デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
2節 演芸及ビ美術
7款 帝国女優養成所
■綱文

第27巻 p.436-439(DK270125k) ページ画像

明治41年9月15日(1908年)

是ヨリ先、女優川上貞奴、女優養成所設立ヲ企テ、栄一・大倉喜八郎等ニ賛助ヲ求ム。帝国劇場株式会社ハ右事業経費ヲ補助シ、又同会社重役タル栄一・大倉喜八郎等ハソノ賛助員トナル。是日、帝国女優養成所開所式芝区新桜田町ニ開カレ、栄一之ニ出席シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

(帝国劇場株式会社)第三回報告書 明治四一年上半期・第三頁 刊(DK270125k-0001)
第27巻 p.436 ページ画像

(帝国劇場株式会社)第三回報告書
                明治四一年上半期・第三頁 刊
 ○第三回報告書
    第二 事業ノ経過
○上略
先程欧洲ヨリ帰朝セル女優川上貞奴ヨリ、女俳優養成ノ件ニ付申出アリ、当社ハ創立費及経費ノ内ヘ金若干宛補助スルコトトシ、以テ女優ノ養成事業ニ対シ賛助スル所アリタリ


(帝国劇場株式会社)第四回報告書 明治四一年下半期・第二頁 刊(DK270125k-0002)
第27巻 p.436 ページ画像

(帝国劇場株式会社)第四回報告書
                 明治四一年下半期・第二頁 刊
 ○第四回報告書
    第二 事業ノ経過
○上略
本会社補助ノ下ニ成レル帝国女優養成所ハ、九月十五日ヲ以テ開始セリ、生徒拾数名、日々必須ノ課程ヲ授ク、創設後日尚ホ浅シト雖、其成績稍ヤ見ルベキモノアルニ至レリ


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK270125k-0003)
第27巻 p.436 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
九月十五日 曇 涼
○上略 午後一時女優養成所ニ抵リ、川上貞奴及女優企望者其他ノ来会者ニ対シテ一場ノ訓示演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第二四四号・第七〇―七一頁 明治四一年九月 ○女優養成所開所式(DK270125k-0004)
第27巻 p.436-437 ページ画像

竜門雑誌  第二四西号・第七〇―七一頁 明治四一年九月
○女優養成所開所式 帝国座の補助の下に成れる川上貞奴の女優養成所は、本月十五日午後一時より芝桜田本郷町の同所に於て開所式を執行せり、当日は青淵先生を始め大倉喜八郎・西野恵之助・福沢桃介・益田太郎等帝国座関係の人々、其他賛助員たる演芸倶楽部の諸氏出席し、貞奴先づ挨拶を述べて教師及生徒十五名を紹介し、次に青淵先生は左の演説を為し、最後に演芸記者を代表して中西蝶二氏謝辞《(中内蝶二氏)》を述べ午後三時式を終れり
 - 第27巻 p.437 -ページ画像 
渋沢栄一は芝居などの分る人間では無いが、帝国劇場会社にも関係して居り、今度設立された川上夫人の女優養成所には非常に賛成を表するものである。我国の文明は其源遠しで、決して明治の時代に西洋の文物が入つて始めて文明になつたと云ふ訳では無いが、東西国情を異にし古今人情の同じからざるものあり、徳川三百年時代の如きは、殊に著しく私共の間違つてゐたと感ずる事が多い、先づ第一に尊ばなければならぬものを、非常に賤しめて居たものが三つある、第一は実業家で、第二は女、第三は俳優である。封建時代に実業家を賤しめた事は諸君も御承知の通りだ、町人百姓といへば殆ど人間ではないやうに云つて居た、尤とも是は封建時代に始まつたので無く、一千年前の紀貫之の古今の序にも、商人の美き衣着たると云ふことが書いてある、徳川時代の大儒荻生徂徠なども「道は大夫以上の者也」と明言して居る、芝居を見ても鏡山の岩藤が「町人は賤しき者と思ひしに」と云つてるではないか、此風が明治時代にまで残つて実に困つた、栄一などは之を打壊すべく随分苦心した、百姓町人の位置も今日では大分高まつて来た事と思ふ、其次は女だが所謂「女子と小人は養ひ難し」で、非常に侮蔑されて居たものだ、併し是も追々よくなつて来るやうだ、俳優に至つては河原者と云つて、丸で□□同様に卑しめて居た、其癖芝居を喜んで見ないものは無い、上流の御殿女中なども随分芝居を見たものだ、芝居は文学・美術を事実に活動さするもので、御覧なさい大石内蔵介が如何に忠臣義士ぢやからと云つて、堀越の如き名優が演つて見せなければ、人を感動さすることは出来ないではないか、又袈裟御前の如き貞女も、之れを上手な女俳優が演つて見せたら大に他を感動さするだらうと思ふ、今度川上夫人の趣旨に基き、女優たらんとの企望を以て養成所へ御志願になつた諸嬢を見るに、いづれも御身分の有る方らしいのは私の大に喜ぶ所だ、併しこれ迄社会から賤しめられて居た女に生れ、社会から賤しめられてゐた俳優に成らうとされるのは、社会から賤しめられた実業家たる私共の、非常に御同情申す所である、どうか妙齢の婦人にして最も戒むべき品行を慎み、他から侮を受けないやうに立派な女優になつて下さい、この栄一も明年は七十といふ年になる、長生をすれば斯ふ云ふ席に列することも出来ると欣喜に堪えない次第である云々



〔参考〕都新聞 明治四一年八月一日 女優養成所(DK270125k-0005)
第27巻 p.437-438 ページ画像

都新聞  明治四一年八月一日
    女優養成所
 川上貞奴が兼て計画中の女優養成は、内部の準備整ひて弥よ発表する事となりたり、右に付帝国劇場株式会社にては此事を賛助し、創立の費用の内へ金五百円と、外に毎月百円宛を補助なす事を申込み、尚重役たる渋沢男爵を始め、大倉喜八郎・福沢桃介・田中常徳・益田太郎・西野恵之助の諸氏及び知名の紳士は署名して賛助員となり、各劇評家の団体たる演芸記者倶楽部は悉く之に賛成したりと。養成所は帝国女優養成所と名付け、九月一日より開演する筈にて、場処を選定中当分の内木挽町十丁目七番地へ事務所を置き、十六歳以上廿五歳まで
 - 第27巻 p.438 -ページ画像 
の高等小学校卒業の者、若くは同程度の婦女を募集する由にて、応募者は本人の写真・履歴書を添へて事務所へ申込み、採用の上は市内に二名の保証人を要すること、但し規則は追つて記すべし。



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四一年(DK270125k-0006)
第27巻 p.438 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
九月九日 半晴 冷
午前六時起床、入浴シ畢テ川上貞奴ノ来訪ニ接シ女優養成ノ事ヲ談話ス ○下略



〔参考〕東京朝日新聞 第七九二八号 明治四一年九月一六日 ○女優養成所開所式 髪結床の二階で(DK270125k-0007)
第27巻 p.438 ページ画像

東京朝日新聞  第七九二八号 明治四一年九月一六日
  ○女優養成所開所式
    髪結床の二階で
其の名は頗る立派の帝国女優養成所の開所式といふものが、昨日芝区新桜田町の理髪店大庭方二階の一隅で開かれた、場所は僅か十七畳半といふ大したものだが、集つた人々は渋沢男爵を筆頭に、大倉・益田福沢の諸名家を始めとして、女優養成所の賛助員といふ立派な人々の顔触であつた、斯くて所長のマダム貞奴が出て来て挨拶がある、続いて及第の女優が十五名と所謂御師匠さんがづらりと目白鳥押に並んだが、写真面と素顔とは大分の相違があつたやうだ、夫が何う違つてゐるかは此に明言の必要もないであらう
軈て渋沢男は起て女優一同に対ひ『私もこれ来年が七十だ齢を取ると色々面白い目に会ふものだ』と冒頭をおいて、『従来世間から賤しめられてゐたものが三つある、一つは私の様な商人で、これを素町人といつたものだ』と古今集や徂徠やを引張り出して噛んで含めるやうな説明を与へ『次は女子と俳優だ、女子と小人は養ひ難し、又役者は磧者と世間から賤められたものだ、私は其の賤められた一の素町人の立場から、大に女子と役者に同情を表する』とて手前味噌やらお世辞やらを撒布たのは、如何にも如才なかつた、男爵の演説が終ると、演芸記者倶楽部を代表した中内蝶二先生が、女優に望むと云ふやうな頗る結構な御趣意の挨拶があつて、之れが終ると再び貞奴が現れ『精々品行を慎みますから、何うぞ皆様御助けを願ひます』と大芝居をやつてこゝに芽出たく開所式を終つたが、何となく一座がジメジメとしてどうやらお通夜にでも呼ばれたやうな気がしたのである、失敬(記者)



〔参考〕帝劇十年史 杉浦善三著 第一一九―一二二頁 大正九年四月刊(DK270125k-0008)
第27巻 p.438-439 ページ画像

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