デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
2款 同志社大学
■綱文

第27巻 p.35-36(DK270007k) ページ画像

明治32年1月7日(1899年)

是日栄一、大隈重信ト当校ノ紛議ニ関シ相談ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK270007k-0001)
第27巻 p.35 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 少曇 西風強ク寒気甚シ
○上略 午飯後 ○中略 大隈伯爵邸ヲ訪ヒ ○中略 京都同志社ニ生スル物議ニ付テ伯ハ爾来米国宣教師ト談判セシ顛末、及横井・三好諸氏ニ説示セラレタル趣旨ヲ談話セラル ○下略
   ○是月一日ヨリ栄一大磯ニアリ、十日帰京ス。
   ○中略。
一月十一日 晴
○上略
米国人マツカイバー氏、増島六一郎氏ト共ニ来ル、同志社学校ノ事ニ関スル意見陳述ノ為メナリ○下略



〔参考〕同志社五十年史 同史編纂委員会編 第一一一―一一三頁 昭和五年七月刊 【同志社の成立及び発達 (中瀬古六郎)】(DK270007k-0002)
第27巻 p.35-36 ページ画像

同志社五十年史 同史編纂委員会編  第一一一―一一三頁 昭和五年七月刊
    同志社の成立及び発達 (中瀬古六郎)
○上略
      横井社長時代
明治三十一年一月、横井社長は陣容を新にして、同志社諸学校に対する徴兵猶予及び其他の特権賦与の事を文部省に願ひ出たが、同志社が公々然として隠れもなき基督教主義の学校であるとの理由で、一も二もなく拒絶された。そこで同年二月二十三日東京に於て社員会を開き無造作にも同志社通則第六条『本社ノ綱領ハ不易ノ原則ニシテ決シテ動カスベカラズ』とあるを削除し、更に同第二条の末項『本社ノ設立シタル学校ハ総テ同志社某校ト称シ、悉ク本社ノ通則ヲ適用ス』とあ
 - 第27巻 p.36 -ページ画像 
るを抹消し、以て基督教々育を骨抜にしたのである。兎に角熊本バンドの精鋭、組合教会員の中堅、牧師界の元勲が相集つて、此大胆果敢の勇猛心を発揮したのであるから、教界一般は愕然として張目震駭し在日本各派の宣教師等は悚然として戦慄したのであつて、一千有余名の同志社校友同窓会員は、たゞ屏息して事相の斯かる逆転に呆然自失して居つたのである。而も彼等の間に慨世憂校の士が一人も無い訳ではなかつた。果然、時日を閲すること二週間の後、三月六日に至り、東京校友会員中の有志者は神田青年会館に相会し『全国校友会員に飛檄して、社員会の決議に反対の運動をなさしむること、横井校長兼社長に勧告書を送ること、及び校友会選出の社員、綱島佳吉・小野英次郎両氏に辞職勧告をなすこと。』を決議し、更に同月十二日午後四時より再び相会して、『今回の社員会決議の不法なること、臨時校友会大会を開かしむること。』等を決議し、丹羽清次郎・留岡幸助の二氏を選んで関西に派遣することとなつた。然るに三月十九日開催の校友会評議員会は、『臨時校友会を開くの必要なし』との決議を成して、東京有志の要求をにべもなく一蹴し去つたのである。併しながら全国の校友も亦、母校の此一大危機に際会して、徒に雲煙過眼視するに忍びなかつた。彼等は各地に於て支部会を開いて其態度を定めたのである。
 母校空前の大問題が、斯の如く眼前に突発し来つて居るに拘はらず全国の校友は漫然と決議文とか勧告書とか、辞職の要求などの空砲を発射するのみであつて、剴切・沈痛・堅実・有効な実際的運動に移らんとするものは未だ一人も現はれなかつた。独りデヴイス先生は去勢されたる群鶏の道連れとなるには余りに勇猛であつた。何と云つても彼は新島先生と共に万難を排して同志社を創立した一人でないか。彼は名にし負ふ南北戦争の勇者ではないか。彼は一昨年来異常の関心を以て同志社々員等の行動を注視して居つた。彼が遂に今回の挙に出づべきは朧ろに想見して居つたのである。果然! 時機は遂に至つた!戦機は既に爛熟した! 興廃の決此一挙にあり!同志社を其最初の基礎の上に引き返す為には、吾が渾身の力を投ずるは吾が義務なりとの感が先生の胸に溢れた。学校を救ふ為の戦には至公至正、大胆なる活動を以て万事を犠牲にして進むべきを誓つた。吾が一生中に採り得る最終最窮の手段であつても、今は躊躇すべきでないと決心された。
………“I resolved to risk everything by open and bold action in a struggle to save the school. I could do no less if I knew it was to be the last thing I ever did.”“Even if we knew that it would result in our having to leave Japan, we would have to make an effort to have the wrong righted.”