デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
2款 ハワイ国皇帝カラカウァ招待
■綱文

第25巻 p.539-546(DK250038k) ページ画像

明治14年3月12日(1881年)

是日栄一、ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ(David Kalakawa)ヲ飛鳥山邸ニ請ジテ茶菓ヲ呈ス。次イデ十三日紅葉館ニ饗宴催サレ、栄一出席ス。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第六二七頁 明治三三年六月再版刊(DK250038k-0001)
第25巻 p.539 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第六二七頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第七節 外賓接待
○上略
明治十四年三月十二日布哇国カラカワ皇帝陛下ノ一行ヲ招ク、東伏見宮殿下等来臨アリ ○下略


(芝崎確次郎) 日記 明治一四年(DK250038k-0002)
第25巻 p.539-540 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記  明治一四年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
第三月八日
今朝主君御風邪、昨夜より御苦痛、医者呼寄方被命、直ニ川口良作差遣候、主君より被命候一事ハ、昨日府知事より照会有之候一件、是ハハワイ国皇帝王子行ニ付テハ、別荘小休所ニ貸与呉候様談示有之候、尤も都合等ハ、外務省又ハ当方より明日使差出、委細可申上筈ニ相成居候、就テ本日午時前後使者来社候ハヽ、当日其外手配向打合可申被申付、銀行ヘ出頭、午後より雪降、旁歟使者も参リ不申、夜ニ入帰宅、右等上申仕候
○下略
第三月九日 雲
例刻出頭、無事、午後一時四十分頃外務六等属接伴掛岩田直行殿来社来ル十二日ハワイ国皇帝王子行ニ付、別荘小休所ニ借受右手配方相談ニ罷出候旨ニ付、一応接致し候、其前府知事ヘ主君より手紙出候ニ付、其返事次第亦々相伺候筈ニテ相分レ申候
無程知事より返書到来ニ付、持返リ主君ヘ差出候、今夜決答有之候よしニ付、其上併接伴掛リヘハ小生より一封差出置可申旨被仰付、郵書致し候事
○下略
第三月十日 雲
本日午前十時出頭、午後一時府知事来状ニ付一寸帰邸いたし候様被申付、帰邸候処、五代友厚・福地・渋喜両三人ヘ出状之分御渡シ相成、又接伴掛岩田氏ヘ明後日之事今一応照会可致旨被申付、再度銀行ヘ出頭出状方小使ヘ托し夫より延寮館ヘ罷出、岩田氏ヘ面語いたし夫々相伺候処、同人より長官ヘ伺候処、小休所ニ借受候事ニ付別段用意ニ不及只日本之茶菓等ニテよろしく旨被申《(き)》、其外道具・敷物等ハ抄紙部より相廻リ候筈ニテ引取、銀行ヘ立寄、佐々木氏並大沢・松本之三人より書状受
 - 第25巻 p.540 -ページ画像 
取持帰リ主人ヘ差出申候、直ニ照会之末上申、王子可村呼寄、当日之支度致し候事ニ御決意ニ候事
○下略


渋沢栄一書翰 芝崎確次郎宛 (明治一四年)三月一一日(DK250038k-0003)
第25巻 p.540 ページ画像

渋沢栄一書翰 芝崎確次郎宛 (明治一四年)三月一一日   (芝崎猪根吉氏所蔵)
今日之如き雨天ニても明日皇帝ニハ御越相成候哉、且雨中ニてハ王子宅ヘ之敷物抔印刷局抄紙部より持運方も余程御手繰あしき様被存候旨岩田氏ヘ御引合之為一封問合方御取斗可被下候
今日ハ雨中ニ付一同見合、明早朝と相考申候、もし雨強く候ハヽ明日も如何可仕哉ニ付夫故御問合専一ニ御坐候、別紙入用金受取御遣可被下候
右申進候也
  三月十一日
                      渋沢栄一
    柴崎殿


(芝崎確次郎) 日記 明治一四年(DK250038k-0004)
第25巻 p.540 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記  明治一四年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
第三月十一日 雨降
例刻出頭、雨降鬱陶敷天気ニ御座候、今夕早引ニ致し候処、主人より手紙ニテ、此雨天明日之都合今一応岩田氏江引合置候様被申 ○中略 帰邸直ニ延寮館ヘ罷出岩田氏江引合、荷馬車廻シ置候間決而差支ニ為致申間敷、強雨嵐ニ無之候得ば、光臨相成候都合諸事打合、夫より第一銀行ヘ立寄候処、最早一同退社ニ付直ニ帰邸、上申致し候、食後帳面調致し十一時寝臥タル処ヘ、主人より用向ニテ被召直ニ罷出、明日之供廻リ其他ノ支度巨細被申付、十二時帰宅再臥ス
○下略
第三月十二日 朝雲
早朝ニ第一銀行ヘ罷出、林徳右衛門ヘ主人之出状小使藤助ニ為持差出返書受取、其序ニ精養軒江菓物廻送方伝言致し候、八丁堀増田氏ヘ娘之衣物邸ヘ送リ方申聞ケテ帰邸、食事ヲ致し而シテ主人ヘ先ヘ出張之義申置、銀行ヘ立寄 ○中略 于時午前十時半天気模様宜敷相成、下駄其外買入、小松屋之人力相雇王子別荘ヘ出張、同所中食致し、直ニ会社ヘ出、又抄紙部ヘ罷出、接伴掛岩田直行殿ニ面語致し、従是食事ヲ始、終り次第器具相廻し候事承リ帰荘之処、主人来荘途中行違ひ相成、会社より直ニ出張候様申来候ニ付罷出、主人ヘ面語、右引合之末上申且諸用被申付立帰リ、無程福地・渋喜両人来リ待受候、無程敷物其外馬車ニテ参リ、大急敷込用意最中早御光臨ニ相成、御庭入口より御着座、日本茶被召上、直ニ庭園御遊覧、よしズノ茶屋ニテ御小休、夫より再度御着座洋酒ヲ被召上、茶室等御覧ニテ、午後三時御退荘被遊候、誠ニ好天気ニ相成諸事都合よく相済申候 ○下略
第三月十三日 雲
休日
○上略
主君延寮館ニ被為入、今夜御帰館被遊候
 - 第25巻 p.541 -ページ画像 


東京日日新聞 第二七七〇号 明治一四年三月八日 布哇帝(DK250038k-0005)
第25巻 p.541 ページ画像

東京日日新聞  第二七七〇号 明治一四年三月八日
○布哇帝 昨日午前九時より印刷局へ御出ありて各製造場を御巡覧あり、明日ハ新富座へ成らせ玉ひて演劇を御覧ぜらる、狂言ハ菊五郎の繰り三番叟と、今一幕を演ずるよし、夫より十二三日ごろにハ芝公園内紅葉山の能舞台開きに招じ奉り、能狂言を御覧に入れ、畢つて紅葉館にて日本食をもてなし奉ると云ふ ○下略


東京日日新聞 第二七七三号 明治一四年三月一一日 布哇帝(DK250038k-0006)
第25巻 p.541 ページ画像

東京日日新聞  第二七七三号 明治一四年三月一一日
○布哇帝 前号にも記せし如く、帝にハ一昨日午後七時三十分に延遼館を御出門ありて新富座へ行幸あらせ玉ふ、東伏見宮・山階宮御同乗にて外務省の官吏数名御後に随ふ、新富座にてハ兼て外務省の接待員並に東京府の吏員数名出張ありて其用意等閑ならず、案内を受けたる院省使府の官吏並に府会議員内外の諸紳士ハ、何れも臨幸に先だち午後六時すぎより場に入り、桟敷土間に列ね排へたる椅子に就きて待ち奉つる、玉座ハ正面桟敷の中央に設け、左右を皇族・大臣・参議諸卿以下の座とし、一対の花瓶を左右に置き装飾尤も美麗なり、午後九時帝にハ松田府知事御先に立ち、井上外務卿・上野大輔・芳川少輔・蜂須賀従二位・野村神奈川県令等左右前後に引そひて、桟敷に登られ玉座の前に至らせ玉ふを見て、一同起て敬礼し拍手の声場中を撼かせり帝にも御会釈ありて玉座に就かせらる、伊藤・山県の両参議並に榎本海軍卿等も同じく御後より登りて設けの倚子に着かる、帝にハ東伏見宮および御息所がたをはじめ大臣・参議等の北の方へ一一紹介によりて握手の礼をなし玉ふ、御気色の殊に麗ハしく見えさせ玉ふ、程なく幕を開きて繰り三番叟、望月、三保谷の錣引、胡蝶の舞と新富座の老手が其の伎倆を尽くして次第に演じたれバ、帝にハ一方ならず御感あり、同十一時十五分その畢りを告げたれバ帝にハ玉座を御立ありて還幸あらせ玉ひぬ ○中略 また同帝にハ本日午後一時ごろ我が赤坂の 皇居へなせら給ひ、明十二日午前十一時に王子抄紙部へ成らせられ、夫より製紙会社にて昼餐を召され、御帰路同所なる渋沢氏の別業に立寄らせ玉ひて庭園の御遊歩等あるよし


東京日日新聞 第二七七六号 明治一四年三月一五日 ○行幸(DK250038k-0007)
第25巻 p.541-542 ページ画像

東京日日新聞  第二七七六号 明治一四年三月一五日
○行幸 聖上にハ今十五日午前九時三十分の御出門にて、布哇帝御送別のために延遼館へ 行幸あらせ玉ふよし
○布哇帝 前にも記せし如く、一昨十三日ハ東伏見宮の御邸に成らせ玉ひて昼餐の御饗応を受けさせ玉ふ、其折り宮にハ、戊辰兵役の際越後国の総督として出征し玉ひたる砌りに召されたる御着長を着下だして帝の御覧に入れ玉ひしに、帝ハいたく其威毛の美麗なると御形装の勇壮なるを賞し玉ひたるよしに承はれり、午後三時にいたりて宮ハ帝と御同伴にて芝山内なる紅葉館に渡らせ玉ふ、此処にハ兼て其設けありて国旗毬灯など美事に懸け連らね、掃除のこる隅なくして、総ての装飾に意を用ひたり、頓て着御なれバ先づ館内を巡覧ありて、下坐敷なる設けの御座に着かせ玉ふ、暫らくして梅若実の能あり、能ハ紅葉
 - 第25巻 p.542 -ページ画像 
狩、間の狂言ハ三人片輪、祝言ハ猩々なり、夫より帝にハ兼て今日の料にとて宮内省にて調へ置かれたる日本服に召し替られ、随従のアームストロング氏、また臨時御取持の米人アルビン氏も同じく袴羽織にて楼上なる広間に敷つらねたる蒲団の上に着坐あれバ宮を始め奉り此日の御取持の衆ども一様に黒羅紗の礼服を羽二重仙台平の羽織袴に脱替て左右に扈従し奉り、爰にて丁寧を尽したる純粋の日本料理を献じ奉つる事の体、総て我国の例によりて盃酌の献酬あり、酒酣はなるころ盲人の三曲、婦人の手踊り、能役者の仕舞をなして、御興を添へ奉つる、帝にハ竜顔殊に麗はしく一入の御入興にて御満足一方ならざるよしを数々詔のらせ玉ひ、夜の十時にいたりて御帰館あらせらる、当日我が社長も御取持の一人として御席に罷り出でたれバ、御宴の模様並に帝の御物語り等ハ明日の紙上に悉しく記すべし、又この夜帝が御来遊の初めより今日まで御起居の様を記したる弊社の新聞を取まとめて参らすべきよしを親しく仰せ下されたれバ、即はち献上し奉りぬ、是ハ御帰国の節の御土産として持帰らせ玉ふよしなり、又帝ハ御暇乞として昨日宮中へ渡らせられ、送別の御饗応を受けさせ玉ふ、其折り
 聖上より帝へ勲章を贈らせ玉ひ、又随官へも夫れ夫れ勲章を下されぬ、また本日ハ延遼館にて夜会ありて、明十六日にいよいよ東京を御発途あらせ玉ふ、蜂須賀従二位・石橋書記官の二君ハ、長崎まで御見送り申上げ奉らるゝよしに承はる


東京日日新聞 第二七七七号 明治一四年三月一六日 ○紅葉館の御宴(DK250038k-0008)
第25巻 p.542 ページ画像

東京日日新聞  第二七七七号 明治一四年三月一六日
○紅葉館の御宴  去る十三日紅葉館にて布哇帝を饗応し奉りしことの概略ハ、昨日の紙上に粗書き記したるが如し ○中略 午後三時ごろ帝にハ館に成らせ給ふ、御同伴ハ東伏見の宮にて、御取持の衆ハ峰須賀従二位・伊達従二位・上野外務大輔・芳川外務少輔・松田東京府知事・香川皇太后宮亮・九岡式部助・石橋外務権大書記官・中井工部権大書記官その外の宮員たち、帝の侍従アルムストロング氏及び東京在留の米国人アルビン氏と、我が社長福地源一郎・渋沢栄一・渋沢喜作・小野子安の五君を併せて、凡廿名ばかりなりき ○下略


東京日日新聞 第二七七九号 明治一四年三月一八日 ○布哇帝の御物語(DK250038k-0009)
第25巻 p.542-543 ページ画像

東京日日新聞  第二七七九号 明治一四年三月一八日
○布哇帝の御物語  本月十二日渋沢栄一氏が王子の別荘に御立寄ありし時の事とかや、御話の次に日本の衣服の事にわたり、貴紳の常服を一見せまほしゝとの御意にてありけれバ、渋沢ハ羽織袴に着替へて御覧に入れたり、帝ハ御覧じて、其服こそよく日本人に似合ひ、洋服よりも遥かに勝りて見ゆるぞ、海陸武人の服を改正ありしハさる事ながら、如何なれバ文官その他の服制までも改正ありしぞ、惜しき事にぞある、我が布哇諸島も同じく貴国の如く今ハ中等以上のものハ一般に洋服を着用するの風と成りたれバ、朕も政府に出るときハこの如く洋服を用ふれども、讌居の時にハ土風の衣服を用ひ、蒲団の上に坐臥するを常とし、洋服・洋牀よりハ却て快よく覚ゆるなりと仰せられ、扨て明十三日の紅葉館の宴会ハ、日本流の家屋にて日本流の舞を興行し、日本流の料理を供せらるゝとの義なれバ、方々も日本服にて来り
 - 第25巻 p.543 -ページ画像 
玉へ、朕も貴国の服を着用致したし、併し明日の間に合ひ申すべきかと御問合ありけれバ、御取持の衆ハ、何の仔細の候べき、明日正午までにハ吃度御間に合ハせ奉るべし、尤も君上ハ紋付の小袖ハ召させられぬ御事なれバ、白綾の御小袖・黒の御袖織・精好の御切袴にて然るべしと申上げられ、扨ハ翌日の紅葉館にて中座より日本服を召されたるなり、また渋沢が別荘にて四畳半の囲ひを御覧ぜられしをり、日本人ハ如何にして坐蒲団の上に座するにやとお尋ありけれバ、わが社長福地氏が、さん候、平日ハ斯くの如く膝を折りてすハり候へども、御同伴の宮様にも知し召す如く、朝廷にて礼服を着用する時ハ踞坐を以て礼といたして候ひきと御答せしかバ、帝ハハタと御手を打ち給ひ、扨も扨も我が布哇と風俗の同しきかな、布哇にてハ兵士ハ中腰にしやがみ、賤民ハ膝を折て踞座し、貴人ハ足を曲げて踞坐するを式とす、是れ兵士ハ直に立んが為なり、賤民ハ起坐の多けれバなり、貴人のみハ座すれば左まで屡々立たぬものゆゑ踞坐すると申伝へぬ、貴国にて貴人礼服の踞坐も矢はり此風の遺りしものなるべしと仰せられたり、また紅葉館にて御話し衣服の事に移りしが、帝ハ福地に向ハせ給ひ、今ま貴国にてハ洋人等が夕服(イーウヱニングコート)と唱ふる燕尾服を礼服と定め玉ふよし、卿ハ博識の人と聞く、此の燕尾服の由来を知り給ふかと問ハせ給ふ、福地ハその由来かつて存じ不申、御教を賜ハらバあり難き仕合に候と申立たれバ、帝ハ微笑し給ひて、さらバ語るべし、其の虚実ハ朕も知らねバ、其心して聞き給へよ、中世欧洲大陸の某国に一王あり、後宮の嬬嬪ともあまたある中に最愛の女御あり女御ハ王に申上るやう、陛下の妾と比翼連理を契らせ給ふ御語の虚にあらずバ、御心底を見せさせ給へ、王ハ打笑みて、何事にまれ望めよ朕が成し得べき程ハ成して心底を見すべしと御意ある、さらバ御服の前身の処をバかく切り棄てゝこれを召し、今宵の夜宴に出御あらせ給へと申上る、それハ事かはりて迷惑なり、それ見給へ、陛下ハさる異りたる御服にて美人どもの集りたる夜宴の御遊に出御を否ませ給ふハあだし御心ある故ならめとかこちける、王ハ何条さる事のあるべきぞ其義ならバとく前身を切払へよと仰せられ、即ち其姿にて夜宴に出御あらせられたり、列座の諸侯・侍従・貴縉の人々ハこの異りたる御服を拝見し、其の訳ハ知らねども、王の召させ給ふからハとて之に傚ひて新服を争ふて調へ、其の次の日に用ひしかハ、忽ちに宮中のはやり衣服となり、遂に世間に行ハれ、果てハ欧洲一般の夕服とまでなりて今ハ道徳正しき僧正も、厳威貴き官人も之を召し、遥に東洋に至りて貴国の礼服とまでハなりにける、しかし此服の由来、もし朕が物語りの如くならバ、其初めハ後宮淫肆の服にぞあれと、笑はせ給ひながら御物語ありき



〔参考〕日米交渉五十年史 大日本文明協会編 第二八一―二八四頁 明治四二年五月刊(DK250038k-0010)
第25巻 p.543-545 ページ画像

日米交渉五十年史 大日本文明協会編  第二八一―二八四頁 明治四二年五月刊
 ○第六章 布哇と日米干繋
    第一節 日布干繋の端緒
○上略
其後明治十四年三月、カラカウア王世界漫遊の途次我国に来たる。王は
 - 第25巻 p.544 -ページ画像 
即ち憲法改正後第二の被選王なり、渠は嘗て合衆国に遊びしことあり英語に熟し、多少欧洲の文明に通ぜり。当時の我某新聞紙は王の来朝に関し報じて曰く。
 「同帝が今度世界を周遊し玉ふ大趣意と申すは、元来彼国の人種は土人種にて地球中の旧人種に位するものなるに、殊に近年は夭死者の多くして幾んど類を絶つべき模様あり。さればこの禍を救はんには諸国より人民を移住さするの外なしとは云ふものゝ、現今支那人の此国に在るもの大凡一万人以上なるが、此等の者は皆此国を稼ぎ場として法律・宗教・習慣に服せず、殊に稼ぎ得たる金銭は皆な己れが本国へ送り、云はゞ此国の富をとりて彼国へ移すものなれば布哇の貧を来すも富実を計るものにあらず。故に斯かる卑劣の人民を除きて其他地球中にある稍々上等なる人民を招き、得たる人民には相当の保護と利益とを与ふべく、それには亜細亜にて我が日本・欧羅巴にて伊太利・葡萄牙等は最も適当の国なるべしとの目的にて、先づ、第一に我国へ来られたるものゝよし、果して此企望を達せらるべきか否やは知らねど、帝の目的もまた遠大なりと申し奉つるべし。」
これ強ち想像の説にあらずして、滞在二週日に亘る王の挙措に徴する時は、王の抱負を窺ふに足るものなきにあらざるなり。
三月四日午前八時、王の座乗船横浜に入港するや、伏見宮・上野外務大輔をはじめ、外務・宮内両省の官吏・接待掛等は横浜に赴きて之を迎へ、直に同地野毛山の離宮に導く。翌五日王は臨時別仕立汽車にて横浜を発して入京し、諸皇族・大官の奉迎を受けて直に赤坂の皇居に赴き、暫らく皇上と御対話の後延遼館に投ず。同日午後聖上延遼館に幸して王を訪問し給ふ。六日には当時開会中なりし内国勧業博覧会を観覧し、八日には聖上と共に日比谷練兵場にて観兵式の天覧あり、爾来或は吹上御殿に於て皇上と共に馬術を覧、或は新富座に於て皇族・朝紳と共に我国劇を観賞し、或は芝紅葉館に於ける日本式歓迎会に、自身はいふに及ばず随行者まで悉く日本服を著用して之に臨み、其他貴縉・紳商の饗莚に招かれ悠々款語する所、普通の貴賓とは頗るその趣を異にしたり。今其物語の一二を録せむに、紅葉館の饗宴に於て
 「御酒宴の間に日本の風はしかじかなりと申上げたりければ、帝は侍ふ人を御前に召されて献酬の礼を行はせられ御物語りなど隔なくありて、侍座の人々に歓心を表し給ふさまは威ありて猛からず、流石にたゞ人にはおはさずと見え給ひぬ。夜も十時を過ぎたればいざや還御と仰せ出され、御立になりし折り、玄関まで送り奉りし人々に丁寧に御挨拶ありて、今日ほどの愉快はあらず、多年の後とても方々の厚意は忘れはせまじとの玉ひて御車に召され、延遼館へぞ還幸し給ふ。」
又嘗て王子の渋沢邸に過ぎりし時、栄一等の日本服を著せるを見て。
 「其服こそよく日本人に似合ひ、洋服よりも遥かに勝りて見ゆるぞ海陸武人の服を改正ありしはさる事ながら、如何なれば文官その他一般の服制までも改正ありしぞ、惜しき事にぞある。我が布哇諸島も同じく貴国の如く、今は中等以上のものは一般に洋服を著用する
 - 第25巻 p.545 -ページ画像 
の風と成りたれば、朕も政府に出るときはこの如く洋服を用ふれども、讌居の時には土風の衣服を用ひ、蒲団の上に座臥するを常とし洋服洋床よりは却て快よく覚ゆるなり。」
と語れり。以て其一般を推すに足らむ。
斯くて王は十四日告別の為め宮中に参内し、聖上より勲章の贈呈あり十五日には皇上親ら延遼館に幸して告別せられ、翌十六日午後巨公・縉紳に見送られて東京を辞し、即日横浜より東京丸に搭じて西下し、途中神戸に上陸し京阪を一覧して、再び船に乗じ清国に向ひぬ。
王は最後の米布互恵条約を締結したるもの、素より親米主義の人たるや論なしと雖、又多少の気慨と経綸とを有したり。故に我国に来たるや徒に遊宴にのみ時を過ごさずして、我政府の当路者に向つて、我同胞をかの地に移植せむことを慫慂しぬ。然れども当時我廟議は之を容るゝや否やに就き議論一致せざりし為め、暫らく決定する所あらざりき、しかも布哇政府の勧誘は益々切なるを以て、十七年に至り初めてこれを諾し、翌十八年一月第一回移民九百四十三人を送り、同年六月第二回移民九百八十八人を送りたり。これ我国海外契約移民の権輿なり。 ○下略



〔参考〕植民政策綱要 小島憲著 第二六五頁 昭和九年一一月第四版刊(DK250038k-0011)
第25巻 p.545 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕日米問題実力解決策 大石揆一著 第一八一―一八二頁 大正五年八月刊(DK250038k-0012)
第25巻 p.545-546 ページ画像

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