デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

8章 其他ノ公共事業
2節 祝賀会・歓迎会・送別会
9款 伊藤韓国特派大使帰朝歓迎会
■綱文

第28巻 p.742-749(DK280123k) ページ画像

明治38年12月18日(1905年)

是ヨリ先、韓国特派大使伊藤博文帰朝ス。栄一、府下ノ主ナル実業家四十余名ト共ニ発起人トナリ、是日ソノ歓迎会ヲ帝国ホテルニ開催ス。栄一発起人総代トシテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三八年(DK280123k-0001)
第28巻 p.742 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
十二月十日 半晴 風ナシ
○上略 三時事務所ニ抵リテ、伊藤侯爵歓迎ノ事ニ関シ書状ヲ発シ ○下略
   ○中略。
十二月十二日 半晴 寒
○上略 銀行集会所ニ抵リ、伊藤侯爵歓迎ノ事ヲ友人ト協議ス ○下略
十二月十三日 曇 風寒シ
○上略 午後一時伊藤侯爵ヲ訪ヒ、十八日夜帝国ホテルノ歓迎会及廿日第一銀行宴会ノ事ヲ約ス、更ニ桂総理ヲ訪問シ両日共ニ来会ノ事ヲ乞ヒ三時帝国ホテルニ於テ午餐シ、且十八日ノ準備ヲ命ス、此日外務省ニ抵リ珍田氏ニ面会シテ、侯爵歓迎ノ事ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
十二月十八日 曇 風ナシ
○上略 帝国ホテルニ抵リ、伊藤侯爵韓国大使ノ任務ヲ遂ケ帰朝セラレタルニ付歓迎会ヲ開ク、内閣諸大臣及朝野ノ諸紳士来会スルモノ七十名余、食卓上ニ於テ一場ノ歓迎ノ辞ヲ述ヘ、侯爵ノ答辞アリ、賓主各歓ヲ尽シ夜十時散会ス、此日ノ飲食及室内ノ装飾頗ル美善ヲ尽シ、来賓皆大ニ満足ス


中外商業新報 第七一九九号 明治三八年一二月一三日 ○実業家の伊藤侯歓迎(DK280123k-0002)
第28巻 p.742 ページ画像

中外商業新報  第七一九九号 明治三八年一二月一三日
    ○実業家の伊藤侯歓迎
府下の重立ちたる実業家諸氏は、日韓協約を成立せしめ今回帰朝したる伊藤大使及其一行の歓迎会を催し、其成功を祝すると共に尚将来韓国に対する同大使の抱負を聴き、戦後の経済発展に資せんとて、昨十二日午後四時渋沢男爵・安田善次郎・大倉喜八郎・豊川良平・村井吉兵衛・早川千吉郎・高田慎蔵・加藤正義・相馬永胤・添田寿一・浅野総一郎・木村清四郎(松尾臣善氏代)・中野武営・武井守正等の諸氏銀行集会所に会合、之が歓迎方法其他に付き協議し、詳細のことは渋沢男に一任することゝなりしが、会場は帝国ホテル、期日は十八日頃とし、正賓には伊藤大使及其一行、陪賓には元老・各大臣・両院議長等を招待し、主人側はノーヱル大将歓迎の際主人となりし人々四十余名と為す筈にて、最も厳粛なる宴会を催すものなりと云ふ


中外商業新報 第七二〇九号 明治三八年一二月二三日 ○伊侯歓迎会演説(DK280123k-0003)
第28巻 p.742-745 ページ画像

中外商業新報  第七二〇九号 明治三八年一二月二三日
 - 第28巻 p.743 -ページ画像 
    ○伊侯歓迎会演説
 去十八日夜帝国ホテルに於て開催せる伊藤侯の歓迎会に於て、当日主人代表者渋沢男爵及伊藤侯の為したる演説左の如し
      渋沢男の挨拶
伊藤侯爵に御随行の各位、其他来賓諸君、今日侯爵が韓国大使の大任を御遂げになりまして滞りなく御帰朝なされましたに就て、侯爵及御随行の各位を吾々銀行・諸会社の同人等が相計りまして御招待を致し茲に宴を開きました次第でございます、幸に侯爵は勿論、内閣諸公其他の諸君の尊臨を辱うしましたのは、吾々主人に立ちました一同が此の上も無い光栄とする所、有難く感謝の意を表します、茲に私が一同を代表致しまして侯爵閣下に対し、一言歓迎の辞を申上けたうございます
韓国の我帝国に於ける関係は、殆んど歴史開けて以来長き歳月を経て居りまするで、最早私風情が絮説するの必要は御座いませぬ、併し此の明治の聖代になりまして今日から殆んど卅年以前、明治八年頃に征韓と云ふ議論の発しまして以来、韓国に対する問題は頗る世間に喧伝致したので御座います、既に此の席に御列席の方々の中にも其の頃の韓国問題に対して主唱の地位に立たれた御方もある様に存じます、左様に緊切なる問題が段々に縺れ縺れ来つて、遂に二十七年の日清戦役となり、又卅七年の日露の大戦争と相成つて、茲に漸く平和克復と共に、彼の国に対する将来の企画は一日の猶予を許しませぬ所から、遂に畏れ多くも聖明なる皇謨を廻らされ、伊藤大使を派遣される事に相成つたと存じます、其の任や甚だ大、其の事や甚だ重と申して宜からうと考へます、然るに其の重且つ大なる任務を、僅に一箇月の間に滞りなく、而も従容事に処せられて、誠に吾々の聞くも喜ばしき満足なる結果を収められて、御帰りになつた侯爵である、吾々国民として、又一方には東洋の経済の発達を希望する実業家として、実に歓喜雀躍せずに居られませぬ訳て御座います、是れ吾々相謀りて此の小宴を開いて、歓迎の意を表する所以で御座います
世間或は今度の侯爵の御大任に対して余り品物が過ぎた、鶏を割くに牛刀である、大局は既に定まつて居ると云ふ様な批評を下す人が或はあつたかも知れませぬ、又左様な意味を新聞紙上で散見した事も御座いますが、吾々の考へる所は大に之れに異るのであります、今般の韓国に対する協約の決定と云ふ者は、実に千年以来の問題が始めて解決致したと云ふて宜しいのである(拍手)此時に際して、若し我が国が力を以て之れを圧すると云ふ様な事ならば、決して左様な大事でもないかも知れぬ、露国の大と雖も打破つた日本である、併し今日の場合は左様な比較を以て論ず可き者ではない、勿論 聖上の御思召は他国へ対しては何処までも博愛を以つて主とせられ、決して威迫を以て斯る事柄を処断する者でない、又廟議も左様であらう、而して又侯爵の御取りなされた所の主義が、其の予期の通りに届いたと申して宜からうと思ふ、事の容易すく済んだのを見て、鶏を割くに牛刀を用ふると評するのは、寧ろ侯爵の力の大なる事に気着かぬのである(拍手)其の事柄が甚だ重大であつたと云ふ事を忘れざる人が、即ち侯爵の功労
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を知悉する人と云はなければなりませぬ(拍手)侯爵の今度の御旅行は僅に三十日、殊に其樽爼の折衝は数日の間と云ふ、想ひ起せば先月の十七日の夜、侯爵が韓廷に於て、諄々と其閣臣を説諭されて、徳を以て人を懐け、誠を以て事を処し、遂に此の曠古未曾有の大事業を遂げられたと云ふ事は、実に吾々の感謝する辞がないと申して宜ろしい蓋し侯爵の今度の処置は、決して術でも無く手段でもなく、唯誠と徳を以て事を処せられたのである、宜なり、人が其の事柄を以て甚だ容易と認めたのは、蓋し侯爵の侯爵たる所以茲に存すると私は確言するのであります(拍手)
更らに一言此際に侯爵に申上げて置きたいのは、今日まで韓国に対する吾々商工業者の経営は、決して怠つて居る所存てはございませぬか併し未来に於ては今日より大なる者があると吾々が考ヘるので厶います、侯爵は政治上に於て大なる御意見を蓄へて御座る而已ならず、財政経済共に備つた御方と、吾々は始終欽慕致して居るので御座いますれば、此韓国に対する吾々の実業上に於ける御指導も、斯る場合に十分なる御訓誨を得たいと考へまする、茲に尊臨を辱ふ致しましたる陳謝の意を表すると共に、侯爵及び御随行諸君の健康を祝します
      伊藤侯の演説
我帝都に最も重大なる経済社会を支配さるゝ所の諸君が、今日余を招いて我対韓の使命を終へて帰つたるに就て慰労の意を表せらるゝがため、茲に懇篤なる宴を催され、唯今渋沢男爵より我微労に対して種々の讚辞を辱ふしたのであります、此遣韓大使の拝命に就ては、全く我皇上陛下の近隣なる韓国皇帝陛下に対つて、最も友愛なる御忠言を致して、而て将来東洋平和の政策に就て益々隣々相接して、共に日韓両国の協和を図り、而て他の侵略に対して之が予防を為すの計画を立ると云ふ、此の戦後に於ける我 陛下の聖慮を韓国皇帝に伝へたるに過ぎぬ訳である、決して自分の之がために多少の労を費したなどとか何とか云ふやうな語を以て御賞讚を受くることは、甚だ身自ら恥る所であります、併し幸にして使命を全ふし得たのは、韓国に既に駐在して居る所の我公使・司令官等が私に同情を寄せ、援助を与へたことか最も与つて力あるものと考へる、私は鉄道と軍艦の上に眠つて居たに過ぎない、決して太した功労のあつたなどゝは自ら認めませぬ、然るに諸君は斯の如く余に対して懇篤なる厚意を表され、特に今日は満洲軍の総司令部も凱旋して、今や我市民は此の満洲軍の凱旋に対し非常な忙劇を極めて居らるゝ際に、特に諸君が此寸暇なき折にも拘らず余を招きて一夕の歓を尽さるゝの好意に対しては、諸君に感謝するの適当なる言語を発見することが出来ませぬ
尚且渋沢君が、将来に於ける韓国のことに就て愚見を言へと云ふ唯今の御話しでありましたが、韓国の経済的の関係に付ては、寧ろ私は諸君の御意見を聴きたいと思ふ、自分自ら之に処するの経験は甚だ乏しい、殊に自分が渡韓をしたのは前後僅に三回で、最初は明治三十一年次は昨年即ち日露戦争が起つたに付て、勅命を奉じて韓国に派遣された、重ねて今回日韓協商のことに付て参つたのであるが、夫も京城に留まること僅に二三週間、韓人に接することも、又各種の社会に於て
 - 第28巻 p.745 -ページ画像 
見聞することも、殆ど韓国皇帝陛下と談論し或は韓国大臣等と談論する為めに余地を余さなかつたのであります、商工業等に就て研究するの暇がない、之に就て諸君に御参考のために愚説を呈し、或は意見を吐露して寸益する所ありとは考へない、唯一言将来の問題として、韓国と並に日本との輓近の関係に就て聊か申述やうと思ふ、且日韓協約に就て日本国の責任の重大なることを御話申上げたい
日韓両国の関係に就て、上古は暫く措て問はず、中古に於ても征韓論とか何とか云ふやうなことは、今日に至りては殆ど歯牙に掛くるに足らぬことゝ思ふ、彼の秀吉が朝鮮征伐を企てた以来、遂に其終りを全ふすること能はずして、僅に釜山の港を以て対州との交通を保つた、此間の日韓の関係は恰も旧幕時代に於ける和蘭と長崎との貿易通商と同じてある、而して之を一変して始めての新面目を開いたのは即ち明治九年の修好条約である、之に当つたものは黒田・井上の両人であります、明治十八年に至る迄、先づ自然の結果として普通の貿易上の関係を保つたに過ぎない、而して明治十七年より十八年の間の関係に於て、彼の朝鮮に於ける竹添公使駐在中の騒動があつて、其後私は其結末を着けるため支那に派遣され、天津の条約を締結した訳である、之は修好条約以来の第一期であつたらうと思ふ、爾来十八年後日清戦争の起る迄、支那は韓国を属国視して居るに拘らず、実際に於ては日本と均等の関係を以て之に臨んだものである、此十八年から二十七・八年に至る間大したこともなくて済んだ、然るに東学党の乱に就て天津条約のあるに拘らず、支那か属国の実を挙げんとして朝鮮に兵を出した、当時私は内閣に居つたが若し支那をして東学党の乱を鎮圧せしむるに至らば、彼は即ち進んで其属国の実を挙げることになる、以前有名無実なる属国の名義であつたのが、遂に属国の実を挙げると云ふことになるから、日本も傍観して居る訳に参らぬ、故に支那と又兵力上どうしても争はなければならぬ、所で支那は兵を牙山に集注して進退極まつた、我は進んで京城に兵を入れ朝鮮国王に改革を勧めた、然るに其結果が着かぬ、夫から日清戦争が起つた、此戦争の結果として幸に支那は朝鮮を属国視することは名実共に抛つた、然るに戦争の将に終らんとするに際し三国の干渉が起つた、当時私は非常の攻撃を蒙つて、日本国民に対して謝する言葉を知らなかつたが、此重大なる戦役を終へ支那との条約を批准交換するに当つて、此の上他の列強と争ふことは帝国の安危卜すべからざるものなりと信じたから、断乎として人心の反抗に拘らず三国の忠言を入れたのである、之かために遼東半島を譲受けたものを返したけれども、併し名に於て東洋の平和を保つと云ふ上から、非常なる恥辱を受けたと云はれても、寧ろ当時の情勢兵力を以て争ふより勝れりと考へたのである(未完)


中外商業新報 第七二一〇号 明治三八年一二月二四日 ○伊侯歓迎会演説(DK280123k-0004)
第28巻 p.745-748 ページ画像

中外商業新報  第七二一〇号 明治三八年一二月二四日
    ○伊侯歓迎会演説
 去十八日夜帝国ホテルに於て開催せる実業家の歓迎会に於ける伊藤侯の演説左の如し
      伊藤侯の演説 (承前)
 - 第28巻 p.746 -ページ画像 
然るに其後の東洋の形勢は如何である、露国は満洲に西比利亜鉄道の支線を敷き、支那と契約して旅順・大連を租借し、海軍は浦塩斯徳と聯絡を着け、順々として其計成らんとするに至つた、而して支那に於ては明治三十三年団匪の乱が起つて、北京に於ける各国公使は包囲されると云ふ姿になつた、其支那の団匪をして各地に蔓延せしむるに至れは、世界の由々しき大事を引起す、故に各国共に兵を進めて団匪の乱を鎮圧する事になつた、日本などは特に接近して居るが故に、速かに兵を出す事になつた、而て露国は陸路満洲に接近してる所から、大兵を満洲に進めた、団匪の乱か治まるや、今度は露兵が満洲より撤去するせざると云ふ問題となつて、其折衝の結果一昨年八月頃から交渉が初まつて、最も重大なる事柄が起つた、翌年の一月末に至る迄交渉を重ねたけれども、遂に尋常の手段を以て談判を纏むる事能はざるの境遇に立至つて、已を得ず我より談判破裂を宣告した様な訳である、素より其当局者たる政府及び陸海軍に於ては前途を慮つて、殆んど眠食を安んずる暇がないと云ふ状態であつたに相違ない、私も 至尊の大命に依て枢密院の議長を命ぜられ居る故に、此の問題に関して愚見を述べた事もあります、是等の事は委しく申すの遑がないが、日露の戦争にかゝる迄の其間に於ては種々の出来事がある、朝鮮の事に就き露国と協商を為し、稍々契約の形が成つた者が三つあります、其中莫斯古に於て出来た者が稍重大な者であつた外に、東京に出来た者が一つ、京城に於て出来た者が一つあります、而して朝鮮問題は日露の戦争が終つて、其の結果として即ち第三期と云ふ様な事になつた事と考へる、然るに今日迄の関係が前申す通り、或は支那の属国と云ひ、或は不分明なる独立と云ひ、遂に最後に完全なる独立と云ひ、而して今日は日韓の関係よりして、其韓国の力の不十分なるより、日本が進んで韓国の国防・外交の事に当ると云ふ様な訳に相成つて、夫れよりして韓国は純然たる我が保護の下に立たねば相成らぬと云ふ事に成つた誠に日本国は従前の関係上から、今日に至る迄の歴史に顧みて甚だ祝す可き事であると同時に、又一面に於ては重大なる責任のある事を覚悟しなければならぬ、日本の政府も国民も、此の責任の如何なる者であると云ふ事には大に注意しなければならぬ、日本の負担も実に重大なるものである、協約が調ふて誠に結構な事と思ふ人は、同時に負担の重大と責任の重大なる事を能く考へなければならぬ、徒らに喜ぶ訳にはいかぬ、而して又其重大なる責任を負ひ、之れが成効を期するに非らざれば、自ら負ふた所の責任を空うし、而して韓国の人民に怨まれ又世界の国から笑はれる、此三つの事に就ては、実に諸君の留意を促さんと欲して止まざる次第であります(拍手)
今度の協約に依つて、先づ韓国は確かに日本の保護の下に置かれたに相違ない、各国も亦確かに之れを認めたに相違ない、現在仏蘭西を除くの外、諸外国公使館の撤退も行はれた、而して韓国の外交は東京にある我外務省の責任に帰したのである、今や進んで韓国には統監府を置いて、而して韓国に於ける通商貿易其の他の事に就いては、日本が責任を取て之れを行はなければならぬ地位に立つた、之れに就ては我が政府に於ても十分に考慮注意しなければならぬ、外交の責任を取る
 - 第28巻 p.747 -ページ画像 
などゝ云ふ事は中々容易な事ではない、外交とは抑も如何なる事である、一国を包んで以て、即ち主宰者が如何なる事があつても、如何なる負担を其主宰者の版図の上に蒙らうとも、又如何なる利益を得やうとも、主宰者の権利にある事である、朝鮮には尚純然たる主権者が存在する、朝鮮には朝鮮国王がある、朝鮮には即ち朝鮮政府がある、各地には即ち朝鮮の監察使がある、此の上に日本政府は之と関係する所の各国民を有して居る、即ち各国民は韓国との条約がある、各国民は此条約に従つて活動するの権利と義務を有する、韓国政府・韓国民も亦之に対して権利義務がある、是等を日本政府が負担すると云ふ訳である、韓国民は此外交上の関係義務に対つて、日本政府の命令に服従しなければならぬ、即ち韓国に於ける所の外交上の義務は、韓国民も韓国の政府も韓国の皇帝陛下も、尽く日本政府の取る所の方針に服従して更に余す所なければ、始めて事が満足に行くのであるが、是は甚だ至難の事である、統監は日本政府の代表者として、韓国民をして此の条約を履行せしめ、韓国政府をして之れを履行せしめなければならぬ、是甚だ至難の事である、併し此の至難に属する事を能くしなければならぬ、是れ即ち直接に日本政府の責任である、又一方に於ては我が日本国を代表して、韓国に駐在する官吏は韓国政府に対つて今韓国の行政なる者は誠に不十分であつて、国民もそれが為めに塗炭に苦んで居る、此の虐政を除いて、以て韓国の人民を蘇生せしむるの労を取らなくてはならぬ、然らば韓国に駐在する日本の代表者は、韓国皇帝陛下の最高顧問でなくてはならぬ、又韓国政府に対つては、善良なる指導者でなくてはならぬ、斯の如き責任を取つて、韓国を甚だ困難なる境遇より脱出せしめて、彼れをして生活上に於て相当の地位を得せしめんとするには、これは中々容易の事ではない、若し其の事成らずんば、徒らに日本は、人の貧弱に附込んで、利益を壟断すると云ふ事に陥らなくてはならぬ、之れを以て文明の政治と誇る事が出来るか、彼等を指導して、以て彼等を蘇生せしめ、而して我 天皇陛下の徳沢の下に浴せしめ、其の国を文明の域に進め、而して相共に提携しなくてはならぬ、此事に就ては実に唯一席の演説で、其の要領を尽くすと云ふ様な訳には行かぬ、頗る熱誠を注ぎて、韓国に対する所の文明の指導者として、之れに当つて、殆んど我が日本の台湾を込めて、其の国土の半に過ぎて居る、此韓国の国民を蘇生せしむる事にしなければならぬ、而て彼の人民を蘇生せしむれば、従つて物産の繁殖に及ぶ、物産の繁殖が出来れば、謂ゆる貿易上の関係も従つて進歩する、購買力も進んで来る、斯くて共に倶に相提携し、相親愛して、而して一面には彼等を利し、最も彼に接近して居る日本国が、商工業に就ても利する所がある様にありたいと思ふ、唯彼等を苦めて我を利するのでは日本の得る所はない、彼等を導ひて商工業の発達を計らなければ、日本は何んの益する所もなからふ、然らば彼等を進歩せしめて、始めて相互の間に利する所がある、其辺に就ては、独り政府に対つて望むのではない、日本全体に対つて、日本国の責任として、諸君に御留意あらん事を願ふのである(拍手)
私は此の間行つて、随分彼等に対つて、彼等の訴ふる事を聞き、彼等
 - 第28巻 p.748 -ページ画像 
の心情に就ては、深く諒察せざるを得ぬ、又殆んど忍ぶ可からざる様な感覚を起した、然らば我は韓人を瞞着するとか、又は韓人を欺くものでないと云ふ事を能く了解せしめて、而して彼に十分の安心を与へなければならぬ、韓国皇帝は自分に対つて斯う云ふ事を云はれた、朕は卿を信ずる事各大臣の右に出づる、卿の鬚髯を見るに聊か黒みがある、卿我国に来りて我国の為めに尽力すれば、其の全く霜白となる迄には我国に貢献する所は非常に大なる可しと云はれた、其の言葉は果して韓国皇帝の真意より出たるや否や、自分の問ふ所でないが、苟も一国の君主として、他国の使臣に対つて斯の如き事を言れるのは、真実誠意より出でたる者と見なけれはならぬ、而して再度の渡韓を頻りに希望すると云ふ事を云はれたが、固より我 天皇陛下の大命に依りて参つた者であるから、一身の進退を他国の君主に対つて約束する事は出来ない、我 陛下の勅許を蒙れば再び渡韓して、陛下の御意に叶ふ様に、全力を尽くして韓国上下の為めに尽すと云ふて別かれた様な次第であります、固より至尊に対し、政府に対して、自分が何うなると云う事を申す訳にはなりませぬが、併し日韓両国の邦土の関係、経済的の干係よりして、複雑を極めて居るのでありますから、どうぞ諸君に於ても能く御記臆に止めて、商工の事固より発達を計らなければならぬが、唯専一に其事而已ではいかぬ、彼の同情を得、彼を助けて彼も利し我も亦利すと云ふ事を以て臨まん事を偏に望む、定めて諸君も御記臆になつて居るであろう、両三日前来、東京日日新聞に出て居る米人ケナンの日本人の朝鮮に於ける事業に関する論文を、之を見て私は実に他山の薬石と思ふ、真の薬石に注意が出来ぬ位では、将来の日本の韓国保護は恐らくは成効しない、是れは新聞に出て居つて未だ完きを得ぬのであるが、私は之を読んで悉く之に同意する者ではない併し多少事実はある、故に是等の事は全然他国をして、日本の政策行為に対して同情を得るやうに、公事なる手段を取て行かなければならぬ、是等の事に就ても諸君の考慮を願ふ
今晩諸君の御厚意に対して、経済論とか或は商工業とか、利益の上の問題に就て、御答申したいけれども、前申通り是等の事に就ては、最も浅学であり、経験も薄く、且つ日韓両国の経済上の関係に就て十分調査する事も出来なかつた為めに、諸君の御求めに対して答ふる事の出来ないのは、甚だ恥入る次第でありますが、唯日韓両国の関係を述べ、日本国の責任の重い事を述べて、諸君の御厚意に酬ゆる次第であります(拍手)重ねて今夕の諸君の御懇篤なる御招ぎに対しては、無限の感情を以て諸君に御礼を申上げます(拍手大喝采)(完)


竜門雑誌 第二一二号・第三五頁 明治三九年一月 ○伊藤侯歓迎会(DK280123k-0005)
第28巻 p.748-749 ページ画像

竜門雑誌  第二一二号・第三五頁 明治三九年一月
○伊藤侯歓迎会 青淵先生を始め府下の重立ちたる実業家四十余名の発起したる韓国特派大使伊藤侯及其随行員の歓迎会は、去十二月十八日午後六時より帝国ホテルに於て開催せられたり、当日正賓及陪賓として招待を受けたる来賓諸氏は
    △正賓
 侯爵伊藤博文 都筑馨六 村田淳 井上良智 鍋島桂次郎 村上格
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一 古谷久綱 男爵高崎安彦 小山善 室田義文
    △陪賓
 侯爵山県有朋 侯爵大山巌 伯爵松方正義 伯爵井上馨 伯爵大隈重信 伯爵板垣退助 公爵徳川慶喜 伯爵桂太郎 子爵田中光顕 男爵曾禰荒助 寺内正毅 男爵山本権兵衛 男爵清浦奎吾 大浦兼武 波多野敬直 伯爵東久世通禧 子爵伊東祐亨 男爵児玉源太郎 柴田家門 男爵花房義質 珍田捨巳 山県伊三郎 阪谷芳郎 石本新六 斎藤実 石渡敏一 木場貞長 和田彦次郎 田健次郎 公爵徳川家達 侯爵黒田長成 松田正久 箕浦勝人 侯爵西園寺公望 大石正巳 犬養毅 関清英 男爵千家尊福 尾崎行雄 吉田要作
五十氏にて、尚主人側に立ちたる実業家諸氏は
 井上角五郎 岩崎久弥 岩永省一 岩崎弥之助 池田謙三 早川千吉郎 原敬 原六郎 波多野承五郎 豊川良平 大倉喜八郎 渡辺専次郎 加藤正義 高橋新吉 高田慎蔵 武井守正 団琢磨 曾我祐準 園田孝吉 添田寿一 相馬永胤 中野武営 村井吉兵衛 瓜生震 安田善次郎 益田孝 松尾臣善 馬越恭平 古市公威 近藤廉平 浅野総一郎 有島武 阿部泰蔵 朝吹英二 雨宮敬次郎 菊地長四郎 三井八郎右衛門 三井八郎次郎 三井三郎助 三崎亀之助 荘田平五郎 渋沢栄一 志村源太郎
  (右来賓中、井上・村上・山県侯・大山侯・松方伯・井上伯・大隈伯・徳川公・曾禰男・山本男・寺内・東久世伯・伊東子・児玉男・山県・石本・斎藤・黒田侯・箕浦・西園寺侯・千家男・尾崎の諸氏、及主人側中両岩崎・松尾・朝吹の諸氏は事故又は病気のため欠席)
の四十三氏にて、一同来会するや小憩の後当日の会場たる中央の大食堂に於て盛なる饗宴開かる、場の正面には紅色の電球を以て「歓迎」の二大文字を抽出し、天井其他は青杉又は南天を以て清楚なる装飾を施し、終始嚠喨たる奏楽に依て興を添しが、宴将に酣の頃当夜の主人総代たる青淵先生は起て聖寿の万歳を頌せんと述べ、先生の発声にて三鞭の杯を捧げ 天皇陛下の万歳を三唱す、暫あつて先生は再び起ち一場の挨拶を述べ、次に伊藤侯の演説あり、右演説終りて別室に移り歓談数時、主客十二分の歓を尽し、午後十時退散せりと云ふ