デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
16款 其他 17. 法政大学
■綱文

第27巻 p.245-246(DK270090k) ページ画像

明治42年4月25日(1909年)

是日、上野精養軒ニ於テ当大学創立三十年記念会開催セラル。栄一之ニ臨ミ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第二五五号・第四二頁 明治四二年八月 ○法政大学紀念会(DK270090k-0001)
第27巻 p.245-246 ページ画像

竜門雑誌 第二五五号・第四二頁 明治四二年八月
    ○法政大学紀念会
 - 第27巻 p.246 -ページ画像 
法政大学に於ては本年四月二十五日、寺内・岡部・小松原の各大臣、青淵先生・仏国大使・清国公使館員を上野精養軒に招待して、設立三十年紀念会を催ふせり、其席上に於て青淵先生が祝辞代りに為したる演説の大要は左の如くなり
 凡そ一事業を成熟せんとするものゝ困苦艱難は、其の辛き経験を有する人にして始めて之を知了すべし、本大学の前身たる東京法学社の創設せられたるは、遠く三十年の昔なり、当時我国の文明は頗る浅薄にして、政治・法律・経済は各々緊密なる連絡を有せず、殊に学理と実際は殆ど没交渉の観あり、不肖の如きは僅かに永年の間に自ら得たる経済方面の尠少なる実験を有するのみにて、深く此間の説明を為す資格を有するものに非ざるも、予が当年具さに嘗め尽したる辛酸に比較し、当時創業の困難は果して如何ばかりなりしかを推測すると共に、克く今日の発達あらしめたる諸氏の功績を光栄なりとせざるべからず、現に予が記憶に残れる中にも、明治十四年東京府会に於て彼の高等商業或は大学とせられんとする商業学校の如きすら、尚之を無用として廃校を決議せんとしたことあり、又同年神田錦町に初めて瓦斯会社の設立に際し、大学出身の化学者を傭聘したるに、民業に従事するには、普通の報酬を以ては之に応ずる能はずとて、謝絶せられたることあり、此等の事例は当時の半身不随なる文明を徴表すべきものにして、其間に介在し私学を建設し克く世間との調和を計り、我国文運の基礎を堅めたる諸氏の功労は何の辞を以てか之を頌せん、願くば勉励努力、更に一層の光輝を発揮せられんことを(朝日新聞所載)



〔参考〕全国学校沿革史 東都通信社編 第二編・第一五二―一五三頁 大正五年六月刊(DK270090k-0002)
第27巻 p.246 ページ画像

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