デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.316-320(DK260058k) ページ画像

明治36年5月24日(1903年)

是日栄一、当社第三十回春季総集会ニ出席シ「善模倣ト悪模倣談」ト題シテ演説ヲナス。尚、七月ノ月次会ニ出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK260058k-0001)
第26巻 p.316 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
五月廿四日 晴
○上略 午前十時ヨリ竜門社総会ヲ開ク、来会スル者無慮五六百名、別荘園庭ニ充満ス、十二時一場ノ演説ヲ為シ、後午飧ス、午後種々ノ余興アリ、夜ニ入リテ一同散会ス
 - 第26巻 p.317 -ページ画像 


竜門雑誌 第一八一号・第三八―三九頁 明治三六年六月 ○本社第三十回春季総集会(DK260058k-0002)
第26巻 p.317 ページ画像

竜門雑誌  第一八一号・第三八―三九頁 明治三六年六月
○本社第三十回春季総集会 は予定の如く愈々去五月二十四日午前九時より、青淵先生の王子別墅曖依村荘緑陰深き所に開かれたり、当日は非常なる好天気にして万天拭ふが如く、一点の雲なく一塵の風なく時恰も晩春新緑を探るの好時期なりしかは、社員の来会するもの三百有余名に上りたり、やがて定刻となるや、予て会場に充てたる大広間に社員参集し、先づ社長の開会の辞あり、次て土岐僙君の雄健快活なる朝鮮談、及懸河流暢にして抑揚頓坐自在なる本多林学博士の西比利亜旅行談あり、聞くものをして魂飛び心躍り、万里異郷の旅窓にある思あらしめたり、最後に慎重厳然たる青淵先生の模倣性の論ありて玆に式を終り、社員一同庭園に入りて、或は午餐を喫し、或は和洋酒・寿司其他各露店に於て、思ひ思ひに飲食を終り、或は三三五々緑陰深き所に世事を談じ、或は百花爛熳たる花壇の美を賞し、或は洋館前なる大広庭又は後園に散策し、積日埃塵の中にありて俗務に忙殺せられし煩労を洗ひ去れり、且つ余興としては軍楽隊・貞水の講談及那須氏の薩摩琵琶等ありて、各員非常の歓を尽して午後四時散会せり、当日の来会者は青淵先生・同令夫人・渋沢社長・同令夫人・穂積・阪谷両博士及同令夫人・令息、令嬢等を始として、左の諸氏なりし(出席順) ○下略


竜門雑誌 第一八一号・第一―四頁 明治三六年六月 ○善摸倣と悪摸倣談(DK260058k-0003)
第26巻 p.317-319 ページ画像

竜門雑誌  第一八一号・第一―四頁 明治三六年六月
    ○善摸倣と悪摸倣談
 本編は去五月廿四日王子曖依村荘に開かれたる本社第三十回春季総集会に於ける青淵先生の演説筆記なり
久し振りで竜門社の総会を此曖依村荘で開くことを得まして、私も喜ばしい次第であります、幸ひ今日は雨も降りませぬから、庭園の散歩をなし得られましよう、余り暑くないのは散歩の為めに好都合と存じます、前席に土岐僙君・本多博士の種々面白い御演説が有ました、最早今回の演説としては事足れるやうに考へまするから私が御話をするのは殆ど蛇足の様でありますけれども、何時も此総会に出席致しますると一言の愚見を申さぬのは、佳例を欠く如くに考へる御方もある趣きでありますから、一言を述へて責を塞ふと思ひます、兎に角土岐・本多両君の雄弁を振つた後に当つて、ぢみな御話をするのは少し皆さんの御退屈を惹起しはしないか、悪くしたなら睡りを催ふしはせぬかと思ひまするから、成るべく短い御話を致します
先頃穂積博士が摸倣性と予防警察と云ふ演説題に由つて、世の中の摸倣の働きを叮嚀に述べられました、其演説筆記を見て頗る面白く感じました、蓋し摸倣の事を委しく解いたのは穂積博士計りではなくて、仏蘭西・独逸でも立派な学者が種々研究して述べられた趣きは、穂積博士の演説筆記中に記載されて居りまする、私は此摸倣に付て学理的に研究はしませぬが、日本の諸事物が多くは摸倣的に発達をして来つたと云ふ事を始終申して居る、殊に我々の本領たる商工業も、自働に進んで来る建設的に成長したと云ふ事は出来ない、他働に由り摸倣的
 - 第26巻 p.318 -ページ画像 
に育つたと言はなければならぬ、故に我々は甚だ心細い懸念がある、将来如何に成行くかと云ふ憂慮があると云ふ事を、始終申して居るのであります、曾て此の竜門社の会に於ても其趣意を申述べたことを記憶して居ります、元来日本の商工業と云ふものは、古代の事は卒知らず維新以前即旧幕府時代にあつては、殆と世の中の重なる問題とは致されぬ位であつた、然るに王政復古以降万事欧米に法ると云ふからして、先づ第一に、日本の知識ある人達の頭脳に這入つたのが政治である、此政治を充分に行ふ上に付ては種々のものが必要である、法律もあり兵備もあり教育もあり、警察もあり、お寺もあり、学校もあり、又銀行もあり、会社もあると、斯う云ふ風に、銀行も会社も政治を行ふ一つの道具に数へ入れたものと、私は思ふのである、試みに日本で発達して居る重なる商工業の原因と、其の進んで来た経過とを調査して見ますると云ふと、多くは政治の力である、而して政治家が左様に商工業に意念を及ぼしたのは如何なる訳であるかと云ふと、皆な摸倣である、人真似である、自国の産業は斯く発達せねばならぬ、自国の富は斯くありたいと云ふ建設的の意見から割出したのではなくして、他国が斯うするから我が国でも摸倣せねばならぬと云ふ、所謂人真似である、此模倣に付て穂積博士は海外の学者の言を引証し、且つ是に現在の実例を種々取調べて、演説されましたが、総じて世の中は人に拠らずに進み行くものではない、例へば古人が斯う云ふ発明をしたと云ふに拠つて、又後人の発明が出来るのである、左すれば発明も亦摸倣の力と言はなければならぬ、故に若し此摸倣が実に我がものとなつて行はれたときは少しも悪るい事はない、然るに摸倣は左様にのみ行かぬ場合があるから、余程御互が注意して摸倣をして真実に我が所有たらしめねばならぬ、蓋し摸倣と云ふても穂積博士の説にもある如く善摸倣と悪摸倣とある、先づ其一例を申せばエライ古い事を言やうだけれども、仮へば美人を装ふために西施に倣つて醜婦が顔を顰しても其顔は只見悪くいのみで、西施の顔をしかめたやうにはならぬと同様で、詰り我が身柄を知らぬ摸倣であをと言はなければならぬ、又六ケ敷い例を引いて云ふて見れば、昔し王室に対し藤原氏が権を専らにしたと云ふ事は、関白兼家、道長抔と云ふ人々が天子を手中の玩弄物の如くにしたのを真似て、平の清盛が其通りのことをした、是等は誠に悪摸倣である、又秀吉云ふ人は、四海を席巻する程の人物であつて、老年に至つて、種々の風流を好む処からして、足利義政と云ふ人の驕奢に摸倣して、北野に茶会を開いたと云ふのも矢張悪摸倣である、斯う云ふやうな摸倣は悪るい摸倣である、又善い摸倣を挙げて申しますれば、中古我朝に制度文物の完全せぬ時に、吉備大臣、阿部の仲麿、僧侶では空海・最澄抔が支那へ留学して其国の文物を輸入して、大宝令とか弘仁格式抔の書物が出来た、此等の摸倣は立派な摸倣である、其後日本の国体に適し風俗に副ふて行はれたか否やは私は知りませぬが、兎に角に其摸倣が追々に日本化して進んで来たと云ふて宜い、それから物産の中で支那から摸倣して来たのは、例へば婦人の着て居る着物を呉服と云ふ、是は呉の国から来たものであるから呉服と云ふのである、又仁義忠孝の教は所謂孔孟の儒道である、古代に如何なる教
 - 第26巻 p.319 -ページ画像 
育が日本に存在して居つたか私は知悉せぬが、詰り道徳と唱ふる教育は多くは支那伝来のものであると思ふ、殊に旧幕時代に於ては、政府の教育として朱子学を主張したのである、是も例して言つたら一の摸倣である、而して此摸倣は十分に日本人に咀嚼されて、文章とか礼式とか云ふものに付ては、支那に比較して劣る点もあるか知らぬけれども、其精神に於ては本家本元たる支那より優つて居ると云ふても宜しからうと思ふ、願くは此善い摸倣の成長して行かなければ、遂には其根本が枯渇して、花も開かず、葉も繁らぬと云ふ事にならぬとも限らぬ、我々商工業の事も前に云ふ如く、其始は政治家の心付にて百事外国の振合に依つてのみ発達し来つて居るのであるから、鳥渡見れば甚だ盛のやうであるけれども、其淵源甚だ浅く、且つ不確実であると思ふ、故に政治を執る人が摸倣的に覚へた事を我々に示して、我々を誘導すると云ふ有様で、其根底か甚だ緩慢なると同時に、我々商工業者も矢張摸倣で成立して居るからして覚悟が甚だ鞏固でない、斯く気遣ひまするならばお互に安心して居られぬと申さねばならぬ、孟子は此摸倣を論して尭の服を服し、尭の言を称し、尭の行ひを行へば是尭のみと云ふてある、果して然らば英国の通りの政治を施して、英国人の通りの商工業をなしたならば、英国になれると云ふ事になる、又之に反して桀の服を服し、桀の言を称し、桀の行を行へば是桀のみと云ふて、悪い摸倣も出来れば、善い摸倣も出来るのである、依て私は此摸倣の事に付て、少年の時分に聞いて居る落語を以て此摸倣の終局と致さうと思ひます、それは玆に或る植木屋が、立派な御得意然かも旧幕府の旗本屋敷へ行つて庭を拵へて居ると、そこに四文の銭と一文の銭とが落ちて居つた、然るに其屋敷の若様がそれを見て斯う云ふものがあると云つて之を植木屋に示したが、之れが銭であると云ふ事を知らなかつたから、虫であらうか、花弁であらうかと云ふた、蓋し其時分は武家が金銭と云ふものを賤むと云ふ一般の風習が強く行はれて居つたからである、そこで其植木屋が若様に向つて、それをあなたに上げませう、あなたは何になさいますかと問ふたら、時恰も弥生の頃であつて、お雛様の大小の鍔にしやうと云ふた、之を聴た植木屋は其若様の風采に感心して、家へ帰つて其事を自分の小児に話して、非常に之を賞賛した、其後此植木屋に来客のあつた時、植木屋は台所に銭を落して自分の小児に之を見付けしめて、若様の口真似をして、虫であらうか、花弁《ハナビラ》であらうかと云はしめたから、来客はそれを聴きまして植木屋の小児の上品なるに驚きて、偖其銭をお雛様の刀の鍔にするだらうと云ふたら、小児は頭を左右に振つて、いやだいやだ、表へ行つて焼芋を買う、と云ふたと云ふ話がある、是れは摸倣の不消化を形容した一の諷刺であるが、我々は未来に於て今日の摸倣を飽迄も咀嚼して真実我が物に致さぬと、悪くすると植木屋の小児になりはせぬかと恐れるのであります、故に此の摸倣と云ふものは世の事物の発達に必要のものでありまするが、其不消化の為めに大なる過ちを惹起す事になりまするから、常に此摸倣をして真実に我がものと為し得るやうに心掛けて、植木屋の小児にならぬやうに致したいものである、依て玆に摸倣に対する処感を述べて、是で御免を蒙ります(完)
 - 第26巻 p.320 -ページ画像 


竜門雑誌 第一八二号・第四五―四六頁 明治三六年七月 【本社通常月次会 は本…】(DK260058k-0004)
第26巻 p.320 ページ画像

竜門雑誌  第一八二号・第四五―四六頁 明治三六年七月
○本社通常月次会 は本月十一日(第二土曜日)午後七時より兜町事務所楼上に開かれ、当夜は青淵先生及社長以下四十名出席し、此程米国より帰朝せられたる堀越善重郎氏の商工政策に関する欧米各国の歴史及現状を説て、我国商工政策に論及し、今後進んで大に保護奨励の策を取らざるべからざることを演述せられたり、夫れより西田敬止氏の催眠術に関する経験談あり、之に関し青淵先生と西田氏との間に面白き問答等あり、全く散会せしは午後十一時なりき、当日の出席者左の如し
 青淵先生    渋沢社長
 八十島親徳   斎藤峰三郎  松平隼太郎
 上田彦次郎   北脇友吉   堀越善重郎
 長谷川千代松  中野次郎   長谷川武司
 若月良三    増田亀四郎  柳田国雄
 吉田久弥    仲田正雄   南貞助
 青木昇     木村清和   井田善之助
 渋沢長康    利倉久吉   荒木民三郎
 田中楳吉    萩原久徴   小林義雄
 高橋俊太郎   岸田恭譲   高橋毅
 佐々木信綱   岡本亀太郎  石井与四郎
 諸井時三郎   松村修一郎  小山勝三郎
 西田敬止    浦田治雄   熊沢秀太郎


(八十島親徳) 日録 明治三六年(DK260058k-0005)
第26巻 p.320 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三六年   (八十島親義氏所蔵)
七月十一日 曇半晴
○上略 夜、階上ニ於テ竜門社月次会開会、青淵先生及社長ヲ始メ三十余名ノ来会者ニシテ、本日ハ来会者指名点呼、各自ヲシテ挨拶セシムル事ヲナシ、次ニ堀越善重郎氏ノ日本ノ商工業政策論ノ演説アリ、終テ西田氏催眠術研究ニ関スル実験坐談、青淵先生トノ間ニ問答アリ、先生ハ愈氏ヲ養育院感化部ニ紹介シテ不良少年感化ヲ試マシムルヨウナスヘシト、同氏ノ求ニ応セラル、十一時帰宅