デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
6款 埼玉学友会
■綱文

第27巻 p.56-62(DK270018k) ページ画像

明治36年2月11日(1903年)

是日栄一、神田錦輝館ニ於ケル当会ノ例会ニ臨ミ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK270018k-0001)
第27巻 p.56 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
二月十一日 晴
○上略 午後一時埼玉学友会ノ為神田錦輝館ニ抵リ、例会ヲ開キ一場ノ演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第一七八号・第四六頁 明治三六年三月 ○埼玉学友会に於ける青淵先生の演説(DK270018k-0002)
第27巻 p.56 ページ画像

竜門雑誌  第一七八号・第四六頁 明治三六年三月
○埼玉学友会に於ける青淵先生の演説 同先生には、去二月十一日午後一時神田錦輝館にて開会の埼玉学友会大会に於て演説せられたり


学友会報 埼玉学友会編 第九号・第一―九頁 明治三六年四月 論説 修学ノ工夫(明治三十六年二月十一日大会席上演説)(会頭 男爵 渋沢栄一)(DK270018k-0003)
第27巻 p.56-62 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第九号・第一―九頁 明治三六年四月
    論説
  ○修学ノ工夫(明治三十六年二月十一日大会席上演説)
                 (会頭 男爵 渋沢栄一)
 - 第27巻 p.57 -ページ画像 
学友会の大会に際しまして、玆に諸君と一堂の中に相会することを得ましたのは、誠に御互に喜ばしいことゝ存じまするのでございます、今日は幸に天気も宜うございまするし、誠に歓を尽す最も好時節と申して宜いやうに考へます、今当会の幹事から申上げました通り、不肖頃日来健康を損じ居りまして、或は出席如何と恐れましたけれども、幸に昨日来聊か軽快に赴きましたから押して参上致した訳でございます、此会に当つて殊に学生の諸君に対して何か御参考になるべき一事を申上げたいと考へましたけれども、兼て御承知のございまする通り学者境界に成立たぬ私ですから、学生を裨補すると云ふ有益な御話は甚だ致しにくうございます、併し私は数年前に、此日本の学問のズツト以前と現在とが大に相違致したと云ふ有様を申述べたことがございました、又昨年は丁度此席で、学生諸氏の未来の任務と云ふことに就て愚見を申上げて置きましたやうに記憶して居ります、蓋皆陳腐なことで、敢て諸君を益する程のことではないと思ひますが、玆に申上げたいと考へまするのは、即ち修学の工夫に就て如何にして行つたら宜いかと云ふことを、一の問題として御話して置いて見たいと思ふのでございます、斯う集つた諸君は殆と皆学問に従事されて居る方々であるからして、学問の工風を無学な私が御話すると云ふと、殆と所謂釈前の説法と云ふことになりませうけれども、併し唯学問と云ふものが書物を読み事を吟味するばかりが学問と単に云へますまいと思ひまするので、此学問と云ふ中に、即ち或は諸学科に於て其事を研鑽した後に研鑽した事が実地に応用されて初めて学問の効能が顕れて来るのであれば、即ち学を修むるの工風は、敢て学者たらざるも、一の考案がないとは申されませぬと思ふのでございます、で此修学の工風に就て私は二様に考を立てゝ御話したいと思ふのである、第一に申して見たいのは学問と事実の関係及密着です、どうも此学問と云ふ事柄は、果して理論と其学んだ事を事実に応用することがキツト其通りに相行はれぬことが間々ある為めに、或は此学問をして人をして迷はし、若くは疑を起させると云ふことが甚だ多いのである、古い書物に依つて今日の学問を攻究することは少しく例を異にするかも知れませぬが、既に論語若くは孟子などにも、其学理と事実との果して或場合に一致せず、又事実一致して居つても人が一致を見誤ることのあると云ふことを説いた事柄は幾らもある、例へば多分論語にあつたと思ひます、子路あたりの言葉である、有民人焉有社稷焉。何必読書然後為学――人民があるのだ、社稷があるのだ、書物ばかり読んで初めて学問とは云へぬのである、斯う云ふ説を以て殆と学問と云文字が何んであるか殆と学の如きものではない、世の中の事業を処するのが即ち学問であると云ふ如き判断を与へて、勿論それは尤だ併ながら余り自分に為し能はぬことを論するを宜しとせぬと云ふて、是故悪夫侫者と反対言葉を云はれたやうに記憶する、是も物事果して学問通りに行くものでないと云ふことをば指示した一の教のやうに見えます、故に数千年前からして左様に一の学ぶべき教になり学問とすべき事業に付いては、或場合には甚だ密着して論理と事実が誰が見ても綺麗に相投合することがあり、或場合には左様にチヤンと密着せぬで、道理は左様であるけれ
 - 第27巻 p.58 -ページ画像 
ども、事実は左様行かぬと云ふことが間々生する、爰に余程注意を加へて、果して左様であるならば事実に対する学問は如何に修めて行かなければならぬか、又学成つた人が事実を処するに付いて、其投合を謀るには如何なる工風が要るかには最も注意しなければならぬことであらうと思ひます
第二に御話して見たいのは、此学問と総称する中にも、或は政治にあれ法律にあれ経済にあれ、種々なる事柄を意味しますが、私は特に玆に申上げて見たいと思ふのは即ち私の本領たる商工業、之を今世間の流行言葉で申すと実業、此実業に対する学問の中に、学問の科目に依つて覚え得た所の働と、それから此常識に依つて働き得る攻究と、何れが重いかと云ふことも、最も攻究しなければならぬと思ふのです、如何にも人の智識は教へられて学び得て、種々なる論理若くは総ての物に依つて啓発されて行き、又誤をも避け宜きに就いて行くことが出来るに相違ないが、さればと云ふて凡そ此人事は何も箇も皆同しやうな有様が必ず来るものでない、人間万事大抵誰も彼もさう変つたことはない、似た境界似た時代に進んで行くとは云ひなから、総てがまるで相一致して居ると云ふことはないもので、皆多少の差を持つて進んて行く、世の事物は皆さうです、商売と云ひ、工業と云ひ、或は農業と云ひ、総て左様な事業に付いても、斯くして宜かつた、斯様せねばならぬと云ふことが、今申す学問に依つて道理を明かにし、例を調べて行くと云ふことが、果して同しことで唯千遍一律に行くものならば此学問の力丈で何も箇も行くであらうが、併し其時に応じ相当なる処置をして行くと云ふことは、どうしても是は一の智能、所謂「コンモンセンス」が最も必要である、其何れが重いかと云ふことをも、最も攻究しなければならぬことであらうと考へるのでございます、元来前に申す此学理と実際の密着するとせぬとは、学問の普及、成るべく丈事実に近からしむると云ふのと又之を求めて遠く《(ざ脱カ)》るでなくてもが、学風の未だ其宜しきを得ざる為め、常に相乖離することの生するのであらうと私は思ふのである、殊に前年私が一寸此会で申述べましたが、維新以前の教育法、即ち先づ推しなべて東洋の教育法などに於ては、或場合に英雄豪傑を造り出すには甚だ便宜な方法かも知れぬ、併ながら一万人教へて唯一人ほかヱライ人にならぬと云ふ教育法に依つてやるのであるから、多数の人に取ると、悪るくすると甚だ害を与へることがある、事に依ると乱離の人たらしむると云ふ教育になる、即ち其乱離の人たらしむる教育の方法は、決して事実と能く密着すべきものでない、爰が私の申上げる其学理と、実際とに余程注意をせねばならぬ、又学ぶ人も縦令教育法が今日進んで今申す如き古風な野蛮な有様は直つたにもせよ、学ぶ人自身が常に此学理と事実と相密着することを心掛けぬならば、果して事実に応用すると云ふことは難いことであらうと思ひます、縦令学問を十分に修めたに致せ、努めて此常識の発達を心掛けぬと云ふと、所謂学問に人が使はれるやうになる、悪くすると今日はどうも私共は法律が人を制し、学問が人を教へるやうになる、人が学問を応用するのではなく、人が法律を利用するのでなくして、反対に学問に人が教へられ、法律に人が使はれると云ふ弊害を惹
 - 第27巻 p.59 -ページ画像 
起しはせぬかと恐れるのであります、若しそれであつたならば、決して其法律・其学問は人間万事に大なる利益を与ふることなくて、唯種種なることを論じ、或議論の端緒を啓くに於ての、云はゞ談柄の攻究にしかならぬやうになると云ふことは、甚だ此学問に於て未来に生ずべき弊害ではなからうかと思ふのであります、故に我学友会の諸君が現在修めた学問を未来に行ふに於ても、是から又修めつゝある諸君に於ても前に申述べまする此学理を、事実との成るべく丈密着することに心を用ひるのと、又学問に依つて、常識を眩まされるやうなことにならぬで、常識の発達は学問と共に進まなければならぬと云ふ此二点は、私は此学問が世の中に最も利用されるに付いては、甚だ必要の心掛であると考へるのでございます、御聞及びの通り、昨年私は五月日本を発して欧羅巴・亜米利加を漫遊致しまして、丁度十月の三十日に帰国を致しました、蓋し此旅行は真の漫遊でございまして、三十五・六年前に極くまだ日本から参りまする人も甚だ少ない頃に、一度通過致したことがございますが、折悪うて其後、再び旅行することの出来なんだのを、幸に昨年思起して所謂老後の漫遊を試みました、亜米利加は初めて罷越しまして、欧羅巴は前に申す殆ど四十年近い以前に通過致しましたから、縦令大に変化は致して居るに致せ、兎に角に多少の記憶を存し居りましてございました、短かい時間に言語も通せず文字も読めぬ私が、決して各種の方面の観察したこともございませぬ、唯所謂雲煙過眼に、大きな家屋を見るとか、立派な劇場へ案内を受けたとか、或は英国皇帝の戴冠式を拝見したとか、詰り俗に申す田舎の人が江戸見物と申す丈けの一旅行に過ぎませぬが、幸に亜米利加には一ケ月ばかり居りました、又英吉利にも倫敦に又各地に殆ど一ケ月余り居りました、独逸・仏蘭西にも十日許つゝ居りました為めに、是等重立つた列国の商工業なり、其他の有様を大略見及ぶことが出来ましたが、実に亜米利加の各種の事業に、鋭い進歩を以て百事を拡張して行くことは、真に驚入るやうでございます、度々帰国後種々なる席上に於て、観察談を致せと云はれて申述べましたこともございますから或は諸君の御耳に触れたこともあるかも知れませぬが、殊に数十年此方、別して激しく進んで参るやうに見えます、而して此亜米利加の第一に地勢が甚だ進み得る力を持つて居る、即ち土地が良い、さうして広い、人民が多く且つ更に多くなる丈の実力を持つて居る、而して此亜米利加が殊に前に申す学問応用に付いて、余程宜くて、果断と申す気象が多いやうです、唯或場合には少しく軽進であるとか、突飛であるとか云ふことの嘲弄は受けねばならぬかも知れませぬが、奈何せんどうも宜いと見込んだ事は、実に英断して物を処置して行く、而して此亜米利加の有様は、殆と学問の課程・順序を履んだ人と履まぬ人との有様が、決して学んだ人がエライと申し得られぬやうな姿に表示されて居る、現に何やらの新聞に統計して、此世の中に、而も実業界にです、著名な部類の人々を学校出の人と学校を出ぬ人とを統計して見ると、学校を出ぬ人の方が却て人数が多い、斯う云ふ統計を示して、勿論学問を疎んずるとか学問を軽蔑するとか云ふ趣意ではないが、即ち私は之を惟ふに、常識に富まなければ往かぬと云ふことを人に示す
 - 第27巻 p.60 -ページ画像 
の趣意であらうと考へます、又現に諸君も御聞及びでせう、先頃カーネギーと云ふ人の実業の帝国と云ふ書物を翻訳して、之を世の中に広めたいからと云ふて、私は小池靖一君から頼まれて甚だ未熟の叙文を書いて上げました、それが版になつて出て居りますが、カーネギーの説などに依ても、あの人は敢て十分なる学問をして事業に就いた人ではないやうです、蘇格蘭から十二歳の時にピスタブルグへ渡つて、十三歳からは手間取小僧のやうなことをして居つて、段々電信技師になり、鉄道の社員になり、或は石油事業に従事し、遂にあの製鉄事業と云ふことを創設して、殆と世界に一と云つて二とない程の大工業家に成つた所の此人の論する説なども、学問に付いての意見を大変丁寧に書いてあります、私はあのカーネギーの学問に対する論旨は、余程意味ある言葉、又事実に実に能く徹底した言葉と敬服します、凡て世の中に事業を処するに、学問の原理に拘泥すると、其事業に対して悪るくすると誤つものであるから、其拘泥して誤まらぬやうに、心掛けねばならぬ、故に多く世の人は学問をして往けない、どうも学問をすると却て事業には多く仕損じが多い、若くは学問した人がウカウカと始めた事業には多く失敗に終ると云ふて学問を疎んずるが、併し是は学問の罪ではないので、其人の悪るいのである、学問は気の毒千万に却て其人の為めに大に濡衣を着るのだ、私は……と云ふはカーネギー自身が云ふのである、「決して此学問と云ふものがないでは、世の中に事業を大に進めることは出来ない、野蛮の時代には学問無しに物事が進んで行つたが、段々文明に進むに従つて、凡ての科学が発達して来て初めて各種の事業が其学問に依つて段々上進して行くと云ふことは、決して争ふべからざることである、去りながら此実業に処する人達が学に就くに、兎角に余り科目を多くし、又甚しきは種々なる未来に用ゆる高尚な事を無暗に課程を数多くやると云ふことは、余り私は宜しくないと思ふ、即ち亜米利加辺りの学校で学ぶ人に対して云ふことで拉典・希臘辺りの古文字を若し其人が専門でそれを以て世の中に名を顕はさうと云ふならば格別、普通の人がそれまでに学んでどれ程の利益になるか、寧ろ夫等の不要の学科はやめても少し実際に物を考へたら宜からう、或はそれからして遂に空理に行き走つて事実を見誤つて学問をして罪名を着せることがあるであらうと思ふ、故に此学問と云ふものは甚だ必要である、必要であると同時に成る丈学問が事実と全く密着するやうにしなければならぬ」と云ふのがカーネギーが学問に対する先づ大体の論旨のやうに見えました、蓋し私共兼て左様ありたいと同意を表するものである、而して亜米利加辺りの先輩が多くは今の緻密な学問よりは、学んだ学問を成るべく丈常識に依つて十分に活用することを主義として、極くあの国の気風は所謂直進勇往、総て良いと見た事は即断してやつて行く斯う云ふ風に見えます、殊に東洋に十分注目して、種々なる方面から、及ぼして来るやうでございますから、或点に於ては我邦などでは大に友誼を厚くせなければならぬが、或点に於ては各種の事業には大に競争を受けると云ふことも慮らなければなるまいと云ふ程でございます、又英吉利は至つて此総ての事柄が進んで参つて、且つ其気風が極く沈着して居る、頭が俄に熱して急
 - 第27巻 p.61 -ページ画像 
に物に動くと云ふことが殆とございませぬやうに見えます、百年・二百年以前の事をズツト其儘用いて居ると云ふことに付いても、亜米利加若くは他の国々とは大に其趣を異にして居るやうであります、併し学問の科目などに付いては、寧ろ独逸などから見たならば、優劣を論ずるは、私学者でないから甚だ言葉に憚りがございまするが、或は寧ろ緻密を欠きはせぬかと思ふやうに見えるが、今の常識に富んで居ると云ふことに付いては英吉利の人が最も勝れて居るやうに私には見受けられます、而して其変化の少ない、申さば進取剛毅とでも形容しませうか、其気風に於ては甚だ欣慕に堪へぬやうであります、又商業道徳などの厚いことに付いても、トテモ他の国々があの風俗には企て及ばぬと申す外なからうと考へます、但し此実業に対する学問などに付いては、寧ろ此大陸の独逸とか白耳義辺りの大体に種々なる科目を備へて、此学問に依つて実業の智識を進めて行くと云ふ点には、昔日は兎に角、今日は英吉利に於ても甚だ注意して是ではならぬ、今一層我本国も実業の教育を厚くして、人の智識を進めることが肝要であると云ふことの観念を惹起して居るやうに見受けられます、又独逸の方には一週間許りしか居りませぬから、さなきだに分らぬのが尚更分り得ませなんだが、是は又誠に前に申述べました此学理を事実に応用させる学理と事実の密着と云ふことは、あれ位能く届いた国はないと申しても宜からうと人も云ひまするし、私もさう思ひます、凡ての事業が皆学理に依つて極く順序的に着々と進んで行く、而して其大体に於ての有様はどうかと云ふと、決して唯小規模に物を処して行くのではない、左様に沈着した事業を為しつゝあるが、而して其大体に於ては、例へば海運業の如き或は港湾の設備の如き殆ど総て欧羅巴を凌駕すると云ふ位で、英吉利などでは大に近頃漢堡の港湾の成績に付ては、倫敦尚肝胆寒しと批評する位の有様であります、殆ど学理と実際と能く合して共に進んで行くことは、兼て左様であると聞及んだに誤らぬやうに見受けられます、蓋し是等二・三の国々の皆各々其長所あつて、果して何れが是、何れが非と云ふことは、吾々凡眼には批判は下されませぬが、前に申す多少の差のある、即ち其差のあるは其国の特色長所である、其有様を見ましても未来に我邦なども、どうぞ日本をして日本には斯様な長所がある、斯る特色があると云ふことを、所謂日本人気象と云ふものを、どうぞ将来に作りたいと云ふことは、自身も希望し諸君にも望み、共にさう往きたいものであると考へ居ります、悲しいかな今日の吾々社会は、どうしても後進の為めに始終先進国から彼を学び是を習ふと云ふことからして段々他の長所を採るは宜いが、採つた為めに悪るく申すと此節も一節交つて居ればあの節も一節交つて居ると申すので、種々器用に学び居ると云へば或は云へるか知らぬが、甚しきは遂に我は無くなつて仕舞ふまでに往きはせぬかと恐れるのであります、どうぞ前に申しました学問と事実、又学問と常識、此二つを相合して、而して加ふるに、御互に日本人の特に努めねばならぬ、義気に富むとか或は道徳を高めるとか云ふことに付いて、今の学問に依つて才を進め、又固有の気象を益々磨いて、其才徳の兼備したる日本人にならずばなるまいと考へますから、此学事に従事する諸君
 - 第27巻 p.62 -ページ画像 
に於て、是から先き其学び且つ此学んだ事を行ふに於て、今申述べますることを一の御参考に供し得ることが出来ますれば、私の玆に申述べました婆心が、或は多少の裨補することがありはせぬかと思ふのでございます、甚だ不束な愚説を呈して諸君の清聴を煩しましてございます(拍手)