デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
2節 演芸及ビ美術
4款 帝国劇場
■綱文

第27巻 p.409-416(DK270114k) ページ画像

明治39年10月18日(1906年)

明治三十八年末頃ヨリ、伊藤博文・西園寺公望・福沢捨次郎及ビ栄一外数名、相謀リテ欧米風劇場新設ノ件ニ関シ屡々協議ス。ソノ後機運熟シ栄一大倉喜八郎・浅野総一郎・早川千吉郎・荘田平五郎・福沢捨次郎・園田孝吉外数十名発起人トナリ資本金百二十万円ヲ以テ帝国劇場株式会社設立ヲ企画ス。是日並ニ十二月七日発起人会開催セラル。栄一創立委員長ニ推サレ、之ヲ承諾ス。


■資料

帝劇十年史 杉浦善三著 第七―一〇頁 大正九年四月刊(DK270114k-0001)
第27巻 p.409-410 ページ画像

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竜門雑誌 第二二〇号・第四二頁 明治三九年九月 ○帝国劇場株式会社設立計画(DK270114k-0002)
第27巻 p.410 ページ画像

竜門雑誌  第二二〇号・第四二頁 明治三九年九月
○帝国劇場株式会社設立計画 同会社設立計画は発起人間の内協議も漸く進捗したる由なるが、其の発起人は青淵先生を始め大倉喜八郎・浅野総一郎・早川千吉郎・近藤廉平・荘田平五郎・福沢捨次郎・園田孝吉外四十余氏にして、資本金は百二十万円とし、内金七十八万円を劇場建築費に、金十二万円を土地買入費に、金十万円を道具衣装資金に、金二十万円を運転資金に充つる予算にして、総建坪は八百七十二坪とし、三層四階より成り、煉瓦石花崗石を混用し、鋼鉄材を筋骨として火災・震災の予防を充分に図り、又場の内部は間口二十八間・奥行三十七間にして、之を五等に区分し、別に中央正面の二階を貴賓席に充て総定員二千人、座席には総て番号付の椅子を用ひ、観覧料は特等金三円・一等金二円・二等金一円五十銭・三等金一円・四等金五十銭位の予定にて、観覧切符は開演数日前より発売し、観客をして自由に観覧の日を選むことを得せしめ、開演時間は夏期は午後七時より十一時迄、冬期は午後六時より十時迄とし、大体四時間を制限とする等万事改良を旨とし、脚本の如きは別に専属の作者を置かず、時々懸賞法に依り新作脚本を募り、優等なるものを選抜し又は同作を補正して劇に上せ、俳優は新旧両派より技芸・品性共に他の模範たるべきものを選みて場に上らしめ、以て帝国演劇の真美を発揮せしむるを努むる由なり


中外商業新報 第七五一四号 明治三九年一二月九日 ○帝国劇場会社創立(DK270114k-0003)
第27巻 p.410-411 ページ画像

中外商業新報  第七五一四号 明治三九年一二月九日
    ○帝国劇場会社創立
 - 第27巻 p.411 -ページ画像 
帝国劇場株式会社発起人会は七日築地瓢屋に於て開かれ、伊藤侯・西園寺侯・林子等も出席して直接間接助力すへき旨を約諾し、其創立委員長には渋沢男爵、委員には福沢捨次郎・荘田平五郎・西野恵之助・福沢桃介・日比翁助・益田太郎・田中常徳・手塚猛昌の諸氏を選定したり、同会社は去月其組織を変更したる歌舞伎座と合併し、大劇場を設立する迄には同座に改築を施して興行をなす筈なるが、其改築方法は和洋両者の粋を抜き、正面に内外国貴賓及宮内官吏等の坐席を設けて高貴の方々の御観覧に差支なからしむべき趣向なり、又大劇場建設には約二ケ年以上の歳月を要すべく、其附属事業として男女両優の養成所をも設立すべき計画なりと云ふ


竜門雑誌 第二二三号・第四六頁 明治三九年一二月 ○帝国劇場株式会社創立(DK270114k-0004)
第27巻 p.411 ページ画像

竜門雑誌  第二二三号・第四六頁 明治三九年一二月
○帝国劇場株式会社創立 予て計画されつゝありし同社発起人会は、本月七日築地瓢屋に於て開かれ、伊藤侯・西園寺侯・林子等も出席して直接間接助力すべき旨を約諾し、其創立委員長には青淵先生、委員には福沢捨次郎・荘田平五郎・西野恵之助・福沢桃介・日比翁助・益田太郎・田中常徳・手塚猛昌の諸氏を選定したり、同会社は去月其組織を変更したる歌舞伎座と合併し、大劇場を設立する迄には同座に改築を施して興業をなす筈なるが、其改築方法は和洋両者の粋を抜き、正面に内外国貴賓及び宮内官吏等の座席を設けて高貴の方々の御観覧に差支なからしむべき趣向にして、又大劇場建設には約二ケ年以上の歳月を要すべく、其附属事業として男女両優の養成所をも設くる計画なりと云ふ


竜門雑誌 第二二四号・第四一頁 明治四〇年一月 青淵先生と帝国劇場会社(DK270114k-0005)
第27巻 p.411-412 ページ画像

竜門雑誌  第二二四号・第四一頁 明治四〇年一月
○青淵先生と帝国劇場会社 青淵先生が委員長たる帝国劇場創立委員は、旧臘三十日に第一回委員会を、本月十二日第二回委員会を、同二十一日第三回委員会を開会して着々創立事務の進行中なり
第一回委員会の決議左の如し
 一、劇場位置を先づ丸ノ内と予定し、速に設計を技師横河民輔氏に依頼する事
 一、株式二万四千株の内発起人及び賛成人に於て既に二万株余約束済となりしを以て、今後広告募集を為すことは見合せ、同好及び知友間に分配満株とする事
 一、創立事務の進捗を計る為め、当分毎週一回定期に創立委員会を催ほす事
第二回委員会の決議左の如し
 一、予約株は略ぼ満株を告げたるに付、二月初旬を期し第一回払込(一株十二円五十銭)をなさしむること
 一 払込銀行を第一銀行・三菱銀行・村井銀行・帝国商業銀行とする事
 一、設計及工事監督に関し横河技師との間に取結ぶ条件のこと
 一、背景及道具仕掛研究の為め適任者各一名宛を人選し、至急海外に派遣する事
 - 第27巻 p.412 -ページ画像 
第三回委員会の決議左の如し
 一、第一回払込を来る二月八日と定むる事
 一、創立費を金五千円以内と定むる事
 一、劇場を帝国劇場と命名する事
 一、意匠家に嘱托し嶄新なる徽章の制定を為す事


青淵先生関係会社調 雨夜譚会調 昭和二年七月二九日(DK270114k-0006)
第27巻 p.412-413 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会調  昭和二年七月二九日
                     (渋沢子爵家所蔵)

図表を画像で表示青淵先生関係会社調 雨夜譚会調

 帝国劇場株式会社 一、創 立      明治四十年二月廿八日(但し劇場を開いたのは四十四年三月) 一、資本金      百二十万円(創立当時)            百四十万円(大正九年四月三十日有楽座合併増資)            二百万円(大正十三年十一月廿七日増資)            二百三十万円(大正十四年五月五日東京会館合併増資)            三百四十五万円(大正十五年五月廿八日東京会館修理費支出の為めに増資) 一、場 所      東京市麹町区有楽町一ノ一 一、創立当時の目的  当会社は演芸其他各種演芸の興業を為し、併せて劇場賃貸の業を営むを以て目的とす。 一、創立当時の関係人 創立主唱者 伊藤侯爵・西園寺侯爵・林子爵。            創立発起人 青淵先生・大倉喜八郎等三十名。            創立委員長 青淵先生            創立委員  福沢捨次郎・荘田平五郎・手塚猛昌・日比翁助・福沢桃介・益田太郎・田中常徳西野恵之助。 一、青淵先生との関係 創立発起人たり。            創立委員長たり。            創立に及んで第一回取締役会長として明治四十年二月廿八日より大正三年七月廿三日まで就任。 一、創立迄の沿革   西野恵之助氏談、「帝国劇場株式会社目論見書」及「創立略歴に対する渋沢男演説要旨」を参照。 一、創立後の沿革   イ (第一回報告書)明治四十年二月廿八日午後二時東京市麹町区有楽町一丁目一番地東京商業会議所に於て当会社創立総会を開く、出席人員委任状共壱百九名此株数一万八千六百三十株、男爵渋沢栄一氏会頭席に就き先づ当会社発起以来の経過略述あり云々。              取締役に男爵渋沢栄一・大倉喜八郎・福沢桃介・西野恵之助・日比翁助・益田太郎・田中常徳・手塚猛昌の八氏を、監査役に浅野総一郎・村井吉兵衛の二氏を選挙。            ロ 四十二年七月十五日より帝国女優養成所は同所長川上貞子の申出により当会社に引継ぎ、附属技芸学校と改め直轄経営することゝす。  以下p.413 ページ画像             ハ 四十三年九月十六日その第一期卒業生十一名を出す、その重なものは初瀬浪子・河村菊枝・村田かく子森律子等。            ニ 四十四年三月一日・二日の両日午後四時より朝野内外の紳士淑女二千余名を招請して開場式を挙行したり、式は取締役会長渋沢男の演説、工事担当者横河技師の報告、来賓の演説祝詞(第一日の来賓祝詞は桂侯爵・清浦子爵・阿部東京府知事、第二日西園寺侯爵・林伯爵・尾崎市長)に次で「式三番」一幕・史劇「頼朝」一幕(旧派俳優演)・喜劇「最愛の妻」一幕(新派俳優演)・西洋踏舞「フラワー・ダンス」一幕(女優演)を演舞し、両日共午後十一時を以て目出度散会を告げたり。            ホ 大正九年四月三十日株式会社高等演芸場有楽座を合併同時に資本金を百二十万円より百四十万円に増資            へ 同十二年九月一日震災の厄に会ひ、外廓を残して内部は悉く灰燼に帰し、後暫く演芸中止。            ト 斯くて改築中は帝国ホテル・報知講堂・南座等に於て各種の臨時興業を為す。            チ 同十三年十月十一日改築工事成り、同十月二十日より開場。            リ 十一月廿七日帝劇事務所の臨時総会に於て、資本金を百四十万円より二百万円に増資するの件を決議。            ヌ 同十四年五月五日株式会社東京会館を合併。              同時に資本金を二百三十万円に増資。            ル 同十五年五月廿八日東京会館改築の為め資本金を参百四拾五万円に増資。 一、建築様式     帝劇の建築は「ルネザンス」様式の宏麗な四層楼、皇居のお濠に望み四隣の風致と調和して、帝都の一美観たるを辱しめぬ。 一、有楽座      数寄屋橋々畔に建てられた三層建築物で、所謂少数の高級芸術フアンに最も適切な現代的理想の小型観劇場として各種演芸の興行、技芸諸団体の演習・試演等に好評を博してゐたが、大地震の災禍を受け焼失。 一、東京会館     帝国ホテルが借受けて営業中である。 





青淵先生関係会社調 雨夜譚会調 昭和二年七月二九日 【帝国劇場株式会社 西野恵之助氏談】(DK270114k-0007)
第27巻 p.413-415 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会調  昭和二年七月二九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    帝国劇場株式会社
      西野恵之助氏談(昭和二年七月廿一日芝白金三光町自宅訪問)
創立の動機はですネ、サー私の聞てゐる限りでは、明治卅八年アーサオブ・コンノート殿下の来朝の時、我朝野の人々が歓迎会を催して歌舞伎座へ招待しました。其時私詳しい事は知りませんが、三万円か五
 - 第27巻 p.414 -ページ画像 
万円の費を投じて、電気装置や舞台装置を施したのです。それまでは歌舞伎座は電気がなかつたんですよ。そうして国賓を迎へたわけだが途中で電気が、二・三度消えたりして誠に具合が悪かつたんです。これに感じて、外賓を迎へて辱しからぬ劇場を建てたいと云ふ事になつたのです。これは国際的な体裁上の必要から生じた動機ですが、対内的即ち内輪の動機がモー一つありました。
我国の劇は徳川時代から相当進歩して来たものです。ところでこれに伴ふ観劇の方法として種々弊害がありました。例へば芝居茶屋にしましても、芝居見物者は茶屋の手を通して観劇しなければならない。それも申込順によるのでなく、所謂茶代の多い少いの順ですから金が相当かゝる。のみならず種々なものを買されたりして、簡単に観劇し得られない習慣があつたのです、で此の習慣を除かねばならぬ、と云ふのがモー一つの動機でした。
此の二つの原因で新に劇場を設立することになつたのです。而し芝居屋《(小脱カ)》を立てるのに対して地位ある人は容易に金を出さうとしません。何でもこんな議論をする者もあつたんですからね――役者を踊らせて、それに依つて得た利益を配当するなんか怪しからんと云ふ者があるかと思へば、演劇会社なんか起したつて収益はありやしない、――など今から見ると可笑なことです。
当時伊藤さんが総理大臣をして居られた。そして伊藤さんから子爵に新劇場設立に尽力を頼むと云はれたのだが、此は伊藤さんから命令的に子爵が創立委員長を頼まれになつた様なものです。これが明治卅九年の五・六月だと思ひますが、判きりしたことは一寸記憶にありません。さう云ふ事から、子爵は帝劇の創立に大いに尽力され、これに三菱の荘田平五郎さん、時事新報社長の福沢捨次郎さんが力添をされたわけなんです。其他の関係者として益田太郎さん、それに私位のものですネ。アそれから大倉喜八郎さんが居られる。大倉さんも大変尽されました。其創立に付ては益田君が演劇の方を引受け、私が事務を担当する事になつたのです。
帝劇の建設と云ふものは伊藤さんが云ひ出して、子爵が運動の衝に当られたのですが、此の計画には西園寺さん、それに当時の外務大臣林(董)さんから賛成して一般の輿論を得た次第です。
劇場建設には四年掛りましたよ。尚従来は日本の芝居には女形が居て女優などはなかつたのを、建築中に女優学校を造つて子爵は其総理になられ、大倉さんと一処に女優養成に力を致されました。現在森律子村田嘉久子・初瀬浪子などの立派な女優が出て居ますのも又子爵のお陰です。

高等演芸場は云つて見るとマー仕掛の大きい寄席です。英語の所謂ミユージツク・ホールです。
此は帝劇の創立と相前後して、柳沢伯が起されたもので、帝劇と相俟つて演劇界の新興を促して居たのです。其後大正九年に大倉さん、根津嘉一郎さんとが、仲介して帝劇に合併する事になりました。

 - 第27巻 p.415 -ページ画像 
東京会館は、藤山雷太さんが創立されたもので、外賓接待の大宴会場が東京に欠けてるところから、同氏が思ひ立たれたのです。ところが開業して一年ばかりやつて居ると、例の十二年の大震災で大分いたみましたけれども会社自体では修理する余裕が無いと云ふので帝国劇場に合併したわけです。帝劇は此れに依つて益々設備具はり品格が完備したと云ふものです。



〔参考〕実験論語処世談 渋沢栄一著 第六六〇―六六二頁 大正一一年一二月再版刊(DK270114k-0008)
第27巻 p.415-416 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著  第六六〇―六六二頁 大正一一年一二月再版刊
 ○帝国劇場設立の由来
    ○渋沢は義太夫ぐらゐは語る
 私はこれでも音楽は少し解る方だ。芸者の唄つてるものを聴いても直ぐ拙いか巧いかの見当はつく。若い時分には芸者から教へられて、少しは自分で唄ひもしたもので、義太夫・長唄・常盤津・清元・一中節ぐらゐの別は知つてるのだ。就中義太夫の方ならば之に就いての話も能きれば、又少し自分で演れもする。身を入れて稽古したら、一段ぐらゐは語れぬでも無からうと思ふ。私が斯く義太夫に趣味を持ち、義太夫を多少理解し、少しぐらゐは語れるといふほどになつてるのは郷里の血洗島と申す地方が、大層義太夫の流行る土地で、亡父も大変義太夫を好き、田舎義太夫ではあるが、兎に角相当に語れたもんだから、慰みに其処此処と語つて歩るいたりなどしたので、自然幼少の頃より其の感化を受けた結果である。
 今の帝国劇場を創立するのに、私が多少骨を折るやうになつたのは私が多少芸事を解るからでもあるが、その趣意とする処は帝国ホテルを設立するに尽力したのと同一で、外国貴賓の来朝せられた際に、その観覧を仰ぐべき演芸の場所が無いから、之に利用し得らるゝ建物を一つ設けて置きたいと思つたのと、又一には之によつて演劇改良の道を講じたいと思つたからだ。素と演劇改良論は風俗改良会から起きたもので、福地桜痴なぞが切りに之を唱道し、当時福地は私に勧め、自分は技芸方面を担当するから、お前は経営やら事務の方を受持つてくれとの事であつたのである。私はそれも可からうといふので、その気になつてる中、福地は自分で歌舞伎座に関係し、俳優や興行師とも密接の間柄となり、全く芝居道の人になつてしまつたのである。それでは演劇改良事業に福地を親しく関係さしては却つて面白く無いからとの事で、この事業も一時沙汰止みに成つてしまつたのだ。
 然るに福沢諭吉氏が、その発頭人に成つたわけでもあるまいが、福沢捨次郎氏其の他慶応義塾出身の人々が意見を纏めて明治三十九年頃伊藤公の許へ押しかけて行き、是非演劇改良の事業に力を添へてくれよと相談を持ちかけたのである。その結果、築地の瓢家で会合し色々と話を進めたのだが、会合の当日私は折悪しく箱根に行つて出席しかねたもんだから、その罰だといふので、席上委員を選んだ際に、私は委員長を仰せ付けられたのである。東京に帰つて伊藤公より斯の趣を聞知し、是非それを受諾せねばならぬ事になつたので、帝国劇場の設立に力を尽すに至り、資本金を百万円として始めたのだが、最初はオペラ懸つたものを上演する予定であつたにも拘らず、それでは迚も経
 - 第27巻 p.416 -ページ画像 
営が能きかねるからといふので、西野恵之助氏が最初の専務取締役となつて諸事を切り廻し、結局今日の如き状態に落着いたのである。幸に昨今では帝国劇場も、経営上に左までの困難を感ぜぬやうになつたから、誠に仕合せに思つてるが、外部の形式だけは進歩しても、内容の進歩之に伴はず、予期の如く之によつて演劇の改良の実を挙げ得ぬ憾みが無いでは無い。然し設備其他に於て、多少なりとも帝劇が日本の演劇改良に貢献した所はあらうと思ふのだ。



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三九年(DK270114k-0009)
第27巻 p.416 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 晴 風ナシ            起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 七時 ○午後新橋ニ着ス、花月楼ノ集会ニ出席ス、伊藤侯爵・近藤・加藤・早川・福沢、其他十数名来会ス、新劇場創立ノ事ニ関シ種々ノ協議ヲ為ス ○下略
   ○中略。
一月十八日 曇 風ナシ           起床七時 就蓐十一時
○上略 三時銀行集会所ニ抵リ、劇場新設ノ事ニ関シ協議会ヲ開ク、種々議論アリテ後、兎ニ角一案調査ノ事ニ決シ、委員七名ヲ定ム、余ハ自ラ委員長タリ、福沢・益田・高橋・田中・手塚・日比ノ六名ヲ指命ス ○下略
   ○中略。
二月十四日 晴 風寒シ           起床七時 就蓐午前二時
○上略 三時銀行集会所ニ抵リ、劇場新設ノ事ニ関シ川上音次郎等ト会談ス ○下略
   ○中略。
三月二十三日 曇 風ナシ          起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 三時過事務所ニ抵リ、手塚・横河両氏ト劇場新築ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
四月十二日 半晴 微寒           起床六時二十分 就蓐十二時
○上略 午後六時瓢屋ニ抵リ、演劇改良ノ件ニ関スル会同ニ列ス、西園寺侯爵来会ス、夜十時散会 ○下略
   ○中略。
六月五日 曇 薄暑             起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 十二時銀行倶楽部ニ於テ福沢・高橋・益田・田中・手塚ノ諸氏ト劇場ノ事ヲ談ス ○下略