デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 新聞・雑誌・出版
2款 東京経済雑誌
■綱文

第27巻 p.508-519(DK270138k) ページ画像

明治38年11月1日(1905年)

是ヨリ先、是年四月十三日当社社長田口卯吉歿ス。ソノ後当社員及ビ社友等協議ノ結果、乗竹孝太郎ヲ新社長ニ推薦シ、是日栄一、大隈重信・阪谷芳郎・島田一郎ト共ニ発起人トナリ富士見軒ニ於テソノ披露宴ヲ開催、故田口卯吉ニ関スル追憶及ビ新社長紹介ニ関スル演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三八年(DK270138k-0001)
第27巻 p.508 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
四月十七日 雨 風寒シ
○上略 十時本郷田口氏ノ邸ヲ訪ヒ弔詞ヲ述フ ○下略


東京経済雑誌 第五一巻第一二八一号・第六二五頁 明治三八年四月一五日 田口社長の永眠(DK270138k-0002)
第27巻 p.508-509 ページ画像

東京経済雑誌  第五一巻第一二八一号・第六二五頁 明治三八年四月一五日

図表を画像で表示田口社長の永眠

     田口社長の永眠 我社の田口君は去る十三日午後十一時十五分を以て溘焉として永 以下p.509 ページ画像 眠せられたり、君の病症は腎臓萎縮と中耳炎となり、前者は不治の難病にして、後者は頗る危険なるものたること、余輩の初より承知せし所なり、而して余輩は日夕君の病床に侍せしものなり、而かも君の永眠は余輩に於て恍として夢の如し、況してや前号の紙上に掲載せし君の病状を読みたる我が読者諸彦に於ては、容易に君の永眠せるを信ずるを得ざるべし、曰く博士の中耳炎は未だ全快に至らず、且神経痛症を並発したるが為め、夜間折々睡眠を得ざるに苦むことあれども、静養の結果少しづゝ軽快に赴きつゝあれば、遠からず全快の見込なりと、嗚呼是れ君が去る五日、自ら寝台を離れて安楽椅子に頼り、文学士乙骨三郎氏を呼び、口演して筆記せしめたる病状記ならずや、独り君の斯く信ぜしのみならず、親族故旧も、将た治療に従事せられたる医士も亦悉く爾く信ぜしなり 然るに去る七日に至り、頭痛大に加はりて熱発あり、嘔気を催うして食慾衰へ、容体頗る不良となりしかば、岡田博士は仔細に耳辺の検案を為し、更に水尾医学士に請ふて眼科的診察を受けたれども、眼底に何等の異状なかりしかば、岡田博士は此の病勢増進を以て中耳炎に原因せるものにあらず、中耳炎は既に大に快方に赴き居り、切開手術を施すを要せずと断言せられたり、是に於て三浦博士は詳細に内科的診察を為し、熱発の原因は中耳炎の漏膿深く脳中に進入し、為に掀衝を起せるものにして、尿毒症にはあらずと断定せられたり、是れ実に去る十二日の事なりしが、七日以来連日高熱(三十九度以上)の継続せしこととて、心臓は痛く弱められ、脈搏は百四十に達したり、而して久しく絶えて下らざりし蛋白質も、熱発以後は多量に下りしかば、衰弱は急に加はり、精神朦朧として殆ど昏睡の状態に陥ゐり、翌十三日青山博士の来診せられた際には、既に諸症其の極に達して、流石の国手も施すべきの余地を存せず、斯くて同夜終に永眠せられたるなり 君は安政二卯年四月廿九日の誕生なるを以て、享年実に五十有一也、君春秋鼎に盛、才学日に進む、其の大成は尚将来に在るべし然るに振古未曾有の国難に際し、経国済民の大志を抱きて空しく永眠せらる、是れ独り我社の不幸のみならんや、実に国家の不幸なり、余輩豈に慟して哭せざるを得んや 




東京経済雑誌 第五一巻第一二八二号・第七〇七頁 明治三八年四月二二日 田口社長の葬儀(DK270138k-0003)
第27巻 p.509-510 ページ画像

東京経済雑誌  第五一巻第一二八二号・第七〇七頁 明治三八年四月二二日
    田口社長の葬儀
本社長故田口君の葬儀は去十七日執行せられたり、同日午後一時本郷西片町の自邸出棺、霊柩は二頭立の喪車に載せ、車上には数多の花環を飾り、親戚故旧に守られ本郷春木町の中央会堂の式場に着し、先づ牧師平岩愃保氏は迎棺の辞を述べ、次で讚美歌・祈祷・聖書朗読等ありたる後、島田三郎氏は君の履歴を朗読せられしが、懐旧の情に堪へざるものゝ如く、其の末尾に至り嗚咽禁せず朗読を続くる能はざるに至りて、会衆一同も同情の涙を催したり、次で牧師海老名弾正氏は一
 - 第27巻 p.510 -ページ画像 
場の慰藉演説及祈祷を為し、次に風祭甚三郎氏は諸方より弔詞及弔電を寄せられたるも、其朗読を省略し追て公表すべしとの挨拶あり、更に会衆一同は田口君が生前愛誦せられたる讚美歌を合誦し、平岩牧師の祈祷ありて午後四時式を終り、霊柩は再び馬車にて谷中墓地に送られ、松柏深き処に〓められたり
当日会葬の重なる人々は
 桂伯代 大隈伯 坊城伯 曾禰男 山本男 芳川子代 榎本子 長岡子 曾我子 千家知事 前島男 渋沢男代 菊池男 船越男 岩崎男 尾崎男 尾崎東京市長 加藤正義 松尾日本銀行総裁 富田鉄之助 肝付海軍少将 柴田内閣書記官長代 林田衆議院書記官長井上文学博士 穂積法学博士 鳩山法学博士 三宅医学博士 金井法学博士 古市工学博士 宮崎法学博士 松井農学博士 片山医学博士 高松工学博士 星野文学博士 南条文学博士 穂積法学博士(八束) 寺野工学博士 岡田医学博士 和田垣法学博士 入沢医学博士 呉医学博士 横井農学博士 原六郎 浜尾新 志村源太郎 大橋新太郎 大谷嘉兵衛 小野金六 木内重四郎 小野英二郎 池田謙蔵 馬越恭平 菊地長四郎 添田日本興業銀行総裁 大石正巳柴四朗 中野東京商業会議所会頭 長谷川泰 近藤日本郵船会社長渋沢篤二 芳野世経 奥田義人 栗原亮一 中村弥六 山田喜之助 徳富猪一郎 元田肇 江原素六 角田真平 高梨哲四郎 高野孟矩横井時雄 鎌田慶応義塾長 箕浦勝人 花井卓蔵 首藤陸三 磯部四郎 銀林綱男(順序不定)等の諸氏外千余名


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK270138k-0004)
第27巻 p.510 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
五月四日 晴 暖
○上略 第一銀行ニ抵リ坂谷《(阪谷)》・島田両氏ト共ニ会食シ、田口没後経済雑誌処分ノ事ヲ協議ス ○下略


東京経済雑誌 第五二巻第一三一〇号・第八九一―八九七頁 明治三八年一一月四日 乗竹社長の披露会(DK270138k-0005)
第27巻 p.510-518 ページ画像

東京経済雑誌  第五二巻第一三一〇号・第八九一―八九七頁 明治三八年一一月四日
    乗竹社長の披露会
本社長田口卯吉君逝去後、社長の後任を欠きたりしが、社員及び社友協議の上、乗竹孝太郎君を推薦し、今回同君の快諾を得たるを以て、社友総代として大隈伯・渋沢男・阪谷芳郎・島田三郎の四氏発起となり、朝野の諸名士を招待して去一日夜披露会を富士見軒に開けり、当日午後五時に至り来賓諸君続々臨席せられたるを以て、食堂に案内し晩餐を饗したるが、食事半ばにして、司会者阪谷芳郎君は開会の辞を演べ、尋で大隈伯・渋沢男は故田口君との関係より説きて新任社長を紹介せられ、島田三郎君は新任社長の入社するに至りし経過を演べ、引続きて園田孝吉・相馬永胤の両君は親しく乗竹君の人となりを紹介せられ、次に乗竹君の答辞あり
最後に大隈伯は起ちて主人を代表し、来賓諸君の健康を祝して杯を挙げ、乗竹君は主人たる大隈伯・渋沢男両閣下、阪谷・島田両君の健康を祝するの辞を述べて杯を挙げたり
式後一同階上の別室に入るや、大隈伯・渋沢男を中心として快談湧く
 - 第27巻 p.511 -ページ画像 
が如く、時の移るを知らず、其全く散会せしは十一時過なりき、当日来会せられし諸君は左の如し(但し順序不同)
 大隈重信   渋沢栄一   角田真平   池田謙三
 佐々木勇之助 塚原靖    尺秀三郎   桜田助作
 上原豊吉   森田茂吉   米山梅吉   上田敏
 権藤震二   関節蔵    増田義一   小浦鎨三郎
 戸田宇八   黒岩周六(代)田中秀吉   呉文聡
 小野英二郎  藤原俊雄   柳田義之進  河田羆
 山岡熊二   小池靖一   肝付兼行   田口文太
 桑田熊蔵   田中穂積   成瀬正恭   鍋倉直
 山口宗義   高橋徳衛   金井啓一   戸川安宅
 山中譲三   堀越善重郎  佐本定吉   黒沢和雄
 永浜盛三   河田烋    草野門平   黒板勝美
 川島忠之助  石井菊次郎  坪谷善四郎  相馬永胤
 藤村静夫   藤田敏郎   木内重四郎  奥田義人
 馬越恭平   若槻礼次郎  菊池茂    成瀬隆蔵
 中川正武   峯岸繁太郎  阪谷芳郎   木村半兵衛
 服部暢    戸次兵吉   園田孝吉   野村本之助
 簗田𨥆次郎  池辺吉太郎  丸山名政   早川千吉郎
 島田三郎   首藤陸三   和田垣謙三  中島行孝
 鈴木良輔   吉川仙太郎  相川尚清   渡辺専次郎
 志村源太郎  平島吉之助  菅川清    西原亀之助
 大橋新太郎  乗竹孝太郎  久米邦武   風祭甚三郎
 三崎亀之助  一木喜徳郎  肥塚竜    市吉徹夫
 横井時雄(代)小林丑三郎  松山忠二郎  巌本善治
 塩島仁吉   金井延    羽藤幾次郎  西島政之
 山条安遷   布川孫市   井野辺茂雄
右披露会に於ける演説を左に掲く
      一 法学博士阪谷芳郎君
私は玆に幹事諸君に代りまして、ちよつと開会の辞を述べます、且今夕は私が会長の役を勤めますでありますから左様御承知を願ひます
閣下並に諸君、今夕は極めて御多用の時期に於て、斯く多数に御来会に預りまして、誠に感謝の至に堪へませぬ、今夕此会を催うしました趣旨は、既に案内状で御承知の通りでございますが、我々の最も親愛する友人田口卯吉君を今春失ひまして以来、経済雑誌社は其主人を欠いて居りました次第でございます、其当時田口君の最も深い御友達である所の島田君から致しまして、私へ此後任のことに付きまして御相談がございまして、それから渋沢男爵其他の方々にも色々此後任のことを相談いたしましたが、容易に纏まりが付かなかつた次第であります、然るに此度最も経済雑誌社、又田口君に関係の深い乗竹君が、後任を引受けらるゝことになりましたに付ては、誠に我々は安心いたしました次第でございます、斯の如く島田君又我々が此経済雑誌社の後任に付て心配いたしましたのは、何が故であるかと申せば、一には最も親愛して居る所の友人であつた田口君に対する義務を果すが為であ
 - 第27巻 p.512 -ページ画像 
り、又一には此経済雑誌社と云ふものが創立せられて以来、実に此日本の経済上の智識を発達する上に付きまして非常に力があつた、御承知の通り最も古い雑誌であつて、殊に銀行其他経済上の事情に関して最も古い雑誌であつた、此事と云ふものは、御承知のことでございまして、斯の如き有益なる事業が、人と共に亡びると云ふことは甚だ残念である、殊に私一個として最も感を深く致しましたのは、抑此度戦争の上に於きまして、総て陸海軍其他の方面が能く働いたに相違ないが、財政経済の上に付きまして、先づ都合宜く参つたと云ふのは、詰り経済上の知識が広く一般に普及して居つた結果で、国民に対して国家の財政経済を如何に処せねばならぬかと云ふことを知らしめたのは誰の力であるかと云ふと、固より多数あらうが、実に田口君の如き多年の間、熱心に経済上の高尚なる議論は勿論、普通なる知識を広く普及することに尽力せられたことであると思ひます、シテ見ますれば、経済雑誌社と云ふものは、今後に於て益々国家の為に経済上の知識を発達せしめなければならぬと云ふ任務を持つて居るから、後任者其人を得ると云ふことは最も国家の為に希望した次第であります、故に其後任を得ることに付て、島田君其他の方々と共に心配いたしました、所が幸にも乗竹君の承諾を得ました次第でございます、此ことに付きまして、乗竹君は正金銀行の緊要なる事務を執つて居られた方で、正金銀行が此人を割愛されることに付て困難を感じました、それに付きましては、島田君が相馬頭取其他の人々に懇願されて、漸くにして相馬君も其人を割愛された次第であります、是は皆己の私を棄てて国家の公益に奉じた結果であつた、諸君が今夕御来会されたのも此趣旨に外ならぬと考へます、斯の如くにして私は経済雑誌社の田口君及び乗竹君の為には、聊か友人の義務の万分の一を尽したのでありますが、併ながら人が成功いたしますには、どうしても応援が無ければならない、即ち此乗竹君が如何に経験あり学識ありと雖も、乗竹君をして十分に成功せしむるに付ては、諸君の御力を藉らなければならぬ、それで今夕御来会の諸君は皆経済の元を造る方々でありますから、即ち此方々に御出でを願ひました次第でございます、政府の各方面に於ては商工局長或は主税局長と云ふ様に総て経済の元を造る方々に御出でを願ひ、又大学の経済学の諸先生、又民間の銀行・取引所、即ち経済の元を造る方々に御出でを願ひまして、乗竹君を御引合せをして将来乗竹君が皆さんの材料に依て、極めて確実に、極めて有益なる論説を、経済雑誌紙上に発表されることを御願ひ申したいのであります、併ながら一言御断りを申して置きますが、田口君も私とは友達でありましたが、屡々反対の論で攻撃を受けた人である、現に今夕紹介の労を執らるゝ大隈伯・渋沢男の如きも、亦田口君の攻撃を受けた、即ち地租の論に付ては、大隈伯と見解を異にした次第であります、是は各々自分の見る所を以て、国家の為に主張するのであつて、乗竹君も諸君から材料を得た為め、其意見を曲げると云ふことは出来ぬであらうと考へます、併ながら決して諸君を攻撃すると云ふ意味は毫も持たれぬ次第であります、矢張り田口君の極めて清廉潔白なる主義を遵奉せらるることゝ考へます、どうか其辺の意味を充分御了解の上で、此日本の
 - 第27巻 p.513 -ページ画像 
一の有力なる雑誌を益々有力ならしめて、日本の経済上の文壇上に於きまして、花とも仰がるゝやうに致したいと云ふことを御願ひ申して置きます
今夕は大隈伯・渋沢男、即ち日本の御維新以来経済に御関係の最も深い御方々が、是から乗竹君を諸君に御紹介の労を執らるゝ筈になつて居ります、又島田君は乗竹君の入社のことに付ての理由を御話になることであります、其外又諸君の中から御演説のある筈になつて居りますから、どうか緩くり御聴取の上、前申しました乗竹君をして、十分成功せしむるやうに、幾久しく御賛助を希望いたします次第でございます(大拍手)
      二 伯爵大隈重信君
諸君、今日は私も主人の数人の名前の中に列して諸君を御招待いたした訳で多数御集り下さつて感謝の意を表します、私は乗竹君とは名前は殆ど二十六・七年以前から知つて居つて、名前の上に於ては久しい友達でありますが、又多分どこかで御目に掛つたことがあるかも知れませぬが、併し親しく御目に掛つて御話を致したのは数日前のことである、それ故に乗竹君を御紹介いたすと云ふのは余程おかしい、多分諸君は皆乗竹君と御親しい御方もあり、親しくないとして見ても御存じの御方が多いであらう、私は言はゞ一面識、僅に数日前に御目に掛つた御方であるに、其れを御紹介するのは如何にも不思議である、併し是には一つの原因がある、田口君は私の最も親愛する朋友の一人である、是は殆ど三十年知つて居る、大蔵省の時代、経済学を教へる其の時代の書生、それから一時大蔵省の官吏にもなつたのである、併し当時は不思議な小僧が居ると云ふ位で、余り話をしたことは無い、是は渋沢男爵が初て知つた、斯う云ふヱライ小僧を大蔵省の小役人で置くよりは、どうか雑誌を書かして見やうと思ふ、斯う云ふ御話であつた、是は恰も日本が西南戦争後経済社会の頗る困難なる時、紛乱なる時、同時に日本の銀行業が初めて勃興する時である、其の時代には渋沢男爵も第一銀行の頭取として殆ど総ての銀行の指導者、もう少し適切に御話いたすと、先生が百二・三十人の書生を集めて毎日銀行の講釈をされる、講義と云ふよりも実験を教へると云ふ、斯う云ふやうな事であつた、其の時代に田口君と云ふ頗る英才を見出したのである、アー云ふ一个の書生から見出したのである、私は田口君を知るの明が無かつた、渋沢男爵に依つて始めて田口君を知つたのである、是は二十七年前の寒い時で、一月であつたか二月であつたか知らぬが、渋沢君の家に田口君を呼んで雑誌の相談をされた時に、一杯酒を飲んで、熱心な人であつて、熱心に議論をされたが卒倒した、其の時に渋沢君がヒドク驚いた、さう云ふことがあつたと云ふ御話で今に忘れない、それからの友達である、所で一度経済雑誌が世の中に現はれたるや否や、多少政府でも世話をした、世話をしたと云つても別に金で世話をしたのではない、まだ経済雑誌が売れぬ、そこで政府で買上げて、方方の銀行に配つたりして、大分御手伝をした、そこで余ほど御手伝をするに拘らず、仲々田口と云ふ書生が剛情者、直ちに我輩のやる大蔵省の財政政策・経済政策は間違つて居ると言つて喰つて掛かる、飼犬
 - 第27巻 p.514 -ページ画像 
に手を噛まれる、余り心持が良くない、然るに不思議なもので、段々子供に教へられて親父が其の間に学問した、仲々田口君が日本に与へた経済上の知識は一時氾濫する勢ひ、下流に行くばかりでない、到頭山の上にものぼす、我輩のやうな者も第一に鍛へ上げられた、多分渋沢君もさうなのであらうと思ふ、其の方から云へば頗る縁故が近いが田口君は随分極端な自由競争論者で、此の「フリー・トレード」説に大きに閉口したことがある、我輩が斯く申すと慠慢のやうであるが、どうも世の中の人は智慧が無い、一向詰らぬ、何か此政府で模範を示して世話をしてやらうと云ふので、色々な事をやつた、渋沢君も一緒にやつた、甚しきに至つては商売もやつて見る、銀行もやつて見る、問屋もやつて見る、所謂万屋もやつて見る、それだけではいかない、農業もやつて見る、鉱山もやつて見る、或は生糸の製糸会社もやつて見る、恐らく有らゆる仕事をやる、鍛冶屋もやる、紙屋もやる、印刷屋もやる、殆と有らゆる仕事をやつた、其の時には、仲々攻撃を受けた、そこでやると云ふのも一部の理窟、極端に反対するのも一部の理窟である、そこで今夕我々主人の一人たる島田三郎君と云ふ、有名なる、先づ政論家として或は経済家として有名なる人、東京市に水道を起すと云ふ斯う云ふ論があつた、其の時には多分渋沢君なども御関係であつたらうが、島田君はどうもいかないと云ふて反対した、併し到頭政府でやることになつた、其の時には島田君は甚だ不満足のやうであつた、是も田口君の朋友であるから、仲々肯かない人であつた、所が英国へ行かれた時に慥か英国からでしたと思ふが書面が来た、良いと云ふことであつた、其の過を改めらるゝことに甚だ敬服した、其の書面は今でも持つて居る、実に田口君も人を弱らしめた、併し田口君をして若し此の席に居らしめたならば「大隈にも弱つた」と多分言はれるに相違ない、是が所謂切磋琢磨の功で、其の間に段々進んで行くのである、田口君が経済上の知識を日本国民の多数に伝播すると云ふ事に付ては、実に有力なるものである、それ故に私は時々反対する、時々仲好くなりましたが、何か物に触れると議論をする、即ち地租の議論などは、是は島田君等も攻撃された、併し甚だ面白い、自分の主張を論ずるのは、皆公の為め、私の為では無い、無二の朋友であるに拘らず、島田君と田口君との間にも時々議論を生じたことがある、さう云ふ種々な関係で殆と三十年に近い関係があつて、遂に今日乗竹君が其の後を引受けて雑誌社を担任さるゝと云ふことを聞いたから、私は欣びに堪へない、而して其の最も力を尽されたのは渋沢男爵・島田
三郎君・阪谷君の如き有力なる御方、尤も渋沢男爵は実は経済雑誌の殆と母である、経済雑誌はどうして生れたかと云ふと、田口君に依つて生れたに相違ないが、田口君が生れたのは渋沢さんに依つて生れたのである、さうすれば是は無論其の後を其の儘にして置けない、御世話をなさらなければならぬと云ふ義務があると思ふ、然らば其の御目出たい時に産婆とはいかないが、其の出産の時に私も出会つて関係した一人であるに相違ないのであるから、此の経済雑誌社は余程私に取つても大切な社である、況や今日まで殆と三十年の間絶えず戦つたのは余ほど利益を受けたことが多いのである、如何に剛腹であらうとも
 - 第27巻 p.515 -ページ画像 
遂に真理には降伏しなければならぬ、実に利益を受けたことが多い、一個人として多いのみならず、阪谷君の御話の通り、国民全体に此の賜を受けたことが多い、敵も味方も此の賜を受けたことが多いのであります、如何となれば経済的の思想が大に進んだのは、種々の原因があるか知らぬが、戦争、戦争には世界どこの国でも一番困難を感ずるものは経済である、丁度其の困難の時に此雑誌が生れて経済思想を普及せしめたのである、それ故に私は欣んで今日の御亭主になつた訳であります、而して乗竹君に御目に掛つて、段々御話を承りますると、田口君との関係、それから乗竹君が此の度正金銀行の甚だ大切な地位を持つて居られたにも拘はらず、一面には友誼上、一面には経済と云ふ此の学の為に、自分の地位を棄てゝ困難なる事業に従事さるゝと云ふことに付て、私は頗る敬服いたしたのであります、一層尊敬の意を生じたのである、然るに今日は如何なる時であるかと云へば、西南戦争後の経済の困難どころではない、日本の経済の上に大変動を惹起す時である、島国的の経済が世界的に変化する時である、殊に是から金融の上に於ても、若くは貿易に於ても、或は有らゆる生産業の上に於ても、皆国際的に働かなければならぬ、是までも無論国際的に働いて居つたが、更に是から大なる働きが起ると云ふ時である、国際的貸借と云ふものは、是から驚くべき大いなる関係がある、国際的の為替と云ふものは、実に大なる変化をして来る、国際的貿易と云ふものは実に変化をして来る、而して此の時に当つては、一国の経済のみならず世界の経済の影響を受けることか、最も大いなると云ふ時に当つて、十分なる学問を以て、田口君と共に鍛へ上げられた学問を十数年間、正金銀行即ち「ホーレン・エキスチヱンジ・バンク」で応用し、又此銀行で実際に経験したものを以て、此の以後、日本の国際的に起る所の経済上の有らゆる問題を学理の上から、経験の上から、一般に之を示すと云ふことに付ては、最も有益なる最も必要なる人物を此の経済雑誌社に得たりと、私は信用いたすのである、それ故に私は二・三日前に御目に掛つたにも拘はらず、私は今日乗竹君を諸君に御紹介して充分に経済雑誌社の為に、乗竹君の為に、力を共に尽して御貰ひ申したいと云ふことを御願ひするのであります(大拍手)
      三 男爵渋沢栄一君
閣下、諸君、今夕は経済雑誌が乗竹君を得ました御紹介のことに付きまして、私も今大隈伯の御話がございました如く、主人位置の名前を以て、諸君の尊臨を希ひました次第であります、私など一向文字上に甚だ縁の薄い者が、此雑誌社の主人位置と諸君に申上げるすら甚だ奇異な感をなす位のものでござります、唯今大隈伯から此経済雑誌社の成立に私が大なる関係があると云ふ仰せがございました、如何さま其形はございましたが、決して経済雑誌を生み出す母どころでありませぬ、経済雑誌を生み出す産婆にも、或は成り能はぬでございましたらうと思ひます、但し明治十二年でございましたか経済雑誌社の出来ました頃に、田口君が私の方へ参られて、ちよつと一時脳貧血を起して大に驚いたと云ふことは、どうも伯の御記臆には甚だ敬服に堪へませぬが、仰せられて私も思ひ出しました、それは第一銀行の今の建築の
 - 第27巻 p.516 -ページ画像 
前の建築で、其処に私が泊つて居りました夜の話であります、折柄に段々と顔色が悪くなつて卒倒されたので、死ぬかと思つてビツクリして、宅へ人を遣り医師を呼び、大騒ぎをやつたことは、伯の仰せの通り、全く有つたことでございます、其頃は丁度仰せの通り、西南戦争後、経済上或は銀が高いとか、紙幣が下るとか心配の多い時でありまして、銀行業者として今日も安閑として居られませぬが、無論仕事は小さいけれども、其時分の方が心配が強かつたかと、回顧しますれば思ひやる位でございます
左様な縁故から経済雑誌は生れましたが、唯今伯の仰せられました通り私と田口君とは年齢も違つて居り、所謂方面が違つて居るから、或る場合には甚だ疎く、又或る場合には甚だ近い、と云ふ風でありました、今伯の仰せられました経済雑誌社の創立ごろ、紙幣問題に付いては、殆ど説を等しうする為めに、私は余り良い学説・議論は持ちませぬが、議論を上下したことも有ります、併し先生は皆さんも御承知の通り、極端なる自由貿易論者と云ふので有りませう、私は其れ程でありませぬから、其等の点に付いては大に喧嘩をし合つて「どうも君は間違つて居る」、「イヤお前などは学問が無い」と直接に論じ合つたことも有る、何ぞ独り陰で攻撃する位でない、あの人は人と説が違ふとズンズン言ふに憚らぬと云ふ性質であられたやうであります、それから或るとき力を戮されたことは、銀行の手形の取扱方のことであります、是は田口君に私ども影響を与へられた、こゝにも銀行家・実業家が大分居られますが、見渡しますと皆私より年齢が下の御人の様でありますから、或は私が一番能く御話を申上げる資格が有りはすまいかと思ひます、明治十二年ごろ、手形の取引を盛に為すには如何なる方法があるか、如何なる手段があるか、欧羅巴の進みは如何なる所から来たらうかと云ふことに付いて、田口君と相談をして、大に田口君の力を籍りたことがあります、或る場合には商工業者を集めて田尻さんに演説をして貰つたこともあります、是は銀行集会所に御列席の諸君は御承知でございませうが、其の頃は色々理由書を作つて、講釈を書添えて取引先に配つたが、其の文案は田口君に依つて作られたと云ふことも有ります、又或る場合にはトンと方面違ひに田口君に交つて共に力を得たことも有ります、其は何かと云ふと、市の事務であります今私は殆ど市に関係を持ちませぬけれども、久しい間、市参事会員を勤めた、田口君も市政に付いて大に力を御尽しなされた御方で、其の市の事務に付いては、鉄道が出来るとか、電気鉄道が出来るとか道路を直すとか云ふことに付いて、種々なる心配をされたのであります、是等に付いても略々説を等しうして、しかも私が市参事会の最終の勤めの頃でありましたが、市街鉄道に付いて大に説を等しうして、種々共に或る方面に向つて論難をしたことも有ります、故に田口君との間柄は或る場合には甚だ親しく、或る場合には甚だ説を異にして、随分先方も困つたものと思ふと同様に、私も困つたものと思うた、即ち其れは大隈伯の仰せられた通り、田口君にして存在して居られたならば己も困つたと思ふ程に彼も困つたらうと仰せられたのと、丁度同じ場合が無いでも無からうと思ひます
 - 第27巻 p.517 -ページ画像 
併し私は特に田口君に感心いたしましたのは、随分方面の広い、充分な学説が有るのみならず、誠に其の説が卓絶して居る、変つた方面に考を付けられると云ふことが多かつた、想ふに尋常一様の手腕よりは一種説を異にして居ることが多かつた、其の事は皆著々宜しいと云ふことは申せぬか知れませぬが、一つの新機軸の説を出すに付いて、故らに求めずしてさう云ふ意見を具へたと云ふのは、実に同君の天稟と申上けても宜からうと思ひます、是が一つ……、モウ一つには誠に御志が一つに出でて居る、是れは所謂威武も屈する能はず、富貴も淫する能はず、此の人こそ実にいつまでもさう称して決して差支なからうと私は思ふ、故に別して其の人と為りを甚だ景慕して居つた様な訳であります
右様の関係を有つて居りますから、自ら経済雑誌社とは、一向文字上の力も無ければ経験も無い者では有るが、今日まで縁故が繋がれて居りました、不幸にして此の田口君を失つて爾来此の経済雑誌社が如何になるかと窃に私ども懸念して居つて、田口君にして其だけの人物で其だけの力を尽して、幸に是だけの基礎を成したものを、其の人と共に是が湮滅することは甚だ残念だと思つて居りましたが、過般来島田君若しくは此処に御居での河田君・阪谷君などの御話を段々承つて、遂に乗竹君が任じて此の雑誌社の跡を引受けられることになりましたのは、私は甚だ喜びに堪へませぬ、どうぞ将来充分なる計画を為して前申す通り社会の指導者となつた経済雑誌が、其の人と共に亡びぬのみならず、更に一層発達をしましたならば、雑誌社の此上の幸は無からうと考へますから、乗竹君が後任になられたと云ふことは、私ども大に喜びます、右に付いて乗竹君は今伯の仰せの通り、私も十数年以前に一・二度面会したことがございますけれども、其の以来別に関係の無い御互の身体ゆゑに隔たつて居りました、此の位置に御就きなさるに付いても、雑誌社に対して其の人を得ると云ふことに付いては、私ども乗竹君に勧めても是非此の位置に立たしめたいと申す場合も得ませなんだ、若し乗竹君にして任ぜられるならば、至極宜からうと陰ながら申す位であつたが、遂に乗竹君が決心して従事されると云ふことになつたので、私も大に安心して、即ち同君をこゝに御紹介すると云ふ位置に立つと云ふ、斯う云ふ次第であります、其で私がこゝに乗竹君の為めに一言申しますれば、田口君は前に申したやうな御関係、乗竹君は今申す様に御互の交りは少ない、併し交りは少ないが、乗竹君は十七・八年前までは、田口君と共に経済雑誌社に居つたと云ふところから、遂に其の経済雑誌社の後任者を得難いことを察して、自ら進んで田口君の為めであるか、或は世の中の必要に感ぜられた為めであるか、好位置なる正金銀行を棄てゝ、斯う云ふ位置に就かるゝと云ふことは、殆ど季札が墓上に剣を懸けると云ふ志を持つて居らるゝ御人と思ひます、此の誠に堅実なる御思想と云ふものは、大に称讚するに余りありと思ふのであります(拍手)、而して其の経歴を察すると、十七・八年間、脇目も振らず、正金銀行の為めに経営されて、余り多岐に渉らぬ御人と察し得らるゝ、さらば文筆学問は如何にと云へば、大隈伯の仰せの通り相当なる学問と、相当なる実験が有る、即ち学問
 - 第27巻 p.518 -ページ画像 
も逞しく、実験も有り、志が堅実で、而して一方面に力を御尽しなさる御方であると云ふことは、此の三つ四つで充分証拠立てられると思ひます、果して然らば田口君は多方面の御人であるが、乗竹君は之に引きかへて一方面の御方である、或る場合には多方面も宜しからうが守成者として経済雑誌社に従事せらるゝ上に、今の様な一方面の乗竹君を得たのは経済雑誌社の為めに、或は田口君に優ることが有らうと申しても差支無い、是は前の人を誹ると云ふ訳では無いが、事実乗竹君に求める所が私どもさう有りたいと存じます、私どもの如きは幸に其の一分の補助者たることを得たならば、故鼎軒翁にも大に報ふることになり、又乗竹君に対して、私ども力を尽したいと考へるので有ります、どうか今夕御臨場の諸君に乗竹君を御紹介申すと同時に、私の願ふ志を乗竹君に致されむことを、只管懇願して已まぬのでございます(大拍手)
○下略



〔参考〕東京経済雑誌 第五九巻第一四七二号・第八頁 明治四二年一月九日 乗竹社長の逝去(DK270138k-0006)
第27巻 p.518 ページ画像

東京経済雑誌  第五九巻第一四七二号・第八頁 明治四二年一月九日

図表を画像で表示乗竹社長の逝去

     乗竹社長の逝去 余輩は玆に新年の初に当り、我社の一大不幸を読者諸彦に報道せざるべからざるを悲む、社長乗竹孝太郎君は去四日の夜まで何等の病気をも覚えず、平常の如く寝に就きたるに、翌五日払暁突然脳溢血症を発し、殆ど治療を加ふる遑もなく、溘焉として逝去せられたり、一家の驚愕は云ふに及ばず、訃を聞きて遠近喫驚せざるものなし、嗚呼人生の果敢なきことは余輩夙に之を知ると雖、眼前斯の如き激変に接しては転々人生の無常を嘆ぜずんばあらざるなり 回顧すれば、余輩が乗竹君を迎へて社長に戴きたるは去明治三十八年十一月にして、爾来今日に至るまで三ケ年余に過ぎずと雖、君の誠実勤勉は、大に江湖の信用を博し、本誌の発行高は月に増加し、日本社会事彙の三版は昨年末を以て完成し、更に大日本人名辞書の六版発行を計画し、今や着々其の進行中に在り、君の逝去は独り我が社の不幸たるのみならず、日本学界の一不幸と謂ふべし、余輩今や悲哀に沈みて多く語るを欲せず、又語ること能はずと雖、不幸に遭遇する毎に愈々益々勇気を増して奮闘するは、我が先輩諸君が身を立て、社会に貢献したる成功の原因にして余輩後進平生の覚悟亦玆に在り、是れ余輩が玆に謹みて我が社の不幸を読者諸彦に報道するに方り、敢て諒察を請はんと欲する所なり 






〔参考〕東京経済雑誌 第五九巻第一四七三号・第七三頁 明治四二年一月一六日 乗竹社長の葬儀(DK270138k-0007)
第27巻 p.518-519 ページ画像

東京経済雑誌  第五九巻第一四七三号・第七三頁 明治四二年一月一六日
    乗竹社長の葬儀
本社長故乗竹孝太郎君の葬儀は、去八日を以て執行せられたり、同日
 - 第27巻 p.519 -ページ画像 
午後一時小石川服部坂の自邸出棺、霊柩は親戚故旧によりて守られ、本郷湯島切通麟祥院の式場に着し、読経済みたる後、島田三郎氏は別項掲載の弔詞を朗読せられ、続いて塩島仁吉氏は東京経済学協会を代表し、手代木研氏は風紀革新会を代表して弔詞を朗読し、遺族親戚故旧の焼香ありて式を終り、遺骸は日暮里火葬場に送り、荼毘に附せられ、玆に永へに君が音容に接すること能はざるに至れり、因に葬儀に就ては親戚故旧の外、式場に於ては秀英舎事務員諸君大に斡旋せられたり、当日の会葬者は五百余名にして、重もなる人々は左の如し
 伯大隈重信(代) 子仙石政固(代) 男浜尾新     男肝付兼行
 男尾崎三良    男渋沢栄一(代) 男阪谷芳郎(代) 男高橋是清
 男松尾臣善(代) 塩入太輔     志村源太郎    須藤壮一郎
 伴直之助     鈴木良輔     福田徳三     額賀松次郎
 古屋徳兵衛    首藤陸三     郷隆三郎     小池靖一
 安藤保太郎    天野大蔵     青木匡      高田小次郎
 滝本誠一     箕浦勝人     岸本辰雄     植松考昭
 鎌田栄吉     河島良温     久野昌一     野沢鶏一
 角田真平     手塚猛昌     山口宗義     瀬下清通
 上野栄三郎    上原豊吉     上田敏      乙骨太郎乙
 坪谷善四郎    江口駒之助    大岡育造     大沢岳太郎
 妻木頼黄     橋田茂重     河津暹      昆田文次郎
 相川尚清     橋本圭三郎    川上直之助    有賀長文
 加藤斌      風祭甚三郎    井上正一     岩下敏之
 池田謙三     徳富猪一郎    土田政次郎    高橋秀臣
 戸川安宅     早川千吉郎(代) 神吉翕次郎    河田烋
 鍋倉直      山川勇木     園田孝吉     相馬永胤
 高橋捨六     川島忠之助    渡辺福三郎(代) 原六郎
 松岡弁      宮田忠寛     増田義一     森本駿
 木暮寅吉     古宇田晶     斎藤徳明     佐々木勇之助
 添田寿一     中野武営     若槻礼次郎    尺秀三郎
 百瀬玄渓     百井久七     南挺三      加納友之介
 加藤元志     福島甲子三    船越鼎太郎    藤原俊雄
 成瀬隆蔵     成瀬正恭     三輪信次郎    佐々木慎思郎
 井上辰九郎    左右田金作    酒勾常明     斎藤十一郎
 桜田助作     斎藤孝治     池辺吉太郎    飯田旗郎
 有賀立雄     土子金四郎    細野次郎     播磨辰治郎
 中島行孝     島田三郎     伊地知栄蔵    室原興重
 村松恒一郎    村田俊彦     市川好廉     磯辺弥一郎
其他市内諸新聞社・秀英舎事務員諸氏(順序不定)
○下略