デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

1章 家庭生活
2節 健康
■綱文

第29巻 p.149-152(DK290045k) ページ画像

明治37年6月9日(1904年)

是日栄一、天皇陛下ヨリ病中御尋トシテ菓子一折ヲ賜ハル。爾後回復ニ向フ。


■資料

竜門雑誌 第一九三号・第三九―四〇頁 明治三七年六月 ○青淵先生の病気軽快(DK290045k-0001)
第29巻 p.149 ページ画像

竜門雑誌  第一九三号・第三九―四〇頁 明治三七年六月
○青淵先生の病気軽快 前号に記したるが如く、去月二十一日頃迄の先生の病状は甚だ気遣はしき容熊を呈せられ、高木博士・土屋学士等毎日往診し、外に医員は交る交る終夜病床に侍し、看護婦も四名を傭ひ、僅に嚥下し得るものは流動物に過きざりしも、薬餌漸く効を奏し昨今は大に軽快に向ひ、高木博士の往診も隔日となり、医員も常に詰切り居らず、看護婦も二名を減ぜられ、先生には時々褥上に座して庭園を眺め、食餌も粥を用ゐらるゝに至り、現に去九日 御尋として畏き辺より御菓子を賜はりたる時の如きは、床上に起なおり礼服を取寄せて恭しく 天恩を拝謝し、暫時感涙に咽ばれたり、其後は病勢も一入薄らき、体温も平常に復し、咳嗽・咯痰も減退し、去日の如きは始めて病室掃除の間丈隣室に赴かれ、安楽椅子に寄り掛り其終るを待たるゝ次第となられたれば、遠からず全癒を見るに至るべし、然りと雖何分七ケ月に余る間、過半病床に居られたるが如き重症後の事なれば、大事の上にも大事を取られて、未だ書見・用談等は一切避けられ唯僅に精神を労することなき書籍抔を家人に朗読せしめ、静に之を聴聞せらるゝに過ぎずと伝承せり


(八十島親徳) 日録 明治三七年(DK290045k-0002)
第29巻 p.149-151 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三七年   (八十島親義氏所蔵)
六月十日 晴
○上略 青淵先生ヲ病床ニ拝ス、引続キ快方乍ラ今日ハヤヽ熱アリ
昨日 陛下特別ノ思召ヲ以テ、御見舞トシテ御菓子ヲ賜ハリ、破格ノ御待遇ニテ一同感泣セラル、元老・公爵、陛下ノ御親任深《(信)》キ官吏ト同様ノ御取扱ナリト言フ、御福分ケトシテ二・三片頂テ帰ル ○下略
六月十二日 雨 愈梅雨 日曜
 - 第29巻 p.150 -ページ画像 
○上略 青淵先生大分元気モ附カレ、今夕八笑人(小説)ナド朗読ス ○下略
六月十三日 雨
○上略 男爵ノ命ニテ牛込穂積氏ヲ訪ヒ、男爵ノ 畏キ辺より恩賜ノ御菓子ニ対シテ即詠セラレタル和歌ノ端書ノ事ニ付協議 ○下略
六月十五日 晴
○上略 御気力モ大ニ増シ、昨日ナドヨリ床ノ辺三・四歩ハ歩ミ試ミラルル位ナリトゾ、種々戦況ナド御話シ ○下略
   ○中略。
六月廿五日 曇 蒸暑シ
○上略 男爵大ニ宜シク、昨今ハ室内運動ヲ試ミ、日本館民間《(居)》ノ方ヘモ一二回参《(レ脱)》ラシ位ナリト ○下略
   ○中略。
六月廿九日 快晴 大ニ暑シ
○上略 主人公非常ニ快方、今朝ハ分園マデ初メテ散策セラレ、又午後ニハ茶室迄参ラル、常ニハ尚就床セラルヽモ時々如此庭ニ出テラルヽ事昨今より始マル、実ニ急速ノ進歩ニシテ、元気モヨロシク、又一両日前ヨリ新聞ヲ手ニセラル、最早大丈夫也 ○下略
   ○中略。
七月五日 快晴
○上略 男爵殆全快共云フヘキ容体、已ニ一昨日より入浴ヲ始メ、又昨日ヨリ一日一会《(回)》ハ米飯ヲ用ヒラル、多クハ床ヲ離レ快談セラル、未看護婦附添、服薬吸入等ノ手続ハナセリ
今後ハ全ク命ヲ拾ヒシモノト思ヒ、之ヲ一段落トシテ可成雑務ヲサケ大要ノ事務ニノミ従事ノ覚悟決心ヲ定メタレハ、計画中ノ韓国興業会社ノ如キモ、情ニ於テハ忍ヒサレトモ、責任アル重役タル位置ハ断ル決心ナド御話アリ ○下略
   ○中略。
七月十二日 晴夜曇
○上略 男爵益日立ヨク、顔真卿ノ手習中、軈テ庭園ノ散歩ヲモセラル ○下略
   ○中略。
七月十八日 晴
○上略 男爵引続宜シク、殆昼間ハ臥床セス、朝夕運動二回、日々入浴、今日ハ家法揮毫中ナリキ ○下略
七月廿一日 晴 暑シ 八十五・六度
○上略 青淵先生益快方、昨日ヨリ看護婦ヲ一人ニ減シ、今夜ヨリ寝室ニ入リテ常時ノ如ク休寝セラルベシト ○下略
七月廿三日 晴夕驟雨落雷多シ
○上略 御病後今日ノ如ク来客多キ事ハ初メテ也ト、最早殆全快ノ人ノ如キ有様也、病後療養ノ為、果シテ如何ナラント憂フ ○下略
   ○中略。
八月五日 晴 涼シ
○上略 青淵先生本日ハ京橋ノ某歯医ヘ治療ノ為出向カレ、帰路兜町ヘ立寄ラル、之レ始メテ也
 - 第29巻 p.151 -ページ画像 
○下略


中外商業新報 第六七三三号 明治三七年六月一四日 渋沢男の軽快(DK290045k-0003)
第29巻 p.151 ページ画像

中外商業新報  第六七三三号 明治三七年六月一四日
    渋沢男の軽快
渋沢男爵の容体も一時は余程の重態に在り、高木博士・土屋学士等毎日往診し、外に医員は交る交る終夜病床に侍し、看護婦も四名を傭ひ僅に嚥下し得るものは流動物に過ぎざりしも、薬餌漸く効を奏し、昨今は大に軽快に向ひ、高木博士の往診も隔日となり、男爵には徐に褥上に座して庭園を眺め、食餌も粥を用ゐらるゝに至り、現に去九日 御尋として 畏き辺より御菓子を賜はりたる時の如き、男爵には床上に起なおり、礼服を取寄せて恭しく天恩を拝謝し、暫し感涙に咽はれたりと云ふ、而して当時直に筆を呼ひ、左の一首を詠して親戚・家人等に示されたりとか、但しはし書は後に口授して加へられたるものなりと
 ことし春の末つかたより再ひ病にかゝりて、ほとほと命もあやうきばかり煩ひけるが、やうやうをこたりさまになりける程、六月九日ゆくりなく侍従職よりの御使にていとうるはしき御菓子一折のたまものにそへて 畏き仰ことによりさつけさせらるゝ旨幹事岩倉朝臣の御書あり、こは微臣の煩ひぬるよし 叡聞に達せしよりの御事なりとぞ、そもそもやむことなき官にある人々はしらず、野にある身のかゝる大御恵を蒙るは誠に例少き事にて、こは全く常に実業の発達につきてそゝがせ給ふ深き大御心のやかて微臣の身にもをよぼせる御事なるべしと、かしこくもはた喜ばしく忝くおもひつゞけて
  伏屋もるうめきの声の思ひきや
      雲の上まてきこゆへしとは
其後は病勢も一入薄らき、体温も平常に復し、咳嗽咯痰も減退し、遠からず全癒を見るに至るべき状態なりとぞ


実業之日本 第七巻・第一四号 明治三七年七月一日 渋沢栄一天恩に感泣す(DK290045k-0004)
第29巻 p.151 ページ画像

実業之日本  第七巻・第一四号 明治三七年七月一日
    ○渋沢栄一天恩に感泣す
渋沢栄一昨年病に罹り、一たび平癒したるも、春来肺炎に変じ、知人をして憂慮措く能はざらしめたるが、事天聴に達し、畏き辺りより病気御尋として御菓子を賜はる、栄一直に床上に起直り、礼服を取寄せて恭々しく天恩の優渥を拝し、覚えず感涙に咽びたり、余りの嬉れしさに、和歌一首を詠じ後に左のはし書きを添へたりと
  ○以下前掲ニツキ略ス。


竜門雑誌 第一九四号・第三六頁 明治三七年七月 ○青淵先生の病気快癒(DK290045k-0005)
第29巻 p.151-152 ページ画像

竜門雑誌  第一九四号・第三六頁 明治三七年七月
○青淵先生の病気快癒 同先生の病状に付ては内外一般の深く心痛せし処なるが、前号記載の如く去月初より日増に軽快に向はれ、爾来の経過極めて良好にして、去月よりは毎朝新聞を手にせられ、殊に本月上旬以来は室内の運動は素より、庭園の運歩をも試みられ、食事も漸次常態に復し、其他体力・気力共着々として回復し、昨今は時々机によりて読書・習字等に閑を消され、来客あれは膝を接して快談せらる
 - 第29巻 p.152 -ページ画像 
る等、凡ての容状一として順当ならざるなく、吾人の欣喜措く能はざる所にして、実に慶賀の至なり、但何分大患後のことなれば、厳に主治医の戒を服膺し、尚当分は病後療養者たる態度を以て、昼夜看護婦を侍せしめ、起臥寝食凡へて紀律を正しくして摂生に専ら注意せられ少くも此夏季中は尚一切の用務に干与せず、従て要談の来客を謝絶し専ら悠々閑養せらるゝ筈なりといふ


同方会誌 第二七号・第六〇頁 明治三八年八月 渋沢男の栄誉(DK290045k-0006)
第29巻 p.152 ページ画像

同方会誌  第二七号・第六〇頁 明治三八年八月
    渋沢男の栄誉
賛成員渋沢栄一男は、永らく重き病に罹り、知ると知らさるとなく、国家の為めに氏か二豎の一日も速に軽快ならんことを祈りつゝありしに、此事畏くも九重の雲井にまて聞えて、六月九日といふに御使を以て男の病を問はせられ、且御菓子をは下賜はりしかは、男は病床に恭しく天恩を拝し、感泣して左の一首を詠し、座にありし家人に示されたり、但はしがきは後に口授して加へられたるものなりとぞ
○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第七六〇頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK290045k-0007)
第29巻 p.152 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第七六〇頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十七回 昭和四年十二月二十四日  於丸之内渋沢事務所
    (四)御病歴に就て
○上略
先生「 ○中略 明治三十六年十一月には感冒を患つて、中耳炎を併発した(註、竜門雑誌によれば、感冒と同時に喘息をも併発すと記載してある)それが翌年の三十七年の四月初めになつて、大変熱が高くなつて肺炎になつて仕舞つた、高木氏が大変心配して居つたやうだ」
篤 「あの時の御大患は、私等は非常に心配致しました。皇室からも御見舞下さつて、金玉糖のやうなものを御下賜になりました。私は覚えて居りますが、徳川慶喜公が態々見舞においで下さつて、子爵の手をお握りになり、涙を流されました」
○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・渋沢元治・渡辺得男・小畑久五郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。
   ○本巻「和歌」及ビ「恩賜」同日ノ条参照。