デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第27巻 p.473-478(DK270130k) ページ画像

明治42年3月20日(1909年)

是日、兜町事務所ニ第二回昔夢会開カレ、栄一出席ス。


■資料

昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻・第二七―四〇頁 大正四年四月刊(DK270130k-0001)
第27巻 p.473-478 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻・第二七―四〇頁 大正四年四月刊
  第二
      明治四十二年三月二十日兜町事務所に於て

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  興山公    男爵     渋沢栄一   豊崎信君         渋沢篤二         法学博士男爵 阪谷芳郎         文学博士   三上参次         文学博士   萩野由之                江間政発                小林庄次郎                渡辺轍                高田利吉 


    ペリー渡来の時の御建白の事
 米使ペリー渡来して、幕府より意見を徴されたる時の御建白書、嘉永明治年間録に見え申候、事実に候や。
事実なり。初近臣鈴木有之丞 ○新。に命じて認めさせたるに、有之丞は相応に学問もあり、文才もありたるにより、和漢の故事など引きて、堂々たる建白書を綴りたれども、当時予は未だ子供なれば、是にては似合はしからずとて、かの如き簡単なるものに認めかへたるなり。此時は勿論、ハルリス渡来の頃にありても、尚外国の形勢に至りては全く不案内なれば、確乎たる対外意見の立つべき筈なし。田安 ○中納言徳川慶頼。とても同様なりしこと疑を容れず。
    ハリス出府の時の御建白の事
 安政四年、米使ハリス出府の時の御建白書なるもの、堀田正睦外国掛中書類に見え、同時に御家老へ御直書を賜ひて、御家中の意見を徴させられしこと、如是我聞に見え申候。又此時、「烈公より決して御無言なるべしと、いつになく厳しく制し止めさせ給ふ」と昨夢紀事に見え申候。孰も事実に候や。
建白書も直書も事実なれども、此事について烈公より仰せ越されたることは記憶せず、恐らくは誤ならん。固より如何なる上書をなすも予の勝手にて、烈公よりさる指図をなさるゝ筈なければなり。
    三老中と御激論の事
 - 第27巻 p.474 -ページ画像 
 安政四年十一月二十八日、営中御扣所にて、堀田備中守正篤、後に正睦と改む。松平伊賀守忠優、後に忠固と改む。久世大和守広周。の三老中を御引見あらせられ巳の半刻より未の半刻まで何事をか御激論あらせられし由、昨夢紀事に見え申候。或は老中が御養君問題について公の御意中を探らん為、殊更に公を御養君に推戴したしなど申出でたるにはこれなく候や。
三人と対談の事は全く無根の虚構説なり。且両人のみ対談の席ならばいさ知らず、老中三人まで列席の上にて、貴卿を御養君になどゝいひ出すは、たとひ予が辞退すとも、無理にも御請せしむるまでに閣議決定せし上ならではあるまじきことなり。
 按ずるに、公が有司・大名を呼ばせらるゝには、堀田・久世などゝ姓のみを称せらるることなきにあらねど、多くは姓名を併せ称して堀田備中・久世大和などゝ称せられ、又単に備中・大和などゝも称せらる、蓋し当時の慣例なり。
    養君御辞退の事
 平岡円四郎、松平越前守慶永、後に春岳、また大蔵大輔と称すを後見とするの条件を以て、頻に公に御養君たらんことを勧めまゐらせたれども、聴き入れ給はず、「此事は既に伊賀松平忠固。大和久世広周。に断りて済みたり」と仰せられ、又徳信院太夫人御先々代一橋民部卿慶寿卿夫人、名は直子、伏見宮貞敬親王の女。公の御養君たらせ給はんことを聞きて歎かせられしにより、公より大奥の模様を探らせられしことこれあり候由、昨夢紀事に相見え候、事実に候や
予を御養君となさんとて種々周旋する者ある由は、かねがね諸方より聞き及べるのみならず、越前守、及川路左衛門尉 ○聖謨、後に敬斎と称す。岩瀬肥後守 ○忠震、鷗所と号す。又は松平薩摩守 ○島津斉彬。などよりも、同じ意味よりして、学問の必要なること、身体を大切にすべきことなどにつきて注意を受けたることあり、且円四郎よりも切に御養君たらんことを勧めたれども西丸へ入りたりとも、何の見込も立たねば、固く之を辞したり。但円四郎が、越前守を後見たらしめんとの条件を以て勧めたることはなかりしと覚ゆ。又「伊賀・大和に断りて済みたり」といへりとあるは虚説なり。尤も堀田備中守へなりしか、本郷丹後守 ○泰固。へなりしかは記憶せざるも、「御養君一条は固く御辞退申す」といひしことはありしやに覚え居れり。こは備中守の上京前なりしか上京後なりしか確ならず。
予が斯く御養君となることを嫌ひしは、当時の幕府は既に衰亡の兆を露せるのみならず、大奥の情態を見るに、老女は実に恐るべき者にて実際老中以上の権力あり、殆ど改革の手を著くべからず、之を引き受くるも、到底立ち直し得る見込立たざりしによれり。されば予は真実御請はせざる決心なりしなり。
徳信院様、いづれよりか予が遠からず御養君たるべき由を聞き及ばれ一夕共に晩餐をしたゝめたる席にて、「折角年頃馴染みたるものを、又又外へ移られんことは如何にも心細し」としみじみ仰せられしかば、予は「さまでに思召さるゝは有難けれども、自分は御養君の事は決して御請せざる決心なれば、御心安かるべし、ついてはさる仰せ出されのなき中、前以て御断り申し上げ置くべし」とて、「此事若し真実な
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らば御やめに相成るやうに願ひたし」との書面を認め、徳信院様の手を経て、老女万里小路徳信院様を京都へ御迎ひに行きたる人にて、斯かる人はいと親しき間柄なること常なり。へ遣はしたるに、「斯かるものを御差出にては宜しからず、但御趣意の程は上聞に達し置き申すべし」とて、徳信院様へ返し来りしことありたり。此頃大奥の様子を探り見しも事実なり。
たとひ御養君の御沙汰を蒙るとも、決して御請せざる決心なる由を、予より烈公へ書面にて申上げたることはあれども、此事について烈公より御書を下されしことは曾てなかりき。又御養君一条に関しては、一度も上書したることなし、事総べて自己の身上に関すればなり。
    大老老中御詰責の事
 安政五年六月、亜米利加条約調印の後、二十二日、公は大老井伊掃部頭以下老中一同を一橋の邸に召して、無断調印の事を詰責せんとし給ひしも、掃部頭の繁務に託して参邸せざるにより、翌日御登城の上、掃部頭を御詰問あり、又御養君の事、紀州家跡目の事、清水家存廃の事等につきての御質問あり、尋で久世大和守に向ひて、無断調印は台慮によれるか、老中の意に出でたるかと御詰問あり、又京都への御使未だ決せざるを見て、二十四日、将軍家に謁して直に御使を伺ひ定めんと仰せられしも、掃部頭等の懇願によりて御見合となれる由、昨夢紀事に相見え候、果してさやうに候や。
大老・老中を一橋の邸に召し寄せんとせしことは無根なれども、営中にて掃部頭に、無断にて調印せしことを単に宿継奉書にて上奏したる失体を詰責せしは事実なり。此事予め田安に打ち合はせ置かんとて、水野筑後守 ○忠徳、痴雲と号す。を呼びて対談せしに、筑後守の「好機会なれば十分掃部頭を御弁折遊ばさるべし」と申せしことは確に記憶せり。さて掃部頭は、「誠に已むを得ざる事情ありて、事此に至りしは恐れ入りたる次第なり」といひ、予は「已むを得ざる事情ある上は、致し方なけれども、唯奉書を以て届け放しにするは不敬なり」といひしやに覚ゆ。此時又掃部頭に、「御養君はもはや定まらせられしや」と尋ねたるに、「紀公と内定したり」と答ふる故、「そはめでたき事なり」といひしに、掃部頭は又、「紀州の跡には思召あらせられずや」といひしが、予は唯「ふゝん」とのみいひて何とも答へざりき。此時清水家存廃の事について掃部頭に尋ねたりとあるは誤にて、久世大和守を詰責したることも、御前を願ひて御使を伺ひ定めんとせしことも、共に全く無根なり。
因にいふ、掃部頭は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。而して其動作何となく傲岸にして、人を眼下に見下す風あり。蓋し体躯肥満して常に反身《ソリミ》をなせるより、自ら然か見受けられしものか。
 按ずるに、此御詰問の前日、公より御家老を以て「掃部頭に御逢あらせられたければ、一橋の邸へ来らるべきや、営中にて対面せらるべきや」と、井伊家へ仰せ遣はされしに、掃部頭は「此節御用多にて、御屋形へ罷り出づべぎ暇なければ営中にて御目通り仕るべし」と答へたる由、彦根藩公用方秘録に見えたれば、「大老・老中を召し寄せんとせしことは無根なり」と仰せられたるは、御記憶の誤なるべし。
 - 第27巻 p.476 -ページ画像 
    大久保忠寛の政権奉還説の事
 文久二年松平春岳の政事総裁たりし頃、一日大久保越中守忠寛、後に一翁と称す。営中にて諸役人に向ひ、「近年幕府の衰弊甚し、宜しく将軍家御上洛ありて、政権を朝廷に奉還し給ふべし。斯くて徳川家は諸侯の列に下り、駿遠参の旧地を領して、居城を駿府に定められんこと、至極の上策ならめ」といへるに、到底出来ぬ相談なりとて、満座哄笑せしことこれあり候由、逸事史補に見え申候、事実に候や。
越中守が斯かる説を唱へたることは知らざれども、当時は事聊面倒となれば、毎々此の如き言をなしたるものにて、多くは口先ばかりの空論に過ぎざりしなり。
    横浜鎖港御請振につき御激論の事
 元治元年二月十五日、公御参内あらせられ、横浜鎖港の御請振について、御簾前にて松平春岳・島津大隅守久光。・伊達伊予守宗城。と御激論あらせられ、翌日中川宮邸にて、又々宮を始め右の三人をいたく御論難遊ばされ候由、原市之進より美濃部又五郎茂定。野村彜之助鼎実。に贈れる書翰に見え申候、事実に候や。
概略本書の如くなれども、甚しく修飾に過ぎたり、殊に御簾前にてさまでに激論したりとは覚え居らず。中川宮邸にて暴論を吐きたることは確に記憶せり。予は此時、もはや鎖港は到底行はるべきにあらざれば、此際断然開港の方針に一変するこそよけれと考へたれば、二条城中にて、酒井雅楽頭 ○忠績。水野和泉守 ○忠精等に其事をいひ出でたるに、彼等は答へて、「今度将軍家御上洛あるについては、御出発前、御前に於て板倉周防守 ○勝静、後に伊賀守と称す。始めと評議して、決して薩州の開港説には従ふまじき由を決議したるなり。抑昨年御上洛の時には、長州の説に聴きて攘夷の議を決し、今年は薩州の説に従ひて開港の議に傾くが如きは、これ幕府に一貫の主義なくして、徒に外藩に翻弄せらるゝ姿となれば、断じて開港説には同じ難し」といへり。予は飽くまで開港を主張して、弁論時を移したる末に、「然らば貴所等は何処までも攘夷を可とせらるゝか」と念を押したるに、二人も「攘夷の行ふべからずして、開港の已むを得ざることは承知し居れり」といへり。時に何の故なりしかは記憶せざるも、御酒下されの事ありしかば、一杯元気にて尚も議論を続けたれども、彼等は「如何にするも薩州の説には従ひ難し」といひ、果ては、「若し強ひて薩州の説を容れんとならば、某等は直に袂を連ねて辞職せん」といへり。予は「さらば将軍家の思召によりて決すべし」とて、台慮を候したるに、「老中等のいへる通りなり」と仰せられしかば、今はせんすべなく、「畏まりぬ」とて御前を退き、それより中川宮邸に至りて、かの暴論に及びたるなり。されば当夜宮邸にて論ぜしことは、実は衷心に反せること勿論なり。其後江戸留守の板倉周防守に書通して、「如何なれば御上洛前に斯く愚なる決議をなしたるや」と詰りたるに、「さればこそ困ずるなれ、己は一にも二にも薩州の説に雷同すべからずとはいひたれども、善きも悪しきも一切其説に耳を傾くべからずといへるにはあらず」と答へ来れり。
 此時、「公が老中等を呼ばせらるゝには何と仰せられ候や」と伺へるに、「あなたといふ、三卿とても、老中に向ひて其方などゝいふもの
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にあらず」と仰せられたり。
    京都守護職更迭の事
 元治元年二月、京都守護職松平肥後守容保。軍事総裁に転じ、松平春岳其後を襲へるに、四月に至りて肥後守の復職したるは、如何なる事情に候や、或は公が松平讚岐守頼聡。を守護職たらしめんとの思召に出でたりとの説もこれあるやに候、如何に候や。
朝廷に於ける長州派は、肥後守を守護職になし置きては、万事自己に便ならざるより、春岳を以て之に代へたるものにて、予も勢ひ已むことを得ず同意したるが、主上は事決して後、之を聞かせ給へり。春岳は主上の御信任薄く、兵力も亦足らざりしかば、間もなく肥後守の復職となれるなり。肥後守を排斥せんことは長州派の希望にして、此後にも屡其形迹ありたり。予は讚岐守を守護職たらしめんの意思は毫もなかりき。
    禁裏御守衛総督御就任の事
 元治元年三月、京都には既に守護職あり、所司代あるに拘らず、公が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮とならせられしは、如何なる事情に候や。
当時島津大隅守が総督たらんことを希望するの風説ありて、山階宮 ○晃親王、常陸宮とも称す。頻に心配し給ふ由を平岡円四郎聞きつけて、是非当方へ仰せ付けられたしと内願したるにより、遂に之を決したるたり。薩州の折田要蔵といふ者、他日大隅守が総督たらん時の用意にや、摂海防禦の方法について種々の取調をなし、且山階宮へも屡参殿して周旋する所ありしと聞けり。
    仏国公使再挙を勧め申せし事
戊辰 ○明治元年。の春、鳥羽・伏見の戦敗れて予が東帰するや、程もなく、仏国公使ロセス登城し、未だ大慈院に謹慎せざる時なり。予に見えて「此儘拱手して敵の制裁を受け給はんこと如何にも残念なり、且は御祖先に対しても御申訳あるまじ、我が仏国は奮つて一臂の力を仮しまゐらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、いとも熱心に勧告したり。予は「好意は謝するに余りあれども、日本の国体は他国に異なり、たとひ如何なる事惰ありとも、天子に向ひて弓ひくことあるべからず、祖先に対しては申訳なきに似たれども、予は死すとも天子には反抗せず」と断言せしに、ロセス大に感服したるさまにて、復言ふ所なかりき。此時予は老中等をも退席せしめ、一人にて応接し、塩田三郎 ○篤信。をして通訳せしめたるのみなれば、唯三人だけなりしなり。又ロセスは既に京都にて主上に拝謁したる後の事なりき。
    肥後藩士再挙を勧め申せし事
是も戊辰の春帰府後の事なり、肥後藩士志方司馬助といふ者予に見えて、再挙を図らんことを勧めたり。予は之を拒絶して、「さほどの誠意あらば、予が恭順の状を朝廷へ申し上げくれよ」といへるに、其意を諒して帰れり。其後も彼が請に任せて、短冊など認め遣はしたることあり。予は当時、彼は予が意中を探らんとする間者なるやも知れずと思ひき。
 江間曰く、司馬助は肥後藩の江戸留守居沢村脩蔵の意を承けて、真正に再挙を勧めまゐらせしなり。而して脩蔵は是によりて公の御真
 - 第27巻 p.478 -ページ画像 
意を知り、やがて自ら歎願使となりて静岡に至りしことある由、前年沢村高俊当年の脩蔵。より親しく聞けることありき。
    老中の動作の事
老中が三卿に面会するには笹の間台所前の廊下。に於てし、此間の入口なる廊下を曲りたる処に、銘々の携へたる扇子を置き、用談果てゝ退出する時、又そを携ふる例なるが、或時老中打ち連れて此間に入り来りしに、如何にしたりけん、其中の一人例に違ひて扇子を携へたり。予は直に失礼を咎めくれんかと思ひしかど、憖なること仕出しては却て宜しかるまじと思ひかへして、唯見てありしに、其後はいつも一同に扇子を携へたるまゝにて入り来ることゝはなれり。こは誤りて慣例を破りたりとありては、不調法を謝せざるべからざるにより、斯くは改めたるものならんが、事毎に旧例を口にする一方には、又此の如きこともありたるなり。総べて老中程の者には、不調法といふことはなきものと思ひ上れるものなるべし、固陋も亦甚しからずや。
    雪中若菜の御歌の事
「踏みわけて尋ぬる人のあとをこそ、若菜も雪の下に待つらめ」の歌につきて一笑話あり。維新後の事なりき、或人突然予に向ひて、「公は再び世に出で給はん御志ましますにや」といへるより、「何故ぞ」と問ふに、「これ御覧ぜよ」とて、予が自筆もて此歌書きたる短冊を取り出し、「此御歌の意をもて推せば、公は尚名利の念ましますこと明けし」といふ、予大に笑ひて、「此歌は安政年間一橋の邸にて謹慎中に懐を述べたるものにて、維新後のものにはあらず、さるを近き頃の歌なりと思へばこそ、斯かる疑も起るなれ、予は既に全く世の風塵を絶ちて、静に風月を楽しむの外他事なき身なり、今更何を苦しみてあらぬ望を抱くべきや」といひたれど、其人尚意を得ざるさまなりき。