デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
2款 同志社大学
■綱文

第27巻 p.8-32(DK270004k) ページ画像

明治21年7月19日(1888年)

是ヨリ先四月二十二日、栄一、同志社大学設立ニツキ井上馨邸ニ催サレタル新島襄後援ノ為メノ会合ニ出席シ、是日重ネテ同主意ノモトニ開カレタル大隈外務大臣官邸ノ集会ニ岩崎弥之助等ト共ニ出席、之ヲ賛助シテ金六千円寄附ヲ決ス。爾後栄一、右基金ノ募集及ビ管理ニ尽力スル所頗ル多シ。


■資料

同志社五十年史 同史編纂委員会編 第八五―九六頁 昭和五年七月刊 【同志社の成立及び発達 (中瀬古六郎)】(DK270004k-0001)
第27巻 p.8-17 ページ画像

同志社五十年史 同史編纂委員会編  第八五―九六頁 昭和五年七月刊
    同志社の成立及び発達 (中瀬古六郎)
○上略
      大学資金の募集
○中略
 斯くて同志社の法的基礎を確立し、学校内部の結束を鞏固にし、戦闘の部署陣容全く整ふを待つて、今や積極的に外部に向つて突進を始め、大々的に大学資金の公募に着手するに至つたのである。即ち明治二十一年四月十二日には、京都の紳士・紳商・府市会議員、其他官民六百五十名を知恩院の大広間に招請し、先生 ○新島襄は病を押し熱誠を披瀝して其翼賛を求め、府知事北垣国道氏も亦立つて一場の推奨演説を試み、以て府民の脳裡に偉大なる感銘を印したのであつた。
 先生は殆ど休養の暇もなく、其病躯を強ひて、同月十六日東上して陸奥宗光伯に会談し、引続き官界及び民間の貴紳・豪商の間に奔走して募金に努力せられ、四月二十二日夜の如きは井上伯邸に数名の友人を会して、大学の計画を披露するに当り、席上昏倒して四肢殆ど厥冷に陥りしことさへあつた。此六月末(或は曰く七月十九日)には前外務大臣井上馨伯は、一夕先生のために顕官・富豪等を招いて饗応し、席上先生に請うて大学設立の抱負を説かしめたるに、其結果として井上伯及び大隈伯は各壱千円、外務次官青木周蔵氏は五百円、正金銀行頭取原六郎氏は六千円、渋沢栄一氏も六千円、岩崎久弥氏は参千円、同弥之助氏は五千円、平沼八太郎氏は弐千五百円、大倉喜八郎氏・田中平八氏・益田孝氏は各弐千円宛を寄附せられ、立ちどころにして無慮参万壱千円に達したのであつた。
 此事件に就ては、先生の最後の英文書翰にも、之を『最も記念すべき一夜』なりと云うて居られるが、先生は之に無限の勇気を鼓舞せられ、翌年の夏までには之を拾万円に満たさしめんとて、東京を根拠地として、寝食を忘れて東奔西走されたのである。是が為め先生の健康は大いに衰へ、医師等は先生の余命幾ばくも無かるべきを説きたれば先生は遂に休養に意を決し、ベルツ博士の勧めに従ひ、伊香保に赴いて一小屋を借りて二ケ月間の閑寂な生活を試みられた。最初の間は衰
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弱甚しく、人力車にさへ乗るに堪へず、駕籠を使用したのであつたが同夏九月にデヴイス先生の来訪を受けた頃には、漸く数十尺を緩歩し得るに至つた。そこで九月十四日を以て東京に帰り、十月二十四日には一旦京都に帰り、次で十二月十二日神戸に赴き、翌二十二年三月三十日まで此冬を神戸にて過ごされたのである。
 是に於て明治二十一年十一月十日を以て『同志社大学設立の旨意』なる一片の文章が、全国二十大新聞・雑誌上に一斉発表せられ、此れ等の各新聞社は競うて義捐金募集の任に当られた。而して徳富猪一郎氏の『国民之友』の如きは、其時事欄内に於て『同志社大学のことに就ては、吾人は既に幾度か読者の高聴を煩はせり。今日に於て之を繰り返さば、或は好む所に阿ねるの誹を招かん。然れども吾人は尚ほ一言せざるべからざるものあり。……吾人は各社が煩雑を厭はず、同志社大学の為に、此の如き務を採りたるを感謝せざるを得ず。而して吾人が読者に望む所は、若し新島君の主旨にして賛成すべきものありとせば、願くは其志を助くることを吝む勿れ。ラザロの壱銭、時に或はソロモンの万金に価するものあるべし。』と述べて居る。是れと同時に同志社諸学校に在学中の約一千名の教職員・学生も、全国に散布せる校友同窓会員と共同し、又必死の努力を以て其父兄・親戚・知友等に之を伝へ、全国の組合諸教会幾万の会員も之に呼応して、全天下に訴へたのであつた。
  『回顧すれば既に二十余年前』の次ぎなる『幕政の末路』より、第六節の終り『同志社英学校の設立せし始末の大略也』までは、明治十七年四月一日、京都に於て大学創立の大会を開きたる際、先生の演説に先ちて新島公義氏の朗読したる文章を、原文のまゝ挿入したものである。而も此文章は公義氏が予め先生の命を受けて起草したのであつた。ところが、明治二十一年十一月発表の大学設立の旨意中には、此原文を約其二分の一ほどに単削してあるから、今は爰に其初めに還元して歴史的趣味に浸らんとする微意に出でたのである。
    同志社大学設立の旨意
吾人が私立大学を設立せんと欲したるは一日に非ず、而して之れが為めに経営辛苦を費したるも亦一日に非ず、今や計画略ぼ熟し、時期漸く来らんとす、吾人は今日に於て、此を全天下に訴へ、全国民の力を藉り、其の計画を成就せずんば、再び其時期無きを信ず、是れ吾人が従来計画したる所の顛末を陳し、併せて之れを設立する所の目的を告白するの止む可らざる所以なり
回顧すれば既に二十余年前、幕政の末路、世運傾危、人心動乱の時に際し、襄夙に海外遊学の志を懐き、脱藩して函館に趣き、暫く時機を観察してありしが、元治元年六月十四日の夜半窃に国禁を犯して米国の商船に搭じ、海上幾多の困苦を嘗め、一年の星霜を経て米国に到着するを得たり、爾来益々志を決し、他日大に我邦の為に竭す事あらんと欲し、遂にアムホルスト大学に入り、日夜学業を淬励せしが、未だ幾年を経ざるに数々篤疾に罹り、形骸空しく異郷に泯びんとせしが、幸にして一生を万死の間に快復するを得たりと雖も、為に大に体躯の
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健康を害し、学業上障碍を受くる事極めて尠しとせず、然れども苟も学業の余暇あれば必ず諸州を歴遊し、山河を跋渉し、務めて建国の規模を探り、風土・人情に通ずるを以て事とし、到る処の大中小学より博物館・書籍館・盲唖院・幼稚院、其他百工技芸の講習所、百種物産の製造所に至る迄概ね之を検閲し、或は諸州の学士、有名の人物に接見し、親しく其議論を聴くを得て大に悟る所あり、以為らく蓋し北米開明の起源は学校にして、其能く制度文物を隆興せしめたる所以のものは要するに教化の力にして、其教化の力の如此偉大なる所以は、教育の法其宜を得たるにある事なりと、是に於て身の劣才浅学なるをも顧みず、自ら他年帰朝の日は必ず善美なる学校を起し、教育を以て己が責任となさん事を誓ひたり
我明治の初年、故岩倉特命全権大使の米国に航せられしや、文部理事官田中不二麿君之に随行し、欧米諸国の教育法を検閲せらる、時に襄正にアンドヴァ邑に在て勤学せしが、亦召されて理事官随行の命を被ふる、襄敢て之を辞せず、直ちに旨を奉じて理事官と偕に先づ北米中著名の大中小の学校を巡視し、終つて欧洲に赴き蘇格蘭・英倫・仏蘭士・瑞西・和蘭・丁抹・独逸・魯西亜等の諸国を経歴し、学校の組織教育の規律を初とし、凡そ事の学政に関する者は総て之を究察し、其周到善美を尽せるを観て感益々切なり、惟らく抑々学校は欧洲の熀明にして彼の燦爛として学術の清輝を放ち、近世の所謂文明の大光を寰宇の間に発射せしものは、主として之が恩沢に因らざるはなし、而して教化は文明の生命にして、教育は治安の母たる事を悟り、愈々帰朝の後は必ず一の大学を設立し、誠実の教育を施し、真正の教化を布き以て社会の安全を鞏固ならしめ、以て我邦の運命を保ち、以て東洋に文化の光を表彰せん事を望み、造次にも顛沛にも敢て之を忘るゝ事なかりし、且又随行に先だちては 忝なくも我邦大政府より特旨を以て曩に国禁を犯して脱奔せし罪科を免除せられ、加之数々登官の恩命を蒙りしが、襄に於ては将来真正の開明文化を我邦に来さん事を望むの切なるより固辞して拝せず、理事官と欧洲に別れ、再び米国に航しアンドヴァ神学校に帰り、勉学年を累ね、遂に卒業の初志を達する事を得たり
明治七年の秋、襄の将に米国を辞し去らんとするや、偶々碧山州ロトランド府に於て亜米利加伝道会社の大会議あり、襄の友人にして議会に与る者頗る多きに因り、諸友襄を要し勧めて臨会せしめ、且訣別の詞を需む、襄遂に会場に趣き、演壇上米国三千有余の聴衆紳士に見え平素の宿望を開陳して曰く、凡そ何れの国を問はず、苟も真正の文化を興隆せんと欲せば、須らく人智を開発せざるべからず、社会の安寧を保持せんと欲せば、必ず真正の教育に依らざるべからず、方今我邦日本に於ては現に戊辰の変乱を経て旧来の陋習を破り、封建の迷夢を醒して明治の新政を行ふの際、真正の教育を布き以て治国の大本を樹立し、以て人智を開発し、以て真正の文化を興隆せざる可からず、回顧すれば今を去る十一年前、襄の郷国にありしや、当時の国勢日々に危きに頻するを観て憂憤の心に堪へず、慨然五大洲歴遊の念を発し、人情難弃の父母弟妹郷友に別れ、一片訣別の辞もなく、衣食住の計も
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なく、幕府の大禁を犯して一身の窮困を顧みず、愈々蹶て愈々奮ひ、生命を天運に任せて成業を万一に期し、孤影飄蕭、長風万里の波濤を越え、遂に貴国に渡来せしも亦、只真正の開明文化と真正の自由幸福とを我日本国に来さん事を祈るの丹心に外ならず、蓋し我邦同胞三千余万の安危禍福は、政柄の運転固より重大なりと雖も、一に教化の烈徳其力を効し、教育の方針其宜を得ると否とに係はる事、昭々乎として疑ふべきに非ず、今や襄貴国紳士諸友と袖を分ちて、恙なく国に帰るを得ば、必ず一の大学を設立し、之が光明を仮りて我国運の進路を照し、他日日本文化の為に涓埃の報を為す所あらんとす、嗟呼、満場の聴衆よ、兄弟よ、襄の赤心寔に是の如し、誰か襄が心情を洞察し、其素志を翼賛する者ある乎哉と、且つ演じ且問ひ、慷慨悲憤の余不覚数行の感涙を壇上に注ぎ、情溢れ胸塞り、言辞を中止する其幾回なるを知らず、何ぞ図らん聴衆中忽ち人あり、背後に直立し揚言して曰く新島氏よ、予今氏が設立せんとする学校の為に、一千弗を寄附すべしと、是なん華盛頓府の貴紳医学博士パーカ氏にてありし、其言未だ畢らざるに、碧山州前府知事ページ氏も亦起つて一千弗寄附するの約を為せり、之に次ぎ五百弗・三百弗・二百・一百、或は五十・三十弗贈与の約ありて、静粛たる場中忽然として歓呼の声沸くが如し
既にして慇懃に良朋諸士の好意を謝し離別を告げ、将に演壇を下らんとする時一老農夫あり、痩身襤褸を纏ひ、徐に進みて襄の前に至り戦慄止まず、懐中より金二弗を出し黯然涙を垂れて曰く、陋は碧山州北の寒貧農夫なり、此二弗は今日陋が帰路汽車に乗らんとして携へし所なり、然れども今子が演説を聞き深く子が愛国の赤心に感激せられ、自ら禁ずる能はず、仮令ひ陋爺老たりと雖も両足尚能く徒歩して家に帰るに堪ゆ、これ固より僅少数ふるに足らざるも、子が他日建設する大学費用の一端に供するあらば陋の喜び何ものか之に過ぎんやと、已にして会散じ、襄も亦ロトランド府を出で行く事未だ一里ならざる時忽ち背後より襄を呼ぶ者あり、顧みて之を視れば一の老婦なり、急に襄に近づき絮々語つて曰く、嫗は近村の一寡婦にして貧殊に甚し、然れども教育の一事に於ては聊か子が素志を助けんとするの意あり、今嚢中僅に有る所の金二弗を呈す、然るに曩に会場に於て敢て之を言はざりしは、誠に其軽少なるを愧ぢて而已、寡婦の微志幸に領収あれよと言畢りて泣く、襄益々米人が我邦を愛するの懇篤なるを思ひ感喜之を受け、曾て友人に語つて曰く、ロトランド府集会に於て最も襄が衷情を感動せしめたる者は、彼の老農夫と老寡婦との寄附金にてありしと、其後四方有志者の贈る所陸続雲集し来り、襄が宿志を達せんとするの基本略ぼ定まるに至れり
既にして纜を桑港に解き、明治七年の末始めて本邦に帰着し、日夜学校設立を計画してありしが、八年一月大阪に至るや偶々故内閣顧問木戸孝允公の在坂せるに会ひ、乃ち公に説くに真正教育の要理を以てし併せて平生の宿望を吐露せしに、公には深く之を称賛せられ、加ふるに公は曾て在米の日より襄と相識るを以て、専ら政府の間に周旋し、襄が志を貫徹するに務め賜へり、襄乃ち地を京都に卜し、前文部大輔田中不二麿君・前京都府知事槙村正直君の賛助を得、遂に山本覚馬氏
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と結社し、明治八年十一月二十九日私塾開業の公許を得て、直ちに英学校を開設したりき
同じく十六年二月更に社員三名を増し、敷地一万一千八百有余坪・校舎十棟・書籍一千四百有余巻、及び本校に附属する器械財産は本社の所有且つ維持する処たり、是即ち今の我同志社英学校の設立せし始末の大略也
斯くの如くにして同志社は設立したり、然れども其目的とする所は、独り普通の英学を教授するのみならず、其徳性を涵養し、其品行を高尚ならしめ、其精神を正大ならしめんことを勉め、独り技芸才能ある人物を教育するに止まらず、所謂良心を手腕に運用するの人物を出さんことを勉めたりき、而して斯くの如き教育は、決して一方に偏したる智育にて達し得可き者に非ず、又既に人心を支配するの能力を失うたる儒教主義の能くす可き所に非ず、唯だ上帝を信じ、真理を愛し、人情を敦くする基督教主義の道徳に存することを信じ、基督教主義を以て徳育の基本と為せり、吾人が世の教育家と其趨を異にしたるも玆に在り、而して同志社が数年荊棘の下に埋没したるも亦玆に在り
此時に際して、吾人の境遇は実に憐れむ可き者にてありしなり、茫々たる天下実に一人の朋友なき有様にてありしなり、基督教主義の徳育は、独り愚民の為めに嫌悪せらるゝのみならず、又世上の大人君子よりも非常なる冷遇を蒙りしなり、然れども吾人同志者は、真理は最後の戦勝者なるを信じ、互ひに相助け、相励まし、着実に、穏当に、堅確に、余念なく吾人が志す所の者を実行し来りしに、幸にして天下の輿論は一変し、躬親から基督教を信ぜざる人にても、基督教は実に一国の道徳を維持する勢力あることを識認し、天下の輿論、基督教を賛成するの勢ひとなり、又一方に於ては同志社教育の実効漸く顕はれ、其教育の懇篤にして親切なる、其学校の徳育・智育二つながら並行して、決して偏僻なる教育に陥らざるの事は、漸く世上の識認する所となり、同志社は実に書生を託するに足るの学校なりとの信用漸く世上に行はれ、十四・五年の頃ひに至つては、学校の規模漸く大に、入学の子弟漸く多く、業を卒はる者漸く増し、学科の程度漸く高きに進み而して中には父兄をして独り普通科のみならず、其上に専門科を加へんことを請求する者あるに至らしめたり、是に於て吾人が宿志たる私立大学の基礎漸く成れりと云ふも、敢て誇張の言に非ざる可し
然りと雖も私立大学は実に大事業なり、之を設立するには多くの人を要するなり、多くの金を要するなり、吾人は誰れに向つて此志を談し誰れと共に此事を行はんや、幸ひにして或る部分の人の信用を得たりと雖も、吾人が当時の有様は全く孤立にてありしなり、然れども黙して止む可きに非ざれば、此時より同志相議し、頻りに同感の士を天下に求めたりき、而して各地往々其賛成を得たるを以て、遂に明治十七年四月、始めて京都府会議員を招待し、数回の演説を為し、私立大学創立の目的を発言し、其重立たる人々の賛成を得、玆に於て明治専門学校設立の旨趣と題し、大学創立の目的を記したる小冊子を発行して賛成を天下に求めたり、是れ私立大学設立の第一着手にてありしなり幸ひにして此企ては天下諸名士の賛成を得たるに拘はらず、当時天下
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一般の不景気に際し、賛成者あれども寄附者なく、寄附金の約束あれども納金なく、吾人の企ても殆んど中止の有様にてありしなり、而して余は此間再び海外に航し、同志社大学設立の事業は同志諸氏に託し此間唯だ徐々其歩を進め、別に差したる程の事あらざりしなり、之れを要するに十七年六月より二十一年四月迄該校設立の為めに集りたる金高は、其約束と納金とを合せて殆んど壱万円に達したり、而して其大いに力を大学設立の事に尽せしは、実に本年にてありとす
本年は実に吾人が計画に取つて幸福なる年にてありつるなり、本年四月、西京に於ては、知恩院にて一大会を開き、六百五・六十名の京都府下諸紳士を招き、私立大学の設立の賛成を得んことを求め、而して北垣京都府知事の如きも熱心此挙を賛成せられ、自ら賛成し、併せて府民の賛成せんことを求むるの演説を為され、爾来京都倶楽部に於て理事委員会を開き、今や既に資金を募集し居れり、其金高は未だ明白ならざるも、思ふに京都府民の諸君は、必ず吾人が希望を空しくせざる可しと確信す
京都に於て斯くの如く着手するに際し、東京に於ても亦聊か着手したる所の者なきに非ず、本年四月余出京し、大隈伯・井上伯・青木子等に見え、宿志を開陳し大いに其賛成を得たり、殊に大隈伯・井上伯の如きは、本年親しく同志社英学校を実視せられ、親しく其学校の模様を閲覧せられ、大いに其成績を称賛せられ、従つて其位置を進めて専門科を設くる事に就ては、一層吾人が志を翼賛せられたり、加之、余は京浜の紳商諸氏に向つて平素の宿志を陳したりしに、幸にして彼の紳商諸氏も大いに之れを賛成せられ、遂に東京に於て本年四月より本月に到る迄、左記の如き寄附金額を得たり
 千円  大隈伯     参千円   岩崎久弥君
 千円  井上伯     弐千五百円 平沼八太郎君
 五百円 青木子     弐千円   大倉喜八郎君
 六千円 渋沢栄一君   弐千円   益田孝君
 六千円 原六郎君    弐千円   田中平八君
 五千円 岩崎弥之助君
而して後藤伯・勝伯・榎本子の如きも、皆な吾人が志を翼賛せられ、未だ其金額は確定せられざれども、必ず多少の寄附金を為す可しと、吾人に向つて約せられたり、且つ又本年五月、米国の朋友等よりして五万弗の寄附金を申し込み、又本年八月、米国の一友よりして更に一万五千弗の寄附金を申し込まれたり、玆に於て吾人が二十余年来の宿望今日に至りて漸く内外の賛成を得、将に達せんとするの緒に就けり吾人は今日に於て天下同感の人士に訴へ、此の計画をして一歩を転ぜしめずんば再び其期なきを信ず、今や我邦朝野の重なる政治家中に於て、井上伯の如き、大隈伯の如き、後藤伯の如き、勝伯の如き、榎本子の如き、青木氏の如き、皆な吾人が志を翼賛せられ、之が為めに周旋の労を厭はれず、其他各地の紳士紳商に至つても、之れが為めに資金を投じ、之れが為めに周旋の労を執らるゝ者、今や漸く多きを加へんとす、然りと雖も大学設立の事業は実に一大事業也、全国民の賛成を仰ぎ、全国民の力を藉らずんば、其成就実に覚束なきなり、是れ吾
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人が今日に於て沈黙する能はざる所以なり、翻つて現今同志社の位置を察すれば、吾人が企ての決して架空の望みに非ざるを知る可し、今や同志社は社員を増加し、通則を設け、其学政の上に於て不朽の基を定めたり、而して本社に属する諸学校は、同志社英学校・同志社神学校・同志社予備校・同志社女学校、別に一個の病院あり、之れに附属する看病婦学校あり、其詳細の統計は左の一表を見て明白なる可し
    同志社諸学校統計表 (明治二十一年十月一日)

図表を画像で表示同志社諸学校統計表 (明治二十一年十月一日)

    種名   同志社      英学校  予備校     神学校      女学校     看病婦学校   病院      合計 種別 創立年月    明治八年十一月  同上   明治廿年九月  明治九年十二月  明治十年四月  明治廿年八月  同上 現在位置    京都上京区    同上   同上      同上       同上      同上      同上 社員現数     九                                                        九人 教授現員              一七     一               一三       三              三四人 外国教師               九                              一              一〇人 同女教師                                      三       二               五人 内国教師               八                      五                      一三人 同女教師                                      五                       五人 助教授現員              六    一三                二       二              二三人 生徒現員             四二六   二〇三      八一      一七六      一三             八九九人 一ケ年収入高          七五七五  二一〇一             一三五〇            三五一二   一四五三八円 創立以来入学生         一一一四   四九四     一二九      二八七      一七            二〇四一人 同卒業生              八〇   一〇八      五七       二一       四             二七〇人 所蔵書籍部数          三五六〇                                           三五六〇部 財産高                                                          一四一六八五円 所有地坪数          一二八六三  一一七二             五五八一     七七五    一〇六一   二一四五三坪 同建物坪数            九三四   二三六     一二九      三九一     一五八     二二五    二〇七三坪  書籍館               一                                             一ケ所  講義堂               四     一                二       二              九ケ所  演説堂               二                                             二ケ所  礼拝堂               一     一                                       二ケ所  寄宿寮              一一     二       二        一       一             一七ケ所  食堂                一     一                一                      三ケ所  事務局               一     一                                       二ケ所 




而して、現今同志社英学校の位置を挙げて、高等中学同様に為すは既に一年を出ざる可し、今や我が同志社は斯くの如き位置に達せり、今日に於て此の普通学科の上に専門学科を設くるは、是れ実に止むを得ざるの勢ひなり、是れ実に避く可からざるの勢ひなり、今日は最早大学を設立せざる可からざるの場合に達したりと謂ふ可し、大学は学問の仕上げ場なり、既に普通の学科を修めて余力ある者は、必ず玆に学ばざる可からず、大学は教育の制度に於て、絶頂の位置を占むる者なり、今や同志社は既に高尚なる普通学科を教ゆるの学校となれり、之れに加ふるに専門学科を以てせざるは、所謂九仞の功、一簣に欠くるなり、然らば則ち同志社今日の位地は、実に私立大学を設立するの時期に迫りたりと云ふ可し
吾人は以上に於て、私立大学を設くるの顛末を陳したり、是れよりして聊か吾人が目的とする所を陳せんと欲す、吾人は教育の事業を挙げて、悉く皆政府の手に一任するの甚だ得策なるを信ぜず、苟も国民た
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る者が、自家の子弟を教育するは、是れ国民の義務にして、決して避く可き者に非ざるを信ず、而して国民が自ら手を教育の事に下して之を為す時に於ては、独り其国民たるの義務を達すのみならず、其仕事は懇切に、廉価に、活溌に、周到に行き届くは、我れ自ら我事を為すの原則に於て決して疑ふ可きことに非ず、我が同志社は不肖なりと雖も、今日迄斯くの如くにして接続し来れり、若し幸に天下同感人士の賛成を得ば、愈々斯くの如くにして之れを拡めんと欲するなり、吾人は日本の高等教育に於て、唯だ一の帝国大学に依頼して止むべき者に非ざるを信ず、思ふに我が政府が帝国大学を設立したる所以は、人民に率先して其模範を示したる事ならん、思ふに日本帝国の大学は、悉く、政府の手に於て設立せんとの事には非ざる可し、吾人は豈に今日に於て傍観坐視するを得んや、吾人は政府の手に於て設立したる大学の、実に有益なるを疑はず、然れども人民の手に拠つて設立する大学の、実に大なる感化を国民に及ぼすことを信ず、素より資金の高より云ひ、制度の完備したる所より云へば、私立は官立に比較し得可き者に非ざる可し、然れども其生徒の独自一己の気象を発揮し、自治自立の人民を養成するに至つては、是れ私立大学特性の長所たるを信ぜずんば非ず
教育は実に一国の一大事業なり、此一大事業を国民が無頓着にも、無気力にも、唯政府の手にのみ任せ置くは、依頼心の最も甚しき者にして、吾人が実に浩嘆止む能はざる所なり、凡そ一国文化の源となる者は、決して一朝一夕に生じたる者に非ず、米国の如きは清教徒が、寂寞人なく、風吼え、濤怒る、大西洋の海岸に移住してより十五年を出でざるに、早やハーワルド大学の基を開けり、而して今日に至つては其学校の教員一百十人、書籍十三万四千巻、其資金は一千四百八十五万四千三百七十二弗に達せりと云ふ、思ふに米国人が自治の元気に富むも、豈に此の大学の如き者、関りて力なしとせんや、独逸の如きは我邦足利の時代より続々と大学を設け始め、今は既に三十有余の広大なる大学あり、伊太利の如きも既に十七個の大学を有せり、而して我邦に於ては、唯一の政府の手に依頼して建てたる帝国大学あるに止まるは、国民教化の目的に於て欠乏する所無きか、国民が教育に注意するの精神に於て欠乏する所無きか、国家将来の命運を慮るに於て欠乏する所無きか、是れ吾人が不肖を顧みず、我邦は私立大学を設立せんと欲する所以なり、教育とは、人の能力を発達せしむるのみに止まらず、総ての能力を円満に発達せしむることを期せざる可からず、如何に学術・技芸に長じたりとも、其人物にして薄志弱行の人たらば、決して一国の命運を負担す可き人物と云ふ可からず、若し教育の主義にして其正鵠を誤り、一国の青年を導いて、偏僻の模型中に入れ、偏僻の人物を養成するが如き事あらば、是れ実に教育は一国を禍ひする者と謂はざる可からず
今や我邦に於ては、欧米の文化を輸入するに際し、独り物質上の文明を輸入し、理論上の文明を輸入し、衣食住を輸入し、鉄道を輸入し、蒸気船を輸入し、法律を輸入し、制度を輸入し、文学・科学の思想を輸入し来たれりと雖も、要するに其の文明の由つて来る大本大体に至
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つては、未だ着手する所の者あらざるが如し、故に人心自ら帰向する所を失ひ、唯だ智を翫ひ、能を挟み、芸を衒して世を渡らんとするに至り、而して此の弊風を矯めんと欲する者無きに非ざれども、唯だ国民文弱の気風を矯むるに汲々とし、所謂角を矯めて牛を殺し、枝を析いて幹を枯すが如く、文明の弊風を矯めんと欲して、却つて教育の目的は、人為脅迫的に陥り、天真爛熳として、自由の内自から秩序を得不覊の内自から裁制あり、即ち独自一己の見識を備へ、仰いて天に愧ぢず、俯して地に愧ぢず、自ら自個の手腕を労して、自個の運命を作為するが如き人物を教養するに至つては、聊か欠くる所の者なきにあらず、是れ実に吾人が遺憾とする所なり
吾人の見る所を以てすれば、欧洲文明の現象繁多なりと雖も、概して之れを論ずれば、基督教の文明にして、基督教の主義は、血液の如く万事万物に皆な注入せざるはなし、而して我邦に於ては、唯だ外形の文明を取つて、之れを取らざるは、是れ猶ほ皮肉を取つて血液を遺す者に非ずや、今や我邦の青年は、皆な泰西の文学を修め、泰西の科学を修め、我邦を扶植する第二の国民とならんとせり、然れども其教育たるや、帰着する所なく、皆な其岐路に彷徨する者あるに似たり、吾人は之れを見て、実に我邦将来の為めに浩嘆に堪へざる者あり、吾人の不肖決して為す所なしと雖も、皇天若し吾人に幸ひを下し、世上の君子、吾人が志を助くることあらば、吾人不肖と雖も、必ず今日に於て此の不肖を忘れ、此の大任に当らんと欲す、之れを要するに、吾人は敢て科学・文学の知識を学習せしむるに止まらず、之れを学習せしむるに加へて、更に是等の知識を運用するの品行と精神とを養成せんことを希望するなり、而して斯くの如き品行と精神とを養成するは、決して区々たる理論、区々たる検束法の能く為す所に非ず、実に活ける力ある基督教主義に非ざれば能はざるを信ず、是れ基督教主義を以て、我が同志社大学徳育の基本と為す所以、而して此の教育を施さんが為めに、同志社大学を設立せんと欲する所以なり
吾人の目的斯くの如し、若し夫れ此事を目して、基督教拡張の手段なり、伝道師養成の目的と云ふ者は、未だ吾人が心事を知らざる人なり吾人が志す所の者、尚ほ其上に在るなり、吾人は基督教を拡張せんが為めに大学校を設立するに非ず、唯だ基督教主義は、実に我が青年の精神と品行とを陶冶する活力あることを信じ、此の主義を以て教育に適用し、更に此の主義を以て品行を陶冶する人物を養成せんと欲するのみ、故に吾人が先づ将来に於て設けんとする大学専門の学科は、現今同志社に在る神学科の外に於て、政事・経済・哲学・文学・法学等に在り、若し是等の諸学科を一時に設置すること能はずんば、漸次に其最も実行し得易き者よりして設置せんと欲す
吾人が目的とする所の者は、既に以上に明言したる所の者なり、去れば此の大学なる者は、決して宗教の機関にも非ず、又政事の機関にも非ず、況んや一地方・一党派の人の能く為す可き所の者に非ざるや素より論を俟たず、故に吾人は、敢て吾人が赤心を開陳して全天下に訴へ、全国民の力を藉り、以て吾人年来の宿志を達せんと欲す、勿論此の大学よりしては、或は政党に加入する者もあらん、或は農工商の業
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に従事する者もあらん、或は宗教の為めに働く者もあらん、或は学者となる者もあらん、官吏となる者もあらん、其成就する所の者は千差万別にして、敢て予め定む可からずと雖も、是等の人々は皆な一国の精神となり、元気となり、柱石となる所の人々にして、即ち是等の人人を養成するは、実に同志社大学を設立する所以の目的なりとす
一国を維持するは決して二・三英雄の力に非ず、実に一国一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず、是等の人民は一国の良心とも謂ふ可き人々なり、而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す、吾人が目的とする所実に斯くの如し、諺に曰く、一年の謀ごとは穀を植ゆるに在り、十年の謀ごとは木を植ゆるに在り、百年の謀ごとは人を植ゆるに在りと、蓋し我が大学設立の如きは、実に一国百年の大計よりして止む可からざる事業なり
今や二十三年も既に近きに迫り、我邦に於ては未曾有の国会を開き、我が人民に於ては未曾有の政権を分配せらる、是れ実に我邦不朽の盛事なり、而して苟も立憲政体を百年に維持せんと欲せば、決して区々たる法律制度の上にのみ依頼す可き者に非ず、其人民が立憲政体の下に生活し得る資格を養成せざる可からず、而して立憲政体を維持するは、知識あり、品行あり、自ら立ち、自ら治むるの人民たらざれば能はず、果して然らば、今日に於て此の大学を設立するは、実に国家百年の大計に非ざるなきを得んや
吾人が宿志実に斯くの如し、其志す所を以て、之れを我身に顧れば、恰も斧を磨して針を造るの事に類する者なきに非ず、余の如きは実に力微にして学浅く、我が国家の為めに力を竭すと公言するも、内聊か愧づる所無きに非ず、然れども、二十年来の宿志は黙して止む可きに非ず、我邦の時務は黙して止む可きに非ず、又知己朋友の翼賛は黙して止む可きに非ず、故に今日の時勢と境遇とに励まされ、一身の不肖をも打忘れ、余が畢生の志願たる、此の一大事業たる大学設立の為めに、一身を挙げて当らんとす、願くば皇天吾人が志を好し、願くば世上の君子吾人が志を助け、吾人が志を成就するを得せしめよ
  明治二十一年十一月
               同志社大学発起人
                      新島襄
                    京都寺町通丸太町上


世外井上公伝 同侯伝記編纂会編 第四巻・第八九―九二頁 昭和九年五月刊(DK270004k-0002)
第27巻 p.17-18 ページ画像

世外井上公伝 同侯伝記編纂会編  第四巻・第八九―九二頁 昭和九年五月刊
 ○第八編 第一章 黒田内閣
    第七節 同志社大学設立援助
○上略
 公と新島との関係は何時頃から結ばれたものであるかは詳かでないが、当時新島は公を信頼すること頗る厚く、公も亦新島の人格を熟知してゐたもののやうである。それで公は大学設立の趣旨及び計画等を詳細に聴取し、快く新島の請を容れて、募集方法について懇談を重ねてゐた。然るに新島は四月二十二日に鳥居坂邸を訪問して対談中俄か
 - 第27巻 p.18 -ページ画像 
に発病し、止むなく麻布仲ノ町粟津邸に一箇月の療養をなすことになつたが、この新島の病中も、公はその病勢の如何を憂ひて、度々親しく病蓐を見舞ひ何くれとなく療養の世話をした。
○中略
 新島は五月二十二日より、相州鎌倉保養院に在りて疾を養ひ、六月十四日に上京して粟津邸に静養してゐた。公もそれに前後して名古屋京都の旅より帰京したので、新島は同志社大学の通則草案一部を公に寄せてその意見を叩いた。ついで七月十九日に公は新島を伴ひて、大隈外相を官邸に訪ひ、渋沢栄一・岩崎弥之助その他の有志家を外相官邸に招いて、大学資金の寄附を勧誘した。新島夫人八重子の覚書に、「七月十九日の朝、井上様御出に相成、今日午後四時頃より大隈様に先生 ○新島《(原註)》を我馬車にて大切に御連れ申す故に、御心配無き様にと御親切に仰せ下され、又た態々御迎へに御出下され、其夜同志社大学の為に金参万弐千円出来、十一時頃に帰宅。非常の悦にて共に神に感謝をなして、十二時に床に就く。」新島襄《(原註)》と見え、公の尽力によつて即日に三万二千円の寄附申込を得た訳である。公及び大隈も亦応分の寄附をしたことはいふ迄もない。右の三万円の金額は公の勧によつて渋沢の手許に之を取纏めることになつた。○下略
   ○井上馨ハ当時農商務大臣ナリ。
   ○新島八重子ノ覚書ハ根岸橘三郎著「新島襄」ニ収録サレアリ、尚同書ニハ元治元年(一八六四)襄、箱館ニ於テ井上聞多ト知ルコトヲ記セリ。


大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第二巻・第六九七頁 大正一五年一二月刊(DK270004k-0003)
第27巻 p.18 ページ画像

大隈侯八十五年史 同史編纂会編  第二巻・第六九七頁 大正一五年一二月刊
 ○第七篇 第八章 各種の文化事業(上)
    (三) 女子大学及び同志社大学に対する尽力
○上略
 ところが、明治二十一年二月、君が黒田内閣の外相となつた時、偶然新島の訪問を受けた。
○中略
 君は井上と相談して、外相官邸に当時知名の実業家を招き、そこへ新島を呼んだ。当日来会したのは、渋沢栄一・岩崎弥之助等であつた主人役として、君及び井上が席へ出た。君は一同に向つて、新島の計画を紹介して、「詮ずるところ教育は個人の事業でもなければ、政府のみの事業でもない。国民共同の事業であるから、資力ある人は率先して、新島君の事業を援助されたい」と述べた。次に、新島は熱烈にその企画を話した。それに動かされて、即座に三万円の寄附を得た。当時の三万円は今日の十余万円に当るであらう。そして君及び井上も亦応分の寄附をした。それから二年の後新島は世を去つた。その後、明治三十年頃、同志社に紛擾が起つた時、君は当事者の懇請を容れて、善後策を教へ紛擾を緩和した。同志社出身の浮田和民・安部磯雄などが久しく早稲田大学教授として勤続してゐるのは偶然でない。
○下略


原六郎翁伝 原邦造編 中巻・第四七六―四七九頁 昭和一二年一一月刊(DK270004k-0004)
第27巻 p.18-20 ページ画像

原六郎翁伝 原邦造編  中巻・第四七六―四七九頁 昭和一二年一一月刊
 - 第27巻 p.19 -ページ画像 
 ○後篇 第十二章 翁の社会・公共事業(二)
    第一節 献金及び寄付
○上略
 同志社大学設立資金の寄附 同志社学校は上州安中の出身新島襄氏の設立にかゝる。即ち新島氏は明治七年十二月米国から帰朝するや、氏の信仰する基督教の精神に基いて子弟を教育すべく、翌八年十一月京都にこの学校を設けたのである。爾来新島氏の徳行を慕ふて関西上流家庭の子女の来り学ぶ者は日々多きを加へた。富子夫人も亦同志社女学校に学び新島氏の薫陶を受けた一人であり、明治二十年一月時の京都府知事北垣国道氏の紹介によつて翁と婚約した時は、未だ同校に在学中であつた。翌二十一年二月二十五日の結婚式は新島氏司式の下に純洋式で行はれ、かうして新島氏と翁夫妻との関係はまことに浅からぬものがあつたのである。しかるに新島氏はかねて同志社大学の設立を志し、明治十六年にその趣意書を発表して以来、資金調達に百方奔走し、明治十七年には再び欧米漫遊の途に上り、明治十八年二月に至つて帰朝した。しかし資金募集の成績は思はしくなく、日頃病弱の新島氏は遂に過労の為め明治二十年四月病をえて身体の衰弱は一層加はるばかりであつた。しかし、信仰と教育に生命を捧げてゐる氏は、病躯に鞭つて目的達成の為に努力し、東京の有志から資金を募集するため、明治二十一年四月十六日京都を発し、かねて知己の間柄なる井上伯を頼つて上京した。
 同月二十二日の日曜は、鳥居坂の井上伯邸で同志社の大学昇格問題につき有志者の会合の催される日である。翁も亦井上伯よりの案内を受け、かねて義理のある新島氏のために一肌ぬぐべくこの会合に出席した。その日の翁の日記に云ふ。
 「……兼て通知の通り井上伯邸に行く。同席は青木・野村・陸奥宗光・沖・渋沢栄一・益田・同志社新島襄なり。同志社学校を大学校にするため廿万円の資本を以て其利子にて維持する事。右資本の内拾万円は米国にて募る見込にて、同国に向け出発云々。五万円は西京・滋賀・大阪地方にて出来せり。又残り五万円は東京にて応募者を募る云々。同伯より演舌の趣意は日本はモーラルを進めConcious等を進める云々、人を拵へる云々。依て新島の新学校を賛成云々。
  新島は従前本人の教育に志したる履歴等を演舌せり。本日新島俄に病気発し中途にて帰る。この新学校を助くる時は三つの利益あり第一、Catholicを防ぎ、Protestantを増す事。第二、人物を養成する事。第三我党人を増す事の利益云々。
  同伯より晩餐あり。余は辞して築地に帰り、富子外二名と七時半にて帰港す。」
 右の記事の中にも見えるやうに、この日俄かに発病した新島氏は、それから約一ケ月麻布仲ノ町粟津邸で療養の後、五月二十二日から相州鎌倉の保養院に移り、六月十四日再び上京して粟津邸に静養した。七月十九日、やゝ元気を回復した新島氏は井上伯につれられて大隈外相を官邸に訪ひ、翁をはじめ渋沢栄一・岩崎弥之助の諸氏も亦同官邸に集つて、大学資金の募集方を協議した。その日の翁の日記に「大隈
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大臣を訪ふ。同大臣云く、同志社を大学校にする為め寄附金を要す云云、右は多少の出金はすべしと答ふ。該金高は三万円なりと云ふ。」とあり ○下略


新島先生書簡集 森中章光編 第一一八二―一一八三頁 昭和一七年六月刊(DK270004k-0005)
第27巻 p.20 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第一一八二―一一八三頁 昭和一七年六月刊
 ○付録
    同志社大学設立資金募集日記
 廿一年 ○明治
○中略
同 ○四月二十二日 井上伯方ニ於テ小集会ヲ開ク、之ニ来会スルモノハ左ノ如シ
 青木周蔵子・野村靖子・冲守国神奈川知事・渋沢栄一・原六郎・益田孝
○中略
十一月十三日 渋沢栄一氏ニ懇々同氏ノ手数ヲ謝シタル一書ヲ出ス」原氏ニ一書ヲ送ル
○下略
   ○七月十九日ノ記事ヲ欠ク。


渋沢栄一書翰 新島襄宛 (明治二一年)五月二日(DK270004k-0006)
第27巻 p.20 ページ画像

渋沢栄一書翰 新島襄宛 (明治二一年)五月二日     (広津旭氏所蔵)
懇篤之御細示拝読仕候、其後御伺もいたし度と存候得共、何分多忙御踈情申上候、御病気も逐日御快方之由拝賀仕候、過日之御模様ニてハ頗ル御案事申上候義ニ候、尚御摂養専一ニ奉祈候、専問学校御設立之件ニ付而ハ、曾而陸奥氏より種々承知せし事も有之、先頃来井上伯よりも更ニ御思惟する処縷々被申聞候次第ニ付、乍不及相応之御助力申上候覚悟ニ御座候、其上小生も曾而心学上之事ニハ聊苦慮いたし、少少愚説も有之候ニ付、其中拝光夫是申上度と存候、兎ニ角過日之拝話ニ基き小生自身ハ勿論、親友中ニも申談し、義捐醵金之事共即今心配中ニ御座候間、右等も尚井上伯ヘ申上候様可仕候、何れ御全愈之上ハ一日緩々拝眉相願度と存候得共、不取敢奉復如此御座候 不宣
  五月二日
                      渋沢栄一
    新島襄様
麻布仲之町二十番地粟津方
  新島襄様        渋沢栄一
        拝復


渋沢栄一書翰 新島襄宛 (明治二一年)六月二七日(DK270004k-0007)
第27巻 p.20-21 ページ画像

渋沢栄一書翰 新島襄宛 (明治二一年)六月二七日    (広津旭氏所蔵)
拝読、過日ハ弊行迄御過訪被下候由之処、出勤前ニて不得拝眉失敬仕候、小生も井上伯ヘ両三回訪問いたし候得共、生憎留守中のミニて、今以拝晤を得す、依而今日一書さし出御面話之都合打合置候間、右回答次第可相成ハ貴台又ハ青木君抔と井上伯之御宅ニて御一会相願度と
 - 第27巻 p.21 -ページ画像 
存候、尤も小生ハ明日も明後日も午後一二時頃なれハ必ス弊行ニ在勤之筈ニ而 御通行之御序も御座候ハヽ、御過訪被下度候、右拝答如此御座候 不宣
  六月念七
                      渋沢栄一
    新島先生
麻布仲ノ町廿番地粟津方
  新島襄様        渋沢栄一
        拝復親拆


渋沢栄一書翰 新島襄苑 (明治二一年)六月二八日(DK270004k-0008)
第27巻 p.21 ページ画像

渋沢栄一書翰 新島襄苑 (明治二一年)六月二八日     (広津旭氏所蔵)
拝啓、然者昨日奉呈之一書ニ、小生今日明日共午後ハ在行と申上候得共明日ハ午後一時頃より他出之都合ニ相成候間、自然来駕を得候も拝眉仕兼候、尤も明後三十日ハ午後三四時頃ハ在行之積ニ候、もしも御訪問被下候時又失敬と相成候而者と存し、為念一筆申上候 匆々不一
  六月念八
                      渋沢栄一
    新島先生
          玉案下

新島襄様 渋沢栄一
       至急

麻布仲ノ町弐拾番地粟津殿方
 封


新島先生書簡集 森中章光編 第一〇九六頁 昭和一七年六月 刊(DK270004k-0009)
第27巻 p.21-22 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第一〇九六頁 昭和一七年六月 刊
    五七八 下村孝太郎宛 明治二十一年八月十一日
              新島在 日本群馬県伊香保 千明三郎別荘
              下村在 北米合衆国マサチユセツツ ウオーセスター ベイントン街一八 フユーラ気付
                        (下村清子氏所蔵)
○上略 小生ハ直ニ東京ニ出テ一ト旗揚ケント斗リタルニ不幸ニシテ再ヒ心臓病ヲ発シ、一時ハ生命ニモ関ハリ候様ニ医者モ申立候ニ幸ニ回復ノ途ニ就キタルニ、暫ク鎌倉ニ趣キ休養シ、再ヒ東京ニ戻リ已ニ揚ントセシ所ノ旗ハ中々マキ兼、陸奥宗光君等ノ周旋ニヨリ井上伯ニ接スルヲ得、又大隈伯(外務大臣)ニ直接ニ面談シ遂ニ両伯協力ノ上一ツノプライウェトミーテイングヲ大隈伯ノ官邸内ニ開ラキ京浜間屈指ノ紳商ヲ招キタルニ、両伯ニハ我カ輩ノ為ニ真ニ可驚キ程ノイントレストヲ示サレ甚懇切ナル演説ヲナシ呉レタレハ来会ノ人々モ大ニ賛成ノ意ヲ表シ、○京都管内《(原註)》ニハ多分四万ノ金ヲ募リ得ベシ即夕ニ三万一千円寄附ノ約ヲ致サレタリ(七月十九日ノ夕ナリ)此ノ三
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万一千円ハ未タ差少ニシテ何ニモ為シ得サルモ、朝野共有力者ト仰ク所ノ陸奥公使・井上・大隈両伯、又商法上ノ大王トモ称セラルヽ渋沢栄一・原六郎氏ノ如キモノカ如斯クモ基督教主義ノ教育ヲ主張スル我輩ノ企ヲ賛翊シ其一臂ヲ添フルニ至リシハ実ニ可驚キ明治時代ノフィミノント云フトモ決シテ誣言ニアラサルベシ ○下略


渋沢栄一書翰 新島襄苑 (明治二一年)一〇月一一日(DK270004k-0010)
第27巻 p.22 ページ画像

渋沢栄一書翰 新島襄宛 (明治二一年)一〇月一一日    (広津旭氏所蔵)
再度之尊翰拝見仕候、爾来御宿痾も漸く御快方之由拝賀仕候、然者同志社学校之事ニ付、御代理金森通倫と申人御出京相成、此程弊行迄来駕之由ニ候処、不在中ニて失敬仕候、東京醵金者之分集金之都合ハ凡十月十一日位と兼而御打合も申上候次第ニ付、此際時日を定め小生より夫々通達致候方可然と存候間、尚右等之手順金森氏と御相談いたし度、就而ハ明日ハ午後一二時頃ハ必ス在行之筈ニ付、右時間中ニ御来車被下候様、賢台より同氏ヘ御通し被下度候、委細ハ同人面接之上御打合可申候、此段拝答如此御座候 不宣
  十月十一日               渋沢栄一
    新島襄先生
            虎皮下
麻布仲之町廿番地粟津方
  新島襄様        渋沢栄一
        拝復


渋沢栄一書翰 新島襄宛 明治二一年一〇月二五日(DK270004k-0011)
第27巻 p.22-23 ページ画像

渋沢栄一書翰 新島襄宛 明治二一年一〇月二五日    (広津旭氏所蔵)
  明治廿一年十月廿五日
本月十八日附及廿日附両回之尊書拝見仕候、且令閨御持参相成候金壱千円も正ニ落手、御預申上候、令閨当行ヘ御過訪之際ニハ小生欠勤中ニて不得拝眉、不都合之至ニ候、来示ニよれハ廿二日頃当地御出立、神戸ヘ向御帰航之由、従是も告別旁参上可仕之処、多忙不得其義失敬仕候、御海容可被下候、然者御托之大学寄附金募集方之事ハ、来月十五日頃ニ弊行ヘ取纏、総計金三万千円之中弐万五千円ハ公債証書買入残金六千円ハ弊行ヘ利附預り金ニ被成度云々拝承仕候、寄附之人員及其金高等小生記憶不仕候ニ付、徳富氏ヘ御打合之上相分り候ハヽ直ニ通知状相発し、来月十五日迄ニ弊行ヘ集合相成候様取計、向後公債買入又ハ利附預ケ金之手続取扱其模様ハ、一々徳富氏ヘ報告いたし候様可仕候
過日金森氏氏弊行《(衍)》ヘ御過訪ニて、右金保存之方法愚見御尋ニ付、小生ハ公債買入候方万全之計と御答申上候処、其後井上伯ニ面会右之事共御話申候処、伯之申ニハ右者完全之取計ニハ候得共、如何ニせん原資少くして収益多きを望む場合ニ付、可相成ハ年七分位之運転之途を得申度、依而拙者ハ此保管を渋沢ニ托し、同人ニ於て年七分之利足を請合候ハヽ整理公債を買入候よりハ収額増加候丈ケ都合ニ相成可申、而して堅固之点より論するも渋沢ニ於て譬ヘハ郵船会社又ハ鉄道会社之株を買入、此金額之殖利を計画するハ敢て危険と申辺も有之間敷と存
 - 第27巻 p.23 -ページ画像 
候ニ付、其辺ニ相談いたし候而ハ如何、と新島君ヘ申述候との申聞有之候、依而小生ハ右伯之考案之如くなれハ此際之権道として或ハ不可と申ニも有之間敷、何分今一度新島君ヘ御示被下度と答置候義ニ候、併今日之処ハ既ニ来示ニ公債証書と銀行利附預ケとの御指揮有之候ニ付、先以其御指示ニ従ひ取扱可申候得共、伯之詞も有之候間為念一言申上候、尚委細ハ湯浅・徳富之両氏と打合候様可仕候得共、拝答旁此段申上候 匆々謹言
                     渋沢栄一栄一
    新島襄様
尚々御委任状ハ拝収候得共、各員ヘ差出すへき金員受取証書も御廻し無之、又公債名前等も誰氏ニ致し可申歟夫是不明亮ニ付、右等ハ湯浅徳富両氏と御打合可申と存候也
    渋沢栄一
  新島襄様
         御直展


渋沢栄一書翰 新島襄宛 (明治二一年)一一月二六日(DK270004k-0012)
第27巻 p.23 ページ画像

渋沢栄一書翰 新島襄宛 (明治二一年)一一月二六日    (広津旭氏所蔵)
十六日附尊書拝読仕候、爾来御宿痾も追々御快方之由拝賀之至ニ候、右者一時之事ニも無之と察上候間御快方ニ馴れ御無理無之様企望仕候同志社寄附金取集方ハ、兼而御垂示ニ従ひ、夫々ヘ通達いたし候得共岩崎両家・平沼八太郎・小生分ハ去ル十五日限り払込候得共、其余者未タ払込無之ニ付、近日又催促可致と存候、原六郎氏ハ何か別ニ考案有之候由被申居候間、或ハ現金払込如何と被存候、併尚大隈・井上両伯ヘも程能申上、何とか都合を得候様取計可申と存候、右集合之金額ハ井上伯之考案ハ、小生ニて引受、七分以上之利子ニ相廻り候様取計度と被申候得共、小生ハ貴案之如く、其中弐万五千円ハ公債買入、残金ハ弊行定期預ニ振替候方可然と存候ニ付、悉皆入金いたし候ハヽ、其都合ニ取計計算書等ハ銀行より湯浅・徳富両氏ヘ御引合可申上候
小生も本年ハ西京ヘ罷出度と心掛候得共、何分多忙其余日無之と存候ニ付、来春ニ至り一遊可仕と存候、其節ハ学校ヘも罷出拝見致度と存候、兎角匆忙ニ罷在、来示ニ対する拝答も延引いたし、且粗□之事共多く《(脱カ)》恐悚之至ニ候、右奉復如此御座候 匆々不一
  十一月廿六日
                      渋沢栄一
    新島襄様
西京寺町通丸太町上ル十三番戸
  新島襄様
        拝答


新島先生書簡集 森中章光編 第一一九〇―一二〇六頁 昭和一七年六月刊(DK270004k-0013)
第27巻 p.23-24 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第一一九〇―一二〇六頁 昭和一七年六月刊
 ○附録
   同志社大学設立資金募集日記
 - 第27巻 p.24 -ページ画像 
 廿二年 ○明治
一月一日 同志社ノ賛成家ナル井上・大隈両伯、青木子其他榎本・勝伯・後藤伯・渋沢・益田・原・平沼・田中・大倉・岩崎・土倉之諸士ヲ初メトシ大学賛成ノ諸新紙社ヘ新年ノ祝詞ヘ添ヘ同志社ノ三講堂ノ写真ヲ呈送ス
 ○中略
二〔一〕月卅一日 福陵新報之頭山満氏ニ一書差し(出し)旨趣書等ハ頭山主筆・川村惇ノ両氏ニ送ル
○岩崎弥之助君ニ一書ヲ送リ、同家寄附金八千円之内三千円丈ケハ土地買得ノ為ニ使用スルヲ許サレヨト頼ミ遣シ、又同事件ニ付キ渋沢栄一君〔ニ〕一書依頼状ヲ差出ス、此レハ同氏取扱上ノ事ニ関ス
○中略
同日 ○三月九日 渋沢氏(二月廿六日付)ヨリ来状アリ、二万五千六百円丈同氏ノ手ニ入リ、未タ原氏ノ六千円ト大隈伯ノ一千円、青木子ノ五百円ハ尚払込ミナキ由、且益田氏ヨリハ二千円ノ半額ヲ入レ他ハ他ノ半期ニ払〔込〕ム事ニ申来レル由
○中略
同 ○三月廿一日 此日東京ノ小室信夫氏来訪ス、氏ハ九州《(原註)》ニ趣《(赴)》クノ途中ナリ、数日前渋沢氏ヨリ来状アリ、原氏ノ同氏ニ送リシ書ヲ送附ス原氏ノ書中渋沢氏ノ屡督促セシヨリ面白カラヌ感情ヲ起セシニヤ、予ト引合セアリタレハ此上督促スル勿レトノ意ナリ、又予ニ対シ種種是迄ノ間違ヨリ奇異ノ考ヲ抱キ其ノ意ヲ得サル旨ヲモ陳ヘラレタリ、予ハ渋沢氏ニ間違ノ依テ生セシ所ヲ陳シ、又原氏ニモ一通ノ書ヲ送リ其ノ誤謬ノ依テ生セシ所ヲ開陳シ其ノ意ニ任スヘキヲ説明ス渋沢氏ヘハ原氏之引合セアリタル後、返書ヲ出サス直ニ井上伯ニ御相談申上、又北垣知事東上之比一応小生之所望(早ク金ヲ第一銀行ニ払込ミノ事)を陳シ原氏ト御相談被下度旨御依頼申上置候間、多分原氏ニモ、一応聞及ヒタル事ト存候(二月十五日付ノ書中ニ原氏(督促)之少々不慥《(原註)》ナレモ多分頼ミ《(ル)》しならん又他人ニ御督促アレト相頼候処より)何ニ《?》気渋沢氏之方ニ未納之人々ニ御督促を頼むと申上候なりしを、渋沢氏ニ昨年七月中ノ申合及依頼にも有之候処より原氏之方ニ督促せられたらんト是迄行違之廉々を相記し相送申候
○中略
四月一日 原氏ニ対スル所分ニ付、渋沢氏ヨリ来書アリタルニヨリ其意ニ任セ先勉テ弁解セサル事ニ致シ、井上伯帰京ヲ待チ宜シク弁護ヲ依頼スル事ニ決セリ(湯浅氏ヨリ渋沢氏ノ伝言アリ)○福山ノ菊池純二郎ニ漆樹種方ノ事ヲ勧メラレタル好意ヲ謝スル為一書ヲ差出ス
○下略


新島先生書簡集 森中章光編 第一〇四六―一〇四七頁 昭和一七年六月刊(DK270004k-0014)
第27巻 p.24-25 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第一〇四六―一〇四七頁 昭和一七年六月刊
    五五六 湯浅治郎・徳富猪一郎宛 明治廿二年一月廿九日
              新島在 神戸諏訪山和楽園
              湯浅・徳富在 東京々橋日吉町廿番地 民友社
                      (徳富蘇峰氏所蔵)
此度京都之大沢氏之手ニより寺町之頭今出川上ル五・六丁之所ニ六千
 - 第27巻 p.25 -ページ画像 
九百廿七坪之地を一千四百六拾三円五拾銭ニ而買得申候、此は機に投し買得候故御相談申上候折も無之、在上方社員丈け承知之上買得申候間左様御承知可被下候、其近傍ニハ買地も尚多分ニ有之候間、機ニ乗し未タ騰貴せさる内ニ尽く買得申度候、右ニ而金子三千円も入用ニ候間、岩崎君寄附之内より三千円ハ土地ニ向ケ呉可申様、今回頼ミ遣し申候間多分差支無之事ト存候、右者渋沢君之方ニも右三千円岩崎氏承諾之上ハ、直ニ京都支店ニ差回し呉候様頼ミ上候間是亦御承知可被下候右得貴意度 草々頓首
  一月廿九日               新しま襄

    湯浅治郎
         両兄
    徳富猪一郎    御中
○下略


渋沢栄一書翰 湯浅治郎宛 明治二二年二月七日(DK270004k-0015)
第27巻 p.25 ページ画像

渋沢栄一書翰 湯浅治郎宛 明治二二年二月七日      (広津旭氏所蔵)
  明治廿二年二月七日
拝啓、先般新島夫人御携帯ニ相成候金千円者其節井上伯之払込金と申事御伺ひ居候へとも、右者大隈伯之払込金之間違ニ者無之哉、為念御打合せ申上候、委細此の者ニ御返詞被下度候 匆々
                      渋沢栄一
    湯浅治郎様


渋沢栄一書翰 新島襄宛 明治二二年二月八日(DK270004k-0016)
第27巻 p.25-26 ページ画像

渋沢栄一書翰 新島襄宛 明治二二年二月八日     (同志社大学所蔵)
  明治廿二年二月八日
一月廿九日附及二月四日附両度之尊書拝見仕候、爾来引続き神戸ニ御養痾相成候処、追々御快方之由、奉抃賀候、然者昨年中東京ニて同志社学校へ寄附金相成候中、岩崎氏之分ニて金三千円ハ地所買入ニ御使用被成度、依而其段岩崎氏へ御照会相成候処、異見無之旨確答有之候ニ付而ハ、金三千円を当行より引出し西京へ為替ニ取組、御代理金森通倫氏へ御渡可申旨拝承、昨日其通ニ取計、西京弊支店へ申遣候間金森氏へ受取方相成候事と存候、就而右金額銀行より引出し候ニハ、同志社より之受取証書を要し候ニ付、其辺之事ハ支店へ申遣し、金森氏へ御引合申上候筈ニ候
昨年寄附金引受候連中ニて、別紙之人名ハ今以払込無之、昨年中も一回催促いたし候得共、延引之儘ニ相成候ニ付、昨今丁寧ニ書状相認再応之催促いたし候、併原六郎氏ニハ最初より少々不同意之様子ニ申居候、旁小生丈ケ之催促ニて払込可申哉判然仕兼候間、何卒賢台より本人へ篤と御照会相成候様仕度候、益田・大倉・田中之三人ハ詰り払込永引候とも、別ニ異変ハ無之と存候
学事御拡張之経画も追々相運候由、来示之如く何程美善之政治・法制相立候とも、其施行之妙ハ其人ニ存し候義ニ付、向後一層人才之涵養必要之時期と存候、何卒御企望之如く才徳兼備之人物漸次輩出候様、御尽力可被下候
右再度之尊書拝答旁如此御坐候 匆々不一
 - 第27巻 p.26 -ページ画像 
                      渋沢栄一(印)
    新島襄様
      別紙払込無之人名抜書
 一 千円         一 五百円 青木周蔵
   此分井上伯か又ハ大隈伯か貴方御聞合中ニ御坐候
 一 六千円 原六郎    一 弐千円 益田孝
 一 弐千円 大倉喜八郎  一 弐千円 田中平八
 右之外ハ十一月中ニ約束之金高悉皆払込相成候事
(別筆)
追啓、寄附金払込未済之分及為替之件等金森通倫氏ヘ御通し可申件ハ幸ひ貴地之浜岡光哲氏上京中ニ有之候間、委細同氏ニ托し御伝言申上候、同氏も本日出発帰府之よしニ御坐候間、定めて御聞取と存候


新島先生書簡集 森中章光編 第六八八頁 昭和一七年六月刊(DK270004k-0017)
第27巻 p.26 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第六八八頁 昭和一七年六月刊
    三二一 徳富猪一郎宛 明治廿二年二月十三日
              新島在 神戸諏訪山 和楽園
              徳富在 東京々橋日吉町二十番地 民友社                                (徳富蘇峰氏所蔵)
   ○本文略ス。
  二月十三日               新島襄
○中略
    徳富猪一郎兄
 渋沢氏より本日来状有之、大分我大学ニハインテレストヲ置被成候間、何卒折々ハ御暇ツブシナカラ御交際アリテ其ノインテレストヲ御繋、同氏より他ヲ動カシクレ候様御工風被下度候


新島先生書簡集 森中章光編 第三〇〇―三〇一頁 昭和一七年六月刊(DK270004k-0018)
第27巻 p.26-27 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第三〇〇―三〇一頁 昭和一七年六月刊
    一〇九 井上馨宛 明治廿二年四月廿七日
              新島在 京都寺町通丸太町上ル
              井上在 帰東船中
                     (侯爵井上三郎氏所蔵)
粛啓陳者一昨日は御不例之処厭ハサレス漸時《(原註)(暫時)》之御面謁被仰付候条御好意之程深く奉拝謝候、小生義一昨日は西之宮に立寄遂ニ時刻を移し昨日ハ雨天ニ有之今朝帰宅仕候事ニ相決シ候間、御暇乞之為参趨仕候義ハ御免可被仰付候、一昨日拝謁之際一寸御願申上候積ニ有之候処失念仕候件有之、右は即原六郎之一事ニ御座候、昨冬より渋沢氏カ屡原氏ヘ向納金之事を促し候事に而、何ニカ其間ニ事之齟齬致候事有之、原氏よりチト面白からぬ書面を渋沢氏ニ送リ、何ニカ小生ニ向ヒ候而甚其意を得さるかの様ニ心得ラレ候よし、右ニ付此上閣下を奉労煩候は恐縮之至ニ候間、詳細北垣知事東上之節原氏迄ハ伝言相托可申候間、閣下ニハ先般御談被成候通此六月迄ニハ例之六千円ハ渋沢氏迄被送候様御序ニ御取斗被下候ハヽ万謝之至ニ不堪候、且御序ニ小生ハ常ニ原氏之恩義を感し居候者ト御話し置被下度奉仰候、右様之事迄閣下を奉煩候事ハ不本意千万ニ奉存候得共、原氏ニハ少々小生を誤解し居候様ニも心配仕居候間、御含置被下度伏而奉願上候、御着京之上侍史ニ命し賜ひ川崎氏之挨拶も御漏し被下候ハヽ大幸之至ニ不堪候、本日帰宅
 - 第27巻 p.27 -ページ画像 
を取急き参趨之礼を欠き候段何卒御海容可被賜候 敬白
  四月廿七日               新島襄
    井上伯爵殿
            閣下
○下略


新島先生書簡集 森中章光編 第一〇四九―一〇五一頁 昭和一七年六月刊(DK270004k-0019)
第27巻 p.27 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第一〇四九―一〇五一頁 昭和一七年六月刊
    五五八 湯浅治郎・徳富猪一郎宛 明治廿二年八月二日
              新島在 大阪
              徳富在 東京赤坂榎坂五番地
                      (徳富蘇峰氏所蔵)
過般来渋沢君ニ願ひ置たる壱万九千円之所分ニ付、彼是御願申上候得共貴兄ニハ御留守ニ被為在候よしニて何之御回答も無之、又為メニ渋沢氏も未タ小生之注文ハ決行致し呉レサル事ト存候、又例之金円所分ニ付大ニ注意致し、可成丈慥ニ可成丈多分之利子を生し候様ニ仕度、就ては大学事務所ニ頼ミ入候広瀬源三郎ト申者を来ル月曜日より御地ヘ向け出発為致候間此段予御通知申上候、尤此人を差上候は他なし是迄如何之事ニ渋沢氏ハなし置呉候哉、又可相成ハ整理公債ニあらすして新公債トカ申モノニテ整理よりも大分割合之よろしきモノヲ求めサセタク候次第ナリ、何レ月曜日ニ出発為致度積ニ候得共、万一渋沢氏ニて已ニ整理公債証書を被求候ハヽ、広瀬も態々参上ニハ不及ト存候間一寸電報を以て差止メ被下度候、若し日曜之晩迄ニ御飛報ナキニ於而は同人ハ月曜之朝より出発可仕候、尤電報ハ大阪土佐堀二丁目三十六番地国本方広瀬源三郎氏ヘ御差〔出〕し被下度候、右至急得貴意度
                         匆々拝具
  八月二日                新島襄
    湯浅治郎殿
    徳富猪一郎殿
 小生も明日よりタルミ辺ニ参リ少々休息可仕候、又大阪ヘハ時々出張之事ニなし置、此地を可成丈速ニ相固め申度候、左スレハ此秋より諸方ニも出張出来可申ト存し、炎暑中ニ候得共小生も案外ニ奔走出来申別ニ障りも無之様存居候、何卒渋沢氏ニ対するの所為ハ同氏之好意ヲ損セさる様ニ仕度候


新島先生書簡集 森中章光編 第三四二―三四三頁 昭和一七年六月刊(DK270004k-0020)
第27巻 p.27-28 ページ画像

新島先生書簡集 森中章光編  第三四二―三四三頁 昭和一七年六月刊
    一三二 大隈重信宛 明治廿二年八月廿二日
              新島在 兵庫県有馬 佐野方
              大隈在 東京霞ケ関外務大臣官邸
                     (侯爵大隈信常氏所蔵)
旅行中粗略之段御海容可被賜候、炎暑中御休暇も取らせられす兼而御負担被遊候条約改正之大事ニ御尽力中之由、嘸々容易ならさる御事と奉遥察候
陳は先日渋沢氏より通知有之閣下より兼而御約束被下候壱千円ハ同氏手許迄御送附被成下候由申来リ御好意之程千万奉拝謝候、希クハ尚此上も御助力を添ヘラレ小生多年計画仕候大学之企を成就セしめ賜ハ舞事悃願之至ニ不堪候、就而は此度佐賀県知事石井殿ニハ出京被致候よ
 - 第27巻 p.28 -ページ画像 
しニ而閣下ニハ必らす御面会之折も可被為在候間、其節ハ同知事ニも小生大学之挙を賛成被致候様御一言被下度候、尤佐賀市ヘハ小生等之為周旋致し呉候者も有之候、又当時一之遊説員も派出致し宜し久時機ニ乗し寄附金募集ニ為取懸度候間、同知事ニも可然人物ニ奨励被致候様呉々も御勧置被下度奉仰候、右御礼并悃願之趣開陳仕度如此候也
                           敬白
  八月廿二日               新島襄
    大隈伯爵殿
           閣下


(新島襄)書翰 渋沢栄一宛 (明治二二年)一一月一三日(DK270004k-0021)
第27巻 p.28 ページ画像

(新島襄)書翰  渋沢栄一宛 (明治二二年)一一月一三日
                     (渋沢子爵家所蔵)
其後は御起居如何敬而奉伺候、陳者今朝参堂仕候処御不在ニ而拝眉を不果、再ヒ参上可申ト申上帰館仕候、然ル処今午后参堂之都合ニ参兼候間、不得止事書面を以て申上候
一応拝眉を得候而相願度義ハ他ニ非らす、貴殿より在福島之北村芳太郎氏迄御紹介書壱通頂戴仕度事也、小生ハ此度郷里なる上毛地方ニ出張仕、其より福島迄参り、兼而大学募金之準備も仕置候間、今回ハ是非多少之収穫を得度胸算ニ有之候処、北村氏ニハ機能く出京之よし承り及候付、貴殿之御紹介書を得而直ニ同氏ニ面会仕置度候間、乍御手数右御紹介書ハ此者ニ御渡し被下候様奉願上候、尤同氏在京中自然御面会にも有之候節ハ何卒弊社大学募集之事ニ関し、福島ニ於而卒先し充分尽力斡旋被致候様御談シ置候ハヽ非常之好都合と奉存候、右御依頼迄得貴意度 匆々拝具
  十一月十三日              新島襄
    渋沢栄一殿
          梧下
 尚々本日ハ佐野理八氏に面会仕候処、同氏ニハ幾分カ近来損毛致し候得共多少之有志ハ可致旨被申候、依而今回ハ是非トモ福島地方ハ取纏申度候間、貴殿之御添書ハ是非ニ必要ト認居候間、北村氏ハ充分御奨励被下度奉仰候也
   ○右ハ「新島先生書簡集」第五二九頁ニ収録サル。端書ニ「明治二十二年十一月十三日。新島在、東京山下門外、対山館。渋沢在、東京深川福住町」トアリ。


東京日日新聞 第五〇一四号 明治二一年七月二一日 同志社への寄附(DK270004k-0022)
第27巻 p.28-29 ページ画像

東京日日新聞  第五〇一四号 明治二一年七月二一日
○同志社への寄附 新島襄氏等が兼て西京なる同志社の位地を進めて大学となさんとの計画あることハ、既に世の知る所なるが、先頃ろ大隈・井上の両伯も京坂地方漫遊の途次、親しく同社の実況を視て切に其計画を賛成せられ、其他青木子を始め京浜の紳商等にも同様翼賛ありて、此程左の如く同社へ寄附せられしよし、尚ほ此他にも追々賛成者ありといふ。
○金千円大隈伯○金千円井上伯○金五百円青木周蔵○金六千円渋沢栄一○金六千円原六郎○金五千円岩崎弥之助○金三千円岩崎久弥○金二千五百円平沼八太郎○金二千円益田孝○金二千円大倉喜八郎○金二千
 - 第27巻 p.29 -ページ画像 
円田中平八○計金三万千円也


中外物価新報 第一八九三号 明治二一年七月二一日 紳商の学校寄附金(DK270004k-0023)
第27巻 p.29 ページ画像

中外物価新報  第一八九三号 明治二一年七月二一日
    紳商の学校寄附金
兼て記したる如く、一昨十九日夜大隈伯にハ京浜の紳商数名を霞が関なる官邸に招き晩餐を供せられ、席上にハ井上伯・青木子等の諸氏もありしが、大隈伯にハ今度新島襄氏か専ら智徳並進を主として一大専門学校を京都に設立する趣意等に付き縷々演説ありて、之が為めに自ら金千円を寄附し、且つ井上伯・青木子等にも夫々寄附ありたれば、同席に招れたる渋沢・益田・岩崎・大倉・原・平沼・田中等の紳商諸氏にも各々多少の義捐ありて、忽ち三万円に達したる由、又渋沢・青木の両氏には新島氏に対する所望抔を簡単に述べられたる由なるか、聞く所に拠れば新島氏が目下管理さるゝ京都の同志社ハ、生徒の就学者七百名もありて諸務頗る整頓し、同地方の人望も宜しきを以て、今回計画の為めにハ既に三万五千円を出さんと約したりとの事なるが、十万円の資本金を積置かば其利子のみにて維持さるゝ見込なりと云ふ


新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第七巻・第一六一頁 昭和一〇年一一月刊(DK270004k-0024)
第27巻 p.29 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第七巻・第一六一頁 昭和一〇年一一月刊
  新島襄多年の宿望
    同志社大学創立を天下に訴ふ
〔一一・七 ○明治二一年郵便報知〕 京都の同志社長新島襄氏が、明治七年の末一私立大学を設立し、以て我国家百年の大計を画せんとの大志を齎らし米国より帰朝せしより以来玆に十数年、日夜其の志を貫徹せんことに鞠躬尽瘁し、既に其の同志社の事業も日に月に進歩し、今や遠からず其位置を引き上げて、高等中学同様に為さんとするの気運に迄赴きたることは世人の知る所なるが、随て従前の同志社の事業のみに止めず愈々進んで兼ての素志なる大学を設立するの時期に迫りしものから、去る四月以来京都始め東京・横浜間の諸紳士に向て賛成を求めしに、大隈・井上・勝・後藤・青木・榎本等の諸氏を始め、到る処紳士紳商の翼賛する所となり、忽ち数万円の寄附金を得るに至れり、加之遠く米国に於ける氏が朋友より六万弗の寄附を申し込みし程にて、今や漸く内外の賛成を得て、氏が積年一片の宿望を達せんとするの緒に就きたるを以て、益々奮て其志を成さんものをと、此度之を全天下に訴へ、全国民の力を藉り、将に大に為す所あらんとて、本日の附録を以て、其従来計画したる所の顛末、及び其設立の目的等を最も丁寧親切に告白したれば、苟も新島氏の教育たるや、徒らに外形の文明、即ち科学文学の智識を学習せしむるに止まらず、更に是等の智識を運用するの品行と、精神とを養成するに在ることを信ずる世上幾多の諸君子は、幸ひに氏が平生の宿志を助成する所あれ。



〔参考〕同志社大学計算報告表 明治廿三年三月卅一日(DK270004k-0025)
第27巻 p.29-32 ページ画像

同志社大学計算報告表  明治廿三年三月卅一日
                     (渋沢子爵家所蔵)
  義捐金之事
一金六万〇八百三拾弐円四拾八銭七厘
 - 第27巻 p.30 -ページ画像 
  〆
  利殖金ノ事
一金壱千〇六拾三円七拾五銭七厘
  内
 金七拾円也        定期預金利息
 金弐百五拾円也      整理公債ノ利子
 金九拾円也        新公債ノ利子
 金四拾九円六拾弐銭五厘  旧公債買入代金ノ五分ノ利子
 金六百〇四円拾三銭弐厘  各銀行其他ヨリ預金ノ利息
  〆
  預リ金ノ事
一金壱千四百三拾七円四拾五銭也
  内
 金壱千弐百円也      地所買入元金ノ内預リ置
 金弐百三拾七円四拾五銭也 衆合シテ義捐予約セシ分ノ内払込金
  〆
  補整積立金ノ事
一金九拾円三拾七銭五厘也
  内
 金九拾円三拾七銭五厘   旧公債満期ノ節或ハ公債額面以上ノ買入金ノ最終ニ償却ス可キ準備金
  資本財産ノ事
一金弐万九千五百六拾九円弐拾六銭七厘也
  内
 金四千八百七拾八円弐拾六銭七厘 新公債五千五百円也
 金壱万〇百円也 整理公債壱万円第一銀行ヨリ買取
 金壱千九百八拾壱円也 旧公債七千円也
 金壱万弐千六百拾円也 第一銀行定期預ケ金
  〆
  不動産ノ事
一金参千円也
  内
 金壱千六百二十参円五拾銭 地所七千三百二十六坪五合外ニ建家六棟坪数五十八坪代金
 金五十四円六拾銭也 登記印紙買得世話人ノ手数料及ヒ銀行日歩
 金壱千二百円也 買入元予金トシテ当事務所ヘ引当ニ預ケ置ク
 金百二十一円九十銭 大沢善助氏ヘ預ケ金
  〆
  預金及貸与金の事
一金五千九百四十八円三銭五厘
  内
 金十三円也 郵便局ヘ貯金預ケトス
 金五千七百十七円二十五銭一厘也《(五厘)》 諸銀行ヘ当坐預ケ金の総額
 金弐百十七円七十八銭也 今治山中氏紹介逆広告及ヒ其他数口ノ立替金
  〆
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  予約義捐未納金之事
一金弐万五百弐拾弐円四拾八銭三厘也
  〆 此分ハ義捐金六万八百三拾弐円四拾八銭七厘ノ内《(太字ハ朱書)》
   未納金ニ付《(衍カ)》ニ付
   現金収入分ハ
    金四万三百拾円〇〇四厘也
  創業入費ノ事
一金四千〇四十四円四十六銭五厘
  内
 金八百三十円四十七銭七厘       印刷物
 金三十四円十五銭八厘         什器
 金百七十四円九十銭五厘        雇夫
 金五百四十八円七十五銭六厘      交際費
 金壱千三百四十円八拾八銭九厘     旅費
 金二百四十八円二十七銭        文通費
 金二百六十円十六銭壱厘        広告料
 金四百四十七円七十五銭        俸給
 金四拾円六十六銭           家税
 金参十五円六十八銭九厘        新聞紙
 金七十九円九十銭也          雑費
 金二円八十五銭也           営繕費
  〆

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                       計算報告表  借                                             貸  摘要           金額    総計       摘要        金額    総計   義捐金           円      円      資本財産       円      円  明治十七年三月ヨリ    60,832.49  60,832.49    公債及銀行預ケ金  29,569.27  29,569.267  廿三年三月中ニ予約  義捐或ハ現金収入等合計   利殖金                        不動産  定期預金及ヒ公債利息   1,063.76   1,063.76    地所七千坪其他    3,000.00  3,000.000  等ノ合計                        買入元金   預リ金                        当坐預金  地所買入元金残金     1,437.45   1,437.45    諸銀行ノ一時預金   5,948.04  5,948.035  其他一時預リ金等ノ合計                 及郵便局貯金預ケ金   補整積立金                      予約未納金  旧公債其他公債最終ノ    90.375    90.375    未納者七十余名合計  20,522.48 20,522.483  償却準備金                              創業入費                             明治十七年ヨリ本年   4,044.47  4,044.465                             四月中ノ経費                              未決算旅費                             遊説者ヘ手当渡シ置ク   335.06   335.060                              手元有金                             出納方手元残金       4.759    4.759              63,424.069  63,424.069               63,424.069  63,424.069                京都 同志社大学創立事務所 




  未決算旅費ノ事
一金三百三十五円〇六銭
  内
 金三百三十五円〇六銭 田中賢道氏外遊説者ヘ手当金
  手元有金ノ事
一金四円七拾五銭九厘
 - 第27巻 p.32 -ページ画像 
  内
 金四円也 壱円紙幣四枚
 金三拾銭也 十銭銀貨三枚
 金四十五銭九厘 新銅貨数種
  〆