デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.288-316(DK260055k) ページ画像

明治34年12月14日(1901年)

栄一、是日及ビ一月・三月ノ当社月次会ニ出席シ、三回ニ亘リ、近世史(特ニケンペル著「日本鎖国論」)ニ就キ演説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260055k-0001)
第26巻 p.288 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
十二月十四日
兜町邸ニ於テ竜門社月次会アリ、席上我邦近代ノ歴史ニ関シ鎖国・開港ノ原因ニ付意見ヲ述ヘ、且ツケンプル氏著鎖国論・グリヒース氏著皇国、及米国公使タウンセントハルリス氏奉使日記等ノ事ヲ談話ス
   ○グリヒース(Griffis)


竜門雑誌 第一六三号・第三一―三二頁 明治三四年一二月 ○本社月次談話会(DK260055k-0002)
第26巻 p.288 ページ画像

竜門雑誌  第一六三号・第三一―三二頁 明治三四年一二月
    ○本社月次談話会
本社月次談話会は、例の如く去十二月十四日午后七時日本橋兜町なる渋沢家事務所楼上に於て開会せられ、青淵先生・渋沢社長を始め佐々木勇之助・西脇長太郎氏等外参拾余名出席し、青淵先生には、次号以下の本誌に於て順次掲載の準備中なるケンブルの日本鎖国論、グリツフヒスの日本宗教史、ハルリスの安政条約の談判日記を始め、維新前に当り外国の学者及外交官等が我日本を観察したる著書・日記・随筆類の翻訳書に付き、其緒言として一場の演説を為されたり、右の著書日記等は、先生が去廿七年以来或る目的の為に我国幕末史の取調に従事せらるゝに際し、参考紀料として反訳せしめられたるものゝ由なるが、我々の一読すべき有益の史料なるを以て、特に先生に乞ひ之に所所先生の所感を挿入し、来春一月の本誌より先生の緒言演説と共に逐次掲載せんとす、今当日出席者の芳名を録せんに左の如し
 名誉社員 青淵先生 渋沢社長
 社員(出席順)
 斎藤峰三郎君   中野次郎君   仲田正雄君
 桜井幸三君    武沢与四郎君  長谷川武司君
 伊藤登喜造君   阿部吾市君   松平隼太郎君
 佐々木勇之助君  八十島親徳君  清水泰吉君
 西内青藍君    寺井栄次郎君  上田彦次郎君
 若月良三君    野口半之助君  利倉久吉君
 吉岡新五郎君   村木善太郎君  井田善之助君
 西脇長太郎君   石川清君    関口鎌吉君
 橋本明六君    橋本梯三郎君  渋沢元治君
 北脇友吉君    長島隆二君   岡本亀太郎君
 石井与四郎君   野島秀吉君   萩原久徴君
 高畑義夫君    藤木男梢君   山内春雄君
 松村修一郎君


竜門雑誌 第一六四号・第一六―二七頁 明治三五年一月 ○青淵先生の近世史談(其一)(DK260055k-0003)
第26巻 p.288-296 ページ画像

竜門雑誌  第一六四号・第一六―二七頁 明治三五年一月
 - 第26巻 p.289 -ページ画像 
    ○青淵先生の近世史談 (其一)
 回顧すれば今を去る三百有余年前徳川幕府創始の際に当り、幕府は其国是として堅く鎖国の主義を執り、欧米の文物宗教の伝来を厳禁したるは勿論、交通の途すら大に制抑したり、コハ果して如何なる主意に出てたるや、又退て考察すれば、其末造に当り翻然として祖先以来の鉄案玉条たりし鎖国政策を棄てゝ開国の方針に向ひし、是れ果して何の原因に基けるや、其政策変更の甚しき実に人意の表にありて、這般の事情は我国近世史研究上最も趣味ある問題なりと信す、我青淵先生には予て此等の諸点に付き深き意見を有せられ、且又数年来或目的の為めに自ら幕末史に就て調査せらるゝ所あり、其材料として翻訳せられたる独逸人ケンブル氏の日本鎖国論、米国人グリツフヒー氏の皇国(ミカドス・ヱンパイアー)、及米国公使ハルリス氏の奉使日記等は孰れも得難き史料なるを以て、爾後毎月の本社月次会に於て特に近世史に関する先生の講話を乞ひ、且つ其筆記に挿むに右の翻訳書を以てし、之を毎月の本誌に連掲せんとす、因に記す、右の諸書は福地源一郎氏老練明快の筆を以て訳翻せられ、行文の流暢なる、字句の正確なるに加ふるに、其各節に向ては青淵先生の論評及所感を附せらるゝことなれば、更に一層の光采を放ち趣味の津々たるものあらん
                       記者識す
      近世史談緒言(三十四年十二月十四日夜本社月次会に於ける青淵先生の講話筆記)
諸君大いに遅刻を致してお待たせ申して相済みませぬ、先約があつて其方へ顔を出しまして、余程切上けを早くしましたけれども斯の様に遅くなつたのですから、用の多かつたのをお察し下さるやうに願ひます、此竜門社の会合には、月次会でも総会でも、私のお話することはいつも経済談より外にありませぬ、或る場合には方面を変へて何か諸君を益するお話をして見たいと時々腹稿も致しますけれども、御案内の通り雑事に追廻されるのと、又一つに年を取つた為めか、夜分の仕事抔は甚た懶くなつたのと旁々で、中々充分なる腹稿すら出来ぬ位ですから、況や書物を取調へる抔といふことは為し能はぬです、夫故に平生心にある経済談を申述べるといふが、俗に申す紋切形、極まり台詞といふ有様であつた、が此間から私は他の方面で何か考を述べて見たいと思付いて居りましたから、今日は試に少し御話をして見ましやう、此日本の輓近の歴史を観察するに、徳川幕府の始から鎖港の主義が確定して、余程厳正に行はれた、其鎖港主義が厳正に行はれた為めに徳川幕府が永続したとばかりはいへぬかも知れませぬが、此幕府の三百年の間に若し開国主義であつたならば、種々なる変化を惹起したであらうと思はれる、さうして見ると此鎖国主義の強かつたといふのは、善かれ悪かれ幕府の命脈を長く保つたといふのに、大に関係があつたやうに見ゆる、而して其主義の起つたのは何等の原因であるかといふことを余程吟味して見たいと思ふ、何故さういふ考を起すかといふと、維新以前攘夷といふことが尊王といふことゝ、第一・第二といふ如く離るべからざる問題となつて、殆と今日の民権拡張とか実業発達とか申すやうな言葉、まだそれよりも勢力のある、大勢が皆な唱へ
 - 第26巻 p.290 -ページ画像 
た言葉であつた、さやうに猫も杓子も尊王攘夷を唱へるといふのは余程そこに原因があつたらうと想像せねばならぬ、但し其事は果して国家に取つて善事であつたか、悪事であつたか、それは第二の問題として、先つ維新以前の風潮といふものは、只無闇に強硬なる攘夷といふ議論が騒々しいのであつた、左りなから其議論は、決して真成なる国を護るの道理でもなく、又国を発達させるの要具でも無つた為に、遂に維新以後には俄然開国主義となつて、其後段々事物が進みもし改まりもして、今日に推移つて来たか、明治卅四年の今日に於て、既往の鎖国の原因は那辺より起りしものなるや、又維新以前に頻に鎖国の主義を主張せしは何から来たのであつたか、而して此日本の開国になつた有様はドウいふことであつたかといふことを、或は調査し或は考証し、或は歴史に就て之を研究するといふことは大に面白い事柄であらうと思ふ、故に私は先頃より其材料を少し許り得ましたから、前に申す如く余り一本調子の経済談のみでなく、輓近の歴史談を一つして見たいと斯う考へたのである、且つ此お話は一席に尽ることではない、数回の席を重ねても尽し切るまいと思ふ、又唯た己れの考へることを談話的に述る計りでなく、玆に証拠立つべき書類が沢山あるから、其書類を重もなる例証として、其間に愚見を挿んでお話をして見たいと思ふのであります
話が前に戻りますけれども、此竜門社は殆と十七・八年の星霜を経て竜門雑誌といふ者も既に百六十四号許り号を重ねたさうでございますが、此社の成立は、申さば私に関係の多い青年の倶楽部といふやうな団体であつて、私の身体が経済に関係が多い所から、此席に集るお方は実業が本分である、得意であるといふことは、私が申上けるばかりでなく、お集りの諸君も自信して居られることゝ、私は甚だ喜ふのであります、併ながら此実業といふものも、唯た其物自身で独立するものではない、又実業のみで世を益するものでもない、此実業の真成に発達して行くには、第一に銘々の身を立て道を行ふといふ、一つの根本がなくてはならぬ、即ち道徳・仁義・孝悌・忠信といふ鞏固なる基礎の上に立つものがなくてはならぬ、是はお互に平生に学ひ得た所に依て己れの行を励磨し、己れの智慧を発達して、其作用からして此実業を大に拡張するやうに考へて行かねばならぬ、経済経済といふ言葉は素より瑕疵あるものではないけれども、唯た単に功利にのみ行趨るといふと、甚しきに至ると己れにさへ益あれば人を突倒しても構はぬといふことになつて来るものであるが、若しも此実業社界が其傾向に成り行くとせば、此青年倶楽部即ち我竜門社抔にては大に注意してこれが矯正に勉めねばならぬことである、ソコで此経済談にも一つの根本がなくてはならぬ、又人は前にいふ孝悌・忠信とか、道徳・仁義とかいふものゝみならず、古を稽へ今を知る、即ち温故知新といふことは孔子のいつてあることで、頗る面白いことである、唯た社交又は文学上ばかりでなしに、総て此時勢の沿革を能く観察するといふことは世道人心に裨補することの多きもので、我々実業家も決して学者・政事家に譲つてはならぬのであります、兎角に今日の習慣が功利にのみ趨る、勘定づくにのみ流れる故に、此実業とか商工業といふ業務の中
 - 第26巻 p.291 -ページ画像 
には、古を稽へ今を知るといふ如き高尚なる思想を持つと、銭勘定が疎くなるといふ弊を惹起して、遂に右等のことは政事家とか学者とかに委して我々は知らぬでもよいといふて、却て我々の区域を狭め我々の地位を低くするといふは、是迄の陋習と私は思ふのである、といつて我々実業家が平凡学者《ヘボ》を気取りて、理窟にのみ趨り、道理は分つたが勘定は足らない、といふて始終人に憫みを乞ひ救助を受けるといふ地位に立つならば、夫は大なる心得違である、故に実業家は先つ一身の業務を精励して、其余力を以て世の中の変遷といふものは斯々るものである、人情の推移といふものは斯ういふものであるといふことを考へねばならぬ、私は元来神道とか仏法とか、又は耶蘇教とかいふやうな宗教に依て安身立命を保つものではありませぬ、浅薄ながらも儒教を修めて、極く消極なる地位に自ら安んじ、総て外物を頼まぬのです、極楽とか天国とかさういふことを望まずに、己れ自身が人間として斯くせねばならぬものだと、それ丈けで安身を定めて居る、何と形容して宜いかまだ形容詞を見付けませぬけれども、単純に儒教に依りて、安身立命を保つて居ります、其間には相当なる哲理も講究し、文学も翫味し、歴史も評論する丈けの智慧は持てると思ふ、而して尚ほ経済は十分に為し得る丈けのものでなければ、真成なる実業家ではなからうと思ふ、但し経済といふ言葉は余り意味が広いから、所謂実業といふことにいつて宜い、併し動もすると実業といふと、慾張りとか儲けづくとか、立派な紳士がさういふ言葉を遣ひ、それを恥とも何とも思はずに居る、慾張りといふのはドウいふことかといふと、財を理することを間違て居るのであるけれども、理財と慾張りとは大変に違ふ、さういふ言語は実業家が自分を卑くするのである、請ふ隗より始めよで、将来成るべくこれに注意せねばならぬのである
偖是までは前叙で、是から本問題に移らふと思ひます、我日本の歴史を往古から攻究して見ましたならば、種々の変化があつて、中世藤原氏が政権を専らにするによりて王朝は全く衰へて、其極源平の乱を来し、それから源頼朝が平家を亡して武門政治に移つたといふことは、大日本史に細かに書いてあるし、日本外史にも国史略にも概略書いてあつて、総て諸君の知つて居ることである、続いて北条・足利と其政権を承継し、足利家の末路に至つては日本は蜂の《(巣の脱カ)》如くに乱れて、六十余州一州に二つも三つも頭領があるといふ如き小封建制度に行趨つて了つて、迚も国の統一抔といふことは出来る有様でなかつた、此時に当りて国の統一に着目して、所謂国家観念の強かつた人は誰であつたかといふと、即ち織田信長であつた、信長は早く天子を戴いて諸侯に号令しやうといふ意念を起し、其兵略に富んで居たばかりでなく、勇敢な気象を有つて居たばかりでなく、幕下に猛将勇卒があつたばかりではないやうです、他の武将に比較して、第一に国家統一の大経略を持つて居たやうに察せられる、信長の兵に妙を得て居られたるに就ては、湯浅常山・太田錦城抔いふ人々も種々評論して、織田・豊臣・徳川の三人の中で信長は一番戦争が上手であつた、殊に奇兵を用ゆることの達者であつたのは、信長ほどの人はなかつた、桶狭間の戦の如きも其一であると評してある、而して信長は、王室を尊んで諸侯に号令
 - 第26巻 p.292 -ページ画像 
しやうといふ意見を定めて、其先鞭を着けた人である、即ち統一心を持つて居た人である、日本といふものをよく見た人である、他の武将は自己の区域丈けを見て居つた、之を商売人に例しても日本の商売を盛んにしたいといふ観念はなくて、只己れ丈けの身代を大きくしやうといふ考を持つのと同じ有様であつたらうと思ふ、併なから信長は残忍な気象で、物を仮借することの出来ぬ、謂はゞ局量の狭いといふのが彼人の瑕疵で、遂に四十九歳で本能寺に於て明智光秀の為めに弑されたといふのは、実に遺憾千万であつた、続いて其後誰が一番勝れて居つたかといふと、種々の評論もありませうが、敏捷な智略を持つて所謂英雄の心を総攬するといふのは、即ち羽柴秀吉に超ゆるものはなかつた、故に信長死後の統一は羽柴秀吉に依てそれそれ組織された、けれども秀吉も矢張真成の政治家ではない、学理的に事物を処理することが出来なかつた、只事物を進めるに長じて居つて、之を纏めることの力が甚だ乏しかつたやうである、遂に其末路に当つて、文禄の朝鮮征伐抔は、日本の国といふことから考察すると、後来の歴史にも記載され国威を海外に宣揚したけれとも、豊臣一家の繁昌丈けを考へたならば、其宜を得て居ないに相違ない、而して其等は大に豊臣氏の勢力を減損するの原因となつて、遂に種々の蹉跌を生し、剰へ奸臣石田小西の輩が段々権を弄ふやうになつて、忠実なる功臣は皆豊臣氏に離れるやうになつた、是は全く文禄の役が原因となつたので、現に石田三成が加藤清正を讒したのも其一例である、秀吉の死後に石田等の画策にて関ケ原に戦争を為せしは、今日より申せば徳川家康に熨斗を付けて天下を進上したやうな処置であつた、併し彼の時に黒田長政が、関東に於る戦評定に第一番に徳川氏へ味方すると発言したとある、両加藤なり、福島なり、細川なり、池田なり、浅野なり七将が、愈よ徳川氏に付くといふは中々の理由があつたことゝ思ふ、又徳川家康も此時の挙動は頗る大胆にて、サア叛くなら叛け、といふ覚悟であつたやうです、平生沈着して用心深い気象には不似合な、奇抜なる行為を致したやうに想像される、此家康も国家統一の観念に富んで居つた人に違ひない、故に豊臣氏の政権はいつともなしに此人に帰して、遂に元和元年に大坂城を亡し、秀頼を殺して天下を掌握した、此頃の世の中は外国の事は頗る疎いもので、西洋の形勢抔は更に分らなかつた、殊に私も西洋の歴史は知らぬから、其時分に英吉利は如何なる政態なりしか、仏蘭西はどふいふ有様てありしか知りませぬが、日本との交通は勿論なかつた、織田信長の時代に、葡萄牙人が来て、ジスエツトといふ宗教を弘めた、此宗教は初め豊後へ這入つてそれから薩摩へ移り追々と九州に蔓延したよふに思はれます、此宗教の這入つて来て、段段と弘めて行つた力といふ者は、余程速にして大なるやうでございます、其事は日本宗教史とかいふ書物に詳細に記載してあります、是は矢張外国人の著述したもので、私は明治の初に翻訳になつたものを一度読んで見ました、今悉く記憶致しては居りませぬが、此程グリッヒース氏著の皇国といふ書物の翻訳を読むで見ると、ジスエツト教即ち葡萄牙人の日本に宣教した有様は、中々長足の進歩をして居たやうです、何でも多い場合には、全国で二十万人許りの信徒が出来たやうに
 - 第26巻 p.293 -ページ画像 
書いてあります、織田氏の末から始まりて、段々進んで来て居るやうです、是等の事を叮嚀に調べて見たら、種々面白き事も、証拠立てるものもありませう、前に述べたグリッヒース氏著の翻訳には、今お話したよりも余程綿密に書いてあります、豊臣氏の時代にそれが大に拡張して遂に全国に渉つて居る、其中でも多く九州・中国或は五畿内、東は仙台位に止つて、北陸道筋へは余り蔓延せなんだらしう見えます其頃には日本よりも追々人を派遣して葡萄牙・羅馬等の往来が余程あつたらしう見えます、何故に此外国交通が俄に徳川氏になつてから厳しく禁止されたかといふには実に一つの疑問である、此問題はまだ明瞭には分りませぬけれども、此程彼のグリッヒース氏の皇国、若くはケンブル氏の鎖国論抔といふ著書の翻訳を見ますると、予て聞及んで居つた事が果してそれが事実らしい、それは即ち此葡萄牙人等が宗教に依て日本を簒奪しやうといふ不軌のことを、其仲間中に申し合せて居つた、而して其密書が和蘭人の手から徳川幕府に伝つて来て、徳川幕府は是は容易ならぬことである、外国は先つ宗教を以て人を誘ひ、段々それを拡張して、遂に兵力に訴へて人の国を簒奪せねば止まぬといふことを聞及んだから、余程強く感して其時の将軍の心にも其他の執政の胸裏にも浸み渡つて、是は全力を以て禁止せねばならぬといふ決心を起したやうに見えます、此等の重要問題はもう少し叮嚀に他の書類からも参考し得られるものがありませうから、追々に調べて見たならば、前に申す如く面白い事も、証拠立てることも沢山にあらうと思ふ、既に文禄の秀吉の過ちは、家康に於ては承知して居つたに違ひない、併なから家康と云ふ人は悪るく評すれは中々の奸物である、又頗る智略のある人である、彼の文禄の役にも征韓諸将の鋒先が思はしからぬ故に、秀吉が自から進発しやうといつた時分に、大阪の評定の席で家康は、大層憤つて、家康が留守居になることならば腹を切つて死する、家康は十五の時から采配を持つた人である、今や五十余であるが、采配をもつてはまだ若い人に負けやうとは思はない、尊公がお進発になつて御覧なさい、日本は忽ち乱れて了ふ、其乱れたる時に当つて私は留守居をして居て、ドウいふ不名誉な打死をするかも知れない、ソンナ不名誉の地位に立つことは嫌だ、寧ろ進んで征韓の任務に従事したい、呉々も留守居たることは御免を蒙るといつて、大阪で威張つたといふことがある、其実は秀吉も進発させず自分も行くまいと思つてやつた手段である、けれども此文禄の役は大変に家康の心中を悩したのである、向後此外攻が進んで行くときは、到底日本の平和は保ち得られぬ、又平和を保つにはドウしても人心を取鎮めるより外仕方がない、此殺伐なる突飛なる気風では、迚も此日本の泰平を続けることは出来ない、斯う考へて居た所へ持つて来た、加ふるに外国人が宗教を以て不軌を図るといふことが聞へたから、此上は十分に鎖国主義を主張するより外ないといふ観念を惹起したでありませう、併し鎖国の真成に行はれたのは家康の時代でなくて、三代家光の時に此事を厲行した、是れはケンプルの著書にもさう書いてあります、又グリッヒース著書にもさう書いてある、前後の事情を考察して見ると、成程鎖国といふことは、実に国を治めるの唯一の策といつてもよい位であ
 - 第26巻 p.294 -ページ画像 
つたかも知れない、但し此鎖国政策は、一方からいふと大に此日本の発達を遅延せしめて、今日東洋にあつて商工業が萎靡して振はぬとか金融が困迫するといつて、我々が頻りに商業会議所で協議するし、他の団体でも喋々するのも、畢竟徳川氏の鎖国制度が我々商工業家をして泣言をいはしむるの原因であるかと思ふと、徳川家光といふ人の墓を発いて、其骨を鞭うつてやりたいと思ふけれども、是は少し無理な愚痴かも知れませぬ
そこで徳川氏は鎖国主義で段々経過して来る中に、西洋の進運は日本が如何に之を斥けよふとして居つても、日に増して相近つくやうになつて来た、即ち彼の渡辺崋山の慎機論とか、高野長英の夢物語とか、其他にも種々海外のことを聞伝へて説をなすものが出来て、又海外の人も追々日本の事情を探知して、之をして是非交通の国たらしめたいといふことを企図し、それが段々と進んで参つて、遂に嘉永六年に米国よりコンモンドル・ペルリが渡航して来たのが開鎖論の起る抑もの初めで、そこで、日本の一体の気運はドウいふやうになつたかといふと、苟くも少しく気力ある者は最初の伝説が先入主となつて居つたから、挙て鎖国といふ議論になり、同時に尊王といふ説が強く起りて来た、蓋し中世以来、就中幕府制度開始後は尊王といふことを忘れるやうな場合が多くあつた、是も無理のないことで、申上るも恐れ多き事なれども、藤原氏の政権を専らにせし頃より御代々の君徳が段々薄くなつて、源平相争ふ時抔は天子は殆ント虚位にあらせらるゝ如き有様であつた、其後北条・足利の時代に当りて政権回復の御場合もあつたなれども、遂に其成功を見ることが出来ずして、徳川幕府の全盛を見るに至つたのである、故に徳川幕府の始に当りて兎角に帝室を押込る様なる処置に出たのも已むを得ざる政略にて、今日では小学校の児童までにも徳川幕府の専横を憎むやうに教へる教師もあるなれど、是は少しく無理なことゝ思はるゝのであります、如何に国君でも、実権を其臣下に委ねたる後は国家の政事に関係せぬのが当然と言はねばならぬ、然るに外国に対することになつて来ると余程困まる、天子と将軍とで一国に君主が二ツある有様になる、私は慶応三年に仏国巴里に行つて居つて、其頃鹿児島藩から千八百六十七年の仏蘭西の博覧会に品物を出した、徳川幕府からも又出品して、幕府は薩藩を臣下の待遇にしやうといふ、所が薩藩の方では承知をしない、幕府は一の藩の如き者であるけれども、薩藩も又一国の大守であるといふことを主張してトウトウ幕吏と薩藩の家来とで談判をして、それに押付けられた、其談判を承諾した為めに田辺太一といふ幕吏は、其時の政府から大に貶黜されたことがあるなれども、これは貶黜した方が無理で、貶黜された方が尤もである、其頃幕府にては外国に対して将軍を大君《タイクン》と唱へたが、大君といふのは頗る奇異なる敬称であつた、大君《タイクン》と読めば将軍なり、大君《オホキミ》と読めば天子となるといふは随分奇妙な称呼であつた、是れが他国に対するよりして名分を正すの必要が生して、遂に尊王の説の強くなる原因となつて来た、だから尊王攘夷といふけれど実は攘夷尊王といふ順序であつた、外国との交際が開けて始めて尊王を気付いた様な者である、尤も徳川幕府の初めから尊王の説を唱へた人は時々に
 - 第26巻 p.295 -ページ画像 
あつて、中にも高山彦九郎・蒲生君平といふ一種の慷慨家が、頻りに幕府が天子を蔑如して政権を弄することを憂へて悲憤扼腕したのも、尊王の先触ともいふべきものなれども、一般人士の尊王を論するやうになつたのは、寧ろ外国といふものゝあることを知つて、それに対するよりして一国に二個の君主がある道理はないといふ処から、遂に尊王論が発達して、事実問題になつて来たやうであります、又攘夷といふ論は其頃水戸で唱へて、随て二・三の有力な諸藩若くは国学者・漢学者抔が之を和したといふ有様もありましたけれども、其原因は前段にも述へたるケンブルの鎖国論の如き、外国人すら斯様な論があつた位であるから、所謂口碑にも伝はり、憂国の人々の心には順次に相伝して来た所の観念と思はれます、故に外国人がやつて来たから、少しく気力あるものは攘夷といふ主義と共に、幕府の行為に対して尊王といふ念慮をも惹起して、尊王攘夷といふ文字は、前に申す通り近頃の民権拡張・実業発達といふ言葉よりも尚ほ強大なる勢力であつたのであります、而して此外国の交際の始まりしは米国のコンモンドル・ペルリの嘉永六年に浦賀へ参つたのが起りであるけれども、ペルリに対する談判は一つの順序にして、日本をして条約国たる位地に成し遂けしめたのが、米国の全権公使タウンセント・ハルリスといふ人である此ハルリスが日本へ来て其使命を果した奉使日記といふ書物がこゝにある、私は過日之を読んで見ましたが、ドウも外国人の日本へ来て、此未開国を開くに就て力めた有様といふものは実に感心なものです、何ともいふにいはれぬ焦思苦心であつて、感佩といはふか敬服といはふか、嘆するに余りありといふへきことであります、ペルリも勿論非凡な行為を以て、或は恐嚇手段もやり、或は慎重自尊の挙動もありてトウトウ国書を捧呈し、又進んで条約の端緒を啓いたが、其次に来て真成に日本人をして外国のあるといふこと、又貿易といふものゝ必要なること、国と国との貿易の条約は斯くするものであるといふ詳細なる手続までも、諄々として教へて呉れたのは此タウンセント・ハルリスである、此ハルリスは安政の――即ち千八百五十六年から六十一年まで、殆と六年間の日本滞在中の骨折といふものは、実に容易ならぬものであります、そこで私は先づ第一にケンプルの鎖国論、其次にグリッヒースの皇国といふ著書の翻訳を、順次に竜門雑誌に記載せしめて、諸君にお目に掛けるやうにしたならば、大に諸君のお慰みにもならうと思ふのであります、独りお慰みばかりではなく、所謂古を稽へ今を知るの一端ともなりはせぬかと思ふのであります、それから続いてハルリスの奉使日記といふものは、前にも申す通り頗る面白いものですから、之を抄録して御覧になるやうにしやうと思ひます、尚ほ是に続てモウ一つ、英国公使のアールコツクの日本に於ける奉使三年記といふ書物がある、これも追々に抄録する積であります、而して其次には更に進んで、彼の当時に有名なりし英国公使パークスの日本に対する処置、それからモウ一つには、恰も其頃反対の側に立て種々周旋せし仏蘭西の公使レオンロスの挙動、其他にも、日本の開国に関して尽力した各国の公使もありますけれども、先つ大別して最初の誘導が米国のハルリス、第二の骨折が英国のアールコツク、それから続いて
 - 第26巻 p.296 -ページ画像 
英吉利のパークス、仏蘭西のレオンロス、此外に長崎又は下田に来りて種々尽力せし露西亜のプウチヤチン又は和蘭其他の国々の人もありますけれとも、それほど特筆大書する程のものはないと思ふ、抑も日本近代の外交が元亀・天正から元和・寛永までの間に、或は大に進運の場合となり或は俄に之を攘斥するといふに立ち至りしは、歴史上大に注目すべきものである、それで此ケンプル著の鎖国論、グリッヒース著の皇国論といふものは其一張一弛に関して大に参考となるへきものと思はれます、それから続いて今日の開国に一番の近い端緒といふべきものは、嘉永六年ベルリの渡来である、其次は安政元年より五年までの此ハルリスの奉使日記で、時代は其間に少々の隔絶はありますが、海外に対する関係は是等の書類を見ると、大に理会し得るやうにならうと思はれます、故に追々に之を竜門雑誌に記載する積であります、序に申上けますか、此翻訳書は実は私が他に一の大著述を致させたいといふ考を以て、其担当の人々の手にて頻りに書類を調べて居る者がある、それは即ち外交に大なる関係を有つて居ります為めに、ケンプル著の鎖国論も、グリッヒース著の皇国論も、ハルリスの奉使日記も、アールコツクの奉使三年日記も翻訳させたのである、蓋し是は其著述の参考に供する者であるから、著述の本文の出来ぬ前に之を竜門雑誌に出すのは少しく早計のようなれとも、敢て大なる妨はございませぬ故に、折角翻訳が出来たから追々之を諸君に示して、古を稽へ今を知るの一助に供したいと思ふのであります、就て私は一言竜門社の雑誌編纂に従事する人に望むのは、迚も此各翻訳書を一時に出す訳には行きませぬから、今夕申述へたる談話からして順次に掲載するやうにありたい、但し或場合には私が評論又は註解として多少の説を加へることもあらうと思ふのです、殊に此ハルリス又はアールコツクの事柄抔は、丁度私が尊王攘夷を唱へて頻りに諸方を奔走して居た頃であるから、此年には私は斯ういふことを為しました、又此時には私は斯く考て居つた、此事柄の関係は斯うであつたといふことをお話すると、それ等と相照応して一つの証拠となつて、幾分か興味があらうかと思ひます、又或場合にはハルリスなりアールコツク抔が日本に対する経営に就て、未開国を誘導するの勤労は如何なるものなりしや、今日我日本の駐韓公使などは何等の挙動を為し居るかといふ考が起る、今日の風俗は政治家・外交家抔いふものは嘘が資本のやうに心得るがハルリスはさうでなかつた、竜門社員一同御互に実業家も嘘が資本ではない、誠実が資本である、之に反し政治家は少しく嘘をいふものだと思つたが、ハルリスは外交上少しも嘘をいはぬで其目的を達したのを見ても、大に益になることがあるかと思ふ、私は右等の廉々に就て所々の幾分かの評論註釈を加へて見たいと思ふ、今夕の談話は是丈に止めて置きまして、是よりはケンプルなりグリッヒースなり追々に抄録して、其一章一節にて丁度一箇月位の時日は経ちませうから、毎月次会に申し述べることにしましやう、もし又毎月これはかりて倦むやうなら、他の席で述べて之を書かせても宜ひと思ひます、今夕の談話は前以て充分の腹案がなかつたからお話が錯雑したやうですけれども大体の趣意は御会得下されたかと思ひます
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渋沢栄一 日記 明治三五年(DK260055k-0004)
第26巻 p.297 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十八日 晴
○上略 八時過兜町ニ抵リ、竜門社月次会ニ出席シ、前回ニ演説セシ外交談ヲ継続ス ○下略


竜門雑誌 第一六四号・第三八―三九頁 明治三五年一月 ○本社月次談話会(DK260055k-0005)
第26巻 p.297 ページ画像

竜門雑誌  第一六四号・第三八―三九頁 明治三五年一月
    ○本社月次談話会
本社月次談話会は、例の如く去一月十八日午后六時、日本橋区兜町なる渋沢家事務所楼上に於て開会せられ、青淵先生・渋沢社長を始め社員五十余名出席し、青淵先生には前回に予約し置きたる独逸人ケンプル氏の日本鎖国論に就きて論評を加へ、所感を述べられて、大に社員の感動を引き、和気靄々の裡に午后十時過き退散せり、因に記す、当夜の先生の講話筆記及ケンプル氏日本鎖国論の本文は、次号の本誌に掲載せん、尚ほ当日出席せられたる社員諸君の芳名を録すれは、左の如し
 青淵先生  社長 渋沢篤二君
 社員(出席順) ○下略


竜門雑誌 第一六五号・第二三―三五頁 明治三五年二月 ○青淵先生近世史談(其二)(DK260055k-0006)
第26巻 p.297-306 ページ画像

竜門雑誌  第一六五号・第二三―三五頁 明治三五年二月
    ○青淵先生近世史談(其二)
 本年一月十八日午后六時本社月次談話会に於ける青淵先生の講話筆記
甚た遅刻をして御待たせ致しました、前席より述べ来りし此日本の開国に関する事柄の細かなことをお話しやうといつたら、余程学問的に昔しの歴史から充分な調をせねばなりませぬでありませうからして、私はそれ程までの叮嚀なお話をしやうといふ考ではないのです、併し此三十四・五年以前、即ち維新の時の国論が開国と定つて、而して其以来の日本の制度文物が急激に大進歩を為したいふのは、丁度物を抑へて置いたのが遽かに変して、其矯めた力が強く反動したといふやうな有様から、国の文運を大層迅速に進めたといふことは、事実に照して能く見えますので、其開国に至らしめたといふことは、最初の鎖国といふ一つの原動が強い反動を惹起したのである、又其鎖国の原因はドウであるかといふことを、歴史に就て研究して見るは頗る面白い仕事である、丁度前席にも申した通り、私が他の関係から種々の取調をして見た所からして、それ等に就て大に発明したやうに考へることがありますので、此意見を竜門社の諸士に御話申して見たいといふので玆に各種の書類即ち翻訳等に依て出来たものを叙述するといふ考案を起したのでございます
前席に述へました事柄は、此所に筆記も出来て居りますから、是は多分当月の竜門雑誌を以て、皆様にお目に掛けるやうになるでありませう、是から先きは私の意見をお話するといふばかりを主と致しては興味が薄いので、先達述べた如くケンブルの鎖国論、若くはグリビスの皇国といふ書物から翻訳した其抄録、又はハルリスの奉使日記、若く
 - 第26巻 p.298 -ページ画像 
はアールコツクの奉使三年記といふやうな、開港に大関係のある書類を訳述してあるものをば、追々此席に於て朗読し、且つ其朗読の間に私の愚見を所々に添へて、号を重ねてお話をして見やうと斯う思ふのでございます、今晩はケンブルの鎖国論を一つ読んでお聴に入れるやうにして見ませう、此ケンブルの鎖国論といふのは、福地源一郎即ち桜痴居士の訳されたものであります、意訳であつて文章は甚だ面白うございます、併し此原文と照して見たならば、翻訳としては多少不適当だといふ嫌があるかも知れませぬ、蓋し意味は誠に明瞭によく分るやうでございます、但し此翻訳書は一度他の席で読んだことがありますから、或は今晩御列席のお方でお聴になつた人もあるかも知れませぬが、其重複は敢て論ずる所でなからうと思ひます、此鎖国論からして、前席にも述べた通りに追々篇を重ねて他の訳書まで、竜門雑誌に依て皆様にお目に掛けやうと思ふ、其間に私の関係して居る(ケンブルの鎖国論時代には関係はありませぬけれども)書物に就てはそれ等の関係、若くは其本文に就て考察を下してお話をしやうと思ふのでございます、今晩は先つ朗読に止めませう
      撿夫爾鎖国論 抄録
 ヱンケルベルト・ケンフル、ハ独逸リツペノ人ナリ、医業ヲ修メ、周遊ヲ好ミ、元禄三年和蘭ノ医師トナリテ長崎ニ来リ、甲比丹《カピタン》ニ従ヒテ東上スルコト数回、深ク日本ノ歴史事情ヲ研究シ、居ルコト数年、帰後日本志ヲ著シ、欧洲諸国ニテ之ヲ翻訳ス、享保元年長崎訳官志筑忠雄、原書ニ就テ其神髄タル議論ノ一部ヲ訳シ、撿夫爾鎖国論ト題セリ、今其訳稿ニ拠リ之ヲ抄録シ、校訂ヲ加ヘテ此編ト為ス
欧羅巴に於て初めて日本の事を記せしは、有名の遠遊者たり威尼斯《ウエニーシア》のマルコ・ポーローの記行にヂパングー日本国と云へる島これなり、実は諸島を合称して日本とは云へるなり。許多の港湾あり、海峡あり、又遠く地中に入来れる海ありて彼此の地を隔離し、其形は稍々不列顛・愛蘭に似て、遥に東洋の絶域に在り。造化は又日本に恵むに勝れて暴猛危険の海を以てし、幾と行て到る可からす、攻めて克つ可からさるの地たるを得せしむ。是故に南方諸国より渡来する海舶は、周歳の中多くは暴浪逆風の為に碍られ、我徒の航行に用ふへき日は僅に少許の間なるのみ、巌石の多き海岸に接するに曲隈浅水の充満せる海を以てし、大船を繋くに所なし、唯一個の良港ありて稍々巨大なる船を容るるに適する所あり、長崎港即ち是なり。然れとも長崎の港口は極めて窄小にして、東西に迂廻し熟練の舵師か砂洲・暗礁を詳知するも、猶その航通を危難とする所たり。此外には更に良港あるを知らす、仮令これあらんも、日本人は好生の心を推して之を我徒に知らしむること莫かるへし。凡そ我徒の大洋を航するの危難災害は特に台湾・琉球の辺に於て甚しとす、其実例の多き之を枚挙するに遑あらす、往時葡萄牙人が日本に交通せし頃は、航海の術未た発達せさりし時とは云ひなから、三艘の商船を日本に出し、其二艘は覆没し纔に一艘のみ恙なく到着せしを以て、尚有幸の結果なりとせり、以て其渡航は常に危難と相伴ひて離れさるを知りぬへし
日本の土地に人民の衆庶なるは、言語も及はさる所なり、大きからぬ
 - 第26巻 p.299 -ページ画像 
城市に斯る莫大の人数を容るゝこと、殆と理外なりと想ふ人もありなんか、其諸大路の如きは村落と城市と連続して凡そ一列なるか如く、纔に一郷を出れは則ち直ちに他の一郷に入り行て、数里を経るも唯々一条の街市の如くにして、実は其衆村の連貫に成るを覚えさるなり、是唯々往古は別々の村落なりしも、今は相連りて一大邑の状を為し、旧に仍りて其村名を異にするのみ。又日本には城邑頗る多し、其最も大なる城郭の広大壮麗なる、其市中の住民の衆庶なるは、以て坤輿各国諸城市中の最大に列すへし、其一を京都と云ふ、神聖皇帝の居所たり。縦三辰路許一辰路は我半里に当る横二辰路許、その市区は体裁甚た整ひて諸街の区画最も方正なり、其二を江戸と云ふ、実権帝王の居所にして実に全国の首都たり、余は敢て是を世界に隠れ無き大城市の都府なりと云はん、既に余か実験に徴するも、城下の口なる品川より駕して、疾ならす徐ならすして大道を通過せしに、其道は微しく屈曲せりとは云ひながら、終日にして未た其一方の城外に達するを得さりけり
日本人に一個の気象あり、之を名けて胆気とや云はん英気とや云はん讐敵の為に敗られて打負たる時、または怨を懐きて之を報ふること能はざるに至れは、精神泰然として自ら強手を其腹に加へて自殺すること難しとせす、其生命を軽んする寔に是の如し。其内乱の跡を攷究すれは実に駭くへき事とも充満せり、以て昔時よりして日本人は各々勇気第一たらん事を希ひしや明白なり、其歴史記るす所に拠りて義経・清盛・楠・阿部仲麿、及ひ其余名誉ある豪傑の大武功談を聞かんものは、日本人か勇気を自讃する猶古羅馬時代に於けるか如くなるを信知すへし。此に当下の一証とするに足るへき事跡を記さん、即ち薩摩の少壮武士七人か異国に出て和蘭人に対し稀有の働を成しゝ事にそあるいて其頃は一六三〇年寛永七年の事なりけるか、其頃まては日本も尚四方に通交し、国人は随意に異国に往て通商しける時なりしかは、一個の日本商船は交易の為に台湾に行けり、後にこそ台湾の地は支那人に経略せられて今に至るまて支那所領とはなりつれ、其頃は和蘭の占領地にて、当時和蘭よりピートル・モイツと云へるもの赴任して台湾の刺史たり、此刺史は遺恨ありての事にや、彼の小さき商船にて渡来の日本人を痛く残酷にそ取扱ひける、日本人思へらく、己れか身は差して言ふにも足らねとも、斯る取扱に遇ひて我主君の恥辱にこそあれとて国に帰りて其由を主君へ歎き訴へけり。斯る忌々しき恥辱を南蛮人に受て報ゆへき様も無かりける程に、彼の主君は大に憤りける所に、其衛士等の申しけるは、我君もし我等に此讐を報ひ、君の恥辱を雪く事を許し玉はすは、我等は永く君の侍衛たること能はし、我等願くは彼の無道者の血を以て此恥辱の汚穢を洗滌せん、彼の凶賊の首級を持帰りて実験に備ふるか、然らすは生捕にして君前に引連れ見参に入れん程に随意に仕置きなせ玉へ、此事を挙行せんには我等か中にて七人あらは足りぬし、海路は危険なりとも、城郭は堅固なりとも、何事かあるべき、仮令彼に許多の侍衛ありて防戦すとも、我等が無念を霽すなる鋭き刃には争てか敵し得べき、彼等は南蛮人なり、我等は日本人なり、神の御末なりとて、頻に請ひ願ひて遂に許容を得てけり、是れ実に大胆の誉なりと雖も、彼の七人の武士は謹慎して事を謀り、勇気と
 - 第26巻 p.300 -ページ画像 
機変とを以て之を為し遂けたり、さて彼の七人は海路順にして恙なく台湾に達し、刺史に謁して其前に進むや否や、一斉に刀を抜連れて刺史に迫り、之を擒にして白昼に己れか船に引立て打乗せたり、刺史の衛士・家族等は目前に居並ひたれとも、少しにても此武士等に刃向ふ者あらは即時に刺史を刺殺さんする勢なれは、之に恐れて敵対ふものも無かりけり
 此一条は浜田弥兵衛兄弟か、長崎の末次平蔵か為に台湾に渡海し和蘭の奉行を生捕り、長崎に連れ来りしを、撿夫爾か薩摩の事跡と聞誤りたるなり、されとも事実は凡そ此の如し
愛憎栄辱の際に当りては同僚相助けて子孫に至る迄も是を守り、一たひ結ひたる遺恨の意趣は子々孫々相受けて互に仇敵の念を為し、両党の内にて其一を滅し殲すに非されは止むこと無し、其民俗は是の如くにて、勇智果断に於ては決して撓む所あるへからす。昔時日本の国権は烈しき争乱の長く打続きて、其争ふ所となりけり、而して其原を尋ぬれは、源平両党相分れて戦を構へしに起り、其事こそ日本人か怨を含みて讐を報ゆるの念深くして、極めて妬ねきの証と成すへけれ、平家は戦に打負けて最も痛しき最期を遂たりけるに、源氏は尚も平家の遺族を捜索し、其根を枯らし其葉を絶すに非されは、枕を高くすること能はしとて、厳しく詮議を行ふ程に、辛くして死を遁れたる平家の遺族は僅に数人にて、夫も潜匿の為に僻遠の地を求め、豊後の山奥の人も往通はぬ深山の中に隠れ住み、其禍を避けたりけり 此子孫近き頃に至りては漸く世に顕はれしか、洞穴に住居したりと云へり、今は己等自らも名家の後裔たるを打忘れ、霊明の心は皆消失せて人に類せず、却て猩々の類に近かりしなん云へりけり是は肥後五家の山奥に平家の子孫ありと云ふ説を、聞伝へたるものならん
日本の地は天与の要害に堅固なるを以て、今に至るまて外寇の恐るへきもの極めて少し、罕には外国の来襲ありしと雖も、嘗て其利を獲たる事無けれは、凡そ此勇猛大胆なる日本人は、曾て命令を外国に仰きたる事なし。既に一千年前桓武帝の御宇に大韃靼の無庭より撿夫爾自註に曰く韃靼の無庭とは其地の広大なるを云ふなり日本の浦に押寄せたり、其攻撃は迅速にして敵軍早くも上陸し、切所を取切て本陣としける程に、日本人も是を退治すること甚た難りけり、其故は彼等合戦に及ひ屡々敗軍して其勢を減する事あれとも、日を追て韃靼より新軍を送りて後援と成しけれは、五十年の久しきに至るも、韃靼の兵は日本の地に拠りて動かさりけり。然るに七五九年延暦十八年国の守護神の威力冥助と、日本軍兵の鋭き勢力と一斉に起張して、終に彼等を全滅しけり、日本の歴史は此事を記して曰く、千手観音は暴風雨の夜に当り、其許多の手をもて敵の軍船を沈没せしめたれは、日本の大将坂上田村麿は其翌日神明の擁護に由りて敵を攻立たり、敵は元より狼狽して力を落せる折なれは、進みても幸の望むへき無く、退きても頼むへき所なく、田村麿に攻られて射殺され斬殺さるゝ程に一人も生て帰るもの無く、此大敗軍の音信を伝へて告るものさへ無かりけり。第二回は後宇多院の御宇、即ち一二八一年弘安四年に再ひ斯る例ありき、其頃大蒙古の忽必烈汗元世祖《クビライカン》は既に支那を平定し、万将軍の議を用い日本をも兼併して其有に為さんと欲し、乃
 - 第26巻 p.301 -ページ画像 
ち彼の将軍に大船四千艘軍士二十四万を授けて撿夫爾自註に云く、支那の記には十万とあり日本に押寄せたるに、此水軍は日本の浦にて烈しき暴風雨に逢ひ、強大無敵の軍船も船に乗れる軍士も、皆打砕かれて海底の藻屑とはなれりけり。此二寇の外には日本か手痛く外国より攻られし事も無く、又随て歓喜すへき程の大勝利を得たる事も無し、概して言へは日本人は戦場に於て勇敢謹慎、その謀略に虧る所なく、軍法厳にして次第を紊さす、宜く将師の命令を聴て進み、敢て之に違ふ事無し、是れ余か自ら信して人に伝へ知らしめんと欲する所なれは、後世に至らは自ら天下に明白せられて、日本人は畏れ重すへきものと成るへし。凡そ国家大平を受るの久しき、静謐の打続く今の時の如くなる時は、他の諸国に在りては是よりして多く懶惰・怠慢・弛緩・遅重の弊を生し、漸くにして転して怯懦の風俗を為すの恐ありとす、然るに日本に於ては独り其憂あるへからす、其故は日本人は常に古英雄の大功偉勲を欣羨し、其言行を服膺し、戦に臨みて勇烈を喜ふの気象を養ひ、名誉を天下後世に遺すの志望を磨くこと甚だ切にして、其子弟を教育するにも剛と勇とを以て第一の重訓と為し、力を竭して之を其幼心に銘刻するを肝要なりと思惟す、されは孩児か号泣する時は、父母は毎に軍曲謡曲の事かを謡ひて之を靖め、学童に教ふるには殆と他書を雑へす、専ら古英雄豪傑の事跡、及ひ義に仍りて自殺せし勇士の遺書等を読ましめ、以て幼穉の時よりして剛胆勇気を養ひ、義を重んし死を軽んするの気節を長せしむるなり、父兄長者か集会の時の如きも、話題は古人の武功談を以て第一とし、史編の記する所を語りて委曲の微に至り、各々之れか為に感慨に堪へさる事あり、其令聞名誉の為に心魂の酔ふを覚ふるは、醇醸の良酒に於けるよりも甚し
日本にては国家不虞の警戒として、山頂に烽火を揚けて以て急変を報する事あり、是は国家危急の変事の起りたる時か、若くは帝より諸侯に令して即時に部下の兵卒を召集する時に限るなり、一朝この烽火の揚るを観るに際すれは、諸人皆争ひて馳出し、着到第一に記録せられんことを望み、武器を携へて其場に到り、己れか陣所を知らんと欲するもの急なるに堪へす、彼此互に先を競ひて聴命の第一に当らんと冀ひ、其功名を好むの盛なる、最も戦闘に困難なる地を択ひて此に向ひ時としては為に其身の不利を招き成功の讃称すへきを得さる事ありと雖も、勇士の心は敢て之を顧みす強て其命を請けんと願ふめり。日本人は又鋭良の兵器に乏しからす、遠く戦ふには強弓あり、鳥銃あり、手と手と相交りて接戦するには槍あり刀あり、別て其刀の鋭利なる一撃して人体を両断するに容易なり、されは其上作良鍛の名刀は之を異邦に売り又は之を国外に贈るを禁すること日既に久し、之を売るものは磔刑たり、其事に与るものは死刑たり
日本人は能く勤励し、能く艱難に耐へ、鮮少の衣食を得て能く自ら足れりとす、賤民の如きは草根亀鼈螺蚌及ひ海草の類を以て生を養ひ、裸頭跣足して歩行し、水を以て常の飲とし、或は襯衣を着さる者あり頭を安んするに柔かなる長枕も無く、平面に寝て枕に代るに木の小断又は木笥の中の微しく窪めるか上に其頭を置き、又時としては終夜寐すして艱難に堪る事あり。然り而して日本人は大に礼儀作法を重んし
 - 第26巻 p.302 -ページ画像 
極めて其身を清潔にし、其衣服を清浄にし、其家屋を整頓にす
日本人をは怯懦なる支那人の血統なりと想像せんは、其理に当らさる実に遠し、余は自讃す、若し従前の遊歴者の言説に固執する事なく、努めて国俗人情の根源を尋ねて、日本人種の来る所を攷究せんと欲する人あらは、余か言ふ所を首頷すへきなり、抑々日本の俗は遠く韃靼の性質より出て、文華と礼儀とに由りて大に都雅に移れるものなり、其気象は韃靼人の勇烈猛悍なるに、支那人の快活温和なるとを相合せたる所ありとす
以上挙示せる許多の大特色ありと雖も、日本人もし其国境内に於て一切みな平和安穏にして爾も遂生の満足を得るに一事一物の欠る所ありせは、日本人が其力を竭し其勇を揮ひて以て国域を守り、外寇を防き得るも、之に由りて鎖国を永遠にし海外に通交せさらんと欲するは、素より皆徒為の計策に属すべきなり
鎖国以来造化の良師は、日本人に教ふるに自存の術を以てし、日本人も亦之を覚知し、大に其土地所生の物を使用し、之に由りて生存を全ふするに足れりとし、外国より舶載の物件を見て敢て其生存に無用なりとす。されは凡そ此日本国の福地たる事を熟察せんと思はん人々は今余か此に叙る所の信実なるを知らん。先つ第一に日本の地は気候他に勝れて中正なれは、其利も亦決して寡からす、南国の如き熱日にも晒されす、又北国の如き極寒の凝凍も無し、日本諸国土の肥沃にして嘉すへく楽むへきは、勿論北緯三十度と四十度の間に若くは莫し、或は云はん、日本は嶮岨巌石の地にして、峻峰高岳の囲繞し蟠結する所の多けれは、非常の勉労を用ふるに非さるよりは楽地を得るに難かるへしと、此点に関しても造化はまた日本に与ふるに特別の徳施を以てせり、其土地は此の如くに嶮難なるにもせよ、其耕耘は此の如くに艱苦なるにもせよ、其艱難は日本国民か能く労勤して之に打勝ち、其功を収むるの気象に富めること即ち是なり、況んや其地は山岳の多きに拘らす、本来沃土なるか故に、如何なる小丘たりとも如何なる高山たりとも、之を開拓し之を耕耘すれは、其産出の豊饒なるは優に農夫の勤労を報賞するに余りあるに於てをや、爾のみならす、枯痩の地にして殆と耕作に適せさる所と雖も、敢て全く不用なりとせす、孜々として之を鋤犁し、以て多少の収獲を得るに汲々たり、其国民の衆庶にして懶惰を悪むや斯の如く夫れ然り。是故に日本国中いかなる境にても若くは海若くは陸より得る所の許多の品物を以て其用に供し、啻に生命を保つのみならす、併て以て其娯楽・翫玩に供するの術を知れり、試に日本人か日常食膳の上を見るも、兎さま角さまに調和して諸物大底備《(抵)》はらすと云ふこと莫し、他邦に在りては憎忌する所の物も、日本に在りては多くは却て美膳の分と成れり、其山林・沢沼・野原に生する諸草諸根は、以て驕奢の粧具とも成るへく、以て食卓の佳品とも成るへし、海産の諸種蝦蟹螺蚌鷠鰂及ひ諸海草の如き、皆調理の巧に由りて食膳の美味と成り、或は有害と疑はるゝの魚類も、其調製の研究に由りて良食と成るものあり、是れ造化か初より之に与ふるに此用供を以てするに非す、実は日本人に附与する穎敏の智能と黽勉の気象とを以てし、土地瘠磽の所に在るも、尚便宜に欠く所なからしむものな
 - 第26巻 p.303 -ページ画像 
り、然らは則ち彼の熱帯中の諸邑に生息する黒色の人種か天与の幸福に依頼して其生活を為し、懶惰愚痴に堕落して幾んと禽獣に異ならさるの境界に在るもの、恰も日本人と反対の地位に立つものなりと云ふへき歟、或は又云はん、日本人か其国境内に生息するは猶囚獄に在るか如し、他国と通交通商するを禁せられ、又其全地は分裂して殆と無数の島嶼たり、日本人の不幸これより大なるは莫しと、是れ未た造化の妙用を知らさる非難なり、日本に許多の島嶼ありて、聚りて一国を為すは、猶種々の方域ありて聚りて此坤輿を為すか如し、土地に応し所在に随ひて、種々の物品を産出して人世の用に供するか如く、日本各州各島の産物は日本全国相互に供用して不足を告る所なし、試に其二・三重要の物品を挙示せんに、奥州・佐渡・駿河・薩摩に金あり、北国・備後に銀あり、駿河・伊予・紀伊に銅あり、豊後に鉛あり、備中に鉄あり、筑前は石炭を供し、小野は木炭を供す、硫黄島の火山は夥しく琉黄を噴出し、其他にも産出甚た多し、肥前に一種の白堊あり各種の陶器を製するの原料たり、土佐・安芸・小原は薪の産出に名あり、長門は牛を産し、奥州・薩摩は馬を産す、加賀は米穀豊饒にして筑前に栗多し、若狭は柿及び其他の菓実を供す、隠岐の海浜は螺蚌を生する特に夥しく、西山は海草及び海底の物産に富めり、是等を初として凡そ日本全国到所の海浜に種々の魚類饒多ありて国有となり、諸穀諸蓏の農産に至りては諸国にて収穫し、其他許多の物品にして器械若くは衣服若くは家屋什器の原料となるもの枚挙するに遑あらす、真珠は大村の海湾に生し、竜涎は琉球・薩摩・紀伊の海浜に在り、水晶宝石の類は甲斐・津軽等より出つ、又其山岳渓谷は幾多の高低を為して、其地質と寒暖とを異にするか故に、其所に応して諸種の草木繁茂し、医薬を求むるに当りては、殊更に之を外国に要するを用ゐさるなり、又百工の器物を言はゝ、粧飾となく用具となく其物に乏しからす其製作に於ても豈啻に其職工の能者を外国に仰くを待たさるのみならんや、日本人の製作技芸に精通して巧妙なるは、欧洲の技術に超越す中にも金銀仮鍮青銅に於て勝れりとす、又生鉄銅鉄の如きも、其鋳造鍛錬の術に妙を得たるは、其武器・武具の精良なるにて之を知りぬへし、又諸像を彫刻し紅銅を金色にするの巧妙なるは、東方諸国の遠く及はさる所なり、是れ銅に少許の黄金を交へて之を製するの術なれは之を以て製作する器物の初めて職工の手より出たる時は、宛然黄金の如くにして其色沢の美なる実に真の黄金に異ならす、又日本人か〓を織るの精巧にして其光滑なるは、支那人と雖も之に擬すること能はす蓋し朝廷の大臣、事に坐せられて遠島に配流せらるゝ時は、他事を営ます専ら〓を織りて日を送り、其鬱懐を慰るもの多しと云へり、又飲料を酒と名け、米を醸して之を造るに、其味の芳烈なるは支那酒に勝り、食膳の調味の如きも亦支那の割烹に超越せり、其所生の芳草を摘来りて味を和するか如きは、実に日本料理の特色たり、紙は楮皮を以て之を製するに、其質の堅勁にして色の純白なるは支那の竹紙・綿紙に勝れり、人家の粧飾若くは用具の漆器を見るに、其美麗なる実に驚嘆に堪へたり、支那人・東京人《トンキン》か思を凝して製作するも、未た曾て日本人の製漆と塗法の巧妙にして敏捷なるに及ふこと能はす、彼の《シヤムロ》暹羅
 - 第26巻 p.304 -ページ画像 
人の如きは国中に漆樹群生すれとも、其懶惰なる、漆に於て使用する所なし、其日本人と賢愚の相去る如何そや、此に又知るへき事あり、日本百工の製出する所は、其日用品たると粧飾驕奢品たるとを問はす其品同しからされは其価も亦自ら一ならす、以て其国内に於ける製造の夥しくして通商の大なること、言語にも及ひ難きを知るへきなり、嗚呼日本全国所々の商賈は如何に熱閙ならん、如何に勤労するならん其浦々には如何に船舫の輻湊するならん、其城市には如何に商賈の繁栄するならん、其諸港湾は人煙稠密にして船舶の出入して櫓を操り帆を揚るの喧しき、或は商務の為にし或は行遊の為にす、去れは知らさるものは之を見て、日本国中の人民は尽く海辺に居住し、陸地の方は全く無人の郷にやあらんと疑ふはかりなるへし。但し日本船の製作を見るに、船身に竜骨なくして、船体の上面は皆開きてそある、是れ其船をして沿岸より大洋に出ること能はさらしむるか為なり
此に日本人か学問修業の事を云はんに、或は智者これを以て文明に不足なりとせんか、請ふ余か言ふ所を聴け、日本人は学問文芸を憎み、是を修するの徒を国外に追放するか如き国に非すと雖も、唯々之を以て娯楽消閑の具と為し、隠士逸人か鬱を散し悶を排するの用をなすに過きすと云へること普通の観察たり、是れ詞賦文学の事、智徳の学科に至りては日本人か大に尊重する所にして、其源を上天に発せりとす是れ実に無比の聖人孔子の遺沢なり、孔子は我欧洲人か呼て『コンフシュース』と云へる人にて、ソクラテスに先つ百年前に支那に生れたる大教主なり、ソクラテスは、希臘人か此人初めて上天の啓発を得て人倫の道を弘通せし聖哲なりと云へる大智者なり、而して孔子の学は頗るソクラテスに相同しきか如くにして、日本人の倫理智識は実に此学に根拠するものなり。但し音楽の事に至りては日本人は甚た不能なり、是れその音声符合の格を基として立つるの学術たるを研究せさるが故にやあるへき。日本人はまた審定の学を知らすして、殊に事理の深奥を尋ぬるの術に疎し、蓋し其学理を修めて攻究に其功を積み、象数審定に微妙の光輝を発し、論議講明を以て其智識を荘厳するを嗜むこと、我欧邏巴人に若くものなし、是れ天を知り天を信するの道に出て、悟道安心の助と成るものなり
然るに日本人は極重刑を示して宣告して曰く、祖先の教法を棄て彼の所謂天主化して人と成り、衆生済度の為に磔刑の辱を受けたりと云ふなる、新にして奇怪なる教義を奉する事を禁せり、今は既に百年許になりぬ、往時基督教法日本《キリシタン》にて全盛なりしか幾程も無くて滅亡し、是か為に教法に殉死せし者其数を知らす、是れ実に彼の基督教法師等か願心勇猛の弊に出たる禍悪よりぞ起りける、余思ふに若し彼の「ゼスウイット」派の法師等、日本に於ける布教の基本未た固からさるを知り、深く慮りて其用意を縝密にし、敢て過大の規摸を一時に拡張する事無く、着々其地歩を占めて漸次に進み、勤勉これに従事したらんには、基督教法は次第々々に弘通して、終には彼等か本国より伝道の報賞をも得るに至らましを、纔に少しく其立脚地を得れは乃ち其功を収め其幸を求むるに急にして、正路を履むの遅々たるに堪ふること能はす、日本の風俗を変遷して成功の速ならんを食り、加ふるに利慾の為
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に毎に其教法に雑ふるに他の俗事を以てし、遂に己等か渡来せしめられたる本意とは天地懸隔の差異ある悪事をさへ勉めける程に、其伝道は纔に微しく成し得たりと見えつる間に、自ら其禍を招き致して忽に謀計の根拠を失ひたり。凡そ偶像崇拝家の趣意は、苟も其国家の政治に妨害ありとだにせされば、何れの教法をも悪ます、又異教の伝道者を容るゝ事を嫌はさるなり、日本は素より教法なきの国に非す、其国中許多の宗派ありて神を敬し仏を信し、之に奉事するの法式も一様ならす、余は断して曰はん、日本人の善を勉め行を潔くし、神仏に事ふるや其信仰と云ひ容儀と云ひ、何れも皆「ゼスウィツト」等か企て及ふ所に非す、霊魂安楽の事に至りては其心を用ふるや殊に大なり、自己の罪悪を懺悔して未来の幸福を願ふの一段に於ては、豈また教を外国に受るを待んや。又日本の医術は外科よりも内科に巧なり、其外科には又欧羅巴の流をも用ふるなり、然れとも医の治術を施すや多端ならす、外科は火と鍼との二つなり、此二つの功力は甚大なりとす、又病根を滞寒と名け、滞寒して痛を為すを風と名く、医薬は能く此病根を追出し風をして其牢檻を脱するの通路を得せしむなり。其日々湯浴を数々するは純粋なる奉神の一道にして、且は天性清潔を好むに任せて大に之に心酔し、過度の湯浴を頻りにす、然れとも之に由て其健康を保ち免れ難き許多の疾病を除き、其功力は実に偉大なりとす。日浴の外日本には善良なる温泉所々に在り、緩慢の疾・憂鬱の症なる患者を浴療せしむること、恰も我欧洲諸国に於けるが如し
或者は又云はん、日本人は民刑の裁判に不能なりと、余は云はん、我欧邏巴人も亦民刑の裁判に不能なること日本人に同しと、何となれは裁判は斯く必用の術たるに拘らす、無辜の寃罪に罹りて重刑に処せらるゝもの、我欧洲に於ても屡々此過誤あるを以てなり。凡そ日本のみならす東洋諸国には裁判を受るの捷径あり、彼の諸国に於ては欧洲の如く訴訟に多事なるを要せす、訴状・答弁・抗議・催促等の煩を須ひす、直に其事由を法廷に具申すれは原被両造の言を聴き証拠を糺し、委曲を計較し時日を廻さすして決断を下し、復た高等法廷に召喚せらるゝの恐なし、如何となれは彼地にては苟も法廷とし云へは、初審の小法廷にて判決せし事を、大法廷たりとも之を覆審するを得されはなり。斯る簡易の判決を以て訴を断する時は、事理複雑の訴件に遇へは裁判に過失なきを免れさるなりと言はゝ、余は敢て之を否とは言はす但し是を将て欧洲諸国の裁判遅慢にして費用多く、大に困難を感するに比すれは、其損失は両造に在りて何れも小なりとす、我欧洲の如きは輙もすれは訴件の法廷に延滞するもの限りも知れす、虚妄の多き、延期の重なる、答弁の頻りなる、弁論の屡々なる、其他百般の奸智を法廷に用ふること誰か之を知らさらん、幸に判決を得て其苦現を免るるかと思へは、又更に覆審の召喚に由て法廷に引出さる何の好事かある、此法廷にて再ひ前事を反復し、両造倶に糺問を新にせられ、其難渋、其憂悶及ひ其費用、皆倶に随つて増加す、俗諺に所謂雨を避て却て険塹に陥るとは此事なり。且夫日本に刑法無しと思ふは大なる誤謬なり、日本の刑法・政令は殊に勝れて制定せられ、之を施行する縝密にして違ふ事を免さす、小犯と雖も之を罰するに重刑を以てす、是の
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如くならされは、人煙稠密の地に於て其秩序を保ち繁栄を護すること能はさるなり、又豪邁不覊の気風に富める国民の常として喜怒の忽に甚き、猶其辺海の風雨に同しきものを制御し、政府の命令に服従して敢て嘯聚暴動の挙動なからしむるを得んや       (未完)
 今夕一回で之を読切れますまいから、先つ此位で措きませう、此ケンプルの鎖国論は中々面白うございます、今一晩読んだら此方は済みませう、それから続いて外国人の日本を観察した書物で、グリヒスの皇国といふものは、維新前後の事態を余程委しく書いてあります、続いてペルリが日本へ来て使命を完うし、それから条約に立至つたといふ、近く三四十年外国関係の有様を叮嚀に考察して見ると昔し鎖国の主義を堅く執つたのは何の原因から起つた、其反動から続いて開国が斯く速に行つたといふことは、所謂人情世態の変化といふものに至大の関係があつたといふことを察し得られるやうに思ふから、それを前提として、日本の開国に至つた原因を取調べるといふことは、余程興味もあり利益もある事柄と思ひます、いつも此竜門社では経済談ばかりして居ますけれども、経済談外の一つのお話にならうと思つて、斯ういふものを持来つて皆さんにお話をするのであります、今夕は余り晩く出て長くなりましたから、是丈に致して置きます


竜門雑誌 第一六六号・第四八―四九頁 明治三五年三月 ○本社月次談話会(DK260055k-0007)
第26巻 p.306 ページ画像

竜門雑誌  第一六六号・第四八―四九頁 明治三五年三月
    ○本社月次談話会
本社月次談話会は、三月廿一日午后六時より日本橋区兜町なる渋沢家事務所楼上に於て開会せられ、雨天なるにも拘らず青淵先生には定刻より出席せられて、前々会に引続きケンプル氏鎖国論に就て所感を述べられ、且つ種々なる雑談懇話あり、午后九時半散会せり、尚ほ当日出席せられたる人々の芳名を録すれば左の如し
 青淵先生  社長 渋沢篤二君
 会員(出席順)  八十島親徳君  松平隼太郎君
 長谷川武司君   長谷川幸七君  上田彦次郎君
 大庭景陽君    斎藤峰三郎君  赤羽克己君
 橋本明六君    武沢与四郎君  仲田正雄君
 成瀬隆蔵君    槙安市君    富田善作君
 和田巳之吉君   西田敬止君   土屋藤吉君
 寺井栄次郎君   豊田春雄君   井田善之助君
 青木昇君     渋沢長康君   久保幾次郎君
 尾田信直君    曾和嘉一郎君  明楽辰吉君
 村松秀太郎君   西内青藍君   小松徳太郎君
 倉沢粂田君    湯浅徳次郎君  原田貞之助君
 朝倉外茂鉄君   関屋祐之助君


竜門雑誌 第一六七号・第二一―二八頁 明治三五年四月 ○青淵先生近世史談(其三)(DK260055k-0008)
第26巻 p.306-312 ページ画像

竜門雑誌  第一六七号・第二一―二八頁 明治三五年四月
    ○青淵先生近世史談 (其三)
 本年三月廿一日本社月次会に於ける青淵先生の講話筆記
 - 第26巻 p.307 -ページ画像 
 注意 一字下げは先生の講評にして他はケンプルの本文なり
      撿夫爾鎖国論 (続)
 先々月即ち一月十八日の本社月次会に於きまして、ケンプル著日本鎖国論の前半を朗読して、之に向て愚見を加へました、続て先月の月次会に於て其続き即ち後半を講評する筈でありましたが、丁度已を得ない用向の出来致したる為め一ケ月抜きとすることゝなりましたから、本月の月次会即ち今夜其残余を読みつゝ、愚見を加へよふと思ひます
初め日本人か大陸の北部より来りし時には、数百年間多少の艱苦を嘗め国中の諸州に散居して、多くは海浜に寄る所の魚介を以て其生を養ひしならん、神武帝は思慮深遠にして智徳兼備はれる高貴の君にて、大概ロミリユスか羅馬に出現せると時を同ふして日本の国基を立て、紀元を此に始めたり、其以前は日本の国権いかなる人の手に在りしか歴史の存するもの無けれは一も考拠するに由なし、但し日本最初の諸帝治世の頃は、上世の習とて世界中たゝ此国のみ人民居住の地なりとして、極めて親睦多福なりけらし
天照大神の嫡々相承の正統神孫の名流たるを以て、自ら神明に肖り、之を扶るに広大なる荘厳を以てし、群下をして尊敬して人倫の類に非すと思惟するの心を生せしめたり、然るに此事、後生に至りては国家の治道に於て思はさる一大弊とは成りぬ、其故は斯る神種の帝王としては、其群下を統御するに寛裕の徳を以てせさるへからず、既に神明に至近の帝室として、又群下の尊敬を受る神明に異ならさる御身にて世間の統治を躬ら行はせらるゝは、其神聖よりすれば寧ろ卑下の業とも云ふへきなれは、宜しく世間に接近するの臣下に任せられて然るへしと云ふの道理を生したるならん
 こりや、けんぷるの詰り想像説で、斯ういふ評を下したのである、外史抔を読て見た所では、決してさうでない、往古は天子は将帥であつて、天子が国を政むるので、事故があれば、皇后若くは太子を将帥に任じて戦にも出ましたれば、政事も執つて居りました、然るに追々藤原氏が権威を弄することになり、武人といふものも出来て段々君権といふものが下に移つて仕舞つた、制度が悪いといふことを評論したのである、最初は大層それを以て己を尊敬せしめたけれども、それが為めに天皇の統治権といふものは自然に臣下に遷移して仕舞つて後に大弊になつたと、斯ういふ評の立て方です、或は外国人の観察を下しました所では、一応最で有るやふに思ふ、併し果してけんぷるの説が適当とも考へられぬやうに私は思ひます
是に於てか、人たるの臣下は神たるの天子に代りて統治の事に与り、因襲の久しき政権は遂に貴族に移り、武門に転し、其威力の盛なるに随ひて帝室に奉事するの義務を放擲し、妄りに帝王所任の州郡を奪ひて自立し、封建割拠の勢を為せるのみならず、猶も進みて有為の志を縦にし、武器の発明後に及ひては諸侯伯各々皆相争ひて其領地を拡むるを事とし、戦争に続くに戦争を以てし、内乱長きに渉り人民は塗炭に苦しみ、名門また滅亡するもの多く、甲起り乙仆れて怨恨互に累なるに至れること、畢竟土地兼併の欲望に起因せるもの歟
 - 第26巻 p.308 -ページ画像 
形勢既に斯の如し、帝位は此放恣の挙動を制止せんか為に、是に命して彼を抑圧せしめ、彼に命して又是を追討せしむれとも、其事徒らに政権の交迭を促すに止まりて、却て実権を臣下に移すの機会とは成りにき
 此等は妙なものです、私は多く日本の歴史を読みませぬが、一応は読んで見ました、其の中で一番能く読んだものは外史である、外史の評論のみは能く記憶に残つて居りますけれども、けんぷるの此説を為しましたのは元禄の頃であります、此頼山陽の源平交迭の有様を評論しましたのも此通りです、外史氏曰くの所にありますが、始は全く此征伐といふものは、天子自ら御出でになりまして、兵馬の権をお執りになりました、天子が若し御出でになられなければ、皇后若くは太子に代らせて節刀を授けて以て之を制御することが出来ましたからして、実権といふものは、上君主に帰して居つた、所が奈良朝から追々藤原氏の者に学者が多く出て来て、慾望を擅にしたといふ処から、遂に兵権を臣下に委ねるといふ必要が起つたのである、即ち例の藤原道長以来専横なる臣下が、権威を専らにすることに就て、遂に源氏と平家を皆己れの爪牙として、朝廷の権を専らにして居つた、然るに若し平家が専横のことを行へは、源氏に令して之を討たしめ、源氏が跋扈しまするといふと、平家に令して之を討たして、互に相箝制して之が統御の策を得たりとして居つたが、焉んぞ知らん其間に国家の実権といふものは、段々武門に移つて仕舞つて、遂に頼朝の代になつて武門政治を開くやうになつた、其間の長いこと、藤原氏の権を弄することを予防しやうとして居る中に、段々此武門政治を馴致せしむるところの原因となつたといふことを能く丁寧に論じて居る、外国人にして此時代に於て斯かる説を立つるといふことは、余程能く観破した所のものである、外史を読んで私は成程さうだと感心したのである、最も拾何歳の時、二十歳そこそこの時でありましたが感服致しました、此けんぷるの書を読んで見るといふと、外国人の観察から見るといふと、却々面白く書いてあります
既にして将軍頼朝は平氏を倒して此統治の大権を掌握せしか、敢て帝位を覬覦するの念を起さす、統治の大権をたに専有すれは則ち足れりとして、其基礎を固むるを事とせり、故に日本の歴史は頼朝を以て実権帝王の始祖となせり
 是が即ち其真正の帝王と、実権の帝王と、二種の帝王が日本に生じました所の、奇怪なる現象の顕れましたことである
されども当時に在りては、世間第一の権威ある大将軍の重職は、之を任命すること神聖皇帝の叡慮に在るを以て、頼朝は恭敬して神聖皇帝に奉仕し、此重職を得て以て其子孫に世伝するの例を創始せり、然るに第十六世紀の初よりして内乱益々甚しく、神聖皇帝の位に対ひて簒逆を企るものこそ無かりけれ、実権帝王の地位は豪族強諸侯の争ふ所と成り、加ふるに封建割拠の闘争は愈々激烈に成りて彼を斃し此を併せ、世は乱麻の如くにして、神聖皇帝も実権皇帝も倶に統治を失ふに至ること良々久しかりき、然るに此に不世出の英雄秀吉、後には無双
 - 第26巻 p.309 -ページ画像 
の大閤と呼はれたる人あり、微賤の境界より身を起し、自己の智謀武勇に由りて全国の戦乱を平定し諸侯を威服せしめ、一五八三年天正十一年の頃に至りて日本の大改革を行ひ、全国の諸侯をして其妻子を秀吉の居城に住せしめて臣従の質と為し、不逞の武士も復た其慾望を達すること能はさるに至らしめたり、誠に絶倫の規摸と云ふへきなり
 是は、丁度足利氏の末、応仁の末、元亀・天正の頃に到つた所を評論しましたので、詰り頼朝の後より足利の末迄を此処で評論しましたのである、然るに此処に、不世出の英雄秀吉が出ました、こりや大坂に諸侯の妻子を置いたといふことは、成程人質に仕ましたもので、細川家抔も、人質に遣つたといふことであります、それが徳川家に移つたやうであります、全く秀吉から君臣制度のやうにやつて行きましたから、此評論は決して違はないでせう
斯る事勢に応して制定したる秀吉の法度なれは、其法度の峻厳なるは昔時雅典人がダラークの法度は墨を以て書せすして、血を以て書せりと云ひしにも類すへし、然れとも其法度は峻厳は則ち峻厳なりと雖も遵奉するに難き所ありと云ふ程にも非す、畢竟は国家万民の治平を保ち、幸福に進ましむる適当なりと思惟したる政治を行はんと期せしに外ならさるなり、徒らに殺を嗜みて法を制する彼テイヨネイレスの暴政の比には非さるなり
若夫日本法度の峻厳を言はゝ、罪を罰するに刑を以てし、敢て黄金を以て読罪に充るを許さゝるに在り、故に苟も帝王の命令に違ふ者あれは貴賤高下の差別なく体刑を被り、或は斬首せられ、或は自殺を命せられ、或は辺島に配流せらるゝ、貴族諸侯と雖も免るゝこと能はさる所なり、日本人の如き性質を有する人民を統治するには、其法度かくの如くならされは之を制御するを得さるへし、其人は謂へらく、凡そ国法は貧者の為にのみ説くるものに非す、富者にして其金を以て罪を贖ひ刑を免るゝを得は、己れか資力の及はん程は諸悪随意に之を犯すへし、是れ最も治道に害ありて、人道に反する不直の事なりとすと、此言又大に道理ありと云ふへきなり。余曾て途次その路傍に標示したる制札を見るに、其法度の簡約なる、日本臣民か宜く行ふへき事と決して行ふへからさる事とを、二つなから簡約に其大綱を書すに止まりて、何故に斯る法度を制定したる乎、其事由をも記さす、又其処刑の次第も示さす、日本人は斯る簡約なる法度こそ、強大なる国朝の宜しく然るへき所なれと云へり
 日本の内地を旅行して見るといふと、路傍に制札を見る、……此席には此制札のことに就て知つて居る人は少ないだらうが、何でも公告の御法度書で、堅く相守るといふ法律で、殆んどその漢の高祖の法三章といふやうなものが書いて有つて、皆人民の守るべき箇条が書いてある、村落の真中頃に当て高札と唱へて絵馬のやうの格恰のものが懸つて居つて、火事があると、髪結人がそれを外づすので、髪結人の職分であつた、髪結人に高札の番人といふことを命じた、私共の在所あたりではさうであつた、天下中はさうでなかつたかもしらぬ
大閤秀吉は斯く国法の基礎を固め、一五九八年慶長三年を以て薨し、其幼
 - 第26巻 p.310 -ページ画像 
子秀頼の六歳なるを徳川家康に托したり、此秀頼は其後犯せる事ありて爵位生命を失ひたれは、秀吉に代りて実権帝王の地位を占たるは即ち家康にして、後に大御所と称せられ、実に今の徳川氏の始祖なり
日本は此時に当り国中の諸事一定して、国内の士民皆実権帝王の威令に服従し、叛乱の企図を杜絶したりけれは、彼の外国の事の如き、恐らくは他日国内騒乱の因と成るへきを以て、是をも併せて杜絶すること緊切の要務なりとて、此議は従前すてに決定したれとも、未た之を実行するに至らさりしか、今は実行せさる可らさるの時機に迫れり。凡そ奇異なる儀式若くは奇異なる風俗は、外国人か日本に往来するも日本人か外国より移伝するも、之を放任して制せさる時は終に日本を変乱せしむるの第一原因たる必定なり、例へは骨牌の戯れ、骰子の博奕、決闘の果合、衣服飲食の奓侈、其他荒淫放逸の所業の如き、皆是れ外国より日本に将来し移伝したる所にして、我風を壊り我俗を紊し善良中正の道を修むるの障碍あり、中にも基督教法の如き「ゼスウイツト」諸派の法師等か、日本国民に伝ふる所は日本の治道に害あり、日本の平和に害あり、日本固有の教法に害あり、日本人か其神仏に奉事するの務に害あり、日本至尊の神聖皇帝の神威聖職に害あり、日本人・異国人相互に往来し雑居すること万民の静謐に害あり、此諸害を慮らすして異国の儀式、異国の風俗を移して日本人を之に化せしむるは、啻に無用無益に止まらす、其弊や遂に日本を挙て異国異風を為し不測の禍を醸するに至るへし、然れとも此弊を杜絶せんには、全体を挽回して本然の壮健に復せしめさる可からす、其腐敗せる部分を切断して、病毒の普及を絶たさる可からす、之を成さすして姑息の術を施さんは、徒為の労なるへきを以て、根本より弊源を除却し去りて、国家の病を療治するは、決して陋固の業に非さるなりと、斯の如くに日本の政治家は其考案を定めたり
 徳川幕府の国を鎖すといふことを堅く極めたのは、斯かる趣意であるといふことを、丁寧に想像して論を定めたやうに見える
是故に日本当時の形勢に要する所、近時一定の治綱に要する所、国民の幸福安寧に要する所、国風国俗の保維に要する所、帝王の神聖威権に要する所は、悉皆一切日本全国を鎖して異国異俗を除き去るに在り是に於てか帝王及ひ執政等は、一決して永久不易の国法を制定して、曰く
  国は当に鎖閉すへし
凡そ日本に渡来せる異国人中にて、日本の風俗を変易するの大害を与へたるは葡萄牙人より甚きは莫し、其俗の傲慢なるは、敢て日本人に劣らさるなり、彼等は偶然に日本を撿出してより其後幾程も無く、目前の利欲に誘はれて大に日本に殖民し、或は珍宝奇貨を餌にして侯伯士民を誘惑し、或は「ゼスウイツト」派の使節を渡来せしめて基督教を伝道し、或は此伝道に由りて其宗教に新化せる者と婚姻を通し、種種の計策を以て暫時の間に巨大の富を獲取し、深く日本人の心を得て大に己れ等が私利を営むるの爪牙と為し、諸事如意なるに矜るの余り敢て非望を逞くして日本の政治にさへ干渉し、稍々変革せしむる所あるに至り、大に日本無頼兇暴の輩をして其野心凶悪の端を啓かしめ、
 - 第26巻 p.311 -ページ画像 
極めて政治の害を為せり、殊に実権帝王か大に愕かれたるは、二個の書面に現はれたる葡萄牙の奸計にてそありける、其書面の一通は、和蘭人か当時葡と戦争に及ひたる際なれは、洋中にて葡船を脅かし、計らすも其船中にて奪ひ取りたる密書にして、恰も和蘭か日本に於て交易の便宜を占んと願へる折柄なれは、之を日本政府に密呈したる所なり
 故に和蘭は丁度一体の鎖港か厳しく行れたるに拘はらず、和蘭丈は場所を極めて、三百年の間交易を永続することの出来たは、此一つの働きの為めである
又其一通は、日本内地の事情並に叛乱の企謀を書して葡人に送りたるを、広東にて日本人か奪ひ取りて政府に差出したる密書なり、此二通の密書は、何れも日本の賊徒より葡人に送りたるものなり 其頃しも、亦国家の大害と為るへき陰謀は内地にて同時に露顕し、其事一にして止らさりけり大久保長安の陰謀等
 大久保長安といふ人は、徳川家に仕へて居つた人で、勘定奉行か何かして居つた人で、大変に悪いことを其職に居る中に行《や》つた、財を貪つて、妾が二十七人あつて、其時分の金銭にして、五万両位宛の財産を有つて居つた、さうして大変衣食住を華奢にして、驕奢を極めたといふことが何かに書いてありました、大久保石見守であります、此人は後に苛酷の成敗を受けました
又執政の一諸侯が途中にて「ゼスウイツト」の官僧に出会ひたるに、彼僧は轎より出てもせす敬礼をも行はす日本の格式に背きたりけれは其執政より之を政府に訴出たる事ありけり、又日本人か新奇を好むの情に任せて、葡人は頻りに浮利を貪り、莫大の日本通貨を得て之を輸出し去り、漸く国家の患を醸すに至れり、之に加ふるに葡人か「ゼスウイツト」僧侶を助けて基督教を盛に弘道せしむる事、其宗教に新化の日本人か葡人の悪意に合体する事、其新化の輩か日本の神仏を蔑如し、日本の教法を憎忌して日本人たるの本分を失ふ事、其輩か教法の為に他を禦き己を護るの志念を固執する事、其輩か教法の為には政令に反抗するを顧さるを以て、国家に取りては恐るへき不安の禍源たる事等は、既に事実に於て明かなり。日本は是迄に幾多の艱難を経、幾多の人命を失ひ、幾多の土地を荒廃し、幾多の争乱を起して数百年の乱離に罹りたりしを、近き頃にこそ漸く之を平定して、太平の世には致したるなれ、然るを基督教を其儘に差置き「ゼスウイツト」をして伝道を思ふか如く成さしめ、其新化の宗徒を増加せしめは再ひ禍源を新に起し、反乱の時節を到来せしめんこと甚た憂ふへしとなり
斯の如き重要の国患たるを以て、太閤は葡萄牙の利慾と基督の弘通とに関して制限を設けたり、然れ共、鎖国を断行して其禍源を杜絶するは一朝にして行はるゝ所に非されは、太閤は薨去の前に於て国法に背きたる「ゼスウイツト」僧徒等を磔刑に処して、以て其遺訓の趣意を実地に於て後世に示したり、其趣意とは何そや、葡人等は其異教僧侶及ひ雑婚に由て設けたる妻子を伴ひて日本を退去すへき事、日本人は将来異国に赴く可からす、現時異国に在るものは一定の期限内に日本に帰来るへき事、此期限を過て異国に在留するものは帰国を許さす、陰に帰国する者は死罪に処すへき事、日本人にして基督教を奉するも
 - 第26巻 p.312 -ページ画像 
のは、直ちに誓を立て改宗すへき事等、即ち是なり
 是で見るといふと、太閤の薨去の前に於て此制度を設けた様に見えます、此変の所は疑しい、私には穿鑿が尽して無いが、果して太閤の薨去前であるか、どうも慶長七八年の頃五奉行を徳川家康が布いたといふことを見ると、決して太閤は生前に斯様の制度を布かれたといふことは思はれぬ、現に五奉行として、家康は頻りに呂宋に向て葡萄牙に向て、御朱印を出したといふことが立派に徳川実記に書いてあるのである、五奉行は秀吉の死んだ後に出来たのでけんぷるの書いた事実が疑いないものとすれは、此処は穿鑿すべき事であらうと思ふ(未完)


竜門雑誌 第一六八号・第二一―二七頁 明治三五年五月 ○青淵先生近世史談(其四)(DK260055k-0009)
第26巻 p.312-316 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第二一―二七頁 明治三五年五月
    ○青淵先生近世史談(其四)
      撿夫爾鎖国論(続)
右の趣意を実行せんには、許多の困難を経歴するに非されは成功す可からさるなり、蒲人《(葡)》「ゼスウイツト」の僧徒等は、其真神正教なりと自信する所の基督教を日本に弘通せんか為めに、日本人をして許多の偶像崇拝者たる仏教徒の血を流さしめたり、日本人は今、又その国権を固くし国安を保たんか、此度は基督教徒の血を流さゝる可からさるは素より其所なり。彼の基督教に新化せる日本人は、道理のみを説諭して之に由て廻心改宗すへき輩に非す、其多数は頑冥にして迷信の輩なれは、刀刃・縛索・烈火・磔架等の恐るへき刑具を設けて之を警戒し、其罪を悔て暁悟するの念を起さしめさるを得す。然るに日本人本来の気性として一度其心を定むれは、刀火の難に遭ふも敢て之を動ささること上下一般の風なれは、此新化の輩は信仰の心を動かさす、己か血を以て信心の固を磔架に銘せんと望み、放言して更に憚る所なき挙動は、其敵人をして之を驚嘆せしめたり、斯まても異教の為に日本人の心を左右せられたること、実に日本固有の宗教に取りては恥辱なりと云ふへきなり
右の如く、古今に類例なき強猛辛辣の手段を実行すること大約四十年間、家康の孫にして秀忠の嫡子たる家光の時に至り、漸くにして鎖国の政を挙るを得たり、是れ三万七千余の基督教徒を屠戮し一旦にして日本国中異教の残党を掃除したるに由れり、其事たる彼の教徒は呵責の苦痛を免るゝに道なきを以て、自暴の念を起し島原なる有馬の古城に嘯聚し、心を一致して戦死を期したる基督教叛徒にして、官兵の此城を合囲攻撃する三ケ月に渉り、一六三八年四月十二日寛永十五年二月二十八日を以て陥り、悲哀すへきの惨状を演して基督教徒か日本に於ける最後の血を流したりき、然れとも此禁教に関して苛刑の全く止たるは一六九〇年元禄三年の頃にてありけり
斯の如くに日本は全国を掃除して以来は、日本の外に出る事も、異国人の内に入る事も、両つなから之を禁して外交を鎖閉せり。然るに蒲国は此国禁の後是は一六四〇年、即ち寛永十七年にて国禁を宣布したる翌年なりと云へり船を艤し其使者と使僧とを載せて長崎に来らしめたり是は通商と布教とを、従前の如くに許されん事を請はんか為なりしとそ願意の叶ふ迄は日本の法度を守りて伝道さへせすは、理に於て妨は無かる
 - 第26巻 p.313 -ページ画像 
へしと思ひたる甲斐も無く、日本政府は彼等か日本の法度に背きて渡来したること奇怪なり、其罪免すへきに非すとて、実権帝王の厳命に由り右の使者使僧及ひ随従を合せて六十一人を斬り、其余の雑人は之を赦して帰国せしめ、斯る恐しき取扱に逢たる事を異国人に語り告けよと申渡されたりけり此船の総員は七十三人なりしが、其内にて助命せしは僅かに十二人なりき、之に帰路海上にて難風に遇ひて覆没せしにや、踪跡も知れずになりけり
 原訳者曰く、蒲萄牙と我国と交易の事に付て撿夫爾全書を按するに云く『其交易は前後に盛衰ありと雖も、其全盛の時に年々運輸し去れる所の金は三百噸に過きたるを以て、大概その大利ありしを知るへし』と云へり。一噸は今の文銀にて大約四百貫目なれは、三百噸は拾弐万貫目に該当するなり。又云く『一六三六年寛永十三年 蒲国船四艘にて銀二万三千五百貫目を輸出し去れり、諸人私の銀は此外に在り、其翌年六艘にして二万千四百二十貫六百五十匁一分、又其翌年は小舶二艘にて一万二千五百九十貫二百三十七匁三分を輸出し去れり』と云へり、其事は彼方の事を委しく記したるものにて、撿夫爾これを見たりと註せり、但し原文に十匁を一「クイル」と書せり、且つ其頃の銀は今の文銀とは異なるへし、右の三年は彼か交易衰微の極と云ひし時にてありけり。又云く『其全盛なりし時のやうにて頻りに二十年をたに経たらましかは、総て日本より澳門《マカオ》に輸出する財宝の高は、彼の古の蘇呂門大王《ソロモン》か如徳亜城中《ジユデア》に積ある金銀にも比しかりぬへし』と云へり、但し前に云へる十二万貫目は正金銀のみを云ひ、此には総ての貨物を云へるなり
  此辺の数字は能く解かりませぬ、こりやもう一応他の書に依て吟味して見なければならぬ、目的を付けて、どんな貿易があるといふことを見る程の材料もない
和蘭の印度交易商会は、第十七世紀の初めより常に日本に通商す、其正直なる事は初渡以来日本人の能く知る所なり、既に当時日本の害物たる蒲萄牙と不和なるのみならす、近き頃島原の基督教徒反逆の時に於て忠節の志は明かに見えたれは幕府の命を奉して和蘭船を島原に廻航し、船上より大砲を発ちて城中を撃たるを云ふなり之を遇するに蒲萄牙に於けるか如き厳猛を以てせんこと薄情にも不当とも謂つへし、殊に和蘭は日本の通商随意たるへしと、家康公よりは一六一一年慶長十六年に、秀忠公よりは一六一六年元和二年に、両度の御朱印を以て交易許容の由緒あれは、其規摸を立つるの廉なくては有る可からすとて、乃ち長崎の港内に於て曾て蒲人の為に築きたる囹圄とも謂つへき出島の居所を以て、和蘭人将来の住宅と為すへしと定められたり、是は功あつて罪なき和蘭人を日本より立去らしめんは然る可からす、さりとて是迄の如く放縦に任せ置かんは危かるへしとの事なれはなり。是よりして和蘭人は日本官府に誓を為して常に其監督の下に立ち、許多の規律に束縛せられ瑣細の事と雖も厳密の撿察を受け、実に浮虜若くは人質に異なる所なし、蓋し日本にては和蘭人の報告に由りて海外諸国の動静を知得るの外は、和蘭人に要むる所は更に有ること無しと思惟せるか故なり。されとも日本は和蘭人をして此厳制を堪へき程の事あらしめんとて、毎年五十万コロトンの貨物を持渡りて日本に売る事を許しつゝあるなり一コロトンは文銀にて大約八匁に当るを以て、五十万コロトンは四千万貫許なり但し
 - 第26巻 p.314 -ページ画像 
斯くあれはとて、日本は和蘭の貨物なくては必要に欠る所ありと思はんは、実に謬れりと云ふへし、和蘭より一年に輸入する絹布の如きは日本にて僅に一週間にして織出すを得へきなり、其他阿仙薬・竜脳・木香及ひ諸種の乾薬、若くは許多の貨物の如きも、驕奢の為に又は薬餌の為にすと云ふに過きさるのみ
 原訳者曰く、和蘭人の計算に拠りて考ふるに、文銀四千貫目は元禄頃の銀にて三千貫目許に当れり、撿夫爾全書中に貞享二年新観の銀高を三千貫目と註せり原文には三十万テールとあり、一テールは十匁なり又長崎にて南蛮人か市中に住居する事を御停止に成たる故に、寛永十三年より十四年に掛けて出島を築出すこと、記録に見えたり。撿夫爾曰く『二通の謀書の事なかりせは、蒲萄牙人は頓て国禁には成らすして出島に居らんこと、今の和蘭人の如くなるへし』
支那は日本人か諸般の芸能学術を伝受し、現時日本にて盛に行はるゝ仏教をも渡したる国にて、其上に日本の政国の制度・法令も摸範を支那に取りて成就したるなれは、日本か恩を支那に受るや少しとせす、故に支那の俗は日本に於て拒絶の限りに非すして、随意に交易せしめ自由に徘徊せしめ、唯々必す長崎にのみ渡来すへし、他港に入るを許さすと定めたりしのみ、斯る許容は啻に支那のみに非す、明朝か今の韃靼に支那本地を経営せられて革命の変に遇ひし時に、明朝支那人か国難を遁れて散去し、新に其居所と定めたる東洋諸王国東京・暹羅・交趾・柬浦塞、等も亦支那の例に依れりき。然るに支那に於ては明朝の末頃より基督教漸く其国内に行はれ、清朝に成りて益々盛に成り、基督教義を説ける書籍とも追々に出版したりしかは、支那人か売物として日本に持来れる書籍の中に、基督の教義を説き、耶蘇の信すへきを記せる書を交へたり。是を撿出して日本人は大に憂ひ、我国にては異教の国家人民に害あるを以て、許多の艱難を経、近き頃に至りて漸く之を退治し、其禍源を杜絶し得たるに、又もや支那人の為めに之を蘇生せしめ再ひ国害を醸しては由々しき大事なりとありて、政府は乃ち其議を決し、是よりして支那人を遇する和蘭人に同しかるへしと定め、之を厳戒するの規律も亦殆と相同しきに至りぬ。啻に相同しきのみならす、支那人は其智慧を以て日本人の詭計を拒み防くこと、和蘭人の如くに巧ならさるを以て、其境界は却て和蘭人よりも劣れり、其上に彼等は同し支那人とは云へ、其首府州郡を異にすれは全く他国他郷に比しきを以て利に当りては相争ひ相害して、更に一致合同する事無く、加ふるに性質吝嗇・貪慾にして、如何なる小利小得にても垢を含み恥を忍ひ、汲汲之を失はさるを是れ事とせり
斯の如くにして日本は全く其国を鎖閉したるなれは、今日に於ては復た一事一物の国安を妨害するものなし、諸侯伯は皆帝王の政令に服従して、敢て兼併侵略の念を起さす、万民は皆其堵に安して、敢て強梁放縦の事を為さす、異国に謀を通して日本を危うする者も無けれは、異国の為に日本の風俗を変易せらるゝの患も無し、彼の外国人か毎に他国人の富貴繁栄を見て欣慕嫉妬の心を懐くか如きは、日本人か極めて之れを賤み之を憎む所なり、凡そ日本の洪福は内訌の恐るへき無く外冦の虞るへき無きに在りて、琉球・蝦夷・高麗及ひ辺海諸島、何も
 - 第26巻 p.315 -ページ画像 
皆日本帝王を仰きて君主と尊へり。唯かの支那は強大の国にして、日本人か曾て恐れ憂ひし所なれとも、総して支那人は侵略の計画には怯きものそかし、其上に当今治世の清朝は韃靼より出て支那を経略し、併せて許多の諸王国を統御し之を綏撫に遑なけれは、其所領を拡めて日本に及さん事は思ひ出さる所なり、されは今日に至りては、支那と雖も日本人は更に怖るゝ事なし
日本国当今の実権帝王は、綱吉公とて家光の孫なり、謹慎にして智略あり、祖先の法を継承して之を守り、孔子の学を好み神明を尊ふの君主なり、日本国民は首を回して往古民生素朴なりし時の事を顧るも、又は歴史を繙きて過去の跡を評論するも、日本国の如意連綿福禄円満なるは今の時に若かさるを悟らん、之を統治するに称望の君主を以てし通商交通を保護しつゝ一切の異俗異風を排斥して日本を鎖閉すれはなり
 これでけんぷるの日本史評論が終りました、此人の著はしましたもので、けんぷる全書といふものがあるやうに見えます、此けんぷる全書といふものは、未だ丁寧に読んで見ませぬから解りませぬが、医者であつたといふことは、前のけんぷるの略歴に書いてあります此中の或る部分は一寸明瞭を欠く所がありますが、余程能く丁寧に見てある説です、詰まり鎖国論を是認した文章である、間違つて居るといふ評論は一も無い、鎖国した方が宜かつたといふことを鑑定になつたものであるやうに見えます、或は日本人も皆さう思つて居つたでせう、さうして他国から見ましても、騒動の有つた後で英君賢相相揃ひまして、善い政治を布いた後ですから何も個も極、簡約にして整つて居つたのである、こりや、もう鎖国が最も此国の性質として宜いといふ、斯ういふ観察を以て書いたやうの所も見えますから、之を以て見るといふと、葡萄牙の騒動はどの位であつたか、遂に取らるゝやうになつたか、此英君、賢相相互に善い政治を布いてある、其後で恐るべきことがあるといふことであつたらう、其実は能く解かりませぬが、斯ういふことは日本の外に書物と謂つて書いたものを見たことはない、私は何故懸念したかといふことの疑を有つて居つたが、種々なる懸念もありませうけれども、最も重なる懸念は斯かる有様になることを気遣つた如くに見える、詰り此鎖国といふものゝ原因は、此けんぷるの説などは稍其実を謂つたものであらうと思ひます、斯ういふ有様から鎖国が一般に伝つたものです即ち鎖国に対する力といふものが強かつた、是が追々自然に世の中が進むに従つて変化を起して来たのである、其変化愈極つて遂に外国に帰するといふことで、多少騒動を起すといふことは、こりや此世界の気運として免れない、斯ういふ鎖国の原因があると見ると、外国の有様といふものは、困難であるといふことを又以て知るに足るものである、此次ぎにはグリフヒスといふ人の日本を頻りに評論しました訳本がありますから、それを読んで見て評論致しませう、斯う申して見ました所が私も一を取つて全体を論する嫌があるやうにも思ひまする、予ても申上げました通り、私は専門でもなんでもないが、余り経済談許りでは面白くない、何故に徳川の時代に強く
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鎖港主義を執つたか、それ程の鎖港主義が御維新際にどうして、変化して、此三百年の間の外国との関係といふものが俄かに変化したといふ有様に就きましては、多少世の中の歴史として研究して見たいと自分は予て思つて居ります、そこで他の事情から、種々なる書物の翻訳しましたものを見ましても、勿論斯ういふことは、謂はないことでなからうけれども、斯かる理由だと想像するやうに、段々生じて来ましたから、尚面白いのである、是も一応御話して見ると唯此書物の事柄を漠然と雑誌に書いて皆様が御覧なさるゝよりも聊か攻究を加ふることになりまして、腰試め説に依らずして、一つの考案になるだらう、やれそうではなからう、斯ういう理屈はそりやどうであるとか、それには斯ういふ証拠があるといふことも告げるものがあれば、又も論ずるといふことになり、種々なるものが生じて来やすい所がありますから、評論致しますので、それで此丁度翻訳しましたものを、此竜門雑誌に一の材料として、皆様に御慰みに御覧に入れるに就きましては、唯切れ切れにして出しまするよりも一の理由の徴し得る所のものを添へて出しました方が宜しからうと斯う考へまして、御話し致しました、余り長くなりますから今晩は是れにて止めます(完)