デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第29巻 p.98-103(DK290033k) ページ画像

明治42年4月18日(1909年)

是ヨリ先、四十一年十月、埼玉県大里郡八基村村社鹿島神社境内ニ建テラレタル尾高惇忠頌徳碑ノ除幕式、是日挙行セラル。栄一出席シテ追悼ノ演説ヲナシ、且ツ来会者ニ塚原蓼洲著「藍香翁」ヲ配付ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK290033k-0001)
第29巻 p.98 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
九月二十七日 晴 涼
午前六時起床、入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、後来人ニ接シ又書類ヲ整理ス午前八時三十七分王子発ノ汽車ニ搭シテ旧郷里ニ抵ル、十一時深谷駅ニ抵ル、治太郎以下多人数来リ迎フ、相共ニ血洗島ニ抵ル、午飧後諏訪神社ニ抵リ獅子舞ノ祭典ニ出席ス、畢テ家ニ帰リ更ニ墓参ヲ為ス、先人ノ墳墓ヲ拝シテ後、手計ニ抵リ藍香翁建碑ノ地ヲ鹿島神社ノ附近ニ一覧ス、更ニ尾高氏ノ墓地ニ詣シ、定四郎ノ家ヲ訪ヒ小憩ス、五時過キ帰宿ス、夜飧後市郎宅ニ村人多数聚来シ、獅子舞ノ祭典アリテ夜十一時過散会ス
九月二十八日 半晴 涼
午前六時半起床、朝飧シ後揮毫ヲ為ス、大里郡長来訪ス、午前十一時八基小学校ニ抵ル、村民多数ノ来会《(衍カ)》ス、依テ自治制度ニ関スル一場ノ講話ヲ為ス、畢テ重立タル村民等ト談話シ、午後一時市郎方ニ抵リテ午飧ス、食後又揮毫ヲ試ミ、午後三時過市郎方ヲ発シ、四時頃深谷発ノ汽車ニ搭シテ七時王子ニ着ス ○下略


藍香翁 塚原蓼洲著 第二八〇―二八二頁 明治四二年三月刊(DK290033k-0002)
第29巻 p.98-99 ページ画像

藍香翁 塚原蓼洲著  第二八〇―二八二頁 明治四二年三月刊
    (三十五) 永眠
○上略
 - 第29巻 p.99 -ページ画像 
藍香尾高翁頌徳碑
西武有君子人、曰尾高翁、々少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸々克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人々追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月某日生翁、々少聡敏強記、独学通経史、業暇教授隣里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免、既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属、兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議所長、傍勧製藍、励染工、後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権、翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻々著述、而泰東格物学、其所最注心、毎曰名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀最忠実、歳歉則廉価糶貯穀、有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰、
  維孝為本。 学術正淳。 事君則藎。 育英則循。
  述作垂後。 名教維因。 造次顛沛。 志在経済。
  殖産刱業。 大起民利。 誰言理財。 不由徳義。
明治四十年七月
        東宮侍講正四位勲三等 文学博士 三島毅撰
   ○コノ碑高一丈五尺幅六尺、八基村大字下手計ノ村社鹿島神社境内ニアリ。正五位日下部東作書、吉川黄雲鐫、明治四十一年十月竣工。(「竜門雑誌」第二五二号・第七六頁)


竜門雑誌 第二五二号・第六二―六三頁 明治四二年五月 故尾高藍香翁頌徳碑除幕式(DK290033k-0003)
第29巻 p.99-100 ページ画像

竜門雑誌  第二五二号・第六二―六三頁 明治四二年五月
    故尾高藍香翁頌徳碑除幕式
明治四十年五月渋沢市郎・川上鎮石・高橋波太郎等の諸氏十数名に依りて発起せられたる故尾高藍香翁頌徳碑建設の企画は、本社に於ても甚大の恩誼を荷ふ同翁に関する事とて直に其挙を賛し、幹事会の決議を以て建碑費の内へ曩に金百円を寄付し、且寄付金の取扱を為したり
 - 第29巻 p.100 -ページ画像 
しが、右頌徳碑は先頃竣成を告け、本年四月十八日を以て、翁の郷里埼玉県大里郡八基村大字下手計なる村社鹿島神社の境内に於て、盛大なる除幕式を挙行せられたり
当日の来会者は青淵先生を始め同令夫人・同令嬢・渋沢本社々長・穂積博士・同令夫人・阪谷男爵・同令夫人・島田埼玉県知事・島崎大里郡長、及翁の遺族其他捐資者二百数十人にして、午前十一時一同着席先《(マヽ)》づ発起人の挨拶・事業及会計の報告・小学校生徒の唱歌ありて、玆に覆碑の白布は一同の拍手と共に撤せられたり、夫より神官の祭詞ありて、次に渋沢本社長は本社を代表して式詞を朗読せられ、夫れより来賓の式辞・祭文等ありて後、穂積博士・阪谷男爵・青淵先生等の演説、並に遺族総代尾高次郎氏の謝辞朗読ありて、式を終りたるは午後三時半なりし、夫れより食堂を開始して午餐の饗ありたり、尚当日は余興として楽隊・煙火・撃剣仕合・囃子等ありて、近郷近村より此盛況を見んと集ひ来れる老若男女は、さしもに広き境内に溢るゝ計りなりき
○下略
   ○右記事中ニ「午前十一時一同着席……」トアルモ、後掲「八十島親徳日録」ニヨリ察スルニ開式ハ午後一時ナラン。


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK290033k-0004)
第29巻 p.100 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
四月十八日 晴 日曜
今日ハ埼玉県手計鹿島神社境内ニ於テ尾高藍香翁頌徳碑ノ除幕式執行セラル、予等モ寄付者ノ一人トシテ列席ス、即午前八時廿分上野発車十一時半先方着、折柄近傍ニ出火アリシタメ多少延刻、一時開式 ○中略 男爵ガ別ニ心配シテ編纂セラレタル塚原渋柿執筆藍香翁伝記モ、本日一同ヘ配布セラル ○下略


竜門雑誌 第二五二号・第八八頁 明治四二年五月 ○尾高藍香翁伝記(DK290033k-0005)
第29巻 p.100 ページ画像

竜門雑誌  第二五二号・第八八頁 明治四二年五月
○尾高藍香翁伝記 青淵先生には予て尾高藍香翁の伝記を編纂せんことを図られ、爾来屡々繁劇なる事務の余暇を以て速記者を自邸に招き自ら翁に関する事績を談話して之を速記せしめ、或は翁生前の知己及び親戚等の談話を速記収録せしめ、之を塚原靖氏に託して編纂せしめられたるもの、名つけて藍香翁と云ふ、玆年四月十八日翁の頌徳碑除幕式の挙行せらるゝに当り、先生には千数百部を製して之を其発起人及知友の間に送与せられたりと云ふ


竜門雑誌 第二五五号・第八―一二頁 明治四二年八月 藍香翁の除幕式に於て(DK290033k-0006)
第29巻 p.100-103 ページ画像

竜門雑誌  第二五五号・第八―一二頁 明治四二年八月
    藍香翁の除幕式に於て
 本篇は本年四月十八日故尾高藍香翁頌徳碑除幕式執行席上に於ける青淵先生の演説なり
藍香翁の建碑 閣下・淑女・紳士諸君、今日の藍香翁の除幕式に参列致して、玆に諸君に御目に掛りますのは私の最も歓喜に堪えぬ次第でございます、丁度卜した日柄も藍香翁其人の如く、最も静かに麗かに頗る好天美日を得ましたのは、発企人諸君の御手柄と之れを賞讚した
 - 第29巻 p.101 -ページ画像 
いのでございます、私は藍香翁の極く近親でございますから、玆に一言を申上げまするに就ても、一面には発起諸君及び満場の諸君に対して、先づ第一に此建碑に対する御厚情を謝さねばならぬのでございます、去りながら一場の演説を為しまするのは、藍香翁其人の行実を表はすが斯る席に於て殊に必要と考へまするから、其点に於ては近親たるの故を以てせずして、我信ずる所を申述べねばならぬやうに考へまするのでございます。
さて此除幕に際して一言を申述べるに当つて、私は無限の喜びと又無限の悲みとを感ぜざるを得ませぬのです、所謂喜悲二つの情が我胸中に交々錯綜して来ることを覚えるのでございます、何を以て喜ぶか、藍香翁は洵に我欲する所を尽して、所謂仁を求めて仁を得て安んじて世を去られた人である、而して今や十年に近い歳月を経て、朋友故旧相集つて是非其徳を頌したいといふので、斯様な立派な建碑も為し得られるやうに相成つた、而して其式日は独り手計村のみならず、近隣相集つて、親戚に故旧に、一般の来衆に、斯る盛大なる祝宴を開かれまするのは、其近親たる而かも縁故の深い渋沢としては、真に喜ばざるを得ませぬのでございます、去りながら翻つて感情を申述べますると、私は五つ六つの時から藍香翁に随身したものである、殊に厚い親戚である、又師父である、或る場合には死生を共にして国事に奔走した人である、其後に至つては私の関係して居る事業を翼賛した人である、老後に於て或は著述に或は事業に其力を尽されるときに於ても、尚且つ百事私と相談を致して遂に世を終られた人である、仮令十年経つても二十年経つても、此厚い情愛といふものは決して脳裡から忘れることの出来るものではない、喜ぶべき席ではある、併ながら其人を玆に追想致しますると、無限の感が生じて知らず知らず涙の溢れるといふことは、是は人情として免れぬものであります、故に此碑前に於て聊か翁の行実を申述べるのは、喜びと悲みと二つの情を以て申述べるといふことを、先づ諸君に陳情致して置くのでございます。
先般此建碑に際して、発起人諸君からの御企を伺ひました時の私の申上げ方は、近頃建碑の事が甚だ流行る、俗に申すと猫も杓子も建碑建碑といふ、私は余り建碑を好みませぬ、殊に漢文に書く建碑には、支那人風の讚辞がある、殆ど誰も彼れも皆君子である、誰も彼も皆功労ある人である、悪く申すと其文章は百人にも二百人にも適用し得られるやうな有様がある、斯ることは世の中に余り讚むべきことではない遂に斯く建碑が流行つて行つたならば、日本中建碑のために余地を存せぬやうになるとまで極言せねばならぬやうに思はれる、故に建碑はそれに相当する効能あるに於て宜しい、斯る意味を以て、発企人諸君に此建碑の挙を慎重になさいませと申上げたのでございます、併し発起人諸君は、藍香翁の建碑に対する一般の人気は決してお前の云ふやうなものではない、世上一般の流行を追ふ如きものではない、而して唯単に此建碑を郷里たる手計村の鹿島神社の祠畔に存するのみならず更に其行実を叙述して、翁を知つて居る人知らぬ人にまで配りたいといふ希望であつた、斯ういふことでございましたから、然らば宜しいどうぞ其事柄を如何にも事実に違はぬやうにして欲しい、最も精しく
 - 第29巻 p.102 -ページ画像 
翁の性行・経営・履歴、総ての事を熟知して居るのは、憚りながら私の外にはないと思ふ、私は誓つて浮誇の言葉を為しませぬ、誇大の事を申して藍香翁をして唯世に衒ふやうなことは好みませぬ、努めて其事実を明かにして、後世に裨補することがあるやうになるならば、之を碑文と共に相伝へるやうに致すが宜からうと、玆に於て此建碑の手続及び伝記の編纂に取掛りました訳でございます、其伝記に於ては今日多分お集りの諸君に発起人から差上げてあらうと思ひまする、其文章の巧拙は第二に置きまして、多く事実を申述べましたのは斯く申す私と及今日は参席致しませぬけれども同姓の喜作とが、実況に遭遇した有様を叮嚀に叙述致したのでございまするで、どうぞ御持帰り下さいまして御一覧を賜はりますれば、私共も満足致しまするが藍香翁の霊も定めし喜ぶことであらうと存ずるのでございます。
藍香翁の人と成り 藍香翁の人となりを申しますると、現に碑文にも書いてございまする、又其の伝記にも掲げてございます、もう再び玆に喋々する必要はございませぬけれども、所謂知情意の完備して発達した御人ではあるが、殊に情に長じた御人といふて宜いやうに考へます、而して世を終るまで、自己なしに国家のみであつたと申して宜からうと考へます、是れが藍香翁に取つて賞讚すべき点、又建碑の価値ある点かと私は考へるのであります、一身一家の為め、若くは子孫の為め、拮据経営して宏大なる働きを為す人は世に少しと致しませぬ、殊に此節柄、事業も進歩して参りましたし、殖利の方法も巧妙になつて来た、富み栄えるといふことは其様に六ケ敷いことではございませぬ、相当な智恵のある人ならば誰でも出来るが、藍香翁は決してさういうことを好まなかつた、我が一身は殆ど知らざるかの如くであつたさらば唯世の中に空理を説き形式を談ずる御人であつたかといふと、決して左様ではない、真正なる実学である、又知つたことは必ず行ふといふ、殆ど陽明学派の如き知行合一の人である、且つ此道徳と殖利とをして背馳させぬといふことに最も努めたのは、蓋し藍香翁を始祖と申しても宜しいのです、不肖ながら私も今日此実業を経営して居りまするが、仁義道徳と利用厚生とを、努めて背馳させぬやうに致したいと務めて居ります、而して其源は尾高翁より伝来致したと申さねばならぬのでございます、左様に自己に疎くして国家に厚い、徳に専らにして公利を論じましたけれども、其身に処しては甚だ冷淡であつた翁の身後の有様を御覧なさいますると誠に明かである、遺財として何が残つて居るか、私の為に何の成したことがあるぞ、一般に対し、世間に向つては今堀口君の仰しやる通、例へば製糸業に於ける甘楽社・碓氷社は其源を藍香翁に発したといふて宜しい、秋蚕事業の今日斯く盛大になつたのも、其功績は藍香翁に帰せざるを得ぬといふたならば国家に対する公利は頗る大であるが、然らば其事に就て藍香翁一身の利益は如何であつたか、殆ど田畑一段・家屋一戸の価も後へ遺さぬ、是が藍香翁の藍香翁たる所以である、此点が即ち此建碑として大なる価のある所であると論ずるのでございます。(拍手)
西武有君子人 自ら居ること淡泊に、人に対して甚だ厚く、終身之れを以て努めとして倦まず、且つ其間に或は社会に対し、或は己れと説
 - 第29巻 p.103 -ページ画像 
を異にする者に向つても、少しも之を怨みとせず、所謂仰而不怨天、俯而不尤人、唯己れの好む所を行はれた人である、之を君子人と謂はずして何ぞや、宜なり、三島博士が第一に西武有君子人と書かれたのは、私は大に、其冒頭に適当なる文字を置かれたと喜ぶのでございます(拍手)
藍香翁の行状に対して、若し私の記憶して居る所を悉く申述べんとするならば、なかなか一日を費しても一夜を明かしても申尽すことは出来ませぬ、又余り喋々申述べるを要しませぬ、此碑文にも明かでありまするし、伝記にも審かにございまするからして、最早多言は費しませぬが、私は常に藍香翁の御蔭で漢籍を好んで読で居ります、論語に徳不孤、必有隣、是は孔子の言葉であります、私は今日特に此文字の我を欺かぬことを感ずるのでございます、藍香翁の徳が即ち斯の如く四鄰押並べて遂に此大盛会を開き得るに至つたのは、何と必ず隣ありではございませぬか、(拍手)又中庸に至誠無已、則神是感格、藍香翁は終始誠を以て一身を修めた人である、誠を以て事業を為し遂せた人である、中庸に誠者天之道也、誠者人之道也、即ち人の道を尽されたのは藍香翁である、此の誠が已むなくして神是感格、鹿島神社の祠畔に斯る立派な碑が建てられて以て神徳を補翼し、或は又神社の保護を受けて永久に継続し得られるとして見たならば、即ち至誠無已、則神是感格といふ語は、誠に適切に吾々に指し示すと申して宜からうと考へるのでございます、(拍手)どうぞ満場の諸君、唯今申述べました通藍香翁の建碑に就ては、唯世上一般の流行を追ふの挙でないといふことを、能く御記憶下さるやうに願ひたい、同時に伝記にも決して虚飾のことは掲げてはございませぬ、事実に違ふことは記載してはないといふことを能く御了承下されて、幸に是等の行実・履歴に於て青年の御方に聊か裨補することがあつたならば、発起人諸君の喜びは勿論のこと、斯く申上げる私の深く感謝致す次第でございます、玆に一場の蕪辞を呈して諸君の清聴を煩はした次第でございます。(拍手)