デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
2款 東京経済学協会
■綱文

第27巻 p.299-305(DK270097k) ページ画像

明治24年5月16日(1891年)

是日、当会例会ニ於テ鉄道調査委員ヲ設クルノ議起リ、栄一之ガ委員タルコトヲ諾ス。


■資料

東京経済雑誌 第二三巻第五七三号・第七二七頁 明治二四年五月二三日 ○経済学協会五月例会(DK270097k-0001)
第27巻 p.299-300 ページ画像

東京経済雑誌  第二三巻第五七三号・第七二七頁 明治二四年五月二三日
    ○経済学協会五月例会
同会は去十六日夕刻より富士見軒に開けり、出席者三十余名、来賓は貴族院議員山口尚芳・工学士三好晋六郎・同佐分利一嗣・同寺野精一
 - 第27巻 p.300 -ページ画像 
の四氏なり、佐分利氏は日本将来の鉄道に関する意見を述べて、拍手喝采中に其演説を終はり、次に山口尚芳氏は六百四十万円の歳計剰余金を鉄道敷設に使用すべしとの説を述べ、次に甲信鉄道の事務員黒川九馬氏は、当会に委員を立て我邦将来の鉄道方案に関し、本会の意見を定めんとの説を発し、雄弁滔々と論ぜられたり、此時田口卯吉氏は渋沢栄一氏を請ふて議長となし、黒川氏の説を賛成し、且つ当協会の慣例に従ひ、委員たらんと自選する者を任ぜんと発言し、伴直之助氏は山口氏を委員に推したるに、同氏は辞退して令息俊太郎氏をして之れに代はらしめんといふ、次に伴氏は渋沢栄一氏を推して委員の一人たらしめ、次ぎに田口・中隈・佐分利・黒川・関輪・伴・塩島の諸氏を併せて九名の委員定まる、是に於て田口氏は寺野精一氏を会員に紹介し、寺野氏は田口氏の需に応じ、兼て田口氏が南洋諸島土人のカノー船を見て思付きたる一種の蒸汽船図を持出して、其利害を説明し、十一時頃散会せり


東京経済雑誌 第二三巻第五七七号・第八七二頁 明治二四年六月二〇日 ○経済学協会鉄道調査委員会誌(其一)(伴直之助 手記)(DK270097k-0002)
第27巻 p.300-301 ページ画像

東京経済雑誌  第二三巻第五七七号・第八七二頁 明治二四年六月二〇日
    ○経済学協会鉄道調査委員会誌 (其一)
                   (伴直之助 手記)
東京経済学協会は去る五月十六日の例会に於て、工学士佐分利一嗣氏の鉄道論に引き続き、鉄道に関する質問討議陸続起りければ、黒川九馬氏は特に鉄道調査委員を設けては如何と発議す、衆員然るべしとて則ち委員を設くることに決す、田口卯吉氏曰く、委員は本会の慣例を用ひ投票若くは指命等の煩を避け、自から奮て委員たらんと欲する者を委員としては如何んと、衆之を可とす、余曰く、田口氏の発議尤もなり、而して本日の来賓山口尚芳氏は、予て懐抱せらるゝ日本鉄道策の宿説あり、又た会員渋沢栄一氏は日本鉄道会社の常議員として永く本業に従事せらるゝか故に、玆は免かれ難き場合、両氏か委員として尽力せられんことは本会の望む所なりと、渋沢氏之を諾し、山口氏は之を辞して、令息工学士山口俊太郎氏をして其の任に当らしめんことを約束せらる、斯くて遂に衆員の推薦によりて左の九名委員たることに決す
 渋沢栄一・田口卯吉・工学士佐分利一嗣・文学士中隈敬蔵・山口俊太郎・黒川九馬・関輪正路・塩島仁吉・伴直之助
 (後ち工学士渡辺嘉一・同田辺朔朗及ひ益田孝の三氏更らに委員となる)
則ち本月六日午後五時より第一回委員会を富士見軒に開く、会するもの田口・佐分利・山口・渡辺・黒川・塩島の六氏と余を合せて七名にして、外諸氏は疾病・事故の為めに来会する能はざりしは遺憾なりき初度の会とて議論先づ百出し、討議の声頗ぶる高く聞ゆ、十時に至り委員各自の持論略ほ互ひに了解することを得て論戦稍々収まり、以後は問題項目を分ちて議することに定む、当夜議決の要領は
 一、軍略防守の目的を主とせず、専ら殖産興業、富源の開発を旨として日本の鉄道を議する事
 二、広軌道・狭軌道の利害に関する議論は当今我か国に切要ならざ
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るか故に、暫らく玆に問題となさゞる事
 三、軌道の広狭は暫らく措き、現制を以て当今の必要に適するとし複線の布設は急務なる事
之を決するの後ち、尚ほ数多の問題に関して議論終に尽きず、而して時辰十二鐘、耳辺を掠む、仍て散会す
第二回は本月十三日午後六時を以て南茅場町の商業会議所に催うしたり、本夕は生憎と降雨頻りなるに拘はらず、山口・田口・佐分利・渡辺・中隈・関輪の諸氏に余を併て七名来り会す、中隈君先づ官設・私設の利害に関する宿論を提出せらる、是に於て議論復た沸騰し、甲弁乙駁一時は容易に収む可らざるの景状を呈せしが、結局官私鉄道論の可否は追て講究の上決定するの疑問となし、差向き日本鉄道線路の全案を定むることに決す、委員は歩を進めて佐分利氏の製図に就て議する所ありしに、全体に於ては正面の反対論も出ざりしが、中々に之を可とする者もあらず、漸く東北線を定むる内に、既に十一時を過ぎければ再会を約して散会せり(第三回の日限時刻は今日の本会に於て協議する筈なり)
 因に記す、本会か日本鉄道の全案を立て線路の撰定を為すに付ては工学会に照会して会員衆多の意見を叩くこと此の際最も切要の件なりとし、東京経済学協会鉄道調査委員の名を以て、同会へ照会するの議を決す


東京経済雑誌 第二四巻第五七九号・第一九頁 明治二四年七月四日 ○経済学協会鉄道調査委員会誌(其二)(伴直之助 手記)(DK270097k-0003)
第27巻 p.301-302 ページ画像

東京経済雑誌  第二四巻第五七九号・第一九頁 明治二四年七月四日
    ○経済学協会鉄道調査委員会誌 (其二)
                   (伴直之助 手記)
 先きに我が協会の鉄道調査委員を設くるや、固より時機の必要に迫まるゝとは云へ、為めに俄に輿論を起し、全国の耳目を鉄道の一点に集めたるの実蹟あるは、真に本会の栄誉と云はざるを得ず、現に此の報知の山梨に達するや、該地甲信鉄道の発起者諸氏は、時を移さず我が会員八巻九万氏を(衆議院議員にして鉄道調査特別委員撰定動議の賛成者)を撰ひ、氏に上京を請ふて特に我委員の中に列せしめたるが如き、又山形鉄道の委員長佐藤里治氏(衆議院議員にして鉄道調査特別委員撰定動議の発議者)も亦た、進みて本会の委員となりたるが如き、又た尾信鉄道の主唱者今村清之助・伊沢修二等諸氏が予て蒐集したる測量成蹟及ひ其他の材料の謄本を、悉とく本会に寄附せられたるが如き、又た工学会長工学博士古市公威氏の厚意によりて工学会が本会に助力せられたるが如き、又た名誉ある技術家工学士渡辺嘉一・工学士田辺朔朗・工学士山口俊太郎・工学士佐分利一嗣の諸氏が、自から奮て本会の委員となられたるが如き、余輩が感謝に堪へざる所なり、今回委員会に於て線路撰定の事未だ完成するに至らずと雖とも、稍々方針の定まりしもの実に以上諸氏の力なりとす
第三回の委員会、去月三十日午後第五時半より京橋区出雲町両毛鉄道会社の楼上に開かれたり、此日会するもの田口卯吉・佐藤里治・八巻九万・田辺朔朗・山口俊太郎・中隈敬蔵・塩島仁吉及ひ余と併せて八名なり、今回は調査の方針を専ら線路撰定の事に定めて会議に取り掛
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りしに、其結果の大要は左の如し
  将来の鉄道総延長凡そ千七百哩、工費凡一億万円(内訳)
 青森に起り弘前・秋田・横手・本合海・山形・米沢を経て福島なる日本鉄道会社線に聯絡す
 米沢より分岐して新発田・新潟・長岡を経て直江津に到り、直江津より長野・篠の井・松本・塩尻より甲府を経て、御殿場に於て東海道に聯絡す
 名古屋より塩尻・高山・富山を経て魚津に到る
 富山より金沢・福井・武生を経て敦賀に到る
 西京より舞鶴・和田山・鳥取・島根・直江を経て三次に到る
 桜井・四日市間は相聯絡して、今の関西・大阪二鉄道を結ひ付く
 東京より千葉を経て銚子間に到る
 四国線は高知・徳島間に布設し
 九州線は八代より加治木を経て鹿児島に到る
以上は単に去三十日の会議に於て議決せしものにして、未だ確定したるものにあらざるなり、又た九州・山陽等既に成立したる会社の諸線は、其の出願の主旨に従ひ布設したるものと仮定して、以て以上の諸線を予定したるものとす
以上の線路は如何なる方法を以て布設すべき乎、当日来会の委員は官設を可とし、其資本金一億万円は之を公債に得んと決せり、而して其の詳細の方法は中隈敬蔵氏と余とをして特に調査起草せしむること決して散会せり、時に午後十時


東京経済雑誌 第二五巻第六〇七号・第一〇四頁 明治二五年一月二三日 ○東京経済学協会一月例会(DK270097k-0004)
第27巻 p.302 ページ画像

東京経済雑誌  第二五巻第六〇七号・第一〇四頁 明治二五年一月二三日
    ○東京経済学協会一月例会
同会は去る十六日を以て富士見軒に開けり、出席者は三十余名にして会食の後ち、田口卯吉氏は鉄道調査及び港湾調査の報告書草案脱稿せしことを報告し、且つ之を印刷して会員其の他に頒たんことを発議したるに、全会一致を以て之を可決し ○下略



〔参考〕東京経済雑誌 第二四巻第五九一号・第四八〇―四八一頁 明治二四年九月二六日 ○東京経済学協会九月例会(DK270097k-0005)
第27巻 p.302-304 ページ画像

東京経済雑誌  第二四巻第五九一号・第四八〇―四八一頁 明治二四年九月二六日
    ○東京経済学協会九月例会
は去十九日富士見軒に開かれたり、当日来賓として臨まれたるは工学博士松本荘一郎氏(鉄道庁一等技師第二部長)にして、来会者は左の如し
  波多野伝三郎 黒川九馬  阪谷芳郎  箕浦勝人
  伴直之助   木村清四郎 中隈敬蔵  志岐守秋
  末広重恭   大野直輔  金谷昭   成瀬隆蔵
  横井時敬   添田寿一  田口卯吉  浅野彦兵衛
  佐久間貞一  田辺朔郎  伊沢修二  佐分利一嗣
  高橋義雄   佐藤伊三郎 坪谷善四郎 高市住太郎
  伊東祐穀   小川勝五郎 外会員同伴者数名
会食の後ち伴直之助氏は鉄道調査委員調査の六月以来の成蹟を報告し其の選定に係る全国鉄道予定線千七百哩を布設するの方向、及ひ右興
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業費金壱億万円は之を公債に得るの見込を以て、其の支出・収入と償還等に関する事の報道あり、次で会員の質問と、尚ほ本委員会へ対する建議等続出し、暫らく議論紛々たり
其建議の要旨に曰く、更らに規摸を大にして、全国八十四ケ国へ普ねく鉄道を布設せられ度事(箕浦氏建議)、北海道開拓の見込を以て植民鉄道の拡張を謀られ度事(添田氏建議)、信州塩尻より名古屋へ通ずる線路は、木曾に通するよりも伊奈へ通ずるの利なるを信ずるが故に委員に於て之を調査せられ度事(伊沢氏建議)等なり
高市氏は、委員が北海道拡張案を其設計中に入れざりしことに付き質問を出だせしに、伴氏は委員の意見を以て之に答へて曰く、北海道は既に炭鉱鉄道を有し、其の土地の発達に比せは目下稍々之を以て充分なりとす、たとひ之を拡張するを急務なりとするも、尚ほ内地の開発を先きにすることを以て至当と思惟せりと
是より来賓松本荘一郎氏の、炭鉱鉄道の現況と未成工事の落成するに至るべき期限、及び該地将来の多望等を縷述せられ、北海道の如き未開地が鉄道より受くる利益と発達とは、既開地の例を以て見るべからさる事を、現実同氏が目撃経験によりて説明せられしは頗る会員の満足せし所なりき、次て会員より本会委員の予選せし線路の批評並に近頃鉄道庁に於て選定せられし線路を漏らされ度旨を希望せしに、松本氏曰く、鉄道庁の予定線を玆に公言することは少しく憚りありと雖とも、先刻委員伴氏の報告によれば、該線路と鉄道庁の予定線と同一にして、殆んど差異なしと云ふも可なるべし、若し其の差異を求めは、そは唯々一・二のみと、是に於て会員等大に喜べり、就中委員諸氏は之を聞きて必らすや狭き肩を広くし、低き鼻を高くせしならん、是より大野直輔氏を議長に推して討議を始む、阪谷氏は鉄道買上説の問題を提起し、財政整理の点より痛く其の非なることを攻撃し、次いて賛駁交々起りしが、結局該問題は先きに設けし鉄道調査委員に付托し、委員に阪谷氏を加ふることゝなして玆に決着せり
次に添田氏は工場条例を設くべしとの一案を提出せしに、佐久間氏の熱心なる賛成と末広・田口両氏の痛快なる攻撃と、相い打ちて火花を散らせしが、伴氏より、討議問題の主旨を確定して後ち委員に托して調査せしむべしとの議出てゝ之に決し、添田・佐久間・田口・末広・阪谷・伴の六名委員となりて討議漸くやむ
田口氏更らに新案を提出せり、曰く鉄道調査の事も、其の方針稍々定まりて、終局も近きにあるべし、即ち委員の説は一億万円の公債を起して千七百哩の鉄道を布設することに略ぼ定まれり、鉄道の事斯く定まりて陸運は便を得たりと雖とも、之と相ひ助けて貨物を出入する良港なくんば、運搬の便未た全しと云ふべからず、故に港湾調査委員を設け、場合に由ては之に築港の設計を出さしめんことを望むと、衆員之を賛し、直ちに田口卯吉・末広重恭・文学士阪谷芳郎・工学博士田辺朔郎・工学士佐分利一嗣・工学士渡辺嘉一の六名之れが委員となれり、時に午後十一時半、而して談論未だ已まず、更の深るを知らず、富士見軒のボーイ屡々会場を覗ひ……マダカ、ヲヤヲヤ、ヲヽねむい……アーア、……全く散会したるは十二時近き頃なりき
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当日日本鉄道会社長奈良原繁氏臨席せらるゝの約ありしが、急用の為め光来なし、而して松本荘一郎氏が旅行より帰京せられて本会に臨まれたるは、全会員の厚く謝する所なりと、一同の伝言により謹みて玆に記す



〔参考〕東京経済雑誌 第二四巻第五九五号・第六二二―六二三頁 明治二四年一〇月二四日 ○第四回経済学協会鉄道調査委員会誌 (伴直之助記)(DK270097k-0006)
第27巻 p.304 ページ画像

東京経済雑誌  第二四巻第五九五号・第六二二―六二三頁 明治二四年一〇月二四日
    ○第四回経済学協会鉄道調査委員会誌
                     (伴直之助記)
十月十二日午後第五時より第四回委員会を開く、出席者は
 八巻九万・佐藤里次・田口卯吉・塩島仁吉・関輪正路・田辺朔郎・黒川九馬・中隈敬蔵・佐分利一嗣・伊沢修二・伴直之助
の諸氏にして、当日第一の問題は、曩きに本会に於て議決せし線路、即ち総計千七百哩を以て充分なりとし、該工費、一億万円の支出案を議決して、玆に終結を告ぐべきや否や」の一事なりし、然るに伴氏は折角に房総の如き短線にして支線に類する線路を必要とせば、常磐鉄道を布設せざるべからざるの理由亦た生すべし、若し委員会調査の方針単に全国の脊髄を定むるに在とせば、房総の如きも或は省くべき理なり、仍て委員会は更らに其の撰線の方針を拡張すべしと発議し、佐分利氏も亦た之に同意し、前回開きたる本会の希望誠とに玆に在りしと思はる、就て余は上越鉄道の玆に加へざるべからざるを思ふとて、氏が本夏以来実施に就て調査せられし結果に就き、全国鉄道の形勢より頗ぶる精密に説明せられ、猶ほ其の足らざる所は拙者「北越に於ける鉄道意見」を以て了知せられたしと述べらる、次で田辺氏は曰く、余は北海道に於ける鉄道拡張線路を得たりとて、細密なる地図に就て説明せられ、該線も亦た本調査の中に加ふべしと、次で伊沢氏は後来の中仙道鉄道なるものは決して木曾線によるべからず、伊那線を用ひざるべからざる所以を論じ、先きに当委員会に於て議決せし中央鉄道線は、伊那線とせられんことを希望すとて、軍事・収益等種々の点より伊那線の利を説かれたり、又た田口氏は佐分利氏の上越鉄道論に附帯する新潟築港論より、佐渡は後来外国貿易の要港なりとて、種々の意見を提出せられ、以上議論百出して更漸く深し、仍て更に重ねて委員会を開くこととして散会す



〔参考〕東京経済雑誌 第二四巻第五九五号・第六二三頁 明治二四年一〇月二四日 ○経済学協会十月例会(DK270097k-0007)
第27巻 p.304-305 ページ画像

東京経済雑誌  第二四巻第五九五号・第六二三頁 明治二四年一〇月二四日
    ○経済学協会十月例会
例によりて第三土曜日即ち去十七日富士見軒に於て開かる、当日は恰かも二日間休暇の続く為めにや、近県旅行者多くして欠席勝なりき、其の参会者は
 金谷昭・小川勝五郎・佐竹作太郎・田口卯吉・佐分利一嗣・箕浦勝人・望月二郎・黒川九馬・宇川盛三郎・田辺朔郎・桑原啓一・伴直之助
の諸氏なり、会食の後ち、鉄道調査委員会に於ける調査区域拡張の事を協議したる末、一と先づ是まで取調べたる千七百哩、其工費一億万円の分丈けに就き調査報告書を編製し、数本清書の上本会に備置き、
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閲覧を望むものには之を許すこととすべしといふに決したり」又た現時世上に喧伝する既成鉄道買上策に就て、種々の議論と批評と出でたるが、結局「若し政府の方策にして伝聞する所の如き買収策ならんには、当会などか力瘤を入れて議すべきもの乎」などの冷評も出でたり兎に角非鉄道買収策の発議者たる阪谷芳郎氏生憎不参なればとて、之を総会に譲ることとせり」今回佐分利・伴両氏の紹介によりて小川勝五郎・佐竹作太郎の両氏入会せらる、伴氏起て紹介して曰く、佐竹氏は山梨県甲府の富豪にして、今第十国立銀行の頭取たり、小川氏は日本鉄道起業の日より該業に従事し、巧技最も架橋に長じ、全国の大架橋、同氏の手に成るもの甚た多く頗ぶる令名あり、乃ち之を諸氏に紹介すと、之より雑談に移り、九時過る頃散会せり
   ○本資料第九巻所収「鉄道国有問題」明治二十四年十一月二十八日ノ条参照。