デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.427-445(DK260070k) ページ画像

明治41年11月8日(1908年)

是日、当社名誉社員阪谷芳郎ノ欧米旅行帰朝歓迎ヲ兼ネテ第四十一回秋季総集会開カル。栄一之ニ出席シ「青年ノ奮起ヲ望ム」ト題シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260070k-0001)
第26巻 p.427 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月八日 晴 冷
○上略 此日ハ竜門社秋季総会ニテ、朝来続々会員参集ス、午前十時開会社長ノ報告ニ次テ佐々木氏ヨリ阪谷氏帰朝ヲ歓迎ノ詞ヲ述ヘ、阪谷氏答詞演説アリ、次ニ来賓トシテ高木男爵演説アリ、最後ニ一場ノ訓誡演説ヲ為シ、式畢テ園遊会ヲ開キ、午飧後種々ノ余興アリ、夕六時散会 ○下略
 - 第26巻 p.428 -ページ画像 


竜門雑誌 第二四六号・第七三―七四頁 明治四一年一一月 ○本社第四十一回秋季総集会(DK260070k-0002)
第26巻 p.428 ページ画像

竜門雑誌  第二四六号・第七三―七四頁 明治四一年一一月
○本社第四十一回秋季総集会 本社第四十一回秋季総集会は、監督阪谷男爵の帰朝歓迎を兼ね去る十一月八日飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり、折柄紅葉・菊花の好季節、殊に当日は好天気なりしかば開会前より社員陸続参集し、青淵先生・阪谷男爵並其家族を始とし、来賓には男爵高木兼寛・中野武営・角田真平・伴直之助の諸氏、其他下に記する如く四百余名の来会ありたり。
午前十時奏楽と共に一同会場に参集、渋沢社長先づ開会の辞を述べ、次に佐々木勇之助氏社員を代表して阪谷男爵帰朝歓迎の演説を為し、次に阪谷男爵の演説、高木男爵の演説及青淵先生の演説あり、之にて式を終り、直に園遊会に移り午餐の饗あり、同時に庭内各所に設けたる露店を開きて各人の欲する所に任せ、余興としては講談・落語・音曲・西洋手品あり、各自十二分の歓を尽して散会したるは午後四時なりき(当日の演説筆記は別項に掲ぐ)
当日来会諸君の芳名を録すれば左の如し
 青淵先生  同令夫人
  名誉社員
 渋沢篤二君  同令夫人
 穂積令夫人
 男爵阪谷芳郎君  同令夫人
  特別社員 ○下略


竜門雑誌 第二四六号・第六―二五頁 明治四一年一一月 ○本社秋季総集会に於ける演説(DK260070k-0003)
第26巻 p.428-442 ページ画像

竜門雑誌  第二四六号・第六―二五頁 明治四一年一一月
    ○本社秋季総集会に於ける演説
      (一) 佐々木勇之助君の演説
阪谷男爵閣下、諸閣下及び諸君、本日は唯今社長の述べられました如く、竜門社に於て第四十一回の秋季総会に兼て、今回欧米を御巡遊になりまして、無事に御帰朝になりました所の、本社の監督たる阪谷男爵閣下を歓迎する為に本会を開かれましたさうで、誠に御芽出度いことであります、且つ天気も好いので誠に大慶に存じます、此事に就きまして、一昨日でございましたが、社長から私に御申聞がございましたには、阪谷男爵が御出立の頃には、土岐僙君が此前の竜門社の春季総会に於て、御送別の辞を述べられまして、且つ面白い演説をされたのである、故に同君が居られたならば、今日の会に其歓迎の辞を述ぶるといふのが最も相当であるが、如何せん土岐君は仙台に行かれて東京に居られない、故に同君を連れて来る訳にいかないから、お前が代つて其歓迎の辞を述べたら宜からう、斯ういふお話でございました、所が御承知の如く土岐君は演説家を以て自ら任じて居られる方でもありますし、且つ人からも許されて居る雄弁家でございますから、さういふことには最も適当でございますが、私は御承知の通り学問はございませず、随て演説なぞと申すことを是まで致したことが無いのでございます、故に御辞退申上げて、どうか余人に其事は仰付らるゝやうに願ひたいと申上げましたが、併し兎に角男爵の御帰朝を歓迎すると
 - 第26巻 p.429 -ページ画像 
いふことに就きましては、私も熱心に歓迎する一人でございます、それで頻りに御勧めがあるに就きまして、一向是まで演説などを致したことがございませぬにも拘はらず、此席に罷出まして、聊か蕪辞を呈するに至りました次第でございます。
右やうな次第でございますから、唯今社長は社員を代表してと仰せられましたが、決して私は社員を代表するのでも何でもございませず、又代表する資格もないのであります、唯個人として男爵の無事に御帰朝になりましたことを喜びまする余り、此席に出て一言歓迎の辞を述べまする次第でございます、今日は大分御歴々の御方も御出席になつてお出のやうでございますから、どうぞ本社を代表するなり、若くは個人でなり、更にさういふ御演説のあらんことを希望致しまするのでございます。
阪谷男爵閣下が、多年我国の財政経済の要職に居られまして、学識経験に富まれて居らるゝといふことは、内外人の斉しく認むる所でございまして、今更私が申すまでもございませぬ、殊に日露の戦争中巨額なる軍費の供給に任ぜられまして、出征の将士をして後顧の憂なからしめ、又戦争後は大蔵大臣として、所謂戦後の経営に御任じになりまして、財政の整理は勿論、港湾の修築とか、海陸の連絡とか、交通機関の整備とか、或は商工業に対する政策とか、種々さういふことを企画せられました、其功績の少からぬといふことは、欧米の学者・政治家若くは実業者も、皆知つて居ることでございませう、其男爵が今度欧米を御漫遊になりましたのでありますから、各地の実況を視察せらるゝ上に就きましても、喜んで御迎をして、御調査其他の点に於ても非常な御便利があつたであらうと存じます、のみならず我国の財政の有様はどうであるかといふことは、欧米の人々は多少疑を抱いて居つたらうと存じますが、男爵が今度親しく彼地へお出になりましたに就ては、皆御目に懸つて其実況を伺ひ、其教を乞はんとした者が少くないであらうと思ひます、果して然らば同男爵の御出発の時分に、土岐君始め吾々が希望致して居りました我国財政の実況を、彼の国人に知らせて戴きたいといふことは、男爵から御求めになりませぬでも、彼方から進んでそれを伺ひたいといふて、十分に其御目的を御達しになつたことであらうと信ずるのであります、其証拠には現に倫敦とか巴里とか、外国に於きましての我国の公債の値段が、丁度男爵の御出立の頃ほひには、随分下落して居りましたが、御帰朝の頃には大分騰貴致して参りました、のみならず、随て段々此公債が欧羅巴の方に出て参りますやうでございます、それらの公債の価格が高くなり、日本の公債が追々外国に出て行くといふやうなことは、一時非常に逼迫であつた欧米の金融が、追々に緩んで参りましたといふ関係もございませう、又我国に於きまして桂内閣が成立しまして以後、頻りに財政の整理を御努めになりまして、或は公債の償還法を確実にするとか、何とかいふ御施設のありましたといふ為もございませうが、併し阪谷男爵が欧羅巴へ御出になつて、それぞれ要路の人に、日本の財政の情況を御話になつたといふことは、非常に効能があつたと私は考へるのでございます。
 - 第26巻 p.430 -ページ画像 
右の如く男爵の欧米御漫遊は、我国の財政の実況を海外に知らせたといふことに就て、多大の効能がございましたのみならず、財政上又は経済上に就きまして、欧米の実況を御覧になつて、我国の有様と御比較になるといふことに就ても、非常の御便利を得られたと思ふのであります、到底外の人が参りましては出来ない御調査も、男爵は容易にそれをお遂げになることが出来たであらうと思ひます、右やうに考へますると、今後我国の財政の整理とか、或は今後経済界を発達せしむるには、どういふ方法を以て如何なる施設をするが宜しいか、又吾々実業に従事して居ります者は、如何なる心得を持つて宜いか、又我国の現今の税制、即ち租税の制度は改革するの必要はないか、是等を初めと致しまして、国利を進め民福を図る事柄に就きまして、阪谷男爵の御胸中に御考になつて居ることは、多々あるであらうと存じます、丁度御出立の節には土岐君が種々御注文を申上げて、必ず御帰りの節には錦の袋に沢山の御土産を入れて御持帰りになるであらうといふことを申上げましたが、男爵は土岐君始め吾々の希望して居りますより以上の大ひなる、錦の袋に沢山御土産を入れて御持帰りになつたことと存じます、どうぞ此会に於きまして、其袋の口を少し御開き下さいまして、吾々に十分有益なる御土産を賜らんことを希望するのでございます。
終に臨みまして吾々の最も尊敬する所の阪谷男爵閣下が、御出立以来至て御壮健で在つしやつて、欧米の各地を御巡回になり、今回御帰朝になりましたといふことを祝し上げます(拍手)
      (二) 阪谷男爵の演説
閣下並に諸君、今日は私の先日帰朝致しましたことを御喜び下さいまして、此総会に於て御歓迎下さるといふことは、洵に有難うございます、光栄の至りに存じます、丁度今年の春の総会に於て御送別に預りまして、其秋の即ち此総会に於きまして御歓迎に預るといふことは、花を見て出まして、実を結びます時分に丁度帰りました訳でございまして、偶然とは申しながら大変に愉快に考へます、御送別の節には種種土岐君よりして御注文もございました、又今日は佐々木君からして御丁寧なる御挨拶に預りましたのでございますが、此春も御断り申して置きました通り、どうも僅かの旅行でありまして、又至て学識も浅く材料も無いのでございますから、立派な土産を持つて帰るといふことは出来ますまい、唯健康の身体を持つて帰りまして、それを土産に致しますといふことを申して置きましたのでございますが、即ち其言葉だけは達しました積りでございます、此半年の間に一日も寐ましたことはございませぬ、又三度の食事を一度も欠かしたことは無いのでございまして、非常に壮健で愉快に旅を致しまして、目方も殖えて帰りました、それ故に唯壮健な身体だけは持つて来ましたけれども、錦の袋も何もございませぬで、ホンの着の身着のまゝで帰つて来たやうな訳でございます
併ながら此旅をなさる御方の或は御参考として、多少の御話も致して見たいと考へて居りますが、固より今日は欧米を御旅行なさつた御方も沢山お出になりますし、又私より深く御視察なさつた御方もお出で
 - 第26巻 p.431 -ページ画像 
でございますから、一向役にも立たぬか存じませぬが、私が東京を立ちましたのが四月の十五日で、東京へ帰りましたのが十月の下旬でございまして、此間に丁度亜米利加と英吉利と欧羅巴大陸、それから露西亜・西比利亜・満州・朝鮮を経て帰りましたのでございますが、気候の順は大変に宜しうございました、それから廻り方も極く順序が宜かつたと考へますのは、東京を着て出ました着物で大概何処も歩きました、寒い時分には外套を一寸はおりますとか、又暖い時分には襦袢を一枚減らすといふ位のことで、殆んど其気候は暑くもなく寒くもなく、極く順当の所を歩きました、即ち此西比利亜の如きも大変に寒いといふやうな評判を聞いて居りましたが、一向寒くありませぬ、唯今着て居ります着物を着て歩きましたので、襦袢も格別重ねもせず、減しもして居らぬといふやうな訳で、非常に気候が宜しうございました満州・朝鮮も其通り、却て満州・朝鮮は少し暖か過ぎるといふ位に感じました、若し六箇月位の余暇を以て旅をなさるならば、私の出立致しました時候が一番好い時期のやうでございます、それから国を御廻りになりますにも、私の廻りました順が一番宜いやうで、それが逆に御出になると、暑い所へ御出になつたり寒い所へ御出になつたりするやうに考へます、丁度四月の十五日東京を立ちまして、四月の三十日に加奈太領のヸクトリヤといふ所へ着きまして、其翌日米国のシアトルへ到着しました、其シアトルから大北会社の鉄道でシカゴまで参りシカゴから他の鉄道に乗替えまして、ナイヤガラを見物致しまして紐育へ出て、紐育から華盛頓に参つて、華盛頓から費府、ピッツブルグを見物して、又紐育へ出て、さうして五月の末に有名のルスタニヤといふ船で英国に渡りまして、倫敦に着きましたのが六月の初めでございます、六月の十三日に仏蘭西の巴里の方に参りまして、それから七月の初めに再び倫敦へ帰つて来た、英吉利の各地を廻りまして、七月の二十三日に倫敦を立つて白耳義へ渡りまして、それから和蘭を経、漢堡を経て伯林へ一寸寄りまして、伯林からエツセン、即ち「クルツプ」の工場のありますエツセンの方へ参りまして、有名のラインの河を溯りまして、これは景色も佳し工場も沢山あつて大層立派な所でございます、此ラインの河を溯つて瑞西の方へ行きまして、瑞西の有名の湖水や又は都府を見物して、それからミランへ出て、ミランから羅馬へ出まして、羅馬から一寸ネープルスへ行つて、ポムペイあたりを見物して、又羅馬へ引返して、夫からヴェニスへ行きまして、ヴェニスからトリエストといふ墺地利の港へ渡りまして、トリエストからフユメといふ港へ参りました、それからフユメから土耳其の都の君士坦丁堡へ汽車で直行致しました、君士坦丁堡から又引返して、ブダペスト・維也納へ行つて、維也納から又伯林へ戻つて来ました、それから伯林から波蘭を経て、露西亜の聖彼得堡へ汽車で参りました、それから九月の十六日、莫斯科を立つて西比利亜へ出まして、此間が哈爾賓まで十日間掛りました、哈爾賓から東清鉄道に乗つて寛城子へ着きまして、寛城子から奉天・営口・旅順・大連といふ方へ出まして、それから大連から安東県へ渡るのが至て船便が悪うございましたから、これは満洲鉄道の氷を割ります船が丁度出来上つて居つたので、其船へ
 - 第26巻 p.432 -ページ画像 
乗せて貰つて安東県へ着きまして、さうして今度は安奉線といふものを視察する為めに少しばかり乗つて見ました、それから安奉線から引返しまして新義州へ渡つて、新義州から平壌・兼二浦・鎮南浦、又後へ引替して開城、それから京城に這入つて仁川・馬山浦・釜山、斯ういふ風に見物して参りましたのです、僅かの時日の間に見ましたことは大変沢山見ました、丁度活動写真を見ますやうに甚だ表面の視察を致したのでございますから、特に視察談として申上げる程の価値は無いやうに考へます、併しながら見たことは沢山見ましたし、又会つた人も随分沢山ありますのです、話を致しますといふと随分長くなります、それで尽く御話するといふよりも、或る一部々々を少し精しく御話した方が寧ろ宜らうと考へますから、今日は丁度場所も米国の実業家を御歓迎になつた場所で、私が歓迎を受けますといふやうなことであり、春出て秋戻つたのであるから、わざわざ青い葉を紅くして置いたといふやうな社長の御言葉もありましたで(笑)米国の方の話を少し致して見たいと考へます、それから米国と極く反対の土耳其の御話を少し致して見たいと考へますのです。
米国に於きましての有様は、諸君も精しく御承知の通りでありますが此米国といふ国は私等の方の学問から申しますといふと、今大切の問題になつて居ります国で、と申しまするものは彼国が非常な富の増殖の早い国であつて、非常な輸出超過の国である、盛んに外国から金貨を吸収する、何億といふ輸出超過になつて居るのです、又昨年の紐育の恐慌といふやうなことが起るとすると、是に対する適当なる救済の方法が成立つて居らぬといふ所から、此亜米利加といふものゝ商業の有様、又金融の有様といふものが、是は非常に世界全体の金融商業上に重大の関係を持つて居つて、全体どういふ風に之が解決せらるるものかといふことは、始終財政家・経済家の考へて居る所であるのですそれ故に私に於きましては、其予て疑問になつて居る所の場所の真中へ這入て行くのでありますから、非常な趣味を持つて居る訳であります、成程行つて見ますといふと、予て聞いて居ります通りに面積は非常に広い、さうして其面積の上に集つて居る人民と申しますものは、世界各国の人が皆集つて居るので、それで其世界各国の人が集つた事情といふのが、既に開けた東洋や西洋諸国とは違つて、各其自分の本国に於て、或は政治上の圧抑に堪へなかつたとか、或は非常に貴族其他に圧せられて志を暢ることが出来ぬとかいふやうな、多少本国を出立する際に於ても、皆刺戟を受けて、所謂脾肉の歎を抱く人が、世界各国から集つて来て、各々自分の好む所へ往つて居る、さうして其広い面積の内といふものは、世界に対しては保護貿易の国でありますけれども、其国の境の内は全然自由貿易で、少しも故障がない、彼の大なる面積の国が全然自由貿易を以て総ての事が成立つて、其処へ今申すやうな、多少既に本国を立つ時に、胸中に不平なり刺戟の考を持つて居る、所謂一癖ある人間が集つて来て遭つて居る、而して其富の有様はどうかといへば、鉱物といひ、森林といひ、穀物といひ、石油其他のものといひ、実に無尽蔵の如くに沢山あるのです、故に随てその経営といふものが、政治の方の圧抑もなく又歴史的の圧抑といふもの
 - 第26巻 p.433 -ページ画像 
もない、国々には歴史上の関係から、是は善いと思ふことでも、従来の遣方が斯うだからといふて、歴史的圧抑を受けることが随分ある、其歴史的圧抑もなく、又社会的に圧抑せらるゝといふことも、是は全然無いではないけれども、古い国から比較すれば、是も殆んど無いといふ訳である、其無尽蔵の富の上に、勇気勃々たる人間が各国から集つて来て、何等の圧抑覊絆なしに、此経済上の仕事を発展致して居るのであります、即ち此白紙の上へ画を書くといふやうな訳て、四角にでも円くでも、人間の有らゆる知識を絞り、人間の有らゆる労力を施して、最も経済上便宜なりとする形に於て物を仕立つて行くことが出来るのであります、先づ日本で工業なり商業なり起すと云ふと、イヤさういふ事をしては此地方に斯ういふ苦情があるとか、或は或る一派の人が起したならば他の一派の人が反対するとか、種々の故障苦情の為に、経済上の方の計画といふものが多少譲歩して行かなければならぬ、故に十で出来るものは十五掛る、或は十五で出来るものは二十掛るといふやうに、経済上のことが歴史上・社交上種々なる関係の為に便利と見ることを譲らにやならぬ点からして、物が色々不経済になつたといふことがあるのです、亜米利加に於ては即ち此経済上の便利といふ為に、政治も其他のことも総て譲歩して居る形になつて居るから非常に商工業の発達は有らゆる便利を得て居る、併ながら私の参りました時分には、既に余りに事が経済上の発達にのみ走り過ぎて居るから、多少憂国の論が始つて居る際でありましたのです、それは斯の如く、何も斯も総て経済上の発達といふことにのみ、目を注ぎて遣る結果、是では亜米利加の富が、今より三四十年の中には尽きてしまふといふ心配を有力者が始めたのです、即ち山林も失くなつてしまふ、鉱物も尽きてしまふ、土地も荒れてしまふ、有らゆる力を以て取れるだけの物を取つてしまふ、といふ風に、総ての富源保存といふ方には余りに着眼せずして、其処にある物は、どういふ算盤で、どういふ計画をして取つたら、最も早く最も沢山取れるかといふ方にばかり走る結果として、此通で行くならば三四十年の中には亜米利加といふものは何も無い国になつてしまふ、非常に窮境に陥るであらう、斯ういふ議論が始つて居りまして、丁度私が華盛頓に居ります時分に、ルーズベルト大統領の召集に依つて、各州の財政経済家、即ち有力者といふものを集められた、さうしてそこで富源の保存方法に就ての会議があつたのです、丁度私は其際華盛頓に居りまして、大統領に謁見も致し、大統領から種々お話もありました、続いて大統領が園遊会を催すからお出なさいといふことで御案内を受けました、其園遊会には今申しました各州の豪傑、所謂経済上の豪傑が皆集つて居られましたから、皆私の手を握らるゝ人が、貴方は好い時にお出になりました、今此「ホワイト・ハウス」の中に集つて居る人間は、これが即ち米国の総ての豪傑です、米国の経済上の豪傑の集つて居る所へお出になつて、貴方は一日の中に、一堂の中に見るの便宜を有したと、話して居られました、ナカナカ盛の議論も出ましたさうです、即ち其議論の生ずるのは私は尤もだらうと思ふのです、総ての事が極めて学術的に、極めて経済的に、何れの国何れの場所を問はず、亜米利加に於て計画せらるゝ
 - 第26巻 p.434 -ページ画像 
事業の如くに、他の関係を総て経済上の便利の為に譲歩して居るといふ例は見ることは出来ない、一寸上陸しても直ぐ解るのは、此鉄道といふものが、総て都府の位置から住居から、総ての事の中心となつて即ち交通機関の便利といふことを先づ最初に定めて、それに従つて総ての経済事業が経営されて居りますから、日本のやうに此処には乗客が多いから、此処には貨物が多いから鉄道を開くといふよりも、先づ鉄道を開いて人を運ぶ、先づ鉄道を開いて貨物を運ぶ、即ち鉄道が中心となつて、後の事はそれに伴ふやうに出来て居りますから、それを以て見ても亜米利加の経済的発達の、凡そ経済学者の論理上、為し能ふ限りを最も多く尽して居るといふことは直ぐ解る、随て一方に於て此富源の保存といふことが無かつたならば、其財を取尽してしまつた後は、沙漠になつてしまふといふ虞が成程無いといふ限りはない、先づ簡単に申せばさういふ状態の国でありますから、此国で五億・六億の輸出超過のあるといふことは、これは一向不思議はないので、然らば亜米利加で年々数億の輸出超過の為に、世界の金融といふものはどうなるであらう、まるで金といふものは亜米利加へ寄つてしまふといふ形になつて来るのですが、所がそれに就て一の平均を保つ方法といふものは、亜米利加人程沢山外国へ旅をする人はない、是は今度私も注意して方々歩いて見たのですが、何処へ行きましても亜米利加人程沢山見掛ける者はなく、又何れの国へ行つても亜米利加人の気に入るやうな設備が出来て居る、一寸羅馬へ行きましても「ホテル」に亜米利加の旗が立つて居る、即ち亜米利加人が泊ると直に機嫌を取つて亜米利加の旗を立てるといふやうな訳で、世界至る所、亜米利加人程沢山旅をする者は見掛けませぬ、是は即ち前に申しました亜米利加といふ国を拓きに来た人が、世界の皆一癖ある人が集つて来たので、其集つて来た人が、又故郷に女房を連れるとか小供を連れるとかして、見に行くといふことは人情あるべき筈で、即ち亜米利加人の世界至る所旅行者の多いのは、金が沢山あつて見物をする余力を持つといふことも、固より一の原因には相違ないけれども、元々他の国から移つて来た人であるから、故郷の方へ行つて見やうといふ考を持つのは当然である、又方々の国の人が皆集つて婚礼をして、種々なる家族関係が出来て居りますので、どうしても亜米利加の人は、亜米利加で沢山金を造つて、それを又世界各国へ持つて行つて消費するといふ風になつて居る、そこで年々輸出超過でありまして、亜米利加で出来た富といふものは、自ら世界各国に分散される形を為して居るやうであります、丁度私の亜米利加に居りました時は、御承知の通り非常な不景気の時で、これは亜米利加ばかりでなく、世界到る処不景気でありました、其不景気の為に亜米利加から欧羅巴の方へ参る人が非常に多い、是は金持ばかりではない、労働者即ち三等客あたりも非常に其数が多い、それはどういふ訳かといふと、亜米利加で二月なり三月なり唯閑で遊んで居りますと、其間の衣食住の費用といふものは、固より労働者が自弁しなければならぬ、其費用と、それから伊太利なり独逸なり、自分の本国へ帰つて二月なり三月なり暮す費用と比較して見ると、非常に本国の方が廉いので、例へば亜米利加で三箇月間三百円掛るものな
 - 第26巻 p.435 -ページ画像 
らば、本国へ帰れば其半分或は其以下で過せるといふやうなことになる、そこで計算して見ると、亜米利加で三箇月間唯自分が持出しをして居るより、船賃を払つて独逸なり伊太利なり、自分の故郷に帰つて親戚なり故旧なりに接する上に其方が暮し安いといふ計算になる、それでありますから、大変に亜米利加から欧羅巴へ向つて帰る客が多くどの船もどの船も満員といふやうな景況でありました、此一端を以て見ましても、亜米利加に於て非常な力を以て生ずる富といふものは、如何に分配せられて居るかといふことの趨勢を見ることが出来るので然らば其亜米利加に対する商売も、又亜米利加人に対する経済的関係及び相互の交通の関係を結ぶといふ上には、余程其趨勢のある所を考へて、以て其方針を定めるといふことが、相互の国の経済上に利益を与へ、又相互の国の経済上の発達を助けるに就て、非常に有益のことであると考へます。
さういふ関係のある亜米利加が、丁度私の参りました時が、非常なる不景気の際でございまして、それに就て段々議論を聴いて見ますといふと、現政府即ち共和党の政府に反対側の人の意見を聴くと、非常に悲観論でありました、此亜米利加の不景気といふものは、君の見らるる通りに、工場は尽く休んで居る、鉄道は殆んど貨車が四十万台も倉の中に入れて唯蔵つてある、といふやうな非常なる不景気である、此不景気といふものは、是より益々進むとも回復することはない、それは何かといへば、全体此共和党政府の政治の遣方が悪いので、斯の如くに資本家を苛め、総ての此経済上の発達を害するやうな政策を執るのであるから、此亜米利加の不景気といふものは、此共和党の政府の続く限りは回復の見込がない……丁度御承知の通りに、大統領改選期の矢先へ私は往つた訳でありますから、一方の反対党に聴くとさういふ議論で、到底此不景気回復といふことは、彼の政府が続く間は見込がない、故に吾々は起つて反対を唱へて、亜米利加の経済の回復を図らなければならぬといふ論であつた、所が一方の共和党なり又さう偏せぬ方の有力者の説は、さうは申さぬので、此米国の不景気といふものも、最早頂上は越した、頂上は越したからして今に回復するであらうが、併ながら玆に何かなさねばならぬといふことの問題が一つ残つて居る、それは即ち昨年の紐育の恐慌の如きものが、又来はせぬかといふことを皆恐怖して居る、所が自分達の見る所を以てすれば、紐育の恐慌の如きものが、此二三年の中に繰返されるといふことはないと思ふ、無いと思ふけれども、既に一度起つてあれ程の大影響、大波瀾を此亜米利加の商工業に及したのであるから、若も斯うしたら起らぬといふ安心を与へる玆に方法手段がなくてはならぬ、それが成立たぬ以上は、矢張不安の念が生じて居る、それが為に即ち米国で今議会に貨幣法案といふものが出て居る……「アルトリッヂ・ビル」といふものが下院に出て、丁度日本銀行では制限外の発行といふことが出来ますが、米国の現在の制度では中央銀行といふものがないから、金融逼迫の際に油を注す機関がない、そこで中央銀行を造らんとすれば各州皆反対して、さういふ中央集権の制度を此米国に立てるといふことは抑々米国の共和主義に反するといふて、どうしても中央銀行論が成立
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たぬ、中央銀行が成立たぬ以上は、金融逼迫の時分に制限外発行といふ機関が無いことになるから、其中央銀行の主義でなくして、中央銀行の働を為すといふやうな方法を附けて、金融逼迫の場合には、恰も日本で制限外の発行をするやうに、貨幣を増加する方法を造らうではないかといふことが、今申した如く、何か玆にしなければ不安の念を去ることが出来ぬといふに一致したものですから、其法案を出すだけは識者の議論が熟して来た、そこで下院の方からアルドリッヂの貨幣法案といふものが出て来た、所が其貨幣法案が下院を通過して上院に廻つた所が、上院のビリブランドといふ人が又一の案を出した、案が二つになつたから、そこで協議が六ケ敷くなつて来た、御承知の通り米国では有名の法律案には、其法案を議会に紹介した人の名前を附ける、即ちマッキンレー法とかセルマン法とかいふやうな類で、詰り其法案に名前の附いた人といふものは、非常に是が広告になつて、勢力家になる訳でありますから、即ちマッキンレーといふ人は大統領にもなつたが、それが為に此法案の名前争といふものが一の政治問題になる、下院の方から出せば、どうしても下院の方の人の名前を附けたくなる、又上院の人は此法案には上院の人の名前を附けたいといふ所から、其案の内容よりも、さういふ一の形式の上から事が起つて来て、とうとう物が握り潰しになつてしまふといふことがあるのでありまして、今の重要なる貨幣法案も、殆んど上下両院の名前の上の衝突で潰れさうになつて居りました、丁度私の華盛頓に参りました時に、大蔵大臣のコテリュー、これはナカナカ私の亜米利加で見ました人の中では、非常に活気に富んで居る人のやうに見受けました、余程経歴に富んだ人で、極く下級の役人から今日の位地にまで進まれた人であります、其人に会つて一寸話を聴きましたが、是非何かなさねば財界が安心せぬといふことでありました、彼の法案が通過しますかと聴きましたら、自分は通過するの成算を有して居る、又通過せしめねばなりませぬといふことを答へた、それから紐育へ帰つて来て見ました所が、紐育の有力者はもう多分通過せまいといふ考を持つて居つた、到底此二三年の内には再び紐育の恐慌のやうなことは来はしないから、あゝどうも上下両院の議論が一致せぬ以上は、調査委員でも設けて十分調べさせるより外仕方がない、到底法案は成立たぬといふやうな議論を紐育では聞きました、併ながら私は大蔵大臣が成立ちますと言つて居られましたから、何か成算があることゝ思つて欧羅巴へ立ちましたが果して彼の法案は殆んど議会の終りの日か何かに通過したやうなことでありました、それから今一つは、丁度私の紐育に居ります時分に、大統領が誰になるであらうかといふことが、一の紐育の財界に不安の念を与へる重要の原因になつて居つた、無論タフト氏が当選するといふことは、皆信じて居るのですけれども、併ながら愈々蓋を開けてしまふまでは、財界といふものは余程不安の念を持つものと見えて、それが始終財界の回復を圧して居つたやうです、所が私が紐育に居ります時分に一種の風説が株式市場に現はれて来た、即ち有名のハリマンといふ人とタフト氏との間に所謂黙契が成立つたといふ風説が起りまして、其以来此株式が非常に強味を持つて来たといふ有様でありまし
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た、それ故に私の紐育を立ちます時には、最早タフト氏の当選せらるることは疑もなく、余程財界不安の念もそれが為に消滅するといふやうな訳であつて、一方には貨幣法案が成立し、一方には大統領の候補問題も略ぼ片付いて居りますから、丁度紐育を立ちます時分に、是ならば亜米利加の景気も余程回復するであらう、さうすれば日本の生糸も……私が本国を出立する時分には、生糸が売れないで困るであらうといふ考を持つて居りましたが、其生糸も売れるであらうといふやうな話をして紐育を立ちました、倫敦に参つて、其後本国から電報を受取つて見ると、日本の生糸なども私の出立の時分に予想致したより、大変に能く売れたやうでありまして、非常に倫敦の日本人も意外に日本の貿易の宜かつたことを感じましたのです。
さういふ風に亜米利加といふ国は、世界の金融経済上に関係を有して居ることが大きいのでありますから、其関係を日本の経済・財政・商工業に従事の御方は、もう少し精しく承知して居られるといふことが必要であらうと思ひます、例へば今申しました貨幣法案のことなり、又タフト氏の選挙のことなり、それそれ日本の商工業其他に関係して居らるゝ人は承知して居らるゝことでありませうが、未だ亜米利加の事情を解剖して能くそれを研究するといふことが、日本に於ては十分でなからうと考へますのです、序でありますから申しますが、彼地の商業会議所とか或は大きな会社などで、一番私の目に着きました一の事は、何といひますか調査部といふ名を附けますものに、大変重きを置いて居ります、もう大きな会社なり又は銀行などになりますと調査部といふものゝ機関に、余程有力の人を集めて、内地に起つたことは勿論、外国の事情でも、例へば日本の人が日本の株式なり其他に関係して居る人は、皆日本の事情を能く調査して将来の株は上るとか下るとかいふことは知らねばならぬから、それは勿論相当の調査をなさるであらうが、日本人が自分の国を調査するよりも、もつと精しく遣つて居りますやうです、仏蘭西あたりの有力の銀行へ行つて、調査部などを見せて貰ひましたが、日本の財政の事なども余程精しく調べてあるといふやうなことでありまして、此調査部の機関に重きを置いて居るといふことは著しい事実であるのです、是に反して日本の総ての会議所とか或は銀行・会社といふものは、経費を節減するといふことも固より大切でありますけれども、それ故に調査といふことがどうも薄弱のやうで、又それに重きを置いて居られぬやうです、又調査をするといふて見た所が、其調査の仕方が極く粗雑のやうであります、丁度日本の軍事と比較して申しますれば、参謀本部あたりでは非常に軍事上のことを緻密に調査し又それぞれ各国へ出て居る公使館附武官とか大使館附武官とかいふやうな者も居つて、始終自動車の発明が出来れば自動車のこと、無線電信の発明が出来れば無線電信のこと、総て各国の事情を能く調査して居られる、それは金も沢山使つて居る訳でありますが、併しながら此肝心の日々の経済上の戦争の上に於ては、調査といふことは一層必要であつて、それに依つて新規の事業を判断して行かなければならぬのに、或は一の事業が起れば、咄嗟の間にそれを調べるといふやうなことになりますから、調査が頗る杜撰で、統計
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なども或は其処に従事して居る人が勝手に割出すので、甚だ当にならぬ、一夜作りの統計で物を判断するといふやうなことになつて来る、それ故に調査部といふものにもう少し重きを置いて、即ち米国あたりの事情をもう少し能く調査するといふことが必要であらうと、自分の狭い判断か知れませぬけれども考へました、単に調査といふても輸出入ばかり見たのでは解らない、種々なる他の事情までも精しく調査をして置かなければならぬ、さうして彼の国の事情と、此方の商工業の計画とが、始終相伴つて行くやうにせぬと役に立たぬと思ひます。
それからして此土耳其の方のお話でありますが、大分時間も経ちましたやうですから、極く少しばかりお話して置きますが、これは余程違つた国であります、夙に欧羅巴各国を見て行きますといふと、非常に事情が違つて居る、又諸般の制度が他の国の如くに簡単に統一して出来て居らない、例へば土耳其には今のボスポラス海峡の側に土耳其の都があつて、其処の景色も佳し港も深うございまして、丁度両国橋見たやうな所で、其処に甲鉄鑑も水雷艇も皆繋つて居るといふやうな有様で、其両国橋といふものは非常の繁昌で、橋の上は一抔人が密集して居つて、殆んど通れませぬ位の有様でございますが、其橋銭といふものを一々払はなければならぬ、それから又其河の中を彼方此方往来して居ります小蒸汽の渡船があります、それも勿論皆渡銭を取りますのです、さうして其橋銭なり渡船の収入といふものは、皆海軍省の収入になるのです、勿論それだけで海軍の維持が出来るといふ訳ではありますまいけれども、即ち財政などの遣口が、日本や他の国の如くに物が組織的に統一して出来て居らぬといふことは、直に観察し得られるのです、丁度私の参りました時は、所謂土耳其の改革党が勢力を得た時で、御承知の通土耳其にはヤングトルクス……少壮改革党といふものがあつて、それが長い間巴里の方に一種の機関を持つて居つたのです、丁度先般マセドニヤの問題が起つて、其マセドニヤに列国が干渉するであらうといふ虞を生じた、それでマセドニヤ問題に就て列国から干渉を受けるといふと、愈々土耳其の国辱となる訳であるから、そこで今の土耳其の改革派の人が、第三軍団長の所へ行つて、色々話をして、其第三軍団長が同意して、詰り軍隊の力で改革を遣つた訳で私の行きました時分には、前の海軍大臣は監獄に繋がれて居られて、他の前国務大臣は皆陸軍省へ御預といふことになつて居つた、陸軍省へ御預といふのはどういふことかと聴いて見ましたら、日本で云へば座敷牢みたやうな体裁で、あなた方が外へ出ると、人民が非常に激昂して居るから危険である、それ故に陸軍省の中に暫く忍んでおゐでなさい……家族が来れば無論会はせもする、詰り座敷牢で外へ出ることはならぬ、さうして段々改革をしたものと見えて、市中を歩いて見ますと、改革党の人は皆胸に赤十字社の徽章のやうな標を附けて、市中を歩いて居るといふやうな訳でありました、殊に此土耳其に於ては、非常に日本を手本とするといふことを、改革の一の奨励の手段として居るので日本人に見習へといふことを以て、非常に人気を鼓舞して居る、小学校あたりで、私は行つて見ませぬが、話を聴くと非常に日本人を見習へといふことを教へて、さうして小供に日本万歳といふ唱歌
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を作つて歌はせて居るさうで、のみならず私の会ひました土耳其の一海軍士官は私に向つて、自分は一週間前に一人の男の子を持つた、それにトーゴーといふ名を附けた、どうぞ東郷大将に其事を一つ申上げて呉れといふ話をして居りました、それらを以て見ましても非常に日本に対して、兎に角日本といふ国は憲法を行つてえらい国である、日本に見習へといふ人気の盛なることは解るのであります、土耳其の憲法は御承知の通り今から三十年前に一度布告せられたので、今度が始めてゞはない、所が当時露土戦争に土耳其が敗北したものですから、憲法といふものを立つたけれども、戦争に負けるやうな憲法では何にもならぬといふやうなことであつたか知らぬが、それぎり憲法は廃止になつて居る、それを今度三十年前の憲法を復活して、此十一月に議会を召集し、憲法の運用が始まるといふことでありますから、是から先土耳其の政治が、どういふ風に移り行くかといふことは、段々事実に現はれて来る訳です、所が私が立ちましてから、ブルガリヤの独立問題から引続いて色々の問題が起つて、随分土耳其の問題といふものは、列国に於て一の心配の問題になつて居ります、がこれは重に外交上の問題でありますから、此席で論ずるのは少し場所柄でないと存じます、併ながら此土耳其に御出になつて何方もお感じにならうと思ふのは、如何にも地形の佳い所で、丁度馬関の海峡みたやうに、あれより幅の狭い所があります、昔波斯のザルクゼスが渡つたといふポンタスといふ所などは、幅が二丁か三丁位かない、狭うございますが随分長い海峡で、海は深ふございますし、瀬は非常に早い、併ながら向ふを見れば亜細亜、此方を見れば欧羅巴、其亜細亜・欧羅巴の間を扼して居ります、実に天険の場所でありますからして、其処へ行つて海岸の小山の上に立つて眺めると、昔の歴史を憶ひ出して、所謂無限の感慨が生ずるのであります、それから又亜細亜の方の部分には、御承知の通独逸の関係して居るバグダツト鉄道といふものが、非常に立派に出来て居ります、これは海の中へ大分長い突堤を拵へまして、波が沢山ある訳ではありませぬが、船着の便利の為にずつと防波堤を造つて船が岸へ横着になる、岸に上つた所には非常に立派な停車場の建築が出来て居る、而して鉄道の設備は実に立派なもので、亜米利加や欧羅巴でも稀に見る所のものであります、其停車場から左の方にずつと、小山がありまして森がある、其処に墓が一つある、あれは誰の墓かと聴いた所が、それは今年の三月頃に亡くなられた、土耳其の都に駐在して居つた英吉利の大使ニコラス・オコネルといふ人の墓である、なぜ斯様な所へ大使の墓を立てたかといつたら、それは大使の遺言でございます、自分が土耳其で大使を勤めて居つた間に、此バクダツド鉄道といふものが他国人の手に落ちて出来た、是は自分の千秋の遺憾である、私が死んだらばボスポラスの海を睨んで居るから、どうかボスポラスの海の見える所へ埋めて呉れといふ遺言でございました、斯ういふことであつたといふ話でありました、それは唯人の話でありますけれども、成程彼処の海峡といふものは、随分列国の関係の深い所でありますので、さういふ風な忠臣を英国に持つて居られるといふことは、洵に嘆賞すべきことであらうと思ひます、兎に角土耳其といふ国
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は、余程事情の違つた所で、まあ欧羅巴をお歩きなさる人は一度行つて御覧になる価値のある所で、所謂列国の政治上の関係の最も接触する場所になつて居るやうに考へられます。
今日は御丁寧なる御案内を受けまして、洵に有難く存じます、前申しまする通余りお土産としてお話申す程のこともございませぬのですが社長並に佐々木君からして、旅行中の話をしろといふことでありますから、米国の話とか土耳其の話とか、一二致しましたが、是は到底親しく膝を交えてお話する外には、十分な実のある話といふものは、ナカナカ出来悪いものでございます、それ故に先づ旅行談と致しましては此辺に止めて置きます、其他に又種々見ましたこと聞きましたことに就て、面白いことも沢山ございます、又私の同行者は御承知の通十一人でありまして、途中で段々別れて帰りました、私は第一軍で帰つて参りましたが、第二軍の馬越君が既に一昨日かお着きになつたといふやうな訳で、段々別れ別れに帰つて来るやうになつて居ります、併し始終多数の日本人の御方、又多数の私の友達に取巻かれて居りましたから、最初立つた同行者の数は途中で別れましたけれども、矢張此西比利亜を旅行致します時分には、日本人の数が十四人あるといふやうな訳でありまして、総て六箇月間色々風土事情の異つた所を歩きましたけれども、小さい日本を始終一緒に同道して歩いたやうな訳でございますから、何等の淋しいこともなく、始終愉快に賑かに旅を致しましたのです、或は言葉を研究したり事情を探つたりする上に於てはどうであつたか知れませぬが、兎に角旅行中誠に愉快で、色々見聞したことを話合ふといふやうなことで、誠に愉快の旅でありました、それともう一つ申して置かなければならぬのは、私の身に感じました感触が、何れの場所、何れの国に行きましても、誠に愉快に満足に感じました、例へばシアトルを通過します際の如きも、税関の役人の取扱といひ、又移民の検査をする役人といひ、殆んど私はさういふ機関のあるといふことを知らぬ位、向ふの方から敬礼をされますからあれは何方かと云つたら、あれは検査官であります、あれは移民の検査をする役人でありますといふことを、船の人から聴いて知つた位、実に愉快にさういふ税関とか何とかいふことに就ては、何等検査を受けるが面倒といふやうな念慮を生じなかつたといふことを申上げたい、それからして、又到る所に於きまして、総て群集の中に行つても、又特別に案内を受けた場所に行つても、又非常な有力者に出会つても、或は又極く労働者の間に這入りましても、私の感触が誠に親切丁寧であるといふことを感じました、又欧米に在留して居られる日本のお方々から、非常に珍らしい友達が来たやうに、大層懇切なる歓迎を受けました、それは満洲・朝鮮に於ても其通であります、それ故に私の旅行中は誠に愉快に何等不満の事柄がない、或は日本人を支那人と間違へるとか、石を投げるとかいふやうな話を、洋行なすつた人から時々聞いたこともありますが、さういふやうな事は絶えてない、或は或る大学校に於きましては、特に私に来て一場の講義をして呉れといふことで講義を致したこともございます、其場合に於ては、其処の卒業生の人人が丁寧に手帳に書留めて居られるといふやうな訳で、唯珍らしい話
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を聴くといふのでなく、一の参考として聴くといふ様子が十分に見えました、其他停車場に於きましても何処に居つても、日本人に対して彼の日米戦争の風説のある中に於ても、何等不愉快の念を生ずる場合に遭遇しなかつた、桑港あたりの出来事も能く聞きましたけれども、さういふことが有り得るかと感じまする位、さうして所謂国民の自然的に発した……政府から命じたとか何とかいふのでなく、国民の自然的に発した懇切の待遇を受けたといふことは、私に於て非常に愉快に思ひ、又名誉に考へるので、即ち此竜門社諸君を代表したといふ点に於て、是のみは多少の土産と考へます、其他には何も土産はございませぬ。(拍手)
      (三) 高木男爵の演説
本日竜門社の総会をお開きになるに就きまして、御招待を受け甚だ有難く感じた次第であります、本年に拘はらず、年々御案内を戴きまするけれども、何や斯やの都合で一向伺ふことが出来なかつたのでありますが、本年は幸に伺ふことを得まして、玆に多数のお方に御目に懸ることを得ましたのは、甚だ喜びに堪えぬ次第でございます、然るに何か来たから話せ、斯ういふ社長の御申聞でございまして、此処に罷り出るやうに相成つたのであります、別段腹案もございませぬからして、何等役に立ちさうなお話も出来ませぬ、段々社長のお話を承りますれば、此竜門社は四十三年余《(マヽ)》を経過致しまして、本日亦此総会を開き、阪谷男爵を御歓迎になつたといふばかりでなく、段々此会が発育致して、模様替をしなければならぬ有様になつて来た、模様替とは何を意味するかと申せば、小供が段々成長致して大人になつて来たからこれに着せるやうな着物を拵へなければならぬ、其準備も着々進んで居るといふやうなお話でありました、就きましては着物ばかりではない、住居も造らなければならぬといふ意味合であらうと思ひます、これが何に依つて斯の如くなるのであるかと申しますれば、一定の主義綱領を立て多くの人が是に依つて以て力を合せるの結果と申す外なからうと思ひます、是に就て私は深く感ずることがあります、近頃旅行を致して、是までなぜ気が着かなかつたかと思ふことに気が着きましたから、此事を一寸祝辞に替えて申上げたいと思ひます、例へば上野の公園に行つて眺めますると、高く聳えて居る建物は何であるかと申せば、先づ築地の本願寺の御堂・浅草本願寺の御堂、或は観音堂といふものが直に目に映ずるのであります、是は何を意味するのであるか此事が是まで解らなかつたのであります、唯大きな建物があるといふことのみでをりました、けれども熟々之を考へて見ますれば、即ち多くの人が一定の主義に依つて、力を合せたる結果、約めて言へば共同一致の結果であるといふことを示すものであると、いふことを始めて気が着きました、独り東京ばかりではありませぬ、地方へ参つても高く聳えて居る建物は、何れも寺院であります、これが即ち多くの人が一定の主義に依り、心を一にし力を合せた結果であることを示して居る、これは事実であります、それ故に私は一寸考付ましたことを祝辞に替えて申上げたいと思ひます、私は詩吟は下手です、且又咄嗟のことで文字を並べたゞけてありますから、其積りで聴いて戴きたい
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 一矢可輙折    十矢不可折
 余深感此言    着々当其節
 仏氏不関世汚隆  独有法幢翻春風
 因縁熟所功徳大  感化衆生是其功
 寺塔高聳法灯明  可見協同一致誠
 若集衆力為一団  天下何事又不成
終に臨みまして、竜門高く聳えて益々興隆せんこと祈る(拍手)


竜門雑誌 第二四七号・第一―五頁 明治四一年一二月 ○本社秋季総集会に於ける演説(十一月八日)(青淵先生)(DK260070k-0004)
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竜門雑誌  第二四七号・第一―五頁 明治四一年一二月
    ○本社秋季総集会に於ける演説 (十一月八日)
                      (青淵先生)
時間も大分経つて参りましたから、簡単に一言申述べて、園遊会に移るやう致したうございます、例として此総会には何か愚説を申述べなければならぬやうに相成つて居りますから、此演壇に上りました訳でございますが、殊更に心着いて斯る事を申述べやうといふ、十分な腹案がございませぬで、立ちましたが寧ろ困却する位でございます。
今日の総会は阪谷氏の旅行をせられて、帰朝されたのを歓迎致すといふことで、佐々木君から此会を代表されて、御申述がありましたし、又旅行談も阪谷氏からお述べがございましたけれども、其談話は未だ其端緒を開いた、所謂行李の口を僅かに開いたに止まるかと思ふのでございます、私は春季の総会に、阪谷氏を送別する時分に、古めかしい范文正公の岳陽楼の記を以てお送り致したやうに記憶致して居ります、居廟堂之高則憂其民、処江湖之遠則憂其君、是進亦憂、退亦憂、然則何時而楽耶、といふ文章は実に深い意味のある処で、私は常に之を愛読して居るから、丁度阪谷氏を送るに、至極好材料と思ふたのです、殊に其記の中に、天気の好い時には斯うである、風波の高い時には斯うであると叙述された味ひなどは、人の海外の旅行中には、必ず生じ来る観念であらうと考へましたので、此一篇の文章を能く記憶されて、成るたけ憂を先にして、楽を後にしてもらひたいといふことを申述べて置きましたのでございます、阪谷氏から只今亜米利加と土耳其のお話を承りました、又各地到る所の待遇が頗る鄭重であつて、常に便利に且愉快に経過されたといふことは、洵に同氏の為に大に賀する所である、蓋し同氏の従来の国に対する勤労が、自ら海外に於てそれだけ報い来た訳でもありませうし、同時に国家がそれだけ他邦に重きを置かるゝといふことを考へられたことであらうと思ひます、而して氏が旅行中に於て、亜米利加・土耳其以外の国々に対する観察は如何であつたかといふことは、又更に重ねて聴くことを得たいと考へるのでございます。
私は玆に特に竜門社の少壮諸君に申述べたいと思ふことは、斯の如く一阪谷君が旅行されても、日本人として厚遇を受けるといふことは、即ち国家の成長の結果と申しても宜しいと思ふ、竜門社の発達より国家の成長が一層拡大されたと喜びまするけれども、併し今日此大国民とも自ら称するお互が、果して総ての点に於て疾しき所なきかと、自ら反省したいと思ふのでございます、此場処を設けたのは、過日亜米
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利加の太平洋沿岸の実業家連中が、我商業会議所の連中から案内されて日本へ渡来したので、商業会議所とは長い間縁故のあつた私であるから、来遊者の歓迎会を開いたら宜からうと考へて、此処に小宴を催したのでありますが、其人々の近日帰国せらるゝといふに就て、委員長たる桑港の実業家ドールマンといふ人に両三日前帝国ホテルに於て面会して、種々談話を致しました、此談話は単に相互の自由談話でありますから、国家に深い関係を持つ訳ではありませぬけれども、併し其言葉の中に、二三竜門社の少壮諸君に御注意申さねばなるまいと思ふことがございますので、玆に一言を申述るやうに致します。
ドールマン氏一行の日本に於て受けた歓迎は深く喜ばれたやうで、先づ第一に横浜に、東京に、続いて大阪・京都・神戸と、各地到る所歓迎を受けたことは、誠に愉快に感じた、真に温い懇親の情を以て迎へられたと思ふ、近頃米国が日本と何か不快のあるが如く評判のあることは、誠に悲むべき話で、事を好む新聞紙の虚構の言と自分等も堅く信じて居るから、それらに就て聊かも意に介することの無いのは申上げるまでもない、といふて日本に於ける各地の待遇を真実に喜んで居られたやうです、其点は誠に満足である、而して種々なる事業、若くは風俗等の色々なる談話に渉つて日本人に対する観察を聴きますと、斯ういふことを言つて居つたのです、誠に極く親み易い情愛の深い人民と申上げ得られるやうである、殊に総ての学生などが到る所吾々を歓迎して呉れることなどは、最も愛らしく最も愉快に感じました、併し之を概括的に申上げると、日本人の性質は少しカルハズミといふ嫌ひがありはしないかと思ふ、私共を歓迎して呉れるのがカルハズミといふ訳ではないけれども、慎重な態度に富んで居るとか、克己の念慮が強いとか、いふことは申上げられぬやうに考へる、甚だ失礼の申分だが、日本人の通有性は俄かに物に熱し俄に冷める、或は俄かに進み俄かに退き又は変ずるといふことがありはせぬかと思ふと、申して居られた、私は嘗て東京にある第一高等学校より望まれて、学生に演説をしたことがあります、其時に大国民の態度といふことを演題として述べて、どうも日本人は物に激し易い性質がある、動き易い気質を持つて居る、沈思とか、荘重とか、深厚とか剛毅とかいふやうな、英吉利人流儀の思想人格よりは、下ると言はねばならぬやうである、是がどうして大国民の襟度と言ひ得るかといふて……何だか日本人に対して議論を仕掛けたやうなことがありました、今日思ふても我ながら可笑しうございますが、併し真にさう思つたから言ふたことである、さういふことがあつたから、今のドールマン氏のカルハズミの性質があるやうに思ふと、言はれた時に強く胸に感じて、自分もさういふ性質が多少あるやうに思ふが、我同胞にはどうも多い、蓋し物に感ずるといふことは、或る場合には悪いではないけれども、併しカルハズミに感激して、直に忘れるといふことであつたら、何の効能も無い訳になるから、余程其辺は心して、平日の修養が肝腎であると、斯う思ふて其言葉に対しては深く意を留めました、斯る喜ぶへき席に左様な事を申すのは、或は時機を得ぬかも知れませぬが、どうぞ若い人達は総て物事がカルハズミにならぬやうに、深く心懸けて貰ひたいと思ふので
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ございます、今一つ彼れが言ふたことは、私などが斯く申すと、ちと自惚の如くに聞えて、解釈に依つては甚だ自負が強いと言はれるやうになるか知らぬが、斯ういふことを言はれた、日本は維新後短い時間に能く総ての事物が斯の如くに進歩した、而して見渡す所では政治界に実業界に其他の方面に就て先輩の意見が後進者にずつと行渡つて、先づ同じ方針に進歩されて居るやうに、見受けらるゝは甚だ感心である、殊に実業界に於てさう思ひます、思ふに日本は長い歴史を持つて居る国でございますけれども、実業界の方は、未だ年月が甚だ短いと申上げなければならぬ、其短い年月に於て、斯の如く進んで参つたのは、畢竟実業界に深く苦心されたお人も沢山あらうし、又政治界・学問界からも之を誘導扶掖した結果もあらうと信じまする、而して私の見渡した所では、此政治界なり実業界なりの先輩のお人と、後進の多数のお人との権衡が甚だ宜くないと思ひます、換言すれば後進の多数の人の権衡がもう少し発達して来ねば、第二期の人が第一期に負けぬやうになるや、否或は段々に後が退歩しはしないかと思ひます、さういふことは無からうとは思ひますけれども、見渡した所は先輩に人物が多くして、後輩に其位地に進み得るや否やといふ疑ひがあるといふ語気に聞えたのです、是は彼の見違ひではあると信じたいけれども、これも私が心には深く感ずることがあつたゝめに、其事を此序に申述べざるを得ぬ次第になつたのです、それは何かといへば、客月の初でありました、私は横浜在住の東京高等商業学校出身の人達が同窓会を開くに就て、一場の演説を請ふといふことで、出て一席の話を致した其時に私の講話は別に題を掲げずして、唯座談的にお話したのでありますが、自分等は実業界の第一期の人と思ふが、唯第一期だけあつて第二期が無くてはならぬ、否第三期・第四期と、階級が段々進んで行つて、始めて日本の実業界が真実に力あるものになる、真実に道理正しく進んで行くであらうと思ふ、此処に集つて居るお人々には、年長者といふても四十前後である、私などとは殆んど親子の違ひがある、甚だしきは孫の年齢の人である、即ち第二期者である、私は第一期であるが、第一期の商売社会といふものは斯ういふ有様であつたと、横浜開港当時の有様、外国商館等の状態を話し、吾々は斯ういふ情けない待遇を受けた、例へば生糸の荷扱ひの有様であるとか、商館の為替の取組の方法であるとか、既往談によつて、未来を奨励する一場の談話をしたのでありますが、其時私が深く思ふた事と、ドールマン氏の観察が、同問題であつたによりて、若し此観察が間違つて居れば宜いけれども、事実であつたら、甚だ悲しい話であると私は感じたのであります、故にどうぞ此竜門社の若いお方は、別して是から自ら磨き自ら奮つて、第一期の人に第二期の人が下ると、外国の人から言はれぬやうに覚悟して貰はなければならぬのであります、世の進んで来るに従つて、段々光栄ある待遇を受くると同時に、己れの責任は増すものであるといふことは申すまでもないことであります、唯尊敬ばかり来るものではなくて、尊敬されると同時に責任が増す、名誉と同時にそれだけの義務が生ずる、其義務を果さなかつたならば、名誉は反対に不名誉となり、尊敬は却て反対に軽蔑となるのでありますから、そこ
 - 第26巻 p.445 -ページ画像 
に深く御注意なさらねばならぬといふことは、私は始終口癖の如く申すのであります、外国人の吾々国民を観察するは、種々なる方面から色々の注意を用ゐるといふことを呉々もお忘れないやうに致したいのであります、追て又或る時機に於て、阪谷氏の海外旅行に就て、吾々一般若くは実業界に対する観察は伺ひ得る機会があるであらうと思ひますけれども、呉々も今ドールマン氏の日本人に対する、又吾々実業界に対する一二の談話は、大に耳を傾くべきことであらうと考へましたので、此席に於て青年諸君に御注意を乞ひたい為に、一言を述べた次第でございます、是で御免を蒙ります。(拍手)