デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
4款 東京高等商業学校
■綱文

第26巻 p.668-680(DK260111k) ページ画像

明治41年10月2日(1908年)

是日栄一、横浜銀行集会所ニ於テ催サレタル当校横浜支部例会ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260111k-0001)
第26巻 p.668 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
十月二日 半晴 涼
○上略 午後六時過横浜銀行集会所ニ抵リ、高等商業学校出身者ニテ設立シアル同窓会ニ出席シ、会員七八十名ト夜飧ヲ共ニシ、食卓上一場ノ懐旧演説ヲ為ス、夜九時過ノ汽車ニテ帰京シ ○下略
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東京高等商業学校同窓会会誌 第六一号・第一三―三六頁 明治四一年一二月 横浜支部報告(DK260111k-0002)
第26巻 p.669-680 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第六一号・第一三―三六頁 明治四一年一二月
    ○横浜支部報告
                    同窓会横浜支部幹事
    東京高等商業学校同窓会本部 御中
拝啓、時下秋冷の候に御座候処、会友諸兄愈御清栄の段奉賀候、扨十月二日当支部第四十二回例会を当市銀行集会所に開催致候、当日は予て渋沢男爵を御招待申上、幸に御承諾御来臨可被下筈の事とて、会員諸氏等より其謦咳に接せんとて出席するもの非常の多数にて有之候ひき、午後五時二十分男爵には御来会、次で六時卓を開かれ申候、一橋の門を潜りし当時の健児一堂に会し、往時を語り将来を卜し、宴正に酣ならんとする時幹事宮川久次郎氏は立て開会の辞を述べ、併せて男爵に会員諸氏の為め何か有為の御講話有之んことを希望し、之に対し男爵は当市に関する懐旧談を語り、終て坂仲輔氏の会員を代表しての謝辞有之、午後九時を以て近来稀なる盛会を終了致し候
渋沢男爵の講話及び宮川・坂両氏の挨拶は速記と致し、之を御送附申上候間、左に御掲載被下度願上候
尚当日の出席者は左の通りに御座候
  主賓 渋沢男爵
   会員出席者 ○六十一名氏名略
    宮川久次郎君
○中略
     男爵渋沢栄一君
  今夕の同窓会の御会合に御案内を戴いて、此盛筵に列して御鄭寧なる御饗応を戴きましたのは、此上もない悦ばしい次第でございます。此程中から御当地の同窓会が総会を開かれるに就き、私は学問を致した者ではございませぬけれども、特に此商業学校には多少の縁故を有つて居りますから、其縁故に因んで、是非一日出て諸君に御目に懸るやうにと云ふ御案内を頂戴いたしましたから、喜んで参上するといふ事をお答致し置きましたのであります。即ち今夕斯くお若い方々と相会して、種々なる談話を交えますことは、是位愉快な事はございませぬ。只今宮川 ○久次郎君から、御鄭寧なる御挨拶を戴きまして、頗る汗顔の至りでございます。併し私が其お言葉に悉く当るといふことは出来ませぬけれども、蓋し事実に相違ないとお答を申しますには躊躇致さぬのでございます、皆様の母校たる東京の高等商業学校の其初期に就ては、私はもう已に官途を去りまして実業家になりましてから、其存立に、若くは維持に、相当なる力を尽したと申上げ得るからでございます。今夕は何を申上げて宜からうか、殆ど此席で陳上する問題すらちよつと考へ当りませなんだから是から申上げますことは殆と帰一する所のないやうな、所謂思出の談話たるやうに相成るだろうと恐れますけれども、今宮川君は、この集つた者は皆お前等の丹精から出来たものであるぞよ、と仰せられましたが、私、諸君を教育して斯様な立派なお方々にしたとは申されぬ、それだけの自負心は、如何に私があつかましくても思へぬ
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けれども、併し私が心配した学校から斯かる有為の人々を出したと云ふと、少々の手続は違ふても、つまり己の丹誠から成立つたお方方と斯う思うても、えらい間違ひはなからうと思ふ。旁々以て他の御席に出て唯義理一偏のお話をする様に順序が合ぬとか、権衡が違ふとか云ふことでなく、詰り家族的談話の如き心地を以て、既往談の種々なることを取交ぜて申上げるやうに致さうと思ひまする故に甚だ統一する所がなくて御聴づらうございませうけれども、蓋しそれが真情実話だと御聴取りを願ひたうございます。日本の今日迄の進歩は、他の方面も大に進んで参りましたが、吾々商工業界も同様に相当なる進歩は為し来つた、其進歩は之を要するに学問の力と言はねばならぬのでございますから、諸君今日迄の御修学と共に、今日は事実に於ては学校にお出なさらぬでも、此学問をして実際と全く離れぬやうに、更に一歩々々と進めて行くことは、私が申上げる迄もなく、御意念であらうと思ふのです。凡そ世の中は聯関して、継続止まず進んで行かねば、真正なる富強の国にはなれないのである。ちよつと一時いくらか優れた人が出ても、其後は普通の人間である。其次はもう一層下ると云ふやうな有様に経過して行つたならば、矢張りお隣の国に似寄つたもので居ねばならぬと、遂に言はれるであらうと思ふ。縦令其健康が長く保つと言つても、七十とか八十になれば段々老衰してしまふ、新陳代謝は数の免れぬことでございますから、私共は失礼ながら先づ初期の商工業者である、第二期は此御席に居る方々が之を継続して、三期・四期と進めて行きたい其進み方はどうぞ玆に図を引いたやうに、下へ向かずして上へ向くことを、私も希望して止まぬと同時に諸君も期待なすつて御座るであらうと思ふのでございます。今宮川君の仰しやられた諸君の母校の其初を申しますと、或はもう御聴覚えの方もございませうけれども、学問の商工業と甚だ疎遠であつたと云ふことは、成程それ程の有様であつたかと云ふ実況が能く御分りになるだらうと思ひますから、少し古る事でございますけれども、未来を進める為には既往の不文明の有様も、一の御参考にならうと思ふのでございます。
 東京高等商業学校の起りと云ふものは、森有礼といふお人が亜米利加へ、公使として行かれたのが其責任何れであつたかを記憶しませぬが、時の東京府知事大久保一翁と懇意の為め、海外の実業的学校英語でビジネス・スクールと、私は英語に熟しませぬけれども、其時分から言伝へました。さう云ふ者があるから、是非日本でも追々に各種の教育をやかましく言ふ、商売人にも教育が無くちやいけないから、東京市の如き――其時は市とは申さなかつた、府と言ひました、是非左様な設が必要ではないか、自分は大にそれに力を尽して見たいと思ふのであるが、自力では困るから府庁より何かの補助が欲しいと云ふので、東京府知事が多少の資金を供へませうと云ふことを約束して置かれた。其の為に森といふ人が帰国の時に、一教師を連れて来たのが、此高等商業学校の組立てられる抑々初であつた。其時には東京府には、一種の共有金があつて其の金の中から森君に多少の費用を補助するといふ事であつた。而して其学校をば商
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法講習所といふ名を以て、一人の外国人に二三人の日本人が附属して、一学校が開かれた。今伺ふと宮川君は其頃の学生でお出なすつたと云ふから、あまりお若いとばかりは申上げられぬかも知れぬ。(喝采)所が其後に森君が支那の公使に行かれるに就て、其学校の経営が困ると云ふので、元と共有金を以て補助すると云ふ関係からして、引続いて東京府の方に相談になつて、其学校を東京府のものにして呉れ、家屋も地所も買ふてくれ、後の教育方法も継続してくれと云ふ事であつた。そこで東京府の者共が申合せて其共有金に依つて此学校を購ひ入れて、さうして後を継続するといふことになつたのです。其頃は私は東京府の共有金の取締といふ事を知事から嘱託されて居つた、但し本職分は第一銀行の頭取――其時は頭取といふ名は付けませぬで、総監といふ名で勤めて居りましたけれども、実務は頭取であつた。本職の外に今のやうな事を併せ務めましたので、実際他の人々とも種々協議して、終に其学校は必要であるから東京府で維持して宜いではないかと言つて経営する事になつた。
 然るに恰度明治十五年に至りて、尤も十二年に東京府会といふ者が成立して、此府会に出た連中が、其時分には何でも行政官に対しては、経費を節約せしむるが、政治家の本務といふやうな有様であつた。又二十三年国会の出来るやうになつたのも、恰度其風潮でずつとやつて来ましたが、当時の東京府に対して左様です、先づ第一に養育院を廃止せい、学校を廃止せい、今迄の役人が馬鹿な事ばかりして居る、無駄な銭を使ふと云ふ方の議論で、そこで商業教育は東京府には必要がないと云ふので、之を廃めるといふ議論が出た。それと同時に三菱が此高等商業学校を引受けやうといふ事になつた。併し私は三菱を嫌ふ訳ではないけれとも、個人の学校になると云ふことは情ない、既に森さんの時分に必要ありとして費用を出して補助して、それから続いて段々に生徒も出来て、大きに教育の効能を有つて来て居るのに、どうしても東京府が是位の維持が出来ぬと云ふのは実に情ない、東京府には必要がないと云つて府会で廃めるといふ以上は、最早分らぬ人達であるから仕様がない、是非政府で持つてくれと云ふて、其事を請願したがなかなか政府でもそれだけの金は出せぬ。彼此と論じた末に、途中に東京府会で議決して廃止としたものであるから、其の廃されたと云ふに就て拠なしに、議論の末農商務省が一年継続した。
 其時は何でも費額が僅に年一万円位でありました、実に軽少なものであつた。それから吾々共其時分の商業学校廃滅をひどく憂へる人人が打寄つて、恰度十六年に芳川さんが東京府知事になつた、此の芳川さんを頻に説いて、是非これは府知事の力を以て政府に維持されるやうに心配してくれと云ふことを頼んだ。所が芳川さんが、市民の希望が強いと云ふ証拠を此に現さぬと、政府で維持させると云ふことが甚だしにくい。其の方法は如何にして宜いかと云へば、せめて玆に数万の金でも寄附すると云ふやうな工夫はつくまいかと云ふことになつた、併し今日のやうに商会とか会社とか云ふものが力強くございませぬから、直に資金を醵出すると云ふことも骨は折れ
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ましたけれども、まア吾々は最も主唱者であつたから大に論じて、とうとう其時には今の銀行集会所です、銀行者仲間で九千円ばかりを寄附すると云ふことに相談を詰めたと覚えて居る、総体で四万円か三万六千円ばかりの寄附金が出来た。それを芳川さんに斯く必要を感ずる人が多い為に、是程の金額をも寄附するのであるから、是非政府に維持してくれと云ふことを主張して、やはり其翌年も農商務省が維持すると云ふことになつて、其翌々年ですから十八年に初めてこれが文部省に移つて、全く安全なる官立学校になつて、夫れからは存廃に就て、吾々が頭を脳ますことはないと云ふことになつた、故に商業学校はさう新しくもございませぬけれども、他の学校に比べると如何にも遅いと云ふことは、恰度宮川君の仰しやる通の訳なんです。それからとうとう高等商業学校として、追々に学科の程度も進みましたらう、又卒業なさる人も数多くなつて、宮川さんは只今少し御不足のやうな御言葉ではありましたけれども、併し此社会の学校教育の数多い中に、少くも三番目に指を折られ、而して其力はと云つたら、此実業界に対してならば寧ろ首位に居らつしやるかも知れぬと云ふ程になつた、此現在を以て既往を回顧なさると云ふと、決して左様に御不足を仰しやる程のものではない、若し宮川さんをして明治十四年に之を廃めるといふ時に在らしめたならば今夜のやうな御不足どころではないであらうと思ふのです、私共の其時分の苦難を充分にお思ひ遣り下さることも出来るであらうと、私は申したいのでございます。(喝采)
  世間各種の事物、総ての方面が教育の必要を認め教育の為に進んで居りまする、商売も亦其通りであるが、悲いかな此商売に対する教育が、吾々の仲間では頗る厚い、又必要であると云ふ観念が強いが、社会全般から見渡すと、之に対しての観念が今夕此席に斯う流通して居る空気ほど強くないと云ふことは遺憾なのでございます。是は畢竟左様申す渋沢等の精神がまだ至らない、まだ働きが悪いのだと、自ら抑損して其不能を歎くほかございませぬが、凡べて他の教育と重みを比較されるかと云ふと、どうも商業教育といふものを或は第二に置かれると云ふ虞がある、是は甚だ奇異なることゝ私は言ひたいのであります。如何となれば国家の真正の富強・真正の文明は何に依るか文墨にも依りませう、政治にも依りませう、法律にも依りませう、軍事勿論の事であらうが、併し此商工業といふ、即ち実業の発達が若し其等の総ての事柄に比して劣つたならば、果して其国が富強であるか、文明であるか、決してさうではないと言はねばならぬ。左すれば根本は寧ろ此に在つて彼には無いと言ひたい位である。それにも抑らず商業教育は第二であると云ふ、昔の商売往来だけで済む時代はそれで宜しうございませう、併し今日は商売往来で商業教育を満足する時代でないと、若しも世の中の人が分つたならば、此商業教育といふものは即ち他の政治教育・軍事教育、総てと同じやうに何故大学にすることが出来ぬか、畢竟一位卑いやうにして置くと云ふのは、殆と社会の意見が分らぬとまで私は思うて居るのです。既に宮川さんの御意見も、此満場の諸君も、此説は
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大抵一致するであらうと思ひますけれども、此処に相集ると一致するが、全般に対してはまだ此事が充分貫徹せぬのは、つまり申すと吾々の罪と斯う自ら顧みる外なからうと思ふのでございます。商業家がまだ社会にそれだけ重んじられる位地に立てない、若し是がお互に段々重んぜられるやうになつて、どうしても商業の教育は、決して左様に第二に置くべきものでないと云ふ時代は、遂に私は生ずるであらうと思ふ。但し商業教育といふものを左様に高尚にしたいからと云つて、唯無暗に商売に従事する者は気位を高くし、威張り散したいと云ふ意味で私は申すのではない。他の方面よりは商売といふものは、寧ろ或場合には至つて柔順に、議論のないやうにしたいものであると云ふことは、勿論さう思ふのです。見識ばかり立つて、気位ばかり大きくて、理窟ばかり言ふ人が商業家の珍重すべき人でないと云ふことは、私も最も思ふけれども、併し商業といふものが甚だ卑いものであるから、商業教育は第二に置いて宜いと云ふ議論であるならば、私は大反対を致したいと思ふのであるから、今日の此教育界に対しては、商業教育の見方がどうも吾々の思ふ所とは違ふと云ふことを、切に論じて已まぬのでございます。
  是は商業教育に対するだけの意見で、序ながらの申上げるのでありますが、若し此場合に諸君が之と同論だからと仰せられて見た所が、果して吾々の希望がきつと貫くものか否かは分らぬけれども、私が玆に申上げる意味は、果して自分がさう思ふのが諸君も御同意又それが真理であるならば、遂に行はれぬ事はなからうと思ふ。而して之を行ふのは如何なる時代であるかと言つたら、即ち第一期の吾々は遂に商業は第二位に置かれたかは知らぬが、第二期の諸君に於ては、是から先の言論に、行為に、又其効能に、大に世の中に発揮して行くやうになつたならば、諸君の私の如き年齢になる時代には、必ず彼此軒輊ないと云ふことに、此教育を見做されるのは、期して待てるであらうと思ひますに依て、序ながらに此意念は何処までも皆様が充分にお持ちなさり、且それを時々に発揮することに御務めあらんことを希望致すのでございます。
  高等商業学校の今日ある沿革は、簡単に申して其辺でありますが私は前に商売人にも自ら、新陳代謝第一期・第二期と進んで行く、即ち私共が第一期の商売人であれば、御列席の諸君は第二期の商売人である、是から尚進んで来る者に追々受継いで、次第に上進し向上して行くやうにありたいと希望すると云ふことを申上げましたが其第一期たる私の明治六年からの商売界の有様は斯様なものであつたと云ふことを二・三お話をして諸君の御参考に供しませう。蓋し前に申します商業教育を蔑視され、社会に粗末に思はれたと同じやうな有様が多々あつたと云ふことが、此談話の中に諸君の御胸に感ずるであらうと思ふのでございます、私は丁度東京から二十里ばかり隔つた深谷といふ処の在郷の百姓でございますから、生れは勿論育ちから境遇甚だ卑しいものである。併し二十二・三からして恰度外国貿易が始るとか外国の人が参るとか、船が来るとかいうて、既に横浜は其頃に開かれましたが、さう云ふ事からして当時の世の中
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は外国と交通をしては悪いと云ひ、或はせねばならぬと云ふ、即ち開国・鎖国の議論といふものが甚だ強かつた。閉鎖の議論の強いと同時に、幕府と云ふのと朝廷と云ふものと二つの主権が、少し政治観念を有つ者の頭に直ぐ生じて来たのです。其初め内国人ばかりであると、天子様は実権のない御方で、将軍といふ実権君主があつてそれでまづ差支なく居られた形であつたのです、何故なれば国内だけですから――。殊に其間が随分長い、鎌倉頃から武家制度で、天子は唯其武家に対して位階を与へるとか、将軍の相続をするとか申すやうな事だけに携つてお出だつた、けれども外国の引合になりますと大変に困つたです、既に幕府で、将軍といふものを大君といふ名を以て条約しましたけれども、大君と云つて朝廷といふものが有るぢやないかと云ふ事からして、始終其用字に困窮した、それが即ち事実から尊王論を惹起す原因となつた、其の前から朝廷を尊奉する、列へば高山彦九郎とか、蒲生君平・山県大弐とか云ふやうな種種な人が出て、幕府は専横である、天子を蔑にすると云ふ議論はありましたけれども、何さま三百年の泰平を続け、天子は天子として崇敬して、実権に関係せずに御座つたから、三百諸侯別にそれを怪みもせずに仕来つた。所が外国が来て、いよいよ外国人とつきあふとなると、何方が御主人だか分らぬと云ふことになるから、直に実際の衝突を惹起した。私共には丁度其頃に鎖国攘夷・尊王討幕といふことを主義とする人間であつたのでございます。それが遂に百姓を仕兼ねて故郷を駆出して、それから浪人をして、遂に京都で一ツ橋の家来になつて、それから欧羅巴へ行つて、御維新の年に日本へ帰つて来た。帰つて来ましても、まだ一橋の家来でありますから、一橋が将軍の職を辞して駿河に蟄居して居られた時分に駿河に参つた所が、図らずも政府に呼出されて、今の新政府に御奉公すると云ふ場合になつた。それから大蔵省で明治二年から三年・四年・五年六年と、四年ばかり役人の端くれをしたのでございます。根が今申すやうな次第でありますから、役人教育といふものは甚だ乏い、却て浪人、交際だけは聊かしましたけれども――。又欧羅巴は前年に行つて今年帰つて来たと云ふので、根がabcの一字も知らぬ赤毛布旅行をして帰つたので、欧羅巴の事を何一つ覚えたことは無かつた。併し偶然、此政府の役人になりまして、しかも大蔵省の役人になりましたから、大蔵省といふものは財政出納の取扱などをする、商売人と屡々接遇する場所ゆへに、大隈さん・伊藤さん・井上さんなどが一番よく御懇意になり、先輩としてお指図を受けました。且常に商工者には屡々接遇して、こゝで初めて東京の商人といふ者に直接に引合をしました。段々見渡すと、どうも商売人と役人と云つては何ですか、其時分の官員ですナ、どうしても其種類がまるで違つて居る。其時分の商売人といふものは、先づ三井組・小野組・島田組或は三谷、大阪では鴻池とか広岡とか津田とか今堀とか、さう云ふやうな顔触の人で、種々なる商売人にも交際しましたが、其主人はもう殆ど木偶人で、皆番頭の支配に任せてある。而して此番頭といふ者は何と評して宜しうございませうか。只今はさう云ふ向の
 - 第26巻 p.675 -ページ画像 
人は滅多に遇はふと云つても遇へぬ位です。馬鹿といふではなけれども、第一見識といふものがまるで違ふ、一時横浜の外国商館などの番頭さんに似たやうな人があつた――商館の番頭と云ふも不確実なる言葉になりますが、横浜には随分ありました、同様とは言はぬが先づ似寄つたものだ。其くせ其の番頭中に智慧はある。智慧はあるけれども、人の前に出て物などを言ふことは必ずしないと云ふ事に定めて居る。さうして官吏にでも遇ふと無闇に遠くの方からお辞儀をして、然らばそれ程人を尊敬するのかと云ふと、心ではナニあの野郎がと云ふ考へを有つて居る。けれども決して物などは言はぬ御無理御尤もで帰つて来て、いやだと思ふとそんな事はしない、斯う云ふ風の種類の人であつた。社会の事なども、知つて居りませうけれども余り言はぬ。海外の事などは殆ど知らぬ。其頃の商売人の種類といふものは、殆どさう云ふ有様であつた。其中には智慧のある人はありましたらうが、私もさまで多数にはつきあはぬから知りはせぬ。そこで又御役人の方はと云ふと、大抵諸藩から出た、壮士輩である、甚しきは燕趙悲歌の士といふやうな訳で、詩を吟ずるとか文を作るとか云ふやうな人が、前に述べた番頭さんと出会すのでありますから、殆ど話にならぬ。片方はワーと云つて乱暴に酒でも飲んで、剣でも振舞はすと、一方はきちんと平袴を穿いて遠くの方からお辞儀をして、扇子を持たなければ人に会はぬと云ふやうな有様。だから殆ど相談も何も出来ない。それで伊藤さんなり大隈さんなり、商業上の事にいろいろ世話を焼いて、例へば為替会社を作る廻運会社を作る、或は開墾会社を造らして遣られて見たが、其の従事する者は前に申す種類の人々であるから、一向効能を現はしはせぬ。表面に於ては承知するけれども、己が家に還つてはナーニと云ふやうな考であるから、事業は成立つても直に潰れると云ふもので其時分出来たものに一も存立したものはございませぬ。ですから官吏の方の側では、是は商売人といふ者は馬鹿な者だと云つて益々軽蔑する、商売人の側では又官吏は理窟ばかり言ふて物を知らない人だと言つて益々疎んずる、斯う云ふ姿がまづ其頃の商売人と役人との接遇の景況でありました。今日さう云ふお話をしても、程合がお分りが無いでせう、どなたもさう云ふ実況を見た人がないから、けれども是は決して私が虚構の事を申すのでない、全くさうでありました。そこで私はひどく慨歎に堪えなんだのです、政治上の事は英に、仏に、米に、独逸に、種々なる方面に、手も伸び話も進んで行つて、外交若くは兵備に、なかなかに斯う吾々が見て居ては、智慧のある人が多いやうに見える。偶々一人海外から帰つて来ると、直に種々なる説が出て来る、皆其新を衒ひ奇を競ひ、自国の進み、万物の整備を望むやうな有様である。其の事は聞けば聞く程尤であるけれども、物質的の仕事は一つも挙らぬ、富を増すと云ふ方の働きはさつぱり進まぬと云ふやうに見えた。そこで私は、是はとても駄目だ、商売人と役人とは殆ど境遇が違つて居る。さう云ふ位ですから商業教育などゝ云ふものが、今尚ほ其の観念が官吏又は社会に低いのは、蓋し其の浸染して居る所がありはせぬかと私は思ふです。
 - 第26巻 p.676 -ページ画像 
なかなか斯う云ふ事といふものは、染込んだから随分長いもので、昨日を今日と直に変へ得るものではない。それで私は、どうしても是は商売人に、相当の考へがあり相当に学問をする人がならなければ決して駄目である。熟々考へて見ると其の筈だ、幕府が国を鎖して、さうして重なる事業は大抵諸藩の力でやつた、小さい区域に限られた所だけの商売人にされた。だから商工業者といふ者は、誠に力も智慧も要りはせぬ、偶々有力なる者のあるのは皆其藩の支配に依つた所謂御用商人である、それが一番最上の者で、袴の着方が上手だとか、お辞儀の仕方が巧だとか、云ふのが、やつと其中の上等で済んで居た。是では決して世の中の真正なる事業と云ふものは出来得るものでない、寧ろ是は商売人には自身がなるが一番宜い、不肖たりとも此連中とは違ふ、少くも彼等位の働きは商売上出来るに違ひない、若し出来るとすれば、彼等より私の方が官吏の方にも親しい、幾らか欧羅巴の有様も知つて居る、又漢籍は少々は解釈もして居るから、さう官吏にヘイヘイお辞儀をせぬでも私にはやれると思ふ。人は姑く措いて己れだけ一つ商売人になつて見やうと、斯う私は考へた。即ち第一期の商売人を自ら任じてやりましたのです。恰度其時が国立銀行を創設すると云ふ時機であつたのです。其前大蔵省に居る時分に、銀行条例だけは私が其局に居つて作りました、三井や小野が主として資本を出すから、是非銀行を作りたいと云ふ際に、井上さんが大蔵省を辞すと云ふことになりましたから、同時に私も大蔵省を辞して、銀行者になつたと云ふのは其時であつた。ですから私の体だけは、其の場合いくらか伊藤さんとか、井上さんとか、若しくは松方さんとか、大隈さんと云ふやうな人々には勤務の関係から又其他の方面から、余程の親しい知り合ひがあつて、中には親友間に阿呆な奴だと云つて笑ふ人もあり、又は慾が深いからどうかして銭儲がしたいと思つてあんな境遇に落ちたのだと云つて賤しむ人もあり、感心な奴だ、うまくやつて呉れば宜いと云つて愛した人もありませう、それは種々な種類の人もありましたらうが、甚しきは度々言ふことで甚だ烏滸がましい話ですが、玉乃さんと云ふ人が、別して懇意にした人だから、其際私の宅に来て泣くばかりにして諫めた。お前は成程薩摩出でもなし長州出でもない、百姓出で、幕府の手に依つて此政府に出たんだから、政治社会に雄飛することは出来ぬと覚悟したかも知れぬけれど、さう未来の政治界を懸念せんでも宜いじやないか、何時までも薩長ばかりでやれるものではない、相当の位置にも立つて居るのだから、是から先少し我慢すれば好い加減の位置になれる、もう数年苦しんで是れだけの位置になつたものを、何を苦しんで商売人になぞなるんだ、それ程金が儲けたいか、金を儲けて何にする積りだ。元来見渡した所が商売人は早く申せば嘘でもつき、さうして人を瞞着して、銭さへ儲ければ宜いと云ふのが常ではないか、其商売人になりたいと云ふのは、いくらか気力もあり、議論もするし、兎に角漢学でも相当に出来る人と私は大層信用して交つて居つたに、然るにお前は見下げ果てた人だと、斯ふ云ふての意見であつた、是は誠に親切なんです。私其時に
 - 第26巻 p.677 -ページ画像 
真に喜んだが、又大に論じた、御親切は有難いけれども、私が商売人になると云ふのは、金もちになると云ふ意念ではない、決して私は金もちになれまいと思ふ、又ならうとも思はぬ、併し商売人の資格をして今日では措かぬ積りだから御覧なさい。私が二十年・三十年の間に、商売人の位地といふものは今日と違ふだけには屹度する積である。又今日の如く官吏と商売人とが軒輊あつては迚も日本国は立たぬと思ふ、欧羅巴の有様も私は見て来たけれども、何ぼ無学で見て来てもこんな有様ではない、決して是は冗談でない。而して商売人は唯銭儲けをすれば宜いと云ふ誤解を持つのは、成程商売人が皆さう思つて居るのだから、貴下等の側からそう思ふのは尤もだけれども、銭儲さへすれば宜いと云ふのは間違である。商売人と雖も役人と雖も、国家に尽すと云ふ程度に於ては差はないと思ふ。だから御覧なさい。私は道理正しい商売をして御覧に入れる、君は経書も読む人である、私も論語を好きであるが、必ず論語で商売をして見せるからと言ふと、玉乃氏は馬鹿な事を言ふ、さう云ふ気の利かない事を言ふから困る。イヱきつと遣るからと言つて別れた。不幸にして此の玉乃と云ふ人は先年死んで仕舞つたから、あの時斯ういふ談話をしたと云ふ証拠人がございませぬけれども、それが私の商売人になる時の覚悟であつたのです、幸に其時の観念が、若し私一人であつたなら、或はやり遂げ得なんだでありませう。けれども段々其風は進んで参りまして、友達にも皆力ある人が出来て来る、否出来て来るどころでない、私抔はどうでも宜い位にまで進んで参りましたから、まづ第一期時代は相当なるまで商売人を作り做し、商売人の力が相応に伸びるやうになりましたけれども、三十四・五年以前を回顧すると、前に述べたる如く商業学校の世間に軽蔑されたよりは、もう一層強く商売人は軽蔑された、又階級が低かつたと云ふことを能く御考へ下さるやうに願ひたいのでございます。
  それから今一つ、此横浜に因んで二・三のお話を致しましやう、其の低い商売人が外国との貿易の有様はどうであつたかと云ふと、種々なる方面にいろいろな取引があつたからそれを綜合して申す程の事も出来ませぬ、併し程度の低かつた時の商売は斯く苦難であつたと云ふことの二・三の御参考になることを玆に申述べたいと思ふのでございます、先刻談話室で諸君との雑談中に御話したことでありますけれども、私が銀行者になつたのは明治六年八月であります七月の二十九日に第一銀行が東京に於て開業した。其同時に横浜にも支店を出した、それから幾年経ちましたか、慥に覚えて居りませぬけれども、何でも四・五年過ぎてゝございます、横浜の支店に於て一の最も不愉快なる事件があつた、それは此横浜に其頃バジーといふ商館があつた、多分独逸の商館でありましたらう、其の商館と第一銀行の支店と為替取組の約束をしたことがあります。バジー商館が三丹若くは京都最寄で屑物を買うて海外に出す商売であつた、三丹ぱかりでなく何処からでも買ふのでありますが、三丹地方が割が安いと云つて買ひに行く、其の買ひに行くに就て現金を持て行くのは都合がわるいから、第一銀行に為替の取組を約束したいと云つ
 - 第26巻 p.678 -ページ画像 
て来た。横浜正金銀行などは勿論無い時分のことで、先づ第一銀行の方に頼んで来た、其取引の時にどう云ふ事があつたかと云ふと随分ひどい話である。バジーといふ人に斯う云ふ事を言はれた。屑物を買つて京都の支店に持つて来ると、京都の第一銀行支店で電信為替を組んで其荷物を横浜まで送つてよこす、併しバジーは京都で金を払はんければならぬけれども、京都に金を持つて行くのは手数だから横浜と電信為替の約束をしたい。でバジーの注文は、京都の方へ荷物を持つて来たならば金を出して呉れろ、出して呉れたならば横浜で金を払ふ、斯う云ふ注文を言つて来た。第一銀行の方では若し品物の良いか悪いかゞわからない、お前の手で買つたにせよ、果してお前が引取るか引取らないかも分らない、荷物が来て後にこんな品物では金を払はぬと言はれた時にはあとで金の払ひ人がない。電信為替を渡した人は資力の無い人である、故にバジーの方から横浜支店へ金を入れたら京都の支店で金を払はうと云ふ、所がどうしてもそれでは承知しない、それだと取も直さず、日本人を信用して金を先に渡す訳になる、だからそれはいやだと云ふ。私の方では安心がつかぬから渡さぬと云ふ。段々押合つた末に何と言ふかと思ふと、一体東洋へ来て西洋人が商をするのは、東洋人に対して信用手続になることは甚だ困るのである、吾々の仲間でさう云ふ信用取引は東洋に向つてはせぬと云ふのが定であるのだから、縦令銀行であつても今の通りにすると、取も直さずそれだけの物はお前方を信用した訳になるから出来ぬといつた。それから私は大に憤つて、実に径しからぬ事を言ふ人だ、お前のやうな人なら総て取引をせぬと言つて、其談判を止めんとしたら、向ふが一歩譲つて来て、兎に角それでは困るから、先に金を入れる前に言ふたことは私が唯他の例を言ふたので、第一銀行に対してはそれを主張はせぬから取引を続けてくれと、斯う云ふ事を言はれたことがございますが、其時は実に昔の攘夷鎖港の考が起つて来て、是だから夷狄だ醜虜だ怪しからぬ外国人共だといふ念を起したのであります。併しそれはバジーばかりで他の方面には無かつたかと云ふと、総てあるのです、生糸の売込が皆其方法であつた、向ふの倉庫に荷物を引込んで受取をよこさぬ、さうして向ふの電報の模様に依つて引取る品物を定める。日本の主な生糸の外国人との取引は、殆と糶呉服屋が品物を持つて行つて、顧客の家に預けて来ると同じことの取引だつた。是では困ると云つて段々申合せて、どうかして此弊風を改正したいと心配したがなかなか出来なかつた。とうとう其結果が――生糸の取引上に就て外国商人との大衝突を惹起した、それは明治十四年に生糸荷扱所と云ふものを作つて、遂に横浜の日本商売人と、西洋商売人とが取引を中止して、八月頃から十一月頃まで三月ばかり生糸貿易を中断した。其時の騒動は種々なる新聞にも書立てられ、なかなかの大混雑であつたです。併し其頃の生糸の出高は五万梱位のものでありましたらう、且其価も一梱二百五十円位の相場であつたからして、其の集まる金額は今の如き大金ではなかつた。大金ではなかつたが、金融の根本となる銀行者は中々苦心した。日本商人の主張は、是非引
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込んだ生糸にはちやんと預証書を出せ、而して之に火災保険を付けろ、それから其取引は、双方立会の上で定めるやうにせよといふが主なる条件で、何でも四つか五つの箇条であつた。所が先方は承知しない、それぢやアお前方には生糸は売らぬと云ふのが抑々の起りで、売らぬと云ひ買はぬ云ふ。品物はどしどし地方から来る。金の都合が附かにやア困るから金は貸してやつて呉れと云ふ、売込商売をする取引店即ち原の店とか茂木の店とか、其他の各店ともに金融の都合が付かなくちや困ると云ふて、銀行者に迫る、銀行が種々工夫して其金を続けやうと云ふので、今日集会して居る此場所です、此場所に荷物を積堆して金融をした、総額が二百何十万円ばかり貸出しました。併し段々さうして居る中に、向ふも辛抱強く一つも買ひに来ない、もう向ふが恐入つて来るだらうと思ふとなかなか来ない。此方も我慢して、大きい店は皆覚悟して、先方の来るまで我慢せいと云ふのでやつて居つたが、とうとう生糸生産地の者から崩れ掛つた、崩されてしまふと困ると云ふ中に和解が入りました、亜米利加公使のビンガム氏が、亜米利加三番のトーマスオールス氏と英吉利の三番のウヱルキン氏といふ二人を招集して、私と益田孝氏とが公使館で会合して、それからとうとう生糸の保険は付ける、受取証書は出す、三つばかり向ふに当方の主張を聴かせる訳にして、併ながら先々の通りに荷物は商館に引込むとなつたのですから、つまり云ふと此方の言ふ通りにも行かなかつた、但し行かない筈だ、取引すべき生糸の検査所がなかつた。検査所は追つて出来るから其検査所が出来たら、其場所で取引をする、それ迄の間は引込む、引込むに就ては受取証は出す。火災保険は付けると云ふだけになつて其和解が出来た。是が明治十四年の此場所に於ける荷扱所の騒動といふものであります。三十年も過去つた事だから、もう此処に御列席の御方には、或は祖父様に聴いたと云ふ位の話でありませうけれども、随分其事は海外貿易上の主なる騒動であつた、而して外国人との取引の、前にも申しましたやうな殆ど国体にも関係する如き観念を以て、どうか之れを改良したいと云ふ意念が、少しく無謀ながらさう云ふ方法で出たので、結果追々に此生糸検査所も出来ると云ふことに相成つたのでございます。其他に種紙を焼いてしまつたなどと云ふやうな、随分馬鹿げた貿易品の取扱もありましたけれども、是等はあまりさう喋々お話する程の事でもございませぬ、つまり既往の商売に於て、商売人の位地の低かつたと云ふ事、取引上の甚だ不整頓であつたと云ふこと、又其時分は外国商人から踏付けられた有様、左様な苦みがあつたと云ふ一・二の例に見ても、当時の商業の困難なる事は御推察が出来るであらうと思ふのでございます。
  約まり第一期の商業は或場合には意外に進んだと云ふ点を見得られたけれども、不整頓な有様、不順序な仕方をして、一歩々々と進め得て、稍今日迄に致したと私共は烏滸がましいが申したいのである。果して此第一期の商人がそれだけの苦みをしたのを、充分にお察し下すつたならば、第二期に立つ所此の御席の諸君の今日の為さり方が充分にして余ありと言ひ得るや、又総ての方面に攻究するこ
 - 第26巻 p.680 -ページ画像 
とが頗る行届て居ると言ひ得るや、御考へなすつたならばまだ遣る事も沢山あらう、又なさらんければならぬ事も沢山あるかと思ふ。而して追々に之を進めて行くと同時に、更に未来を増大にするといふ事を、忘れてはならぬ、是は私共も思ふが、第二期に立つ諸君は最も強く思ふて下さらねばならぬではないか。如何となれば此商売の地位を進めて行きたいと同時に、之に従事する御互の智慧と又行為とが一歩々々に向上して行くやうでなければ、国家の繁盛は期することが出来ないのではないか。祖父様はあれ位であつたけれども忰は違ふぞ、孫はもう一歩進んで行つたぞ、と云ふことになつて、始めて国家の富強を世の中に示し得るではないか。斯う御考へ下すつたならば、初期に立つ吾々の骨折を充分に御了知も出来るであらう、又今日の諸君の御勉強もまだ不足だと云ふ、御自覚も生ずるであらう、又未来の者を奨励する御意念も更に進むであらうと、私は思ふのでございます。で最初此処に集つた人々はお前の教育した人でなくても、つまり言ふとお前の精神が此に是れだけの人を生出したと言つても宜いやうに思ふと仰せられたのは、誠に私は喜ばしく思ひます。果して御説の通り私が教育の任に当る者ではないけれども、実業といふ者の精神に於ては私が諸君を生んだと、失礼ながら思ふのであります。即ち私は第一期の親父である。貴所方は第二期に之を承継する人である。未来を進めるは私共決して怠りはせぬけれども、諸君の方がもう一つ責任が重いと考へねばならぬ。(喝采)初代の骨折は左様である。初代の位地は左様である。若しそれが如何にもさうであるとすれば、吾々もう一層進めることは出来るぢやないかと、御考へなさり得るであらうと私は厚く信ずるのであります。誠に今夕は喜ばしい席でありますから、斯く申上げますと何だか碌に功能もない事を功能立して、むやみに諸君にのみ未来の重荷を背負せるやうに聞えますけれども、蓋し商業界の未来は今日を以て満足すべきものでないとしまするならば、倶に与に奨励せねばならぬが、而して其奨励は寧ろ私共よりは諸君の肩に余計懸るであらうと思ふのでございますから、どうぞ充分なる御励精の程を請上げたうございます、玆に種々取混ぜた経歴談を申上げた次第でございます。(拍手喝采)
○下略