デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
14款 其他ノ外国人接待
■綱文

第25巻 p.642-644(DK250063k) ページ画像

明治17年(1884年)

十六年初夏、朝鮮ヨリ金玉均外債募集ニ就イテ来邦セシモ成ラズ、栄一借款ニ応ゼントシタル如キモマタ成ラズシテ是年初メ帰国セリ。年末ニ至リ京城変乱アリ、金ハ本邦ニ亡命ス。栄一諭スニ天津ニ行キ李鴻章ニ頼ルベキヲ以テセシモ応ゼズ。金玉均ハ在留十年ノ後、上海ニ去ル。


■資料

福沢諭吉伝 石河幹明著 第三巻・第三一二頁 昭和七年四月刊(DK250063k-0001)
第25巻 p.642 ページ画像

福沢諭吉伝 石河幹明著  第三巻・第三一二頁 昭和七年四月刊
    第五 先生手記の変乱始末
十七年京城変乱の始末に就ては先生の自から記された詳細なる記事があるから左に掲載する。但し此記事は金玉均の「甲申日録」と大同小異であるのを見ると、思ふに金玉均が変後日本に遁れて来て先生の宅に潜んでゐたとき、主として金から聞かれた事実に拠つて記されたものであらう。
      明治十七年朝鮮京城変乱の始末
金玉均は、多年国王の信任を得て、事大党の主義を憤り、大に為すことあらんとの企にて、明治十五年修信使朴泳孝と共に日本に来り窃かに日本政府に依頼せんことを謀りたれども、当時政府の意に投ずるを得ず、僅に其筋の厚意を以て金拾七万円を横浜正金銀行より借用したるのみなり。拾七万円を以て国事に用ゆるに足らず、依て明治十六年初夏の頃本国より三百万弗外債の委任状を携へて復た日本に来り、米国公使の内々の周旋を以て横浜在留米人「モールス」に托し、米国にて外債募集の事を企てたれども其事成らず、明治十七年空しく帰国したり。
〔欄外記事〕
 此外債委任状を竹添公使は偽物なりと称して、金氏の計画を妨げたり
 第一銀行の渋沢栄一が金玉均に十万乃至二十万円を貸さんとしたれども、外務卿井上の旨を得ざるが為に止みたるも、十七年一・二月の頃なり
○下略


青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第三二六頁 明治三三年六月再版刊(DK250063k-0002)
第25巻 p.642-643 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第三二六頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十三章 朝鮮事業
    第二節 朝鮮人士往来
○上略
明治十七年朝鮮京城ノ変起ルヤ、金玉均逃レテ我邦ニ来ル、姓名ヲ変
 - 第25巻 p.643 -ページ画像 
シテ岩田某ト云フ、屡々来テ先生ニ救助ヲ請フ、先生一日金玉均ヲ王子ノ別邸ニ招キ、先生自身ノ維新前後ニ際スル境遇ヲ説キ示シ、之ヲ金玉均ノ身ノ上ニ比較シ、諭シテ曰ク、今日子ノ為ニ謀ルニ、直ニ天津ニ赴キ李鴻章ニ面会シ、朝鮮ノ国情ヲ述ヘ巨細ニ心事ヲ語ルニ若カス、然ラハ近日ノ変乱其名正シクシテ、仮令李鴻章子ヲ捕ヘテ獄ニ下シ或ハ殺スコトアルモ、他日必ス子カ志ヲ継テ起ルモノアラン、況ンヤ李ハ必スシモ子ヲ殺サヽルナリ、計此ニ出テス徒ラニ本邦ニ在テ一身ノ安全ヲ求メハ、事ヲ起シテ其名無ク、毫モ郷国ノ為メ益スル所莫ラン、子若シ余カ言ニ従ハヽ、天津ニ至ルノ旅費ハ余請フ子カ為メニ之ヲ弁セン、金玉均謝シテ曰ク、先生ノ僕カ人物ヲ見ル高キニ失ス、僕ハ到底決シテ先生ノ想像スルカ如キ志望アル人物ニアラスト、此ノ後先生金玉均ノ人ト為リヲ卑ミ、再ヒ見ス、曰ク、彼必ス終リヲ完フセス、事ヲ謀リ憂国ノ誠心ニ出テスト、既ニシテ刺客ノ為メニ欺ク所トナリ、上海ノ客舎ニ於テ毒手ニ斃ル


雨夜譚会談話筆記 上・第五二―五三頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK250063k-0003)
第25巻 p.643 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第五二―五三頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                    (渋沢子爵家所蔵)
  第三回 大正十五年十一月十三日於飛鳥山邸
○上略
 敬「第二の問題である金玉均の亡命のことに就きましては」
先生「金が当時此処へ来たので二晩か泊めた、私は彼が亡命して来た以上、事情を具して李鴻章の懐中へ飛び込んで行くのが一番よい、或は死なねばならぬかも知れないが、それが生きる道だと忠告してやつたが、遂にさうしなかつた。又金は碁を打ち中々に強く、中川亀三郎を呼んで旅情を慰めてやつたりした。金は前からの知合であつた。朝鮮の人としては金宏集・魚允中などゝも懇意であつた」
○下略
   ○此ノ回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・増田明六・高田利吉・岡田純夫。



〔参考〕東京経済雑誌 第三二三号・第二五頁 明治一九年七月三日 ○朝鮮人金玉均氏日本在留を禁せらる(DK250063k-0004)
第25巻 p.643-644 ページ画像

東京経済雑誌  第三二三号・第二五頁 明治一九年七月三日
    ○朝鮮人金玉均氏日本在留を禁せらる
明治十七年十二月朝鮮国京城に内訌の劇変あり、其の巨魁たりし金玉均氏は一敗して賊名を負ひ同政府の逮捕甚だ急なりしかば、憫むべし身を自国に容るゝを得ずして遂に其の党数名と与に虎穴を脱して我か日本に来航し以て我か政府と人民との厚意に依頼せんとせり、是に於て我か政府・人民は氏の来住を拒絶せざりしのみならず之を優待し且保護せる者の如し、然るに去月中旬に至り我か政府は、氏の在留を以て日本政府か親睦修好の交を為す朝鮮政府に対して妨害あるのみならず、我か日本帝国の平和安全に危害を与ふるの恐ありと為し、内務大臣より氏に命令するに十五日以内に我か政府の領地を立去りて他に転すへきことを以てし、且つ同時に警視総監・府知事・県令に与ふるに氏を追放する訓令を実施することを以てしたる由は、吾儕の当時仄かに伝聞せし処なるが、本月二日の報知新聞が此事を公にせるに因て之を確知するを得たり、而て同日の同新聞は左の一報を掲げて曰く
 - 第25巻 p.644 -ページ画像 
 金玉均が我国立退きの事に付、昨日或る慥かなる向より承知したる所に拠れば、同人は去月中旬に立退きを申渡され、最早其の期限に満ちたれば神奈川県令より速かに立退くべき旨を談せられし処、何国に赴くも旅金に差支へるゆゑ、三・四万円の金策出来得るまで猶予を与へられたしと歎願したるに付内務大臣より来る十三日までの猶予を与へられたり云々、昨日横浜より来りし人の話に、金玉均は多分今明日出帆の郵船に搭して米国へ赴くべしとの風聞あり」と
左れは氏は我か内務大臣の命令に従ひて、他に転住せんとすること知るべし、蓋し氏が我か政府・人民の厚意に依て是まで安全に生計を遂くるを得たるは、氏に於て容易に忘るゝ能ハざるべく、氏は我日本を以て第二の郷里たる感なくんバあらざるなり、然り而して我が政府が氏に対する終始の処置は国際公法《インテルナシヨナルロー》の定例に背戻せざるものなれバ、何国と雖も何人と雖も、固より異議あるべからざる筈なり
   ○金玉均ハ朝鮮ノ志士ナリ。朝鮮独立党ノ首領。明治九年我邦ニ来朝シテ制度文物ヲ視察シ、同十五年朴泳孝等ト共ニ再ビ来朝ス。帰国後国事ノ日ニ非ナルヲ知リ、日本ニ頼リテ支那ノ干渉ヲ避ケ其独立ヲ全ウセントシテ明治十七年事大党ヲ倒シ一時政権ヲ掌握セシガ、袁世凱ノ手兵ノ為ニ敗レテ日本ニ亡命シ、客遊スルコト十余年、明治二十七年一月二十七日王后閔氏ノ派セシ刺客ニ誘ハレテ上海ニ渡リ、遂ニ其殺ス所トナル。清国其屍ヲ軍艦威遠ニテ朝鮮ニ送レリ。(富山房編「国民百科大辞典」4、第一三五頁)