デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
5款 大倉商業学校
■綱文

第26巻 p.721-726(DK260114k) ページ画像

明治31年1月13日(1898年)

是ヨリ先、大倉喜八郎、ソノ還暦並ニ銀婚ヲ記念シテ一商業学校設立ノ意アリ。乃チ是年一月四日石黒忠悳ニ諮リテ実行ノ約成ルヤ、栄一、渡辺洪基ト共ニ之ヲ輔佐センコトヲ請ハル。仍ツテ之ヲ諾シ、是日大倉邸ニ会同シテ、石黒忠悳他数名ト共ニ協議員ニ列シ、次イデ同年三月五日協議員会ノ決議ニ依リ、学校設立委員ニ推挙セラル。


■資料

大倉高等商業学校一覧 同校編 大正一三年九月刊 【大倉商業学校設立発端 石黒忠悳識】(DK260114k-0001)
第26巻 p.721-722 ページ画像

大倉高等商業学校一覧 同校編  大正一三年九月刊
    大倉商業学校設立発端
明治三十一年一月四日大倉喜八郎君ヨリ使アリ、今夕少閑アラバ来駕ヲ希フト、幸ニ他約ナキ故ニ之レヲ諾シ、午後五時、赤坂区葵町大倉邸ヲ訪フ、大倉君ハ余ヲ座敷ニ延キ、座定マリテ曰ク、老生交友多シ商事ヲ談ズル人・風流ヲ談ズル人・工事ヲ談ズル人、皆其友ニ乏シカラズ、然ルニ一事特ニ貴君ニ詢リ定ムベキモノアリ、貴君幸ニ賛スル所アラバ、老生ノ幸何カ加ヘント、乃チ説キ出シテ曰ク、老生十八歳ニシテ郷国ヲ出デ、本年六十一歳、艱難ヲ経、危険ヲ冒シ、以テ今日ニ至リ、幸ニ商業界ニ名ヲ知ラル、家資又乏シカラザルヲ得タリ、然レドモ熟々世上ノ有様ヲ観スルニ、父祖辛苦ノ貯蓄モ子孫遊蕩ノ資トナリ、或ハ子孫遊蕩ニ導ク悪友ノ為メニ蕩尽セラルヽモノ甚ダ多シ、辛苦ノ貯蓄ハ子孫ニ遺スト共ニ、公共ニ益スルノ考ナカルベカラズ、抑モ明治ノ今代 聖主陛下ノ御稜威ト当局者ノ尽力トニヨリ、人種・宗教ノ同ジカラザルニモ拘ラズ、条約改正ノ事モ成リ、内地雑居亦近キニアラントス、然ルニ我国商業者ノ知識ハ昔日ト異ナラズ、若シ如此ニシテ進マバ、対等条約・内地雑居ハ、偶々以テ我商界ノ利ハ外人ニ占メ尽サレンノミ、老生此ニ思フ所アリ、自ラ揣ラズ数年前ヨリ欧米ノ都市ニ支店ヲ設ケ、有為少壮ヲ派シテ其店員タラシムルモノ此故ナリ、今ヤ還暦ト結婚満二十五年トヲ祝スル為メニ、商業学校ヲ設ケ多数ノ商業者ヲ養成シ、以テ世ニ益セントス、然レドモ学校設立ノ事タル老生ノ経験ナキ所ナリ、希クハ貴君此ニ一臂ヲ仮シテ助ケラレヨト、余曰ク、貴説頗ル善矣、但シ其資金ノ多少ニヨリテ計画亦同カラズ、資金幾許ヲ支出セラルヽヤト、大倉君曰ク、左レバナリ、資金ノ事ニ付日来家族ヲ集メ詢議シ、本年ヨリ年々拾万円ヲ支出シ、六十五歳マデニ五拾万円支出スベシ、而シテ其設立方法・資金維持等ニ就テハ貴君ノ考案ニ一任セント、余座ヲ正シ、大倉君ノ手ヲ握テ曰ク、君真ニ五拾万円ヲ支出スルカ、大倉君曰ク、固ヨリ真ナリ、余曰ク、余最初以為ク、大倉君此美挙アルモ、拾万円ノ義捐ニ上ラザルベシト、然ルニ五拾万円トハ実ニ我邦古来其比ヲ見ズ、余生レテ五十四年、新年早々如此ノ善事ヲ耳ニセシコトナシ、友人ノ此美挙アル、豈犬馬ノ
 - 第26巻 p.722 -ページ画像 
労ヲ尽サヾルベケンヤト、手ヲ握テ此事ニ尽サンコトヲ諾ス、且曰ク此事タル容易ナラズ、余ノ他ニ尚ホ二人ノ相談者ヲ置カンコトヲ請フト、大倉君黙考暫クシテ曰ク、先輩トシテ渋沢栄一君・友人トシテ渡辺洪基君、此両人ハ如何ト、余曰ク、善シ、乃チ渋沢・渡辺ノ二君ト余トヲ此学校設立相談者タルコトヽシ、彼ノ二君ニ比スレバ、余ヤ閑時稍々多キヲ以テ専ラ事ニ当ルコトヽシ、大倉君ト対座杯ヲ挙ゲテ美挙ノ創始ヲ祝シ、此事ノ発表ヲ本年五月氏ノ六十一歳還暦ト夫人徳子ト結婚満二十五年祝トノ賀会ニ於テセンコトヲ約シ、夜半ニ至リテ辞シテ帰ル
  明治三十一年一月五日朝        石黒忠悳識


大倉高等商業学校一覧 同校編 第三頁 大正一三年九月刊(DK260114k-0002)
第26巻 p.722 ページ画像

大倉高等商業学校一覧 同校編  第三頁 大正一三年九月刊
明治三十一年一月十三日大倉喜八郎・男爵石黒忠悳・渡辺洪基・渋沢栄一・高島小金治・大倉粂馬ノ六氏大倉邸ニ会シ、渡辺・渋沢・高島大倉諸氏ニ協議員タランコトヲ大倉喜八郎ヨリ嘱託シ、且法学博士穂積陳重・小山健三(当時高等商業学校長)・男爵末松謙澄ノ三氏ヲ協議員ニ加ヘンコトヲ決議シ、穂積ニハ渋沢、小山ニハ石黒、末松ニハ渡辺行往シテ懇嘱センコトヲ議決ス
明治三十一年一月十六日東京府知事ニ申請シ、認可ヲ経テ財団法人トナシ、以テ学校開立ノ基礎ヲ強固ニシタリ
三月五日渋沢栄一・男爵石黒忠悳・渡辺洪基・大倉喜八郎ノ四氏大倉氏本邸ニ協議員会ヲ開キ、大倉喜八郎・高島小金治・大倉粂馬・渋沢栄一・男爵石黒忠悳・渡辺洪基ヲ学校設立委員トシ、特ニ男爵石黒忠悳ヲ同委員長トスルノ件ヲ議決ス


大倉高等商業学校三十年史 葵友会編 第三―一二頁 昭和五年一〇月刊(DK260114k-0003)
第26巻 p.722-726 ページ画像

大倉高等商業学校三十年史 葵友会編  第三―一二頁 昭和五年一〇月刊
 ○第一期 創業時代
    一 設立の基礎確定するまで
      明治中期の社会状勢
 明治三十一二年、日清戦争の影響で財界は不景気の洗礼を受けて居た。物価下落・事業界不振・家業拡張制限・倒産等々。併しその不景気たるや現在に於て吾々の嘗めつゝある様な、陰惨な、どうにもアガキの取れない「不景気」とは自らその本質を異にして居た。それは本当に「戦争の影響」による単なる一時的現象としての不景気だ。其処には尚活々した向上への元気が一杯に溢れてゐた。当時大抵は崩れ落ちたが、それでも未だ幾分残つて居る封建的生産組織の垣根を、急激に破壊しつゝある資本主義生産組織の、そうして自分自身を益々堅固に、合理的に進展せしめつゝあるところの資本主義の駿々として当る可からざる勢ひが、活気が、熱が、人にも、社会にも、一杯に充ちて居た。だからその時の物価下落も、事業界不振も、業務拡張制限も間も無く簡単に一蹴されて、次には反つて戦前の景気に倍加する程の好景気を以て、社会を陽気に盛り返した。要するに当時は希望に燃え活気に溢れた若い時代だつた。
 我が大倉高等商業学校設立者大倉男爵も亦、当時巨万の富を擁して
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大倉組の堅実なる発展への足取りの中に、六十翁益々矍鑠として快心の笑を洩らされたに違ひない。
 斯うした建設の燃ゆる様な意気に軒昂した社会生産組織の発達、資本の増大集中等は必然的に政治・教育の開発進展を促がした。斯くて目まぐるしくも設置され行く政治諸機関や教育施設。当に社会は上層下層の両機構を驚くべき急テンポの内に構成して行つた。そして将来の希望に胸躍らせる小国民は、ひとしく学校へ、学校へと蝟集したのである。
      本校設立の動機
 我が大倉高等商業学校の前身たる大倉商業学校を産んだ当時の社会状勢は大凡こんなものだつたが、大倉鶴彦翁が本校を建設するに至つた直接の動機、及その経過等は本校協議員子爵石黒忠悳閣下の次の稿に依つて詳細に説明されて居る。(大正九年十月二十四日本校創立満二十周年記念祝賀式上に於ける講演筆記の中より)
 ――明治三十一年の一月四日に大倉男爵は、面談したいことがあるから参上しやうと思ふが御都合はどうだと云ふことでありましたから、私は幸に年始にも参らうと思ふから、御出で下さるにも及ばない、此方から晩に参上します、と答へて其晩に葵町の大倉邸宅の、今の博物館になつて居る邸宅へ参つた所が、大倉君の申されるには私も本年は六十一になる、所謂還暦の祝だ、又夫人徳子を娶つて二十五年になつて所謂銀婚式に相当する、就てはその祝意を表する為に何か致さうと思ふが、段々考へて見たのに、維新以来否維新以前から我国の上下一般の希望とし、殊に有識階級に於て総てのことを以て此一点に寄せて居るのは条約改正である。附て申すが……其条約と云ふものは今の条約と締盟国との条約が違つて居つて、治外法権の条約であつて、其条約を改正しようと云ふことは維新以前から殊に明治に入りましてから上下一般実に熱心に此事に付て熱望したのである。然るに此条約が幸にして陛下の御稜威と当局者の尽力に依つて各締盟国の同意を以て始めて改正されたのである、さうして来年からは実施されて内地雑居になる。そこで考へて見るのに、此内地雑居になつて外国人が内地に雑居して、互に自在に商業上の取引もするやうになる。一方よく考へて見ると、我国の商業界と云ふものは実に智識の浅薄なもので、殊に此儘で居て内地雑居になつてさうして外国人が来て手腕を振はれたならば、此条約改正と云ふことが、却て国運の衰退を来す基にならんかと思うて実に心配に堪へぬのである。御存知の通り拙者大倉は、十九歳の時に矢立一本腰にして東京に来て、幸に勤勉努力と国運発展のお蔭で発達して、今実業界に於て兎に角頭角を露はす一人となつた。それに付けても此商業上のことに就ては、此儘で居れぬことを深く憂ふるから、此還暦の祝、銀婚式の祝を祝するが為に、何か我日本の商業上に益することをしようと思ふ。商業上の智識の開発をすることを企てようと思ふが、官立の三つや四つの商業学校で人材を養成した所で、数の知れたものである、故に広い国家に対しては実に九牛の一毛であるけれども、商業学校を創立して有為の青年を教育し、規則立つた商業
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学問をさせて、有為智識の商人を養成致し度く思ふといふ話であつた。そこで私はそれは誠に結構なことである、満腔の御同意を表する、賛成すると言つた所が、然らば私は斯う云ふことに就ては経験も薄いしするから、あなたに御委託するがどうか経営して下さることを御願ひするとの事だから、他の事では兎も角も、此事に付ては私頗る御賛同申したのみならず、あなたは一時間に幾らと云ふ金を儲ける人だ、吾々は一時間に幾らと云ふものを費やして居る人間だ此無用の時を以て有用の人の時を助けて、さうして公益事業の経営に当ると云ふことは、私喜んで御請け致しませう。成功か不成功か予め分らぬが、喜んで御引請をする。但し学校を経営するには一番先に立つものは金である。金を幾ら御出しになる積りですか、斯う云つた所が大倉は、此事に付ては五十万円出しませうと斯う言はれた。其時に私は今でも覚えて居るが、蒲団から下りてさうして大倉君の手を握つて、本当に五十万円出しますか、何故さう言つたかと云ふと、其時代に於ての五十万円といふものは、唯今の二百万円にも当ると思ひます。其時分に未だ日本広しと雖も、公益事業に十万円以上の金を揃へて出した人は余り多くない時代である。それ故に五十万円といふものは、私は驚いたから座を滑つて大倉君の手を握つて、本当に五十万円出しますか。大倉君の言ふに、出します、十万円宛五ケ年間に必ず出すと云ふ。実に此時は喜んだ、此時の私の喜びと云ふものは何とも口に言ふことは出来ない。大倉君も其時はお喜びになつたと私は思ふ。而してそれから斯る大金を出して斯かる事業を起しますには、私一人では不足だからあなたの信用なさる方で、私も信用する方を相談相手に入れなければならぬがと云ふので、此相談相手に渋沢栄一君・末松謙澄君・穂積陳重君・渡辺洪基君・小山健三君、それから大倉君一門として大倉粂馬君・高島小金治君、此方々に協議員を願つて幸に承諾を得て、それから数回協議会を開きまして、此学校の方針がどう云ふものが宜からうかと云ふと、学問に傾かず成るだけ実際に適切なる人を拵へるが宜からうと云ふやうなことで、それで学校が成立つたのであります、……」
○中略
      建設の基礎確定
 斯くて愈商業学校設立の事が決定されたのであるが、次に設立までの経過を見ると、明治卅一年一月十三日、出資者大倉喜八郎氏始め、男爵石黒忠悳閣下・前帝国大学総長にして同大学名誉教授渡辺洪基氏渋沢栄一氏・高島小金治氏・大倉粂馬氏等は大倉邸に会して談合の結果、喜八郎氏は渡辺・渋沢・高島・大倉(粂)の諸氏に協議員を嘱託し、且つ法学博士穂積陳重・東京高等商業学校長小山健三・男爵末松謙澄の三氏を協議員に加へる事を決議し、穂積氏には渋沢氏、小山氏には石黒男、末松男には渡辺氏が夫々交渉して、右協議員を依頼する事となつた。同十六日には東京府知事に財団法人設立認可を申請して許可され、玆に学校建設の基礎的な手続きは出来たのである。
 同年三月五日渋沢栄一・男爵石黒忠悳・渡辺洪基・大倉喜八郎の四氏は大倉氏本邸に協議員会を開いて、学校設立委員を定めた。即ちそ
 - 第26巻 p.725 -ページ画像 
の結果委員長には石黒忠悳男、委員には大倉喜八郎・高島小金治・大倉粂馬・渡辺洪基の諸氏が当る事となつた。
 五月二十四日には大倉翁の還暦の寿宴及銀婚式祝賀の会が盛大に挙行されたが、その席上に於て次の主意書と共に、本校設立の事が公表せられたのである。
      大倉商業学校設立の主意 ○略ス
 これより先、協議員諸氏相会して、大倉喜八郎翁の学校建設のための出資を寄附行為とし、寄附行為証書案を穂積博士が起草し、学校の図面及び規則は高等商業学校長小山健三氏が草案する事となり、学校敷地の決定には石黒男が当られる事となつた。
    二 開校準備
      敷地選定に石黒男の苦心
 右の様に各自役割が定められて夫々の準備に取り掛つたといふわけであるが、穂積博士担当の寄附行為証書と小山健三氏の請負つた学校規則とは早くも出来上つて、三十一年五月二十六日の協議員会で協議の結果、無事原案通過といふことになつた。ところが玆に厄介なものは、石黒男爵の担当役として後に残された敷地決定の件であつた。これが仲々どうして尋常一様に運ぶどころか、奔走、又奔走、而も何時かな話がまとまらず、流石熱心そのものゝ石黒男爵も終ひにはウンザリされたと云ふ程苦心に苦心を重ねた後、漸く今の葵町三番地三号及び四号地が手に入つたのである。現在狭いとか不便だとかと学生が不平を鳴らし兼ねまぢい学校敷地には、その昔こんなにも骨折つたものかと驚く様な苦心談が秘められゐる。次に掲げるところのものは、大正十年四月十四日本校講堂に於て子爵石黒忠悳閣下が本校理事辞任の挨拶として述べられた演説中の一節で、当時の御苦心の程が如実に窺はれる。
 ……大倉男は五十万円出すから、学校は何所へでも貴君の好いと思ふ処へ造つて下さいと一託された。併拙者の考はどうか意味ある所へ建立したい、大倉君は琴・三味線の音曲や、長唄・清元の美声は常に聞かれるが、学生の咿唔の声は聞かれた事がない、此声を聞かせ、又青年の学事に勉むる活溌の作業も見せ度い。幸に大倉邸の隣地に空地があるから此地を購入して此処に学校を建てたいと、其地の持主を聞糺すと是は内務省の官有地である、そこで内務省へ行つて此地の払下を願入つた所が、此地は警察練習所に宛てゝあり、又一部は税務署に宛てゝあるとて許可にならぬ。其内に板垣伯が内務大臣になり、又鈴木君が内務次官になられた時に、再三歎願した所が、やうやう是は警察の練習所に宛てゝあるのだから、此方に望む所のかへ地、乃ち小石川大塚方面に於て此地より坪数多き所と、又税務署に宛つべき地、乃ち芝愛宕近辺で三四百坪の地とを提供し、而して学校から提供する方が地坪が多くして評価上金額が多き時には交換して遣はすとの事になつた。そこで其頃地面売買の専門なる木村粂市といふ人に頼んで、其内務省の望まるゝ地方で代地を探らせ、一方は小日向で一方は芝で、やうやう見付出したのが今の小日向の殖民大学《(拓殖)》の地と今の愛宕下の税務署の地である、然るに其地面
 - 第26巻 p.726 -ページ画像 
は見出したものゝ売り出してある地面ではなし、他人の所有地を当方が買ひ度いと申込むのと、一方買人は大倉男だといふと仲々安くは売らぬ、そこで木村はいろいろ取りつくろうて、石黒が学校を造る為めとか、石黒の同国の書生を置く為めとかいふて、やつとの事で地面は買ふ約束を結んだ。すると又一つの難事が起つた。それは地坪は内務省の地よりも多いが、直段の総計金高が内務省の払下げ地代より多くてはならぬ故、小石川区の地価評価人に評価させ、芝区の分も同じく其評価をさせねばならぬ、併し成るべく直段の工合が予期通りになりたい。併し有名な大倉家で買ふとか売るとかいふと、売るのは安く買ふのは高く値が付き易いので、其評価人の各人に此売買は大倉家の私用ではない、公益の為めに大金を抛つて学校を設ける事に必要であるのだといふ事をよく了解させ度く、就ては小石川区と芝区双方の評価人の家に就て、篤と話して了解させなければならぬ。そこで小石川で五軒、芝で五軒の評価人の家を訪問して面談する。此訪問にはいつもの石黒流でステツキを振廻して飛込んで行つてはいけぬので、馬車に乗つて、よい着物を着て、お客に行くやうな姿態をして堂々と荒物屋さんへ行つた事もある、下駄傘屋さんに行つたこともある。それが皆評価人である。腰を低くして何分どうか御聞取を願ひますと言ふて、大倉は金持でありますけれども、此大倉が自分の贅沢にするのでありませぬ、学校を拵へて人材を造らうといふ。斯う云訳だから、どうか公平に真の直段を附けて下さいと懇々と話すが、此事は自身の事ではとてもいやになつて話されぬが、是が公共事業のことゝ思ふから、十軒と廻つて半ば願ひ、半ば聞いて貰うた。……大倉君に其事を話すと、其両三日後に伊藤公爵が大倉家へお客に招かれて来られ、大倉君が其事を話すと伊藤公爵は、「なにそんなことはあるものでない、斯う云ふ美挙には内務省は地面を只下渡してよいのだ」といはれた。其時大倉君の頭では伊藤公の言ふ事が真か、石黒の言ふことが真かといふと、伊藤公の言ふことだからそれが真だと思ひ、石黒のするのはいらぬ徒労のやうに想ひ、伊藤公のいはるゝのは十年も前の規則であるとは思はれぬ。さればとてそれを意に介しては、とても学校は成立たぬ。……」
斯くて現在の校舎敷地を内務省から交換下付の許可を受けたのは、三十一年十一月十四日の事であつた。
○下略