デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
7款 アメリカ海軍少将フレデリック・ロッジャース歓迎会
■綱文

第25巻 p.555-558(DK250043k) ページ画像

明治34年7月23日(1901年)

是日東京市有志主催ニカカルアメリカ海軍少将フレデリック・ロッジャース(Frederick Rogers)歓迎会、上野精養軒ニ開カレ、栄一東京商業会議所会頭トシテ東京府知事男爵千家尊福・東京市長松田秀雄ト共ニ出席、歓迎文ヲ贈呈シ、其宴席ニ於テ歓迎演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK250043k-0001)
第25巻 p.555 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月廿八日 曇
○上略 午後五時商業会議所ニ抵リ、役員会ヲ開キ岩谷松平氏建議ノ米国艦隊歓迎ノ事ヲ協議ス○下略
六月廿九日 晴
○上略 午後一時東京市役所ニ抵リ、米国艦隊歓迎ノ事ニ関シ府知事・市長及金子米遊協会々長《(米友協会)》 ○男爵金子堅太郎ト談話ス ○下略
   ○中略。
七月四日 曇
午前九時東京市役所ニ抵リ米国艦隊歓迎ノ事ヲ協議ス、千家知事・松田市長・園田孝吉・高橋新吉・安田善次郎・森村市左衛門・岩谷松平雨宮敬次郎・朝吹英二ノ諸氏来会ス、然レトモ一同充分ノ企望ナキニ付、更ニ主唱者三名ヨリ別案ヲ設ケテ協議スヘキ事トシテ散会ス ○下略
   ○中略。
七月六日 雨
午前東京市役所ニ抵リ、米国艦隊歓迎ノ事ニ関シテ協議ス、然レトモ閣員ハ出席ヲ好マサル由ナルヲ以テ之ヲ開カサル事ト定メ、別ニ市ニ於テ歓迎ノ文ヲ具シ、市長ヨリ艦隊指令長官ニ送付スルノ案ヲ議シテ散会ス ○下略
   ○中略。
七月廿二日 曇
午前 ○中略 東京市役所ニ抵リ、明廿三日米国海軍中将《(マヽ)》ローゼルス歓迎ノ事ヲ談ス○下略
七月廿三日 晴
○上略 十二時上野精養軒ニ抵リ、米国海軍中将ロゼルス及其一行歓迎ノ宴ヲ開ク、一時来賓皆集会スルヲ以テ食卓ヲ開キ、食事中卓上一場ノ歓迎演説ヲ為シ、三時宴ヲ撒シ、更ニ庭上ニ撃剣・柔術等ノ余興ヲ催ス、午後四時過散会シ、王子別荘ニ帰宿ス


東京商業会議所報告 第一〇二号・第一一頁 明治三四年一二月刊(DK250043k-0002)
第25巻 p.555-556 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇二号・第一一頁 明治三四年一二月刊
○第百八十五回役員会議  六月二十八日
 - 第25巻 p.556 -ページ画像 
 出席者
  渋沢栄一君   雨宮敬次郎君
  中村清蔵君   藤山雷太君
  外ニ参席者
  松田秀雄君   岩谷松平君
午後四時三十分開議、左ノ事項ヲ協議セリ
 一 ペルリ記念碑除幕式参列、米国軍艦歓迎会開設ノ件ハ之ヲ是認スル事
 一 明二十九日午後一時東京府知事・東京市長・本会議所会頭、並ニ米友協会ノ金子堅太郎・室田義文二君ノ中一名、東京市役所ニ会合シテ、右歓迎会組織ノ手続ニ付協議スル事


竜門雑誌 第一五九号・第四七―四八頁 明治三四年八月 ○ロツジヤース少将歓迎会(DK250043k-0003)
第25巻 p.556-557 ページ画像

竜門雑誌  第一五九号・第四七―四八頁 明治三四年八月
    ○ロツジヤース少将歓迎会
東京市有志の発起に係るロツジヤース少将歓迎会は去る七月二十三日午後一時より上野精養軒に於て開会されたるが、来会者はロツジヤース少将を始め従者六名、米国公使館員・同武官、肝付・遠藤の二少将鏑木大佐・東京府書記官・参事官・米友協会員等三十余名にして、撃剣・手品・柔術等の余興あり、午後三時半食堂に移り、発起者たる青淵先生を始め千家男及松田氏より左の歓迎文を贈呈し、ロ少将の挨拶あり、主客歓を尽し五時過ぎ散会せり
 北米合衆国亜細亜艦隊司令長官海軍少将フレデリツキ・ロツジヤース閣下、本日此に閣下の尊臨を辱ふするは実に我輩が欣喜に堪へざる所なり、豈一言して感謝を表せざるべけんや
 久里浜に建設したる故米国水師提督伯理君上陸紀念碑は即ち日本開国の紀念なり、苟も日本文明の歴史を知るものは皆争て之を賛成し公衆歓呼の中に除幕式の盛典を行へり、閣下が米国を代表し艦隊を率て此盛典に参列せられたる、寔に日本国民に取りては望外の喜悦たり、況や閣下が諸君と倶に東京に光臨ありて我輩の希望を満足せしめられたるの厚志隆渥なるに於てをや
 彼の紀念碑は其建造に於て敢て其宏壮の美を誇るに足らずと雖も、其紀念の事績に於ては、啻に日本歴史のみにあらず世界の歴史に巨大の印象を不窮に伝ふの事蹟たり、往事を顧るに、我国近世の初めに国を鎖し交を外に絶てより二百有余年、其間二三の欧洲諸国より懇篤の忠告を致せるに拘らず、当時の政府は断然之を拒絶し、東洋に孤立し宇内交通の外に離居するを以て保全の国是なりと定め、煥発の大機を文明に得せしむるを敢てせざりき、然るに嘉永六年即ち今を距る四十八年前に於て、伯理提督は其国命を帯び日本に来りて鎖国の門戸を敲き、其剴切なる利害を説き、其深厚なる国書を呈し我国をして之を領受せしめ、遂に頑牢の鎖鑰を啓かしめたり、而して伯理君が初めて上陸せしは実に久里浜にして、即ち紀念碑建設の地なりとす、当時の状勢を回憶すれば、伯理君が我国を誘掖し勧告して、宇内の事情を知り開明の真理を覚らしむるに心力を尽瘁せるは言を俟たず、我国も亦此の善言を容るゝが為めに許多障碍に遭際
 - 第25巻 p.557 -ページ画像 
し、再来変遷数転死難を経たりと雖も、其今日の盛運を占得するに至るものは、洵に伯理君の我鎖国の門鑰を啓かしむるに平和懇親の正道を以てせるの偉功に由ること、日本国民が今日に於て益々其然るを信ずる所にして、米国を視て以て文明の誘導者たる念を為すこと、昭然之を証するに余あるを知るなり
 伯理と云へば開国を聯想し、米国と云へば信友を聯想する、四十年来今日に至るも其篤を加へて更に逾る所なきは、日本全国民一般の観念たり、夫れ文明は種子なくして発生するものにあらず、必ずや其来因あるは当然なりと雖も、其発生の機を促すもの無きにあらざるよりは、何れの日にか其発達を期せん、我国の如き伯理君の来航は即ち之を促せるの動機にして、此四十年来日本の異常なる発達は伯理君の恵贈にして、千載に永伝すべきの一大紀念なりと謂はざるべからず、閣下は諸君と与に神戸横浜の諸市を歴観して、今や我東京を親しく視察せられたらんが、四十八年前伯理君上陸の時と今日とを比照あらば、宛然別天地の感想あらん、斯の如く旧日本を半世紀間に改造して、制度文名の英華煥然たる新日本たるの気運を啓発せしめたるは誰ぞ、伯理君即ち其人なり、今や米国と日本との交通は益々懇篤にして、貿易年々隆盛に赴き、両国民の往来は愈々頻繁を見る、著々伯理君の忠告せるもの今日に於て事実に炳焉たり、然らば則ち伯理君の英名は日本の歴史と与に無窮たらざるを得んや、我輩閣下の光臨を欣喜するの余り、呈するに此蕪辞を以てし、併せて閣下及諸君の盛栄康福を祈り、酒盃を挙げて歓楽を繋し給はんことを冀望す
  明治三十四年七月廿三日、故北米合衆国水師提督伯理君初めて日本に来り鎖国の門鑰を啓かしめたるより正に四十八年
                      千家尊福
                      渋沢栄一
                      松田秀雄


東京日日新聞 第八九二三号 明治三四年七月五日 ○彼理紀念碑開被式彙報(DK250043k-0004)
第25巻 p.557 ページ画像

東京日日新聞  第八九二三号 明治三四年七月五日
○彼理紀念碑開被式彙報 彼理上陸紀念碑開被式参列の為め、米国政府より派遣せらるゝ艦隊は、旗艦ニユーヨークタウン、ニユーオルレアンの二艦を率ゐ一昨日神戸に安着せり ○下略


東京日日新聞 第八九三二号 明治三四年七月一六日 ○彼理上陸紀念碑除幕式(DK250043k-0005)
第25巻 p.557-558 ページ画像

東京日日新聞  第八九三二号 明治三四年七月一六日
    ○彼理上陸紀念碑除幕式
米友協会の首唱に係り、内外紳士の賛助を得て成立せる米国水師提督ペルリ氏上陸記念碑除幕式は、予記の如く一昨日相州三浦郡久里浜に於て挙行せられたり、今其の光景の梗概を報ぜんに
○中略 数十発の煙火と共に海軍々楽隊の吹奏ありて式は開始せられ、ペリー氏の令孫と聞えたる米国東洋艦隊司令長官ロツジヤース少将は、金子男の先導にて紀念碑正面に立ち敬礼の後親しく除幕し、拍手喝采場の四方に起れるの頃、更に沖合なる日米両艦より三五の祝砲を放たる此時の壮観云はむ方なし、夫より初瀬艦より組織せられたる海軍儀
 - 第25巻 p.558 -ページ画像 
仗兵の捧銃式あり、次で金子米友会長進むで演壇に起ち除幕式々辞を朗読したり、その要は紀念碑設立の発起と来歴とを詳叙して、扨曰く
 此紀念碑は、一は以て往昔平和的の開国を誘導する為め伯理総督を特派したる北米合衆国の友誼を永久に忘れざる為め、又一は外宇内の列強と親厚なる国交を創め、内文明の国是を定めたる起源を後世に伝へん為め之を建設し、聊其精神を石に刻し以て中外に表彰せんと欲す
と、男は更に来賓の好意と両国の親交を望みて壇を下るや、米国公使館二等書記官フオルガツソン氏は同公使(病気にて欠席)代理として祝辞を朗読し、次に内閣総理大臣桂太郎子の祝詞朗読あり、次で米国東洋艦隊司令長官ロツジヤース少将進むで一場の演説を試みたり
 氏先づ其の祖父ペルリの日本に渡来せること、其の帰国せること等幼時よりの見聞に日本てう国の深く心に印せられたるものあり、ペルリ家と日本の関係此の如く夫れ深しと説き、合衆国の海軍は日本に対し最も友愛に且つ最も敬意を表するものなりとし、而して氏は更に、此の日本の過去四十年に於て此の如き長足の進歩を為したるを見て深く歓ぶもの、天下豈余に優さる者あらむと叫び、ベヤズリー少将と日本との関係を述べて其の長命を望みたる後に、日米両国の交情は過去に於て之ありしが如く、将来益々親密ならむを望まざるを得ず、実に余は敢て日本に対し心底よりの好意を表するの国は独り祖父ペルリの生れたるその国を除いて他に又之あらざるべきを断言せんと欲す、と結論せり
少将の演説少かりしも意頗る長く、其の胸裡無限の感に打たれたるが時として暗涙の眼に溢れ、為めに語塞り云はんと欲して云ふ能はざるものあるが如くなりき、夫より周布神奈川県知事の祝詞に次で、米国退職海軍少将ベヤズリー氏は、ペルリ上陸当時の在艦人の一人として当時の事情に関し、長々しくも尤も興味ある演説を試みたり、右にて全く式を終り、碑石後面の食堂を開きて立食の饗あり、仮設テントの内、盆を傾けんづ大雨の下、日米の主客互に臂を接し膝を交えて酒食談笑の後、午後三時より各桟橋を経て乗船し、午後五時横浜に帰着、此所にて随意退散したり、当日来賓の重なるものは、桂首相始め各大臣(菊池文部・内海内務を除く)大山元帥・田中宮相・伊東軍令部長・井上鎮守府長官・榎本子爵、大鳥・野村・清岡の各枢密、三浦宮中顧問、内田外務総長・大倉喜八郎・大谷嘉兵衛・米国総領事ベロー・代理総領事シドモール、其他内外紳士淑女七百余名に及びたりといふ
    ○米国公使の祝辞 ○略ス


東京日日新聞 第八九三九号 明治三四年七月二四日 ○米国艦隊司令官招待会(DK250043k-0006)
第25巻 p.558 ページ画像

東京日日新聞  第八九三九号 明治三四年七月二四日
○米国艦隊司令官招待会 昨日午後一時より上野精養軒に於て、北米合衆国亜細亜艦隊司令長官フレデリツク・ロツヂヤース少将を始め同乗員将校一同を招待し盛んなる歓迎会を開きたるが、当日の来会者は千家知事・松田市長・渋沢男・坂本書記官・浦田・吉田・佐藤・中鉢中沢・江崎・久我・西沢・長谷川・植田・山田の諸氏にて、余興には音楽・手踊・撃剣等ありて非常に盛会を極め、同五時頃散会したり