デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
16款 其他 13. 韓国各地居留民教育施設
■綱文

第27巻 p.231-232(DK270086k) ページ画像

明治40年9月9日(1907年)

是ヨリ先、明治三十九年栄一渡韓ノ途次、六月、京城居留民団立尋常高等小学校新築費トシテ金三千円仁川居留民団立小学校基本金トシテ金五百円、同幼稚園基本金トシテ金二百円、七月、釜山公立小学校及同幼稚園基本財産トシテ金八百円、後更ニ十一月ニ至リ大邱居留民団立尋常高等小学校建築費トシテ金一百円ヲ寄附シタル功ニ依リ、是日銀杯一組ヲ下賜セラル。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK270086k-0001)
第27巻 p.231 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治四〇年九月九日 明治三十九年六月韓国京城居留民団立尋常高等小学校新築費金参千円、同国仁川居留民団立小学校基本金五百円、同幼稚園基本金弐百円、同年七月同国釜山公立学校及幼稚園基本財産金八百円、同年十一月同国大邱居留民団立尋常高等小学校建築費金百円寄附候段、奇特ニ付為其賞銀杯壱組下賜候事       同 ○賞勲局総裁
   ○竜門雑誌第二一八号所載「青淵先生渡韓日誌梗概」ニ、明治三十九年六月京城仁川等ノ各地ヲ歴訪、七月釜山ニ到リ、公立小学校講堂ニ於テ一場ノ講演ヲ試ミタルコトアルヲ見ル。



〔参考〕仁川府史 同府編 第一三一四―一三一七頁 昭和八年一〇月刊(DK270086k-0002)
第27巻 p.231-232 ページ画像

仁川府史 同府編  第一三一四―一三一七頁 昭和八年一〇月刊
 ○第十一編 教育
    第三章 諸学校
○上略
  仁川公立尋常高等小学校  (昭和六年四月末現在)
 位置      府内寺町七番地
 校舎       八六一坪五合
 経費      四四、二九六円
 学級         二二学級
 開校      明治十八年十月
 敷地       四、六三七坪
 生徒数      一、一七五人 (朝鮮人 男一〇 女七)
 職員数         二五人
 本校は朝鮮に於て、釜山校及元山校を除き、最古の歴史をもつてゐ
 - 第27巻 p.232 -ページ画像 
る小学校である。明治十八年当時の居留民有志は児童教育の必要に迫られ、東本願寺の僧侶に委托し、教室を東本願寺支院に置き子女の教育を開始した。これ小学教育の端緒であつて又本校の創立である。当時未だ明治の初年より遠からず、我国に於ても小学校教育漸く其緒につきたる時代であり、当時我仁川は遠き海外の地として、僅かに居留民七百五十内外、漸く妻子同伴するものが出来て来た位であつたので生徒は十名内外、全くの寺小屋教育であつた事は当然であつた。明治二十三年居留地会は、公費をもつて学校拡張維持の方法並に僧侶の外専任教師を置く事を決議し、本願寺西隣地(現今仲町一丁目八番地の一)に家屋・敷地を買収して移転した。同時に始めて校則が出来、廿四年には高等尋常科課程・教科用図書表など選定したが、翌年には文部省令に依つて改正した。二十五年二月には専任校長を置き僧侶の手を離れたのであるが、八ケ年間児童教育に尽瘁された東本願寺僧侶の努力を多とすべきであり且感謝せねばならぬ。其の氏名は朝倉多賀麿石川馨・横山文円・山田芳景の諸氏である。この年御真影並に勅語謄本の御下賜があつた。二十八年更に三十五坪の二階建校舎一棟を増築したが、二十九年就学子弟の増加のため病院附属の病室を借り教室に充てた(元領事館敷地に在り、現今府尹官舎敷地)。三十一年十一月現在の寺町校敷地に建坪二百〇七坪五勺・平家建校舎一棟を新築移転し生徒二百十二名を収容した。この校舎は昭和二年新校舎建築のため取除かれた。敷地は当時共同墓地の一部であつた。同年以前の教職員の氏名を挙げて見れば、前述僧侶達の外に二十五年頃には山田宮市郎・麻川松次郎・長留栄一郎、二六年頃田中銃次郎(校長)・小池忠太郎・岡庚次郎・三原アサ、以後三十一年まで橋本信太郎(校長)・萩原政雄河島敏・千歳喜平・井上亥蔵・槙俊治(校長)・板倉タネ・三城敬蔵(校長)・加藤真一の諸氏である。
 三十五年九月工を起し、二階校舎一棟を建造し、翌三十六年五月竣工、三十八年八教室を有する二階建校舎一棟を新築した。これは後ちに商業専修学校々舎となり、現在の商業学校現地位に移る迄の校舎であつた。同年四月始めて出来た補習科、修業年二ケ年、高等小学校卒業生を収容した。
 三十九年八月十七日、兼ねて在韓国教育界の宿題であつた在外指定学校の認可があつた。これで教員及卒業生は、内地小学校同等に取扱はれる事になつたのである。
 明治三十九年、四十年の年は、仁川の最も急激に膨脹した年であつて、日露戦役の結果である。戦前の三十六年の在校生は四〇二人であるが、戦後の三十九年には一躍倍以上の九一〇人となり、四十年には一千名を突破してゐる。職員も三十六年は十三名であるが、三十九年には二十三名であり、四十年には三十名になつてゐる。 ○下略