デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
16款 其他 16. 静岡教育会
■綱文

第27巻 p.235-245(DK270089k) ページ画像

明治41年11月15日(1908年)

是日栄一、静岡市物産陳列館ニ於テ開催セラレタル当会第九回講演会ニ臨ミ「維新前後ニ於ケル教育上ノ変遷」ト題シ一場ノ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第二四六号・第七二頁 明治四一年一一月 青淵先生の静岡行(DK270089k-0001)
第27巻 p.235 ページ画像

竜門雑誌  第二四六号・第七二頁 明治四一年一一月
○青淵先生の静岡行 青淵先生は静岡有志の懇請に応じて同市に赴かれ、本月十五日午後二時より同市物産陳列館に於て開会せられたる同市教育会第九回講演会に臨み、「維新前後に於ける教育上の変遷」なる題下に一時間半に亘る講演を為し、午後は四時より商業学校生徒の会合に臨みて一場の訓諭的演説を為し、終て浮月楼に催ふせる園遊会に臨まれたり。


竜門雑誌 第二五〇号・第八―二二頁 明治四二年三月 ○維新前後に於ける教育上の変遷(青淵先生)(DK270089k-0002)
第27巻 p.235-245 ページ画像

竜門雑誌  第二五〇号・第八―二二頁 明治四二年三月
    ○維新前後に於ける教育上の変遷 (青淵先生)
臨場の貴紳及会員諸君、唯今長島市長さんから御紹介を戴きました私が渋沢でございます、四十年前に御当地には一年計り住居致して居りましたから、御若い貴君方は一向御承知はござりますまいけれども、私は静岡市は殆ど第二の故郷位に思つて居るのでございます、而して此静岡市に住居しやうと考へましたのは、当時現在の小石川の小日向に住居為さつて御座る徳川公爵が、維新以後御当地の宝台寺でございましたか宝台院と申ましたか、其寺院に幽閉して居られた頃であつたのでございます、此徳川公爵には私は種々深い縁故のある為めに、後には何れに行くか解りませぬであつたけれども、暫らくは御居での御様子でしたから、先づ駿河に参つた御様子を拝見しやうと云ふ考へで殆ど永住する心で参りましたから、居住したのは一年でござりまするけれども、心丈けは長く居らうと思つた故に、別して故郷の感じが致す訳でございます、然るに之れはもう四十年の昔であつて、御識りの御方も寥々と極く御少なくなつた様な事ですが、此程来市長さんから此教育会に就て、右様な古い縁故もあるから一日罷出て愚見を申述べる様にと云ふ御相談を得ましたに付いて、喜んで参上致さうと御受けを致して、即ち今日玆に出ました訳でございます、が御聞及びも下さいます通り私は全くの実業者で、きたない言葉を使へば素町人でございます、学者でもなければ弁士でもない、斯かる多数の御集りに出て教育上の御話などをする事は、平たく云へば柄にない、商売人らしくないことだと御笑ひになる御方もありませう。
けれども元来此商売人は無暗に首を引込まかして、何も知りませぬ何も存じませぬと云ひ、又そうなければならぬ様に思つて居つた、之を第一に打破るべしと私は主張して居るので、政事家・学者計りが世の中の道理を知つて居つて、実業家が何も知らぬと云ふ解釈が抑々間違
 - 第27巻 p.236 -ページ画像 
つて居る、維新以前は兎も角もさう云ふ習慣を以て、商工業者は人の前に出て物を云つた所が余り云ひ甲斐も無いと云つて、尻込みする事を一つの智恵の如くに解釈して、段々段々に吾れ自ら我が地位を低め吾れ自ら人の軽蔑を受ける様に成行つた、商工業者の地位の低まつたのは、他の方面から蔑視せられた理由もあるけれども、己れ自身が卑下したと云ふのが一の原因に相成たと思ふのでございます、凡そ国家に必要なるものは、種々なる勢力の平均である、種々なる勢力に依つて其国の健全は保つて行くものである、例へば政事上の勢力、教育上の勢力、軍事上の勢力、総て是等のものが無ければ、其国の元気は決して振ふものでございませぬ、併し是等の元気の完全に振ふには、今一つの大いなる勢力が要る、是は何であるか、即ち此実業上の勢力です、克く海外貿易に就て誰れも唱ふる言葉でありますが、商売上の力の外国に振つて居られるのは国旗の光に拠ると云ひます、是は勿論其通りである、国旗の光が不鮮明であり国旗の光が発揚せなんだら、貿易上の力を外国に振ふ事は出来ませぬ、併し反対なる言葉を以て云へば、其国旗の光は、実業上の力が国旗に対して光を与へるものであると云ふ事を考へなければならぬのであります、若し此実業上の力が微弱であつたならば、決して国旗の光は輝くものではない、国旗計りが唯単に光気を海外に発揚する事は出来ない、又鉄砲丸の克く走るのは内に富力と云ふものが充実してからでなければ可かぬと云ふ事は、立派に申されるのであります、故に前に申す各種の勢力に実業上の勢力が伴はなければ、決して他の各種の勢力をして完全たらしむる事は出来ぬと申し得られる、果して然らば私も、亦玆に御集りの方々も、多くは実業家で居らせられると思ひますが、御互ひに国家の元気を十分に振興する所の重大なる任務を負ふ地位に居るのでございますから、其実業家が唯だ、吾々は無学である、何も知らんと尻込するのは大いに間違ひである、是はもう昔の事である、今日は矢張り政事家・軍人学者・法律家、是等の人々と伍を為して、敢て争ふ訳ではありませぬが、道理ある所に向つては互ひに相折衝し相論議して、国家の経営を進めると云ふ事にならなければならぬと考へるのでございます、私が玆に商売人であり乍ら事々しく演説を致すに就て、申訳の為めに斯う云ふ事を申上げるのでございませぬ、御地などでは商売人が演壇に上つて饒舌べる事を御嫌ひになるかも知れぬが、勿論無暗に饒舌るのも宜くない、併乍ら唯々引込む事計り考へずに、相当の見識を持ち相当の論弁を以つて、吾れに蓄へて居る意見はドンドン世の中に発表する丈けの勇気を御持ちにならむ事を、商売人の御方々に先づ第一に御勧告申すのでございます。
私が玆に申上げて見たいと思ふのは、第一に先づ教育上の事に就きましての愚見を述べる積りでござります、但し私は教育家ではございませぬし、学者でもないから、私の申す事は俗に云ふ牽強の議論で、手前極めと謗られるかも知れませぬ、が私は自ら信ずる処がある、決して唯の牽強な議論ではない、今日の事態学ぶ人も教へる人も宜しく、御注意あれかしと希望致して述べるのでございます、而して玆に申上げて見たいのは此教育上の移り変りです、教育と云ふ事は文明が進ま
 - 第27巻 p.237 -ページ画像 
ぬでも猶ほ決して無くては済まぬものであつて、維新以前にも教育は相当な制度を以て行はれたものである、併し維新以前の教育は度合が大変に違つて居るのであります、御集りの中には維新以前の教育を受けた御方は殆ど御少ない事でございませう、又維新以前の教育は士族以上に関はる教育と、平民に属する教育とに殆ど劃然と差別せられて農工商などに於ては、先づ大概漢籍などは普通読むべきものではないとしてあつたのでございます、或は地方に於ても一村若くは数村の間に、物持とか豪家とか、又は様子の変つた人とか云ふのが多少漢学を修めた事はありましたけれども、一般の平民は俗に申す往来ものと云ふ本、例へば商売往来とか大和路往来とか庭訓往来とか云ふ様な、俗文と漢文と混合した様な簡易なもので大抵教育と云ふものは了つたものである、そして又其学校は何う云ふ風になつて居つたかと申せば、所謂寺小屋と称へまして、多くは御寺、或は名主様の家で教へたので勿論修学年限などもチヤンと定まつたものではない、又課程がチヤンと立つたでもない、習字と読書と合せて少々教へる、算術も俗に云ふ八算とか見一とか云ふものです、又塵劫記と云ふものがありました、是は算術の書物である、普通の教育と云ふものは殆ど此位で了つたのです。
更に一歩を進んだる教育は多く士族にある教育で、此方は漢籍に関はる修行を主としてやつたのでございます、又ずつと進めば東京に聖堂と云ふものがありました、併し此聖堂といふものは天下を挙げて唯一つしか無いのに、其聖堂に於て修学する生徒は、何の位あるかと云ふと、当時聖堂は寄宿寮と申し其処に寄宿して修業する者と、書生寮と云ふものと二つになつて居りましたが、其寄宿寮・書生寮を合せて僅かに百人に足らぬ人が修学して居つたに過ぎないので、以て其寥々振はざる事を証拠立てられる様な訳であつた、故に幕府の士若くは各藩の極く秀俊の誉れ高き人が稀に出て其聖堂に修学する、若くは其寮に寄宿する、而して其学ぶ学問は精神的のもので、主として孝悌忠信仁義道徳を修めたものであるが、併し其順序としては四書五経、或は小学・近思録・孝経、ずつと文章物になつて左伝とか史記とか漢書とか云ふものに進んで行く、蓋し今云ふ所の武士道の修養と云ふ事を主義として、苟くも此漢籍を読む者は功利功名に心を委ねては可かぬ、利益と云ふ事は殆どもう心に顧みては宜くないと云ふ主義を以て教へられたのであります、而して其主なる四書の第一番に唱へられる大学、其大学の三綱領と云ふものは、如何なる主義で教へられてあるかと云ふと『大学の道は明徳を明らかにするに在り、民を新にするに在り、至善に止るに在り』と教へられてある、其次に何とあるかと云ふと、修身斉家治国平天下、即ち『心を正しうして而して後に身修まる、身修まつて而して後に家斉ふ、家斉ひて而して后に国治まる、国治まりて而して后に天下平らかなり』と教へてある、初めは至つて消極な質朴な教へが主になつて居りますけれども、其教への直ぐ次には治国平天下とあつて、頗る放漫なる心を生ぜしむるのである、玆に於て漢学と云ふものは、人の心をして一方からは至つて内輪に勤勉にすると同時に、一方からは大変に革命心を惹き起させると云ふ訳になる、漢学
 - 第27巻 p.238 -ページ画像 
に革命心が附随すると云ふのは其理由からである、何故なれば修身斉家治国平天下と云つて、先づ身を修めるに当つては今の孝悌忠信仁義礼智、即ち朋友に交つては信ならん事を欲し、君に仕へては忠ならん事を欲し、親に仕へては孝ならん事を欲し、君となつては仁ならん事を欲し、父となつては慈ならん事を欲する、是れ迄は誠に申分がない実に是等は修身の要訣であります、そうして身が修まつたならば家を斉へねばならぬ、家を斉へるには寡妻に則り兄弟に及ぶと、是は書経にありますと思ひます、其家が斉つた後は何うかと云ふと今度は国を治めねばならぬ、一国の政治を満足に布かにやならぬ、更に進んで天下を平らかにせにやならぬ、此天下を平らかにすると云ふ事は身を修め家を斉へる事とはまるで違つた事であるけれども、天下を平らかにしなければ十分に学問を仕上げる事は出来ないと教へてある、故に曰く、漢学の教育は革命心を誘導すると斯う私は云ふのである、維新の大改革は何う云ふ所から起つたと云ふたら、詰り此漢学的文教が大層に人の心に胚胎して居つたので、其処へ持つて参つて丁度外交の問題が起り、尊王と云ふ事が加はつて来て、遂に千年に近く伝はつた幕府は代つて此王政に移つたのですが、蓋し其改革の原因を質すと、今申す漢学が強く解釈されて革命を誘導したのが抑々其大なるものであると云ふ事の様に思はれるのです。ですから維新以前に学問に従事した人は順序立つたる課程を踏むなどと云ふ事は固よりありませぬ、故に其人物が或る点から云ふと甚だ不規則である、併し又或る点には意外に発達する事が出来た、一身の修養に於ては、今時代の教育法よりは若し其人の才能が優れて居ると、途方もなく広く展び得ると云ふ事が出来た、現在元勲とか元老とか云ふ老人方は政事上大いに発達し、而して其名声を今猶ほ繋いで居らるゝ御方々などは、前に申す教育法から殊に優れて居る点が不規則に発達した人だと申上げて宜からうと私は思ふのである。
是が維新以前の教育の大体であつたのです、四十年以前は全く此方法でやつて居つたもので、教へる人教へられる人、皆斯う云ふ教育の主義で承継して来つたのであります、故に維新早々の間は矢張り旧幕の制度が先以て主意となつて始まりましたが、扨て海外の教育の主義は全く之に反して居つた、而かも其教育の範囲が今申す様に士分以上の教育と平民に関する教育と懸隔して居る様な事はない、全く平等普遍の教育が施されて、而して其趣旨が身を修め芸を覚えると云ふだけに止まつて天下を平らかにするなどと云ふ事は決して口にしない、詰り天下と云ふものは然く容易に論じられるものではないと云ふ事に相成る、此教育法が段々と日本に伝はつて来て遂に小学・中学其他の専門学校が段々と設置せられる事に相成つたのでございます、斯くの如く西洋の主義が輸入されて玆に教育上の大波瀾を生じたのでありますが同じ西洋式になりましたる教育法に致しても、或は独逸の主義を盛にするとか、或は英吉利の主義に専ら拠るとか云ふ様に、時々多少の遷り変りはありました、又ありつゝ居る様でございますけれども、大別して維新前と維新後とは、全く教育の主義が反対になつて居る、維新以後になつては維新前の主義の如くに、己を修める人が直様人を治め
 - 第27巻 p.239 -ページ画像 
ると云ふ事を主として教を授けると云ふ事は無くなつて、皆技術を以て人の進み得る様な、誠に時務に適合した教育法に相成つた、此新旧教育の差は大変に多い、大変に多くて大変に改良した、此改良したと云ふ事に対しては、甚だ喜ぶべき事と申上げねばならぬのである、而して爾来二・三十年の間に、此教育の進歩が段々に一般国民の智恵を進め、総ての順序を作り成して、国家をして今日の隆盛を致さしむる様に相成つたのですから、此教育の変遷は誠に吾々国民として大いに喜び、大に推尊せねばならぬ事と思ひますのです、一口に之を約めて申せば、維新以前の教育は或る場合に於ては豪い人を出し得たかも知れぬけれども、斯くの如き粗つぽい教育法は決して之を永続すべきものではない、幸ひに現在の教育法が行はれて、即ち国家をして斯くの如く富強を得せしむる様にしたのは、其根本を云つたならば教育の力であると、忝けなく思はなければならぬのであります、が玆に一つ私は今の教育法に対して、其趣意は誠に喜ばしいけれども、少し批難を申したい点が見ゆるのでございます、其事を更に玆に申述べて、教育界に御従事の諸君の御参考に供したいと考へるのでございます。
凡そ物事は何事に限らず、利益と云ふものには必ず弊害の伴ふものである、殊に其利益の多い程弊害が強くなる、是は独り教育計りではない、一般の事物に免れぬものである、例へば電気の如き一瞬千里を走るものがある、是は申迄も無く種々様々な物に応用されて其利益は甚だ大だが、併し若し御互ひがちよいと此電気に触れたならば何うか、触れるが最後直きに人命を断つて仕舞ふ、是は大なる便利に附帯して居る所の大なる危害である、又鉄道もさうです、静岡から乗れば半日経たぬ内に東京に着く、非常に便利なものであるけれども、若し過まつてあの上に倒れたならば、忽ちにして引殺されて仕舞はなければならぬ、と云つて是が為めに鉄道も電気も廃める訳には行かぬ、蓋し有利なる物に損害の伴ふのは、猶ほ彼の様な物質的な物にも免れないのである、又此経済上の事に就て考へて見ますと、後に私は実業家の本分たる経済上の事も少し申上げて見たいと思ひますが、自分等は此日本の実業の発達を図るには個人のみの力では行かぬ、合本法が甚だ必要である、合本法が必要であるとすれば会社法が最も肝要であると斯う考へまして、明治の初めから会社と云ふ事に就ては微力を尽しましたのです、今日から顧みると、其尽力は些少ながら効顕があらはれて実業上に就ては此会社と云ふ物が重に其発達を助けて居る、例を挙げて云へば、当時からずつと続いて居る金融会社として正金銀行もある日本銀行もある、或は勧業銀行であるとか、興業銀行であるとか、又国立銀行と云ふもの、此国立銀行は既に性質が改まつて私立になりましたけれども、兎に角皆合本組織たらざるはない、又今日は買収されまして政府のものになりましたが各鉄道、是亦大抵会社に依つて陸上の交通機関は成立つて居た、然らば海上の事は何うであるか、是も矢張り皆合本会社でやつて居る、其他各工業も同様である、斯くの如く物質的の進歩は大抵此合本法で進んで行つたとすれば、此会社の利益は大変嘉すべきものである、然るに此会社に弊害が無かつたかと云ふと中々然うでない、頗る弊害が多い、御承知でもありませうが、一昨
 - 第27巻 p.240 -ページ画像 
年頃の会社の状態は何うでありましたか、私は会社好きであるが、其会社好きの私でさへも、殆んど身震ひのする程嫌になつて仕舞つた、唯だ権利株々々々と訳も無く騒ぎ立てゝ、愈々となると何れも是も片端から潰れて仕舞ふ、実に厭ふべき有様であつた、是は会社の利益に伴ふ弊害で、利益に伴ふ弊害は何に就ても免れぬものである、是等の例を申せばまだ幾つもありますが、己れの本領として居る株式会社に於ても、左様に利益と弊害と相伴ふものであると云ふ事を申上げるのである、夫れと同様に教育と云ふものも、利益に伴ふ弊害があると云ふ事を私は申上げて見たいのである。
前にも申す通り三・四十年の歳月を経、教育の段々進歩して行くに伴れて、人文も啓け国家の富も増し、事業は発達する、総て教育の力だと云ふ事は決して争ふべからざる事実である、其事実と共に此教育は段々に重みが加つて参りまするからして、学んだ人と未だ其教育の半途にある人とは、世間の眼の附け方、人の待遇が違ふと云ふ事は事実である、丁度幕府時代の教育を武士的に受けた人が、維新後俄かに発達した時に総て此政事に人気が向つて行つて其人を羨やむと云ふではないでせうが、政事家なる者が多くして、悪く申せば猫も杓子も政治家であつた、夫れと同じ様に近頃此教育と云ふ物に対する観念を見ますると、誰れでも彼れでも残らず皆最高等なる教育を受けねばならぬと云ふ様な考を以て、無暗に進んで行くと云ふ様になつて居る、是は私は喜ぶべき所もあるが、亦憂ふべき所が甚だ多いと云はなければならぬと思ふ、而して学生の希望がさう云ふ風に傾いて来ると同時に需要が大変に多くなり、即ち学生の増加すると同時に教師も大変に増加した、其教師が昔日は極く精撰せられたが、増加した教師も全く同様であるかと云ふと、中々さうは行かない、学生も粗製濫造なれば教師も粗製濫造である、殆ど此粗製濫造で学生と教師が相競ふて行くと云ふ弊害を、今日は惹起して参つたと申上げねばならぬ、且つ今日の教育は小学・中学、それから高等学校・専門学校と云ふ順序に進て行くのだが、今の学生は決して総ての部分が、其階級で世の中の役に立てやうと云ふ様に組立てられては居るまいと思ふのであります、例へば中学を了つてそれで世の中に働き出すべき丈けの事を、中学では教へて行かなければならぬものと思ふ、必ずしも中学を了つて大学に行かなければならぬと云ふものではない、一つ一つに役に立つべき趣意で修学すべきものである思ふのである、然るに今日の学生界の風潮を見ますると、何うもそれでは人が承知しない、是非最高級迄了りたいと云ふ希望が総てに多い、多いからして、学問の有様が丁度一方では予備校の様な有様になつて進む事を求める、天下を挙げて皆大学生でなければ承知しないと云ふ様な訳になる、是は果して学問の原則であるか、若くは一時の風潮で需要過多を示すものであるか、と云ふ事を攻究したいと思ふ。
而して其弊害は何うかと云ふと、今申す通り誰も彼も高等教育を受けたい受けたいと急るから、拠ろ無く一方からは其需要を満たそうとする、満たそうとするから、玆に粗製濫造相継ぐと云ふ事になり、教師も粗末な者が出来れば、生徒も十分に力は進まぬと云ふ事になつて来
 - 第27巻 p.241 -ページ画像 
る、今日の教育上の弊害は、私の観察では今申した点が甚だ強いものではないかと虞れるのであります、夫れからして生ずる弊害で更に恐ろしいことは、維新以前の教育は師弟の関係と云ふものは甚だ密なものであつた、故に其心の教育と云ふものが殆ど骨髄となつて居つて、教師は其率ゐて居る弟子に始終学問を教へ、学術を習はせるのみならず、精神上の感化を与へると云ふ事を、第一の主義として居つたものである、又第一の務として居つたものである、何れの家塾に於ても其教師の人格の高くて善い程、立派な弟子が輩出すると云ふ有様であつた、一は唯書物を教へて古今の事理に通暁させる、或は字義を了解させ、書籍を習はせると云ふのみならず、合せて其人格を養成すると云ふのが師弟間の関係であつた、宜なり、一字の師も其恩義には覚えず下拝す、師弟の間は殆ど親子同様の関係を為したのである、然るに今日の師弟の関係は如何であるか、極く最上等の教師であつても、決して昔日の漢学教師の子弟に対する所の篤い情誼は其間に保続しかねて居る、けれども今風の教師でも、東京などで優れた人、例へば法律・工学、若しくは応用化学・理学などの様なる、大先生達の弟子に対する間柄は、決して路傍の人の如き観は為して居りませぬ、相当に其教師の風を其弟子たる者が学ばうと考へる、一言一行を始終心して我が身に移す様にして居るから、昔日程ではないけれども、稍や良い、併し是が追々下落して、詰り廉い教師になると、東京に寄席と云ふものがあります、御当地にも定めしございませうが、其寄席に落語家や講釈師などゝ云ふ者が出で来る、生徒は此教員を寄席に出る落語家若くは講釈師と心得て居る、一生の師所ではない、殆ど路傍の人の如く師弟の関係は極く浅くなつて仕舞つて居ると云ふ有様である、是は決して今日の教育上、看過すべからざる事であると思ふ、頗る憂ふべき事で、斯かる有様では、教育の神聖も或は保ち得られぬだらうと痛言致したいと思ふのでございます。畢竟さう云ふ有様の段々増長して参りますると云ふは、求める学生の考へも間違つて居れば、与へる教師の思案も間違つて居るので、遂に相率ゐて此教育をして、追々下落せしむる様になりはしないかと思ひます、前にも申す通り、教育は実に国家の繁盛を生みました所の最も嘉ぶべき、最も敬ふべきものであるけれども、併し若し此弊をして追々増長せしめたならば、教育は蓋し大いなる妨碍物になる、学んだ人も左迄の効能が無いと云ふ様に、行き走らぬとも申されませぬと虞れるのであります、幸ひに此教育会の諸君が私の婆心を理ありと思召しますならば、何うぞ御当地の教育の方法に就ても御考へ合されまして、教育の階級のみに重きを置いて、唯だ上に進みたいと云ふ観念計りを持たせぬ様に、其分に応じて学んだ丈けが十分に行ひ得ると云ふ度合に止まると云ふ様に勉めさせたい、同時に学ぶ人教へる人の間を完全なる情愛を継続して、師たる者は弟子を十分感化せしむる丈けの力を以て、教育の神聖を保つて行きたいと考へるのでござりまするで、私は維新前後の教育の遷り変りは甚だ喜ばしい事であるには違ひないが其喜ぶべきものゝ中に又憂ふべきものがあると云ふ事を気遣ひまするに依つて、玆に一言申上げる次第であります。
 - 第27巻 p.242 -ページ画像 
教育会に対して申上げる事は、唯今述べ来つた愚見に止まりまするが今日此席に出まするに就て、市長さんから折角御前が東京から来たのであるから、目下の経済上に就て如何なる考へを持つか、此処に集まつた人々は多く実業界の諸君である故に、経済上の事に就て意見が、述べ得るならば何うぞ一言聴きたいものだと云ふ仰せがありましたから、別に左様な考案を以て此演壇に登つた訳でもありませぬから、特に述立てる事もございませぬけれども、是は平日私の経営して居る事でありますから、現今の有様は何うである、未来は斯うなるだらうと云ふ自分だけの考へを玆に申上げて、臨場の実業家諸君の御参考に供しやうと思ふのでござります。
教育の点に就て申上げましたと同様に、実業界に対しても時々小言もあり、苦情も生じまするけれども、併し年一年に進んで参つたと云ふ事は事実でございます、古い昔を考へませぬでも、二十七八年の日清戦争以後から十四五年の間の経過を見ましても、其進歩は甚だ大なるものである、若し四十年の昔を回想しましたならば、その様な微弱なるものであつたかと今の御人には分らぬ位なものである、現に私は其頃御当地に参つて、一年居る間に自分が何う云ふ考へをしたかと云ふと、先刻株式会社の事に就て、利益に伴つて弊害が来るものだと云ふ事を申しましたが、此合本制度が日本の事業を進める唯一の方法であると云ふ事は、私が学者でも無く又さう云ふ実験も持つて居ませなんだけれども、一年計り欧羅巴に居りまして、仏蘭西や英吉利の話を聞き、又聊か見て帰つたので、是非共日本に此会社組織を起したいものだと云ふ事を深く期念しました、けれども自分も微力なり、世間の様子は知らず、何うしてやつて可いか解らなんだが、其際静岡に参りまして……静岡は未だ藩政で、政事は大久保一翁・織田和泉・服部綾雄などゝ云ふ人が執つて居られた、其人々に自分の愚見を申述べて、藩の役人をするよりは、寧ろ商売上の組織を作りて見たいと云ふので、一つ合本組織を設立して見たいと云ふ事を主張したが、併し其頃は此静岡の町に、会社を起すから資本を出して呉れと頼んでも、まあ見合せやうと云ふ人計りで、おいそれと金を出そふと云ふ人は無かつた、所が色々奔走した結果、幸ひ其頃石高拝借と申して藩で政府から借りた金札がありましたから、之を融通して貰ひ、之を主としてそれに地の金を加へて、そして合本制度の商社様のものを起したのが、私の御当地に一年居る間の仕事であつたのでございます、今日は其時分御目に掛つた人は此席に森理七さんと云ふ御人が居らるゝ位で、其他は皆其人の子とか孫とか云ふ位の人でございます、其時の仕事は、申上げる程のこともない誠に僅かな事業でございましたが、丁度あの紺屋町の、今は浮月と云ふ料理店になつて居るさうでございますが、彼処がもと駿府の御代官屋敷と云つたので、其処へ其商会の事務所を開いて事業を経営致したのでございます、其後私は東京に出まして、四五年の間は政府の役人を勤め、それから明治六年に銀行者に成つたと云ふのが私の経歴でございます、其時分の有様を回顧して見ますと事物の進歩と云ふものは実に驚くべきものであります、是も前に申した教育や政治等の総ての助けが、吾々の実業をして左様に発達せしめたもの
 - 第27巻 p.243 -ページ画像 
と甚だ喜んで居る次第であります。
明治三十七八年の大戦役と云ふものに就ては、困難もあつたけれども大いに力は附いた、喜憂種々の情態であつて、兎に角容易ならぬ難関と申さねばならぬのでありました、此戦後に於て、御互ひ実業家も政治家も共に国力の観察に於て、何うしても少しく解釈を誤まつて居つたと云ふ事が事実であつたらうと思ふのです、其誤りが基になつて、誤りが誤り伝へて、昨年から此春に掛けて此経済界の有様が甚だ沈鬱に陥つたものであらうと私は思ふのです、で前にも申す通り維新以来国力は追々進んでは参りましたが、併し三十七八年の国難は、実に容易ならぬ事であつたらうと思ふ、且つさう思ふのみならず、之に対して充分に軍費を供給すると云ふ事は中々の難事である、或は国民の力で都合よく出来得るものであらうかといふ位迄に懸念した、独り私が懸念した計りでない、国を挙げて左様であつたらうと思ふ、所が一方に於ては実際力が進んで居つたには違ひありませぬが、一方に於ても金融と云ふものは妙なもので、例へば公債に応ずると、其応じた公債の金が直ぐ又軍費として支払はれる、其支払はれた金が又引続いて第二の公債に供用し得られると云ふ様に、一つの力が二つにも三つにも見えると云ふ事に相成つたのであります、そこで軍費に対する供給が思ひの外に克く出来た、即ち第六回迄の国庫債券が、何時も都合好く募集し得られたと云ふ事は、国民にそれ程力が俄かに増したと云ふのではなくて、軍費の支出が自ら相助けて、景気が景気を生じて右様に相応ずる事が出来たのであつた、殊に戦争は幸に連戦連勝、遂に平和が克復すると云ふ様になつた、償金は取れんでも、先づ満足なる平和談判が整つた、引続いてそれから所謂戦後経営と云ふ事が三十八年・九年に生じて参つた、此三十八年・九年の戦後経営と云ふに当つて、民間では左様に国力の進んだと云ふ事を恃みて、百事速やかに為さねばならぬと云ふ所から、会社熱勃興と相成つた、又政府でも数回の国庫債券の募集に思ひの外民力が進んで行つたからして、大抵国力も堪え得るに違ひないと早くも断案を下して、種々なる設備をした、軍備にせよ交通機関にせよ、総ての事に対して厖大なる経営を始めたのである、然るに戦争の関係に依つて世の中の需要が俄に増したと云ふのは、是は自然に増したのではなくて、戦争の為めに一部分の費消が急に強くなり、是に伴つて供給が増したものであるのに、永久斯の如きものとの観察をしたからして、其原因が止んだ暁には必ず供給過多に陥らざるを得ぬのであります、是は独り東洋の我が国計りではない、日本と露西亜との一時の費消、全世界に向つて供給過多の有様を来さしめたのである、玆に於て戦争後の不景気は甚だしいことゝなつた、亜米利加の不景気も日露戦争の影響が其大部分を占めて居る、欧羅巴の不景気もさうである、其処迄は十分な観察が行届かずに、一昨年来誰も彼も一時の人気に乗じて此事もやりたい彼の事も拡張したいと云ふ様に、非常に増長に増長を重ねて行つて、是と同時に政事上にも総ての設備を完全にしたいとなつて、国費は益々多端になつて来た。
そこで戦争の際には日本に対しては欧羅巴も亜米利加も同情を表して独り軍費の供給に力を添えて呉れたのみならず、一挙一動日本の為す
 - 第27巻 p.244 -ページ画像 
事は彼等の間に賞讚されて居つた有様が、三十九年・四十年と一二年の間に殆ど景況を転じて、危険極まる経済だ、注意すべき行動だと云ふ様な観念を日本に対して惹起して来た、今日は幾らか回復して来たか知れませぬが、戦時中数回募集した公債などは誠に都合好く整つたにも拘らず、戦後になつては、夫れ等の国々も日本の財政に対しては大に懸念を抱くと云ふ迄に立到つたのは、前に申す様な観察を誤まつた我官民の行動が、重なる原因に相成つたのであらうと思ふのでございます、で吾々共は銀行者としても亦実業界の者としても、数回政府の人々に向つて、此誤解を解く様にせねば可かぬ、而して種々なる希望は可かぬ、余り色々な事をやらつしやるよりは、第一に外国人に懸念を抱かれない様にせにやならぬ、外国人に愛想をつかされぬ様にするには何うすれば可いかと云ふと、即ち国債の始末にある、之を大いなる注意を以て完全に整理すると云ふ事を第一着にしたら宜からうと云ふ事を、吾々銀行者は一致して申立てたのでございます、未だ其事柄が果して事実に出現したとは申されませぬが、今日の内閣の人々が吾々の申したに依つて気が附いたのではありますまいけれども、大に悟る所があつたかして、公債整理と云ふ事は殆ど現内閣の第一の手段として、是非励行せねばならぬと云ふ事を考へて居らるゝ様に見えますのです、やがて開かるゝ議会にも、それが一つの予算となり又議案となつて、定めて総ての政党が之を協賛して、必ず安心な施設が成立つであらうと私共に期待して居りますのです、若しさう相成りまして此事が一時の話でなくて目的通りに行はれましたならば、必ず懸念した海外の人々もそれには及ばぬと云ふ事になりませう、既に已にさう云ふ考へを持ちかけた様でありますけれども、尚更斯う云ふ事には意を用うるであらうと思ひます。従来吾々が希望して居りまするのは、是非共此日本を進めて行くには、真正なる開国をする外はないと云ふ事である、それが又実行されて今日の如く開けて参つたのでありますが、尚ほなるべくは海外と資力を共通して、或る事業に就ては内外相一致して進んで行く様にしたいものである、就中英吉利などとは攻守同盟の国であるからして、出来得べくんば種々なる事業も協同してやる様にしたい、即ち政事上の日英同盟のみでなしに、実業上の日英同盟をしたい、是等の望みは政事家も実業家も、数年来念頭を離さずに其方針を採り来りつゝあるのでございます、併し前に申す様な戦後経営に就て彼等外国人に大いなる疑惑を惹起させましてから、夫れ等の事も少しく頓挫せざるを得ぬのでございます、幸ひ今日は廟議が吾々の希望に一致して、財政は整理する、公債は是非償還の方法を確実に立てると云ふ事が明らかになり、是に依つて段々海外の信用も恢復する様に相成つた、勿論是ばかりではありますまい、他にも夫々理由がありませうけれども、昨年からして此春に掛けての有様も、近来に到つては大いに事態を変し来つた様に考へられます、それが幸ひに事実であつたならば、前に希望する実業上の同盟・金融の共通、是等の事は期して待たるゝ様にならうかと思ひます、併乍ら三十八・九年若くは昨年頃迄の戦後の仕事と云ふものは、官民共に少しく眩惑して幾らか方針を誤まつたと云ふ事を覚悟して居らなければならぬのですから
 - 第27巻 p.245 -ページ画像 
内を緊縮して所謂勤倹力行と云ふ事は、今日の場合何うしても努めなければならぬのであります、果して之を数年継続し得たならば、其間に我が国の実力も真に増して、更に大いに発展するの時機が到来するのであらうと思ふ、又さうなければならぬと思ふ。
丁度此有様は既往から繰返して考へますと、明治廿七年以後の戦後経営時代にも吾々は、余り軍備其他に設備を増す事は宜しくない、なる丈け実業上に力を入れて貰ひたい、戦争に力を入れた有様を以て、唯だ政事的にのみ力を増して行く事は宜しくないと云ふ事を、始終申して居りましたのです、所が当時は吾々の希望通りには行かないで、陸海軍共に軍備が大に増した、従つて国費も多くなる、丁度三十八九年の戦役と同じ様な姿で、総て供給過多となつたからして、日清戦後の事も三十一年頃は大変経済界が不如意であつて、或は此末如何に相成るだらうと云ふ杞憂を抱いた事もあつたのです、然るに其後大いに恢復して参つて、日露戦争の開かるゝ前年即ち三十六年頃の経済界は、先づ形勢も平穏になつて来た、そこへ彼の戦争が起つたと云ふ訳で、是が即ち十年間の経過である、幸ひに三十七八年の戦争後の有様も前と同様に、何うぞ所謂有終の美を済す様にせねばならぬと思ふ、其有終の美をなすと云ふには抑々何れの力に拠るかと云ふと、政事上其措置宜しきを得る事も必要でありませう、が先づ第一に御互ひ多数の人が勤勉力行すると云ふ事、是が最も必要なる事であると申さねばならぬ様に考へるのでございます、種々なる事業に就て、未来は斯う云ふ事も必要であらう、斯かる事も起したら宜からうかと云ふ事も申上たいと思ひますけれども、時間も十分ありませぬから、其事は今日は措く事と致しませう。
極く有体に申すと、御当地は余り突飛な事も為されぬ、又さして失敗も為されぬ、至極御無事であらつしやるが、其代りに物の進みに後れる恐れがないでもない、即ち一長一短で、躓かない代りに速く歩けない、もう少し進むで歩いて戴きたい、併し余り急いで転んではならぬ悪くすると転ばぬ代りに臥て居る嫌ひがありはしないかと思ふのである、教育上に就ても、又経済上に就ても、私の申述べやうと思つた事は先づ此辺であるが、唯だ私の重ねて云つて置きたい事は、御当地の諸君は勤勉力行であらるゝ事は甚だ喜ばしいが、何れかと云ふと転ばぬ代りに足の進みが鈍い様である、要するに転ばぬ様にはしたいが、も少し駆足《かけあし》に御歩きなさる事を希望するのでございます(拍手喝采)