デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 社会政策学会
■綱文

第27巻 p.369-377(DK270109k) ページ画像

明治40年12月22日(1907年)

是ヨリ先栄一、屡々我国工場法施行ノ時期ナホ早シノ意見ヲ表明シタリ。是日、東京帝国大学ニ於テ開カレタル社会政策学会第一回大会ニ出席シ、工場法施行ノ時期漸ク至レリトノ演説ヲナス。


■資料

工場法と労働問題 社会政策学会編 第五―五一頁 明治四一年四月刊(DK270109k-0001)
第27巻 p.369-373 ページ画像

工場法と労働問題 社会政策学会編  第五―五一頁 明治四一年四月刊
    社会政策学会第一回大会順序
 第一日 十二月二十二日(日曜)午前九時東京帝国大学法科大学第三十二番教室ニ於テ開会
一、開会の辞 東京法科大学教授法学博士 金井延君
一、工場法討議
        報告者
       東京法科大学教授法学博士 金井延君
       貴族院議員法学博士    桑田熊蔵君
       京都法科大学教授法学博士 田島錦治君
       (正午より午後一時迄休憩)
      会員の討議
   来賓 男爵渋沢栄一君・法学博士和田垣謙三君・衆議院議員島田三郎君・法学博士添田寿一君・衆議院議員医学士山根正次君等の演説
一、懇親会
   午後六時より大学構内学生集会所に於て開会
○中略
 来賓渋沢栄一君
  ○司会者(山崎覚次郎君)渋沢男爵は来賓としてお話下さる筈でありまして、実は報告が済みましてからの順序でありますが、午後はお差支があると云ふことで午前にお出で下さいましたから、是から渋沢男爵の御意見を伺ふことに致します。
 臨場諸君会員諸氏、今日の社会政策学会に私にも参上致すやうにと委員の矢作君から御相談を受けまして此処に参上致したのであります事柄に於ては私も最も賛成致しまするし、且つ其趣意書を拝見致して頗る同情を表します次第であります、去ながら斯う罷出は致しましたが、場所は帝国大学の教室である、お集りの方には多く博士・学士を以て満されて居る、問題は社会政策学である、左様な事柄に就て極く古めかしい私が此処に出て何をお話しませうか、最も困却致す訳であります、私は今時の学問を致した者ではありませぬ、学問と云へば僅に漢学に止つて居る、故に学術的のお話をしやうと云へば、漢学と云ふ範囲を除いては何も言ふことは出来ない、然るに今日の問題は極く
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新しい事柄である、尤も工場法といふことは前席に田島君の述べられた如く生れさうで生れなかつたのであるから、少しく古くなつて居るか知れぬが、社会学としては我国では決してさう古い問題とは思ひませぬ、左様に近頃の学者がお集りで嶄新な問題を攻究する処へ、最も古い天保時代の教育を受けた私が、玆に其諸君の攻究を批評しやうと云ふことは、少し見当違ひの話殆ど奇観を呈するやうに思はれますが併し古人に斯う云ふ語がある、温故知新、是も論語にあるから私はさう云ふ事をよく知つて居る、それで私は玆に社会政策の問題に、極く古い論語によつて愚見を申して見やうと思ふのであります、偖て前席に田島君が工場法に就て段々お説がございましたが、私は恰度田島君に対して反対の位地に立つて、此工場法の生れ出ることを産婆として引込ませた一人である、然るに偶然今日田島君の直ぐお後に此席に出たのは、合せ鏡に面白いかも知れぬ、故に工場法の事も末尾に一言申添へやうと思ひます。
 世の進んで参るに従つて貧富の懸隔すると云ふことは、二千年の昔孔子の時代であつても左様でありつらうと思ふ、故に論語にも富む人と貧しい人、貴い人と賤しい人の差別を論し、而して富者は貧者に対して之を苦め之を困らせると云ふことを防ぐやうにするのが一体の教である、けれども孔孟の教は後世漢学の弊からして、兎角に功利を厭ふと云ふことを強く論じた為に、経済上に関係した事は殆ど教育の主意に外れたものゝ如くになつて、唯だ人として世の中に立つべきものは功名富貴に拘泥することは、人間の最も忌むべきものと云ふ教を主張して行きました為に、経済と人の世に立つ方法とがまるで別物のやうになつてしまうた、是が漢学の最も今日に疎んぜらるゝ所以と私は思ひますのです、けれども精神に於ては決して異りはないと思ふのであります、恰度孔孟の王道を以て教の根本として、王者の仁政と覇者の権略と云ふものゝ差別を論じた所などは、今日の商工業に対しても比較して論ぜられると思ふのであります、故に若し今の実業界に於ける人々が、真正なる孔孟の道を以て王道を行ふと云ふ観念で世の事業に処して行きましたならば、貧富共に其宜しきを得て、決して社会政策学会の御厄介を蒙らずに、平和に沿つて行くと私は思ふのであります、併し多数の人が左様に一人一個のやうにはなり得られぬから、則ち政治も要らう学理も要らう、故に私は決して今社会政策学の御攻究が不必要だと云ふ意味に申すのでございませぬけれども、富者が貧者を押倒すと云ふ弊害が生ずるから、矢張りそこに王道が衰えて覇道を惹起すようになる、さらば富と云ふものは、総て平均して宜いといふか、斯う云ふ社会学は私はそれに同意をせぬ、貧富を平均すると云ふことは、遂に国家の富を奪ひ人類の幸福を妨げると云ふことになるに相違ないと思ふのである、智愚・賢不肖・勤怠・精不精は皆人の天より受くる性質である、又幸福と不運とも総て人に免れないものである此免れないものからして、或は栄へ或は衰へると云ふことは拠ないのである、之をして若し、富む人は貧しい者に対しては必ず償はなければならぬと云ふ如き法度が行はれるとなつたならば、誰も富を致す人は無くなるといふことになつて来る、それが社会の幸福であるか、否
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大不幸と言はなければならぬ、故に曰く、どうしても富と云ふものは其人の知能勤勉によつて進むものである、其富は妨げるものではない成程田島君の言はれた如く資本家にのみ都合の好い法律を若し或政府が設けるとしたならば、それは甚だ宜しくない、之を攻撃するは、頗る御尤であるけれども、然らば資本家だけをば窘めるやうな法律が宜いかと云つたならば、世の中の資本家は悉皆無くなるであらうが、貧乏人ばかりが揃ふて其の国が富んだと云ふことは、蓋し歴史あつて以来無いことである、斯う考へて見ますと富む者が貧しい者に同情を表し、相共に進んで行くと云ふ緩和が十分に行はれるを以て頂上とする又貧しい者も富む者を羨まずに、己れ徐々に進んで行くと云ふ考を以て、相軋らぬのが上乗である、故に之れを平均させやうと云ふ方の議論に至つては、蓋し此社会政策学会の御趣意も決してさうでなからうと私は思ふのであります、若し果してさうであつたならば、それこそ社会は、大変な不幸を蒙るであらうと思ひます、即ち前にも申上げる孔孟の教は、私は少しもそれに出でぬと思ふのであります。「子貢曰貧而無諂富而無驕何如、子曰可也、未若貧而楽富而好礼者也」斯ういふ様な教も立てある、総て此富を只己れのみ富むといふ方針を以て務めるのは、どうしても之を覇道と言はねばならぬ、公共の利益を図り、国家の富を眼目とする者を王道と言つて宜からうと思ふ、覇は力を以て人を服する者なり、王は徳を以て人を懐くる者なり、貧富の区別も左様にしたが宜からうと思ふ、私は予て孔子の言葉に解し兼て居つたのは、仁を為せば富まず、富めば仁ならずといふ事である、即ち仁といふ者は富めない者である、貧乏人でなければ仁者は無いといふ理屈になると如何にも解し得られない言葉であると思つたが、近頃漸くそれを解釈した、何ぜならば成程富といふ程度は比較的に論ずるのでありますから、隣の貧乏人から言へば、渋沢栄一でも矢張り富者である、けれども孔子の言ふた富といふのは決してそんな些細なものではなからう、僅かな所得税を幾ら納めるといふのを以て富としたのではなかつたらう、富といふ力が殆ど国家を制御する富であると、多くは仁を為せないといふことを虞れたのであらうと思ふ、若し試しにロツクフエラーが、トラストに依て大富豪を致した此の富の力で、亜米利加の商売界、亜米利加の労働界を苦しめる事があつたならば、ロツクフエラーは仁を為す事は出来ぬ、之を二千年以前に孔子が悟つて富は仁を為せないと申したのであらうと思ひます、斯う解釈しますと成程国家から考へれば、余り大富豪を多く造り出すのは不幸で、沢山に大富豪家のあるのは国家の慶事でないと私は思ふのであります、斯く申すと、丁度田島君の言ふ如く、資本家征伐の説と、御同説になるか知らぬが、私は田島君の御意味と同様の意味を以て申すのではございませぬ、故に此の社会政策学の大主意に至つては、私は、最も御同意でございますが、若し労働者たり資本者たる者が、孔子・孟子の骨髄を以て、此の事業界・商業界に相接触して行つたならば、必ず相互の間に軋轢衝突は起きはしまいと思ひます、私はまだ労働の位地には立たぬが、富む者でも無い、併し従事する位地から言つたら或は資本家の方に居る者でありますで、それを心として事業の進歩を図つて行
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き度いと思ふのでございます、もし大富豪を憂ふるといふ方からは、我が国家の富強を妨げる、物質の発達の妨害を来す様な事がある、されば生存競争の結果富者は益々富み貧者は益々貧にして、終に貧富の隔を引起して、社会政策学会の御厄介を蒙らなければならぬ、どうして之を防ぐかと言へば、私は曰く、王道を以て世の中の競争に応ずるに在りと断言する、蓋し王道といふ者は、労働者と雖も矢張り守り得られるものである、決して労働者には王道が無いとは言へぬ、富者のみが王道をやれば宜いといふ事ではない、王道といふものは、左様に狭いもの、或る階級にのみ行はれるものと言はぬでも宜からうと、斯う私は考へるのであります、故に此の問題に対するには、極古い所の二千年以前の孔子の教に依て、多少解釈する事が出来ると考へて居るのでございます。
 それから工場法に付て一言申上げますが、最初工場法の問題の起りましたのは、七八年所ではございますまい、殆と二十年に近いだらうと思ふ、紡績事業の盛んに相成りましたのが明治二十二年から二十一二年頃で、此の紡績業の盛んになるに付て、工場法といふ問題が起きて参つた様に私は記憶します、農商務省の工務局長を安藤太郎さんが務めた時分に、工場法のお話が出て、私共は尚早論者を以て始終目せられたのであります、今日となつては追々に必要なものと云ふことを我々も考へましたけれども、田島君が前席に述べられた通りに、日本の事物は、銀行であり、工業であり、或は保険であり、先づ多くは政府の誘導に依つて成立つたと云ふことを免れぬのです、政治家から与へられたと云ふことを免れぬのである、寧ろ政府の誘導と云ふよりは政治家が先に知つて教へたといふてよいのである、それであるからどうしても主治者の観念から成立つて居る、政治家に実業家が支配されて居る、そこで我々が其工場法に対して気遣ひましたのは、唯々単に衛生とか、教育とか云ふ海外の有様だけに比較して、其法を設けるのは、独り工場の事業を妨げるのみならず職工其者に寧ろ迷惑を与へはせぬか、其辺は余程講究あれかしと云ふのが、最も私共の反対した点であつた、果して各紡績工場などは、先刻田島君のお述べの時間に就ても、工男女の年齢に於ても、是では英吉利では宜かつたか知らぬが日本では困ると云ふので、其時分の紡績事業の有様は、英国は千九百年代であつても、日本はまだ千八百年の風が吹いて居る、故に此処は斯う直さなければいかないと言つて、其時に出た工場法案中種々なる骨子を抜いて見ると、俗に申す骨抜鰌と云ふものになるから、是れではなくもがなと云ふので、今年は止めやう、明年も見合はせやうと云ふので、段々経過して、今日に及んだと云ふ成行きであります、併し其時分の紡績工場の有様と今日は大分様子が変つて来て居る、試に一例を言へば、其時分に夜業廃止と云ふことは、紡績業者は困る、どうしても夜業を廃されると云ふと営業は出来ないとまで極論したものでありますが、今日は夜業と云ふものを廃めても差支へないと、紡績業者が言はうと思ふので、世の中の進歩と云ふか、工業者の知慧が進んだのか、若は職工の有様が左様になつたのか、それは総ての因があるのであらうと想像されます、又時間も其時分よりは必ず節約し得るや
 - 第27巻 p.373 -ページ画像 
うに、語を換へて言へば、時を詰め得るやうになるだらうと思ひます故に今日に於て工場法が尚ほ早いか、或は最早宜いかと云ふ問題におきましては、私はもう今日は尚ほ早いとは申さぬで宜からうと思ふのであります、けれども前に申す通に、総て之を施行しますには、成るべくだけ実際と相適合することを希望いたすのであります、併し此適合を希望すると云ふて、実際家の我儘を採用なさいと云ふ意味ではありませぬ、けれども唯々学理又は他国の例のみによつて立てた法度が其国に十分に適応せぬが為に種々の面倒を生ずることがある、もし生じたならそれから直せば宜いぢやないかと云ひ得るが、扨て初めに一歩を誤ると、直すに大層困難であるから、旁々以て此工場法に就きましては、私は自分の意見として申上げると、左様に長い歴史はありますが、今日が尚早しとは申さぬのでありますけれども、願くは実際の模様を紡績業に就て、或は他の鉄工場、其他の業に就て、之を定めるには斯ることが実地に大なる衝突を生じはせぬかと云ふことだけは、努めて御講究あれかしと申すのであります、学者の御論中に英吉利・独逸・亜米利加等の比較上の御講究が大層な討論と思召さるるが、それは言はゞ、同じ色の闘ひであつて、所謂他山の石でないから、其事の御講究に就て十分御注意あらむことを希望いたすのであります、私の意見は此辺にございまする、誠に価値ないことを申上げましたけれども、今日此処に罷出ました為に一言責を塞いだ次第でございます。(自午前十一時四十分至午後零時五分)
   ○「社会政策学会」ハ、明治二十九年四月二日社会政策研究ニ熱心ナ有志十数人ガ会合シ当時ノ問題タリシ工場法ニ関スル調査研究ヲナセシニ始ル。明治三十一年十月始メテ東京神田青年会館ニ工場法ニ関スル講演会ヲ催ス明治三十二年七月九日神田青年会館ニ於ケル演説会席上桑田熊蔵・金井延ト片山潜トノ間ニ討論行ハレ、後者ノ社会主義ニ対シ改良主義・労資調和主義ノ態度ヲ明カニス。
    明治三十三年ニハ「社会政策学会趣旨書」ヲ公表シ、翌三十四年ニハ「社会民主党」ノ創立セラレタルニ対シ、社会主義ト社会政策トノ異同ヲ述ベタル意見書ヲ公表シ、以テ同会ノ社会問題ニ対スル立場ヲ明カニセリ。
    明治四十年以後毎年大会ヲ開催シ、社会問題ヲ討議シ大正十三年第十七回大会ニ至ル迄継続セリ。(「最近の社会運動」及ビ「明治文化全集」第二十一巻ニヨル)
   ○「…同会が創立以来工場法に関する研究調査に力を注ぎ、社会政策の立場より同法制定の必要を力説して輿論を喚起し、外部から政府当局を鞭韃して我国最初の労働立法たる工場法の立案及制定に多大の貢献を為したことは特記すべきであろう。…」(「最近の社会運動」第一〇〇一頁)
   ○工場法ト栄一トノ関係、並ニ工場法成立ノ沿革ニ就テハ、本資料第十七巻所収「東京商法会議所」明治十三年十一月十五日、同十八巻所収「東京商工会」明治十七年五月二日、同十九巻所収「東京商業会議所」明治二十四年八月二十九日、同二十一巻所収「東京商業会議所」同三十一年五月二十一日・同三十一年十月二十二日・同三十六年三月二十八日、同二十二巻所収「商業会議所聯合会」明治三十五年十二月八日、同二十三巻所収「農商工高等会議」明治二十九年十月二十三日・同三十一年二月二十八日、第三編第二部第六章「政府諸会」所収「生産調査会」明治四十三年十一月一日第三編第一部第二章「労資協調及ビ融和事業」所収「協調会」大正十二年一月三十一日ノ各条ヲ参照。
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東京経済雑誌 第五六巻第一四二〇号・第一一八五頁 明治四〇年一二月二八日 ○社会政策学会(DK270109k-0002)
第27巻 p.374 ページ画像

東京経済雑誌  第五六巻第一四二〇号・第一一八五頁 明治四〇年一二月二八日
    ○社会政策学会
社会政策学会に於ては、二日に亘りて其の第一回大会を東京帝国大学法科大学第三十二番教室に開き、第一日は去る二十二日午前九時より開き、金井延氏は先づ開会の辞を述べて、同会の趣旨及び来歴を説明し、其れより同氏及び田島錦治氏・桑田熊蔵氏の演説あり、何れも工場法を問題として、或は外国の実例に徴し、或は我が国工場及び労働者の現況に照して工場法制定の急務なる所以を評論懇説し、又来賓男爵渋沢栄一・山根正次・添田寿一・島田三郎諸氏の演説あり、添田氏の演説に関して、一場の討論を喚起し、面白き活況を呈したるが、六時半閉会を告げ、更に懇親会に移りて、一同互に歓を尽し、又第二日は翌二十三日午前九時より開き、神戸正雄・平田徳次郎・横田千代之助・福田徳三・塩沢昌貞・手島精一・津村秀松・横井時敬諸氏の講演ありて午後六時閉会を告げたり、何れも当代の学者・名士の演説なれば、有益ならざるはなく、且同会に於ては今後益々各般の社会政策問題を調査研究し、時々大会を開きて其の結果を世に発表する由なれば其の国家に貢献する所甚だ大なるべく、之が為めに学者と実際の経営家と相協力して講究を尽すの道を開くあれば、最も妙なるべし



〔参考〕中外商業新報 第七八三五号 明治四〇年一二月二四日 社会政策学大会(近来稀有の会合)(DK270109k-0003)
第27巻 p.374-376 ページ画像

中外商業新報  第七八三五号 明治四〇年一二月二四日
    社会政策学大会
      (近来稀有の会合)
社会政策学大会は予期の如く二十二日法科大学教室にて開会せられたり、聴衆無量八百余名、来賓には斯学の諸博士を始め下院議員、実業家側にては渋沢男・荘田・添田の諸氏を見受けたり、定刻金井博士は開会の辞を述べ、引続き工場法案研究の結果を報告し、制定の必要を論述せり、曰く
 工場法は元来労働者保護を本旨とするを以て、労働者保護法と称するを可とす、即ち工場に於ける百種の弊害を匡□《(正カ)》して個人及び社会に及ぼす害毒を防止するに在り、今や我邦は新式機械の応用工場組織を採用するに到り、時正に工業革新の時代に臨めるものにして、雇主・被雇者の関係も家内工業時代の如く親密ならず、両者の衝突漸く頻繁ならんとす、此の際其衝突を防ぎ其弊害を予防する為めに法規を制定するは、全く時勢の必要に応ずる者なり、必竟三十一年工場法案を起草し、今日尚ほ実行の運に到らさるは寧ろ遅れたりと云ふ可し、当時反対論者は自由放任の原則上、法規の制定は個人の自由契約の自由を妨ぐる者となし、寧ろ自然的調和に放任するを勝れりと論じたるも、世に絶対の自由は果して存在する者なりや、既に国家の成立を認むる以上は、国民全体の安寧・幸福の為めには個人の自由も之を制限せざる可からず、されば企業家たり資本家たり労働者たりと雖も、国家の利害を抵触する場合は全く其自由に放任すること能はざるなり、従て国家が時勢の必要に応じ弱者たる労働者を保護するは其義務にして、又其権利と謂ふ可し、更に又企業家
 - 第27巻 p.375 -ページ画像 
資本家の温情を説き、工場法の不必要を主張する者なきにあらざるも、今は昔と異なり、徒弟関係決して密と云ふ可からず、而かも規模大なる工場にありては、到底之を望むこと能はざれば、少数の者たとひ誠意温情を有するの故を以て、工場法を無視すること能はざる也、而して余の希望する法規は直訳的にあらず、純乎たる日本式にして、全然簡明を主とし、其の応用範囲の広き者を要す、何となれば煩瑣は却て工業の利益を阻害すればなり、云々
と論結し、第二報告者桑田博士登壇して、具体的に現在に於ける工業界の弊風、即ち女幼工の過労・就業時間問題・徹夜の害・風紀上の影響及工場の危害等に就き頗る詳細の報告を為し、左の如き自家の考案を示せり
 (一) 十二才未満の者は工場に使役することを得ず
 (二) 十六才未満の男女、及十六才以上の女子の労働時間は十二時間とし、凡ての職工に対し一日一時間以上食事休養の時を与ふべし、但し其時間は特定時間に包含せらるゝ者とす
 (三) 凡の職工に対し一月二日以上の休暇を与ふ可し
 (四) 十六才未満の男女及以下の女子は、午後十時より午前四時の間之を使役し得ず、但し職工を二組以上に分ち更代せしむる場合は、其条件を勅令にて之を定む
 (五) 特に危険の怖あり、又は衛生に害ある工業に対しては、勅令を以て十六才未満の男女及以下の女子に就き其労働を禁止制限し得
 (六) 工場には危険の予防防止に必要の設備を為す可し
 (七) 職工募集に関しては募集規定を設け、主務省の認可を受く可し
 (八) 本法は原動力機を設け十人以上の職工を使用する者、及原動力機の備なきも二十人以上の職工徒弟を使役する工場に適用す
尚ほ桑田博士は工場法の制定は、一方には社会公安の上に於て、他方には国防軍備上必要なりと論じたり、次に田島博士は例の奇矯なる弁を揮ひ、冒頭先づ強を折き弱を助くるは大和民族の特色なり、鱞寡孤独に似たる現今の労働者豈に之を保護せざる可んやと喝破し、我政府施政方針の、由来資本保護に傾けるを駁し、其実例として鉄道買収価格の高率なりしは却て下民を苦しむる処の者なりとなし、財政策に於ても累進税及び累進相続の外悉く資本家に寛にして、労働者に酷也と説き、今日工場法を設けて労働者を保護するは全く必然の常理なりと論じて下壇せり、時に渋沢男イデヤ我れ資本家の為に一矢を酬ゐんとて立てり、恰も是れ満弩将に発せんとするの観ありき、仍ち徐に述て曰く
○中略
と論断せり、又医学博士山根正次氏は医学上より工場摂生の必要を説き、営養の労働効程を増進する所以を論じ、年齢に応じて労働時間を酌量するの必要を述べたり、次に添田博士は亦頗る有益なる所説を発表したり
 産業革新時期に於ては、労働問題・社会問題等の陸続として発生す
 - 第27巻 p.376 -ページ画像 
るは勢の免れざる処なり、而して極端なる社会主義は、其国民の性格に依りて其害毒を流すこと甚しき者あり、我国民の如き其性猛烈なり、一朝斯る極端なる主義に皷吹せらるゝに到らば、其結果の惨計り知る可からず、故に今日之を融和せしむるは最大急務なり、従て工場法制定の如き余の極力主張する処、彼の反対論は寧ろ事理を解せざる愚論なりと信ず、然れども余は欧米の法を直に我に移植せんことを欲せず、充分我国情に適せるものを規定せんと欲するなり而して余は桑田案に二三条項を追加せんと欲す、即ち(第一)雇主の責任を明にすること、(第二)為す可きことを為さざるの責任を明にすること(第三)工場管理官を設くること是なり、而して法は是れ止むを得ざるに発し、人に依りて行はる故に、工場主が誠意誠心を以て之を行はざれば、其効を発すること能はず、工場法は単に労働者の為のみにあらず、工場主の利益を増進する者なり、殊に又労働者も自己の天職を自覚し其地位を高むる要あり、労働の神聖なるは不易の真理なり
と説き、我邦旧来存在する主従干係の美風を以て雇主・被雇者間を調和する媒介とせば、或は欧米に見る可からざる好成蹟を挙ぐることを得むと述ぶるや、此処に端なく駁撃抗論の序幕を開き、福田博士は先づ主従関係は封建の余習なり、此の関係尚ほ現存するが故に労働問題を惹起する也と駁し、高野博士も亦之に賛し同時に八時間労働・監督官設置及労働組合の必要を主張せり、小野塚博士は断片的に八方攻撃を為し、主従関係説を揶揄し人格尊重説を唱道せしに、添田博士は包囲攻撃の中に在りて憤然椅子を蹴て立ち、諸氏は余の説を誤解せり、余の所謂主従関係とは上を救ひ下を憐むの意なりと絶叫し、一時殺気場に満ちたりしも、神戸・筧両博士の中和説も出でゝ事治まり、島田三郎氏の批判演説に次ぎ、下村貯金管理所長の白国労働者家屋制度の談ありて午後六時散会せり



〔参考〕工場法と労働問題 社会政策学会編 第三三―四三頁 明治四一年四月刊(DK270109k-0004)
第27巻 p.376-377 ページ画像

工場法と労働問題 社会政策学会編  第三三―四三頁 明治四一年四月刊
 報告者 法学博士 田島錦治君
○上略
 熟ら此の維新以来の日本の此の大和民族の政府の採りました所の経済策を見ますといふと、私は総てとは申しませぬが、どうも此の資本の保護、或は企業者の保護といふ方に片寄つて居りはせぬかと思ふのであります。 ○中略
勿論資本保護といふ事は決して悪い事でありませぬ、企業の保護といふ事は決して悪い事でありませぬ、即ち資本を保護し企業を保護すれば、間接に労働者も恵みを受けるから、決して悪い事ではありませぬが、併し日本の政府が直接に労働者を法律規定を以て保護した事があるか、少くも中央政府が、若しあるならば極小さいものであります、直接に労働者を保護する法律案といふ様なものは、此処に掲げてあります様な工場法であります、是は金井博士が言はれた工場法、一名労働者保護法と言つても宜い、是は無い、直接に労働者を保護する所の工場法の如きものが出来たならば、資本主はどうか、雇主はどうかと
 - 第27巻 p.377 -ページ画像 
言へば、其保護の利益を受けるといふ事も確実であります、若し直接に資本主を保護する為に、其の保護が間接に、労働者に利益が行くといふ場合もありますし、行かない場合もあります、それから直接に労働者を保護した所の工場法といふ者は、只一時は資本主に向つて利益は行かぬ様であるけれども永久には行くのであります、一二の資本主には行かぬかも知らぬが、全体には行くといふ事になる、さふいふ風の工場法でなければならぬ、是が諸君の討議を煩はす所の者である、今申した通り、我国の維新以来の国是は、直接に労働者を保護した様なものは余り無い、若し有るとしたならば、植民者移住者に鉄道の割引をして乗せて呉れる位の事である。
○中略
此次には桑田先生の詳密なる報告があるさうであります、其前に渋沢男爵のお話があると云ふことを承りました、私は長く諸君の清聴を汚して、あとの演説者の妨げをしてはなりませぬから、是で壇を降ります。(自午前十一時十分至同十一時三十九分)

    社会政策学会趣意書
 近時我邦の実業は長足の進歩を為し、国富の増進誠に著しきものあり、是れ余輩の大に悦ぶ所なり、然れども之が為めに貧富の懸隔稍や其度を高め、随て社会の調和次第に破れんとするの兆有り、殊に資本家と労働者との衝突の如きは已に其萌芽を見る、余輩思て此に至る毎に未だ嘗て悚然たらずんばあらず、今にして之が救済の策を講ぜずんば後日臍を噬むも其れ或は及ぶこと無けん、殷鑑遠からず夫の欧洲に在り、於是乎余輩等相集つて本会を組織し、此問題を研究せんと欲す余輩は放任主義に反対す、何となれは極端なる利己心の発動と制限なき自由競争とは、貧富の懸隔を甚たしくすればなり、余輩は又社会主義に反対す、何となれば現在の経済組織を破壊し、資本家の絶滅を図るは国運の進歩に害あればなり、余輩の主義とするところは現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に於て箇人の活動と国家の権力とに依て階級の軋轢を防ぎ、社会の調和を期するに在り、此主義に基きて内外の事例に徴し、学理に照し、社会問題を講究するは実に是れ本会の目的なり、敢て此に趣意書を草して、江湖の諸子に告ぐ
   ○風早八十二氏ハソノ著「日本社会政策史」第一三八―一四二頁ニ於テ工場法成立ノ経過ニ就イテ述ベ、栄一ノ該法ニ関スル意見ノ推移ニ触ル。参照スベシ。