デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
4款 専修学校理財学会
■綱文

第27巻 p.344-348(DK270102k) ページ画像

明治24年6月(1891年)

是月栄一、当学会大会ニ臨ミ「理財ノ妙用ハ永遠ヲ期スルニ在リ」ト題シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

東京経済雑誌 第二三巻第五七八号・第八九六―八九九頁 明治二四年六月二七日 専修学校理財学会第二大会に於て 理財の妙用は只永遠を期するに在り 渋沢栄一君演説 尾張捨吉郎 速記(DK270102k-0001)
第27巻 p.344-348 ページ画像

東京経済雑誌  第二三巻第五七八号・第八九六―八九九頁 明治二四年六月二七日
  専修学校理財学会第二大会に於て
  ○理財の妙用は只永遠を期するに在り  渋沢栄一君 演説
                      尾張捨吉郎 速記
私は此学校の教員でも御坐りませんし、又学者でも御坐りませんから諸君に相見ることは今日が始めてゞ御坐ります、又此に御話を申すと云ふ事になりましても、今土子君の申された様な学問的若くは技術的と云ふ様な極く有益な御話をすることは出来ませんで(ノウノウ)、詰り自分か平素思つて居る経済上の意見を、申述まするに止るので御坐ります、私が此に申述へようと云ふ意見は、ちと或は高尚に過きるお小言があるか知りませんか、私か平生個様判断して居ると云御話をする訳で、詰り斯ふであろうか、どうだろうかと諸君に御相談をすることと御聴取を願ひとう御坐ります(謹聴々々)
今申上ようと云ふ考は、則ち此に書立て有りまする通り理財の妙用は成丈永遠を期せねはならんと云ふことである、言を換て之を申せば、理財を処理して往く事柄は僂麻室斯の病気を皮下注射で一夜の中に直すとか、或は流行眼に精奇水を付けて只一滴で拭ひ取た様に治すると同一な訳には出来んものである、可成的之を治するには、急速の効能を求めないか宜いと云ふことに相成るので御坐ります、此に申すのは少し適例にも相成りませす、且は其例も迂遠ては御坐りますが、私か曾て天保頃の儒者の太田錦城と申す人が書た所の形勢制度に非さる弁と云ふ表題で、支那歴代の沿革を評論したものを見たことがあつた様に思ひます、本書の要旨とする所は、周の世の治め方は封建政治であつた、即ち地方分権であつた、故に其極常に王室が式微であつて、諸侯の専横の為めに終に廃滅に帰し、又秦の天子は之を見て能く其現状を知て居りまするから、己れ周室を奪つて天下を一統するに及んて、速に郡県の政治を施き諸侯の兵力を削つて其国力を弱めました、然し外に蛮夷の来寇を拒かなけれはならんと云ふのて万里の長城を築て、夫より内へは這入れない様に致し、内は成丈其力を弱くして中央集権で治めた、そうして一世より伝へて二世・三世と百世に至るまで秦の天下を伝へようと思つて、自ら始皇帝と称したけれども、二世の時に陳勝・呉広・劉邦・項籍の徒か蜂起して、遂に天下を奪はれて仕舞つた、則ち秦は周の世、諸侯の専横なりしに懲りて其力を弱め、一時其弊を拒きましたけれとも、却て夫か為に一夫夜叫て百廟瓦解するの運命に遭遇致しまして、其弊を矯むる所以は、翻て之か助を与ふる所以
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となりました、そこで漢の高祖は深く此に鑑みて再ひ子弟功臣を封建し、封建政治を以て天下を治めましたが、其諸侯は漸次専横を極むるに至り、甚しきは賈生の所謂指の大さ臂と等しきに至り、殆と漢廷と其権勢を争ふと云ふ有様となりました、即ち中央集権の弊を矯正せんとして設けたる所の封建制度は、安ぞ知らん翻て其弊害を助長するの媒介となつて、漢の天下を覆すに至らんとは、其他支那歴代の有様に徴して之を見るに、多くは其弊害を拒かんとして、設けたる所の制度は、却て其弊害を醸生するの原因とならさるものはなかつたと云ふことを説たもので有ります、是は今日経済上の事に引当て申すのは、適例にはならんか知らんが、其論旨は尤もと思ふことが有りましよう、所謂千古不易とは申せんか知りませんが、今日の弊を拒く事柄が更に其弊を生する訳になると云ふことは、誠に味ある辞であると、私は太田錦城の説を感心致しました、之は今日我経済世界に於ても最も鑑みるへき事てあろうと思ひます、扨其経済世界の有様は、今日果して如何なる状態であるかと申すと、一昨年以来皆様も御聞及ひのことで、吾々も頭を悩して居ります、或は商売が不景気てあると云ひ、或は金融か逼迫すると云ひ、或は諸会社の株券か下落したと云ひ、或は工業か不振てあると云ひ、之を救ふに於ては斯様な法がある、云々の策かあると云つて、新聞口調では御坐りませんが、曰何、曰何と種々な説かあります、就中尤も力のある様に思はるゝ説は、政府に於て全国の鉄道を買収し、其株券は公債に由つて募集し、其鉄道の利益を最下点に止め、更に一方に於て其不足な所へは鉄道の行渡る様に致して、而して諸物貨運送の賃金を今一層低廉にして、物品の沢山生する様に商売の進歩を計るか宜いと云ふ考按がある様に承りました、之も宜う御坐りましよう、又或は外国から公債を起して内地の貨幣を増殖するが宜い、外国債は決して恐るゝに足らす、返しさへすれは夫て済むものであると云ふ説もあります、然し私の希望致しまするのは、夫等の考按を立つるに付ては今日に及んだ既往の沿革・閲歴を鑑みるか宜いと思ひます、既往を鑑みると申しても、駒井さんの仰しやる様に推古天皇から鑑みると云ふ様なことは、学問の足らない、記憶の悪い、経験の少ない、渋沢栄一の如き者には出来ませんから、私は徳川氏の末年からの既往を鑑みるのである、明治以降の既往は短いけれとも、其中金融事情の変動したることは、鑑みるに足るものか沢山にあろうと思ひます
明治の始め四年頃までは地方分権法であつて、諸藩尽く財政を取り、甚しきは商売も工業も諸藩の手になつて居つた有様で御坐りましたから暫らく措て論せす、明治四年藩を廃して県となし、全国の財政は中央政府の一手に帰しましたけれとも、其実地の取扱手続は頗る踈漏のものであつた、或は三井とか小野とか其他二三の人々があつて、全国の租税は夫等の人々に申付て取立たものである、加之のみならす、商業上の融通と云ふものも、各個相互の間には相当の取引があつたでは御座りましようけれども、重立たる融通は矢張り等しく是等の人々の手から供用したと申して宜い、然るに明治七年に小野組と称する、今日て申さは会社と一個人との間の子の様なるものが(聴衆微笑す)不
 - 第27巻 p.346 -ページ画像 
幸にも倒産致しました、其倒産の有様は実に甚《ひど》いもので、丁度私などは其時分に只今勤めて居りまする第一銀行の役人でありましたが、大蔵省なども其時に際して大変に騒きました、殆んど日本国中が大騒動てあつたと申しても宜い位てあつた、其負債の金額も随分多く、之を整理する為に大蔵省に勘査局を置くと云ふ始末であつて、其点に由て之を徴するも、以て其関係の大なるを知るに足りましよう、引継て島田が閉店しました、如此一二の金融を為すへき大機軸たるものか閉鎖致して、明治八年頃に東京・大坂・京都の如き重立たる日本の都会に於て金融か余程蔽塞致しまして、口を開けば金か足らん、金融か必迫して居ると云ふ事を、何処にも彼処にも喋々唱ふるに至りました、其以前則ち明治五年頃よりして国立銀行の制度が発布せられましたれとも、当時に在ては金貨を以て発行紙幣の交換を為すと云ふ制度てありましたから、日本に於て金貨引換の銀行は、随分立ち難き時分てあつた、斯く申す私の銀行も矢張り其制度を遵守して成立したものてあるが、容易に其足を伸すことが出来なかつた、なぜなれば少しく紙幣を発行すると、金紙の差がある如に直に金貨を取付けらるゝから、折角紙幣の発行を許されても之を使ふ事が出来ぬ、却て許された所の特典が無益に帰する様な訳である、底で実際の運転は何所に存して居つたものかと云へは、只今申す通り二三の種類の人々の手に存して居つたものである、然るに夫等の人々が閉鎖したるに由て、明治八年には世間に甚しき金融の必迫を来した訳であります、折から各藩士族の禄制を変更し、明治九年に、金禄公債証書を発行せらるゝことになりました、底て金貨交換方法の銀行成立し難きと、一方に於ては公債証書の発行高が増加したるとにより、日本政府は政府の紙幣を以て銀行紙幣を交換して宜いと云ふ制度を明治九年に発布されて、国立銀行条例を改正せられました、之れが今の銀行条例で御坐ります、然るに銀行の発行紙幣を交換するに、政府の紙幣を以てするの方法は、能く考ふる時は子供欺しの話と一般、殆と交換せさる紙幣も同様である、何となれは政府の紙幣が不換のものなれは、国立銀行の紙幣を以て政府の紙幣と交換しても朝三暮四の話である、此寛宥なる条例が頒布されたるより全国俄かに銀行熱を発し、殆と百五十有余の国立銀行か僅々二ケ年の間に設立せらるゝに至りました、実に当時の有様と云ふものは、恰も一夜の中に富士山か現出し、近江の琵琶湖か湧出たると同様な想を致しました、是は其時分の金融を助くへき一の方法と申して宜い、加るに丁度其翌年西南戦争か起りました、夫て只今の銀行創立よりして自つから紙幣発行の度を増したる上に、又此戦争の為めに紙幣発行の度を増さゝるを得ない訳に立至りましたから、通貨の量《かさ》か俄かに増加することとなりました、而して其増加の高は今日取調て参りませんから申上る訳には参りませんが、其当時に於ても此事を論して居らるる方か有りましたから、略ほ分つて居ります、底で十一年の始から其効能か見はれて参りました、即ち金融も円滑になり、商売も繁盛になり、次第に価値のなかつたものに価値か付く様になりました、此価値のなきものに価値か付く様になると云ふことは、取も直さす商売繁昌の現象を示すもので、則ち今迄十銭てあつたものか十二銭ても欲くな
 - 第27巻 p.347 -ページ画像 
るから、一方には買ふと云ふ者か多くなり、一方には利益かあるから夫を売ろうとするのである、又運搬の如きも頻繁になり、商売に利益か多いから従て金利も高くなる故、至然結構であると思つて喜で居る中に、丁度銀に対して紙幣か価値を減すると云ふことが起つて来た、一方に物価騰上の進度が強い程又従て紙幣の価値を減するの勢か強くなりて、始めは融通か円滑にて其商売か繁昌なと悦て居たのは暫時の間にて、終には、銀貨の価値か際限なく、昂騰するの有様になりました、辞を換て申せは、紙幣の価値か底止する所なく下落すると申して宜い、夫故に其有様を憂ふる所の考か朝野の間に起りました、其頃当路の方々は種々の考案を以て此銀貨の価を下ける、即ち銀紙を平均させよふと云ふ一時の防禦法もあつた様でありましたれども、永遠の利益に着目しなかつた為めに、夫等の防禦法は余り実効を奏しませぬ、継て十三年六・七月には殆ど銀貨は壱円八拾銭以上まで上つて、紙幣の価は銀貨に対して半額近く迄に下落致しました、此に至て通貨減縮の論か諸方に起りまして、私共も色々愚説を吐露したことも御坐りましたが、廟議も遂に紙幣の高を減縮して兌換法を行ふより致方がないと考案を定められて、十四年より其制度を行はれました、十五・十六十七・十八の四年間の商況は全く十一・二年と反対して、則ち其繁昌なる有様に引替へて諸物価は下落し、諸商売は沈停しました、総て商売と云ふものは物価か高くなる時は盛なる様に見へ、物価か下落する時は不景気に見ゆるものであると云ふことは、是から先も今日も免かれ難き道理で御坐ります、故に其頃は商売の景況は実に凋衰萎靡の有様であつたけれとも、政府も一旦定めた主義を動かさず、年々に従来発行したる所の多くの紙幣を消却し、一方に於ては国立銀行に対して追々其紙幣を消却せしむるの法を明治十六年に設定せられました、而して漸次怠ることなく其法を実行して往かれまして、遂に明治十九年に至て紙幣と銀貨の間には全く差異のないことになりまして、始めて安心であると云ふ所から、十九年に遂に紙幣は交換し得るものてあると云ふ制度を発布せられ、尋て日本銀行をして兌換券を発行せしめました、是れ誠に紙幣を救治するに付て宜き処置方法と申して宜いけれとも、其後世間の金利か下つて来て、又東京に於ては日本銀行か漸く其勢力を伸すに従て其利息を低落しましたから、遂に政府では明治九年に発行されたる所の高い利息の公債を償却し之れに代ふるに安い利息の整理公債を発行される様になりました、丁度今の十五・十六・十七・十八の四ケ年間は商売沈停と云ふ有様て御座りましたから工業か盛に進むと云ふ景況も更に見へなかつたのであります、然るに一方には銀紙か対等になつた所から始めて通貨に安堵の思をなし、一方には整理公債に由て其利息か低落せしより、政府の公債に依れは一年五分より多くは貰へないとなりまして四・五年の間待ちたる工業の企望か此に至て一時に振興する有様になりました、是は実に目下の沈停を救治し得たるものと申して宜いのです、明治二十年から諸物貨又は諸株式等の価を増して来ました、之は前に云ふ所の紙幣か多くなつた関係ては御坐りません、通貨が安然になつた関係と、金利か下つた関係と四・五年沈滞して居つた商業か稍其進歩の度か見へて来た所から彼此
 - 第27巻 p.348 -ページ画像 
相合して商売を引起したと申しても宜いと思ひます、底て二十年・二十一年・二十二年は東京・京都・大坂、其他各所の工業会社は、鉄道にあれ、織物事業にあれ、紡績事業にあれ、陶器製造業にあれ、其他「セメント」煉瓦製造等の事業の如きも、其盛況は恰も明治十年の頃各国立銀行か一時に設立したる時の如く、吾も人もと狂奔して其方に趣くと云ふ有様てありました、然し是は全く只今申す原因があつて斯く進んだのであつて、誠に宜き原因と申して宜い、然しなから其進むや余りに其度を超へたものであるから、昨年頃から再ひ工業不振と唱へ、金融必追と称して、後戻をなすと云ふ困難を惹起す様になりました(喝采)、恰も流水の一方を塞けは一方を突き、此方を拒けは彼方に流るゝが如く、此弊害を救ふの策は、安んぞ知らん後日又た一の弊害を生するの媒介とならんとは、私は是に至て太田錦城か漢土歴代の政治上の弊害を痛論したる説と、我経済世界の有様が恰も符節を合するか如きを見て、転た慨嘆に堪へないので御坐ります(大喝采)
底で是から先の経済上の喜に付て私の思ふ所では、可及的之を救正するに付ても、遽に効能を見ることなく、永遠に弊害の少なかれと云ふ所に意を注きたいものである、俗に申すいたちこつこをする様に、一弊除き去りて又一弊を生する様ではなりませんから、則ち理財の妙用は、詰り実効を永遠に期さねはならんと云ふ所に、深く目を注けなけれはならんと考へます(大喝采)聊か自分の所存を述へて諸君に充分の御熟考を請ひます、別段に教になるとか御参考になるとか云ふ論では御坐りません、只自分か平素思つて居ることを申述たるので御坐ります(大喝采)
   ○右ハ「竜門雑誌」第三十八・三十九号(明治二十四年七月・八月)ニ転載。
   ○当学会ノ沿革ニ関シテハ之ヲ同校(現専修大学)ニ徴シタルモ、関東大震災ニ際シ一切ノ記録ヲ焼失セル由ニテ判明セズ。
   ○「東京経済雑誌」第五七六号(明治二十四年六月十三日発行)ニ、専修学校理財学会第二大会ニ於ケル添田寿一ノ演説速記掲載セラレタレド、ソノ日時明カナラズ。