デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
5款 大倉商業学校
■綱文

第26巻 p.747-754(DK260122k) ページ画像

明治39年10月23日(1906年)

是日ヨリ三日間、当校設立者大倉喜八郎ソノ古稀ヲ記念シ、赤坂区葵町ナル自邸ニ園遊会ヲ開催ス。栄一毎日之ニ臨ミ、祝詞ヲ述ブ。


■資料

(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK260122k-0001)
第26巻 p.747 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年    (渋沢子爵家所蔵)
十月廿三日 終日雨
例刻出勤、午後一時過ヨリ大倉氏古稀祝賀園遊会ニ招カレ、葵町同家邸ニ至ル、雨中ノ招客、主人ノ苦心被察、本日ヨリ三日間連日ノ催ニテ朝野五・六百名、先ツ目下新築半成ノ洋館広間ニ通サレ、玆ニ式場ノ設備アリ、大倉氏ノ挨拶、石黒氏ノ演説、渋沢男爵ノ演説等アリ、余興ハ一中節台ノ芝居(浦島)・二人袴、其他藤間勘右衛門ト高麗蔵トノ子宝三番叟ノ素踊、役者ハ菊五郎・吉右衛門・高麗蔵等也、終テ大隈伯ノ演説 ○中略 美術館モ見タルガ実ニ盛ナ物ナリ、立食ハ庭ノ天幕ノ内ニテナリキ、惜イカナ雨天ノ為出入ニ至テ不便ナリキ、食堂ニテハ八十余才ノ林子爵万歳ノ音頭取ラレキ、各花街ノ芸妓・女将ノ類モ惣出ノ有様、エライ取設ナリキ、六時帰リ入浴食事
   ○中略
十月二十五日 晴 夜風甚シ
漸ク晴レル、大倉氏三日目即チ終リノ日ニ初メテ大当リ也、青淵先生ハ毎日臨場演説セラル
○下略


東京朝日新聞 第七二五三号 明治三九年十月二四日 大倉氏古稀祝筵(DK260122k-0002)
第26巻 p.747-748 ページ画像

東京朝日新聞  第七二五三号 明治三九年十月二四日
    ○大倉氏古稀祝筵
大倉喜八郎氏は、今年古稀の高齢に達したる為め昨日葵坂の邸園に於て一大園遊会を開けり、来会者朝野の紳士千有余名、新館の式場に於て主人夫婦の挨拶あり、次に石黒男は大倉商業学校監督として従来の経過を報告し、更に今回三十万円を投じて大阪に同商業学校、二十万円にて朝鮮京城に善隣学校を設け、又故郷越後新発田に五万円を寄進して上水を設計したる等の事業を報告し、次に渋沢男の祝詞ありたる後、余興として幸堂得知氏の新作に成れる浦島は、大倉主人の得意なる都一中を基礎としたる為、菊五郎・吉右衛門等の舞非常の喝采、次に藤間父子の三番叟並に高麗蔵・吉右衛門・訥升・三津五郎諸優の二人袴は当日第一の好評を博せり、最後に大隈伯が学校狂の点に於て大倉氏と同感なりとの演説あり、食堂三鞭酒を傾け一同耳熱する頃、八十有余歳なる林友幸子の音頭にて万歳を三唱し、主客歓を尽して点灯後散会せり
当日在韓国なる伊藤侯より左の祝詩を寄せられたりとなり
    賀大倉大人古稀寿        春畝山人
 - 第26巻 p.748 -ページ画像 
 七十知君齢不空。 老成設学育児童。
 遥思祝寿張清宴。 杯酒佳肴自歳豊。


中外商業新報 第七四七三号 明治三九年一〇月二四日 大倉邸の盛事(大倉喜八郎氏古稀祝賀園遊会)(DK260122k-0003)
第26巻 p.748-751 ページ画像

中外商業新報  第七四七三号 明治三九年一〇月二四日
    大倉邸の盛事
      (大倉喜八郎氏古稀祝賀園遊会)
七十年前の今月昨日呱々の声を挙げ、七十年後の今月昨日七十の高齢に達したる大倉喜八郎氏は、古来稀なりてふ長寿の賀莚を開かんとて二十三日赤坂葵町なる自邸に祝賀の園遊会を催ふされたり、折柄の秋の雨日を踰へて降り已ます、朝来の細雨転々霏々を極めしが、斯日の盛観は少しも殺がれず、午後一時の定刻に近づくや雨中を走る馬車・腕車前後を連ねて着邸し、特に交はり朝野に広き氏の事とて、来会者も社会の諸方面に亘りて洽ねく、主人大倉氏・同令夫人以下玄関側に立ちて一々来賓を迎へられたり、斯て旧館の楼上に入れば寿に事寄せたる製作品玆処かしこに堆を為し、紅白青紫燦爛として眼を奪ふばかりの観を呈せり、斯て予定の時刻は来り、新館楼上に於て此日の式は開かれたり、館は今回新築する所に係り、先づ大倉喜八郎氏は同令夫人とく子と壇上に列び起ち、左の挨拶を述べられたり
 歳月流るゝ如く、余も今玆を以て馬齢七十に達せり、即ち人生の古稀とも称する高齢に達したるを以て、本日聊か祝賀の園遊会を催ふせり、生憎連日の風雨にも拘はらす、諸君子の枉駕を辱ふしたるは余及一家の光栄之に過きす、別に本日の紀念に就ては石黒男爵を煩はし之を諸君子の前に告くることゝせり、幸に高聴を賜へ、謹みて本日の来を謝す云々
と、次で軍容厳めしき石黒男は舞台に進み、次の演説を為せり
 拙者は明治三十一年五月二十四日当家に於て大倉喜八郎君の六十一寿並に徳子夫人と結婚二十五年の祝典に於て、来賓諸君に対し渋沢渡辺二君に代り此に喜しき報告をなしたりき、即ち君が此慶賀の心を表する為めに五十万円を支出し、一の商業学校を設け有為の少年を教成し、我国商業界の知識と地歩とを進め、以て 聖世の徳沢に貢献せられんとする事なり、而して拙者は其設立の事を嘱され、乃ち渋沢・渡辺両君に謀り、次て穂積・末松・小山・高島・大倉久米馬君に協議員を嘱し、大倉君より五十万円を受取り、穂積博士の立案にて財団法人とし、此に始めて財団法人大倉商業学校を組成し、拙者を理事とし渡辺君を学校の督長とし、直に十万円にて学校新築用品備付に着手し、職員を聘用し、明治三十三年七月より生徒を募集し、同年九月八日より教場を開き、爾来今日に至る迄に本科学生七百名、夜学生千七百十五名、合計二千四百十五名の生徒を教へ、已に本科に於て五十七名、夜学科に於て二百十五名の卒業生を出し此少年は皆内外に於て商業に従事し、本校の特色たる勤勉実直といふ事に於て称せられつゝあるなり、而して大倉君の此挙は辱くも
 聖聞に達したるが、明治三十五年特に天長節の御祝日に於て大倉君は特旨を以て勲三等に叙られ旭日中綬章を賜りたり、実に前例なき恩光を荷ひ、大倉君自身は勿論、学校一般に其光栄を負ふ所なり
 - 第26巻 p.749 -ページ画像 
 本校に於て生徒養成に付ては年尚浅きも、卒業者の数上述の如し、而して其財務に至りては最初五ケ年は毎年十万円づゝ都合五十万円大倉君より受取りしを以て、地所を購ひ此学校を建築し此用品を備て、月に大凡金三千余円を支出して学校の経費に給し、又附近の地所を購入し修繕を加へたりき、昨年迄に供したるもの二十余万円、而して尚ほ経費剰金を儲へたるものと大倉君の妹光子刀自の寄附金一万円とを加へ、現在学校資産及六十万七千四百九十余円を有し、今般大倉君七十寿辰の日を以て学校職員に退職恩給・遺族扶助の法を設け、且つ其基本金として別に金一万円を準備したり
 一体本校に於ては授業料を受ず生徒を教成すべきやの儀最初起りたるも、授業料を収めずして生徒を入るゝ時は所謂ひやかしの徒蝟集する憂あるを以て、其説を止めたり、拙者一個の考としては、数年の後基金増殖せば授業料は之を収むるも卒業後には其幾分を賞金として交付すべき事を予算したるなり、さて明治三十一年一月四日夜初めて大倉君が学校設立を拙者に托されたる時、拙者は大倉君に向ひ、君は一刻働けば幾許といふ大金を得る人故に金を以て世に公益を計らるべく、余は君の如く金を得るの才幹なき故、勉めて其美挙を成立せしめ、以て世に資すべし、然して此事全く成就したる暁には何を以てか余に報らるゝやと、大倉君暫らく黙して後ち曰く、金帛を贈て君悦ぶ人にあらず、酒莚妓楽亦君悦ぶの人にあらず、幸に七十の寿を保たば尚又如斯公益事業を起して以て世に益し、以て主君に報んと、余是に於て拍手して曰く、貴君余を視ること如斯高く如此尚き上は、余亦力を尽して其知に副はんと、依て其間実に謂ふ可らざるうるさき事も多々ありたるも、経営以て今日に至りたるなり、然るに大倉君は去年五月来つて曰く、光陰矢の如し、はや来る明治三十七年には余も七十に達す、就ては先年約せし如く又五十五万円を公益事業に投して世に益せんと欲す、希くは復一労を煩さんと、余同君が所言を重じ此に此挙ある、実に悦に堪ず、併し尚ほ亦其衝に当るは余の敢て当らさる所なりとて之を辞したるに、君は其三十万円を以て大阪に一の商業学校を起さんと、其事を小山健三君に嘱托し、財団法人大阪大倉商業学校と称し、既に建築しつゝあり又金二十万円を以て韓国京城に一の商業学校を起し、其の事を統監伊藤侯に就て請ひ、財団法人善隣商業学校と称し、是れ亦た建築にかゝれり、又た君の郷里越後新発田は飲料水不良の地なるを以つて五万円を支出し新発田町に上水引用の基礎を為さんと、其の事を同町の原宏平君に托されたり
 以上述る如く、君は前に六十一寿を祝して五十万円を支出し東京に此商業学校を設け、盛に有為の青年を養成し、今又七十寿を祝して金五十五万円を支出して大阪と韓国とに商業学校を設け、新発田に上水を引かれむとす、両回の寿宴に於て公益の為め喜んで金百五万円を支出されたるを報道するは、拙者の欣喜し且つ光栄とする所にして、来賓貴紳貴女亦必ず欣悦し玉ふならむと信ず
 大倉商業学校は、東京と大阪と韓国と共に財団法人たる上は、独立独歩其経営を過らされは永世隆昌し、新発田上水亦永く其沢を町民
 - 第26巻 p.750 -ページ画像 
に及ほすは論を竢ず、随つて大倉家亦学校・上水と共に永く益繁昌することを祷る、大倉君が寿を重ぬる毎に如此公益事業に美挙あるに付ては、啻に大倉家の為めのみならず、世間の為めに国の為めに尚ほ八十・九十・百・百十と幾多の高寿を重ねられ、八十に於て九十に於て百に於て百十に於て、必ず此美挙あるを予期す、君の益々寿域に躋らるゝ事を世人と共に祷る所なり
右畢はるや恰も渋沢男爵着邸され、直ちに壇に起ち左の祝辞を述べられたり
 大倉君と余とは三十年来の旧友にして、且つ其従業の方面も同じく相携さへて照代の恩に沾ひ以て今日に至れり、顧れは歳月梭の如く本日玆に古稀の齢を重ね祝賀の莚を催ふさるゝに至りしは、実に無上の祝福なり、維新以来諸種の事業に貢献したる人々少なからすと雖も、其事業上大倉君と比すべきは誠に稀なり、君は由来議論の人に非すして手腕の人なり、口舌の人に非すして実行の人なり、往来還暦寿莚の節商業学校を創立し、今回又五十万金を投して二個の商業学校の創設を企てらる、真に欣慕の至りにして、友人たる余の面目も亦頗る大也、就て思ふ、近来高齢の相場諸式と反対に下落し、七十も亦差程珍らしからす、余は之に依りて大倉君に次の辞を寄せ之を祝せり、即ち人生七十近多見福碌如君古来稀なりと、余は特に此点に於て君の寿を祝せん事を欲す云々
之にて式を畢はり、舞台は変じて余興に移る、即ち次の順序に依る
      △新作浦しま   幸堂得知作都一中調
 浦島 尾上菊五郎    乙姫 中村吉右衛門
 侍女 尾上芙雀     同  岩井粂三郎
 同  市川英太郎    同  尾上梅太郎
 漁夫 阪東三津之助   同  市川桃吉
 同  中村芝歌蔵    たこふぐ 両人
      △子宝三番叟
 大名某 藤間勘右衛門   太郎冠者 市川高麗蔵
      △二人袴
 高砂尉兵衛 市川高麗蔵   倅右馬之助 中村吉右衛門
 住吉左衛門 沢村訥升    妻老松   阪東三津之助
 娘雛鶴   尾上芙雀    家来鈍太郎 市川英太郎
いづれ菖蒲と引きぞ煩ふ嬌態絶容の数を尽せる中にも「浦島」は菊五郎の浦島、吉右衛門の乙姫にて、故郷なる丹後水の江の里に立ち帰り玉手箱の封押し切れば、三筋の白気立昇ると見る間に、顔かたち忽然変はりて翁となりしが、我之より地仙となり、千歳の鶴を友とし、万歳の亀と語り、千代も八十代も齢を延て、身は歓楽に歳を重ねむと、之にて舞は終はるなり、まこと当日の莚ふさはしき曲なりき、余興の幕を閉つるや、次に大隈伯の演説あり
 余は元来宴席等に連ならぬが例也、先年大倉君還暦賀莚の際紀念事業として商業学校を創建せられ、余も教育事業には縁故あるを以て例と異り当時も出席し、今回又古稀の宴に際し朝鮮及大阪に商業学校の創立を企てられ、其為め又も出席することゝなれり、凡そ富と
 - 第26巻 p.751 -ページ画像 
善とは兎角両立し難きが世の習らひなるに拘はらず、独大倉君は一方富を為し、他方公共の為に巨大の資を投じ、教育の事に潜心せらるゝは真に敬服の至り也、今後願くは益々公共事業の為に尽瘁せられんことを、凡そ祝には既往と将来とあり、余は特に君の将来に対して之を祝せんと欲するもの也云々
次で直ちに食堂を開きしが、玆処は今回の特設に係り、数種の装飾にて被ひ飾り、花電灯の光まばゆく照り輝き、謂はん方無き趣きを呈したり、開堂先づ最高齢なる林友幸子と大倉氏と列び起ちて三鞭の杯を挙げ、子の発声にて両陛下の万歳を唱へ、次で大倉喜八郎氏及同夫人の万歳を唱へ一同之に唱和し、次で宴に移り談笑時を移して洋々たる歓呼の裡全く当日の盛事を畢へたり、因に諸方より寄送の祝詞・祝文等沢山ある中に、特に衆目を集めたるは徳川慶喜公の「無疆」と大書されたる祝辞及ひ伊藤侯が遠く京城より寄せられし左の七絶なりき
   ○漢詩前掲ニツキ略ス。
清国公使館参賛官森宝氏の祝詞に曰く「钁鑠哉倉翁、顧盼雄且傑」と記者も亦此辞を以て氏の長寿を祝し、併せて当日の盛事を結ふ辞と為すべし、来会の諸賓無慮二千余名、重なる諸氏を記せば左の如し
 黒田長成侯・蜂須賀侯・大隈伯・板垣伯・柳沢伯・津軽伯・林子・伊集院子・榎本子・渋沢男・千家男・松平男・後藤男・船越男・穂積陳重・松岡康毅・松尾臣善・添田寿一・高橋新吉・辻新次・尾崎行雄・安田善次郎・浅野総一郎・山本達雄・村井吉兵衛・雨宮敬二郎・池田謙三・大谷嘉兵衛


中外商業新報 第七四七四号 明治三九年一〇月二五日 大倉邸祝賀会(DK260122k-0004)
第26巻 p.751-753 ページ画像

中外商業新報  第七四七四号 明治三九年一〇月二五日
    大倉邸祝賀会
第二日……鶴彦翁大倉喜八郎氏の古稀の賀莚は、前日に引続き二十四日赤坂葵町なる自邸に於て第二日目の園遊会を催ほされたり、宿雨降り歇まず風さへ加はりたるも、前日に譲らざる盛観を呈し、午後一時の定刻に近づくや、馬車・腕車を駆るもの前後を連ねて参集したるが来会者は西園寺首相・山県元帥・徳川慶喜公・米国大使其他貴紳淑女等、社会の各方面に亘りて約一千名に及び、主人大倉氏・同令夫人以下一々来賓を迎へ、軈て午後二時、新館の式場に於て古稀寿莚の式は挙げられたり、先づ喜八郎氏、同令夫人徳子と相携へて壇上に列び起ち、今日祝賀の宴を張りたるに、連日の風雨に拘らず貴紳淑女の枉駕を辱ふしたるの光栄を謝する旨の挨拶を述べられ、次で石黒男爵は大倉商業学校理事として一場の演説(二十四日の本紙参照)を試み、夫より大倉氏と四十年来の親友たる渋沢男爵祝辞を述べられたり、次で牧野文部大臣石黒男爵の紹介にて壇に起ち左の演説を述べられたり
 大倉商業学校は、毎年一千名以上一千五百名の学生を養成するに足るの設備を見るに至らむとするは、国家の為め大に祝すべき事なり顧みれは現在の各学校は充分に学生を収容する能はず、其結果非常の打撃を学生に与へ、或は一生を誤るものなしとせず、現に一千名の志願者に対して僅に二百名を収容するに過ぎざるは今日の実状なり、即ち我国教育の欠点は要するに学校の不足にあり、然るに大倉
 - 第26巻 p.752 -ページ画像 
氏は前後二回迄、一百万円の多額を投して商業学校を東京・大阪・京城の三箇所に開設せられ、今後も尚ほ益々教育事業の為め力を尽されむとす、其功や洵に偉大なりと謂ふべし、由来我国に於ては教育事業の為め私財を投して青年を養成するもの甚だ尠なきが如し、之に反して海外諸国に於ては多額の私財を捐して学校を開き生徒を養ひ、以て社会に多大の貢献を為すもの多し、然るに大倉氏は我国の富豪に率先して力を教育事業に致さるゝ所極めて偉大なるものあるは、吾輩の最も悦ぶ所なり、若し夫れ世の富豪にして国家の為めに如何に其力を致すべきかに疑を懐くものあらば、宜しく教育事業の為めに力を致されむ事を希望す、積善の家に余慶ありと、洵に旨あるかな、終りに臨みて大倉家の益々繁昌に赴かれむことを祈る、云々
右にて式を畢り、余興に移りたるが、菊五郎・吉右衛門等の新作浦島藤間勘右衛門・市川高麗蔵の子宝三番叟、高麗蔵・訥弁等の二人袴等何れも満場の喝采を博せり、斯くて予定の時刻に至るや主人大倉氏の先導にて一同食堂に入り、立食の饗応を受けしが、宴半にして渋沢男爵は来賓に向かひ山県元帥に 天皇皇后両陛下の万歳を三唱せられん事を請ひたしと述べ、同元帥は声朗に 両陛下の万歳を三唱し、会衆恭しく之に唱和し、次で石黒男爵は米国大使の祝辞ある旨を告げ、同大使は三鞭の杯を捧げて大倉氏の健康を祝する旨の挨拶あり、一同杯を挙げて主人大倉氏の健康を祝し、歓呼洋々の裡に薄暮漸く退散を告げたり、来賓の重なる諸氏を記せば左の如し
 西園寺首相   林外相     阪谷蔵相   牧野文相
 山県元帥    奥大将     徳川公爵   岩倉公爵
 蜂須賀侯爵   東久世伯爵   広沢伯爵   五島子爵
 渡辺子爵    増山子爵    諏訪子爵   徳川男爵
 渋沢男爵    三井男爵    清浦男爵   金子男爵
 花房男爵    高平小五郎   珍田捨巳   石渡敏一
 石本中将    長岡中将    宇佐川中将  押上少将
 三井養之助   三井八郎次郎  益田孝    渡辺専次郎
 朝吹英二    団琢磨     高橋義雄   豊川良平
 波多野承五郎  都築罄六    石塚英蔵   稲垣満次郎
 藤田四郎    飯田義一    中野武営   内田定槌
 田健次郎    相馬永胤    高田慎蔵   周布公正
 松方巌     瓜生震     三橋信方   山座円次郎
 末延道成    田辺貞吉    大橋信太郎  山内一次
因に徳川慶喜公の祝辞及伊藤侯の七絶は前号に記したるが、尚ほ特に衆目を惹きたるもの左の如し
                    桂伯爵
 君はいま鶴彦なれば此先は
      いや重ぬらむ亀の齢を
                    渋沢男爵
 和歌浦に立ち帰りつゝあしたつの
      尚ほ幾度か千里ゆくらむ
 - 第26巻 p.753 -ページ画像 
                    高崎男爵
 稀なりとめではやさるゝ七十路も
      たとへばいまは千代の雛鶴
尚ほ記すべきは、邸内の大噴水池より鬱蒼たる木立を縫ふて大倉商業学校の南側に亘れる閑雅幽邃の域に地を相し、斯道の大家伊集院氏の監督の下に新に瀟洒なる茶室を築かれたるの一事なり、家屋の数奇を凝せるは玆に記す迄もなく、庭前の一木一石猶ほ苟もせず、高さ数間の所より飛瀑玉と砕けて白巾を布くが如く、而かも溚々として落下するところ真に仙境の感を生ぜしめ、特に夜間は屋後にしつらへたる白色電灯の光は屋根越しに滝を照すの仕掛なり、松浦伯席を「常春庵」と命名したりとぞ、是れ李伯の詩より出づるならむか、席に幅あり、其一は含雪山県侯の詠、他は海東松方伯の辞、即ち左の如し
                    山県侯爵
 友鶴の千代万代もこもるらん
      まれなる齢いはふまとひに
                    松方伯爵
 わたつみの浜のまさごの数々も
      君か千歳のある数にせむ


竜門雑誌 第二二二号・第四八―四九頁 明治三九年一一月 ○大倉喜八郎氏古稀祝賀園遊会(DK260122k-0005)
第26巻 p.753-754 ページ画像

竜門雑誌  第二二二号・第四八―四九頁 明治三九年一一月
○大倉喜八郎氏古稀祝賀園遊会 大倉鶴彦翁は今年古稀の齢に達せしを以て去月二十三日より三日間葵坂の邸内に於て盛なる祝賀会を開き内外貴賓知己を招待して園遊会を開かれたるが、同日青淵先生には主人鶴彦翁の挨拶、石黒男の演説に続き左の如き祝賀演説を為されたり
 閣下・淑女・紳士諸君、私は大倉君古稀の賀に一言の祝辞を呈するの光栄を担ひます
 私は君と三十余年の旧友、特に其従事の方面が同一の地位に立つて居りますので、百事相提携して今日に及び今に明治聖代の聖恩に浴する者でありますが、今日よりして過去を顧みますれば歳月流るゝが如く、大倉君は既に古稀の齢に達せられました
 明治照代は種々の人が国家に尽すの時代で、或は学問、或は政治、或は軍事に夫々貢献を致されまして、玆に御列席の方々の内にも、各方面から国家に貢献されし方々は枚挙に遑あらざる程であります乍併大倉君の如く商業界に雄飛されし人は、是れを他方面に求むるも匹儔甚だ稀れであらうと信じます
 君が経営の事業の跡に見まするに、君は議論の人よりも手腕の人、口舌の人よりも実際の人であつて、是が所謂君の今日ある所以であります、特に君は大に其事業の発展するに伴ひ、他人に越えて国家公益に尽くさるるは羨望に堪へざる次第であります、唯今石黒男の御報告に依つて我々共迄も大に面目を施したる様に感ぜられるは、特に感謝しなければならん次第であります
 昔の時代は少し年を取ると、さう何時迄も娑婆を塞がれては困ると云ふ様な時代でありましたが、長く生存しても世に益する所なくんば或は然らん、支那でも昔から七十を古稀と称へて居ますが、近来
 - 第26巻 p.754 -ページ画像 
世の中が段々進で参ると共に、老人の相場許りは諸物価と反対に下落の傾向あつて(笑)七十位では、何だか老人らしくなくなりました、斯う申すと何だか自分で老人らしく思はれぬ様な算段と疑はれるかも知れませんが(大笑)七十が老人らしくなくなつたも、是れも明治照代の賜であります(喝采)
 夫れで私は斯う申して主人の古稀を祝したい『人生七十近多見、福禄如君古来稀』而して其福禄を大に利用する事、君が如きは更に大に古来稀れなり(大喝采)私は此点に於て主人古稀の賀辞を呈する次第であります
因に記す、青淵先生を始め其他諸氏より鶴彦翁の寿を祝して多くの歌詩を寄せられたる由なるが、一二を記すれば左の如し
○中略
                    青淵先生
 和歌の浦に立ち帰りつゝあしたつの
      尚ほ幾度か千里行くらむ
○下略


東京経済雑誌 第五四巻第一三六一号・第八二二頁 明治三九年一一月三日 ○大倉氏古稀祝筵(DK260122k-0006)
第26巻 p.754 ページ画像

東京経済雑誌  第五四巻第一三六一号・第八二二頁 明治三九年一一月三日
    ○大倉氏古稀祝筵
大倉喜八郎氏は、去二十三日より七十の古来稀なりといふ長寿の賀筵を赤坂葵町の自邸に開き、盛大なる宴遊会を催され、雨宮氏の富士模造と好対の盛事なりき、第一日は大倉氏の挨拶に次きて、石黒男の大倉商業学校に関する報告を兼ねたる祝辞・渋沢男の祝辞・大隈伯の演説等あり、第二日は石黒男・渋沢男並に牧野文相の演説あり、各日とも千有余名の来賓あり、諸大臣を始め朝野の紳士群を為し、余興の趣向もさまざまにして、近時稀なる盛筵なりき