日ノ演説筆記所伝ナシ。
十一月二十七日 雨
○上略 午後五時銀行集会所ニ抵リ、歓迎会ニ臨席ス、松方伯・岩崎男モ来会ス、一場ノ欧米銀行業ニ関スル視察談ヲ為シテ立食ノ饗応ヲ受ケ ○下略
   ○中略。
十一月二十九日 曇
○上略 午後五時上野精養軒ニ抵リ、高等商業学校教員等ノ催フセル宴会ニ出席ス、食卓上一場ノ演説ヲ為シ ○下略
   ○中略。
十二月一日 曇
昨夜ヨリ腹瀉アリ、朝来熱気ヲ加フルヲ以テ出勤ヲ得ス、此日高橋新吉氏ノ案内ニテ富士見軒ニ午飧饗応ノ約アリシモ病ヲ以テ之ヲ謝ス、夜岩越鉄道重役会ヲ築地精養軒ニ開キタルモ同シク之ヲ謝絶シ、褥中ニ在テ終日加養ス
   ○中略。
十二月八日 曇
午前八時朝飧ヲ畢リ二・三ノ来人ニ接シ、九時過東京商業会議所ニ抵リ全国商業会議所聯合会ヲ開ク、午後一時ヨリ聯合会ニ対シテ欧米旅行ノ視察ニ関シテ報告ヲ為ス ○下略
   ○中略。
十二月十二日 晴
○上略 夜七時上野精養軒ニ於テ同窓会 ○東京高等商業学校諸氏ヨリノ招宴ニ出席ス、夜十一時王子別荘ニ帰宿ス
十二月十三日 晴
午前七時飯田町停車場ニ抵リ、八王子行ノ汽車ニ搭ス、十一時八王子ニ抵ル、蓋シ弘道会諸氏ヨリ其秋季大会ニ於テ一場ノ演説ヲ請ハレタルヲ以テナリ、午後二時一寺院ニ於テ開会演説ス、弘道ニ関シ商業道徳ノ必要ヲ演ス、畢テ一集会所ニ於テ地方各種ノ有志者ヨリノ招宴ヲ受ケ、午後四時発ノ汽車ニテ帰京ス ○下略
   ○右八王子弘道会ニ於ケル「商業道徳及欧米視察談」ト題スル演説ハ、本資料第二十六巻所収「日本弘道会」明治三十五年十二月十三日ノ条ニ収ム。


欧米紀行 大田彪次郎編 第四二六―四二七頁 明治三六年六月刊(DK250013k-0002)
第25巻 p.415-416 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

中外商業新報 第六二四二号 明治三五年一一月八日 ○日本倶楽部の落成と晩餐会(DK250013k-0003)
第25巻 p.416 ページ画像

中外商業新報  第六二四二号 明治三五年一一月八日
○日本倶楽部の落成と晩餐会 日本倶楽部は予て麹町区有楽町に新築中なりしか、此程略ほ落成したるを以て、一昨日午後六時より同倶楽部委員小村外相・近衛公爵・長岡子爵・渋沢男爵・相馬永胤・阪谷芳郎・木村清四郎・池田謙三・阿部泰造等の諸氏十数名並に建築に関係したる人々集合し晩餐会を開き歓談に時を移し、渋沢男爵の欧米漫遊談等ありて中々盛なりしと


東京商業会議所報告 第一〇三号・第八五頁 明治三五年一二月刊(DK250013k-0004)
第25巻 p.416 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇三号・第八五頁 明治三五年一二月刊
 ○参照
    ○渋沢会頭歓迎会記事要領
明治三十五年十一月八日午後五時、東京商業会議所ハ、今回帰朝セラレタル渋沢会頭ヲ招待シテ同所楼上ニ於テ歓迎会ヲ開キタルカ、来賓ハ渋沢会頭ヲ初メ、浅田・阪谷・安広ノ各総務長官、千家府知事・柴田内閣書記官長・一木法制局長官・木内商工局長・杉村通商局長・倉知商事課長・大谷横浜商業会議所会頭、市原・八十島・萩原ノ各随行員諸氏ニシテ、宴闌ナルヤ大倉副会頭ノ発声ニテ一同
天皇 皇后両陛下ノ万歳ヲ三唱シ、夫ヨリ大倉副会頭ハ、会員一同ヲ代表シテ開会ノ挨拶ヲ為シ、渋沢会頭ハ之ニ対シテ答辞ヲ述ヘ、且ツ一場ノ欧米視察談ヲ為シ、次ニ浅田逓信総務長官ノ挨拶アリ、午後八時頃散会シタリ ○下略
   ○大倉副会頭演説、浅田逓信総務長官挨拶及ビ栄一ノ演説略ス。本資料第二十一巻「東京商業会議所」明治三十五年十一月八日ノ条ニ収ム。


渋沢男爵最近実業談 高瀬魁介編 第一三七―一五九頁 明治三六年八月再版刊 【○日本貿易協会晩餐会に於ける演説】(DK250013k-0005)
第25巻 p.416-424 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第一七五号・第四五―四九頁 明治三五年一二月 ○本社第二十九回秋季総集会及青淵先生・同令夫人外一行諸氏歓迎会景況(DK250013k-0006)
第25巻 p.424-428 ページ画像

竜門雑誌  第一七五号・第四五―四九頁 明治三五年一二月
    ○本社第二十九回秋季総集会及青淵先生・同令夫人外一行諸氏歓迎会景況
本誌前号に於て略報したるか如く、本社は去十一月廿三日午前九時より東京日本橋区浜町なる日本橋倶楽部に於て第二十九回秋季総集会並に青淵先生・同令夫人を始め、随行員市原盛宏・萩原源太郎・八十島親徳三君及西川令嬢の無事帰朝を祝する為の歓迎会を開きたり、当日は朝来曇天にして寒気を帯び、動もすれば雨を催さんとする傾きありしにも拘らず、曩に本年四月廿七日芝山内紅葉館に開きたる第二十八回春季総集会に於て、先生及令夫人外一行諸氏を送別せしより約半歳を過き、此の海山万里長旅程の間、先生を始め一行諸氏が無事帰朝せられたることなれば、そを祝し且先生の高見を拝聴せんと、社員の来り会するもの非常に多く、式は午前十時に初まる順序にて、社員は最初設けられたる楼上の式場に着席したるも、楼上のみにては到底来会者の全部を収容し得べくもあらず、且又危険の恐も少なからざりしより、遂に楼下に移ることとなりしが、演壇を去ること一尺許の処まで詰寄りたる来会者は、やがて室内椽側等に溢れて尺寸の余席を存せず其一部は已を得ず椽外の庭に出つるに至れり、以て其来会者の如何に多かりしかを想察するに足らん、来会者の重なる人々は穂積・阪谷・添田・坪井・岡村五博士、佐々木慎思郎・同勇之助・清水釘吉・福地源一郎・西村勝三・土子金四郎・徳富猪一郎・木村清四郎・植村澄三郎等諸氏を始め社員五百名、外に社員の同伴せる家族の人々を合すれば無慮六百有余名の多人数に上りたり、軈て午前十一時一同の着席を終るや、斎藤幹事長開会の主旨を述へ、次て社長渋沢篤二君立て左記歓迎の辞を朗読せり
      歓迎祝詞
 青淵先生閣下及令夫人、不肖篤二謹て竜門社員総代として恭しく歓迎の祝詞を呈す、回顧すれば閣下が本年欧米各国巡遊の為め、長風万里太平洋遠航の路に上られたるは、満城新緑杜鵑帰を呼ふの時にして、閣下の慧眼能く海外商工業の形勢を看破せられ、園林紅於秋天錦を晒すの時を期し、錦上花を添へて帰朝せられむことを祝したり、而して閣下気旺体健、海に風浪に悩ます、陸に車馬に倦ます、旺益旺健、益健にして能く観風の要領を収め、米英到処商工業者の歓迎を博して彼我の同情を疏通し、以て皇国商業会議所の企望に副ひ、又銀行営業に関する参考の資料を充て、双肩栄を荷ひ玆に期を違へすして帰朝せられたるは、独我社員の歓喜に勝へさるのみならず、実に本邦商工界の名誉なりと云ふへし
 - 第25巻 p.425 -ページ画像 
 窃に思ふに方今各国の事物は複雑又複雑、競争又競争、其底止する所を知らず、殊に商工業と兵革の事に於ては関係尤も甚しく、経済の張弛、交通の得失皆其挙措に因らさるものなし、而して各国商工業の益盛むなると共に軍備亦益拡張し、海陸利器を列ねて互に威力を観めし、和親訂約の下陰に攻守の術を講し、樽爼相見るの間弾丸硝薬を貯ふ、列国の形勢計るへからさるものあり、此時に当り閣下海外を巡遊して観風訪察の労を取られたるものは、実に我商工業に対する将来無限の賚なりと信す
 仰願くは閣下、我商工業を拡張して群雄割拠の商工界に臨み、有無交通の実権を以て饕餮驕暴の兵革を制し、万国の平和を謳歌せむことを、是れ社員等厚望する所なり、冀くは閣下幸に素率の言を斥けられす、賜ふに慧眼卓察の一斑を以てせられむことを、謹て祝す
  明治三十五年新嘗祭日
                 竜門社員総代
                      渋沢篤二
社長の歓迎文の朗読を終るや、添田博士は曩に送別の席上に於て社員一同を代表して送別の辞を述られたる点もありたれば「始めあり又終りある」を冒頭として、玆に歓迎の辞を演述せられたり(添田博士演説速記は次号に掲載せん)博士の演説終るや、先生には歓迎に対する挨拶あり、次て一時間半に渡る最も有益なる海外観察談を為されたり(先生の演説速記は次号に掲載せん)右終て随行員一同を代表して市原盛宏君の挨拶あり、之にて全く歓迎の式を終り、直に園遊会に移りて午餐の饗応あり、来会者は各自思ひ思ひに庭園を散策逍遥して、ビール・日本酒・鮨・天麩羅・煮込・甘酒・汁粉等の露店に就て各自の欲するものを飲み、且味ひたり、又余興としては音楽隊・蓄音器・剣舞・琵琶・落語等の催しありて、来会者は十二分の歓を尽して時の移るを知らず、全く散会せしは午後五時なりき、今当日出席せられし青淵先生を始め、其他名誉・特別・通常・準社員及客員等の芳名を録すれば左の如し
  青淵先生     同令夫人    渋沢社長
  社長令夫人    穂積博士    同令夫人
  阪谷博士     同令夫人
  社員(出席順序) 松平隼太郎   原簡亮
  長谷川幸七    長谷川武司   中野次郎
  武沢与四郎    中田正雄    八十島親徳
  野口半之助    井田善之助   木村清和
  青木昇      渋沢長康    石井健吾
  伊藤発喜造    柳田国雄    斎藤峰三郎
  上田彦次郎    西内青藍    桜井幸三
  河瀬清忠     成田喜次    林興子
  生方祐之     伊藤新策    斎藤政治
  斎藤艮八     佐々木和亮   金子四郎
  黒沢源七     佐々木慎思郎  三浦小太郎
  谷八造      谷信次     長尾甲子馬
 - 第25巻 p.426 -ページ画像 
  川口一      松本武一郎   杉田富
  矢木久太郎    近藤鉱之助   阪本鉄之助
  神谷義雄     渋沢作太郎   書上順四郎
  笹沢三多雄    永井岩吉    桃井可雄
  小橋宗之助    佐々木哲亮   神谷十松
  田中七五郎    木村長七    今井完三
  本多春吉     亀島豊次    岸田恭譲
  風間礼助     横田晴一    藤山雷太
  市原盛宏     青木直次    住吉博
  諸井四郎     村松秀太郎   内海三貞
  山崎一      大庭景陽    中村源次郎
  荒井栄蔵     浅見悦三    浅見録三
  木部欣勝     書上安吉    鶴岡伊作
  山際杢助     林正三     阪谷希一
  山口荘吉     清水釘吉    高橋俊太郎
  前田保雄     山本千之助   田中楳吉
  長谷井千代松   吉田七郎    尾高幸五郎
  長谷川方義    松本小吉    石川卯一郎
  湯浅徳次郎    堀田金四郎   岡部真五
  利倉久吉     福地源一郎   大沢佳郎
  小林武之助    阿部吾一    田岡健六
  岡本儀兵衛    高橋波太郎   西村勝三
  笹山意平     穂積重遠    穂積律之助
  松島金之助    長尾吉平    横山直槌
  野本庄太郎    西田音吉    松倉長三郎
  田中繁定     瀬下清     高橋信重
  大塚磐五郎    柏原与次郎   福島甲子三
  南須原巻五郎   中村衡平    長島隆二
  千葉重太郎    斎藤章達    岡本謙一郎
  金沢弘      河井芳太郎   新井良助
  西田敬止     高田兼弥    戸田宇八
  仲田慶三郎    鳥羽幸太郎   小山平造
  田口竹蔵     渋沢市郎    鈴木恒吉
  堀内歌次郎    土子金四郎   岡本銺太郎
  徳富猪一郎    高田乙彦    小林武彦
  小熊又雄     恩地伊太郎   服部巳吉
  岡田半次郎    加藤為次郎   大西順三
  星野錫      藤井栄     横田半七
  関口儀助     大木為次郎   清水甚兵衛
  森新之助     脇谷寛     鈴木清蔵
  山中善平     岩田幸次郎   唐崎泰介
  鈴木金平     佐藤伝吾    木村亀作
  湯川益太郎    佐々木信綱   戸塚武三
  西谷常太郎    武笠政右衛門  太田資順
 - 第25巻 p.427 -ページ画像 
  大熊篤太郎    堀井宗一    田中栄八郎
  倉沢粂田     九里誠一    鈴木亀太郎
  関屋祐之助    藤村義苗    内山吉五郎
  成島嘉助     南貞介     荒木民三郎
  松川喜代美    太田黒重五郎  山崎栄之助
  横山徳次郎    渋沢武之助   中村光吉
  伊藤祐一     米田喜作    森茂哉
  高橋毅      佐々木保三郎  北脇友吉
  高田利吉     渡辺清蔵    成瀬隆蔵
  田中太郎     福岡健良    長田貞吉
  小崎懋      小野重一    須原徳義
  沼崎彦太郎    八木荘九郎   和田豊基
  大畑敏太郎    伊藤半次郎   原田駒之助
  石井健策     竹田政智    本山七郎兵衛
  川村徳行     谷敬三     小沢泰明
  鈴木清蔵     村瀬貞吉    福田祐二
  植村澄三郎    諸井恒平    山田昌邦
  島田延太郎    斎藤又吉    明楽辰吉
  加藤秀次郎    阿南次郎    上原豊吉
  萩原久徴     阪倉清四郎   坪井正五郎
  堀口貞      萩原源太郎   平沢道次
  倉西松次郎    林新右衛門   高橋金四郎
  大須賀八郎    佐野小兵衛   松本清十郎
  柴田順蔵     水島鉄也    東奭五郎
  山中譲三     大川平三郎   吉岡新五郎
  中村得三郎    添田寿一    池田卯之助
  脇田勇      和田巳三吉   細谷和助
  磯野孝太郎    清水喜之助   石井与四郎
  松園忠雄     沼間敏朗    倉本敬次
  立木直英     八十島樹次郎  寺井栄次郎
  岩本伝      早乙女昱太郎  久保幾次郎
  水上政五郎    井上公二    吉松耕次
  佐々木積     土肥脩策    長谷川正直
  長谷川粂蔵    西村広正    小川雄一
  中沢彦太郎    村井義寛    木村清四郎
  早速鎮蔵     浅野彦兵衛   岩田豊朔
  高木藤太郎    赤羽克己    小林徳太郎
  豊田春雄     福村福正    藤木男稍
  塩川誠一郎    佐々木勇之助  郷隆三郎
  岡本亀太郎    金谷藤次郎   松村修一郎
  相原直孝     水野克譲    豊田伝次郎
  目賀田右仲    関直之     山中善平
  村田五郎     関誠之     浦田治雄
  古作勝之助    玉江素義    粟生寿一郎
 - 第25巻 p.428 -ページ画像 
  岡村輝彦     角田真平    弘岡幸作
  一森彦楠     野中真     尾川友輔
  西脇長太郎    磯部亥助    屋代忠恕
  河野通吉     木戸有直    古野克吉
  田尻武治     飯島甲太郎   林保吉
  永田雄五郎    同常十郎    青山孝輔
  服部巳吉     続木庄之助   吉岡仁助
  小林義雄     清水錬     松村五三郎
  土橋恒司     朝倉外茂鉄   石井録三郎
  諸井時三郎    鈴木金平    朝山義六
  金沢求也     村木善太郎   坪谷善四郎
  大橋新太郎    藤田英次郎   下条悌三郎
  山県近吉     織田国子    野崎広太
  石田豊太郎    穂積貞三    猿橋義太郎
  酒井庄吉     森島新蔵    斎藤鍬
  松井方利     和泉栄     松原知房
  上野政雄     橋本明六    原林之助
  山本音吉     丹羽清次郎   大沢省三
  倉田竹次郎    横田清兵衛   高橋信重
  浦田治平     植村金吾


竜門雑誌 第一七六号・一七―二〇頁 明治三六年一月 ○本社第廿九回秋季総集会席上に於ける添田博士の青淵先生歓迎演説(DK250013k-0007)
第25巻 p.428-430 ページ画像

竜門雑誌  第一七六号・一七―二〇頁 明治三六年一月
    ○本社第廿九回秋季総集会席上に於ける添田博士の青淵先生歓迎演説
渋沢男爵閣下始め、貴婦人、其他各位の前に於きまして、私に一言申すやうにと云ふ、御依頼であります、尤も、男爵の御出立前紅葉館に於きまして、聊か送別の辞を申上げたのでございますから、始めあるものは終り無かるべからずと云ふことでござりまして、玆に男爵の終始を完ふして御帰朝になりました以上は、一言なかるべからずと云ふ御依頼でござります、止むを得ず、歓迎の辞を、男爵併に男爵夫人、且つ一行の各員に向て申上げやうと思ひます
男爵の御出立の当時申上げました如く、男爵の此度の御旅行は直接間接の利益がありまして、我国経済上の有様を海外に明にし且又彼国の事情を我国に詳にして、双方の意思を疏通せしむると云ふ大体の利益ありと云ふことは、必ず保証するところであると云ふ迄申上ましたのであります、其希望を完ふして、男爵が日本の事情を彼国に知らしめ又彼国の事情を我国に知らしむと云ふ上に於て大なる効果を奏せられて、私の希望を遂げ得せしめられた段に就きましては大に賀すべきのみならず、一般の為めに甚だ謝すべきことと存します、それで男爵は独り彼我の事情を疏通せらるゝに止まらずして、是から段々我国を益して下さると云ふことを深く信するのであります、殊に種々外国の事情を御観察になつた男爵は、我国が他の国に比較して見て劣つて居る点につき大に御感じになつたらうと思ひます、我国を外国と比較して見て今日遜色の有りますのはどう云ふ点でありますか、軍事ではあり
 - 第25巻 p.429 -ページ画像 
ませぬ、軍事の如きは殆んど彼に対して劣つて居らないと私は思ふのでございます、之は空論ではございませぬ、現に北清事件に於て証明され得るのであります、実に軍事上に於ては稍々安心して宜しからうと云ふも溢辞では無からうと信じます、然らば法制其他の制度が劣つて居るかと云ふと、是とても随分揃つて居るやうに思ひます、学術の点に至ても、例へば我国の大学は彼国の大学に比較して見て甚だしく劣つて居らないと思ひます、唯大に劣つて居りはせぬかと思ひまするものは、男爵の常に御心配になつて居ります所の実力、実業であります、此点に於ては何卒男爵が国々を御観察になりました所により、今後一層の御働を御顕はし下さると云ふことを切に望む訳であります
実は今朝此所に参ります途中で、甚だ心配に堪えない報導に接しました、此席に罷り出ましたを幸に、此事を申上げて男爵の御勘考を煩はしたいと思ひます、米が亜米利加のミスシツピー河の流域に段々と蕃殖すると云ふことは伝聞して居ましたが、列へば百「エークル」の土地に就きまして土地買入代其他一切にて六千円許費しますれば、翌年から四千八百円有余の収入があります、即ち八割の収入が有る訳になりますが、此の勢を以て進みますならば我国の農業は将来如何に成行くであらうか、我国食物の問題はどう成行くであらうか、余程大きな問題であると思ひます、此等のことに就きましては、男爵の御考を諸君と共に伺ひたいと存じます
それから男爵の御留主中起りました事柄の中で、二・三の重もなるものに付て一言申上たいと思ひまするが、其一は近頃世間で種々の批評のある五千万円の売債一条であります、之には不肖も関係致して居りまするし、且又此処に御列席になつて居られます阪谷大蔵総務長官も御尽力ありましたが、中々困難でありました、之に付ては非常に苦心を致しましたけれども、其の割合に好い結果はございませぬ、従て世間から種々お小言を頂戴致すのであります、誠に慙汗恐縮に堪えませぬ次第であります、併し、先方に於ける結果は、御当地にて御批難の盛なるに比べますと幾分か宜いやうの報導を得て居ります、此等は渋沢男爵の始めに申上げました通り我国の事情を彼国に御知らせ下さつた賜物と思ひます、私は此事柄に関係したる一人として、善き序で故男爵に一言御礼を申上げます
それから、今一つ男爵の御留守に起りました経済上の大きなる問題と云ふて宜いのは、取引所の問題であります、是は随分八ケ間敷喧伝《いひふら》されて居りますが、果して限月の窮屈なる為めのみに取引所の不景気を帰すべきか、他にも何か大なる根本的源因があるのではないかと云ふことは余程攻究を要すると思ひます、尚今一つ男爵に御報導申上げますことハ、近頃日本銀行金利の下りました為めに、一般の金利と云ふものが段々に下つたに拘らず、実際の事業と云ふものが、一向発達せぬ様に思はれます、是には何か大なる原因が無くてはならぬことゝ思ひます、今日の如く利息も安く銀行も貸出を望で居るに関せず、各種事業の起つて参らぬと云ふのには、余程深い原因があると思ひます、成るほど自然の恢復を待つと云ふことも宜いのでありますが、其の間に外国の進歩に後れて仕舞ふ憂はないかと云ふことは、極大切の問題
 - 第25巻 p.430 -ページ画像 
であつて、且つ焦眉の問題であらうと思ひます、是は男爵閣下の御解決を煩さなければならぬ所であります、此の外にも尚ほ種々一般経済上の事に付て申上けたいのでありまするが、其煩を省きまして極重要なるもの丈に限つて措きます、今後男爵の御尽力を煩さなければならぬ今一つの事柄は、将来我国の財政上の方針を如何にすべきかと云ふのであります、程無く三十六年度の予算も事実になつて現はれて来ませうが、今後の我国の財政に於きましては、所謂経済力培養と云ふものを本体として、それに総てのものが従つて働くと云ふ組織にならなければならぬと信じます、之れに付ては成るべく、男爵の海外に於て御観察になりました所により御尽力を願ひたいのであります
既に起りました問題のみならず将来に起らんとする問題に就きましても、男爵の公平なる老練なる又誠実なる所の御考を煩したく存じます此の如き問題は政事に携はるゝお方は自ら今迄の行掛や事情と云ふものに制肘せらるゝ憂があります、又民間に於ける当業者は自家の利益のみに眼を注ぐと云ふ虞がある様であります、又国内丈に眼を注いで居る人は世界の大勢に暗い所がござりますから、公平の地位にあり且外国の事物を御通覧になつた男爵は何卒大いに御尽力下さることを願ひます、男爵の御尽力は独り男爵御一身の為めのみならず、此竜門社の名誉のみならず実に一般の利ともなることゝ思ひます、詰り今日歓迎の席に於て種々なる御注文を申上ますることは甚だ恐縮千万でございまするが、聊か憂慮に堪へませず且男爵の公けに対する御地位を考へまして失礼を省みず申上げました段は幾重にも御宥免を祈ります
男爵夫人に於かれましても、我国実業家の御夫人として御出下さつて彼国の人に社交的に日本婦人を代表し下さつたと云ふことは、深く謝する所であります、又、随行なされました各員に就きましても、種々御覧になりました所を我国に応用せられて、貢献せらるゝ所があらうと信じます、是又大いに嘱望し申す訳であります
甚だつまらぬ事を申上げましたが、本日此所に参り急に幹事の御方の申付けでありまして、何も考へます事も出来ず、思ひつきの事を申上げ、男爵並に皆様が御無事御帰朝を遊ばされたのを祝し、且つ御観察になりました結果を我国に御顕はし下され、御旅行の利益を御広め下さることを希望する次第であります


竜門雑誌 第一七六号・第一―八頁 明治三六年一月 ○青淵先生の欧米視察談(DK250013k-0008)
第25巻 p.430-436 ページ画像

竜門雑誌  第一七六号・第一―八頁 明治三六年一月
    ○青淵先生の欧米視察談
 本編は本社第廿九回秋季総集会を兼ねたる青淵先生・同令夫人及外一行諸氏歓迎会席上に於て、青淵先生の為されたる欧米視察談の速記に係れり
来賓諸君、社員諸氏、久々にて御目に懸ります、今日此竜門社の総会に於きまして、私の無事帰朝致しましたのを、御祝ひ下さると云ふことで、只今社長から丁寧なる祝辞を朗読されまして甚だ汗顔に堪へませぬ次第でござります、続いて添田博士より私の欧米旅行に就きまして如何に観察したか、又留守中日本の経済界は別に目立つた変化は無いけれども、二・三の事に付ては私の愚考を申述べるやうに、又将来
 - 第25巻 p.431 -ページ画像 
に於ける経済上の問題に付ても不肖ながら私に其解決者の一人として追て考案を申述べよと云ふこと迄、御注文を蒙りましたが、此等のことに対しては、斯かる席上に於て卒然と申上ぐることも出来ませぬ、又私が容易に之を解決する程の考案を申上ぐることが出来るや否や懸念する位のことでござります、故に今日は其解決的の御答は、暫く御延期致します、誠に月日の経つのは早いもので、本年四月の二十七日の御集会から七ケ月を経過しまして、又此歓んで迎へらるゝの宴に出席して……而かも今日は大分多数会員の御集りで、竜門社の益々盛大に成り行く場合に遭遇するのは縦令何等の土産をも持参致しませぬけれども、幸に無事に帰つて、諸方で面白い所を見て諸君と会見すると云ふことは、諸君も喜で下さることでございませうが、斯く申上ぐる私も此位喜ばしいことはございませぬ、此喜びは、諸君と私と共に、未来迄継続致したいと思ふのであります、出立《タチ》まする時には若葉に送られましたから、帰国の日にはどうか美い紅葉の錦を着て帰朝《カヘ》らうと云ふ考へで、拙歌一首《コシオレ》を詠んで置きましたけれども、却々紅葉の錦を着て帰へることも出来ませぬ、而かも、私は旅衣の垢附いたものを着て、帰つて参りまして、さうして古郷にて錦を観ると云ふ有様でござります、故に故郷に錦を飾ると云ふことであるべきに、却て故郷の錦に飾らるゝやうの訳であります
一例を申しますと、只今添田博士は政府の売債のことに付て世間の批難云々と云ふことを申されましたが、私は故郷に帰つて故郷の錦を感ずる如く、此等の事は寧ろ私からして留守中の御働きを深く喜び、且つ其錦の反映を自分が受くると考へる位であります、私の旅行中経過しました地方は度々諸方の席にて申述べましたから、述ぶることも同じことしかございませぬ故に、云ふ本人さへ古いやうな感じが仕まするから、御聴になりまする諸君は、却て話す者よりも詳しいでございませうけれども、兎に角こう出席しました上からは、どう云ふ旅行をして来たかと云ふことを申上げるのは、歓迎の諸君に対して私の義務と思ひます故、一通り御聴き下さることを願ふのであります
亜米利加を経過しましたのは、六月中でございます、私は亜米利加の旅行は始めであります、予て、新聞紙又は友人の見聞して帰られました談話に依りまして、盛なる国である、実に烈しい進歩を為して居ると云ふことを聴いて居りましたけれども、所謂百聞は一見に若かず、縦令専門的に学んだことでないによつて、見たこと、聴いたこと、充分に会得せられぬにせよ、其現状を見ますると云ふと只驚き入つたるものでござります、第一に鋭敏なる人が沢山居る、一般の気運が物質的事業に対して全力を注入されて居る、殊に驚くべきものは、彼の国は諸君の御承知の通り種々なる人種が相集つて一国を為して居る、然るに其各種の人々が彼所に一団此所に一団と云ふ有様はなくして、能く相融和して所謂亜米利加「ナイズ」して、一国の人民相和して事業を進め、国運の宣揚を勉め他国に対して商工業の拡張を謀ることに就きましては、全く一団体となつて亜米利加「ナイズ」して居る、彼のモルガンと云ふ人が商工業の同盟を遣つて居りますが、彼れはモルガンの力の強く信用の厚いと云ふは申す迄も無いことでございますが、
 - 第25巻 p.432 -ページ画像 
若しモルガンにして日本に於て大同盟を行らうとしても出来ませぬ、モルガンは亜米利加だから出来ると云はなければならぬ、即ち知る、一国人の協同心が強ければ大同盟も立派に出来ると云ふことは、充分に言へ得らるゝと思ふのであります
殊に亜米利加は農業が却々盛でござります、私は僅に一斑しか見ませぬけれども、サンフランシスコを発してロツキー山脈を越え、デンバを通過してシカゴに着しましたが、彼の辺は亜米利加の農業地と云つて宜からうと思ひます、此等の土地は、鉄道レールの両側は皆耕作地若くは牧場であります、而して其農業の富源は推し測られぬ様であります、見渡す限り田野で、実に広大なるものである、且つ其地味も豊沃である様に思ひます、さりながら、此土地に耕作する人は極て少ない、殆んど人無しと云ふ有様で、自然に耕やして、自然に収穫されて居る、何となれば例の大農の方法でありまして、其耕作も簡便にして運搬の方法は総て鉄道を利用して容易に行つて居る、日本に於て農業に鉄道を使ふと云ふことは、私の見聞する所では甚だ乏しいやうに思はれますが、私は農業には鉄道を使用するは必要であらうと思ふ、瑞穂の国だ、農は国の本だと威張つて居ります我国で、農業に対して運搬の便を謀ると云ふことは、今少し深く考へたら宜からうと思ふ、彼国の農業に対して鉄道の設備が周密に届いて居るのは、実際に見まして感服するのであります、以て其国の貧富の差別も考察し得ることが出来るのであります、亜米利加の農業を日本の農業に比較して見ますると、例へば日本にては一人の農夫が六反若しくは八反の田地を耕すに過きませぬが、米国にては何十町と云ふ割合にて、確かに其面積の相違するに従て収穫する所の物品も相違する故に、一人の働から精算して見ましたならば、日本の産出額に対して如何に増加して居るか、此処に数字を以て勘定はせなくとも、推測つて余り有りと申して宜からうと思ひます
工芸の盛大なることは、来会の諸君の中には実際を目撃せられたものもございませうし、或は新聞雑誌抔に散見しましたものを御覧になつたであらうと思ひますが、例へば、ナイヤガラの水力電気であるとかピツツボルグの鉄工場であるとか、或はヒラデルヒヤの汽車製造所であるとか、シカゴの鉄道客車貨車等の製造所であるとか、ボストンの木綿織物、ハタソンの絹織物、ニユーヨルクの煙草製造業抔は実に盛大なるものでありまして、絹織物の工場は同盟罷工がありまして見ることが出来ませぬでしたが、其他の各所は親切なる案内を得ましたから、熟知する迄とは謂ひませぬが、眼に見、耳に聴くことは稍々理会した積りでございます、其事務所は極て其の人を減じて居つて、殊に其事務所が小さくて、工場が大きい、日本の仕事は之れに反して事務所が大きくて、工場か小さい、遠慮なく謂へば、事務所丈であつて、何も無いと云ふやうなものであります、恰も粗末の果物見たやうで、皮と核許りで、中実は何も無い、日本の工場には随分只今申しました果物的のものがありまして、喰べやうとしても中実はない、外面を見た丈では佳味《オイシイ》さうでありまするが、中には何もない、所が亜米利加の工場は殆んど事務所と云ふものは無いやうであるには驚きました、有
 - 第25巻 p.433 -ページ画像 
名のカーネギーの創設したホームステツトの鉄工場抔はさうであります、私の一行が六人許り参つて、もう坐る所がない、三人は立て居て話をしなければならぬ、又従事して居る所の事務員も僅かの者である而かも極壮年で、壮年と謂はんよりは寧ろ青年であります、さう云ふ人達が事務を執つて居ります、尤もピツツボルグ市にも一ツの事務所が有ると云ふことだけれども、俗事を取扱ふ場所と云ふものは僅でありまして、吾々の訪問した所が本局であつたのです、其の本局が左様に僅少なるものであります、是に反して此工場の壮大なることは皮の薄い、中実の豊富にして何ぼ食べても食べきれぬ果物の如くにて、而かも、其果物は甘味と云ふやうである、此鉄工場一つで以て亜米利加の工場の全般を批評する訳にも行きませぬが、其他のものも同様であらうと思ひます、亜米利加工場の盛であると云ふことは、最早私の喋喋を要することは無からうと思ひます
商売に就てニユーヨルクの状況を見ますると、保険事業の発達と云ひ銀行の設備と云ひ、海運業にしても陸運業にしても総て能く発達して居りまして、英国若くは欧羅巴の大陸を圧倒するの力を充分備へて居るやうでございます、今日の亜米利加は従来の主義に拠りて、飽迄も保護政策を以て常に外部に張り出さうと云ふ考を有つて居ります、殊に東洋には大いに注目して居るやうでございますれば、此亜米利加の東洋に対する働きは、将来に於て大いに吾々の注意を要するやうになりはせぬかと迄に考へらるゝのであります
欧羅巴に於ては、英国に長く居りましたから、倫敦其他英国の状況は幾分か知り得たと申上げます、亜米利加とは表面の事柄は似て居りまするやうですけれども、実体を論ずると、大いに変つた所がありまして、英国は先づ一口に申しますると、極く沈着にして公会の席も家庭の中も、事務を処理するも遊興をするも、総て軽卒でありませぬ、純粋の英国人と云ふものゝ挙動を見ますと、意気傲岸にして、世界の中心と云ふものは英国である、中央の市場と云ふものは倫敦である、商工業の真理を看破して、実益を論する者は英国人である、外国にも同様のことを説く人があるかと云ふ如き見識を以て居る、総ての英国人が皆斯の如くとは申されませぬけれとも、純粋の英国人と批評すべき人は多く前に述へた調子であります、故に英国人は或る場合には時勢に後れることがある、亜米利加が前に申した通り電気の事業も非常に発達して居る、農業が斯様に進歩して居る、海運業が盛になつて居ると云ふことに対しても、英人はそんなことが他国の人に出来ては困つたものだと云つて、慷慨心を起すことは無いかと見えます、例へばモルガンの「トラスト」は終に「ホワイトスター」会社を買収したと云て始て英国人は大いに驚いて、種々の議論がございました、其談判の結果は詳に聞知しませんでしたが、英国人の沈着して居る為めに、時機を見るに疎いと云ふことの嫌は無いとも申されまいと思ひます、尚一例を申しますると、独逸のハンブルグの港湾は市の力を以て築造したのである、其の保税倉庫に対しては国庫から補助費を出して壮大に設備して居る、さうして、港内も運河も皆立派に拵へて居る、殊に亜米利加の農産物の発達は欧羅巴に対して関係が段々に深くなつて来て
 - 第25巻 p.434 -ページ画像 
貨物も、旅客も運搬の程度を進めて来ましたから、独逸の炯眼なる、早く此処に注目してハンブルグの港湾を築造し、一方には汽船の大会社を設置して欧米の航海を努めて居る、是に於て英国でもテームス河の港湾が不完全だと云つて其改良が一問題になつて、終に、委員が成立して、其委員長には「ベヤリング」銀行のロード・レブルストツクと云ふ人がなりました、此人には私が倫敦滞在中再三会見した人であります、此等は即ち英人の沈着して居る為めに世の大勢を観ることが遅れて居りはせぬかと思はれる、併し、個人として其の操行の堅固なる気象の豪邁なる点に於ては、どうも他の国人は企て及ひませぬと私は想像致します、殊に己れの責任を重んずると云ふことに付ては、英国人は最も敬慕禁ずべからざる性質を有つて居るやうに見へます、而して、数百年来の間商工業の先進国であつて、其時分には他の国からも余の競争抵抗と云ふものゝ無い中に、俗に申す独り舞台で、世界中に計画致しましたのでありますから、其国富と云ふものも吾々の俄に想像し能はぬ位であらうと思ひます、一面から観察しますると、亜米利加抔が近年大に進歩し且つ富んで、英国から這入つて居た多額の資本を返却して、却て英国へ輸入すると云ふ勢になつたによりて、世界の金融市場の中心は動きはせぬかと思はれますが、併し統計的に申すことは出来ませぬが、まだ倫敦は左様に他国の資本に侵略せられては居りますまい、故に金融市場の中心が動いたと云ふことは、実際早計なる観察であらうと私共は思ふのであります、殊に亜米利加と英国とを比較しますると、此資本を供給すると云ふ働きに於て、大いに其差があらうと思ひます、其訳は亜米利加は国内の仕事が甚だ多い、而して事々物々を発達せしめつゝある国にして、資本の必要が甚だ多いのであります、之に反して英国はさう云ふ余地は無いのであります、兎に角亜米利加は余程資本の必要が多い国であるから、自国の仕事に対する金融を第二に置て、他の方面に金融を為すと云ふことは出来ぬのである、故に亜米利加が英国の金融市場の中心を奪ふと云ふことは、更に歳月を経過しなければ無いことゝ思ひます
英国の人物は前に評論致しました通りに、極て、真摯にして且つ剛直でありますから、一寸の交際は甚だ無愛想人の如くに見へます、能く親睦しますると云ふと、誠に深切なものであります、而して英米二国の人が我日本に対する意向は如何であるかと申しますると、私は僅々小部分の人に交際致しましたのみで、大勢に談話する機会を得ませぬでしたが、頗る善い観念を以て居る、又私が亜米利加・英国等にて始終論じました要旨は、日本が英米両国と同位置であるとは云はない、所謂後進国であるなれとも、今から商工業を盛にして、昔時鎖国の時の観念を去りて、先進国の仲間入りをして、交際を致したいと云ふ意念である、其手段として、日本の事情を詳細に欧米各国に通知するを勉め居るも、如何せん従来風俗習慣の異なる所あるよりして、其事情を委しく通し得られぬのみならず、往々誤りを伝へらるゝと云ふ恐れがあります、殊に日本が欧米諸国に知られて居るのは商工業に依てで無くして、軍事の点であります、誉める言葉が、日本は強いと云ふことである、日本国民が総てさう云ふ観念であるとも思ひますまいが、
 - 第25巻 p.435 -ページ画像 
彼の国は危険の国である、恐るべき国であると云ふ、評論を下すものがあります、故に私は是等の誤解を有する人々に対しては、日本は今日の商工業を以て国を富まし自国の実業を発達させると云ふ考を、政治家も、軍人も、教育家も、法律家も皆協同一致して此点に力を尽すと云ふことは輿論でありますから、決して危険又は恐るべき国柄ではございませぬ、習慣若くは法律又は従来の風俗に依て、欧米人と異なる点が多いから信用を置かぬと云ふことは無いとも申されますまい、又四・五十年前までは絶て国と国との間に交際と云ふものゝ無かつた欧米諸国でありますから、日本を左様に思ふのは当り前です、併し今日は日本人は総て吾々商工業者と同様にて、欧米諸国と同一の目的を以て努めて居るのであります、斯く弁解をしましたが、是は私一人が申したと謂つて致方がありませぬ、商工業者否国を挙けて皆賛成して一団と為つて勉強して下さる訳に行かなければならぬ、日本は是から以後、商工業に於て自国を発達せしむるのみならず、商工業をして世界的に進歩して行くと云ふ観念が無ければならぬ、是迄各人の抱いて居りました、排外と云ふ胸壁を毀ちて、協同して経営すると云ふ工夫が必要である、又一方に於ては東洋の商工業に大に力を用ひねばなりませぬ、諸君も御承知の通り、英国も米国も非常に東洋に力を尽して居ります、日本も東洋に対して、彼等の伍伴となりて、働くと云ふ念慮が無ければなりませぬ、其の働きに於ては自ら国々の長ずる所がある、例へば商業に長ずる国もあり、工芸に通ずる国もあり、或は資本に長ずる国もある、其他の点に於て長ずる国もある、各其長ずる所を以て、相補ひ合つて、さうして此東洋に力を尽すといふことをしなければならぬ、決して我より亜米利加人・英吉利人を嫌ふことなく、彼も亦日本人を好まないことはなからうと思ふのであります、更に進んで申しますなれば、東洋に事業を起して行く時に、若し一朝事あつたときには、其保護者は日本を除いて、それ誰ぞやと云ふことは、欧米人との談話中に私が訥弁で彼等と能く談ずることも出来ませんでありましたが、併し今申すやうの理由で、彼等には充分了解せられ、又充分同意せられた、若し或は同意せられなかつたにもせよ、日本の商工業者は、斯かる観念を有つて居るといふこと位は想像せしめ得たのであります、私が英米其他の国々に於て、日本の商工業者の位置を進め且つ商工業者は斯く々々であるといつて、所謂意志の疏通を謀るといふことは、大体斯様な趣意であつたといふことを、此御会合を機会としまして、申上げて置くのであります、実に英国は、倫敦の盛なるのみならず、其内地を旅行して見ましても、マンチエースター、リバプール、グラスゴー、ニユーカツスル、エデンボロ、シヱフヒルド等を巡覧しました、但エデンボロは唯経過した許りであります、別に何等の事業も見ませぬが、他の六箇所に於ては種々なる工場を見ました、実に工業の進んで居るといふことは、感服の外ありませぬ、英国の富は倫敦に集まつて居ると思ふたは謬見で、其実は他の地方に原因して居るのでございます、地方は到る処に石炭は累々として積んで山を為し、場所に依りますると鉄も出まする、而して盛大なる資力に依て営業して居る亜米利加から見るといふと、多少遅れて居るといふ、姿が
 - 第25巻 p.436 -ページ画像 
あるかも知れませぬが、総て英国の工業は、実に奇麗であると謂つて宜い位であります(未完)


竜門雑誌 第一七七号・第一―八頁 明治三六年二月 ○青淵先生欧米視察談(承前)(DK250013k-0009)
第25巻 p.436-441 ページ画像

竜門雑誌  第一七七号・第一―八頁 明治三六年二月
    ○青淵先生欧米視察談(承前)
 本編は本社第廿九回秋季総集会を兼ねたる青淵先生・同令夫人及外一行諸氏歓迎会席上に於て、青淵先生の為されたる欧米視察談の速記に係れり
倫敦を発しまして、白耳義に参ゐりました、引続いて独逸に参りました、此間の旅行か十余日でありました、白耳義には四日余り居りましたか、今より三十六年以前参つたことがありまして、多少記臆に残つて居ることもございました、人口の少い国としては富の程度も進んで居り、貯蓄に就ては一般に人民か注意して居る国であるといふことを予て承つて居りました、一体人民は極く穏和なる国柄で、又交際には巧者の国と申して宜からうと思ひます、日本にも多少の事業に手を着けて居ります為めに、其等の知己の者に面会して、商工業のことに就て種々の相談しました、工場としては、「リエーヂ」の鉄工場、若くは南部の方で硝子の製造所を一・二ケ所見ました、此国に就きましては此外に御報道するやうのことはないのであります、引続いて独乙のヱツセンに参ゐりました、又ジツセルドルフに博覧会が有つて、之れを見物しました、エツセンに於ては彼の有名なるクルツプの鉄工場を見ました、クルツプの鉄工場は一個人の所有であつて、実に盛大なるものであります、種々の仕組の行届いて居るといふことは、此の所に一言申上げて置かうと思ひます、クルツプといふ人は今は三代目であつて、其の祖父が此銅鉄事業《(鋼)》を始めたのであります、其二代目クルツプといふ人が余程秀でたものであつて、今日の盛大を成したといふことでありますが、その壮大殷富の有様は実に驚き入つたものです、当代のクルツプといふ人の経営して居るは、寧ろ自家の営業になくして其職工の保護又は救育といふやうのことのみに従事して居る、此クルツプにも面会しまして種々話を承りました、又其夜同氏の宅の宴会に招かれまして、夫人にも二人の令嬢にも悉く面会致しました、又一家の有様をも知ることが出来たのでございます、富に於ても徳望に於ても高くなつて居るのみならず、一体家庭が甚だ愛すべき体裁を備へて居るのであります、特に目に就きましたものはヱツセンの工場に附属する職工の寄宿所であります、此寄宿所に居る職工の総体が一万人許りといふことであります、元来クルツプの工場は各地に五・六ケ所ありまして其使役する所の人数は二万四千人許り、其の職工の家族を合計しますると八万人以上と聞て居ります、而してエツセンの工場に属する職工は其寄宿所がエツセンの最寄りに市街の如くに作られてあつて其貸賃・約束等のことは玆に申すのも煩はしいが、決して他の工場の如き有様でない、殆んど高尚なる小別荘見たやうにしてある、又其住居する職工も能く其命令を守つて奇麗にして居る、実に見て見よい、而して職工は此クルツプを神仏のやうに敬ひ、所謂幸福を君に祈る尭舜の民が唯帝の則に是れ従ふといふやうに見えて、一覧しても真に心
 - 第25巻 p.437 -ページ画像 
持が宜い、中には独身もの抔があつて老衰して居ると別に其処にて養ふといふことになつて居る、小さい家族は皆小さい家屋に住居してそれが一組二組と相集つて工場にて勉強して、又工場から家に帰りますそこには寺もあれば学校もあれば倶楽部もある、病院もある、何故斯ういふ風に致してあるかといふと、どうしても、総ての職工を安楽に住まわせなければ、例の「ストライキ」のやうのものがありますからでございます、クルツプは先代より斯ういふ方法にして居るのであります、自然此の如く取扱が厚ければ、従つて工場費用か多いかといふと、否さうでない、此取扱ふ為に多くの費用を職工に費しましても、皆クルツプ一家の経済から之を支出して工場の経費に関係せぬ、其他種々の考へを持つて待遇を厚くすることに注意をしてをるのでございます、詰り此方法を以て貧富の懸隔を防ぐといふことに勉めて居ります、之は独り独逸許りではありませぬ、英国・亜米利加等の政治家は最も之に注意致して居ります、独逸にては殊に其辺に力を用ゐて居るのでございます、殊に独逸の皇帝陛下には深く御心配あらせられて、地方制度若くは中央制度に於ても、此労働者の保護奨励を今現に設けつゝあるのであります、皇帝陛下若くは皇后陛下は、毎度クルツプの職工寄宿所に臨御になりまして、種々の御言葉を下し賜はるさうでございます、私も参つて見ましたが、寄宿所の一家屋に皇后陛下の臨御になりました時、一つの窓がある、そこに皇后陛下が御臨席《いで》になつた時に此寄宿所の二階に昇つて、誠に景色が美い「ベルビユー」即ち美景の窓であるといふお言葉を下さつた、之は独逸の一つの名所になつて居る、又陛下が倶楽部に御臨席《いで》になられて、料理人の部屋に於て鍋の蓋を取られて芋や大根をごらんになつたことがございまして、今日でも倶楽部の一室に額になつて居ります、大きい蓋は皇帝陛下の方で小さいのは皇太子殿下のでございます、両陛下が、斯くクルツプの職工に心を用ゆるの深きことを賞誉する御言葉がありますので、労働者に対する聖意の厚いといふことは明かであります、此一事を以て見ましても、独逸の労働問題に注意の厚いといふことが察せられます、又クルツプの宴会に招かれまして、其室内の有様、宴会の摸様を見まして、欧羅巴の富豪は斯かる体裁であるかといふことに驚きました、家屋の広壮にして庭園の美麗なる、食膳の配置、器具の設備、或は灯火の用方等に至るまで、実に驚き入る許りであります、併し此等のことを申上げましても余り利益のことではございませぬ、只我々田舎者には驚いたと申すより外にはありませぬ、伯林に止宿しましたのは四日許りでありまして其間に二・三の大銀行及電気工場の二個所を見ました、例の「シーメンス」・「アルゲマイネ」、それから、銀行は帝国銀行割引銀行・独逸銀行等が重なるものでございましたが、如何せん時日が短い為めに重なる経済界の人に面会致しましても、経済談・工業談等に就きましては、充分に談する時聞を得ませんでした、独逸は段々と進歩して参つて居るやうであります、殊に秩序的に進んで居ると申して宜からうと思ひます、盛大とか奇麗とかいふ方に就きましては他国にも優りたる所も有るに違ひないが、順序立つて進むといふ点に置きましては、或は独逸は第一としなければなりませぬかと思はるゝ、
 - 第25巻 p.438 -ページ画像 
独逸の国は総ての事物が沈着して、且勉強心が多いやうに見えます、一例を申して見ますれば、英国の商業者は自国の言葉を使つて来るものを待つが、独逸の商人は他国の言葉を使つて自分から出掛けて行く独逸の国と英国とは裡と表と其趣きが違ふのであります
それから、ハンブルクに参つて見ました、前に英国との関係を御話しまする為めに述べましたから、重複する必要はなからうと思ひますから、詳しいことは申しませぬが、実に立派なる港湾で、先づ完全と申して宜しい、而してハンブルグに汽船の大会社があつて、船を入れる場所を新に設備して居る、其新築港の場所を見ましたが余程広いもので、水中を浚つてそこに大船を碇舶するといふやうに致しますのであります、ハンブルグを出立して九月三日に倫敦に帰つて、七日に倫敦を発して、夫れから経過しましたのは仏蘭西であります、七日から十四日迄巴黎に滞在しまして十五日に出立し、リオンに二日居つて伊太利に行つて、羅馬に一日居りました、二十一日にブリチスに参りまして、それから彼阿会社の郵便船に乗つて、ホルトセイドに着して印度海を通つて帰国したのであります
仏蘭西に就きましての御話は、商工業としては叮寧に観察致しませぬから、詳しく申述べることは出来ませぬ、銀行では仏国中央銀行即ち「バンク・ド・フランス」及「クレヂ・リオネー」の二つを見ました「クレヂ・リオネー」の主任者ジエルマン氏にも面会致しまして、事務取扱上の模様を見ました、此銀行は追々に事業を拡張して其事務が整頓して居ります、殊に各国に対して、其国の商工業若くは、其政府の財政を能く調査して居ります、調査局といふものが広大の仕掛で設けてあります、日本の部分を見ますると、財政・経済共に各種の統計表を作りて、充分に調査してあります、此間も私は或る席に於て此ことを申しまして大いに笑ひましたが、調査局の模様に於て計表抔を見てから、応接所に来りてジヱルマン氏に面会して、談話の中に同氏の言ふ、日本は二十七年戦役以後の進歩といふものは実に驚いたものである、数年前に比して、其歳出入が三倍になつて居る、何処の国でもそれ程に進むものではない、もし夫程に日本全体の実力が四・五年にして三倍以上に進むものならば真に羨むべき国であると
斯様に評論されましたが、私は人に謂はれて大に心持が悪い、謂ふた人を悪くい奴と思ひましたか、焉んぞ知らん之は己れ自身が常に日本で論じて居たことである、他国人が謂ふから心苦しい感情が起りまするのである、彼国には工業は他国に比しては進んで居りませぬ、巴黎は煙突の制度から市街中に工場はない、私は三十六年以前に一年許り滞留致して居りましたから多少記臆は残つて居ります、市街又は公園の有様といふものを見ますると誠に今昔の感に堪えぬのであります、第一彼の「チロク」宮即ちナポレオン帝の住まつて居つた王宮は焼けて今は残影もないやうの始末であります、又「グランドオペラ」は其頃は建築中であつたが立派に出来上つて世界の大劇場として興行して居ります、私共は其オペラを一夕見ました、是は政府が所持して居る政府の興行のオペラである、何れの国都にも此位立派の場所はなからうと思ひます、音楽・演芸等のことは私共には解りませぬが如何にも
 - 第25巻 p.439 -ページ画像 
欧羅巴の粋を集めた興行でありまして、舞台の設備、又は運動場・休息所等迄も取設けられて実に能く行届いて居ります、其劇場の構造といふものは莫大の資本を以て作られて殆んど有ると有らゆる風流美麗を極めて居ると申して宜い、それで仏蘭西人は自ら称して巴里は世界の中央庭園であるといふて自ら誇つて居りまする、なかなか紐育よりも倫敦よりも一層私には優りて見えました、併し三十六年以前と余り変化はないやうでありました、何やら昔しが忍ばれて事々昔を思ひ出すやうでありました、巴里を出立して、リオンでは織物工場を数個所見ました、織物の実際の有様といふものは、実に精巧のものであります、又伊太利に於ては立派なる寺院を沢山見ました、併し工場とか、銀行とかさういふものを訪問する時日もございませんでした、それから後は印度洋を航海して帰国致しました、之れを約して申ますると、米英白独仏伊の六ケ国を経過したのでございますけれども、重なるは亜米利加・英吉利・仏蘭西・独逸でありまして各其の長所は異つて居るのであります、亜米利加は実に直前勇往に進んで行て、之れを水に例へて申せば、所謂一瀉千里澎湃として得て測るべからざる有様であります、又た英国に於ては其の源深くして蛟竜潜伏すともいふべき態度を有して、種々の人に逢ふても其の人物がさういふやうに見える、即ち一国の長所を各人に顕して居る、独逸と謂ひ仏蘭西と謂ひ皆前に述べましたやうに見受けられます、此れ等の有様から申しますると、我国の如きはどうであるか、殊に考慮せねばならぬ、是れから先きにお互に心を用ゐなければならぬ、日本人はどうも大勢寄集りますると欧米人と同じ有様でない、日本人は日本人としての特風がある、併しそれは誉めて謂ふことの出来ぬ点である、総じて日本人は人々皆其形を異にして居る、例へば大きくても小さくても皆四角であつたなら、之を寄せ集めても四角になる、若し又長いものを集めましたら長くならなければならぬ、所が日本人の如く三角もあれば円いものもある、不正形《イビツ》もある、一として形の異ならぬものは無い、英人風もあれば亜米加風も居る、独逸も仏蘭西も印度人も居れば支那人も居る、種々の性質が集まれば、三人寄れば文珠の智恵でなくて、十人寄れば十人と違つて来る、二十人寄れば二十人異つて来る、千人二千人と寄れば段段形体《カタチ》が崩れて来る、どうもかういふ傾きがあるかと思ふのであります、是は御互に自国を卑下し、自国を毀る如くなりませう、如何にも心苦しい次第であります、どうか御互にちやんと組合せて、四角になるやうに心掛けなければなりませぬ
殊に私が帰国以来切に申して居りますのは此社会に徳義の修まらぬ事であります、海外に旅行して見ますると、非常に徳義を修めなければならぬといふ観念が強くなるのであります、亜米利加・英吉利でも日本の商業道徳といふことに就ては批難の声を聞きました、此間も私は商業会議所に於て演説しましたが、其中に資本といふものは低い所に流れる性質を有つて居るものである、今や日本は資本の流れ来るといふ位置にして又其気運に向つて居る、無闇に外国の資本を入れて宜いといふではありませぬが、適当なる方法で低利の資本は入れたいと思ひます、今日の場合は資本の共通といふことは必要であります、又共
 - 第25巻 p.440 -ページ画像 
通といふことは資本の性質である、去りながら商業道徳の欠けて居る処へはそれ程共通すへき資本といふものも流入せぬと思ひます、商業道徳といふことは資本其ものに対して蓋し関係の強いものであるといふことを忘れてはなりませぬ
実に日本人は他国の人に比較して、商業道徳の欠けて居る所のものがあります、誠に申し悪いことでありまするが始終私が後進の人に戒める所のものであります、此竜門社の諸子にも斯かる警戒を為してお互に心を用ゐて、未来に於て矯正しやうではありませぬか、決してこれは小言ではありませぬ、愚痴でもありませぬ、お互に今申す様に多勢寄つて四角に成るといふ観念を有つて、正真に沈着に品格を持つて行かなければなりませぬ、是れは最も竜門社の諸子に厚く望みを申上げるのであります、どうぞ御遺却ないやうに願ひたい、将来の我国の経済上若くは財政上に対しては私が如何なる考へを有つたかといふことは添田君から前席に申聞けもございましたが、私は今俄に此大問題に対して御答し得るものではないと申上げます、今日の日本は商工業に於て既に世界的進歩をして行かなければならぬ、それは力能はぬかといふに決してそうでない、併し今日の儘では世界的に進んで行くといふことは私は頗る懸念するのであります、向後今一段自身の働きを増さなければならぬ、他の国々の人々と相当なる方法を以て力を合せるといふ仕組にして行かなければならぬ、日本の今日西洋に於て名誉を得て居るのは、先刻添田君の申されたる如く軍事に於て或は美術に於て知られて居るのであります、商工業に於ては甚だ遅れて居る、軍人若くは教育家に比較しましたならば、負惜みてなく大に劣つて居るやうに思はるゝ、軍人に対する信用と商工業者に対する信用とは違つて居る、軍備に対する心の用ゐ方と、実業に対する心の用ゐ方とが余程違ふて居ります、勿論力の乏しいことは他に向て、誉を博するといふことは出来ぬ次第でありまするが、是では可けぬといふならば、他の方面の人も、宜しく考えて呉れなければならぬことでありますと思ひます
翻て他の国々を見ますると前に陳述しました通り商工業に対して申す迄もなく百事整ふて居る、所が日本ではそれに反するといふことであつたならば到底此日本の事業は今日の姿では東洋に於ける中心に立つて大いに見るべきものになるは私は甚だ懸念するのであります、但し将来の商工業に対し、或は国家経済に対する問題に就ては、玆に論弁し得らるゝものではございませぬ、添田君の御詞は之に向て如何なる意見を有つて居らるゝかといふことでありましだけれども、之は大いに考へて他日に御答をしやうと思ひます
本社からの歓迎に対して一言を申上げざるを得ない為めに前来種々の愚見を陳述致しますのでありますが、第一竜門社に対する希望は、将来御互に一個人として、団体としても、一国を挙げて論じましても、何時も四角は四角、黒色ならば黒色といふやうに色合を鮮明にすることは誠に肝心なことであります、然るに我国はさうでない、英吉利・亜米利加・仏蘭西・独逸等皆個人が四角ならは一国全体も四角に見えて居ります、然るに我国は各人各種の色合である、是は今日の通弊で
 - 第25巻 p.441 -ページ画像 
ありまするから、お互にどうしても四角の形とか長方形とか、一定の形、一定の色合にするといふ覚悟にしなければならぬ、日本の人民は何時も不正形《いびつ》のものも居れば三角のものも居る、一方にて組立れば一方にて突破は《こ》すといふことではならぬ、今迄とは違つて俄に進むといふ有様でなく、寧ろ誠実に秩序的に進むといふことに、従来の有様にては一国を保ち真正に成立つて行くといふことは恐らくは出来まいと思ひます故に、此観念を有つてお互に道徳を高めるといふことに、努めなければならぬといふことは誠に希望に堪えぬのであります、尚加へて申上げますることは、此竜門社は各種の事業を営む人の集つて居りまするから、お互に申合せて区域を広めましたならば効能の顕はるることであらうと思ひます、例へば銀行者であるとか工業者であるとか或は学者も居れば法律家も居る、さういふ種々なる方面から会員が成立つて居らるゝやうに見えますから、今申上げますことに就きましては、深く御注意を請ふのみならず、吾々竜門社員は努めて此処に心を用ゐて終に其効を見ることは出来ぬことではなからうと思ひます、先年穂積氏の欧羅巴を旅行して帰へりまして、日本の公徳論に就て竜門社の集会に、御話があつたやうに記臆して居りまするか、私の欧羅巴を経過して其演説を考へ出しまして実にさうであると思ひます、併しそれは商業道徳計りではなく総ての人に対しました時に於ても、親切に且和睦して実着にするといふことは即ち商業道徳の原素であらうと思ひます、人々がそういふやうにして行きましたならば、商業道徳も遠からずして必ず高まるといふことは期して俟つへきものであらうと思ひます、帰国の土産に差上げまするものが小言のことでありまして竜門社に対しましては何たる効能もありません、こんなことなら地図でも見れば宜いと言はれるかも知れませぬが、前にも申しました通り、旅の衣裳はまた垢の附きたるまゝで、秋の錦は日本に帰つてから見ましたのであるから、御土産を上げる訳には参りませぬ、甚た御聴苦しい所は御免を蒙ります(完)


時事新報 第六八四四号 明治三五年一一月二八日 ○銀行集会所の歓迎会(DK250013k-0010)
第25巻 p.441 ページ画像

時事新報  第六八四四号 明治三五年一一月二八日
    ○銀行集会所の歓迎会
東京銀行集会所・東京交換所・東京興信所及び銀行倶楽部の四団体は聯合して昨夜松方正義伯・渋沢栄一・岩崎弥之助の両男並に其随行者一同を坂本町の銀行集会所に招待して歓迎会を催せり、来会者は右来賓を始め各銀行家二百余名にして午後五時半より開会、豊川良平氏開会の挨拶を述べ、次で、岩崎・渋沢・松方三氏順次大要左記の如き演説を為し、終りて晩餐に移り、雑談の後一同散会したるは九時半頃なりき
   ○栄一ノ演説概要略ス。本資料第六巻「東京銀行集会所」明治三十五年十一月二十七日ノ条ニ収ム。是日前記四団体ハ聯合シテ此程帰朝シタル松方正義・岩崎弥之助及ビ栄一ノ歓迎会ヲ催シタルナリ。「銀行通信録」第三四巻第二〇六号(明治三十五年十二月十五日発行)ニ掲載セラレタル栄一ノ「欧米銀行談」(「竜門雑誌」第一七六号ニモ転載サル)モ亦同日ノ条ニ収録ス。
 - 第25巻 p.442 -ページ画像 


渋沢男爵最近実業談 高瀬魁介編 第一五二―一五九頁 明治三六年八月再版刊 【○東京高等商業学校職員懇親会に於ける演説】(DK250013k-0011)
第25巻 p.442-445 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

明治三十五年十二月開設 臨時商業会議所聯合会議事速記録 第六頁 刊(DK250013k-0012)
第25巻 p.445 ページ画像

明治三十五年十二月開設
臨時商業会議所聯合会議事速記録  第六頁 刊
明治三十五年十二月八日午後一時二十五分開議
  出席委員     三十三名 ○氏名略
○三十四番(大阪、法橋善作君)此場合ニ於キマシテ男爵閣下ガ欧米御漫遊ノ際我全国商業会議所ヲ代表サレテ御尽シ下スツタ景況、又男爵閣下ガ欧米商工業ノ有様ヲ御観察ニナツタ吾々ノ利益トナルヘキ事ニ付テノ御考等ヲ拝聴致シタイト思ヒマスル、此場合ニドウカ御報告旁々御話ヲ下サルヤウニ願ヒマス
○中略
○会長(東京、渋沢栄一君)然ラバ私カラ漫遊ノコトニ付イテ申上ゲルヤウニ仕リマセウ
○三十六番(神戸、藤田松太郎君)御報告ヲ承ルニハ便宜上其御席デ御述ベ下スツテハ如何デス
○会長(東京、渋沢栄一君)此場合チヨツト会長ヲ替ヘテ、私ハ報告席ニ就イテ申述ベルコトニ致シマセウ……馬越君チヨツト此席ニ御就キ下サイ
  (是ニ於テ馬越副会長会長席ニ就ク)
○副会長(東京、馬越恭平君)不肖ナガラ会長席ヲ汚シマス、コレヨリ渋沢男爵ノ御報告ガゴザイマス
   ○欧米漫遊報告演説ハ略ス。本資料第二十二巻「商業会議所聯合会」明治三十五年十二月八日ノ条ニ収ム。


東京高等商業学校同窓会々誌 第二五号 明治三五年一二月刊 渋沢・渡辺・藤田三君帰朝歓迎会(DK250013k-0013)
第25巻 p.445-446 ページ画像

東京高等商業学校同窓会々誌  第二五号 明治三五年一二月刊
 - 第25巻 p.446 -ページ画像 
    渋沢・渡辺・藤田三君帰朝歓迎会
本月十二日午後五時より上野精養軒に於て渋沢男・渡辺専次郎・藤田敏郎三君帰朝の歓迎会を催されたるが、来会者七拾余名の多きに及び最初発起人惣代として水島鉄也君の挨拶、次に渋沢・渡辺両君(藤田君には汽車の都合にて開筵に先だつて帰相せらる)の演説、最後に福田徳三君の演説等ありて、頗る盛会を極めたり、右諸氏の演説筆記は何れ次号の会誌を藉りて更に報導せん。


東京高等商業学校同窓会々誌 第二六号 明治三六年二月刊 渋沢男外二君帰朝歓迎会演説筆記(DK250013k-0014)
第25巻 p.446-448 ページ画像

東京高等商業学校同窓会々誌  第二六号 明治三六年二月刊
  ○渋沢男外二君帰朝歓迎会演説筆記
    第一席
                   男爵 渋沢栄一君
今夕 ○明治三五年一二月一二日は同窓会の御方々が御打揃ひで、私の海外旅行を仕舞ふて帰りましたに付て、特に此宴を御張り下されましたことださうで、唯今水島君から御懇切の御詞を下さいまして有難く存じます。
私が旅行して帰りましたのは先々月の末でございまして、爾来一ケ月有余も経過しましたが、既に皆さんは御聞及び下さいましたらうが、言語は不通、書物は読めず、唯だ所謂漫遊に四・五ケ月を経過しまして歩きましたのは亜米利加から英吉利・独逸・仏蘭西等も短い時日に見物は致しましたけれども、中々事物を観察するとか、商工業の事情を察知する抔と云ふ大きな御話は申上げ兼るのでございます、が私は学問の素養のある人間でもないのに、殆ど三十年許り以前から偶然にも此商業学校と云ふものとはヱライ御縁が深くなりまして、従来日本に居る中からして、始終諸君とは方面違ひ、境遇を異にする身体でありながら、屡々御会合を申して、詰りは此商工業に対する或は実務に若くは教育上の談話を致すことは、随分数多くあるやうに思ひまする此度の海外旅行に於ても、唯今水島君は同窓会の会員中一割二・三分は海外に在ると申されましたが如何にも其通りで、先づ第一に桑港から致してシカゴに、紐育に、又英吉利では倫敦、仏蘭西では里昂、それから新嘉坡に、香港に、総て此同窓会の方々に御会見を致して、其内数箇処臨時に会合を御開きになりまして御招きを戴き、御饗応を蒙つたのみならず、地方の事情も御聞き申し、又旅行の有様をも御話して所謂胸を披いた快談を致しましてございまする、其款待は甚だ私の悦ぶ所であるのみならず、更に私の悦びを増したのは、今申す各地に於て商工業に力の這入つて居る働きの届いて居るのは、他に其人無しとは申せますまいが、併し即ち同窓会の諸君が最も有為な働きを為して居らるゝと云ふことは、決して私が殊に諸君に諛言を呈するのではないのです、即ち隣席にござる渡辺君抔は同窓会会員中の錚々たる御方で、倫敦に於て有力の御人と云ふことは、私が今此処に申上けぬでも諸君が疾くから御承知である、此各地に於て御待遇を受けた私の悦びは実に譬へ難い有様であるのです。
元来此欧羅巴旅行に付ては屡々私は人に逢ふ毎に申します、便利でもあり奇麗でもあり、大厦高楼に、或は壮大なる機械場に、何も彼も総て目新しく嬉しく感ずることが多い、けれども中心顧みると云ふと、
 - 第25巻 p.447 -ページ画像 
其中に大変に辛いやうな感じを持つたのは、例へば大きな工場を視ると、我国にさう云ふ物があるかと云ふ感じを持ち、立派な鉄道に乗ると、日本の鉄道は如何あらうか、目に触れ事に接する毎に、総て之を身に引較べて見ると云ふと甚だ心苦しい、或は心苦しい所ではない、憤慨と云ふ情迄起るのが是は蓋し人の常でございませう、然るに其間に今申す如く同窓会の出身の御方々が各地に於て辱しからぬ位地を有し、而して十分なる働きに依て欧米の人と相上下して事業を経営して居る有様を見ますると、決して私等の微力でそう云ふ人が成立つたのではないけれども、併し今申す通り最初からして、此商業教育と云ふものは甚だ必要と云ふ観念から、教育上に力は注ぎませぬでも、多少其学校の整理とか学校の発達とか云ふものに関係致した我身から申すと、大層嬉しい感じを持ちまして、単り唯だ憤慨とか苦悶とか云ふ許りでなく、其間に愉快の感じを持つたと云ふことは、寧ろ私は諸君の賜と致して宜い位に感じまするのでございます。
各地見聞の有様は、殊に欧羅巴の事情は、大抵御委しい諸君の前に喋喋申上げる程私も能く知つても居りませぬから、其辺の御話は暫く略して申上げぬと致しませう、詰りどう考へて見ても、是れから先きの日本が今の欧米と力較べをしやうと云ふには、何が一番主もになるかと云ふたら、人間であると云ふ外申しやうがないかと考へますのです(喝采)日本の国が俄かに亜米利加と同じやうな面積になる訳にも行かない、或は又英吉利の如く到る処に石炭が出ると云ふ国柄になると云ふことも出来ぬかも知れぬ、併し彼れに左様に長ずる物があれば、亦我にも変つた長ずる物がありたいと思ふ、我にして総て皆彼に劣るもの許りとは申されぬであらう、土地に対する事柄とか風土に係はる事柄とか云ふのは、或は一得一失と言ひ得るかも知れぬ、併し玆にどうしても欧米辺りの人々に較べて、甚だ遺憾ながら叶はぬと云ふ外ないのは、どうも人間の智慧とまでは言はぬでも宜いかも知れぬです、智慧は私もそれこそ下級に居るかも知れぬが、此処に御列席の諸君は単に個人の智慧としては寧ろ欧米人を凌駕するかも知れぬ、併し相待つて働きを為す点に於てはどうしても彼等に叶はぬと云ふことは、是は私は恐怖心で云ふのではない、事実左様に思ふのです(喝采)此原因が何れに在るか、之を見出すに苦むのであります、是は今一朝一夕に誰が言出したと云ふ説でもなし、最う殆ど逢ふ人毎に論じ、寄合ふ度毎に話す言葉でありながら、扨て事実此の病根を見開いて良い方に進めて行くことが、事実に於て出来ぬのは如何にも遺憾な訳でございます、独り此彼れに下る所の病因が吾々商業者、若くは学校から出た御方とか、若くは学校に這入らぬ人とか云ふ或る区域にのみ有ると云ふのならば、それは或は直きに察知することが出来るけれども、どうも私にはさう思はれぬ、政治界の人でも、法律界の人でも、教育界の人でも、商業界の人でも、学校に這入つた人でも、学校に這入らぬ種類の人でも、どうも凡べて倶に共に相傷け、倶に共に相睥睨して、帰する所総て己れの位地、己れの品格を損すると云ふ方に相努めると云ふ弊害が、甚だ日本には多い、(喝采)若し今日の有様、今日の姿で進んで行きましたならば、縦令百の学校、千の大学校があつても、遂に
 - 第25巻 p.448 -ページ画像 
事実上に、或は社交上に彼等と相並んで行くことは出来ないと思ふ外なからうと存じまするのです、(ヒヤヒヤ)要するに此病根は御互に詮議したら見付かるに相違ないと思ひまするが、マア私共の一・二考へて見る所では、どうも自身の責任を軽んずると云ふ事と、それから兎角に自らを褒める、褒めると云ふ趣意でもないでせうけれども、先づ人の名分を傷けると云ふことは、吾々一の東洋臭気とも言ひますか、又或は或る部分には直様に人の長処、極く其骨髄を察知する注意はせずに、無礼にも之を冷笑する、笑ふは蓋し之を破るのである、マア総てさう云ふやうな有様で、相集まれば公徳を軽んずる、相対すれば信用を自らに薄くする、一言半句の言語が己れ一身の責任を破るのみならず、国に対しての面目を損すると云ふか如きことも、詰り我が分を深く図つてやると云ふことが、極めて少いからであらう、之に反して彼等、殊に英吉利人は、其点に付てはもう滅切りと吾々と違ふやうなる観念を持つて居るやうに見えるのでございます、果して私が今憂ひる点が事実左様であるならば、斯の如きは到底吾々が何時までも瑕瑾な人間たるより外仕方がないから、果して左様ならば、爰に御列席の諸君抔は、学問に、知識にもう十分な処に至つて居る諸君であるから此病根は何である、又自ら慎むは此処に在ると云ふことを知り得ると同時に、之を改めることが出来ねばならぬと考へまするのです、此御懇切な御招待を受けました御席に対して、妙な御互に相警戒する如き言語を吐きますのは甚だ殺風景な申上げ方になるか知れませぬが、どうも欧羅巴旅行で見て見ますると別して英吉利人の実に一人の責任を重んずる、又大勢集つて風儀の良い、相傷けず、相破らず、去ればと云つて唯だ無闇に唯々諾々に、人の説に従ふかと云ふに決してさうでない、所謂自信の念が大変に強い、其強いに拘はらず、所謂並び馳せて相悖らずと云ふ有様は、真に感心致しまするが、之に引換へて内に顧みると云ふと、さう申す己れ自身が第一に気に喰はぬ、己れ自身が気に喰はぬで直せぬから貴様に直せと云ふことは申悪くいが、併し結局御互に努めて、此風紀をして十分に改良せねば、縦し学問が進んで行つても、例へば商業学校をして遂に大学たらしめても、此風紀で推して行つたならば、到底彼等と競ふて十分なる事業を為すことは六ケしいと言はねばならぬやうに考へまするのです、他の商工業の盛大なる有様等に付て、私が見た事を申上げぬでも皆諸君は御承知である、唯だ人に属する病根は如何であるかと云ふことは、私自身も解釈に苦んで居るのであります、どうぞ諸君にも十分御講究下すつて、果して病根が見付かつたら直ちに直さなければいかぬが、縦令見出すことが出来ぬでも、どうか今の英吉利人のやうにありたいと考へましたならば蓋し思ひ央に過ぎるだらうと考へます、既に前にも申す通り年輩も違ひ、境遇も違ふ諸君は、吾々は貴様等のやうな古風な人間でないと御思ひでございませうが、併し今の病は矢張り同じ臭気に、其バクテリヤは多少貴君方にあると御理解下すつて間違ひはないと思ひます(ひやひや)私が懺悔して申上げる、どうか諸君の身体にもバクテリヤが多少あるに依て、十分戒心することを御勉め下さるやうに顧ひます、御礼旁々一言申述べて置きます(拍手喝采)(完)
 - 第25巻 p.449 -ページ画像 

(八十島親徳) 日録 明治三五年(DK250013k-0015)
第25巻 p.449-450 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三五年   (八十島親義氏所蔵)
十月卅一日 晴
午前十一時前、無事新橋ヘ帰着、兜町ニ参リ、男爵・令夫人ノ無事帰朝ヲ祝シ、玆ニ随行ノ任ヲ終ヘテ十二時帰宅 ○下略
十一月八日 晴
○上略 五時商業会議所楼上ニ於ケル渋沢男爵歓迎会ニ臨ム、総務長官連局長連等相客アリ、男爵ノ演説中々上出来、矢張商人ノ位置ヲ高ムル事ニ言及セリ ○下略
十一月十日 晴
○上略 男爵モ風邪ニテ出勤ナシ ○下略
十一月十一日 晴
○上略 九時過出勤、男爵出勤ナシ、二時ヨリ阪谷家訪問、令夫人ニ面会ス、みやけ物持参ス、五時辞ス
○中略
午後五時半偕楽園ニ至ル、竜門社幹事会兼予ノ歓迎会也、会スルモノ渋沢篤二・斎藤峰三郎・石井健吾・松平・伊藤・野口、外ニ戸田宇八西内青藍等也、十時帰ル ○下略
十一月十二日 晴
○上略 男爵尚欠勤 ○下略
十一月十三日 晴
○上略 男爵本日モ出勤ナシ
○下略
十一月十四日 晴 暖
○上略 夕刻男爵出勤ス
○下略
十一月十五日 曇
朝九時出勤、男爵モ本日ハ出勤、市原氏午後来訪、種々残務打合ヲナス ○下略
十一月十八日 曇後雨
○上略 男爵ハ午後五時一寸出勤アリ ○下略
十一月廿三日 曇夜雨 新嘗祭日曜
此日ハ竜門社第二十九回秋季総集会兼青淵先生一行ノ歓迎会ヲ日本橋クラブニ開ク、予ハ幹事兼賓客トシテ、九時ヨリ出席、徳子モチカ子召連レ十時ヨリ臨場、来会者五百三十人、未曾有ノ盛会ナリキ、例ニ依リ階上ニテ開会セントシタルニ多人数ニテハイリ切ラズ、且二階墜落等ノ出来事アリテハ大変ニ付、階下ニテ十一時ヨリ開場ス、斎藤幹事ノ挨拶、社長ノ歓迎辞朗読、客員添田添一氏《(添田寿一氏)》ノ祝詞的演説ニ続キテ青淵先生ノ一時間余ニ渡ル演説アリ、遊歴中ノ所見・所感等ヨリ、将来ノ我国実業者ニ対スル注意=共同心=信義=等ニ渡リテ演ヘラル、次ニ随行員惣代市原氏ノ簡単ナル謝詞アリ、午後一時半ヨリ園遊会、例ニ依リテ各露店アリ、支那料理ノ弁当ヲ出ス事亦如例、余興ハ蓄音器・筑前琵琶・円遊落語・剣舞等アリ、三時退会
○下略
 - 第25巻 p.450 -ページ画像 
十一月廿六日 晴
○上略
午後三時ヨリ王子ニテ同族会アリ、行ク、十一時帰ル
十一月廿七日 晴
○上略
夕五時ヨリ銀行集会所・同クラブ・交換所・興信所合同ニテ松方・岩崎・渋沢及各随行員ノ歓迎会アリ銀行クラブニ赴ク、三人ノ演説(其前豊川氏ノ挨拶)アリ、終テ立食 ○下略
   ○中略。
十二月一日 晴
朝九時出勤、青淵翁腸胃ヲ害シ出勤ナシ
午後五時半銀行倶楽部ニ至ル、朔日会ノ青淵翁歓迎会ニ招カレタルナリ、同翁病気欠席 ○下略
十二月二日 晴
九時出勤、本日モ男爵出勤ナシ ○下略
十二月三日 陰曇 寒シ
○上略 本日モ男爵出勤無シ ○下略
十二月四日 曇
○上略 徳子ト両人ニテ深川渋沢邸ニ行ク、本夜ハ予カ随行欧米旅行慰労之為メ、深川 ○渋沢篤二家・牛込 ○穂積家小石川 ○阪谷家三軒ヨリノ招待也、余興ハ小三ノ落語、夜十時帰ル
十二月五日 晴
○上略
男爵引続キ出勤ナシ ○下略
   ○中略。
十二月十二日 終日雨
○上略 五時ヨリ上野精養軒ニ至リ、商業学校同窓会ノ渋沢男爵歓迎兼渡辺専次郎・藤田敏郎両氏ノ招待会ニ臨ム、来会者八十人、宴終テ水島鉄也氏ノ挨拶、渋男・渡部氏ノ演説アリ、渋沢ノ趣旨ハ、商業校出身者ノ海外各地ニ有力ノ地位ヲ占ムルヲ実見シ、実ニ愉快ニ感シタル事及外国ノ実地ヲ見タル結果、日本人ハ二人以上結合シテ働クトキノ力劣ル事、云ハヽ自他相排擠ノ幣風《(弊)》アル事、今後注意ノ要点ハ人物ヲ作ルニアル事等ヲ陳フ ○中略 食後モ休憩室ニテ談話ノ後、十一時前解散ス


竜門雑誌 第一七五号・第五〇頁 明治三五月一二月 ○青淵先生帰朝歓迎会一覧(DK250013k-0016)
第25巻 p.450-451 ページ画像

竜門雑誌  第一七五号・第五〇頁 明治三五月一二月
○青淵先生帰朝歓迎会一覧 本誌前号に報じたるか如く、青淵先生には去る十月廿九日無事帰朝せられたるが、爾後先生の帰朝に向て祝意を表せん為催されたる公私団体・会社及私人等よりの歓迎会は非常に多かりしが、内先生の出席せられ又は出席を受諾せられたるものゝ招待者・日時・会場等を時日の順序により抄録すれば左の如し
    日時          会場       招待者
十一月八日午後五時より   商業会議所    東京商業会議所
十一月十八日午後五時より  日本貿易協会   日本貿易協会
十一月廿日午後七時より   同気倶楽部    同気倶楽部
 - 第25巻 p.451 -ページ画像 
十一月廿三日午後九時より  日本橋倶楽部   竜門社
十一月廿四日午後一時より  銀行集会所    深川区有志者
十一月廿七日午後四時半より 銀行集会所    銀行集会所、銀行倶楽部、東京興信所、東京交換所
十一月廿九日午後五時より  上野精養軒    東京高等商業学校
十二月一日午後五時より   銀行倶楽部    朔日会
十二月十二日午後五時より  上野精養軒    東京高等商業学校同窓会
十二月十三日午後三時より  八王子桑都ホテル 八王子商業会議所、織物同業組合、撚糸組合
十二月十六日午後六時より  日本倶楽部    日本倶楽部
○青淵先生に対する里昂新聞の記事 在仏国里昂井上金次郎氏より本社八十島親徳君に宛てたる書信中に、青淵先生が里昂出発後同地の新聞が先生に関して記せる記事あり、今其訳文を掲載せん
 東京商業会議所会頭渋沢男爵には、数日来当地滞在中之処、昨夜当地を発し伊太利に向はれたり、同男滞在中は「ブルゴアン」に於けるデイードリシユ、ブーシユーに於けるシユアルチヱンバツハ会社ブーシヤル等の器械織物工場、ソシエテゼネラルデタンチスールヱプロデユィシユミクの染工場、「シヤテウレー・ヱタシタリ」アテユイヱ、ビアンシニーエ、フヱリヱ等の諸工場を視察せられ、而して深く各工場主の厚遇に満足せられり、男爵は滞在の日短くして商業会議所並にローン洲工場組合の招待に応せられ候事能はざるを遺憾とせられたるも、男爵が今回の旅行は将来里昂と日本間の貿易を発達せしむるには資くる処多かるべきを疑はす、又日本山田領事も深く男爵に対し諸工場の与へたる款待に対し、感謝の意を表せられたり、云々


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK250013k-0017)
第25巻 p.451 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
三月廿一日 晴
○上略 午後二時国家学会ニ抵リ一場ノ演説ヲ為シ、午後五時帝国ホテルニ於テ手形交換所懇親会ヲ開ク ○下略


国家学会雑誌 第一七巻・第一九四号 明治三六年四月 会報 総会記事(DK250013k-0018)
第25巻 p.451-452 ページ画像

国家学会雑誌  第一七巻・第一九四号 明治三六年四月
  会報
    ○総会記事
本会創立以来年を重ぬること玆に十六年なり。乃ち例に依りて三月廿一日をトして総会を法科大学教室第卅一番教室に開く。此の日会員来り会するもの極めて多く、無慮殆ど九百名、開会前既に満場錐を立つべき地なかりき。午後一時開会、編纂主任松崎蔵之助君、評議員長田尻稲次郎君に代り、事務を報告せらる。其の大要は左の如し。
      国家学会第拾六回年報
第一、会員の移動 ○略ス
第二、役員の改撰 ○略ス
第三、例会及総会 ○略ス
右報告終りて、会計主任阪谷芳郎君は、第十六年度の会計を報告せらる。其の詳細は本紙の附録として既に掲載したるが故に、玆に略す。右の報告終りて講演に移る、当日の講演左の如し。
 - 第25巻 p.452 -ページ画像 
 日本法学者の独立 松波仁一郎君
 欧米視察談    渋沢栄一君
 帝国海軍     斎藤実君
当日名誉会員伊藤侯爵も本会に臨まれ一場の講話可有之筈の処、急に病気の為臨席これなかりしは、本会の遺憾とする所なり。
講演四時間に亘り、満堂耳を傾けて静聴せり。
右講演終りて、午後六時山上集会所に於て会食を催す、会食中種々有益なる談話あり、午後九時散会す。
   ○栄一ノ演説ハ、本資料第二十七巻所収「国家学会」明治三十六年三月二十一日ノ条ニ収ム。
   ○右ノ演説ハ「竜門雑誌」第一八三号(明治三六年八月)及ビ第一八四号(明治三六年九月)ニモ掲載セラレタリ。