デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
2節 女子教育
2款 日本女子大学校
■綱文

第26巻 p.874-880(DK260151k) ページ画像

明治30年3月24日(1897年)

是ヨリ先栄一、大隈重信ノ紹介ニヨリ成瀬仁蔵ト会見シ、女子大学校ノ設立計画ヲ聞ク。栄一賛意ヲ表シ設立発起人タルベキコトヲ承諾ス。是日第一回発起人会ニ出席シ、創立委員ニ選定セラレ且ツ会計監督ニ挙ゲラル。


■資料

成瀬先生伝 仁科節編 第一七八頁 昭和三年四月刊(DK260151k-0001)
第26巻 p.874 ページ画像

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成瀬先生伝 仁科節編 第一八六頁 昭和三年四月刊(DK260151k-0002)
第26巻 p.874 ページ画像

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日本女子大学校の過去現在及び将来 同校編 第五―一二頁 (明治四四年)刊(DK260151k-0003)
第26巻 p.874-877 ページ画像

日本女子大学校の過去現在及び将来 同校編  第五―一二頁 (明治四四年)刊
    第二章 設立の準備
      第一節 『女子教育』の著述
 氏 ○成瀬仁蔵が帰朝せらるゝや大阪梅花女学校の評議員、氏の教育意見を容れて再び校長の椅子を与へたるも、意見意の如く行はれず、遂に辞職して女子大学設立の挙に着手し、その初志を貫徹せんことに決し
 - 第26巻 p.875 -ページ画像 
そが準備として、明治二十九年『女子教育』と題する書を著述し、女子の高等教育に関する所信と抱負とを披瀝して、之を世に訴へたり。
      第二節 同情者と助力者
 之と同時に、氏は識者を歴訪して、女子大学設立の議を謀り、大阪にては、内海知事・北畠控訴院長・住友吉左衛門氏、京都にては、田中源太郎・浜岡光哲氏等、東京にては近衛公・伊藤公・山県公・西園寺侯・蜂須賀侯・大隈伯・土方伯・岡部子・渋沢男・児島氏・久保田男・岩崎家・三井家・森村氏等を初め、朝野に有力なる多数の同情者を得たり。爾来、西園寺侯・大隈伯・渋沢男・三井・住友・森村氏等は十年一日の如く、深厚なる同情を表せらるゝ上に、多額の資金をも寄附せられ、自家の学校とし、自家の事業として熱心に協力同心、以て本校発達の為めに経営尽力せられ、其の結果遂に今日の盛況を呈するに至れるなり。されど最初率先して最も深き同情を寄せられ、且つ金銭上の助力を与へられ、設立の挙を完ふするの端緒を開かしめられたるは、実に大和の土倉庄三郎氏と大阪の広岡浅子の両氏なりとす。然るに成瀬氏が断然女子大学設立の挙を実行するの決心を確立せしに与かつて大に力ありしものは、時の内閣総理大臣伊藤公爵の深き同情と、有力なる奨励と、適切なる助言となりき。之と同時に助力者として忘るべからざるは、東京に於ては、竹越与三郎・松村介石・綱島佳吉・村井知至・戸川安宅氏等、大阪に於ては、市原盛宏・宮川経輝・古木虎三郎氏等の旧友なりとす。
      第三節 発起人
 当時発起人たることを快諾せられたる方々は実に左の如し。
  公爵夫人 伊藤梅子       公爵 岩倉具定
  男爵夫人 岩崎早苗子         市島徳次郎
       磯野小右衛門   侯爵夫人 蜂須賀随子
       原六郎           浜岡章子
       時任為基          土居通夫
       殿村平右衛門        土倉寿子
       大西五一郎    公爵夫人 大山捨松子
  伯爵夫人 大隈綾子          大森豊子
       大倉徳子     伯爵夫人 樺山登茂子
       樺山愛輔          川崎芳太郎
  子爵夫人 高島春子          田中市兵衛
       田村太兵衛         田辺貞吉
       成瀬仁蔵          村山竜平
  男爵夫人 内海千代子         浮田桂造
       右近権右衛門        野崎武吉郎
    男爵 九鬼隆一     男爵母堂 山田清子
       藪田勘兵衛    侯爵夫人 松方政子
       松本浜子          前川槙造
  公爵夫人 近衛貞子          鴻池善右衛門
       鴻池新十郎         芦田順三郎
    侯爵 西園寺公望         菊池侃二
 - 第26巻 p.876 -ページ画像 
  男爵夫人 北畠三枝子         木原忠兵衛
    男爵 三井八郎右衛門       三井捨子
  男爵夫人 渋沢兼子          芝川又右衛門
       渋川忠次郎      伯爵 土方久元
       広瀬宰平          広海二三郎
       広岡久右衛門        広岡浅子
       森村市左衛門   男爵夫人 周布貞子
       砂川雄峻          住友吉左衛門
      第四節 設立の発表と資金の募集
 かくて頑固なる反対論や、尚早論を弁駁説服し、予想外にも多数の有力なる同情者を得て、明治三十年四月、帝国ホテルに於て、本校創立披露会を催ふし、初めてその趣旨を天下に公表せり。当時土倉庄三郎氏は開会の趣旨を演じ、内海男は成瀬氏紹介の辞を述べ、近衛公・大隈伯・蜂須賀侯・江原素六氏・島田三郎氏各々本校創立賛助の趣旨を説き、成瀬氏は女子教育振興策と題して、その設立の目的等を弁明せられたり。同年四月東京に於て、第一回発起人会を開き、近衛公・蜂須賀侯・大隈伯・土方伯・児島惟謙氏・内海男・周布男・渋沢男・原六郎氏・大倉喜八郎氏・松本重太郎民・土倉庄三郎氏・広岡夫人・成瀬氏等相会し、創立の計画準備等に関して熟議し、創立委員十一名を選定し、故近衛公爵を創立委員長に、北畠男爵を同副委員長に、渋沢男爵・住友吉左衛門氏を会計監督に挙げたり。引き続き、同年五月には大阪、同年十月には神戸に於て、有志家を招待して、本校創立の趣旨を披露し、以て世論の喚起に力めたり。同年五月上旬第一回創立委員会を開き、資金募集の件等を協議せり。其後近衛公爵は公務多端の理由を以て委員長を辞せられたるが故に、北畠副委員長一時之を兼摂せられしも、大隈伯代つて委員長となられたり。文部書記官兼参事官中川小十郎及び戸川安宅・麻生正蔵の三氏を創立事務幹事に嘱托し大阪及び東京の両地に創立事務所を開設し、東京に於ては、帝国教育会の好意に依り、その一室を借りて、創立事務所を開設せり。然るに当時恰も日清戦役の後を承け、経済界の不振其極に達し、暫く資金の募集を見合はすの止むなきに立至れり。されども、女子教育は国家の急務なるにも係らず、一朝一夕にその功を奏し得べきものに非ざるを以て、時運の如何を顧るの暇なしと信じ、遂に創立委員会は断然資金の募集に着手することに決議したり。
      第五節 創立委員
 爾来創立委員となり、本校設立に尽力せられ、本校をして今日あるの基礎を築き建てられたる方々は、実に左の如し。
    男爵 岩崎弥之助         磯野小右衛門
       稲垣満次郎         伊藤徳三
    侯爵 蜂須賀茂韶         原六郎
       浜岡光哲          土倉庄三郎
    伯爵 大隈重信          大倉喜八郎
       大三輪長兵衛     子爵 岡部長職
       嘉納治五郎      伯爵 樺山資紀
 - 第26巻 p.877 -ページ画像 
       樺山愛輔          川崎芳太郎
       田中源太郎         田中市兵衛
       田村太兵衛         高崎親章
    男爵 辻新次        子爵 長岡護美
       成瀬仁蔵          村山竜平
    男爵 内海忠勝          野崎武吉郎
    男爵 久保田譲          山本達雄
       藪田勘兵衛         前川槙蔵
    公爵 近衛篤麿          児島惟謙
       肥塚竜        子爵 秋元興朝
       浅野総一郎      侯爵 西園寺公望
    男爵 北畠治房          菊池侃二
       三井三郎助         三井高保
    男爵 渋沢栄一       伯爵 土方久元
  工学博士 平賀義美          広岡信五郎
       森村市左衛門        住友吉左衛門


竜門雑誌 第五一一号・第六―七頁 昭和六年四月 女子教育に就て(青淵先生)(DK260151k-0004)
第26巻 p.877-878 ページ画像

竜門雑誌  第五一一号・第六―七頁 昭和六年四月
    女子教育に就て (青淵先生)
○上略
 目白の日本女子大学校の方は、それよりずつと後、明治廿九年から卅年頃に成瀬仁蔵君の奔走で成立つたものであります。成瀬君は大阪で女学校を経営して居たが、欧米を視察して来てから、日本の将来には女子の高等教育が必要であると主張し、大和の土倉とか、大阪の広岡へ縁付いた三井のお嬢さんとかの賛成を得、また東京へ出て大隈侯や西園寺公の縁故で有力者を勧誘し、その創立に付て熱心に運動しました。恰度その時分、前に云ふた東京女学館は外山正一君が主として面倒を見て呉れて居ましたが、思ふやうに入学者がなく、余程困つて居りました、文部省などでは「やり方が悪いからである、自業自得だから仕方がない」と批評したが、悪口は兎に角入学者が少いので維持の方法も立たず、どうしたらよいかと憂慮して居ました。すると成瀬君が女子大学校設立の運動から森村翁を説いて賛成を得ると同時に、私にも世話人の一人になれと勧め、森村翁も私が力を入れるなら仲間にならうと云ふから是非賛成して呉れと説かれました。其時私は都合によつては、成瀬君と外山君とを会見させ、女学館を中心に女子の高等教育機関を創設することになれば、成瀬君の主張も徹り、女学館も都合よくなるから、一つの方法であらうと思ひ、両者を会見せしめた処が、二人の意見が根本から違つて居る為め、直ぐ議論を始め、同じく女子教育の興隆を希望しながら、実際に付ては左と右と云ふ様に別れて、更に一致する処がなかつたのであります。
 其処で私の此の思案は到底実現不可能と諦め、女学館とは別個に創立することになり、森村を初め大阪の住友・藤田などが出資し、私も参加し、成瀬君が主となつて組織して経営し、現在まで押し進めて参りました。そして女子に高等教育を施すと云ふのでやつて居り、その
 - 第26巻 p.878 -ページ画像 
経過は当初の理想通りには行かない模様であるけれども、世の進みと共に、その必要が認められ、重要視せられて、先づ漸次内容充実に向つて進みつゝあるのでありまして、今日の日本とすればあれ位の女子の学校があつてよいと思はれます。 ○下略


雨夜譚会談話筆記 上・第六八―七三頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK260151k-0005)
第26巻 p.878-879 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第六八―七三頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                    (渋沢子爵家所蔵)
  第四回 大正十五年十二月十一日 於飛鳥山邸
    一、女子教育に尽力せられしに就て
○上略
先生「 ○中略 女子大学の相談を初め受けた時、私は之は中々容易でないと思つたから断つたが、成瀬は『到底他の人では成就せぬから、是非御願する』と泣くやうに頼むので、遂に断り切れず、相談に乗ることにした。最初故外山正一氏(故菊池大麓男等と英国に留学した人)などは、女学館と一しよにしようと心配した。其処でそれも面白からうと、二つを結び付けてやらせようとしたが、いきなり成瀬と、外山とが喧嘩をして、外山は『成瀬と云ふ奴は山師見たやうな男だ』と云ふ、成瀬の方は『外山は何にも知らないのに我意ばかり強い』と反目し、結局不成立に終つた。従つて女子大学の方は中止せねばならぬかと思はれる程の成行になつたが、大和の土倉や大阪の広岡浅子などゝ云ふ人々が資金を出すことになり、兎に角やりかけた。然し中々思ふやうに行かず、私に是非力を入れて呉れ、さうしなければ完成は至難であると頻に云うて参りましたが、私はどうも今一層力を注ぐと云ふ覚悟が出来ず、引受けるに至らなかつた。且斯様な教育事業は政府の方で行るべきものであるとの意見を持つて居た。処が其の内森村(市左衛門)さんが大いに力を入れる気になつた。それは或る日成瀬が来て熱心に『資金を出すに就ては渋沢さんと相談すると云つて居られますから、森村さんを説得して下さい』と云ふので、森村さんに会つて話して見た。結局森村は豊明会から二十万円近くも出すことにしたので、此処に学校を進展せしめることが出来るやうになり、其後三井・藤田・岩崎等も出資して今日の盛大を致した訳である。私は女子教育は必要だと信じて居るが余り趣味は持つて居らぬ。殊に大学程度のものには、国が力を入れねばならぬものだと思つて居る。それならば何故私が女子大学に力を入れて居るかと疑ふかも知れぬが、今日の状態は私が棚を差上げて居る様なもので、私が手を離せば落ちるからである。前にも述べた様に大学程度のものは国家としてやるべきことで、私立としてやり始め、中途で挫折する様でも困ると思つたから断つたが、其後森村が十七・八万円出すことになつたから成立したと云つてよい。当時の十七・八万円は中々の大金であつた。私は女子の高等教育に依つて女子が生意気になるやうでは困ると思つて居つたから、成瀬に「生意気な女子を造らぬやうに、所謂新しい女を造つてはならぬ」と口癖のやうに云つた。私の女子教育に力を入れて居るに付ての観念は、常に女らしくない女を出さぬやうにと云ふことにあるが、幸
 - 第26巻 p.879 -ページ画像 
に女子大学などの教育方針を見ても、その主張が多少とも効果を奏して居るかと思はれる。女子大学も今の処では金が不足して、真の大学にはなれぬ有様である。大学令による大学にするには積立金も必要だから、尚五十万円程必要であるとのことである。そして又私は日本の女子教育の実状を見て現状では満足しないが、然らば如何にしたらよいかと云はれるとよい思案はない。何度も云ふやうだが虎之門の女学館の方は政治上から外見をよくする為めのもので、十年過ぎて後の女子大学校は、成瀬が女子教育の必要を説いたものであつて、私は今でも民間の力のみでは発展しないと思つて居る。然し私はやれるだけやつて行く積りである。それから六十年史にある明治女学校や共立女子職業学校は特別に力を入れた記憶はないから資金を出した程度であらう。津田英学塾にも援助し、実践女学校は下田さんに頼まれて顧問になつた」
   ○此ノ回ノ出席者ハ、栄一・渋沢敬三・白石喜太郎・高田利吉・岡田純夫。


雨夜譚会談話筆記 下・第七三〇―七三四頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK260151k-0006)
第26巻 p.879-880 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第七三〇―七三四頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十六回 昭和四年十月二十九日 於渋沢事務所
    二、今後の女子教育に就ての御感想
○上略
先生「 ○中略 当時私は成瀬仁蔵氏から大変刺戟された。大隈さんも其時一緒であつたが、大隈さんはどうでもいゝと云つた考であつた。成程そう云へばそうだ位で、女子大学校設立に就ては成瀬氏から頻りに説かれてマーやつて見よう位の意見であつた。成瀬氏が云ふには『婦人も国民ではないか。渋沢さん、あなたは婦人を人と思はないあなたの欠点はそこに在る。あなたは外には何等申分のない人であるけれとも、どうも此点だけは同意し兼ねる。私は真にあなたに敬服すればこそ、こんな事も申上げるのです』なんかと頻りに云ふので『君の説には大いに賛成する。然し女子に高等教育を与へた為めに、生意気な風を生じては困る』と、其点をはつきりと云つた。
 松平楽翁公も申されたやうに『あるもなきにおとるは誠なき人の才女の才……』で、此事は十分弁へ置かなければならないと思ふ。それだからと云つて、婦人教育を完全にする事は大に肝要である。将来利用厚生の考のない婦人は駄目である。私は婦人に此方面の能力が欠けてゐるとは思はぬ。唯従来のやり方が悪かつたのである。概して、武力のみによつて立つ国家には、弱肉強食の弊が行はれ易く延いては、力の足りないものを蔑視するのである。日本の封建時代には別して其傾向が強かつたが、其後女子教育に依つて大いに面目を一新する事が出来たと思ふ。然し現在の女子教育が、完全に行つてゐるとは思はぬ。現在制度上から見て、女子には本当の大学の設けがない。勿論これには経費其他種々なる事情があるであらう。けれども、女子にも男子同様大学の必要があると思ふ。それから、私は明治四十二・三年頃、男女共学の是非に就て大いに論じた事がある。然し当時に於ては、尚ほ弊害があると云ふ事になつた。其頃私
 - 第26巻 p.880 -ページ画像 
は恰度米国へ行つたから、序にあちらで其筋の人々が集つた席上、此事を討論した事がある。米国には既にミネヤポリス、ボストン、フイラデルフイヤなどの地に於ける大学で、男女共学が実施されて居つた。それで私は『日本の現状はこうである。それに就て、あなたの国では男女共学を実際実行なさつてゐるが、其成績はどうか、或は弊害がありはしないか、女子の方で害を受けるやうな事はないか』と、突込んだ質問もして見たが、先方ではそんなことはないとの事であつた。
○下略
   ○此ノ回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・同敬三・白石喜太郎・佐治裕吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。