デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
16款 其他 6. 明治法律学校(明治大学)
■綱文

第27巻 p.188-192(DK270076k) ページ画像

明治34年7月6日(1901年)

是日当校創立二十年記念式挙行セラル。栄一之ニ臨ミ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK270076k-0001)
第27巻 p.188 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月廿六日 曇夕雨
○上略 名村泰蔵来ル、明治法律学校ノ祝典ニ際シ演説ノ依頼アリ ○下略
   ○中略。
七月六日 雨
○上略 三時明治法律学校卒業証書授与式ニ列シ、一場ノ法律演説ヲ為ス ○下略


明治大学六十年史 同大学編 第二一―二二頁 昭和一五年一一月刊(DK270076k-0002)
第27巻 p.188-189 ページ画像

明治大学六十年史 同大学編  第二一―二二頁 昭和一五年一一月刊
 ○第一章 明治法律学校時代
   第四節 校運の再興と二十年記念式
○上略
 此年 ○明治三四年一月十七日こそは、恰も創立後満二十年の当日なるも、時は学年の半ばにして挙式に不便なりし為め、七月六日を期し卒業証書授与式と併せて祝賀することゝなつた。本校は未だ曾つて国家の保護を受けず、富豪の庇護を仰がず、否其れに止まらず創立当初は当局の猜忌さへ被り、当日岸本校長の追懐の談中にもある如く、『逆境又逆境、逆境相踵ぎて、而して本校幸に此か為に屈撓せず、却て漸次校運の隆盛を致して、玆に満二十年を迎へ』たのである。而して其間、校
 - 第27巻 p.189 -ページ画像 
友既に幾千を数へ、現下の在学生も殆ど二千名に垂んとする盛況を呈したのである。
 式は午後三時に開かれたが、当日の来賓は朝野に亘つて一千名に上り、校長の式辞に次いで卒業証書授与式行はれ、卒業生総代として井上博氏答辞を朗読する。順序は漸く進んで、清浦法相の演説、菊地文相・春木控訴院長の祝辞、東京商業会議所会頭渋沢栄一・東京弁護士会長三好退蔵両氏の演説、校友総代斎藤孝治・校友実業会長名村泰蔵学生総代真砂久雄氏等の祝辞があつた。当日祝電を寄せられたるもの在露国の杉村虎一氏を始めとして六十八通に及び、又全国五十一箇所の校友支部に於ても、夫々祝宴を催し、其の状況は刻々電報に依つて報ぜられ、本校空前の祝典であつた。この時渋沢氏の演説に『日本は次々に法律が発布せられ誠に偉観を呈して居るが、余程上手に之を運用せなくては困る。下手をやると日本は法律倒れになるかも知らぬ』と警句を放つて満場を哄笑せしめた。翌日の都下新聞紙には、二十年記念式の模様と共に『渋沢男の法律観』として掲載したものが多くあつた。


竜門雑誌 第一五八号・第三七―三八頁 明治三四年七月 ○明治法律学校二十年式場に於ける青淵先生の法律演説(DK270076k-0003)
第27巻 p.189-190 ページ画像

竜門雑誌  第一五八号・第三七―三八頁 明治三四年七月
    ○明治法律学校二十年式場に於ける青淵先生の法律演説
明治法律学校は明治十四年一月の創立に係り本年二十年に相当するを以て、本月六日午後三時より紀念式を行ひたり、定刻前より清浦・曾根の各大臣を始め来賓無慮一千二百余名、先づ岸本校長の式辞ありて卒業証書を授与し、更に卒業生に対し訓戒的演説、次に井上教頭の演説、木下幹事の報告あり、来賓清浦法相・春木控訴院長・三好退蔵氏の演説、菊池文相の祝辞朗読等あり、中々盛会なりしが、席上青淵先生の為されたる演説の要領を聞くに左の如し
 唯今岸本校長が、法曹が維新の初めの間には世の中に疎んぜられたと云ふ御言葉がありました、私共此商売人が一時疎んぜられたと云ふことも、岸本君と同じことである、又私共のは今に継続し、其今日もまだ幾分か疎んぜられて居るであらうと思ひます、先づ其愚痴話は第二として、此法曹が維新の初め何故疎せられたと云ふことの理由は、岸本君から弁明があつたが、私は他の方面から見ると尚別に理由があると云ふことを申上げたい、御目出度い御席へ出て斯んな事を申すは、少し殺風景と云ふ嫌があるか知らんが、今ではない既往のことだから、之を申しても皆様の御耳には障らぬと思ふ、元来日本の法律と云ふものは、今も司法大臣が改定律令新律綱領の御話がありましたが、……昔幕府には百箇条と云ふものがあつて、世の中は整頓して居つた、是は今日卒業した御方はちつとも知らない或は知つたお方が有つたら御免を蒙ります、以前の法律の有様を御覧なさい、町奉行若くは勘定奉行の公事方がドウ云ふ政治を執つたか……此中の年を取つた与力同心がドウ云ふ事をしたか、私共は水飲百姓で馬喰町の木賃宿に着いて居つて……裁判所へ出ると云ふことは其与力とか同心とか云ふ人に三朱とか五朱とか出して頼んだものである、即ち此等の殆と下級な者が総て法を弄んで、甚しく金を
 - 第27巻 p.190 -ページ画像 
貪つたが、是等の人が今の何博士・弁護士と同じ価を有して居たのであつた故に、此法律家と云ふものは甚だ疎んぜられた、又商売社会には最も嫌はれた(中略)物は進むに従つて弊を生すると云ふことは、何でも免れませぬが、我々は今日余り法律を密にすると云ふ嫌があると思ひます、即ち日本の現在は或は法律倒れにはなりはせぬかと思はれます、而して此法律の判断には同じ学者中にも、屡々諸説を加味して始終我々実業者を迷はせると云ふことがある、殊に先日の手形の裁判などを御覧なさい、此判断はどうでありますか、此日進月歩の世の中に在て、法律家諸君の論旨を全く一にする訳には行くまいが、成るべく事実に当嵌まるやふの考を願ひたい、是は私は切望して止まんのであります、若し之をして諸君が段々進むに任せて変手古な理屈一方に流れたならば、又昔日の代言みた様に我我は嫌ふかも知れませぬ、もう一つ申上げて置きたいのは、殊に今日卒業せられた諸君に御注意を願ふのは、法律学者の徳性で……即ち智育ばかり進んで行くと徳育は減すると云ふことは、学者に聞きましたが、法律家中には殊に此弊がありはせぬかと思ふ、故に此法曹社会をしてどうぞ道徳は大に進めて行くとも衰へぬと云ふことに御心掛けを願ひたいのであります



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三七年(DK270076k-0004)
第27巻 p.190 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三七年     (渋沢子爵家所蔵)
三月三十日 曇
○上略 午後梅謙次郎氏来訪、法律学校ノ商議員タラン事ヲ依頼セラルニヨリ宿痾全快ノ後回答スヘキ旨ヲ答フ ○下略
   ○後明治四十四年二月ニ至リ、商議員ニ就任ス。(第三編参照)



〔参考〕全国学校沿革史 東都通信社編 第二編・第一五三―一五六頁 大正五年六月刊(DK270076k-0005)
第27巻 p.190-192 ページ画像

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