デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
14款 其他ノ外国人接待
■綱文

第25巻 p.687-690(DK250101k) ページ画像

明治40年11月11日(1907年)

是日栄一、フランス主要銀行代表者、パリ・オランダ銀行副支配役フィナリーヲ飛鳥山邸ニ招イテ送別晩餐会ヲ開ク。此前後ニ亘リ各所ニ於ケル招宴ニ出席シ、マタ屡々面談ス。蓋シ日仏銀行設立ノ始ナリ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK250101k-0001)
第25巻 p.687-688 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年    (渋沢子爵家所蔵)
十月二日 曇 冷             起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午後再ヒ事務所ニ抵リ、仏国人ヒナリー氏ノ来訪ニ接シ、種々ノ談話ヲ為ス ○下略
   ○中略。
十月四日 晴 冷             起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 午後六時三井集会所ニ抵リ、松尾・高橋・二氏ノ催ニ係ル仏人ヒナール氏招宴ニ出席ス、数番ノ余興アリ、夜十一時王子ニ帰宿ス
   ○中略。
十月十日 晴 冷             起床七時 就蓐十二時
○上略 十時兜町事務所ニ抵リ書類ヲ整理ス、仏国銀行者フエナリー氏来話ス、我邦ニ於テ銀行事務経営ニ関シ種々ノ質問アリタリ ○下略
   ○中略。
十月十二日 晴 冷            起床六時三十分 就蓐十二時
○上略 七時過事務所ニ於テ衣服ヲ改メ、八時仏国大使館ノ晩餐会ニ出席ス、大蔵・外務・逓信ノ諸大臣、其他来会スル者多シ、仏国人フエナリー氏紹介ノ為メニ催フセル宴会ナリ、夜十一時宴散シテ帰宿ス
 - 第25巻 p.688 -ページ画像 
   ○中略。
十月二十四日 曇 冷           起床七時 就蓐十二時
○上略 十一時半帝国ホテルニ於テ仏国人フエナリー氏ニ面会ス、ゴアン氏銀行事務修業ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十一月一日 晴 冷            起床七時
○上略 四時帝国ホテルニ抵リ ○中略 仏国人フエナリー氏ト会見シ、同氏カ東京ニ銀行設置ノ意見ニ関シ種々ノ討議ヲ為ス、夜八時同氏及随行員等ト共ニ夜飧シ、十一時王子ニ帰宿ス、佐藤毅氏通訳ス
   ○中略。
十一月七日 曇 冷            起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 六時半事務所ニ抵リ服装ヲ改メ、七時帝国ホテルニ抵リ仏国人フエナリー氏招宴ニ出席ス、食卓上一場ノ謝詞ヲ述フ、夜十一時王子ニ帰宿ス
十一月八日 晴 冷            起床七時三十分
○上略 正午日本興業銀行ニ抵リ、仏人フエナリー氏ヲ案内セル午飧会ニ出席ス ○下略
   ○中略。
十一月十一日 晴 冷           起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午後三時王子ニ帰宅シ、仏国人フイナリー氏其他ヲ招宴ス、庭園散歩ノ後、食前一場ノ送別演説ヲ為ス、来賓各歓ヲ尽シ夜十時散会ス此夜阪谷・松尾・添田・早川・豊川・池田・松方・佐々木・大倉・近藤ノ諸氏来会ス
十一月十二日 晴 冷           起床七時
○上略 正午外務大臣官舎ニ抵リ、仏国人フイナリー氏招宴ニ列ス、午飧後種々ノ談話ヲ為ス ○下略
十一月十三日 晴 暖           起床六時 就蓐十一時三十分
○上略 十二時新宿御苑ニ抵リ阪谷大蔵大臣ノ催フセル仏人フイナリー招宴ニ列席ス、午飧後御苑中ヲ散歩シ動物園・西洋草花等ヲ一覧ス ○下略
   ○中略。
十一月十五日 晴 冷           起床七時 就蓐十一時三十分
○上略
午後四時過帝国ホテルニ抵リ、仏人フイナリー氏ニ面会シ、帰国ヲ送別シテ種々ノ談話ヲ為ス
○下略


竜門雑誌 第二三四号・第三〇頁 明治四〇年一一月 ○青淵先生の仏国銀行家フイナリー氏招待宴(DK250101k-0002)
第25巻 p.688-689 ページ画像

竜門雑誌  第二三四号・第三〇頁 明治四〇年一一月
○青淵先生の仏国銀行家フイナリー氏招待宴 青淵先生には予て仏国の主要銀行を代表し視察の為め本邦に来遊中なりし巴里和蘭銀行副支配役フイナリー氏送別の為め、去る十一日午後三時半より飛鳥山邸に盛宴を張り、同氏を始め左の諸氏を招待せられ、丁重なる饗応を為し且種々の余興を催ふされたり、尚同氏に随伴せるアンドレ・ゴアン氏は青淵先生の頭取たる第一銀行に入りて銀行事務を練習する為め東京に残留せるゝ筈なり
 - 第25巻 p.689 -ページ画像 
来賓氏名
 ホラス・フイナリー  アンドレ・ゴアン
 ピエール・ラコム   (以上一行)
 アー・ゼラール    エー・ダール
 エル・マルチニー   (以上仏蘭西国大使館)
 ロベール・ルーネン    阪谷芳郎
   水町袈裟六      勝田主計
   松尾臣善       近藤廉平
   添田寿一       大倉喜八郎
   豊川良平       浅野総一郎
   松方巌        早川千吉郎
   池田謙三       長森藤吉郎
   佐々木勇之助     佐藤毅
   ○ゴアンニ就イテハ本款明治四十一年五月十日ノ条参照。


竜門雑誌 第二三四号・第六―八頁 明治四〇年一一月 ○仏国銀行家フイナリー氏留別会席上演説(青淵先生)(DK250101k-0003)
第25巻 p.689-690 ページ画像

竜門雑誌  第二三四号・第六―八頁 明治四〇年一一月
    ○仏国銀行家フイナリー氏留別会席上演説
                      (青淵先生)
 左の一篇は本月七日仏国銀行家フイナリー氏留別会に於て仏国大使が青淵先生の「コンマンドル、ド、ラ、レヂヨン、ドノール」に叙勲せられたることを披露せられたる際先生が演説せられたる所の筆記なり
仏国大使閣下及臨場の諸閣下諸君 只今大使閣下の御披露によりて図らずも私は今日仏国大統領閣下より「コンマンドル、ド、ラ、レヂヨン、ドノール」に叙勲せられましたことを拝承し一身の光栄感謝措く能はざる次第であります、殊に閣下が此叙勲のことを私の敬愛する益友フイナリー君が其使命を果されて近日我邦を発して帰国せらるゝに依り其留別の宴を張られたる席上に於て御披露ありしは私の最も喜悦に堪へぬのであります、大使の御演説中に私を日本経済界に於ける元老の一人とせられ又フイナリー君の使命に対し、其成功を賛助せし一人とせられ将た又仏国と日本との経済関係を更に有力に緊密ならしむることに協力したる一人とせられて多くの賛辞を賜りたるは恐らくは溢美に過ぐるでありましよう、併しながら私が経済思想を起しましたのは四十年の昔即ち維新以前仏国に滞在せし時であります、当時の日本と仏国とは其有様が雲泥霄壌の相違であつて仏国の銀行制度、公債発行の方法及其売買手続又一面には官吏武人と実業家との交際状態抔を見ましても総て心に感じ肝に銘ぜぬことはなかつたのであります、是を以て私は明治初年より早く経済界に従事して今日尚ほ拮据努力して止まぬのであります、只今阪谷大蔵大臣閣下は仏日の協約成立に付て政事上の協約は実業上の協約によりて更に其光輝を増すと言はれましたが私は全然其言に同情を表します、故に私は向後仏日の経済界の関係をして今夕の主人公たるフイナリー君と協力して大に進歩拡張することに勉めて以て今日の高賚に報答しようと思ひます、私は今夕の此盛会に於て四十一年前即ち青年の時代を回想して精神が活躍する様
 - 第25巻 p.690 -ページ画像 
なる感を生じました、玆に謹て再び大使閣下に謝辞を陳上します。
    ○仏国銀行家フイナリー氏送別の辞 (青淵先生)
 左の一篇は十一月十一日飛鳥山曖依村荘に於て催ふされたる仏国銀行家フイナリー氏送別の宴席に於て為されたる先生の演説筆記なり
フイナリー君貴下及ひ臨席の諸閣下、諸君 今夕は吾々が親愛する益友フイナリー君が其使命を果されて近日帰国の途に就かるゝによりて同君及び其一行を送別する為め此小宴を催したるに、御一行は勿論仏国の貴紳及び我邦の財政経済に重要の地位を占めらるゝ所の諸君悉く賁臨せられたるは私の光栄とする所であります、依て私は玆に蕪詞を呈して謝意を表しようと思ひます、私は四十年前仏国に留学致しましたから「ボンジユールモッシュール」の語は或はフイナリー君よりも先に教授を受けたかと思ひますが、修学時間の短かゝりしと爾後の歳月長きとによりて概ね忘却して今日仏語を以て我が意見を陳述することを得ざるは頗る遺憾とする所であります、去りながら私が滞在中特に精神に感触を与へられたる仏国経済界の状況は、帰国後私が日本に於て銀行業を経営するの基礎となりたるのでありますから私の経済思想は其源を仏国に発したと言ふてもよかろうと思ひます、而して我邦の実業界も爾来三十有余年間に於て漸次進歩発達して、昔日に比すれば大に其面目を改めたるは今日フイナリー君の如き有為の銀行業者の渡来せらるゝに徴しても明かなることゝ存じます、フイナリー君の我邦滞在中私は屡々其温容に接して談話を重ね自己の意見を詳悉したれば同君も充分領意せられしことゝ思ひます、而して同君は其敏活なる手腕と真摯なる脳力とにより各方面に向て充分の視察を遂げ我邦財政経済の真相を明晰に知悉せられ、帰国の後仏国経済界の有力者諸君に報道せらるべければ吾々は、今日同君の発途を惜むと同時に他日を期待するのであります。
思ふに国力充実して資本豊饒なる仏国と、新進にして事業の経済に多忙なる我邦とは宜く相呼応して各其方法を講ずべきことゝ存じますから、フイナリー君の今回我邦に渡来せられたるは殊に吾々の歓迎する所であります、併しながら古諺に資本は従順にして水の如く能く卑に就て流るゝと同時に、又頗る臆病にして懲り易き性質を有すと言ひますから、吾々銀行者は常に此に注意して其安全を謀り徐々其歩を進め着々其実を占むることを勉むるを必要と存じます、玆に所感を述べて以てフイナリー君を送別するの詞と致します。
   ○第三篇第二部実業・経済第一章金融中「日仏銀行」ノ条参照。