デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 新聞・雑誌・出版
5款 博文館二十周年記念会
■綱文

第27巻 p.536-541(DK270142k) ページ画像

明治40年6月16日(1907年)

是日栄一、上野精養軒ニ於テ開催セラレタル博文館創業二十周年記念会ニ出席シ一場ノ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第二二九号・第五四頁 明治四〇年六月 ○博文館創業二十週年祝宴(DK270142k-0001)
第27巻 p.536 ページ画像

竜門雑誌  第二二九号・第五四頁 明治四〇年六月
○博文館創業二十週年祝宴 博文館にては本月十五・十六日の両日上野精養軒に於て創業二十週年の祝宴を開きしが、青淵先生は十六日招待に応じて臨席せられ一場の演説を為されたり


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK270142k-0002)
第27巻 p.536 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十六日 晴 涼             起床八時 就蓐十一時三十分
○上略 午後三時散会、夫ヨリ上野精養軒ニ抵リ大橋博文館二十年紀念会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス、種々ノ余興アリ、夕七時夜飧ノ饗宴ヲ辞シテ帰宿ス


太平洋 第六巻・第一四号 明治四〇年七月一日 事業成功の要素(男爵渋沢栄一)(DK270142k-0003)
第27巻 p.536-539 ページ画像

太平洋  第六巻・第一四号 明治四〇年七月一日
    事業成功の要素 (男爵 渋沢栄一)
閣下及諸君。今日博文館の創業二十年の紀念祝典に就きまして、私も玆に陪席の光栄を荷ひまして難有く存じます。嗚呼がましくも此所に立ちまして、一言博文館の既往の経過を観察致したことを申述べまして之を以て祝辞に代へやうと考へます。
世の進運の著しい有様は、歳月の経過をして、或は大に長からしめたり、又或は大に短からしめるやうな感覚を起します。唯今新太郎君が二十年の経過を御申聞に相成りましたが、短く申すと、頗る短日月に斯の如き長足の進歩をしたやうに聞えます、併し反対に、其経過の迹を細かに調べて見ましたならば、之に応ずる方法経営、又其苦心勉励する所、頗る長いと申上げて宜からうと思ふのであります。詰まり世の進歩は、種々なる点にございませうけれども、第一に文運の開けると云ふことが国家の富を増し、強を進めると云ふことは、是は論ずるまでもございませぬ、日本の今日ある所以は、教育の発達が重なる原因であると云ふことは、政事家も学者も、皆な説を同じうして居るやうに考へます。而して其教育を助くるには、即ち博文館の事業の如きものが、与つて最も力あると申して宜からうと考へるのであります。私は玆に博文館の二十年の間に就て、凡そ如何なる事が重なる趣意であつたらう、又其博文館の活動が、社会に対して如何に洪益を示したであらうかと云ふことを、或は皮相の観を免れますまいけれども、一言玆に申述べて見たいと考へます。
創業者たる大橋君は既に物故されました。私は生前に知遇を辱うしましたが、当代の新太郎君よりは甚だ浅かつたのでありますから、其御履歴、其性行も精しくは存じませなんだが、伺ひますと、明治二十年
 - 第27巻 p.537 -ページ画像 
に東京に事業を御興しになつた、其前は越後に於て、矢張同じ様なる事業を御経営になつたと申すことでございます。蓋し此創業者たる佐平君は、世の中の文運の進歩と云ふことに早く着眼されたる、明識なる人と申して宜からうと思ふです。明治の初年からして、人文の進歩に伴ふ紙の改良或は印刷の改革、其他総ての物の変りは為して参りましたけれども、書籍等の改革は、まだ十四五年頃には大に著しい有様は見なんだと云つて宜いです。然るに、此文運は如何にも進むに相違ない、果して然らば此機運に伴ふには総ての出版事業を如何にも迅速に、如何にも奇麗に成立つやうにせねばならぬと云ふことに着目されたのが、博文館をして斯く成功せしめた一大原因であらうと思ふのでございます。而して尚ほそれのみではないでありませう、凡そ書物を著すとか、若くは説を世の中に表白すると云ふ者には、多く自家主義と云ふ一の主義があります、蓋し学者、発明家として世の中に論ずる場合に、悪くすると我主義を逆《さかさま》に振舞ふ。多くの技術者は己れが上手だと云つて、頻りに拵へて販路を客に強ゆると云ふことがありますけれども、併しそれは世の中に弘からしむると云ふ方法には、不適当であると考へます。雑誌若くは書籍のやうなものを社会に弘からしむると云ふには、其発表する者の自己本位を棄てゝ、社会本位の主義に従ふと云ふことが、之を普及せしむる第一義であると考へます。大橋佐平君は、早く此所に着眼されたと私は思ふのでございます。嘗て明治の初年と覚えて居ります、私は福沢先生に会ふて、出版物・書籍等に就て御話を聴いたことがあります。私は其時には半信半疑で居りましたが、爾来博文館抔の御経営に依て成程と感じて、今日此事を申上げるのでありますが、福沢先生の説に、凡そ学者が書物を出版するに、唯だ己れの嗜好を人に振舞ふと云ふだけで、其人の慰みとするならば見る人の無い書物を無暗に作出するのも宜いが、其書物を以て世の公益を図らうと云ふならば、多数の人の見るものでなくては、決して公益とは云へぬものであらう。故に書物を著述するとか、学説を世に表白するとか云ふ人は、宜しく多数の解釈し易い、所謂極く分り易く書く主義を以て、書物を作るやうにしなければならぬと云ふ説でありました。是は或は自家主義を失ふやうな嫌がありますけれども、社会を益すると云ふには、成程左様でなければならぬと、其時よりは、後に至て大に其見識の高かつたことを発明致しましたが、博文館が、此社会本位に従て、自己本位を棄てたと云ふことは、蓋し此成功を助ける第一因であらうと思ふのでございます。
更に今一つ申上げて見たいのは、物の弘くなると云ふのは、早いのと綿密なのと、今一つは廉いのであります。斯様な言葉は、斯る御席では賤しいやうに聞ゆるか知れませぬが、多数に洽ねく行はれるには、価が高くては行はれませぬ。佐平君此に着眼されて、成るたけ俗に申す数でこなす、努めて弘く、努めて廉く、努めて早くと云ふことに着眼されたのであります。果して其効能は、遂に博文館をして、斯く盛大に至らしめたと申して宜からうと思ひます。其今日ある所以は、今申した二・三の点に止りませず、其他勉強の力、又卓識の助けもございませうが、先づ私の観察する所の重要なる廉々は、今の二・三点に
 - 第27巻 p.538 -ページ画像 
在ると思ふのでございます。
而して其効能は社会の如何なる事に行渡つたかと申しますると、先づ第一に今の弘く、廉く、早くと云ふ主義からして、例へば教科書の如きものも、国家が種々其方法に苦まれたが、博文館が之に応じて務めると云ふ為めに、大に国費を減じて、而して其事が容易に弁ずるに至つたのであります。蓋し博文館の務や大なり。博文館の功や多しと申して宜からうと思ふのであります。独り教科書のみではございません其他一般社会に向つて、極く簡単に智識を増す如き『太陽』は勿論、『太平洋』其他種々なる雑誌に於て、如何にも廉く、如何にも便利に一般の智識を増さしめたと云ふことは、教科書に就て国用を減殺して国家に貢献したと云ふ効能よりも、或は広いと申して宜からうと私は思ふのでございます。殊に玆に一言申上げたいのは、故佐平君の御存生中から、御自分の業務からして思立たれて、大橋図書館と云ふものを立てられたのであります。此図書館の為めに、市内の書物を読みたいと云ふ人の利益を得たことは、少なくない、其図書館の為めに費された所の金額も、殆ど二十万円に近い所の巨額に上つて居るのであります。而して此図書館に就て、日々書物を読む人が、二三百人に計上される趣に承知致します。是等の事も、博文館として大橋家として賞賛して数へなければならぬ事と考へます。
斯様に考へて見ますると、詰まり文明を補翼する事業は、仮りに之を戦争に譬へて申さうならば、教育に当る人を軍人―戦闘線に出る人としたならば、博文館は即ち輜重とか兵站部とか云ふやうな位置に立つて、此教育なる大戦場に立つて、大捷利を獲た所の軍人をして、絶倫なる成功を為さしめたのは、即ち此輜重が十分に届いたからであると申して宜いのでございます。果して然らば陳平・張良ばかりで彼の天下を取つたものではなく、蕭何・曹参の働が、また国家に大なる功労があると申さねばなりませぬ。即ち博文館の教育の為めに力を竭したと云ふことは、丁度蕭何・曹参の位置を務めたものと申しても宜からうと我々は考へるのでございます。
佐平君は創業の人、新太郎君は、守成の御位置に在るやうに、私は御交際上から観察致します。其有様は今日は左様でございますが、私は此所で守成たる新太郎君に、守成を以て御安んじなされたいとは言ひたくないです。如何となれば、此世の中が、今日を以て、満足すべき日本ではないであらうと思ひます。若し我国が今日で満足すべきものでないならば、博文館も今日を以て小成に安んじてはならぬと、御勧めせねばならぬ訳であらうと思ふのでございます。故に二十年紀念祭の今日は、佐平君の昔日の発意を称して、新太郎君には守成の位置を以て申上げますけれども、焉ぞ知らん未来に対しては、此新太郎君が復た創業の人となつて、次の新太郎君に、守成の地位を御譲りなさるやうになりたいと云ふことを私は希望するのであります。故に博文館は、前に申上げました通り、努めて早く、努めて精密に、努めて廉い雑誌若くは書籍を弘めて、さうして社会に公益を与へたと同時に、社会から其酬として博文館に希望を厚からしめて、弥増しに此文運が進んで行つて、相俟つて又三十年・四十年、若くは百年の紀念祭を拝見
 - 第27巻 p.539 -ページ画像 
致したいと思ふのでございます、之を以て今日の祝辞に代へます。



〔参考〕博文館五十年史 坪谷善四郎著 第一九九―二〇三頁 昭和一二年六月刊(DK270142k-0004)
第27巻 p.539-541 ページ画像

博文館五十年史 坪谷善四郎著  第一九九―二〇三頁 昭和一二年六月刊
 ○第六編 戦後経営時代 明治四十年
    創業二十周年記念祝賀会
 此年六月十五日は、創業二十周年なる故、十五・十六両日を以て記念祝賀会を上野精養軒に開催し、第一日は主として編輯部に関係ある朝野の諸名家を招待し、第二日には主として営業部関係の諸氏を招待した。
此の記念祝賀会に就て、館主は母堂の意見に随ひ、宴会は成るべく質素を旨とし、節約したる費用を各方面の公共事業に寄附された。
 また記念号として、六月十五日発行各雑誌の定期増刊中「太陽定期増刊」は、普通号二倍大の内容と定価にて「明治名著集」を各著者に請ふて発行した。その内容左の通りで、何れも明治年間発行書の傑作である。
 学問のすゝめ             福沢諭吉
 百一新論               西周
 日本経済論         法学博士 田口卯吉
            法学博士
 人権新論            男爵 加藤弘之
            文学博士
 民約訳解               中江篤介
 王法論             子爵 鳥尾小弥太
 倫理新論          文学博士 井上哲次郎
 天賦人権論              馬場辰猪
 文明東漸史              藤田茂吉
 救荒植物集説        理学博士 伊藤圭介
 小説神髄          文学博士 坪内雄蔵
 社会改良と耶蘇教との関係  文学博士 外山正一
 日本道徳論         文学博士 西村茂樹
 新日本の青年             徳富猪一郎
 漢学不可廃論        文学博士 中村正直
 思想を管理する要を論ず        同
以上の外に
 文芸倶楽部 増刊     「二た昔」
 少年世界  増刊     「お伽共進会」
 中学世界  増刊     「学府の東京」
を発行した。
    祝賀会に館主の挨拶
 創業二十周年記念祝賀会に於て、館主は左の如き挨拶せられた。
 「明治二十年の今月今日、我が博文館は本郷弓町に一ケ月三円八十銭の屋賃にて僅に六畳敷二た間の長屋に於て開業したるに、幸ひに昭代の恩沢と、本日御来臨を辱うしたる閣下及諸君の御援助に因りて、兎も角も現時の域に至つたこと感謝致します。自分は青年時代の明治九年に十四歳で、僅に金五円を懐ろにして上京し、小石川の中村敬宇先生の同人社に入り、月々更に学資を父から送つて貰ひし
 - 第27巻 p.540 -ページ画像 
も、其れが時々途絶え勝ちで、終に明治十一年廃学して帰郷し、父が其頃発行したる越佐毎日新聞の経営を手伝ひ、大橋書店といふ図書販売業にも従事し、資金難の為に具さに困苦を嘗めて居る間に、父は明治十九年の秋から上京し、終に博文館を創めましたが、従来父は種々の事業を創め、当初は成功しても後に蹉跌すること多く、博文館の事も、実は私は成功を危ぶみ居たるも、頻りに上京を促さるゝ故、翌二十一年に自分も越佐新聞の事を他に托して上京し、爾来今日に至りし次第にて、幸ひに事業は順調に進み来りしも固より斯かる小成に満足すべきで無く、将来益々奮励努力して、国家文運の興隆に貢献し、平生深甚なる援助を賜はる閣下・諸君の眷顧の万分一にも酬いんことを期して居り、本日は過去の感謝と将来の御願の為に此の小宴を催ほしましたるも、母は深く私に注意を与へ、往年困窮したる時の事を考へ、宴会費は出来るだけ節約し、其の余し得たる分を以て世の有益なる事業に寄附せよと言はれ、早稲田・慶応両大学の図書館を始とし、其他へも寄附致し、随つて本日の祝賀会は、甚だ設備万端御粗末でありますが、何卒ことを御諒恕下されんことを切に御願致します云云」
之に対し前日には大隈伯・清浦男、翌日は渋沢男・中野武営氏の祝辞演説があつた。其中にて大隈重信伯の祝辞の一部分を左に抄録する。
    大隈重信伯の祝辞演説
 「今日博文館二十周年の祝典に臨んで、聊か祝辞を述べたいと思ふ我輩は旧い事は精しく存ぜぬ。併ながら唯今新太郎君から博文館の簡単なる歴史を拝聴致し、頗る感じたのである。故に其れに対する一二の所感を述べて、今日の祝辞に代へたいと思ふのである。(中略)最後に私は御礼を申したいと思ふのは、先刻新太郎君から、早稲田の学校の校友が六十有余人も博文館に筆を執つた云ふ御話であるが、新太郎君から云へば私に御礼を仰しやるが、私から言へば博文館に御礼を申さなければならない。全体学生が学校を出て、筆を以て働くと云ふのは随分困難である。それにも拘らず早稲田の学生を多数博文館に用ひて下すつたと云ふことは深く謝するのである。尤も是は両方相俟つて居る。博文館も其為に利益を得れば、同時に早稲田の学校も大なる利益を得て居る。又博文館が大なる利益を得ると同時に、社会は博文館の出版物に依つて大なる知識を得る。之が相互の利益である。
  それから今一つは、早稲田の出版物の大部分は、博文館に依つて売弘めて下すつた。早稲田で之を売らうとしても中々容易に売れない。博文館に依つて早稲田の出版物を売弘め下されたこと、殊に講議録の如きものを売弘められたことは実に夥しいものである。是また私は深く博文館に対して感謝するのである。併ながら是は営業であるから無償ではない。其方から言へば新太郎君も早稲田に向つて多少御礼を言はれなければならぬかも知れぬ。
  それから私が余程御母堂及び新太郎君に敬服致しまするのは、私は前後は委しくは知らぬが、丁度佐平君の大病に罹られて、最早此世に存らへることの出来ぬと云ふときに、殆ど遺言と云ふ如きこと
 - 第27巻 p.541 -ページ画像 
を以て、早稲田の学校に夥しい寄附をされたのである。独り早稲田のみならず、外の学校や其他へも寄附をされた様である。之に先だちて、社会の為に有益なる図書館を遺されたのである。されば早稲田の学校として謝するのみならず、社会の為にも大いに謝さなければならぬと思ふ。更に唯今新太郎君の御話に依れば、母堂の御趣意は今日の祝典を極く質素に致し、而して成るべく入費を使はずして多少他に使へと云ふ意味の様に伺ひましたが、多分其の様であると思ふのである。是は新太郎君、殊に母堂に私は感謝の意を表するのである。其金をどう云ふ具合に使はれたかと云ふことは、既に新聞に出て居るから、皆さんも御承知であらうと思ふ。其中の一千円は早稲田大学の図書館に寄附されたのである。是また深く感謝致すのである。(下略)」