デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
14款 其他ノ外国人接待
■綱文

第25巻 p.703-706(DK250112k) ページ画像

明治42年6月5日(1909年)

是日栄一、男爵岩崎小弥太等ト謀リアメリカ前副大統領チャールズ・フェアバンクスヲ東京銀行倶楽部ニ請ジテ歓迎晩餐会ヲ催ス。栄一、主催者総代トシテ挨拶ヲ述ブ。是ヨリ先、各所ニ催サレタル同人ノ歓迎会ニ臨ム。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK250112k-0001)
第25巻 p.703-704 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
五月二十七日 曇 暖
○上略 午後七時半兼子ト共ニ三井集会所ニ抵リ、米友協会ノ催ニ係ル米国前副統領フヱーヤバンク氏招宴ニ出席ス、夜食後種々ノ余興アリ、且米友会員多人数来会ス、夜十一時散会帰宿ス
 - 第25巻 p.704 -ページ画像 
   ○中略。
五月三十一日 曇 暖
○上略 午後七時半桂総理大臣ノ催ニ係ル晩餐会ニ出席ス、米国前副統領フエーヤバンク氏招宴ノ会ナリキ、各大臣悉ク来会ス、食卓頗ル美ヲ尽クス、夜十時散会帰宿ス
   ○中略。
六月三日 晴 暑
○上略 午後二時帝国ホテルニ抵リ ○中略 深井英吾氏来《(深井英五)》リ、米国フエーヤバンク氏招宴ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月五日 曇 冷
○上略 六時 ○午後銀行倶楽部ニ抵リ米国人フエヤーバンク氏招宴会ニ出席ス、食卓上一場ノ演説ヲ為シ、夜九時散宴、十一時王子ニ帰宿ス


竜門雑誌 第二五三号・第四六頁 明治四二年六月 ○米国前副統領招待会(DK250112k-0002)
第25巻 p.704 ページ画像

竜門雑誌  第二五三号・第四六頁 明治四二年六月
○米国前副統領招待会 青淵先生を始め岩崎小弥太男・三井男・高橋男・益田孝の五氏主催となり本月五日午後四時米国前副統領フエーヤバンクス氏を銀行倶楽部へ招待し一場の演説を求め、午後六時半別に同氏の外米国大使オブライアン氏を招待し晩餐会を催したるが、席上青淵先生の総代としての挨拶、フエーヤバンクス氏の簡単なる謝辞あり、主客歓を尽くして散会したり


東京朝日新聞 第八一八九号 明治四二年六月七日 ○前米副統領招待(DK250112k-0003)
第25巻 p.704-705 ページ画像

東京朝日新聞  第八一八九号 明治四二年六月七日
    ○前米副統領招待
京浜の重なる銀行家並に実業家二十八名は、米国前副統フェァバンクス氏を主賓とし、同国大使オブライエン氏・同大使館書記官ホイラーアーミス両氏・石井外務次官・若槻大蔵次官等を一昨五日銀行倶楽部に招待せり、フ氏は午後四時より約一時間に亘る演説を試み満場の拍手を博し、六時三十分に開かれたる食堂は渋沢男爵の挨拶、フ氏の謝辞、米国大使に対する松尾男爵の祝盃及米国大使の謝辞ありて八時三十分閉鎖し、別堂にて一同打解けたる雑話に時を移して、九時過ぎ散会せり ○中略
      △フ氏の演説
 余は玆に諸君と会するの光栄を得たるを喜ぶ、東京は再度来たるべき地なりと聞きつるに、果せるかな余は諸君の懇篤なる招待に拠りて、再び入京する事となりたり、余は来朝するに当りて親しく新旧の両日本を観察せんとの希望を抱きたり、旧日本は今日多くの場合に於て無用の長物なり、然れども尊敬すべき旧日本は既にその任務を全うして、新日本の樹立を幇助したり、今や新日本は到着せり、而も其進歩の偉大なるには実に驚嘆するの外なし、想ふに一国の発達は其徳義的感念の発展に基因す、而して一国は決して孤独なる能はず、二ケ年前に於ける米国の恐慌は日本にも波及せり、米国の恐慌は投機と過度の仕打ちに原因す、日本亦同様の観あるに非らずや余は横浜に到着して以来到る処に於て多大なる歓迎を受けたり、之
 - 第25巻 p.705 -ページ画像 
れ畢竟日本国民が米国々民に対する好意の表彰なりと信ず、察するに一般の米国々民亦同様の感慨に打たれつゝあるべし、恰かも之と同時期に、日本の練習艦隊は米国の太平洋沿岸に於て未曾有の歓待に浴したり、之れ米国々民が日本国民に対する至大の好意を表示する所以なり、数日前シヤトル博覧会が開催せられたるに当りて日本の代表者が同港を訪問したるは、両国民の親善を厚ふする点に於て偉大なる効果ありと信ず、曾てバッフェロー博覧会に臨みて前大統領マッキンレー氏は、博覧会は総て進歩せる社会の階梯を示すものなりと云へり、聞説日本は五十年に大博覧会を会催すと、而して其年は恰かも日本皇帝陛下の即位五十年に相当すと云ふ、余は日本の歴史に精通せずと雖も、憶ふに日本は其歴史に於て、此五十年間に顕はれたる程の進歩を示したる事はなかるべし、此時に当りて多数の米国々民は日本を訪問して、親しく日本国民の好意と進歩を目撃して両国の親善深大を加ふべし
と談じ来りて、フ氏は時計を打眺めつゝ、余り長時間を費すは却て諸君の迷惑なるべし、と小声にて囁くを聞き、満場否々と叫び、同氏は「日本の銀行は何れも金持なり」と云ふて、当今預金に持て余して居る現状を揶揄するを受けて、益田孝氏は「金を儲けたればなり」とて意地を張るや、フ氏は莞爾として再び声を張り、今度は話頭を一転して次の如く貨幣制度を論及せり
 米国は廿余年前、金銀何れの貨幣に付きて自由鋳造を許すべきやの議論沸騰せり、金貨単本位とせば銀の所有者は其債権を否認すべき運命に陥るべし、然れども一般国民の利福を尊重して、輿論は終に金貨本位を採用する事となりて今日の発達を来たせり、其際銀貨自由鋳造に関しては、日本は墨西哥と共に引証せられたり、然るに今日の日本は金貨単本位の国となれり、而して誰も其恩恵を喜ぶも決して此を忌むものはなかるべし、余は諸君より厚き招待を受けたるため日程に移動を生じたり、即ち古き場所(記者曰く、多分京都・奈良地方なるべし)の訪問日数は一日を減じたり、然れども新日本を代表すべき東京にありて一日多く偉大なる活動を目撃するは、誠に愉快に堪へず、云々



〔参考〕東京朝日新聞 第八一七八号 明治四二年五月二七日 ○米国前副統領講演(DK250112k-0004)
第25巻 p.705 ページ画像

東京朝日新聞  第八一七八号 明治四二年五月二七日
    ○米国前副統領講演
米国前副統領フェヤバンクス氏は、昨日午前十一時より十二時まで青山学院に於て、同院男女学生七百名の為めに講演を為せり、其要旨は日本は今日迄非常に光栄ある歴史を有す、吾人は羨慕に堪へざるものなれども、是れ即ち過去の事実なり、今後の国運は一に男女学生諸君が努力に待つと云ふにありて、種々奨励の辞を述べたり、氏は又退壇後来集学生七百名に一々握手せり



〔参考〕東京朝日新聞 第八一八〇号 明治四二年五月二九日 ○前副統領の説教(DK250112k-0005)
第25巻 p.705-706 ページ画像

東京朝日新聞  第八一八〇号 明治四二年五月二九日
○前副統領の説教 フェヤバンクス氏は、メソジスト教会信徒たる縁により、三十日午前十時春木町中央会堂に於て説教すと云ふ、参会随
 - 第25巻 p.706 -ページ画像 
意たるべし



〔参考〕中外商業新報 第八二八五号 明治四二年五月二三日 ○前副統領入京(DK250112k-0006)
第25巻 p.706 ページ画像

中外商業新報  第八二八五号 明治四二年五月二三日
    ○前副統領入京
十一日ホノルヽ港を解纜せるモンゴリア号は、廿二日午後四時横浜に入港せり、同船には予報の如く米国前副大統領フェアバンク氏夫妻並に令嬢一行便乗せるが、記者は本船を港外に出迎へ氏と面晤せしに、氏は痩形にして身長六尺三寸余、半禿の温厚なる君子にして、記者が刺を通じ安全なる航海を経て恙がなき来朝を就《(祝)》し、併せて米国の近況を尋ねしに、氏は温味ある口吻を以て左の如く語れり
 日米間に於ける移民問題の紛糾等に就て、今更ら質問を受くるは稍奇異の感に堪へざる所にして、加州の如き一部分には諸種の複雑せる問題あるも、之を米国民全般の上より観る時は、五十年来其国誼の親厚なる些の差異あるを認めず、而して今後も又決して変動を見る事あらざるを確信す、彼の関税改革問題は余の出帆前より研究討議中にして、未だ何れとも確答し能はずと雖も、製茶課税問題の如き畢竟画餅に帰し、無課税品として輸入を許可するに至るべしと信ず、而て生糸に対して課税する如きは、到底問題として討議するの価値なきものと断言して憚からざる也、尚米国に於ける一般経済状態は恐慌当時太だしく憂慮の念を以て観察せられたるにも拘らず、其後漸次順潮に向ひつゝありて、今や殆ど平静に復したるかの観あり、予は日本に暫時滞留して観光すると共に、出来得べくんば日米両国の商業干係其他商工業界の情勢をも充分視察せんと欲する也、斯くして予は一旦日本を去り支那に遊び、同国の商業状態を視察し更に非律賓を経て再び日本に還り、西比利亜鉄道に由りて欧洲巡遊の途に上る心算なるが、其日本に滞在する時日及旅行順序等は、大使館に於て諸事打合せの後に非ずんば確定せず、云々
氏はグランドホテルに於て日曜を送る筈なりしも、急に予定を変更して、出迎の外務大臣秘書官篠野氏・米国大使館一等書記ヂエー氏と同乗して五時十五分横浜を発し同六時十二分新橋着、同所に於て伊藤公爵・桂首相・小村外相の各代理、斎藤海相・金子顧問官・石井次官、倉知・萩原両局長、添田興銀総代《(裁)》、吉田・本多両外相秘書官、米友協会其他数十名の出迎を受けし後、馬車にて帝国ホテルに向ひたり
   ○チャールス・ウォレン・フェアバンクス(Charles Warrn Fairbanks.)一八五二年オハイオ州ニ生レ、大学卒業後、新聞記者・弁護士ヲ経テ、鉄道財務官トナリ、一八九二年ヨリ数次共和党州大会ノ議長ニ任ジ、一八九七年上院ニ選出サル。一九〇四年副大統領トナリ、一九一六年再度共和党ヨリ指名サレシモ敗退、一九一八年歿。(エンサイコロベジア・ブリタニカ一九二二年版ニヨル)