デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
7款 大日本海外教育会・京城学堂
■綱文

第27巻 p.65-82(DK270023k) ページ画像

明治32年2月14日(1899年)

是ヨリ先三十一年五月八日、栄一、韓国旅行ノ途次京城ニ到リ、大日本海外教育会ノ経営セル京城学堂ヲ参観、一場ノ演説ヲナシ、且ツ寄附ヲナセリ。是日同会ノ維持並ニ拡張ニ関シテ、帝国ホテルニ基金募集ノ会合催サレ、栄一、伊藤博文・大隈重信等ト共ニ出席、其趣旨ニツキ演説ス。更ニ寄附ヲナシ、同会会計監督ニ就任、会務ヲ処理ス。


■資料

竜門雑誌 第一二一号・第三三頁 明治三一年六月 ○京城に於ける渋沢氏(在京城蟻生十郎君)(DK270023k-0001)
第27巻 p.65 ページ画像

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青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第四〇八―四〇九頁 明治三三年六月再版刊(DK270023k-0002)
第27巻 p.65 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第四〇八―四〇九頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十三章 朝鮮事業
    第八節 京城学堂
京城学堂ハ、朝鮮京城ニ於テ日本語ヲ以テ朝鮮人ヲ教育スル学校ニシテ、日韓両国ノ関係上裨益スル所尠ナカラス、明治三十二年二月京城学堂拡張ノ為メ、東京帝国「ホテル」ニ於テ有志者ノ会合アリ、先生頗ル周旋ノ労ヲ取リ、席上左ノ演説ヲナセリ、先生ハ大日本海外教育会ノ会計監督ニシテ自ラ千円ヲ寄付セリ
   ○演説後掲ニツキ略ス。


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK270023k-0003)
第27巻 p.65 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 少曇 西風強ク寒気甚シ
朝在東京押川包義《(押川方義)》・本多庸一両氏ノ書状ニ接ス、蓋シ今日大磯ニ来訪スル事ヲ報スルモノナリ ○中略 午飯後押川包義・本多庸一二氏来ル、相伴フテ伊藤侯爵邸ヲ訪フモ、一昨日ヨリ東京ニ赴カレシ由ニテ面会ヲ得ス、依テ三人更ニ大隈伯爵邸ヲ訪ヒ、彼ノ韓国ニ対スル教育ノ事ヲ談話シ、他日伊藤侯ニモ詢リテ一会ヲ催スヘキニ約ス ○下略
   ○是月一日ヨリ栄一大磯ニアリ、十日帰京ス。


大日本海外教育会関係書簡集 二 明治三十二年自一月至九月(DK270023k-0004)
第27巻 p.65-67 ページ画像

大日本海外教育会関係書簡集 二  明治三十二年自一月至九月
                    (渋沢子爵家所蔵)
 尚々別紙案内状弐通ハ品ニ寄大隈・青木両君等ヘ御遣し候入用も可
 - 第27巻 p.66 -ページ画像 
有之と存し封入仕候也
拝啓然者今朝貴价を以て御申越被下候来十四日之集会ニ案内せし人名簿ハ、別冊之通ニ而今日午前ニ夫々発送仕候、就而ハ十三日迄ニ其回答を得て帝国ホテルへ料理方申付、且当日受付之手配其他会場又ハ食堂之事共可成手落なく申付候様可仕候
右人名簿中御訪問可被成人々ハ小生之心附迄ニ○印致し置候、是ハ果して残らす御尋問を要し候と申ニハ無之候得共、御含ニ申上候義ニ候可然御取捨可被下候
又新聞紙関係之方々ハ別紙之通案内仕候、其他政事家ニて重立候人々又ハ従来朝鮮ニ関係多き人ニて心附候もの別紙之通取調候ニ付、之も同様案内いたし置候間御承引之上近衛・片岡両君へも其段御申上可被下候
伊藤侯爵ニハ明日頃御出京之様子ニ新聞紙ニ相見ひ候、果して然らは尚御訪問ニて当日御出席之義御願置被下度候、大隈・青木両君へも別紙案内状相発し候次第ハ貴台より前以御申上置可被下候
右等今朝貴价ニ申上候得共更ニ一書得貴意度如此御坐候 匆々不一
  二月十日                渋沢栄一
    押川方義様

拝啓然者明後十四日之集会ニ付而ハ、一昨日まてニ夫々案内状も相発し、其人名簿も拙書と共ニ差上置候間御承知被下候事と存候、就而伊藤侯ハ九日夜より出京之由ニ付、十日夕帝国ホテルへ御訪問いたし面会之上御出席之義願置候、同侯も十三日ニ大磯へ被帰候必要有之、為メニ十四日ニてハ迷惑と被申候得共、既ニ出状後之事ニ付強而願置候義ニ御座候
大隈・青木両君ヘハ小生ハ別ニ御願も不仕候ニ付尚貴台ニ於て御訪問被下度候
明後日之集会ニ要用之調物ニ付少々心附有之候間、左ニ記載申上候、夫々御調査之上御携帯被下度候
一海外教育会創立之時日、会員人名及寄附金之諸計算
一京城学堂開設之時日、右ニ費消せし金額及現在之景況、其他生徒入学之数
  附現在之費途及別段之補給金之割合
一向後右教育拡張ニ関する見込之概略、及其費額之予算
一京城学堂ニ於て教育する学科之程度及将来改正之見込
  此改正見込といふハ向後可相成ハ商業学校之体裁ニ致度と相考候事共を意味仕候義ニ候
右等ハ当日来会者中ニ質問も可有之ニ付、御同様之中ニハ稍定案相立置候方と存候、就而ハ十四日ニハ可成ハ一時間前迄ニ御会同相願、前陳御調査之書類ニ就て夫々御打合も仕度と存候
右書中得御貴意度如此御座候 不一
  二月十二日              渋沢栄一
    押川方義様
           侍史
 - 第27巻 p.67 -ページ画像 
小石川区竹早町七
  押川方義様          渋沢栄一
          御直展至急
   ○右二通ハ写シヲ綴込ミアリ。


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK270023k-0005)
第27巻 p.67 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
二月十四日 晴
○上略 四時過帝国ホテルニ於テ、海外教育会ニ於テ催ス処ノ基金募集ノ会同ニ参列ス、伊藤侯爵・大隈伯爵等ノ演説アリ、余モ寄附金勧募ノ為ニ一場ノ演説ヲ為ス ○下略
   ○演説後掲。


東京日日新聞 第八二〇〇号 明治三二年二月一五日 海外教育会懇談会(DK270023k-0006)
第27巻 p.67-68 ページ画像

東京日日新聞 第八二〇〇号 明治三二年二月一五日
    ○海外教育会懇談会
渋沢栄一・片岡健吉・押川方義三氏より案内状を発せられたる海外教育会の懇談会は、昨日午後四時より帝国ホテルに開かれたり、抑も海外教育会は明治廿七年日清戦役の最中、朝鮮の子弟を教育するの目的を以て創立せられ、我国慈善家有志の寄附金を以て京城学堂を京城に設置したるものにして、其生徒は七十余名あり、其成績も見るべきものあり、中頃一時は朝鮮人の日本人を厭ふ念の起りたるため、将来の事如何と思はれしも、其の後朝鮮人に於て我国人の義侠慈善なる心をも能く了解したるより、旧に復して追々好結果を収め、曩に伊藤侯又は渋沢栄一氏の朝鮮に赴かれたる時、能く実際を目撃して其の成績の良きを認め(伊藤侯に対し学堂の子弟が日本語にて挨拶するなど大いに満足すべき状況ありしと云ふ)侯爵及び渋沢氏は益々将来該学堂を拡張して彼我の便益を進めたきものと深く感ぜられしも、何分之を為すには維持費も要し、且つ拡張して追ては平壌・開城府・木浦等にも其分校を置くべき必要あるにより、其の相談のため斯くは有力の人々を案内せられたるなり、昨夕は他にも実業家・紳士等の集会ありしため、来会者は伊藤侯・大隈伯・板垣伯、青木・清浦の二大臣、三井八郎次郎・渋沢栄一・大倉喜八郎・大江卓・鳩山和夫・大岡育造・鹿島岩蔵・長尾三十郎・大三輪長兵衛・尾崎三良・日下義雄等の諸氏、其他四十余名なりしが、始めに近衛公は同会員の資格にて一同に向ひ厚く来会を謝するの挨拶を述べられ、次に伊藤侯は懇談会として談話することゝすべしとて、皆々着席の儘一場の談話を試みられ、先づ海外教育会の好成績なる実地目撃の事を述べ、朝鮮扶植の問題に就ても教育等の根柢より培養するを要するを以て、京城学堂の如きものは幸に好成績を得て将来有望なるにより、益々拡張したきものなりとの主旨より、其拡張方法に於ても秩序的に教育して、決して革命精神を惹起する如き事無き様注意すべきを説かれたり、次に大隈伯は日韓の交誼を厚くし貿易を盛んにするには、第一に彼我の言語を通ずる事最も急務なりとて、京城学堂の如きものは大に此急務を充たすに於て必要なる次第を述べ、宜しく之れに助力を致すべき必要を説かれ、次に渋沢栄一氏は海外教育会及京城学堂の沿革を叙して、江湖慈善家の寄附金
 - 第27巻 p.68 -ページ画像 
を奨励するの主旨を述べられ、夫れより一同食卓に就き、全く散会せしは八時を過ぐる頃なりき


東京日日新聞 第八二〇一号 明治三二年二月一六日 伊藤侯の演説(DK270023k-0007)
第27巻 p.68-69 ページ画像

東京日日新聞 第八二〇一号 明治三二年二月一六日
    ○伊藤侯の演説
 一昨夕帝国ホテルに於て催されたる海外教育会の協議会の席上、伊藤侯が演説せられたる要旨左の如し
昨年余が朝鮮に遊びたる時、京城に滞留するもの僅に数日、故に何事も十分研究するに由なかりしも、本会に於て設立せられたる京城学堂よりは態々案内を蒙りたるに付き、暫時立寄りたるが、当時恰も休業中なりしも、余に参観を求めたる為め特に集会したるものと思はれたり、其席上近頃業を受けたりといふ一壮年の韓人が、余に対する演説を日本語を以てしたる事は実に一驚を喫したり、又他の生徒の就学年数を問ふに、一年半及び二年に過ぎざるにも拘らず、彼等は自由自在に日本語を繰るといふ有様にて、其進歩の著しき真に称するに足るものあり、但し実際韓人の教育に従事したる人にして帰朝中なるもあれは、其授業の模様の如きは余の口を以てするよりは、現に教授の任に当れる人より聞き取らるゝを善しとす、然れども余の見る所に拠れは生徒将来の進歩は益々顕著なるものあるを疑はざるなり
既に海外教育といふ以上、独り韓人を教育するの必要あるのみならず亦支那人をも教育するの必要あり、蓋し文明的の学問を我国より輸入するは、彼等に取て啻に簡便なるのみならず、亦其成効速かなればなり、又我よりいはゞ土地広く人口衆きも、文明的の学問に幼稚なるものに向て東洋の率先者たる我国が誘導する時は、自ら助勢するの利あるを以てなり、畢竟這般の事柄は双方の幸福を増す所以にして、亦徳義上我国の義務に属するものなるを覚悟せざるべからず、其朝鮮たると支那たるとを論ぜず、徒に現状に安んじ文明の学術を進めず事物の開発を努めざるに於ては、如何なる状勢に立到るべきか測り知るべからざるものあらんとす、故に徳義上よりも利益上よりも、我国は力の及ぶ限り十分の助力を彼等に与へざるべからざるは、我国の利益を保全する所以なるのみならず、実に極東の大勢より論ずるも尤も必要なるを信ず
左れば海外教育の事は余が尤も同情を表する所、殊に朝鮮に至ては日清両国干戈を交ゆるに至りたる関係もあれば十分援助せざるべからざるは勿論なり、然るに日清戦争の結果として支那までも意外の状勢を呈するに至れり、而して清韓両国をして生存を悠久にするの道を取らしめんには、到底両国民自らをして奮起せしめざるべからず、是れ等の手段方法一にして足らざるべしと雖も、教育の急要なるは弁を待たざる所にして、此点に付ては深く本会諸君の尽力を請はざるを得ず、就ては余が少しく注意を乞はんとすることは、従来日本人の為したる事業にしては、往々朝鮮の紛乱に関係する所ありしが如き感あり、畢竟韓人の不明にも因らんが、苟も彼等を誘導せんと欲するものは尤も此辺に留意せざるべからず、彼れの状態は決して我維新前の有様に倣ふべくもあらず、何となれは我封建諸侯は社稷を有し、兵力財力振ふ
 - 第27巻 p.69 -ページ画像 
て動きたるも、此の如き働きは到底個人の為し得べき所にあらず、今の朝鮮の資力は余が故郷たる長州一藩の力にすら匹儔するに足らざらん、例へば兵力を養成せんとするも朝鮮は長州一藩に及ばざるなるべし、是を以て学問を以て彼等を誘導するにもせよ、平和を保ちつゝ進歩するの大切なることを、彼等の脳裏に注入するの手段を択ばざるべからず、詳言すれば王家とか政府とかに向て余り反対せしむる如きことは不可なり、寧ろ王家と共に歩ましむるにあらざれば、根拠ある改革は得て望むべきにあらず、支那は勿論朝鮮に於ても、革命を以て進歩を謀らんとする如き軽挙あらは、却て万事に妨害を及ぼし、徒に列国の物論を早く喚起するの憂あれば、彼等を教ふるには尤も是れ等の点に意を用ゐ、彼等自ら十分力を養成するの後にあらざれば、何事も為し能はざる道理を彼等に注入せられたし、余は本会の計画に賛同の意を表すると同時に、今日来臨の方々に対して更に十分の御賛助あらんことを希望す


東京日日新聞 第八二〇三号 明治三二年二月一八日 大隈伯の演説要旨(海外教育会協議会の席上に於て)(DK270023k-0008)
第27巻 p.69-70 ページ画像

東京日日新聞  第八二〇三号 明治三二年二月一八日
    ○大隈伯の演説要旨
      (海外教育会協議会の席上に於て)
既に伊藤侯より隣国に対する政治上其他の扶植の要に就き陳述せられたるを以て、予は更に弁を重ぬるの必要あるを見ず、予は本会の一員にして、成立以来聊か微力を尽す所ありしも、猶現存せる京城の一学堂すら十分の拡張を為す能はざるの状態なり、然れども諸君の熱心なる助力に依り、韓国の子弟にして日本語を自在に操る者を養成し得たるは、稍々本会の目的其緒に着けるを信ぜざるを得ず、凡そ隣国相親むるは言語相通じ、意思の交換完全なるにあらずんば能はず、僅々三四年を経過せしに止るも、既に京城学堂出身の者にして京城或は仁川に於ける日本商估の店頭に、或は朝鮮人に接し或は日本人を迎へて商業を営める者を見るは、現に利益の点よりも得る所頗る大なるのみならず、政治上の関係に於て亦た極めて利益あるを疑はざるなり
朝鮮貧なりと雖も開港以来既に二十四・五年を経過し、其間の企画に依り貿易の進歩亦た決して遅々たりとは言ふべからず、近年穀物の価格騰貴したるより、朝鮮人の一部は却つて苦痛を訴へ、為めに防穀令を施く等の不可思議なる挙動を演じたる事ありしが、農民一般の富を増進せしは疑ふべくもあらず、近年彼等の我国より貨物を輸入する事著しく増加したるは正しく其証なり、是に由つて之を視れば朝鮮貿易の将来は侮るべからざるものあるを信ず、十分なる調べにはあらざるも、既に我邦人にして朝鮮沿岸に移住せし者二万に下らざるべく、細かに算当せば布哇の移住者と匹敵するなるべし、而して朝鮮移住者は概ね個々独立の資力を有し、布哇移住者の外人に使役せらるゝ如き者にあらず、故に勢、甚だ強大にして、地方即ち釜山・平壌等に出でて働ける者の力も亦た見るべきものあり、殊に木浦の近来の進歩に至つては実に驚くべきものにして、僅々一年以上を経たるのみにて一千人以上の移住者あり、蓋し数年を出でずして釜山・仁川を圧するの景況を呈すべし
 - 第27巻 p.70 -ページ画像 
斯くの如きの有様なるを以て、農業発達し人口増加するに於いては自然国力を増大し、立国の基礎も漸次確固なるに至るべき道理なるが、其間に立つて最も必要なるは彼の言語相通ずる事なり、而して此の点に於て大いに本学堂の効力を想はずんばあらず
目下釜山及仁川に設立せられたる学校の如きは、其組織微々たるに拘はらず、追々子弟の入学増加するを見る、既に一時は種々なる原因より朝鮮人の感情を害し、此学校の如きも将さに倒れむとすると不運に遭遇し、或は之を撤去せむと主張する者もありしが、何時かは好機会の到来すべしとて僅に維持し来りたるに、幸に機運一変し、漸次本学校の必要を感じ、朝鮮人の我邦人に対する感情も融解して入学者の数を増し、現に伊藤侯の遊歴に際して日本語を以て挨拶を為す者を養成し得たるは、漸く当初の目的其緒に就きたるものと謂ふべし、故に此機運に乗じ之が組織を拡張し、進んでは支那にまで其力を及ぼさんと欲するなり、斯くの如き事業に就いては世間常に政府の補助を要求する例あり、本会も其計画漸次成り功績を挙げ、国家の利益を為して而かも有志の力維持に堪へざるに至らば、従つて補助を仰ぐの必要も生ずべきなれども、方今先づ此機運を利用し拡張の効を挙げたしとの存念なるを以て、幸ひに諸君の賛助を与へられむ事を望む


竜門雑誌 第一二九号・第一―四頁 明治三二年三月 京城学堂(DK270023k-0009)
第27巻 p.70-73 ページ画像

竜門雑誌  第一二九号・第一―四頁 明治三二年三月
    京城学堂
 本篇は青淵先生が帝国ホテルに於て京城学堂に就て演説せられたるものゝ速記なり、依て本欄に採録せり
 今日は皆さん御苦労を願ひまして難有うこさいます、此朝鮮の京城学堂の事に付きましては、昨年伊藤侯爵は実地も御覧下すつた、夫に付て此事に御賛同を下さる、下さると同時に此教育に注意せねはならぬところまでも併せて唯今御示しになりました、又海外教育会の既往に付き、及朝鮮に於ける教育の今日まで経過した次第は大隈伯爵から懇々御話を下さいました、丁度今大隈伯から御説がこさいました通り私は初めて昨年朝鮮に参りまして京城学堂のあることを知つた時に、日本に海外教育会といふものゝあることを知りました、其前から海外教育会には会員となつて居りましたけれ共、甚た其力か足らぬ為に振はずに居りましたから、世人からどういふ会であるといふことすら能く覚えて居らなんだと云ふ位の有様であつた、併し朝鮮で京城学堂へ参つて見まして、此学堂は何に依つて成立つて居るかと云ふと、海外教育会から組立てられて居るものだといふので、初めて朝鮮人の日本語に依つて教育されて居る有様を見て、大層好い心持が致しましたのでこさいます、且この朝鮮人の日本語に熟練の早い、又覚えた人の振向方抔に付ても、丁度今大隈伯から御話がこさいましたが、日本から在住して居る会社とか銀行とか或は商売店などに追々使用する道がズンズン附いて行かうと思ひます
 そこで今此政事上・経済上から必要だといふ伊藤侯爵・大隈伯爵の御話以外に、私共に於ては目前の有様を見ましても至つて便利である御案内の通り朝鮮人は至つて柔順である、且今申す通り覚え易い人達
 - 第27巻 p.71 -ページ画像 
に一ト通の教育をして言葉にも通じさせる、其中の良い者は追々今申す商会とか銀行とか会社とか云ふものに引揚げて使ふといふやうなことになつて行きませう、さうすると決して彼に利益を与へるではない寧ろ我の便益を生ずるといふ方が多くある位に行かうと思ふ、併し今日は海外教育会の力が足らぬものであるから、之を継続して今日の効能を将来に持詰めて行くといふことすら覚束ないことでこさいますから、遂に已むことを得ず玆に皆様に事情を訴へて、是から先き此学校を持続し、且之が拡張を図るの方法を講する事に御賛同を請ひたいといふことを申上ける次第であります
 且今日の処は丁度京城学堂の生徒の数が凡そ百人を程度として入れて居りますけれ共、始終に就学して居ります生徒が七十人位であります、又教育の課程は大抵日本の高等小学を程度とし重もに会話といふものに時間を取りました、又数学が甚だ鈍いといふので数学の時間などを余計置きました、一週間に教授する時間が二十八時間で多くは会話・数学なとを重もにして居ります、夫から読本の読み方或は軍歌だとか体操だとか云ふやうなものも皆備はつてやらせて居ります、徐々に学科を進めて行くと其修学の結果は至極宜しいと教員なども申して居りました、私の観察では願くは之を純然たる商業学校に進める訳に参りませぬでも、簿記の科を置くとか、若くは日本の手紙でも書くといふやうな科を置くとか、又実践と申すやうな科を置くとか、二・三の商業実修に進まれるやうな科を加へて参りましたならば、唯々普通の小学というよりは幾分かBusiness Schoolといふ方の性質に仕向けることが出来はしないか、さういふ処に段々進めて行きましたならば前に申す目的に達するに極く捷径であらう、それで又費用の点も今申す如く七十人位の生徒が出て居つて教員などは廉い給料で倹約してやつて居ります、夫でも殆ど二千円余掛つて居ります、モウ少し課程などを増加しましてやるとして見たならば多少費用は増すであらうと思ひますけれども始終一百人位のところを目的として行きましたならば三千円位で足りやうと思ひます、故に望むらくは更に進んで分校を一二ケ所建てたいと思ひます、モウ一歩進んで行けば支那にまで及ほしたいといふのが海外教育会員の大体の望みでありましやう、なれども今日申すところはさう先きへ進む考ばかりして居つても、迚も為し得られぬかも知れませぬから先づ朝鮮丈けを第一として申上けます、偖此分校を一・二ケ所建てるといふと矢張一ケ所一年に千五百円の費用はどうしても要らうと考へます、大抵分校としたならば五十人か六十人位の生徒を入るとしても、一ケ所建てるに起業費も千円以上掛ります、但京城学堂は二千円余掛かつて居ります、夫も至極廉価に都合能く買つたのでございます、若し今分校を南に一ケ所木浦最寄りにでもしますか、又北の方は平壌に一校を建てたいといふ考もあるが、平壌は先づ第二として、例の人参を産出しまする開城といふ所があります是は京城から二十四・五里もあります、此辺に分校を建てたら宜からうと京城学堂に関係して居る在朝鮮の人達が評議して考案を立てたさうであります、右の如く現在の京城学堂も拡張し且つ二ケ所の分校を設くるとするには、一時の起業費が三千円以上と毎年の維持費が少く
 - 第27巻 p.72 -ページ画像 
も五千円以上掛かるといふことを予期しなければならぬのであります然るに此海外教育会なるものゝ実力は如何かといふと、悪く申すと殆んど無資産といふ有様で、日本の実業家といふ方々からは海外教育会は未だあるか無いか知られぬ位の次第であります、ハアそんなものもあるか位に御聞込み下さる訳だらうと思ふ、詰り此海外教育会の初めの成立が、我々商業者間に主として紹介されて居なかつたやうに思ひますが、どうしても之を持続して行かうといふには元資金といふものを求めねばならぬ、元資金を作るには誰に頼るか、日本の金持の御方即ち今夕御案内を申上げた諸君に頼らざるを得ぬのであります、故に諸君も幸に此事業を必要と見て下さるならば、少し御力を出して相当の資金を作つて下さると云ふことは甚だ願はしく存ずるのでありますが、此出資の方法も基本財産としてチヤンと原額を備へて其利息を以て維持して行けるなら安全ですが、それは或は難事と思ひますから、三年又は五年の約束にでもして、余りそう皆様に大分の事を御願ひする訳に行かなからうと思ふのであります、それ故に前に申す通り皆様より五年位の約束にて相応の出資を願つて此事業を進行継続して、五ケ年の後は其時の有志者を待つといふ方法にする外はなからうと存じます、若し為し得られるならば前に云ふ原資を備へて、夫から生ずるものを以て年々支出して行くやうにありたいと希望しますけれ共、さういうやうな考でも言はゞ人の懐中を当てにしてやることですから其通りに行くや否やは期し難ふございます、要するに今申す如く此京城学堂を拡張して更に二ケ所の分校を建てやうとすると一年五千円の金はどうしても必要と考へます、さうすると之れを仮りに原資を備へて夫より生ずるもので維持して行かうとすると、十万円の金が無うては之を維持して安心し得られるといふ事は申上兼ねるのでござります
果して今申上けたのが海外教育会で十分練りに練つた是より動かぬといふ考案とは申上兼ねますが凡そ拡張するにはどんな事にしたら宜いかといふことは我々先つ此会を催すに当つて打合はせた次第であります、実は今の京城学堂の維持は或る筋より特別の寄附のある為に僅かに持続して居ります、殆んと海外教育会が己の費用で維持するでなく他に仰いで維持して居りますから、若しも夫等の源泉が尽きましたならば海外教育会は忽ち涸渇して仕舞はなけれはならぬのであります、回想すれば丁度今の高等商業学校が明治十四年に東京府会で費用を出さぬといふ時に廃校して仕舞はうといふ有様でした、其時は誰が農商務大臣でありましたか只今記憶しませぬが、商業教育は最必要であるといふ事を私共は懇々と唱へた、けれとも府会は之を止めて仕舞ふといふので、其時芳川顕正君が東京府知事であつたが頻りに其事を心配されて、東京府下の商業者に勧誘せられて三万円ばかり醵金する事にした、此三万円の金を基本金として商業教育の必要を申立つて、農商務省に於て一ケ年一万五千円許の費額を以て其学校を継続せしめた、夫から続いて文部省の管轄に属して今日は五万円以上の費額を以て有力なる学校として成立つやうに至りましたが、唯今此中にも其時寄附に加はつた方も居られませうが、実に我々共の骨折で将に斃れんとした商業教育を東京府下に確立させたと謂ふても宜い、是は内地の御話
 - 第27巻 p.73 -ページ画像 
だ、併し海外に属することも同様で、若しも今資金を得ることが出来ぬならば、恰も明治十四年頃の高等商業学校のやうな有様にならねばよいがと思ひます、こゝに一つ盛り返して更に拡張せしむるといふには今夕御集り下すつた諸君の御力に頼る外無からうと思ふ、どうぞ只管此希望を御採用下さる様に願ひたうこさいます、尚此寄附の方法又は教育の仕方等に付て御考案がありますなら御教示を願ひます(終)


義捐名簿(DK270023k-0010)
第27巻 p.73-74 ページ画像

義捐名簿               (渋沢子爵家所蔵)
大日本海外教育会創立の趣旨は、博愛行誼の大道を拡充して海外友邦の教化を補導するに在り、今や我邦東洋に於て文明一新の率先者たり其任亦軽からす、宜しく近きより遠きに及して誘掖扶済の労を取り、卑きより高きに至りて教育啓発の徳を施さゝるへからす、韓国の如き我と振古の交誼あり、其窮困を見て之を傍看するに忍ひむや、是を以て本会は曩に廿七年十二月代表者を彼地に派遣し、彼学務衙門の委托に応して学生数名を収育し、又京城に於て一校を創設して之を京城学堂と号し、彼子弟を就学せしむ、其教科適実にして指導懇篤なるを以て学生悦服し、来て堂に入るもの年一年より多く、其功漸く見るへきもの有りと雖とも、資本の充実せさるを以て未た完備の域に至らさるは慨歎に堪へさる所、冀くは仁人義士幸に同情を表せられ、其厚薄を論せす捐資して本会の趣旨を賛襄せられむことを謹て告く
  明治三十二年三月
                     大日本海外教育会
  一金弐千五百円也 但五ケ年賦        三井家
                      岩崎弥之助
  一金弐千五百円也 但五ケ年賦
                       岩崎久弥
  一金壱千円也 但五ケ年賦         渋沢栄一
  一金壱千円也 但五ケ年賦        古河市兵衛
  一金五百円也 但速納           土方久元(印)
  一金弐百円也 皆納         子爵 榎本武揚(印)
  一金五百円也            子爵 岡部長職花押
  一金五百円也            伯爵 大隈重信(印)
  一金五百円也            公爵 近衛篤麿(印)
  一金百五十円 五ケ年支出         島田三郎(印)
  一金五百円                西郷従道
  一金五百円                松方正義
  一金三百円 即納              野村靖
  一金五百円 但五ケ年賦          秋元興朝(印)
  一金百円                 清浦奎吾
  一金壱百円               服部金太郎
  一金参拾円               西園寺公成
  一金弐拾円                柿沼谷蔵(印)
  一金参拾円              佐々木勇之助(印)
  一金参拾円               田中長兵衛(印)
  一金弐百円 即納         京仁鉄道合資会社
  一金五百円 即納         株式会社第一銀行
 - 第27巻 p.74 -ページ画像 
  一金参拾円               清水満之助
  一金参拾円                中村清蔵(印)
  一金参拾円                鹿島岩蔵(印)
  一金百円                浅野総一郎(印)
  一金拾五円               牟田口元学(印)
  一金参拾円               今村清之助(印)
  一金参百円            京釜鉄道株式会社
  一金拾五円                小野金六(印)
  一金弐百円              三井物産会社
  一金五百円              日本郵船会社
  一金壱百円 即納             大家七平(印)
  一金壱百円          株式会社第五十八銀行
  一金五拾円 即納         金巾製織株式会社
  一金参拾円 即納           増田合名会社
  一金壱百円 即納             村山竜平(印)
  一金五拾円 但五ケ年賦      大坂製綿株式会社(印)
  一金五百円              住友吉左衛門
  一金壱百五拾円             藤田伝三郎
  一金壱百円也           摂津紡績株式会社
  一金五拾円也               鐘紡会社
  一金参拾円也               梅浦精一(印)
  一金五百円也              村井吉兵衛(印)
  一金五拾円也              新海栄太郎(印)
  一金参拾円也               林紋次郎(印)
                      渡辺沢次郎(印)
  一金五拾円也               近藤廉平


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK270023k-0011)
第27巻 p.74-75 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
二月廿八日 曇
午前九時駿河台ナル岩崎弥之助氏ヲ訪ヒ、京城学堂寄附金ノ事ヲ依頼シ ○下略
   ○中略。
三月三日 晴
午前九時押川方義来ル、海外教育会ニ於テ京城学堂ニ関スル勧財ニ付趣意書作成ノ事ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
五月廿五日 曇
○上略 午後四時早稲田大隈伯ヲ訪フ、海外教育会ノ事ヲ議ス、江原・島田・押川・本多ノ諸氏来会ス ○下略
   ○中略。
七月廿四日 曇
午前 ○中略 押川方義・佐々木清麿二氏ト京城学堂ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
八月二十五日 晴
 - 第27巻 p.75 -ページ画像 
午前海外教育会書記来ル ○下略
   ○中略。
十一月六日 晴 風
○上略
此夕帝国ホテルニ抵リ、又富士見軒ニ於テ開キタル海外教育会ノ宴会ニ列ス


青淵先生公私履歴台帳(DK270023k-0012)
第27巻 p.75 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
   民間略歴(明治二十五年以後)
明治三十二年
一大日本海外教育会(京城学堂)ヲ賛助シ、其会計監督トナル
  本会ハ清韓諸国ニ文明的教育機関ヲ起サントスルモノニシテ、已ニ韓国ニ一・二ノ学校ヲ設立シ其成績見ルヘキモノアリ、亦国家事業トシテ必要ノモノナルニ付之ヲ賛助シ、現ニ会計監督タリ
  以上明治三十三年五月十日調


大日本海外教育会関係書簡集 四 明治三十三年自一月至五月(DK270023k-0013)
第27巻 p.75-81 ページ画像

大日本海外教育会関係書簡集 四  明治三十三年自一月至五月
                   (渋沢子爵家所蔵)
    明治三十二年度京城学堂報告
○上略
      沿革
明治二十九年四月十五日京城学堂ヲ創立ス、初メ京城南部会洞ニ開校ス、明治三十年八月校舎購入ノ為メニ京仁間ニ寄附金ヲ募集セシニ、時ノ公使加藤増雄氏ヲ始メ在京仁諸有志ノ尽力ニ由リ千数百円ノ寄附金ヲ得タリ、之ニ本部ヨリノ送金ヲ合シテ現今ノ校舎ヲ購入シ之ニ移転スルヲ得タリ、創立ヨリ今日ニ至ル迄五星霜、幾多ノ困難アリシニモ係ハラズ今日ノ運ニ達シタルハ、実ニ内ニシテハ主任者其人ノ努力ト、外ニシテハ日本ニ於ケル同情者及京仁間諸有志ノ高庇ニ由ラズンバアラズ、明治三十一年十二月韓国学部ハ直接我学堂ニ認許状ヲ交附シ、同時ニ一個月三十円ノ補助金ヲ下附スル事ヲ約セリ、是学堂ノ進歩ニ多大ノ影響ヲ与ヘ、一層其根基ヲ堅確ニシタル所以ナリトス、三十二年六月ニハ第一回卒業式ヲ挙行シ、内外ノ来賓亦タ数百人ニ及ベリ、同年七月従来ノ主任者小島今朝次郎其ノ任ヲ辞ス、玆ニ於イテ大日本海外教育会ハ渡瀬常吉ヲ挙ゲテ堂長ノ任ヲ托ス、渡瀬常吉之ニ応ジ三十二年九月赴任ス、同時ニ宇津木勢八ヲ教諭ニ嘱托ス、宇津木亦タ十月赴任ス、以テ今日ニ至レリ
      位置及教場
位置 京城学堂現今ノ位置ハ、京城明洞ニ在リ、校舎総坪数八百三十二坪八合、八棟十二室ヨリ成ル、朝鮮家屋ナリ、支那公使館ト相隣レリ
教場及住宅 目下教場ニ使用スル者四室アリ、堂長室及教員室二個、堂長及其家族ノ住宅トシテ四室、教諭住宅トシテ一室、韓人教員ノ寄宿舎トシテ一室ヲ使用ス、他ニ書籍器械室・小使室・物置等アリ
運動場 運動場トシテハ庭中ノ広場ヲ使用スルモ、四十名以上ノ運動
 - 第27巻 p.76 -ページ画像 
場トシテハ頗ル狭隘タルヲ免レズ
      京城学堂評議会及役員
我ガ学堂ノ学事・会計ヲ監督シ、同時ニ学堂ニ関スル諸般ノ協議ヲ為ス為メニ、京城学堂評議会ナルモノヲ設ク、其ノ役員左ノ如シ
    評議会長            林権助
    評議員             山座円次郎
    同               野津鎮武
    同               佐々木清麿
    同               中村再造
    同               藤井友吉
    同               乾長次郎
    同               信夫淳平
    同               埴原正直
    同               国分象太郎
    同               隠岐敬次郎
    同               菊池謙譲
    会計監督            佐々木清麿
    学事監督            信夫淳平
    同               埴原正直
      職員
京城学堂現今ノ職員ハ六名ニシテ、名誉職員三名アリトス、其姓名左ノ如シ
    京城学堂長           渡瀬常吉
    教諭              宇津木勢八
    教員              高義駿
    同               郭岐鉉
    同               柳永攅
    助手              朴成圭
    名誉京城学堂医 漢城病院長   隠岐敬次郎
    名誉体操教授 曹長       加藤伝三郎
    同 上等兵           宮脇善吉
      教育ノ方針
教育ノ方針ハ創立以来実行シ来リタル所ニ遵フハ論ナキ所ナルガ、昨年海外教育会評議員会ニ於テ決セラレシ実業的傾向ヲ奨励シ、各生徒ヲシテ自活独立ノ精神ヲ発揮シ、実業上ノ智識ヲ琢磨セシムル事ニ注意シタリ、韓国ニ在リテハ何人モ知レル如ク、仕官ヲ以テ唯一ノ希望ト為スガ凡テ諸生ノ常ナレバ、未ダ直チニ此ノ弊ヲ免レシメ得タリト云フニハアラザルモ、近時我ガ生徒ノ趣味好尚ハ著シク変化シ来リ、職業ノ重ズベキヨリ労働ノ貴重ナル事ニ至ル迄デ漸ク理会シ、独立自活ノ気象モ次第ニ発揮シ来ル者アルハ吾人ガ世上ニ告白スルヲ喜ブ所ナリ、其上普通学ノ智識ヲ有セシメン事ヲ期セリ、其ノ結果トシテ普通学ノ智識ニ富ムニ従ヒ、種々ノ妄想ヲ去ルヲ得ルハ実際ノ事実ナリトス、如此クニシテ進マンニハ独立自活ノ目的ヲ達スルモ亦タ難カラザルベシト信ズ
 - 第27巻 p.77 -ページ画像 
      普通科及附属小学
普通科 従来我ガ学堂ハ普通科・特別科・漢文科ノ三部門ヲ分チ、普通科ハ満三年ニシテ卒業セシメ、特別科ハ一個年ノ速成課ニシテ重ニ日本語ノ錬習ヲ為サシメ、漢文科ニ於テハ漢文ノ素読ヲ為サシメタリキ、然レドモ目今ノ情勢ヲ以テスレバ速成ヲ望ムノ生徒ハ著シク減少シ、且ツ繁雑ヲ免レザルヲ以テ特別科ハ之ヲ廃シ、単ニ普通科ノミト為セリ、而シテ漢文科ヲ改メテ小学科ト為シ、以テ普通科ニ至ルノ楷段ト為セリ、故ニ将来学堂ヲ拡張シテ普通科ノ上ニ専門科ヲ置クノ日至ランカ、下小学ヨリ上専門科ニ至ル迄デ一系統ノ中ニ収ムルヲ得テ教育ノ功果モ著シカルベキハ吾人ガ信ジテ疑ハザル所ナリトス
小学科 従来十歳前后ノ少年ノ為メニ漢学ヲ教授シ来リシガ、素読ヲ高声ニ為スノミニテハ到底無益ヲ免レザルヲ見シカバ、前ニモ云ヘル如ク今回之ヲ改メテ附属小学ト為シ、将来之ヲ卒業セシ者ヲ収容シテ普通科生タラシムルノ考ナリ、目下生徒十七名アリ、其ノ進歩ノ度ハ之ヲ年長者ニ比シテ頗ル優ル者アリ
      在籍生徒数及出席平均其他
在籍数及出席平均 普通科及小学科ニ於ケル在籍生徒数ハ一百三名ニシテ、其毎日出席平均数ハ約六十名ナリ、左ノ如シ
  普通科一年生     同二年生     同三年生
    四十五人     二十九人      十二人
  附属小学一年生
      一七人
  右合計一百三名
生徒各級ノ年齢平均 生徒ノ年齢ハ頗ル不同ナルヲ免レズ、是レ系統ヲ追ツテ入学セザルニ由ル、然レドモ目今日々出席スル生徒ヲ標準ニシテ其ノ年齢ノ平均ヲ求ムル時ハ、将来年齢ノ点ニ於イテ稍ヤ均一ヲ保タシムルヲ得ベキヲ信ズ、左表ヲ看ヨ
  普通科一年生           同二年生  同三年生
  在籍生最高年齢     三十歳   三十歳  二十八歳
  在籍生最少年齢     十五歳   十三歳   十六歳
  在籍生平均年齢     二十歳  二十一歳   十九歳
  日々出席生平均年齢   十九歳   二十歳   十七歳
  附属小学科一年生
  在籍生最高年齢     十六歳
  在籍生最少年齢      九歳
  在籍生平均年齢     十三歳
  日々出席生平均年齢   十三歳
右ノ表ニ由リテ見ル時ハ、日々出席者ハ年齢ノ少ナル者ニ多キヲ見ルベク、遂ニハ二十五歳以上ノ生徒ハ其ノ跡ヲ絶ツニ至ルベシ、然ル時ハ学校ノ管理ハ云フニ及バズ、其ノ感化モ及ビ易ク其ノ進歩モ著シカルベシト信ズ
生徒ノ種類 従来学堂ノ生徒ハ京城市内ノ諸生多数ニシテ、市外若シクハ地方ヨリ態々来学スルガ如キハ稀レニ無キニシモアラザリシモ、極メテ少数ナリシナリ、然ルニ近時ニ至リテハ市外ハ云フニ及バズ、
 - 第27巻 p.78 -ページ画像 
地方ヨリ態々上京勉強スル者モ少カラザルニ至リシハ喜ブベキ現象ノ一ナリト云ハザルベカラズ、且ツ官吏ノ子弟ノ外ニ次第ニ商家・農家ノ子弟モ入学スルニ至リシハ教育普及ノ為メニ祝スベキノ至リナリ、左表ニ其ノ種類ヲ示スベシ、此中官吏ノ子弟トアルハ現在官吏タル者ノミニハアラズ、其ノ祖先中ニ一時官吏タリシ事アリシ者ニシテ現今ハ商農ヲ営ム者モ少カラズ、乃チ有名無実ノ者多シト知ルベシ、概シテ云フ時ハ商農ノ子弟多数ニ居ルベシ、然レドモ一般ニ其ノ身分ヲ明言スルヲ厭フノ風アリ、是レ官吏ノ子弟ノ多数ナル所以ナリ
 城内生(京城市内ニ住スル者) 城外生(京城市外ニ住スル者) 地方生
 七十三人           十三人            十七人
 官吏ノ子弟          商家ノ子弟          農家ノ子弟(内未詳三人)
 六十八人           三十人            五人
結婚者及未婚者 韓国ノ青年ハ大概十三・四歳ニシテ髪ヲ上ゲ許婚シヤガテ結婚スルノ風アリ、故ニ我ガ生徒中多数ハ許婚者・結婚者ナリ今左表ニ由リテ之ヲ示サン
 結婚者(許婚者モ此ノ中ニ在リ)    未婚者
 五十五人               四十五人
之ヲ級別ニスレバ左ノ如シ
 普通科一年生   同二年生    同三年生
  結婚者 三十人  十七人      九人
  未婚者 十五人  十二人      三人
 附属小学科一年生
  未婚者 十七人
      学課及其ノ配当
学課及其ノ配当ハ左表ノ如シ

図表を画像で表示--

   年級 普通科第一年級       一週教授時間   第二年級          一週教授時間   第三年級              一週教授時間 科目 修身   人倫道徳ノ要旨口授      二       同上             二       同上                 二 読書   読本・書取・読方・訳解    四       同上             四       同上                 四 算術   四則初歩           四       同上             四       同上及分数比例   四 地理   地球総論・万国地理ノ大要   二       万国地理ノ大要及朝鮮地理一班 二       万国地理・商業地理一班・日本朝鮮地理 二 歴史   朝鮮歴史一班・万国地理歴史談 一       同上             一       万国歴史一班・日本歴史大要      二 理科                          博物示教           一       博物示教・物理学一班         二 会話   日本語会話談話説明演説    四       同上             四       同上                 一 作文   漢文交リ短文言文一致体短文  一       同上             一       同上及書簡文記事論説ノ簡易ナル者等  一 唱歌                  一                      一                          一 体操   兵式柔軟           三       同上             三       同上                 三 




附属小学課程表ハ左ノ如シ

図表を画像で表示--

   年級  第一年級            一週教授時間 科目 修身    日常ノ礼儀作方等口授       三 韓語    韓語読本・書取・読方・解訳    七 日本語   日本読本・読方・解訳・書取・会話 五  以下p.79 ページ画像  算術    数学 加減ノ初歩 体操    遊戯柔軟 




      各科教授ノ実際
各科教授ノ実際ト其ノ結果ヲ左ニ説明スベシ
修身 修身ハ何レモ口授ニシテ、一ハ講堂修身ト為シ、一ハ教場修身ト為ス、講堂修身ハ生徒全体ヲ講堂ニ集メテ毎週一回人倫道徳ノ要旨ヨリ処世独立ノ心術方法ヲ示シ、志気ヲ励マシ品性ヲ陶冶ス、堂長専ラ此レニ当ル、教場修身ハ堂長・教諭之ヲ分担シ、講堂修身ノ主意ヲ布演シ、若シクハ立志ニ必要ナル古今人ノ例話ヲ語リテ一ハ其ノ修身道徳ノ実践ヲ励マシ、一ハ新智識ヲ与フルヲ主トス、従来此等ノ口授ヲ為サザリシ時ニ比スレバ、生徒ノ志気ヲ励マシ熱心ヲ進メタル事大ナリトス、殊ニ喧囂ノ風ヲ矯正シ、清潔ヲ重ズルニ至リシガ如キ其功ノ著シキ者ナルヲ信ズ

読書 普通科ニ在リテハ初メニ尋常小学読本ヨリ教授スルガ、彼等ガ漢文ヲ習熟スルガ故ニ其ノ進歩ハ割合ニ早ク、二個月ニシテ一冊ヲ終ルハ困難トスル所ニ非ラズ、故ニ三年生ニ在リテハ高等小学読本ヲ容易ニ読ミ且ツ理会ス、而シテ普通ノ漢字交リ時文ヲ読ミ其ノ意ヲ解ス、読書中会話ハ勿論博物・理科・歴史等ヲモ其ノ時ニ従ツテ教授スルガ故ニ皆ナ之ヲ勉学スルヲ楽ム、故ニ其ノ進歩モ亦他ノ学課ニ比シテ著シキモノアリ、三年生ニハ書籍ヲ貸与スレドモ其他ハ何レモ筆記セシム、故ニ筆記ノ力ハ日本ノ中学生ニモ劣ラザル者ナキニアラズ
 附属小学科ニ於テハ読書ハ之ヲ二分シ、一ハ韓語ノ尋常読本ヲ授ケ一ハ日本語ノ読本ヲ授ク、韓語読本ハ書籍ヲ貸与シ之ニ由リテ教授シ、日本語読本ハ黒板ニ書シテ之ヲ教ヘ然ル後ニ之ヲ筆記セシム、小学科新設以来日尚ホ浅シト雖モ其ノ上達著シキヲ見ル
算術 算術ハ普通一年生ニ在リテハ加減法ヲ教授シ、二年生ニ在リテハ乗除ヲ教授ス、第三年生ニ在リテハ四則分数ヲ教授ス、各級共ニ熱心ニ勉強ス、算術ハ日本ノ学生ニ在リテモ困難ナル科目ノ一ナルガ、韓国諸生ニ取リテハ一層困難ノ科目タルハ明ナリ、然レドモ順序能ク彼等ノ理解力ヲ啓導スル時ハ、算術ノ上達期シ難キニ非ズ、目下我ガ三年生ノ如キ固ヨリ未ダ云フニ足ラズト雖モ、其ノ理解力ノ確実ニシテ運算ノ敏速ナル日本ノ学生ニモ劣ラジト思ハルヽ者ナキニアラズ、二年以上ニハ珠算ヲモ教授ス
理科 理科ニ於テハ先ヅ彼等ヲシテ自然物ニ対スル確実ナル思想ヲ有セシムルヲ期シ、動物・植物ノ初歩ヨリ入リテ、物理・化学・生理ノ一班ヲ示教ス、重モニ手近キ実例ヲ基礎トシ、彼等ノ実験ニ訴ヘ成ルベク理会シ易カランコトヲ期ス、理科ハ聞ク者トシテ彼等ニ新奇ナラザルハナキ故其趣味モ一層深厚ナリ、殊ニ彼等ガ幼少ヨリ見聞シタル迷信・習俗ヲ覚醒スル者ハ理科ニ及ブ者ナシ、サレバ彼等ガ理学ニ関スル談話ヲ喜ビ、之レガ進歩モ割合ニ著シキハ其ノ処ナリト云ハザルベカラス
会話 従来我ガ学堂ニ在リテ普通学ヲ教授スルト称セシモ、其ノ重ナル者ハ日本語会話ニ在リキ、是レ最初ニ在リテハ已ムヲ得ザリシ処
 - 第27巻 p.80 -ページ画像 
ナリトス、然レドモ昨秋以来大ニ此ノ会話ニ力ヲ専用スルノ弊アルヲ覚リシカバ、一体ノ智識ヲ進ムル事ニ注意シ、智識ノ程度ト会話ト相待タシムルヲ謀リ其ノ時間ヲ減少シタリ、固ヨリ教授時間ヲ減少シタルモ会話ノ教授法ニ注意シ、会話ノ種類ヲ撰択シ、多キヲ貪ラシメズ却ツテ之ニ熟セシムルヲ勉メタリ、其結果ハ毫モ会話ノ進歩ニ不満足ヲ感ゼザルノミナラズ、普通学ニ於ケル趣味ヲ進メ、其ノ智識ヲ開キシガ故ニ一体ノ風品ヲモ高メタルヲ得、会話ノ進歩モ亦タ之ヲ以前ニ比シテ更ニ一層ノ進歩ヲ見ルニ至レリ、蓋シ会話ハ各学課教授ノ際ニモ習熟セシムルノ機会アリ、且ツ各種ノ筆記ヲ談話体ニスルガ為メニ、教授時間ノ独リ多シト云フニ非ザルモ、能ク良好ノ結果アル所以ナリト信ズ
作文 作文ハ簡単ナル漢字交リ若シクハ談話体ノ記事論説ヲ綴ラシムルガ次第ニ習熟スルヲ見ル、間々商業上必要ノ書類等ヲモ習熟セシムルヲ謀リ居レリ、書簡文モ簡略ナル者ハ之ヲ綴ルニ困難セザルモノアリ
唱歌 唱歌ハ毎週一時間ヅヽ教授ス、軍歌ニ於イテモ相当ニ唱スルヲ得ルニ至レリ、其ノ一斉ニ唱スル時ニハ日本人ト異ナラザルガ如キ観アリ
体操 体操ハ当守備隊長安東少佐ノ好意ニ由リ、曹長加藤氏・上等兵宮脇氏ノ教授ニ由リテ其ノ進歩著シク、京城中他ニ比例ナシト称セラル
      漢城病院ノ施薬
学堂生徒ノ患者ニ対シテ、漢城病院長隠岐敬次郎氏ハ施薬治療ノ恩恵ヲ与ヘラル、為メニ生徒中ノ患者ハ少ナカラザル幸福ヲ得ツヽアリ、是レ吾人ガ大ニ感謝スル所ナリトス
      本年度ニ於ケル参観ノ名士
昨年度ニ於テハ伊藤侯・渋沢栄一・清浦奎吾・松平正直ノ諸名士来観夫レ夫レ奨励ヲ与ヘラレシガ、本年度ニ於テハ加藤高明・水野遵・日下義雄ノ諸名士来観セラレ大ニ奨励セラレタリ、我ガ学堂ガ内外多難ノ中ニ今日ノ成長アル所以ノ者、実ニ此等諸名士ノ同情ト奨励ニ由ラズンバアラズ、吾人ハ玆ニ謹ンデ其ノ謝意ヲ表ス
      文学会ノ創設
昨秋以来生徒ノ会話ノ練習ヲ図ルト共ニ、其ノ智識ノ開発ノ為メニ文学会ナルモノヲ設ケ、一個月若シクハ二個月ニ一回之ヲ開会シタリシガ、毎回演説・談話・朗読・詩吟・唱歌等アリテ良結果ヲ得タリ
      将来ノ希望
吾人ハ以上ニ我ガ学堂ノ状況ヲ報告シ、玆ニ将来ノ希望一・二ヲ開陳シ、以テ大方ノ同情ヲ得ンコトヲ希望ス、吾人ガ将来ノ希望ノ一ハ京城学堂内ニ先ヅ農・商二個ノ専門科ヲ置ク事是レナリ、商業科・農業科・蚕業科ノ如キ是レ実ニ韓国富強ノ基ニシテ、亦タ諸生独立自活ノ由テ生ズル所タルナリ、又タ附属小学ノ制ヲ拡張シ、遂ニハ京城市内ニ五個以上ノ小学ヲ有スルニ至ランコトヲ望ム、是レ将来有望ノ青年ヲ収容スル最良ノ方法タルナリ、同時ニ模範小学ノ設立ハ韓国文化ノ大源タルベキヲ信ズ、第三ニ吾人ハ地方ニ分校ヲ設立シ、其ノ分校ニ
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ハ試験田ヲ備ヘ、少年子弟ノ教育ヲ図ルト共ニ、地方農事ノ改良発達ヲ謀ラント欲スルナリ、吾人ハ実ニ大方ノ諸君ガ此等ノ三希望ヲ満タシメラルヽノ日アルベキヲ信ジテ疑ハズ、吾人モ亦タ時機ヲ見、案ヲ具シテ天下ニ訴フルノ時アルベキナリ
  明治三十三年三月        大韓国京城 京城学堂


大塚栄三手記(DK270023k-0014)
第27巻 p.81-82 ページ画像

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