デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 5. 大倉喜八郎
■綱文

第29巻 p.349-356(DK290106k) ページ画像

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■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290106k-0001)
第29巻 p.349-350 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十九日 晴
○上略 此夜大倉氏宅ニ於テベ卿ノ招宴ニ参席ス
   ○中略。
二月七日 曇夕雨
○上略 夜八時浜町常盤屋ニ抵リ、大倉・梅浦二氏ト共ニ石本陸軍大佐ヲ饗宴ス、夜十一時帰宅ス
   ○中略。
三月二十六日 曇
○上略
午後五時築地瓢屋ニ於テ、平岡煕氏催ス処ノ宴会ニ列ス、井上伯・後藤台湾民政局長官・大倉喜八郎等来会ス ○下略
   ○中略。
四月六日 朝小雨
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○上略 畢テ向島大倉氏邸ニ催ス処ノ観桜会ニ出席ス、一詠アリ、夜十時帰宿ス
    大倉大人の観桜会に昨日より降そゝきし春雨の小休ミして、花もまた散らてありけれハ
 ともをめつる君かこゝろにならひてや花も人まつ須田の夕くれ


中外商業新報 第五一五一号 明治三二年四月一一日 大倉氏別荘観桜会席上吟詠(DK290106k-0002)
第29巻 p.350 ページ画像

中外商業新報  第五一五一号 明治三二年四月一一日
    大倉氏別荘観桜会席上吟詠
去る日墨堤大倉氏の別墅に朝野の貴紳打ち集ひ観桜の宴を開かれける折の吟詠二・三を得たれば、左に掲げて一粲に供す
      観桜会席上           福地桜痴
  花くもり雨ふらぬ間のいのち哉
                      渋沢栄一
  友をめつる君が心にならひてや
       花も人待つ墨陀の夕くれ
                      無辺渡辺子
  なかなかにものいふ花のおほければ
       つゝみのさくら色なかりけり
                      大倉鶴彦
  まれ人のつとひてけふの桜狩
       うれしからまし花のこゝろも
                      梁川榎本子
  色即是空誰闡明   欲将詩酒了余生
  逢花未免古今感   風雨無情却有情
      次韶              春畝伊藤侯
  深緑淡江看不明   只看春色座中生
  年々歳々花千種   千樹桜花自有情
      堤桜              同
  墨水江頭千樹桜   紅雲帯雨未全晴
  春風一縷吹香処   座聴営花留客声


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290106k-0003)
第29巻 p.350 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
六月九日 曇
○上略 十二時大倉氏邸ニ催ス処ノ英人テオシー氏夫妻ノ招宴ニ列ス、款談数時 ○下略
   ○中略。
七月十九日 曇
○上略 午後王子別荘ニ於テ抺茶ノ宴ヲ開ク、大倉喜八郎・近藤廉平・梅浦精一・皆川四郎・高橋義雄ノ五氏来会ス、昨日ト同シク饗応度ニ適シ、来賓頗ル快ヲ唱フ、夜九時散会ス


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK290106k-0004)
第29巻 p.350-351 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
四月廿八日 晴
○上略 午後二時兜町ニ帰宅、直ニ馬車ヲ命シテ夫人ト共ニ王子別荘ニ赴
 - 第29巻 p.351 -ページ画像 
キ、大倉喜八郎氏仏国行ノ送別会ヲ催ス、賓主僅ニ七名、極テ懇親上ノ宴会ナリ、種々ノ款談ニ春宵ノ短キヲ憂ヒテ夜十一時散会ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK290106k-0005)
第29巻 p.351 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
三月四日 晴
○上略 午後七時紅葉館ニ抵リ大倉氏ノ招宴ニ応ス、松本荘一郎・渡辺洪基・後藤新平・田健次郎、其外十数名来会、余興アリテ盛宴ナリキ、夜九時兜町宅ニ帰宿ス
   ○中略。
四月二十日 曇又ハ雨
○上略 午後六時去テ向島大倉別邸ニ抵ル、井上伯来会ス、主人ト三人静談、夜深クシテ辞シ ○下略
   ○中略。
六月二十日 曇
○上略 十一時兜町邸ニ抵リ、兼子ノ王子ヨリ来会スヲ待テ共ニ大倉氏ヲ葵町邸ニ訪フ、大隈・末松・穂積ノ諸氏来会ス ○下略
   ○中略。
六月廿三日 曇
○上略 此日ハ向島大倉氏別荘ニ於テ狂歌ノ集会アルニ付、余モ判者トシテ出席スル筈ナリシモ、午後マテ種々ノ来客アリタルニヨリ、電話ヲ以テ出席ヲ謝絶ス


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK290106k-0006)
第29巻 p.351 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
四月七日 雨
○上略
昨日モ今日モ、大倉氏ヨリ向島別荘ニ於テ観桜ノ宴アルヲ以テ招待セラレシモ、差支フルニ付之ヲ謝ス
   ○中略。
五月五日 雨
○上略 午後五時葵町大倉氏ノ催フセル宴会ニ出席ス、徳川一位公・三位公・近衛公・松戸二位・田安・一橋等ノ諸貴顕来会ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK290106k-0007)
第29巻 p.351 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
四月十四日 曇 風ナシ
○上略 正午葵町大倉喜八郎氏邸ニ抵リ、特派大使一行ノ招宴ニ陪席ス、美術館ヲ一覧上、午飧ヲ畢リ ○下略
   ○中略。
六月三十日 曇 冷気
○上略 六時帝国ホテルニ抵リ、大倉氏催ス処ノ饗宴ニ参席ス、土方伯・尾崎市長等来会ス、食卓上窮民救助ニ関スル一場ノ演説ヲ為シ ○下略


渋沢栄一 日記 明治三九年(DK290106k-0008)
第29巻 p.351-352 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
四月八日 曇夕雨 軽暖           起床八時 就蓐十二時三十分
○上略 五時過大倉氏別邸ニ抵リ、シフ氏招宴ノ会ニ出席ス、酒間種々ノ
 - 第29巻 p.352 -ページ画像 
余興アリ、夜十二時王子ニ帰宿ス、此日大倉邸ノ宴会ニハ兼子モ同席シテ夜共ニ帰宿ス


竜門雑誌 第二二二号・第四八―四九頁 明治三九年一一月 ○大倉喜八郎氏古稀祝賀園遊会(DK290106k-0009)
第29巻 p.352-353 ページ画像

竜門雑誌  第二二二号・第四八―四九頁 明治三九年一一月
○大倉喜八郎氏古稀祝賀園遊会 大倉鶴彦翁は、今年古稀の齢に達せしを以て、去月二十三日より三日間葵坂の邸内に於て盛なる祝賀会を開き、内外貴賓知己を招待して園遊会を開かれたるが、同日青淵先生には、主人鶴彦翁の挨拶・石黒男の演説に続き、左の如き祝賀演説を為されたり
 閣下・淑女・紳士諸君、私は大倉君古稀の賀に一言の祝辞を呈するの光栄を担ひます
 私は君と三十余年の旧友、特に其従事の方面が同一の地位に立つて居りますので、百事相提携して今日に及び、今に明治聖代の聖恩に浴する者でありますが、今日よりして過去を顧みますれば蔵月流るるが如く、大倉君は既に古稀の齢に達せられました
 明治照代は種々の人が国家に尽すの時代で、或は学問、或は政治、或は軍事に夫々貢献を致されまして、玆に御列席の方々の内にも各方面から国家に貢献されし方々は、枚挙に遑あらざる程であります乍併大倉君の如く商業界に雄飛されし人は、是れを他方面に求むるも匹儔甚だ稀れであらうと信じます
 君が経営の事業の跡に見まするに、君は議論の人よりも手腕の人、口舌の人よりも実際の人であつて、是が所謂君の今日ある所以であります、特に君は大に其事業の発展するに伴ひ、他人に越えて国家公益に尽くさるるは、羨望に堪へざる次第であります、唯今石黒男の御報告に依つて、我々共迄も大に面目を施したる様に感ぜられるは特に感謝しなければならん次第であります
 昔の時代は、少し年を取るとさう何時迄も娑婆を塞がれては困ると云ふ様な時代でありましたが、長く生存しても世に益する所なくんば或は然らん、支那でも昔から七十を古稀と称へて居ますが、近来世の中が段々進んで参ると共に、老人の相場許りは諸物価と反対に下落の傾向あつて(笑)七十位では何だか老人らしくなくなりました、斯う申すと何だか自分で老人らしく思はれぬ様な算段と疑はれるかも知れませんが(大笑)七十が老人らしくなくなつたも、是れも明治照代の賜であります(喝采)
 夫れで私は斯う申して主人の古稀を祝したい『人生七十近多見、福禄如君古来稀』而して其福禄を大に利用する事、君が如きは更に大に古来稀なり(大喝采)私は此点に於て主人古稀の賀辞を呈する次第であります
因に記す、青淵先生を始め其他諸氏より鶴彦翁の寿を祝して多くの歌詩を寄せられたる由なるが、一・二を記すれば左の如し
○中略
                      青淵先生
 和歌の浦に立ち帰りつゝあしたつの
      尚ほ幾度か千里行くらむ
 - 第29巻 p.353 -ページ画像 
○下略
   ○是日ノ栄一ノ日記ヲ欠ク。


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK290106k-0010)
第29巻 p.353 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年     (八十島親義氏所蔵)
十月廿三日 終日雨
○上略 午后一時過ヨリ大倉氏古稀祝賀園遊会ニ招カレ、葵町同家邸ニ至ル、雨中ノ招客主人ノ苦心被察、本日ヨリ三日間連日ノ催ニテ、朝野官民五・六百名、先ツ目下新築半成ノ洋館広間ニ通サレ、玆ニ式場ノ設備アリ、大倉氏ノ挨拶、石黒氏ノ演説、渋沢男爵ノ演説等アリ、余興ハ一中節台ノ芝居(浦島)二人袴、其他藤間勘右衛門ト高麗蔵トノ子宝三番叟ノ素踊、役者ハ菊五郎・吉右衛門・高麗蔵等也、終テ大隈伯ノ演説 ○中略 美術館モ見タルガ実ニ盛ナ物ナリ、立食ハ庭ノ天幕ノ内ニテナリキ、惜イカナ雨天ノ為出入ニ至テ不便ナリキ、食堂ニテハ八十余才ノ林子爵万歳ノ音頭ヲ取ラレキ、各花街ノ芸妓、女将ノ類モ惣出ノ有様、エライ取設ナリキ ○下略
   ○中略。
十月廿五日 晴 夜風甚シ
漸ク晴レル、大倉氏三日目即終リノ日ニ初メテ大当リ也、青淵先生ハ毎日臨場演説セラル ○下略


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK290106k-0011)
第29巻 p.353 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
四月八日 晴 軽寒             起床七時三十分 就蓐十二時
○上略 午後四時向島ナル大倉別荘ニ抵リ、全国新聞記者大会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為シ ○下略
   ○中略。
九月十日 晴 暑              起床六時三十分
○上略 午後六時葵町大倉氏邸ニ抵リ、伊藤統監招宴ニ陪席ス、余興数番アリ ○下略


竜門雑誌 第二二七号・第四一―四二頁 明治四〇年四月 ○大倉喜八郎氏の新聞記者招待会(DK290106k-0012)
第29巻 p.353-354 ページ画像

竜門雑誌  第二二七号・第四一―四二頁 明治四〇年四月
○大倉喜八郎氏の新聞記者招待会 大倉喜八郎氏は、全国新聞記者大会の為め上京中なる各地記者一同を四月八日午後向島別荘に招き、鄭重なる饗筵を張られしが、当日先生は招待に依りて出席し、大倉氏の懇請に依りて一場の演説を為されしが、先づ「時は弥生、場所は名に負ふ向島、人は全国の操觚者にして、三拍手揃ひたる此場合に、余の愚説を陳ずるは如何あらんも、身を商工界に委ぬる余のことなれば一言を呈せん」と説き起し、進んで「戦後の経営に付ては及ばずながら苦心せるも、物事は兎角予期の如くならず、勢の進む所又随分行き過ぎもあるが如し、然れども現時の経済界は、何等の憂ふべき事実現出したるにあらずして、不景気沈衰を見るの理由なきが如し、急激の進歩は何事に限らず望むべきにあらざれども、今後相当の施設を怠らずんば、所謂戦後の経営は之を遂行するに深く憂ふることなきを信ず、唯利の在る所弊も亦存するものなれば、互に相戒むるの必要は之を認めざるべからず、吾々銀行業者の如き、或る時期に当りては相当に注
 - 第29巻 p.354 -ページ画像 
意し、秩序的の進歩を期せざるべからざるは勿論なるが、諸君の如き又十分顧慮せられ、弊のある所を除き、世人をして常軌を脱せざるやう指導せられんことを望む」云々と述べて其説を結ばれたり


東京経済雑誌 第五五巻第一三八三号・第六四三頁 明治四〇年四月一三日 ○大倉邸記者招待会(DK290106k-0013)
第29巻 p.354 ページ画像

東京経済雑誌  第五五巻第一三八三号・第六四三頁 明治四〇年四月一三日
    ○大倉邸記者招待会
去る九日大倉喜八郎氏《(八日)》の招待に応じたる全国新聞記者は、定刻までに両国なる伊勢平楼に集り、夫より六艘の伝馬船に分乗して墨堤の美を賞しつゝ、千住の大橋迄汽船に曳かれ行き、此処より船首を廻らして向島なる大倉別邸に入り、主人大倉氏並に同店員の案内にて、庭内に設けある各種の模擬店に寄りて歓を竭しけるが、須臾にして吉原芸妓の高砂あり、次に主人大倉喜八郎氏は、来会者の労を謝して経済界の事情を述べ、渋沢男亦現在の経済事情に対する希望を述べ、終つて和泉三郎一座の船弁慶、吉原幇間の俄狂言、吉原芸妓の踊数番あり、各自興感を竭し、一同其厚意を謝して、午後七時頃退散したり


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK290106k-0014)
第29巻 p.354 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
四月八日 曇 寒
○上略 十二時半葵町大倉氏邸ニ抵リ、阪谷男爵及新来ノ日英銀行取締役会長等ノ招宴ニ出席ス○下略


鶴翁余影 鶴友会編 第一―五頁 昭和四年三月刊 【交遊五十余年 子爵 渋沢栄一】(DK290106k-0015)
第29巻 p.354-356 ページ画像

鶴翁余影 鶴友会編  第一―五頁 昭和四年三月刊
  交遊五十余年
                    子爵 渋沢栄一
    福禄寿
 明治維新以来、わが国には、種々なる意味に於て、また種々なる形に於て、英傑が輩出した。
 政治家として、学者として、軍人として、而してまた実業家としていろいろ優れた人が出た。しかし、実業家として、政治家・学者・軍人の傑出したるものと、比肩し得るものは極めて稀れのやうに思はれた。それは、わが国特有の所謂官尊民卑の思想から、実力に於ては、尤に他と比肩し得、その事業に於いても、決して他に譲らず、むしろそれ以上の功績を有してゐるにも拘はらず、世間の評価は、ともすれば、其等に劣るの已むを得ない状態にあつた。
 けれども、さう云ふ風潮のうちにあつて、わが大倉鶴彦翁は、その功績に於ては勿論、その認められた点に於いても、正に他と比肩し得るものがあつた。
 翁は福禄寿三つながら兼ね備へて、而かもその名声を国の内外に謳はれ、幸福な生を終られた。
 顧みるに、維新以来、自分達と方向を共にして、共に実業界に立つて来た友人も随分あつたが、今は殆んどその跡を絶つて、今に生き残つてゐるものは寔に暁天の星よりも少ない観がある。
 就中鶴彦翁は、私にとつて唯一の老友であつたが、つひに病魔の冒すところとなつて斃れた。
 - 第29巻 p.355 -ページ画像 
 今年四月廿二日、翁逝去の報を耳にした私は、しばし、名状し難い寂しさにとらへられた。
 「あゝ、大倉もつひに逝つたか!」
 私は、これで、唯一の老友を失くなしたわけである。
 四・五年前だつたと思ふが、ある会合の席上で、共に百歳を越して見ようと笑つたことがあり、翁の元気なら、大抵百歳をも越すだらうと思つてゐたが、矢張り年には勝てなかつた。
    はじめて翁を知る
 大倉鶴彦翁と私との交際は主として社会的の問題に関してゞあつた
 その交遊のはじめと云ふのは、明治十年の西南の役の時からである当時私は、益田孝氏と共に支那に行つて、帰途長崎に立寄つたが、折しも九州一円は西南の役の為めに、非常に混雑してゐて、もう熊本の城は薩兵に取囲まれてゐるから、今に長崎にも押して来ると云ふやうな噂であつた。その噂のうちを私達は長崎から船で帰路についた。大倉翁と会つたのはその時の船中であつた。勿論鶴彦翁の名は、その以前、私が大蔵省の役人をしてゐる頃、長州《(薩)》の人五代友厚から聞いてはゐたが、親しく面会して談を交へたのは其時が最初だつた。
 その時鶴彦翁は「今朝鮮が饑饉だから、糧食を積んで朝鮮の急を救ひに行くつもりだ」と云つて居た。と云ふのは大久保利通氏の意見として、「今、国内には西郷の乱があるが、これはたゞ国内の一騒動に過ぎぬ。これが為隣邦の急を対岸の火災視するわけにはいかない。速かに糧食を積んで彼地の救に応じなければならぬ」と云ふので、その糧食輸送の任に選ばれたのが、大倉翁であつた。もとより翁は、陸軍の御用達として九州に来てゐたのだが、大久保内務卿の依頼に奮起し危険を冒して朝鮮に行かうと云ふ大決心であつた。「それはどうも御苦労なこと。なかなか危険な仕事ですな」私がさう云ふと、翁は「国家の為には身を殺しても致方がない。一身を捨てゝもこの仕事はしとげなければならない」と非常な意気込みで云はれた。その決心の程を見て、私は、この人は商人ながら尋常一様の人ではない。たゞ金儲けにばかり腐心して他を顧みない商人とは選を異にしてゐる。たしかにわが党の一人であると思つた。
 当時の私は、大蔵省の役人をやめて以来、その頃兎角軽視されてゐた実業界にあつたのであるが、如何にしても、実業家の地位を向上させたいと思ひ、それが為には、実業家自身も、もつと気力がなくてはならぬ、たゞ金儲けにばかり腐心してゐては駄目だと云ふことを痛感してゐた時だつたので、大倉氏の言を聞いて、一人の知己を得たやうに思つた。そして鶴彦翁は当時の言の如く、朝鮮の饑饉を救ふべき糧食運搬の任務を立派に果たされた。
    東京商業会議所
 それ以来翁との交際ははじまつたが、私は、ある時、実業が軽蔑されてゐるのを憤慨して「日本も、外国と同じやうに、実業と云ふものを、もつと重んじるやうの気風にならなければいけない。実業は国の本なのだ。これによつて国家立ち、これによつて国家の経済が立つて行くのだ。何が故に実業のみ軽視せらるゝ理由があるか、日本人の考
 - 第29巻 p.356 -ページ画像 
は間違つてゐる。」と云ふと、大倉氏も「同感、全くその通り。何とかしてかう云ふ気風を直して行かなければならない」と真先きに賛成された。
 然るに明治十一年、西南戦争の跡始末も漸くついた頃大隈(重信)さんが私に「日本にも、商人が集会して、いろいろ商売のことを相談してやつて行くやうな機関をつくつて見たらどうか。日本にも追々さう云ふものが必要になつて来る」と云ふ話。恰も大倉氏や私などが考へてゐる実業家の地位の向上と云ふことには、絶好の機会なので早速大倉氏にもこの事を相談した。そこで、その集会所創立に関する下相談や調査などをすることになつたが、その為、大倉氏の築地の住居は我々の会合所となり、大倉氏をはじめ、益田(孝)・福地(源一郎)それに私などで相談をした結果、政府から年に千円の補助をうけて、玆に東京商業会議所の前身東京商法会議所なるものが出来た。当時も鶴彦翁はその発起人として活動された。
    日本土木会社の創立
 その後、明治二十年に、久原房之助氏の御実父や伊集院氏や、大倉さんなどが、土木の事業を起されると云ふとき、大倉さんから「我々の仲間で、今度、土木会社を起すことになつたが、我々ばかりでは、みな得手勝手なことばかり云つて困ることもあるから、貴下にも仲間に入つて貰ひたい」と云ふので、私もそれを承諾してその仲間に入つた。それが、今日の大倉土木株式会社の前身で、当時日本土木株式会社と云つた。但しこの会社は、後に大倉さんが一人で引受けられたがこの会社も、従来の土木請負業者の旧套を脱しその積弊を一掃して、土木建築業の上に一転機を劃さうと云ふ、改革的、進歩的意見のもとに創立されたものであつた。申さば鶴彦翁と私との交遊は、明治十年以来実に五十余年の久しきに亘り、その間、共に倶に日本産業の発展と実業界の向上との為に、つくして来たのだつたが、その人も今はつひに逝いた。
 思へば本年四月八日の感涙会に、私は、他に用事あつて、どうしても出席出来なかつたのであるが、鶴彦翁は、頻りに私に会ひたいと云ふので、石黒子爵を通じて当日是非出るやうにとの話だつた。私も翁の病気のことは、その前から聞いてゐたので、万障を差繰つて出席することにした。そして約一時間の会談――到頭それが最後になつた。超えて四月十七日――翁の重態と聞いて早速病床を見舞ふたが、その時はもう言葉をかはすことも出来なかつた。
 惟ふに、鶴彦翁は、〓眼と云ふ点に於て、何人にも真似られぬ所を有つてゐた。随つて利害得失の判断が早くまたハツキリして居り、殊に公私の区別が非常に厳密だつた。加ふるに性来の男性的なやり方でその判断を些の遠慮なく、時に或は遠慮なさ過ぎるくらゐに云つてのけ、また、これを実行しないと気がすまなかつた。