デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
1款 同族
■綱文

第29巻 p.8-12(DK290002k) ページ画像

明治7年1月7日(1874年)

是日、栄一母ゑい逝ク。法諡シテ梅光院盛冬妙室大姉ト曰フ。同十六年十一月七日ニ至リ、先妣渋沢氏招魂碑ヲ谷中墓地ニ建ツ。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第一巻・第三八頁 明治三三年二月刊(DK290002k-0001)
第29巻 p.8-9 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第一巻・第三八頁 明治三三年二月刊
 ○第二章 渋沢家略歴及先生出生地
    第一節 渋沢家略歴
○上略  室 ○市郎右衛門ノ室栄明治七年一月七日没ス、仏名梅光院盛冬妙室大姉ト云フ、皆血洗島ノ塋地ニ葬ル ○下略
 - 第29巻 p.9 -ページ画像 


渋沢家文書(DK290002k-0002)
第29巻 p.9 ページ画像

渋沢家文書                (渋沢子爵家所蔵)
○上略
七年一月七日御母君御死去御郷里ヘ御送リ御埋葬相成候事
○下略


先妣墓碣銘稿本 【渋沢孺人墓銘】(DK290002k-0003)
第29巻 p.9 ページ画像

先妣墓碣銘稿本              (渋沢子爵家所蔵)
渋沢孺人墓銘
孺人諱恵伊、渋沢氏、武蔵大里郡八基村血洗島淵上敬林君長女、晩香翁妻也、敬林君無男、養翁為嗣、以孺人配之、孺人自幼克服婦職、定省温清之孝、如成人、節用而勤事、資性慈悲、好施、視他人貧困、流涕拯之、唯恐不給、事翁恭敬如賓、育子女愛而厳、使僮婢寛而励、自然有律、輔翁興家産、功不尠矣、青淵君之遠游也、晩香翁之長逝也、臨大事、能守家務、以終世焉、可以為婦人亀鑑矣、明治七年一月七日以病歿于東京兜坊之宅、享年六十又三、越五日、帰葬晩香翁墓側、惇忠曾被孺人之愛、如所生、墓文之属不可以浅陋辞也、銘曰、
 悪衣悪食  非己好之  拯貧周急  喜人頼之
 孳々煦々  何為自楽  以彼之歓  作我之楽
  明治三十一年一月
                 甥 尾高惇忠 謹撰
           男従四位勲四等 渋沢栄一 拝書
   ○碑ハ血洗島ニアリ。


雨夜譚会談話筆記 下・第五三二―五三四頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK290002k-0004)
第29巻 p.9-10 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五三二―五三四頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第十九回 昭和三年一月十七日 於丸之内事務所
    一、梅光院様に関する御思ひ出に就て
先生「梅光院様の死去は七年の七草の日であつた。六年末に具合が悪くおなりになつて、兜町の地震で焼けた元の事務所の所にあつた家に住つて居たが、御看病に不便な為め、前にあつた三井の有つて居た家を借家し其処で看護婦を附けて御世話申した。私が大蔵省を罷めた事を大変心配なされて私の身に変異が起つたのだと思つておいでの様だつた。明治四年晩香院が亡くなられてお母さんも大変心細く思つて居られた時だものだから、其上私の事を痛く心配になつたのが、病気の原因だつたようだ。母上を診察した医者は、はつきり記憶にないが多分猿渡常安と云ふ人だつたと思ふ。此人は織田研斎後に猿渡盛雅と云ふ人の養子になつた人である。お母さんは元来精神病の質があつた。けれども御死去の直接原因はその為めではないので、其外に身体に変異が起り心臓か何かゞ悪くなつてお亡りになつた。苦しまれる様な事はなく俄に死去なされたので、私の先妻等が大変心配したが功を奏さなかつた。恰度私は其頃大変忙しくて看護其他の事一切を妻にまかせて置いたから私としては満足な御世話を申上げる事が出来ず甚だ遺憾に思つて居る。 ○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高
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田利吉・岡田純夫・泉二郎。


はゝその落葉 穂積歌子著 第二〇丁 明治三三年二月刊(DK290002k-0005)
第29巻 p.10 ページ画像

はゝその落葉 穂積歌子著  第二〇丁 明治三三年二月刊
    巻の一
○上略 この年 ○明治六年冬の始郷里なる祖母君御心地さわやかならず見えさせ給ふよし聞えけれバ。父母の君たちいと心もとながらせ給ひて。海運橋の家にむかへとりまゐらせ給ひき。されどこゝも人の出で入りいとしげけれバ。御病にさはりもやせんとて。一町ばかりへだてたる所に。さゝやかにて程よき家のありけるをおまし所とさだめて。母君にハ風の朝雪の夕とも云はず。常に其所に行きかよひ給ひ。御ミとりに御心を尽させ給ひけり。御病はじめはさばかりおどろおどろしくも見えさせ給はざりけるが。年の暮の頃やうやう御つかれ増り行きて。かずかず尽させ給ひける医療も終に其しるしなく。あくる明治七年一月七日。祖父君の御跡追はせ給ひ。まだとりさらぬ門松は。やがてかへらぬ旅路の一里塚とぞなりにける。祖父君と同じ御よはひにて世を去り給ひけるハ。ことに深き御ちぎりとこそ思ひ奉らるれ。
祖母君ハ御性いと質朴におはしまして。大人なり出で給ひて後。母君の言葉を尽してすゝめ給ひけれど。御親らハよき衣もめし給はず。味よきものもまゐり給はず。たゞ貧しき人々に恵ミほどこし給ふを常にこよなきたのしみとハなし給ひけり。されバこたびのかなしみに。うからやからのなげきはさらにも云はず。郷里なる村人ら。あだかも慈母を失ひたる如く。いたミなげかぬはあらざりけり。
のべの送りハ郷里にて取り行ふべきなれバ。大人にハ。御柩にそひて血洗島におもむかせ給ひ。祖父君の御墓の傍に葬りまゐらせ給ひけり此時母君にもおはしますべかりしに。此月頃寒さいと強かりける折柄夜も安らかにハいをね給はで。ひたすら御みとりの事をいたづきつとめ給ひけるが御身にや障りけん。俄にれふまちすと云ふ病にをかされ給ひ。御身のふしぶしはげしく痛ませ給ひけれバ。郷里へ行かせ給ふ事のかなはせ給はぬのミかハ。あるひハ此上いかに重り行かせ給はんかとて。人々安き心もなかりけるが。日頃へてやうやうにさわやぎ行かせ給ひけり。
○下略


はゝその落葉 穂積歌子著 第三〇―三一丁 明治三三年二月刊(DK290002k-0006)
第29巻 p.10-11 ページ画像

はゝその落葉 穂積歌子著  第三〇―三一丁 明治三三年二月刊
    巻の二
○上略
中の家の祖母君ハ慈悲の心いといたう深くおハして。貧しき人に物恵むを常にこよなき楽ミとし給ひ。同じ村に住む人の家のいとなミ拙くてまづしくなりゆくがあれば。しばしば其家を訪ひて。とせよかくせよなどいさめもし。をしへもし給ひ。すべてひとの事にのミ御心を尽させられ。御親らの衣食ハいかにあらきもつゆいとひ給はず。常に母君にも叔母君にも。かくするこそ人の務なれおもとたちより心得おきねかし。と仰せられしとかや。近きほとりに住みける人。幸なくて二たび三たび妻を先立てければ。後にハ血統などよくもたゞさで。又の
 - 第29巻 p.11 -ページ画像 
妻むかへけるに。年頃へて其妻いとあさましき病起りぬ。されど其身はさも心つかずやありけん猶世に立ちまじらふを。人々うとみてもの云ひかはすさへ避け嫌ひけれど。祖母君ハいとあはれにおぼして前に替らずねもごろに音づれ給ひけり。音づれ給ふごとに此女。我が病ハ鹿島の湯に浴せバしるしありぬべく思へど。同じ村にもあらねバ独りして得行きがたくてなど云ふ。うからさへ恥ぢてともなはぬなるべしといとほしく。さらばわれと共にとてやがてゐて行かせ給ひけりとぞ此鹿島の湯と云ふハ。母君の御里なる手計村の鎮守鹿島明神の社頭に年へたる欅の大樹ありて。其根がたうつろになりたる中に古き井あり其かみ此井ハ木の傍にありしが。木の生立ちてひろごるまゝに中になりしなめりとも。あるハ後にうつろの中に掘りしなるべしとも云ふ。其水くみて風呂たつるに。神の利益にて万の病いゆるよしいひて。日毎に病人あまた来て浴みするをいふなりけり。さて其所にいたるに。先より浴ミしてありける人々。皆顔見合せつ。やをらおのおの出て帰り行き。残れるハ一人もあらずなりぬとぞ。家人ら後に之をきゝて。かたゐと共に浴ミし給ふとハあまりなる御ふるまひや。きたなしと云ふ事ハ知らでやおはする。など笑ひそしりし下部共もありけりとぞ。尾高の伯父君。中の家に来り給ひし折此よし聞かせ給ひて。譏りし者共をたしなめ給ひ。後の世ねがふ為めとにもあらず。ひとへに幸なきものをあはれとおぼし給ふ御真心に出でさせ給ふありがたさハ。あはれ光明皇后にもまさりつべきをやとて。其故事を語り聞かせ給ひし事ありけりと。或夜母君の御物語りに承りき。
○下略


渋沢栄一書翰 明治一三年一一月二〇日(DK290002k-0007)
第29巻 p.11 ページ画像

渋沢栄一書翰  明治一三年一一月二〇日  (芝崎猪根吉氏所蔵)
(印刷)

図表を画像で表示渋沢栄一書翰 明治十三年一一月二〇日   (芝崎猪根吉氏所蔵)

   一翰啓上仕候陳者本月廿二日東叡山寛永寺ニ於テ先考十年忌先妣七年忌法会執行仕候ニ付粗末之蒸物進呈仕候御納存被下度候                   謹言      明治十三年十一月廿日                渋沢栄一拝 





先妣渋沢氏招魂碑文(DK290002k-0008)
第29巻 p.11-12 ページ画像

先妣渋沢氏招魂碑文
 〔題額〕
 先妣渋沢氏招魂碑
          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓
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側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻
 〔裏面〕
  明治十六年癸未十一月七日      渋沢栄一建
   ○碑ハ谷中渋沢家墓地ニ在リ。



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290002k-0009)
第29巻 p.12 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
三月三十一日 雨午後雨歇ム
午後十時上野発車《(前)》ニテ旧里亡父母ノ法事ニ赴ク、篤二夫婦・穂積・阪谷夫妻、挙家十名同行ス、十二時熊谷駅ニテ汽車ヲ下リ、竹井澹如別邸ニテ午飧ス、更ニ人車ヲ僦テ妻沼村聖天宮ニ参詣ス、午後六時二十分熊谷発ノ汽車ニ搭シ、六時四十分深谷駅ニ着ス、此夜七時過八基村市郎宅ニ抵リテ宿ス
四月一日 晴
○上略 此日法会ヲ開ク、会スル者数十人頗ル盛会ナリ ○下略