デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.5-63(DK300001k) ページ画像

明治42年6月13日(1909年)

是日栄一、当院巣鴨分院ニ至リ院務ヲ視ル。爾後歿年ニ至ルマデ、松平定信ノ忌日タル十三日ヲ登院日ニ充テ、当院院長トシテ院務ヲ執リ、且ツ屡屡職員並ニ分院収容児童ニ対シテ訓話ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK300001k-0001)
第30巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十三日 曇 暑
○上略 午後一時巣鴨養育院分院ニ抵リ、安達・高畠・吉藤・高田諸氏ト済貧恤救ニ関スル方法ヲ談ス、労働紹介所ノ事ヲ協議ス、後院内ヲ一覧ス ○下略
   ○中略。
七月十三日 曇 暑
○上略 九時巣鴨養育院分院ニ抵リ、児童教育其他ノ事ニ関シテ安達幹事以下ノ人々ト協議ス、畢テ大塚ニ抵リ本院ヲ見分ス ○下略
   ○中略。
八月十三日 晴 暑
○上略 四時養育院ヲ巡視シ、高畠氏等ニ渡米留守中ノ事ヲ談ス、巣鴨分院ヲ一覧ス ○下略
   ○栄一、月ノ十三日ニ登院スルノ慣例ハ何年頃カラナルカ、日記ニ欠欠アル為メ明確ナラズ(明治二十年ヨリ三十一年マデ欠)。『養育院六十年史』ニヨレバ「明治二十年代より毎月十三日を卜して養育院登院日と定め、当日は万障を排して登院するに勉められ」トアリ。


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK300001k-0002)
第30巻 p.5-6 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 曇 寒
○上略 九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、安達・高田二氏ト共ニ院内ヲ一覧シ、要務ヲ談ス、又大塚本院ニ抵リ、医局及薬局等ノ新設ヲ一覧ス、工業所ノ景況ヲ視察シ、後正副幹事及各掛長等ト院務ヲ談シ、米国ニ於ル慈善ノ事業概況ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
六月十三日 晴 暑
○上略 八時半自働車ニテ井ノ頭学校ニ抵ル、安達憲忠来会ス、桜井氏其他ノ教師等ト各寄宿舎内ヲ一覧シ、後午飧ヲ食ス、食後児童ヲ集メテ一場ノ訓戒ヲ為シ、且修身優等ノ者ニ賞品ヲ与フ、午後二時井ノ頭ヲ発シ、大塚町養育院ニ抵リ、看護婦ニ卒業証書ヲ付与シ、後一場ノ訓諭演説ヲ為ス、畢テ各室ヲ巡見ス、四時更ニ巣鴨分院ニ抵リ寄宿舎ヲ
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巡覧ス ○下略
   ○中略。
七月十三日 曇 暑
○上略 午飧後安達憲忠氏ト共ニ本院及巣鴫分院ヲ巡覧ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK300001k-0003)
第30巻 p.6-7 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 曇 寒
○上略 午前十一時巣鴨養育院ニ抵リ事務ヲ処理シ、更ニ本院ニ抵リテ安達氏以下ヲ会シテ院務ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ一覧後、更ニ本院ニ抵リ、報徳会員ニ向テ一場ノ訓示演説ヲ為シ ○下略
   ○中略。
三月十三日 曇 寒
○上略 養育院幹事ニ電話ヲ通シテ、今日巡回ノ事ヲ見合ハセ、明十四日ニ繰替ヘ度ト申遣ハス○下略
三月十四日 曇 暖
○上略 午前九時巣鴨養育院分院ニ抵リ、児童ノ修学ヲ一覧ス、又安達・高田二氏ト院務ヲ協議ス、更ニ本院ニ抵リテ安達・高畠二氏ト要務ヲ談ス、後院内ヲ巡視ス、イキス光線器ノ試験ヲ見ル ○下略
   ○中略。
四月十三日 晴 軽暖
○上略 午前九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、学生ニ卒業証書授与ノ式ニ列ス、畢テ安達・高田氏等ト要務ヲ談シ、十一時本院ニ抵リ、安達・高畠二氏ト職業紹介所ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月十三日 曇 軽暑
○上略 午前九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、各室ヲ一覧ス、後、高田・高畠二氏ト要務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
七月十三日 曇 暑
○上略 九時半巣鴨分院ニ抵リ、安達・高田二氏ト養育院ノ事務ヲ談話ス院内ヲ一巡シテ、更ニ本院ニ抵リ要務ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
九月十三日 雨 冷
○上略 午前九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、院内ヲ一覧シ、且労働紹介ノ事、乳児預リ所ノ事、其他ノ件ヲ安達・高畠・高田ノ諸氏ト協議ス、畢テ本院ニ抵リ、医員ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月十三日 雨 冷
○上略 九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、院内ヲ一覧シ事務ヲ処理ス、安達憲忠氏来会ス、更ニ本院ニ抵リテ院務ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
十一月十三日 晴 寒
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○上略 午前十一時巣鴨養育院分院ニ抵リ、高田氏ト要務ヲ談シ、更ニ大塚本院ヲ巡視シ、高畠・大橋二氏ト要務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十二月十三日 曇 寒
○上略 午前九時半巣鴨ナル養育院分院ニ抵リ、安達・高田二氏ト貧児収養方法ニ関スル意見ヲ討議ス、十一時本院ニ於テ、新ニ病院設置ノ件院資増殖会ノ件、労働紹介所ノ件ヲ談ス、安達・高畑・桜井三氏来会ス、又医員ノ勤務ニ付立花副医長ト談話ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK300001k-0004)
第30巻 p.7 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 午前九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、児童ノ野外運動ヲ見ル、高田氏ト分院ノ経営ニ関シテ種々協議ヲ為シ、後本院ニ抵リ安達・高畠・桜井副医長・立花氏等ト種々ノ談話ヲ為シ、肺病患者病院別置ノ事・労働紹介所ノ事、貸長屋取扱ノ事等ニ付、協議スル所アリ ○下略
   ○中略。
二月十三日 雨 寒
○上略 九時半巣鴨分院ニ抵リ、高田氏ト談話ス、更ニ本院ニ抵リ安達・高畠・桜井・大橋ノ諸氏ト院務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
四月十三日 晴 軽暖
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リ貧児ヲ一覧ス、安達憲忠・高田慎吾二氏来会ス、畢テ大塚本院ニ抵リ、安達・高畠・桜井氏等ト院務ヲ談シ、尋テ院内ヲ一覧ス、院ニテ午飧ヲ為シ ○下略
   ○中略。
六月十三日 曇 暑
○上略
午前九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、安達氏・小沢氏ト院務ヲ談ス ○中略 後分院内ヲ一覧シ、小沢氏ニ執務上ノ注意ヲ与フ、夫ヨリ大塚本院ニ抵リ、安達・高畠・桜井・大橋ノ諸氏ト院務ヲ評議ス、避病院新設ノ事・井頭公園ノ事、其他ノ要務ヲ指示ス ○下略


東京市養育院月報 第一三九号・第一二頁 大正元年九月 巣鴨分院(DK300001k-0005)
第30巻 p.7 ページ画像

東京市養育院月報  第一三九号・第一二頁 大正元年九月
△巣鴨分院 同日 ○九月一三日午前十時渋沢院長の来院を機とし、小沢副幹事は生徒一同を講堂に集め、職員以下参列して遥拝式を挙行せり、当日院長が、先帝陛下の御懿徳と御登遐の次第を紹述せらるゝや、満堂粛然として孰れも歔欷流涕せざるはなかりき。


渋沢栄一 日記 大正二年(DK300001k-0006)
第30巻 p.7-8 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 四時養育院ニ抵リ、分院主任小沢氏・労働紹介所主任大橋・医長伊丹博士・高畠副幹事等ト、院務取扱ニ関シテ種々ノ協議ヲ為シ ○下略
   ○中略。
二月十三日 曇 寒
○上略 午前十時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、児童修学ノ実況ヲ一覧ス、安
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達・小沢二氏同伴ス、畢テ大塚本院ニ抵リ要務ヲ協議ス、医長・幹事其他ノ吏員来会ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正三年(DK300001k-0007)
第30巻 p.8 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 快晴 無風 寒威少シク減スルヲ覚フ
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リ定日ノ巡視ヲ為ス、安達憲忠・小沢一二氏ト院務ヲ協議ス、畢《(テ)》ニ大塚本院ニ抵リ、安達氏・高畠氏及丹羽医長ト院務ヲ協議ス、板橋地方ニ於テ買入ヘキ土地ノ坪数及位地等ヲ定ム ○下略


渋沢栄一 日記 大正四年(DK300001k-0008)
第30巻 p.8-9 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日
○上略 午前九時半巣鴨分院ニ抵リ安達・小沢二氏ト談話ス、事務員・保母一同《(姆)》ヲ会シテ勤務上ノ事ヲ訓示ス、十時過大塚本院ニ抵リ常設委員会ニ列シ、種々ノ報告ヲ為シ、且事務員・医員・看護婦・保母等多人数ニ執務上ノ注意ヲ示ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 曇
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リ事務ヲ視察シ、掛員一同ヘ訓示ヲ為ス、更ニ大塚本院ニ抵リテ副幹事高畠・桜井二氏、伊丹・藤田等ノ人々ト院務ヲ談ズ ○下略
   ○中略。
三月十三日 朝来雪降リテ寒威強シ
○上略 午前十時巣鴨ナル養育院分院ニ抵リ、例月ノ如ク事務ヲ視ル、大橋東京市庶務課長来会ス、十一時本院ニ抵リテ安達・高畠・桜井・藤田・伊丹医長等ト院務ヲ談ズ ○下略
   ○中略。
四月廿二日 曇
○上略 大塚辻町ニ養育院ヲ訪ヒ、幹事・副幹事等ト院務ヲ談ス、畢テ巣鴨分院ヲ視察ス ○下略
四月廿三日 曇
○上略 養育院ニ抵リ十三日巡視ノ用務ヲ補ス、安達其他ノ事務員等ト種種ノ協議ヲ為ス、後巣鴨分院ニ抵リ副幹事ト要務ヲ談ス ○下略
   ○是月二日ヨリ十四日マデ栄一関西方面ヘ旅行ス。仍テ十三日ハ登院セズ。
   ○中略。
六月十三日 曇
○上略 午前九時過巣鴨養育院分院ニ抵リ、花の会関係ノ婦人連ト共ニ各所ヲ一覧ス、畢テ本院ニ抵リ、東京市長・助役・常設委員等ト、板橋移転ノ事ニ関シテ種々ノ協議ヲ為ス ○下略
   ○中略。
七月十三日 曇
○上略 午飧後巣鴨養育院分院ニ抵リ、安達氏・小沢氏ト共ニ伊丹医師ニ面会シテ、養育院医務ニ付種々ノ談話ヲ為ス、又本院ニ抵リ光田健輔氏ト会話ス ○下略
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   ○中略。
八月十三日 半晴 暑気強シ
○上略 九時過巣鴨養育院分院ニ抵リ、安達幹事・小沢副幹事ト院務ヲ談ス、更ニ本院ニ抵リ、移転ニ関スル準備及寄附金募集ノ手続等ヲ協議ス、桜井井之頭分院副幹事モ来会ス、養育院ニテ午飧 ○下略
   ○中略。
九月十三日 晴
○上略 午前九時半巣鴨分院ニ抵リ、安達・小沢二氏ト養育院ノ事ヲ談ス後事務員・媬母一同《(保姆)》ヲ会シテ訓示ス、畢テ本院ニ抵リ宮川助役来会ス安達氏ト院務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月十三日 曇
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リテ、近日米国行ニ付、留守中ノ心得方ヲ、事務員・保姆一同ニ訓示ス、更ニ本院ニ於テ常設委員会ヲ開キ、移転助成会ノ事ヲ議ス ○下略


九恵 東京市養育院月報第一六七号・第一―三頁 大正四年一月 渋沢院長の訓話(DK300001k-0009)
第30巻 p.9-10 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一六七号・第一―三頁 大正四年一月
    渋沢院長の訓話
 左の一篇は、一月十三日渋沢院長が本院事務室楼上に於て、職員一同へ対し執務上将来の心得方を訓話されたるものにかゝる。語簡明にして意義深長、私に惟ふにこれ吾人救済事業に従事するものゝみの独占すべき訓誡に非らずと、即ち録して之れを本誌劈頭に掲ぐ。若し夫れ筆外に芳蹤を辿らば、千岳万山尽くる所なかるべし、憾むらくは余や浅学菲才、能く其一班だに満足に描出し能はざるを 文責固より記者にあり               (市場生)
各職員諸氏 余は玆に諸氏一同と共に大正四年の春を迎へたるを喜ぶと同時に、諸氏の健康幸福を祈り、併せて新らしき希望を以て諸氏を迎へねばならぬのである。开はいふまでもなく諸氏が現在に従事し居らるゝ本院当面の職務たる即ち感化救済事業である。が森羅万象年と共に新なると同様、諸氏の執られつゝある事業も亦此際是非とも新らしき色彩と、新らしき開展とを目標として行進せねばならぬ。凡そ業は勤むるに精しく嬉むに荒さむといふが、万事が即ちそれである、若し大なる趣味と大なる感興とを以て事業を迎へられたならば、仮令如何程忙はしく又如何程煩はしくとも、倦怠若しくは厭忌といふ如き自己が苦痛を感ずる気分の生ずべき理由はない。若し又これに反して全然没趣味を以てイヤイヤながら事務に従ふといふ場合には、必ず先づ倦怠を生じ、次で厭忌を生じ、次で不平を生じ、最後には自身其職を抛たねばならぬやうになるは蓋し数の自然である。前者は精神溌溂として愉快の中に趣味なるものを発見し、この趣味よりして無限の感興を惹起し、感興は軈て事業の展開を宣告することに到る、事業の展開は即ち社会に公益を与ふることになる。後者は精神萎縮して快々鬱々[怏々鬱々]倦怠より困憊を醸し、因憊[困憊]はやがて其身の滅亡を意味することになる仮に前者と後者とを対照して其孰れを執るかを諸氏に試問したならば前者を執ることの最も賢しこく、後者を執る事の最も愚なるを明答せ
 - 第30巻 p.10 -ページ画像 
らるゝ事であらう。又能く世人が口癖のやうに運の善悪といふことを説くが、抑も人生の運といふものは十中の一二或は予定があるかも知れぬ、併しながら仮令これが予定なりとして見た所で、自ら努力して運なるものを開拓せねば、決してこれを把持するといふことは不可能である。愉快に事務を執りつゝ一方大なる幸福を把持すると、不愉快に事務を執りつゝ一方大なる災厄を招致すると、其けじめ[はじめ]啻に天淵のみであるまい、諸氏も亦必ず其一方を捨てゝ他の一方を把持せられんことを熱望するならむ。而して諸氏が銘々其事業上に大なる趣味と大なる感興とを有たるゝと同時に、其内容の充実を期さねばならぬ況して救済事業の如きは其性質上、注意の上にも猶一層の注意を払へ努めて其内容の豊富ならんことに於て遺憾なきを期すべきである。されど其内容にのみ腐心して形式を疎外視することもよろしくない、凡そ各種の事業として内外共に権衡を欠いではならぬ、要するに単に其表面を衒はんが為め徒に形式にのみ囚はるゝといふことは、尤も注意してこれを避けねばならぬ。更にいふまでもなきことながら、本院には現に二千五・六百人の窮民が収容してある、其中には時に除外例として善因却て悪果を結びて窮民たり行旅病人たるものなきにあらざるも、其多くは所謂自業自得の輩である。併しながら彼等を自業自得の者なりとして、同情を以てこれに臨まぬは甚だよろしくない。夫れ吾人の須臾も離るべからざる人道なるものは、一に忠恕に存するものであるから、孰れも其職務に忠実にして而して仁愛の念に富まねばならぬ。余は敢て彼等を飽くまで優遇せよとはいはぬがこれに臨むに常に憐愍の情を欠いではならぬといふのである、諸氏は呉れ呉れこの意を体得して、これを執務現実せねばならぬ。又医務に従事せらるゝ諸氏に於ても、収容の患者を以て単に自己研究の資料となすにこれ努むるならば、开は甚だ遺憾の極みである。研究さるゝも程度問題であるから絶対にわるいとは言はぬが、医員諸氏に於ては患者を治療するといふことが当面の義務と信じて勉励せらるゝことを望むのである。又看護婦の人々にあつても同様であつて、患者へ対しては殊に親切に取扱はれたきものである。彼等には精神上欠陥する所が多い、社会の落伍者・敗残者としてこれに同情するといふことが前に申した忠恕である忠恕は即ち人の歩むべき道にして、立身の基礎つまり[つまりは]其人の幸運を把持することになる、玆に年の改まると共に、諸氏が日常執りつゝある事業の上にも亦一段の進捗を企望して一言を述べたのである。


九恵 東京市養育院月報第一七二号・第二七頁 大正四年六月 花の会委員の参観(DK300001k-0010)
第30巻 p.10-11 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一七二号・第二七頁 大正四年六月
○花の会委員の参観 六月十三日花の会委員鳩山春子・嘉悦孝子・金谷珠子・藤原梅子・岡田徳子・吉村夫人・大沢篤子の七女史は、本院視察として市嘱託田中太郎氏と共に車を巣鴨分院へ枉げられたり、折りもよし院長渋沢男爵は常設委員諸氏と協議の為め在院せられしを以て、親しく案内の労を執られ、校堂・居室は勿論、食堂・浴場・理髪場等に至るまで一々説明せられしかば、一行は深く感謝の意を述べられ、食堂に於て試食せられし際の如き、殊にこの感を深ふせられしものゝ如く、児童に対し「再度参院の際は吃度お土産を持参致します」
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といと優しき言葉を残され、男爵に対しては今日まではさまでに思はざりし事業も、面のあたりこの可憐の状態を拝見しては同情の念に堪えず、今後は微力ながらも尽悴する所あるべしと誓はれ、閑話数刻にして退出せられたり。


九恵 東京市養育院月報第一七九号・第一―三頁 大正五年一月 新年のお土産話(渋沢男爵)(DK300001k-0011)
第30巻 p.11-12 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一七九号・第一―三頁 大正五年一月
    新年のお土産話 (渋沢男爵)
 左の一文は、本院院長渋沢男爵閣下が本月十三日本院にお見えになりました際、職員一同に対してお話された其大要であります。由来大人君子の一言一話と申すものは恰度鐘のやうなものだと思はれます、小さなもので叩けば小さな響きが出ますし、又大きなもので叩けば大なる音響を発します。又味ふること浅ければ浅く、深ければ深く、相手の人々に因つて小さくも大きくも、浅くも深くも反響と印象とを与えます。男爵のお話も矢張それと同じことであります。男爵のお話にはこれといふて奇抜なケ所も亦人の意表に出づるやうな妙論もお吐きにはなりません、平々坦々たること宛ながら論語を読むが如くであります。彼の老子や韓非子を読みますれば、それは相当面白い説だと感ずる節々も尠なくはありませんけれども、以て百世の法則とするには如何がのものであるかを疑はしめます。左のお話の如きも判り切つたことだと申せばそれまでゝすけれども、判り切らぬことよりも判り切つたことが、いざ実行といふ際には極めて困難でもあり、苦痛であるものです。若しこの判り切つたことをば実行して参いつたならば、万事はそれで満足を得るのであらうかと思はれます。爰に男爵のお話について蛇足を加へましたのは、如何にも恐縮に堪えません              (市場)
私は本月四日米国より無事に帰朝致しました、爰に諸君と共に一堂に相会して、私自身の恙なかりしことと、諸君が職務に忠実に御努めあつたといふことを交換的にお披露申し合ふといふことは何よりも喜ばしきことと存ずるのであります。就ては帰朝のお土産として何にか寸時間お話を申上ねばならぬのでありますが、諸君も既に略御承知の如く、今回渡米の目的と申すは大部分日米親善を謀らんが為めの旅行でありましたから、先年渡米の動機とは大に其趣を異にして居つたのです。先年は感化救済事業に就て重に視察し参つたのでありましたから諸君の執務上参考となるべきものをもお土産として持参し得たのでありましたが、今回は前述した通りの次第でありますから、至つてお土産に乏しいのであります。併しながら私の任務とし、目的としました日米親善は、大に素心を達し得たかのやうに思はれるのであります、諸君も御承知の如く、従来加州地方に於て行はるゝ排日熱の如きも、畢竟は両国間に於ける意思疏通の円満を欠いたからのことでありました、併しながら日米両国ともに隔意なきに至れば、是等の問題は自然氷解すべきは理の当然であります。私は国家将来の為めに、是非ともこの問題に対して円満に解決を試みたく存じましたので、大統領閣下を首として其他要路の人々に会見して、親しく意見を交換致したのであります。感化救済事業に就ても以前の関係があります所から、別に
 - 第30巻 p.12 -ページ画像 
視察は遂げませんでしたが、東部ヒラデルヒヤ・ボストンに於きましては其当局者の方々に就て其摸様の大要を聴取してまいりました。兎に角財政に於て豊富なる米国の事でありますから、凡ての感化救済事業が美尽し善尽すといふ有様なので、毫も間然する点がないのであります。我が国の事業がこれに対して遜色あるは、経済上止むを得ぬことでありますから、強ち彼れに倣へよといふのではありません。が玆に一ツ是非とも彼国の良風に真似ねばならぬことがあるのです、どうも吾々日本人は手数といふことについては、是迄余り意を用ゐんやうであります。が手数を省くと煩はすとは、時間の上に取つても、経済の上に取つても、大径庭のあるといふことをば承知せばならぬのです例へば我国の旅館の如きは、好適例だと思ふのであります、二階に宿り込んだお客が、一度で済むべき所を二度も三度も、乃至四度五度までも女中の手数を煩はして少しも意に介さない、今肴を命じたかと思ふと、其女中が未だ階下に至らぬ中、直に手を叩いて又酒を命ずる、女中が酒を持つて上がるとすぐ又吸物を催促するといふ情態である。是等は些々たる実例ではあるが、如此事は時間の上に於て大不経済ではありませんか。米国に於ては如此不経済のことは絶無といふても然るべき位です。米国では上下一般時間を徒費せぬといふことが実行されて居るので、手数をかくれば一度毎に其手数料を徴収さるゝのですから、若し日本のやうな遣口であつたならば、それこそ目の玉の飛び出る程沢山のお金を取らるゝです。諸君に於てもこの点は米国流に倣ふて、執務上能ふ限り無用の手数を省くといふことに留意していただきたいのです。仮令些かにてもこの手数を省くといふことに留意されたならば、日常の執務頗る敏捷に且つ簡明に運ばるゝことゝ信ずるのであります。池田藤四郎氏の如きは既にテーラー氏の説を翻訳して、この手数省略法を慫慂されて居られますが、諸君に於ても是非この点だけは実行せられんことを希望して止まぬのであります云々。


渋沢栄一 日記 大正六年(DK300001k-0012)
第30巻 p.12 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 午前九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、児童ヲ会堂ニ会シテ一場ノ訓示ヲ為ス、畢テ安達・小沢二氏ト要務ヲ談ス、畢テ本院ニ抵リ、事務員ヲ会シテ安達幹事ヨリ昨年ニ於ケル事務ノ報告アリ、後余ハ院内ノ執務ニ付訓示演説ヲ為ス ○下略


九恵 東京市養育院月報第一九二号・第一―三頁 大正六年二月 汝等誓て忠良の国民たれ(養育院長男爵渋沢栄一)(DK300001k-0013)
第30巻 p.12-14 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一九二号・第一―三頁 大正六年二月
    汝等誓て忠良の国民たれ (養育院長 男爵 渋沢栄一)
 左に掲ぐるは渋沢本院長が巣鴨分院収容の児童に対して試みられたる訓話なり、例に因つて言々平易なれども、老幼賢愚の別なく何人にも味解し得らるゝのみならず、吾人の服膺すべき大要諦たり。
                     (文責記者にあり)
 桃太郎や舌切雀の話は皆な先生方から聞いて知つてゐるのであらうから、私はもう少しむづかしい話をするから、面白くないけれどもよく聞いて頭の中に入れ、二度三度と聞く内に、自然に善い行ひをする
 - 第30巻 p.13 -ページ画像 
やうならねばならん。聞いた事は聞放しにしてはいけぬ、お菓子を食べると腹に残るが、夫れと同じ様に聞いた事柄も頭に残るやうにしてどうか忘れないで立派な行ひをするやうに努めなさい。
 我が日本の国は王政維新以後五十年にして立派な有力な国になつたのは 天皇陛下の御稜威によることは申迄もないが、其外、政治家・軍人、または私等のやうな実業家、尚また多数の人々の力によつて互ひに此の国を強くし富ましたのである。
 国家は人間許りでなく土地もある、そして色々な人があるのであるが、人間が悧巧で力もあり、又正しい行をして、金も蓄れば段々進歩して立派な国柄になるのである。まだ日本は最上等の国とは云へない彼の英吉利・亜米利加などの国は、日本の国よりも数十倍も富み、また凡ての事が進んである。日本はまだまだ一番豪い国だとか、強い国だといつて誇つてはならない。だから国民が皆優れてゐなければならぬ、皆も日本国民の一部であるから、皆がえらくなればそれだけ国が富み強くもなる訳である。
 年のいつた者は行く先きが短かい、皆は行き先長い子供である。子供は段々青年となり壮年となりて行くのである。子供はそういふ大事な身の上である、将来日本の国の為めに立派な仕事をしなければならぬ、皆は最も大切な身体である。人は一身を治め一家を治め、一町村一国といふ具合に段々広く及ぼして行く、此処にゐる皆は一家といふ心が薄いかも知れぬ、それは皆に大変気毒である。教育勅語の中に、父母に孝に兄弟に友に夫婦相和しと仰せられてゐる、夫婦は互ひに仲よくして一家を治め、友達同志は多数の者が相互ひに信じあつて、喧嘩などしないやうにして親しくしなければならぬ。また恭倹己を持しといふのは、物事をつゝましやかにして、博愛衆に及ぼし、即ち世の中に立つには人に対して親切にしておもひやるといふ心、まれ忠怒といふ事がなくてはならぬ、また、先生方の教へを良く守り、必ずしてはならぬといはれる事は是れをよく守つて、一人前の立派な人となり所謂国家に対しても忠良忠節なる臣民とならなくてはならぬ、斯かる人が多数居れば国が強く、また偉大なる国柄となるのである。
 皆は父母に孝行をし兄弟仲良くするのが大事であるが、父母も兄弟も無いと思ふものがあるから、私を親と思ふがよい、私も亦父母と同様の心を以て皆さんに接しませう、平素私同様皆さんを心配し教育して下さる先生や保姆方をも親と思ひ、友達同志兄弟の如くし、教育勅語の趣旨を奉戴して、お互ひに立派な人間に成るやうに心掛けたらよいのである。皆さんの行末は必ず斯様な希望の下に大いに勉強して行くやうに望むのである。
 親が立派だから又自分の家柄がよいからそれで幸福だと思ふ事はいらぬ、そふいふ階級の如きものはそれほど重要な事ではない。東京の実業界で家柄は良くなくても立派なえらい人はたくさんある。私も亦田舎の百姓の生れである。今総理大臣の寺内さんでも、大隈さんでも東郷さんでも、すべて家柄がよいからあんなえらい人になられた訳ではない。中には貴族で徳川さんのやうに家柄も誠に立派で、また貴族院の議長というりつぱな職にある方もあるけれども、三井・岩崎の如
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き大商人で大金持がある、これ等の方は家柄の為めではない。
 かつて私が仏蘭西に行つた時、仏人は、日本人は支那の属国のやうに思つてゐたが、今は日本は英国に金を貸するやうになつた、それも日本の全国民が力を協せて勤勉努力した賜である、皆は先きに言つたやうに勅語の趣旨を守つて、今からしつかり覚悟をして、立派な国民となるやうにしなければならぬ。精神一到岩をも貫くといふ如く、老先長い皆は益々勉学修養し、度々斯ういふ話を聞いてゐれば自然に皆の頭に泌み込んで、段々善良な行ひをして偉い人になれるであらう。
 今日のお話は舌切雀のやうな面白い話でなくて、少しむつかしい話であつたが、今日は国民として皆が豪くなるやうにといふことを話したのである。
 院の子供は不幸で、みじめと思ふけれども、一方から云ふと、却つて自分で元気を出して力一杯やれば立派な人になれるから、一生懸命になつて勉強するやうにしなければならん。
 男子許りでなく女の方もまた同じ事である、今までは女は道具のやうに殆んど器械的に取扱つてゐた、又封建時代に於ては政治関係上に一種の政略として血縁を結んだのがある、彼の秀吉の娘を徳川家康の妻となし、斎藤利政が其娘を織田信長に娶した例の如きそれである。乍然現今に於ては婦人も相当の権利を与へて、充分男子と等しい取扱を受けべきものである、取扱ひを受けべきであるといふやうな風潮に向ひつゝある。然しそれだといつて女子は威張つてはいけない。女の美徳は矢張従順といふ事である、そして女は物事に緻密で貞節の徳を尊ぶのが大切である。貞潔で緻密・従順・耐忍力が強い事、是れ等は皆女の特性であるから、これをよく守つて段々女として恥づかしくない人とならなくてはならぬ、養育院に這入つてゐる子供も、一般の家庭にゐる子供と何も異る訳はない、大日本帝国の国民として、一層望みある将来を有する少年として立派な精神を抱いて行かねばならぬ。
 今日話した事は是れから将来此巣鴨分院の進歩と向上を望むからお話したのであるが、人間は其根本に確固として主義と精神と、また豊富な趣味を持つてゐなくては、忠良なる臣民となり、立派な大事業は成就せられるものでないから、お互ひに其心を以て、世話する者も左様な観念を以て充分に養育教育に奮励せられるやうに希望する。


渋沢栄一 日記 大正七年(DK300001k-0014)
第30巻 p.14-15 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リ、児童其他ノ掛員ヘ訓示ヲ為シ、更ニ安達・小沢二氏ト要務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 朝 寒
○上略 午前九時半巣鴨養育院分院ニ抵リ事務ヲ処理ス、畢テ大塚本院ニ抵リ、諸計算書類ヲ一覧シ要務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月十三日 晴
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リ、安達・小沢二氏ト分院ニ関スル
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要務ヲ談シ、毎月ノ巡視ヲ為ス、更ニ大塚本院ニ抵リ、安達・藤田・桜井・高畠諸氏、及碓井・永井両医師等ト院務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
四月十三日 雨 終日雨降ル気候寒シ桜花風雨ノ為ニ散乱ス
○上略 十一時養育院ニ抵リ安達氏其他ト院務ヲ談ス、更ニ巣鴨分院ニ抵リ小沢氏ト会話ス ○下略


九恵 東京市養育院月報第二〇四号・第一―二頁 大正七年二月 新年を迎へて院児に望む(養育院長男爵渋沢栄一)(DK300001k-0015)
第30巻 p.15-16 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第二〇四号・第一―二頁 大正七年二月
    ○新年を迎へて院児に望む (養育院長 男爵 渋沢栄一)
 左に掲ぐるは、一月十三日院長が巣鴨分院児童に対して試みられたる訓話の大要を摘録せしものなれども、未だ校閲を経ず、文責記者にあり。
 オ芽出度い春を斯うして元気に満ちた皆さんと共に迎えることの出来ましたのを、非常に嬉しく思ふのであります。私達は此大正七年を迎へるに当つて、先づこの年を満足に送りたいと希望する次第でありますが、それには第一に年頭に当つて是非共今年は斯々ありたいといふことを考へて、夫を実行する様に力めねばなりません、一年の計は元旦にありと昔の人の訓へられた様に、大人でも皆さんのやうな小供でも、凡そ人たるものは常に斯々ありたいといふ希望を持たねばならない、雀が飼を漁つて居るのも、犬が走り廻つて居るのも、皆夫々自分の考へがあるからであります、まして人間は万物の霊長であつて見れば、各々理想とか希望とかいふものがなくてはなりません、たゞ遊びたいとか、何かお菓子が食べたいとかいふ様なつまらぬ考を捨てゝ多くの人には可愛がられ、友達には敬はれ、学校に行つては先生に讃められる様になりたいといふ様な考へを持つて、一生懸命に進んで行くと、自ら人をも愛し、友にも敬はれ、又学問も勉強する様になれる私共の小さな時は学校といふものが無いので、自分の家から五六丁も離れた寺小屋《(子)》へ、毎日毎日七時半か八時に朝飯を済ますと直ぐ本を抱へて習ひに行きました、途中で犬に追はれることもあれば、近所の子供にいぢめられたこともありましたが、決して惰け休むやうなことはなかつた、すると終ひには犬も恐くなくなつたし、近所の子供にも平気になつた、それからまた私は本を読むことを大変好みましたので、丁度十二歳のオ正月が来た時のことであります、其時分は未だ田舎で暮らして居りましたが、年寄が自分で年始に廻るより子供に廻らせた方がよいといふので、私に親類の年始廻りに歩るく様にと申付けました、そこで私は内に居れば小説など読むと叱られるので、之を幸に判然り覚えては居ませんが、俊寛僧都の物語か八犬伝かを持つてすぐ家を出まして、それを道々夢中になつて読んで歩きましたところが、其内過つて溝へ落ち込んで着物をヒドク汚して、家に帰つてから大変叱られた様なことがありました、皆さんも先生に聞いて居ることでありませうが、昔は薪を担ぎ乍ら勉強した人もあるし、或は牛を曳き乍ら牛の角に本を懸けて読んだ人もありました、此様に少しの暇も惜んで一心不乱に勉強する人は将来必ず偉い人になれるので、彼の二宮尊徳先生なども左様にして勉強された方であります、然し皆さんは其麼苦
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しい勉強をせんでも、斯うして学校で毎日先生から教えて貰ふ事が出来るのでありますから、よく今申した昔の人々の苦で勉強したことを考へて、夫に負けず一生懸命に勉強せねばなりません、今は昔と違つて相当な学問さへあれば、立派に世の中を渡つて行くことが出来るので国務大臣にでも、会社の社長にでも、心次第でなることが出来るのであります、皆さんは小さい折から色々不幸なことに出遇ひ、両親に可愛がつて貰ふことが出来なかつたのであるが、然し之に代つて先生や保姆さん方が、何から何までお世話して下さるのであるから、真に仕合せなことであります、また院長たる私は院全体の責任を持つて、及ばず乍ら親になり代つて世話を致すのでありますから、私を親と頼み一生懸命に勉強せねばならぬ、そして先刻も申した通り悪い考へは捨て、今年は斯くありたいといふ良い希望を以て大正七年を送る様にしなければなりません、今日はオ芽出度い新年に当つて、これだけのことを皆さんに希望する次第であります。


渋沢栄一 日記 大正八年(DK300001k-0016)
第30巻 p.16 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 曇 軽寒
○上略 午前九時巣鴨養育院分院ニ抵リ、児童ニ新年ノ訓示ヲ為ス、小沢氏其他ノ職員ト談話シ、後本院ニ抵リ、安達幹事其他ノ職員ト共ニ院務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 午前十時養育院ニ抵リ常設委員会ヲ開ク、東京府トノ交渉ニ関シ種々ノ協議ヲ為ス、又板橋移転ノ事ヲ議シテ委員ノ再調査ヲ請フ ○下略
   ○中略。
六月十三日 曇 冷気
○上略 午前八時半巣鴨養育院分院ニ抵リ、幹事安達氏辞職シ田中太郎氏之ニ代ルニ付、交代ノ事ヲ掛員一同ニ告ケ、且会堂ニ於テ児童ヲ集メテ披露会ヲ為ス、畢テ本院ニ抵リ吏員及医務ノ人々ヲ会シテ前段ノ事ヲ告ケ、新旧幹事ヨリモ一場ノ挨拶アリ、更ニ新旧幹事等ト要務ヲ談シ ○下略


渋沢栄一 日記 大正九年(DK300001k-0017)
第30巻 p.16-17 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 曇 南風軽暖
○上略 午前十時半巣鴨ナル養育院分院ニ抵リ小沢主任ト共ニ児童総体ヲ会堂ニ集メテ一場ノ訓示ヲ為ス、畢テ菓子料金弐拾円ヲ与ヘテ直ニ本院ニ抵リ、田中幹事其他ノ掛員ト共ニ、雇員一同ヲ楼上ニ会同シテ新年ノ賀詞ト共ニ職務上ノ心得方ヲ訓示ス、畢テ院ノ庶務ヲ指示ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 厳寒
○上略 午前十時半養育院分院ニ抵リ小沢氏ト会見ス、更ニ本院ニ抵リ、常設委員会ニ出席シテ板橋移転ノ手続ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
三月十三日 曇 軽寒
 - 第30巻 p.17 -ページ画像 
○上略 午前九時半養育院巣鴨分院ニ抵リ、社会課長窪田久三氏ト共ニ院内ヲ一覧ス、更ニ大塚本院ニ抵リ要務ヲ談ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK300001k-0018)
第30巻 p.17 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 曇 寒
○上略 午前十時巣鴨分院ニ抵リ、村山氏等ト院児ニ一場ノ訓示ヲ為ス、後大塚本院ニ抵リ、田中幹事以下一同ニ年初ノ祝詞ト共ニ、本院ノ要務ニ付テ趣旨ヲ訓示ス ○下略
   ○中略。
三月十四日 晴 寒
○上略 午前十時巣鴨分院ニ抵リ、爾後ノ院内事務ヲ視察ス、畢テ大塚本院ニ抵リ、田中・川口氏等ト事務ヲ談ス ○下略


東京市養育院月報 第二四七号・第一―三頁 大正一〇年九月 巣鴨分院児童に望む(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0019)
第30巻 p.17-18 ページ画像

東京市養育院月報  第二四七号・第一―三頁 大正一〇年九月
    ○巣鴨分院児童に望む (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 左に掲ぐるは、渋沢院長が去る九月十三日巣鴨分院来院の節、例に依り同院児童のために試みられたる講演の大要を筆記したるものなり。然かも校閲を経ず文責全然編者に在り。
 八月は余り忙しかつたのでこちらを見廻り兼ねまして、其の為め皆の者に暫く逢はなかつたが、聞く所によると今年は暑さも大したことがなかつたためか皆病気もせず至つて丈夫で、元気よく勉強したり運動をしたといふ話しで、何より喜ばしい事と思ひます。是からは段々と気候もよくなる事故、尚一層よく遊びよく勉強するように心掛けねばなりませぬ。
 私は来月の初めから遠方に旅をする事になりました。亜米利加と云ふ国へ行かうと思ふて居ります、病気其他特別な故障さへなければ、十月十三日に横浜を出帆する春洋丸といふ船で発たうと思ひます。それで今度の旅行は大抵四ケ月位かゝる予定で、是から四ケ月若しくは五ケ月間は、皆さんと逢ふ事が出来ない事になりました。来年のお正月も日本では出来ないつもりであります、然し仮令私の居ない間でも院内には先生方や保姆さん方、又其上を監督する村山先生等も居て、よく皆を注意して一同の為を計つて下さる事でありますから、皆さんはよく其指図に従つて、楽しく日を送つて行くやうにしなければなりませぬ。
今までにも度々聞かせる事でありますが、凡そ人は物心を生ずる九歳か十歳の年頃になれば、何事もよく物事を考へねばなりませぬ。そして自分は大人になつてどういふものになるか、どういふものになりたいかといふ希望を、平素からよく持つて進まねばなりませぬ。只漫然と其日を暮すやうではいけませぬ、男の子は何処の子もよく大将になりたいとか偉い人になりたいとかいふけれども、大将や偉い人になるには只いふだけでたやすくなれるものではありませぬ、そうなるにはそうなるだけの準備を整へなければならぬのであります。第一によく運動をして身体を健康にすることが必要であります、第二にはよく勉強をして大いに智識を得なければなりませぬ、又第三には其得た智識
 - 第30巻 p.18 -ページ画像 
を実地に応用し、活用せねばなりませぬ、即ち益々身体を強健にして活動の土台をつくり、智慧を磨き勉強を進め、絶えず一生懸命になつて月日を重ねて、初めて偉い人になる事が出来るのであります。十歳以上の者は皆がこう云ふ心がけを持つて進まなければならぬのであります。方針なし目当なしに社会に立つといふ事は、誠にいけない事であります。これは独り男子ばかりでなく、女子も又其通りで、近頃は婦人に対する教育が非常に進んで来ましたので、昔は女子は男子に従つて家庭を治めて行けばよかつたのであります、即ちむづかしい言葉で云ひますと、男子は生産経済を行ひ、女子は消費経済に当るのであつて、男子が働いた金によつて女子は生活をして居たのであります、これが普通家庭の有様でありましたが、これからの女子は消費経済ばかりではいかず、生産経済の一部をも持つて男子の補助をしなければならぬのであります、女子はいつまでも男子の厄介者だといふやうな考では駄目であります、米国などでは女子が皆盛んに生産経済の方面に活動して居りまして、中には政治にまで携はつて居る者があります我国の女子に今日米国の女子のやうにすぐ行へといふのではありませぬが、今迄よりも余程考へねばならぬ事と思ひます。皆さんはこゝに収容され養育を受けて居るのでありますから、一面から見れば不幸の様ではありますが、又或る点から見れば幸福といはなければなりませぬ、凡そ人間は決して一人で生活が出来る者ではありませぬ、皆共同して初めて生活も出来智識も進んで行くのであります、皆さんはよく勉強をして智識を豊富にし、絶えず修養努力を怠らなかつたならば立身の途も開けるし、どこまでも進んで立派な人になる事が出来るのであります、況んや掛りの職員方や保姆さんは常に種々と世話をして下さる事でありますから、よく其指図に従ひ、将来偉い人になることの出来るように心掛けねばなりませぬ。
 私が米国へ行つて居る間は、皆さんもお父さんが居ないので或は淋しく感ずるであらうが、其代りに村山先生や其他の職員方が、お父さんの代りになつて皆さんを親切にいたわつて下さるのでありますから少しも淋しがらなくともよろしいのであります。
 私は今申す通り数ケ月の間逢はないが、帰つて来て村山先生から分院の子供は前より悪くなつたと云はれる様なことのないように、皆よく勉強して世話をやかせないようにして、私の帰りを待たなければなりませぬ、其代り私が居ないでも菓子は毎月あげることにします、呉れ呉れも各々が身体を健康にして勉強して下さい。
 終りに職員方や保姆さん方も今申した通りでありますから、よく注意して世話をして下さるように御願ひ致して置きます。(完)


集会日時通知表 大正一一年(DK300001k-0020)
第30巻 p.18 ページ画像

集会日時通知表  大正一一年     (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 月 午前九時 東京市養育院巣鴨分院ヘ御出向ノ約
        引続キ  同本院ヘ御出向


東京市養育院月報 第二五二号・第一―三頁 大正一一年二月 米国旅行より帰りて(養育院長 子爵 渋沢栄一)(DK300001k-0021)
第30巻 p.18-20 ページ画像

東京市養育院月報  第二五二号・第一―三頁 大正一一年二月
    ○米国旅行より帰りて (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 - 第30巻 p.19 -ページ画像 
 左に掲ぐるは、昨秋来米国へ赴き居られ此程無事帰朝せられたる渋沢本院長が、去る二月十三日巣鴨分院へ来院の節、院児一同のために試みられたる訓話の大要を筆記したるものにして、未だ校閲を経ず文責全然編者にあり。
久々で分院へ来て皆さんに会ふ機会を得たことを喜びます、幹事を初め職員・保姆方の丹精で、寒い時にも拘はらず病気に罹かる者もなく皆健康であつたのは至極結構なことである。
私は昨年の十月中旬に日本を立つて米国に行き、本年一月の末に帰つて来た、亜米利加では二万三千哩ばかりあちらこちらを旅行をした、二万三千哩といふても皆さんには想像もつくまいが、こゝから大塚の本院へ行くよりは余程遠い、土産話としては別にないが、亜米利加には多くの日本人が行つて居る、私はそれらの人々や米国人と会見して色々と話をしたが、これは皆さんには何等の関係もないことである、米国ではロスアンゼルス、サクラメント、サンフランシスコ等の太平洋沿岸の諸地に日本人が沢山居る、従つて子供も沢山居る、其子供とも会つて色々の話をしたが、同じ日本人でも英語でなければ話が通じない、此等の子供は皆さんとは育ちも違ひ教育の仕方も違ふが、皆さんと同じ様に日本人で皆活溌に暮してゐる、かういふやうに日本人が外国に広まつて行く事は大層喜ばしいことである、然し米国人は日本人を嫌つて排斥をして居る、私はそれらを融和する為めに行つたのである、日本人が排斥されることに就ては、排斥される理由及それに対してどうしなければならないかを考へねばならない、こゝに居る皆さんもやがて世界を知らなければならぬと同時に、世界の人にならねばならぬ。
二百年も昔に林子平と云ふ人は、日本橋の下の水が倫敦のテームス河の水と相通じて居ると云ふたが、世界を知り世界の人となるのはこれと同じやうなものである、世界の人になるには第一に学問を励まねばならぬ、それには記憶をよくしなければならぬ、記憶をよくするには私がいつも云ふやうに、毎日寝る時に其日に為したる事をよく考へて見なければならぬ、今日は朝何時に起きたとか、御飯を沢山食べたとか、誰と喧嘩をしたとか、尤も喧嘩などはしてはいけないが、何を勉強したとか、どんな遊びをしたとか、一々さういふ事柄をよく想ひ起して見れば自然記憶はよくなる、三日位前の事はよく覚えて居らねばならぬ、古い事は忘れるかも知れぬが、三日位前の事は始終覚えて居るやうにしなければ立派な人にはなれない。又人間には思想力が必要である、思想力といふのは物を思ひ想ふ力である、思想力を働かすとは物事を理解する力である、此理解力も思想力も記憶がないとだめである、老人になると記憶が自然悪るくなるが、然かし私は今でも余り物を忘れない、今度の旅行の事も大抵は覚えて居る、毎日々々の些事は覚えて居ないが、大体昨年十月十三日に日本を出帆して、今年の一月三十日に日本に帰つて来た其間に、桑港へ何月何日に着いたか、紐育、ワシントン、ロスアンゼルスなどへ何日の何時に着いた位は記憶して居る、滞米僅か六十日余りの間に、いろいろな場所で凡そ九十回程演説をしたが、何時何処で、ドウ云ふ種類の人々に、ドウ云ふ趣意
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の説を述べたかと云ふことを、一々覚えて居る、私のやうな老人でも此の位の物覚えは出来るのであるから、若かい皆さんは尚記憶がよくなくてはならぬ、土産話としては米国の小供が活溌であると云ふことをお話し申さう、学校生徒や其他小供の様子を見ると、米国の小供は皆さんよりは活溌で生き生きとして居た、皆んなも一層活溌にならなければならぬ、時々はあばれて先生に叱られてもよいから活溌になるがよろしい、叱られても私が詑てやる、又何事をするにも人間には精神集注が必要である、日本人はこれがどうも足りないやうに思ふ、小供達は云ふまでもないが、先生方もさうではないかと思ふ(尤もこゝの先生は別だが)学校に出て居ても、形だけ出て居て魂がぬけて居てはなんにもならぬ、何事にも其事に魂を打込んでする事が大切である重ねて申して置くが、記憶をよくすることゝ、物事に精神を集注する事とをくれぐれも心掛けねばならぬ、どうか勉強して立派な人間になつて貰ひたい、終りに職員其他保姆方の平素の御丹精に対して、玆に御礼を申し上げます。


渋沢栄一 日記 大正一二年(DK300001k-0022)
第30巻 p.20 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 九時巣鴨養育院ノ分院ニ抵リ、児童ヲ集メテ新年ノ訓示ヲ為シ、又大塚本院ニ抵リ、幹事以下ノ事務員等ニ訓示ヲ為ス、畢テ田中氏ト要務ヲ協議ス ○下略


東京市養育院月報 第二六三号・第二二頁 大正一二年一月 渋沢院長の訓示(DK300001k-0023)
第30巻 p.20 ページ画像

東京市養育院月報  第二六三号・第二二頁 大正一二年一月
○渋沢院長の訓示 渋沢院長は一月十三日午前十時登庁、楼上会議室に於て、本院職員に対し新年の挨拶に併せて別項説苑欄記載の如き訓示あり、之に対し田中幹事の答辞ありたり


東京市養育院月報 第二六三号・第二三頁 大正一二年一月 巣鴨分院だより(DK300001k-0024)
第30巻 p.20 ページ画像

東京市養育院月報  第二六三号・第二三頁 大正一二年一月
○巣鴨分院だより
○上略
 一、渋沢院長の訓示 一月十三日例月の通り渋沢院長来院、講堂にて職員児童一同に新年の挨拶に併せ、時間を空費してはならぬと云ふ意味の懇篤なる訓示ありたり


東京市養育院月報 第二六三号・第四―五頁 大正一二年一月 新年の挨拶(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0025)
第30巻 p.20-21 ページ画像

東京市養育院月報  第二六三号・第四―五頁 大正一二年一月
    ○新年の挨拶 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 左は大正十二年一月十三日午前渋沢院長新年初登庁の際、職員一同に対して述べられたる訓示の大要なり
 新年に際して、諸君が健康に目出度超歳せられたることを深く御喜び申上ます。私は近来高齢となるに従つて、歳月の短かく且つ貴重なるを泌み泌みと感ずるの念が加つて参りました、之れは一に自分の余命に限りがあるから、此の残り少なき歳月を、最も有意義・有益に送りたいと思ふ念慮から、益々時間の貴とさが増して来たのであると信じます、諸君は私から見れば未だ遥かに若いのでありますから、所謂
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春秋に富める御方々である、然かし春秋に富むで居るからと云つて、空しく時間を浪費して宜しいと云ふ訳のものではない、昔から偉大なる事業を遂行した人物が、必ずしも皆な長命であつたとは限らない、彼の有名なる近江聖人、中江藤樹先生の如き僅かに四十有余歳で歿せられた、先生があの短かい生涯に大に名を成されたる所以は、蓋し時間の貴重なることを知り、歳月を仇に過ごさじと努められたことが其主たる一原因である、偉人にして尚ほ且つ然りである、況んや我々普通の者は、一層此貴重なる時間を空費せぬ心掛けを持つて居なければ終生何事をも成就することは出来ないのである。
 偖て我養育院の事業は、他の官公署や、銀行会社等の仕事とは大いに其趣きを異にし、且つ諸般の社会事業中に在ても、甚だ複雑な性質の仕事を取扱ふ場所であり、又た常に二千余の生霊を預かり護つて居るのであるから、其職に従事する諸君は、単に学識とか才能とか云ふものばかりで仕事を満足に遂行することは出来ないのである、学問も才能も無論必要であり、無学魯鈍では何の役にも立たないのであるが然かし之れと同時に誠実と親切と熱心とが最も必要である、即ち院務に従事するに就ては何事も誠実と親切とを旨とし、之れを貫ぬく熱心を以てしなければならぬ、而して之れと共に諸君は大いに知識を研磨し、所謂「日に日に新たなり」の意気を以て自己の向上に資すると共に、本院事業の為めにも努力して頂きたい、之れ蓋し国家社会に於ける人間生存の義務に外ならないのである。
 又た昨大正十一年を顧みれば、同年は本院に取つて甚だ多事な年であつた。板橋の移転工事及五十年記念会等を初めとして幾多の忙がしき仕事もあり、又た年末には畏くも 皇后陛下の思召しによりて大森皇后宮大夫が、本院感化部井之頭学校を視察せられ、又た 山階宮武彦王並同妃両殿下が、親しく本院・巣鴨分院及井之頭学校に御見学のため台臨あらせられたる等、既に諸君の知らるゝところであるが、特に 皇后陛下には十二月十六日私を御召の上拝謁を仰附けられ、親しく本院事業に関し詳細なる御下問あり、尚ほ種々激励の御言葉や御慈訓を賜はり、且つ数々の御下賜品さへ拝戴して、無上の名誉を担つたのである、 陛下の御仁慈に富ませ給ふことは今更申すも畏れ多き次第であるが、本院に於ては大正六年一月にも今回同様の名誉を辱けなう致したので、私は其当時『戴恩の記』と云ふ小冊子を作つて其顛末を誌して置いた、而して斯く皇室の恩寵を辱けなくしたと云ふことは単に私一己の働きの為めではなく、偏に諸君の黽勉努力の結果に外ならぬので、此機会に於て私は諸君に御礼を申述べるのである、何卒本年も一層の覚悟を以て、誠実と、親切と、熱心とに加ふるに最新の知識を以てし、上下打つて一団となり、本院事業の為めに最善の努力を尽されむことを切望し、併せて諸君の健康を祈ります。


集会日時通知表 大正一二年(DK300001k-0026)
第30巻 p.21 ページ画像

集会日時通知表  大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
七月十三日 金 午前九時 東京市養育院巣鴨分院ヘ御出向、終テ同本院ヘ御出向

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東京市養育院月報 第二六九号・第三―五頁 大正一二年七月 知行合一(養育院長渋沢栄一)(DK300001k-0027)
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東京市養育院月報  第二六九号・第三―五頁 大正一二年七月
    知行合一 (養育院長 渋沢栄一)
 追々暑くなりましたが、皆さんが元気であることは寔に悦ばしい次第であります、夏の間は特に健康に注意し一層活溌にしなければなりません
 毎月十三日には大塚本院並に当分院に来まして事務の打合せや、又成る丈け皆さんにお話しをするやうにして居りますが、私も来月は避暑に出かけますから、この次は九月でなければ来られませんので、本日は比較的暇の多い暑中を、皆さんは如何に利用すべきかと云ふことに就て一寸お話したいと思ひます
 却説、皆さんは毎日学校へ出て勉強をして居るが、唯だ学問を学んだ丈けでは効果がない、即ち学むで知り得たことは、之れを実地に行はなければならないのである
 今から三百年許り前に、支那に王陽明といふ有名な学者がありまして「知行合一」といふことを熱心に説いたが、よいことを行ふにはよいことを知らなければならない、知らずに行ふことは決して褒めたことではなく、知つて行はないこともよろしくない、つまり学問はよいことを行ふために学ぶのである
 皆さんが先生から「親切」と云ふことを教はつたら、そのことを行はなければなりません、同じ室に朝寝をしてる者があつたら親切に起してやるとか、其他困つて居る者を助けてやるとか云ふやうに、実行を心掛けねばならない
 「知行合一」と云ふことは、私のやうな老人でも皆さんのやうな子供でも、必ず之れを行はねばならぬことであります、然し知つたことを必ず即座に行ふことが出来るかと云ふと、即座には出来ないこともあります、例へば、親としての務め、主人としての道などは、親になつた時、主人になつた際でなければ行ふことは出来ないのである
 現在の身の上から云へば、皆さんは幸福な位置にあるとは云はれないが、艱難は人を磨き上げると云ふ点から考へれば、決して不幸な身の上ではない、勝手気儘な生活をしてゐる子供の方が、寧ろ将来不幸になる事が多いのである
 皆さんは決して只今の身の上を心細く思ふことはありません、院の職員の人々も皆さんに対して非常に親切であるし、私自身も又皆さんの親と思つて尽して居る
又物を知るにはボンヤリして居つては頭に入るものではないから、是非魂を打込んでやらなければなりません、物を知るには有益な話を聞いたり、其他種々の事物に接触する外、読書をすると云ふ事は極めて必要なことである、兎角日本人は西洋人に比べて読書をすることが少いやうである、然かし私は幼少の時から読書がすきであつた、此処に居られる幹事の田中さんなども矢張りよく読書される方であります、近頃自働車の運転士などが、主人を待つ間に読書をするやうに漸やくなつて来ましたが、西洋ではどんなつまらない者でも暇さへあれば必らず読書をするやう心掛けて居る、日本人はこの心掛けが足りない、つまり知ることが足りないから、行ふことも足りなくなるのであらう
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と思ふ、近頃此分院にも図書室を設けて、皆さんのために有益なお伽噺や雑誌などを集めて備付けてありますが、主務さんなどのお話しによれば、皆さんが余り読んで居ないと云ふことですが、それはまことに心掛けの足りない次第であるから、今後は時間があつたら、殊に暇の多い暑中を利用して是非読書するやうにして貰ひたい、古い話ですが孟母断機と云ふことがある、即ち昔支那に孟子と云ふ大賢人があつたが、少年の頃学問を怠たつたのを其母親が見て、自分の織り掛けて居た機を断ち切つて、「お前がやりかけた学問を怠たるのは、織り掛けた機を切るやうなものだ」と云つて、孟子を誡しめたと云ふ話が残つて居る、蛍雪の苦と云ふ古い言葉がある、これは灯火用の油を買ふ金すらない程貧乏であつた車胤が、蛍を集めてその光りで勉強し、又孫康が窓の辺りの雪の光りで読書したといふ故事を云つた言葉である、又皆さんもよく知つて居るだらうが、有名な二宮金次郎は家貧にして奉公に行つて居つた時、主家の人々が寝静づまつてから密に勉強した所が、主人が油を惜むだ為めか、又は疲れて翌日の働きの障りになるのを心配してか、小言を云ふので、油も自分で求め、灯の光の洩れぬやう衣服で行灯を掩ふて読書したと云ふ話がある、昔の人々は斯うした苦心をしながらも読書をしたといふことを、皆さんは是非心に刻んで貰ひ度い
 私なども田舎の農家に生れたが、両親があつたから大した不自由もしなかつたのでありますが、然かし決して有福の身ではなかつた、本を読み度くても今日のやうに容易く手に入りませんで、貸本屋から一日二十文とか三十文とか云ふ料金で借りたので、せつせと読まなければならなかつたのです、多分十二歳の正月だつたと思ひます、私は母から年始廻りを言付りましたので、本を懐中に廻礼に出掛けましたが途中本を読むことに熱中して、溝の中に落ちてしまひ、着物を泥だらけにして、廻礼することも出来ずに帰つて来て、母から大変叱られ、今後は本を読んではいけないと申されましたが、其時父が着物を汚したことは悪るいが、本を読むこと迄咎むべきではないと言つて、取做して呉れたことを今尚ほ記憶して居ります、私は本を沢山読むだことだけは事実で、別に学者にはならなかつたが、然かし知り得たことは之れを行ふやうに努めて居ります、二十歳の頃故郷を出て爾来六十余年、風にも吹かれ雨にも晒され、随分苦しいこともあつたが、然かし今日に至るまで尚ほ書物を読むで、及ばずながら常にお国のために尽くして居ります
 前にも申しました通り、来月は此方へ来ませんが、九月には復た来て何かお話しを致しませう、時節柄皆さんも特に健康に気をつけるやう、尚ほ職員の人々にも、子供達に対して一層の撫育を努められんことをお願ひし置きます


白石喜太郎手記 大正一二年(DK300001k-0028)
第30巻 p.23-24 ページ画像

白石喜太郎手記  大正一二年       (白石喜義氏所蔵)
九月十三日
午前七時五十分発、白石随行、養育院巣鴨分院訪問、一般状態サシタルコトナシ、収容者全部無事、次ニ養育院本院ニ到ル、田中幹事其他
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ニ面会シ、事務員ニ簡単ニ訓辞ヲ述ベラレ ○下略
   ○九月一日ノ関東大震災直後ナリ。


渋沢子爵親話日録 第一 自大正十二年十一月至同年十二月 高田利吉筆記(DK300001k-0029)
第30巻 p.24 ページ画像

渋沢子爵親話日録 第一 自大正十二年十一月至同年十二月  高田利吉筆記
                     (財団法人竜門社所蔵)
○大正十二年十一月十三日
○上略
△それより板橋なる東京市養育院に赴き、幹部の人々に御会見、養育院は嚮に板橋に移転せし為、今次の震災にも何の被害もなく誠に仕合せなりしも、未だ火災に対する設備なきは一大欠陥なれば、一日も早く其設備をなさゞるべからさる旨を注意せらる
△次で同巣鴨分院に赴かる、同所は船形の分院震災によりて大破したる為其収容の児童を引取りたるを以て、人員頗る多数に上れり、若し在来の児童との間親和せざるが如きことありては面白からざれば注意を要す、又此分院も早く火災防禦の用意をなさゞるべからずと申聞けらる
○下略


渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十二月至 高田利吉筆記(DK300001k-0030)
第30巻 p.24 ページ画像

渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十二月至  高田利吉筆記
                     (財団法人竜門社所蔵)
○十二月十三日
○上略
△養育院巡視定日につき板橋の本院に赴き、事務員以下を集めて歳末慰労の挨拶を述べ、来年の勉励を求めらる
△それより巣鴨分院に赴きて同様の挨拶をなし、且例月の如く五百余の収容児童に菓子を分与せらる
○下略


東京市養育院月報 第二七〇号・第五―六頁 大正一三年一月 巣鴨分院児童の為めに(大正十二年十二月十三日)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0031)
第30巻 p.24-25 ページ画像

東京市養育院月報  第二七〇号・第五―六頁 大正一三年一月
     ○巣鴨分院児童の為めに(大正十二年十二月十三日)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 先達の大地震以来、皆さんと会ふのは今日で二回目のやうに記憶して居る、この中には安房分院から転院して来た人も沢山あると思ふが此間の地震は船形は東京よりも震動がずつと強かつたから、随分恐ろしく感じたことゝ思ひます、あの地震の為めに東京がすつかり破壊されて終つたので、是れを以前のやうに恢復させねばならぬ、否以前のやうにするだけでは復旧に過ぎない、此際根本的に改良を企て理想の都市とする、即ち復興せしめるやう、目下政府や市の役人をはじめ市民の全部が非常に苦心をして居るのであります
 東京は昔江戸と云つて、三百余年の間徳川暮府の支配の下にあり、人口が殖へると共に市街も漸く整つて行き、明治の御代となつては更に 先帝が大御心を国民の上に注がせ給ひて、広く欧米の文物を移し入れさせられた結果、震災前のやうな稍々整なつた都市が出来上つて居つたのであります、然るにあの未曾有の大地震と、その夕方よりの
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火災のために、東京市の殆んど全部が破壊され、焼き尽され実に空前の大惨害を蒙つたのであります、然し皆さんは幸に養育院に居たので火事にも遭はず、別に大した苦痛もなかつたのであるが、二百三十万の市民の中には或は近親を失ひ、又たは家屋を焼かれ其財産の総べてが灰燼に帰し、一時路頭に迷ふの惨害を蒙り、善美を誇つて居た科学の力も、自然力の前には如何に無力であるかといふことが、事実に依つて証明されたのであります、又た之れを他の一面より見る時、彼の徳川時代より維新を通じて三百五十有余年、緩みきつた人心を転換し一新せしむるために、天より与へられたる誡め即ち天譴であるとも考られるのであります
 而して此大震災に就きては、上皇室に対し奉り寔に恐懼に堪へない次第でありますから、帝都復興に対しては国民挙つて身命を堵して努力しなければならない、私も微力ながら社会奉仕の一端として、災後今日迄晨に夕に寝食を忘れて、上皇室は申すに及ばず一般同胞のために働いて居るやうな次第であります、それで皆さんも此心持ちを忘れずに、確かり心に銘じて将来のために勉強しなくしてはなりませぬ
 今年も愈々押し迫まつて、余す所僅かに半月許りとなりましたのでまた明年でなければ皆さんの元気な顔を見ることは出来ないと思ひます、歳の終りと始めとは人生に於ける折り目、切れ目であるから、此機を利用して向上進歩を心がけなければなりませぬ
 私が常に言ふやうに、夜眠る前十分間其日に為した事柄に就きての反省をなし、朝起きる前に十分間其日為すべき事柄を考へると云ふことは、自分自身の行為に対する記憶を強くする方法として、誰にでも公開してゐる私の唯一の記憶力増進法であります、人は心身共に隙のない生活をしなくてはならない、心身に隙間があると悪魔が入り込むのであるから、充実した生活をして居なくてはならぬ、私は今朝も午前九時迄に浦和の赤十字社支部救護団の人に面会して、十時には板橋本院へ行き事務上の打合せを済して当分院へ来ました、午後からは報効会と社会事業協会に行きて後、私の事務所に待ち合はせて居る二・三人の人々と面会の約束があるので、大方日暮れになることゝ思ひますから、日米協会に行く事は断はりました、私のやうな老人でもなほ此やうに働いて居るのであるから、皆も確かり心を打ち込んで勉強しなくてはならぬ、それ位いのことが出来なくては、生きがひのある生活は出来ないのであります、でどうか今私が御話した事柄を宜く記憶して、之れを生かして実行することを心掛けるやう、尚ほ職員の人々にも子供達に対し一層の撫育を努められんことをお願して置きます


集会日時通知表 大正一三年(DK300001k-0032)
第30巻 p.25 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 日 午前九時 東京市養院本院ヘ御出向
        引続   巣鴨分院ヘ御出向


東京市養育院月報 第二七〇号・第七頁 大正一三年一月 巣鴨分院児童に対する訓話(大正十三年一月十三日)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0033)
第30巻 p.25-26 ページ画像

東京市養育院月報 第二七〇号・第七頁 大正一三年一月
    ○巣鴨分院児童に対する訓話(大正十三年一月十三日)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
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 御正月になりまして、皆さんと相会して斯うして御話の出来るのを大変嬉しく思ひます、私は今年八十五歳になりますので皆さん方とは余程年齢が違ひます、皆さんは年が若いから之から尚ほ永い楽しみがあります、尤も歳月は或場合には幸福を与るけれども、或場合には艱難を与へるのである、昨年の大地震及び其れに伴なつた火災のために東京や横浜・相模・房総の地方は大変災害を蒙りました、是等の地方では凡てを復旧しやうとして専心力を尽してゐるのである、私も老人だが矢張り此復旧問題には力を尽くして居るのであります
 若い人も老人も正確に物事を記憶することが大切であります、さうして昨年の大震災や大火災などの事は良く記憶して居て、其時の世間の状態などは後になつて若い人々に話して聞かせる様でなければならない
 今年は甲子の年で大正十三年である、本年は種々の災害及不祥事の無い事を皆さんと共に希望して止まないけれども、良い事を望むには良い事をしなければならない、老人は老人として、若い人は若い人として良い事をしなければならない、働き盛りの人は職業に趣味をもつて励精せねばならぬ、又た子供は子供で友達と仲よくして、朝晩折角勉強して良い事をする様にしなければならぬ、皆さんの心がけが良ければ良い事が廻ぐつて来るだらうし、悪い心掛けだと悪い事が廻ぐつて来る、古語にも「積善の家に余慶あり」「積不善の家に余殃あり」と云ふ事があるから、大正十三年の歳月は良い事をして、良い事の来る様に心がけねばならぬ
 又た分院の子供達の御世話を下さる職員方や保姆方は、本年も引続いて勤務に励精して下さつて、只今私が子供に話したことを時には督励し、親切に指導してやつて戴きいと思ひます


集会日時通知表 大正一三年(DK300001k-0034)
第30巻 p.26 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
九月十三日 土 東京市養育院ヘ御出向


東京市養育院月報 第二七八号・第一―三頁 大正一三年九月 先づ身体の健全を図れ(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0035)
第30巻 p.26-28 ページ画像

東京市養育院月報 第二七八号・第一―三頁 大正一三年九月
    ○先づ身体の健全を図れ (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 左は本年九月十三日、巣鴨分院児童に対し与へられたる渋沢院長訓辞の大要を筆記したるものなり
 今日久々で皆さんと遇ふのは、誠に喜ばしく思ひます、私のやうな老人になると、常に健康を保つてゐるのは困難なもので、此頃は少し身体を悪くして居ります、然かし今日は本院へ出勤する定例日でありますから、推して参つたのであります
 最早暑中休暇も終り、人々は皆一生懸命に勉強すべき時節になつて来ました、有名な韓退之の勧学の詩に
   時秋積雨霽   新涼入郊墟
   灯火稍可親   簡編可巻舒
と云ふのがあります、即ち皆さんに分り易く云へば、季節は秋になつて涼しくなつて来たのだから、暑い夏と違つて人々は皆大に読書し勉強しなければならぬと云ふ意味であります、今は丁度其の灯火可親の
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時であります、私も大に勉強しますが、殊に之れから世の中へ出やうと云ふ皆さんは、一層良く勉めなければなりません、唯今村山さんからも身体を健全にし併せて精神をも健全にせよとの御話がありましたが、如何にも村山主務の云はれる通り、世に立つに最も必要なものは健康であります、私が八十五歳になる今日まで多少なりとも働くことが出来るのは、全く健康に注意して来た為めであります、身体を大切にすることが、如何に仕事をする上に深い関係があるかを知らなければなりません、然かし自分の身体を大切にし健康を保つのは、美味い物を食べるとか、遊びに行くとか、自分の為めばかり考へてはなりません、何等か社会なり、国家なりに尽す為めであると云ふことに気附くのが一番肝腎である、若し世の中の人が皆国家社会の為めに働くのだと云ふ考を失つて、自分さへよければいゝとして、ブラブラしてゐると考へて御覧なさい、今計画されつゝある帝都復興事業の如きも出来ないであらうし、強い者のみが威張る、実に不愉快な世の中となるに相違ありません
 人は国家社会の為めに尽力すると云ふ考へを、常に念頭に置かなくてはなりません、今此分院に建築して居る建物は、皆さんに単に普通の学問許りを授くるのみならず、職業的教育を施して世の為め国の為めに良く働ける人を作り出すが為めであります、此事に就ては田中幹事や村山主務と共に長い間心配してゐたのでありますが、今度幸にも米国関係の「ロータリークラブ」の寄附や其他の財源で、漸く出来ることになつたのであります
 先程村山主務の御話にもあり、又た私も繰返して申した通り、身体を大切にすることは極めて必要な事であるが、それと共に今一つ時間を無駄にしない事が、誠に大切なことであります、月日を大切にすることゝ、身体を大切にすることは、御互に関係のあることで、結局同一に帰するのであります、陶淵明と云ふ人の句に
   盛年不重来   一日難再晨
   及時当勉励   歳月不待人
と云ふのがあります、月日は人を待たないのでありますから、月日を無駄にしては決して立派な仕事も出来ず、又た立派な人になることも出来ません、時間がどれだけ続いたか、天文学などでは随分大きな数字を示して居るやうですが、天文学を研究しない私は良く分りませんが、我国の歴史を見ても既に数千年を経過して居ります、其間勿論うまく行かなかつたこともありますが、大体に於て我国民が月日を有効に費した為め、今日の如き立派な日本の国が出来たのであります
 外国の悪口を云ふのは悪いことですが、御隣りの支那を御覧なさい曹錕・呉佩孚・斉爕元・張作霖・蘆永祥・唐継尭・孫文等、個人的に偉い人は沢山あるけれども、国家社会全般の利益よりも先づ私の利益を計るべく、常に内輪同志の争が絶えないので、国民は非常な迷惑を蒙つてゐるのであります、それを考へると我国民は誠に幸福であると云はねばなりません
 私は養育院に関係して以来既に五十年余の長い歳月を経ましたが、今日次第に事業が充実して来たのも、私始め其他の職員が時間を大切
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にして、各々其務めを励んだ為めであります
 どうぞ皆さんも、私の今迄お話した事柄を良く記憶して確かり勉強し、国家社会の為めになる人となるやう心掛られんことを切に希望致す次第であります


竜門雑誌 第四三四号・第八五頁 大正一三年一一月 青淵先生動静大要(DK300001k-0036)
第30巻 p.28 ページ画像

竜門雑誌  第四三四号・第八五頁 大正一三年一一月
    青淵先生動静大要
      十月中
十三日 例月の通り東京市養育院(板橋本院)に出席。 ○下略


竜門雑誌 第四三五号・第六九頁 大正一三年一二月 青淵先生動静大要(DK300001k-0037)
第30巻 p.28 ページ画像

竜門雑誌  第四三五号・第六九頁 大正一三年一二月
    青淵先生動静大要
      十一月中
十三日 例月の通、東京市養育院(板橋本院)に出向。 ○下略


渋沢栄一 日記 大正一四年(DK300001k-0038)
第30巻 p.28 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 曇 寒
○上略
午後二時板橋養育院ニ抵リ常設委員会ニ参列ス、畢テ同所ノ要務ヲ談シ、更ニ巣鴨分院ニ抵リ、児童ヲ集メテ一場ノ訓示ヲ為ス ○下略
   ○中略。
三月十三日 半晴 寒
○上略 此日ハ東京市養育院巡回ノ定日ナリシカ、病ノ為メ出席シ得サルニヨリ、田中幹事ニ其事ヲ書通シ且分院ノ児童ニ菓子料ヲ送与ス ○下略


東京市養育院月報 第二八四号・第一〇頁 大正一四年三月 渋沢院長の動静(DK300001k-0039)
第30巻 p.28 ページ画像

東京市養育院月報  第二八四号・第一〇頁 大正一四年三月
○渋沢院長の動静 微恙の為め旧臘二十七日相州湯河原へ転地保養中なりし渋沢養育院長には、漸次軽快に向かはれたると、他方用務多忙に依り本年一月二十九日帰京せられ、二月十三日の定例出勤日には本院へ出頭の上、常設委員会にも出席せられたるが、其後略ぼ用務も完了したるに依り、更に保養の為め三月二日出発相州大磯へ転地中なりしが、春暖の候となりしを以て、去る二十日同地を引上げ帰京せられたり


東京市養育院月報 第二九〇号・第九頁 大正一四年九月 渋沢本院長の登庁(DK300001k-0040)
第30巻 p.28 ページ画像

東京市養育院月報  第二九〇号・第九頁 大正一四年九月
○渋沢本院長の登庁 病気の為め去二月十三日以来登院なかりし渋沢院長は、九月十三日午前十時久振りにて本院へ登庁せられ、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、巣鴨分院に向はれ、同分院講堂に於て、収容児童に対し別項(説苑欄記載)の如き講話を試み、正午退庁せられたり


東京市養育院月報 第二九〇号・第一―二頁 大正一四年九月 巣鴨分院児童の為めに(大正十四年九月十三日於巣鴨分院)(養育院長渋沢栄一)(DK300001k-0041)
第30巻 p.28-29 ページ画像

東京市養育院月報  第二九〇号・第一―二頁 大正一四年九月
    ○巣鴨分院児童の為めに(大正十四年九月十三日於巣鴨分院)
                  (養育院長 渋沢栄一)
 - 第30巻 p.29 -ページ画像 
 今日久し振りで皆さんの顔を見まして、誠に私は喜ばしいのである唯今、村山さんが云はれた様に、私は病気の為めに暫らく御無沙汰してゐたのであるが、余り久しく皆さんに会はなかつたので、病気も少しよくなつたから、今日はお菓子をあげるばかりでなく、私のこの身体を皆さんに見てもらひ度く、又私も皆さんの活溌で元気な顔をして勉強してゐると云ふ事を、聞きもし見せても貰ひたかつたので来たのである
 今日お話することは、何事をするにも、精神を集中することが大切であると云ふ事である、兎角子供の内は、気の散り易いものであるが精神を統一すること、即ち心を一つ所に集めるといふ事が必要であるかうして私がお話をするのを聞くにも、心をあちらこちらに散らさないで、一つ所に集中して聞くといふことは、困難な様な事であるが、暫らくの間の辛棒で割合に長く記憶に残るものである、人間は精神を集中する考へが大切である、私はいつも此の分院に入つて来る子供の径路を調べて見るに、精神を集中することを忘れて、多く気の散つた者が入つて来てゐる、小さい者はよく解らないかも知れないが、相当な年輩の者には、精神の集中と云ふ事を心掛て欲しい、取り分け年長者で実業補習科に居る者は、この事を守らなければならない
 丁度今は秋でもあるし、皆さんの精神を集中して、勉強をするのに最も好い時節である
  『時秋積雨霽、  新涼入郊墟、
   灯火稍可親、  簡編可巻舒、』
と、支那の韓退之と云ふ人が、子に教へた言葉にある通り、今は秋で気候も涼しくなつて来たから、夜、勉強するのによい時節であるばかりでなく、昼も勉強するに最も都合のよいときである、勉強と云つても授業の事ばかりでなく、実業の練習にも精神を集中してやることが必要なのである
 来月から毎月来る積りであるが、諸君等は今云つた様に、この精神を集中すると云ふことを忘れず、修養して、灯火可親好時節によく勉強し、一方には身体を丈夫にして、活溌で元気な生き生きしてゐる人達になつて貰ひたい、皆さんと又この次ぎの会見の時に、其の様子を見たいのである
 終に各職員方も亦、私が今話した様な考へを持つて、子供の為に一層働いて欲しいのである


東京市養育院月報 第二九一号・第一五頁 大正一四年一〇月 本院常設委員会(DK300001k-0042)
第30巻 p.29 ページ画像

東京市養育院月報  第二九一号・第一五頁 大正一四年一〇月
○本院常設委員会 十月十三日午後二時より本院楼上会議室に於て定例常設委員会を開会、出席者は小坂常設委員長、及び天利・大岩・安東の三委員にして、重要院務に関し協議する所あり、同四時閉会したり、因に理事者側より渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・村山監護課長・石崎庶務掛長列席せり


東京市養育院月報 第二九一号・第一―二頁 大正一四年一〇月 日常の心得(大正十四年十月十三日於巣鴨分院)(養育院長渋沢栄一)(DK300001k-0043)
第30巻 p.29-30 ページ画像

東京市養育院月報  第二九一号・第一―二頁 大正一四年一〇月
    ○日常の心得(大正十四年十月十三日於巣鴨分院)
 - 第30巻 p.30 -ページ画像 
                  (養育院長 渋沢栄一)
 今日は天気も快晴になつて誠に愉快な日である、毎月来てお話を致したいと思ふて居ますが、今日は別にお話の材料もない、唯皆さんの生立に就て常に心掛けて置かなければならぬことは、精神を活溌に保ち、毎日愉快に心地よく、遠慮なくやると云ふことである、然かし活溌にと云つたとて乱暴をしたり、又た遠慮なくと云つて粗野になつてはならぬ、なんでも人は我が心を他人によく分るやうにせねばならぬ殊に学校に行つて居る人達は、年長者は年少者の手本となるやうに務めて行かなければならぬ、それから皆さんは記憶力を増進するやうにしなければいけない、私が其の秘伝を教へやう、誰でも夜、床に就いて十分間位は眠られぬものである、其の時に朝から今日は何をやつたか、どこで何をしたかと云ふことを考へて見る、例へば朝五時に起きて何をして、八時には学校へ行つて何を習つた、それから学校から帰つて何をしたといふやうなことを、間違のない様に心掛けて一週間も続けてやれば必ず効果がある、それを何が何だか分らんやうに無神経でゐてはならぬ、ほんとうによく考へて、何事でも一心を打ちこんでやらねばならぬ
 私なども今日朝起きる前に、ちやんと今日の仕事の順序を考へてから起きた、朝六時に起きて八時になつたら書類を見る、十時には田舎から訪ねて来た人に逢ふ、それから十二時になつたら日仏会館に行く其処で色々協議をやつて、一時には分院に来ると云ふ約束をして置いたが協議の都合で遅くなつた、これから本院の常設委員会へ出席して家へ帰る、こう云ふやうに毎日朝夕自分のすること又はしたことを考へて、記憶を働かすやうにする
 これは私の記憶力を増す秘伝で、皆にあまり安売をして甚だ残念のやうだが教へて置く、今日は一同の元気な顔を見て非常によろこばしい、自分も病気が全快して、愉快に皆さんに逢つてお話をすることが出来て喜ばしく思ふ
 次に職員一同へも、今度小長谷さんが分院の主務に就任せられましたから、相変らず勉強をしてやつて頂き度くお願を致します


東京市養育院月報 第二九三号・第一八頁 大正一四年一二月 渋沢本院長の登庁(DK300001k-0044)
第30巻 p.30 ページ画像

東京市養育院月報  第二九三号・第一八頁 大正一四年一二月
○渋沢本院長の登庁 渋沢院長は十二月十三日午後一時四十分本院へ登庁せられ、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、同二時半田中幹事と共に巣鴨分院に向はれ、同分院に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、終りて午後三時半退庁せられたり


渋沢栄一 日記 大正一五年(DK300001k-0045)
第30巻 p.30-31 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 午前十時養育院ニ抵リ、田中幹事以下ノ諸氏ト新年ヲ祝シ、本院将来ノ経営ニ関シ老生ノ企望ヲ説示ス、後事務ノ打合ヲ為ス、畢テ巣鴨ノ分院ニ抵リ、田中氏ト共ニ児童ヲ集メテ一場ノ訓示ヲ為ス、畢テ主任ニ要旨ヲ指示ス ○下略
   ○中略。
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二月十二日 晴 寒
○上略 喜雨亭記ヲ浄書ス、蓋シ養育院田中幹事ニ交付ノ為メナリ ○下略
二月十三日 晴 寒
○上略 養育院巣鴨分院主任小長谷氏ノ来訪ニ接シ、本日病気ニテ院内巡視シ能ハサルヲ告ケ、児童ヘノ菓子料ヲ支給シ、且本院田中幹事ヘ伝言ヲ托シ、喜雨亭記ヲ浄写セル一本ヲ托ス ○下略
   ○中略。
三月十三日 晴又曇 寒
○上略 午前十時板橋養育院本院ニ抵リ、田中氏其他ノ諸氏ト要務ヲ談シ本年ノ楽翁祭経営ニ付其方法ヲ談ス、十一時過巣鴨分院ニ抵リ、児童ヲ集メテ一場ノ訓話ヲ為シ、且主任者ト事務ヲ談ス ○下略


東京市養育院月報 第二九四号・第九頁 大正一五年一月 渋沢本院長の登庁(DK300001k-0046)
第30巻 p.31 ページ画像

東京市養育院月報  第二九四号・第九頁 大正一五年一月
○渋沢本院長の登庁 渋沢院長は一月十三日午前十時本院へ登庁せられ、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同十一時田中幹事と共に巣鴨分院に向ひ、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話(別項説苑欄掲載)を試み、終りて正午過ぎ退庁せられたり


東京市養育院月報 第二九四号・第一―二頁 大正一五年一月 お正月の心得(大正十五年一月十三日於巣鴨分院)(養育院長渋沢栄一)(DK300001k-0047)
第30巻 p.31-32 ページ画像

東京市養育院月報  第二九四号・第一―二頁 大正一五年一月
    ○お正月の心得(大正十五年一月十三日於巣鴨分院)
                  (養育院長 渋沢栄一)
 明けましてお目出度う、お目出度いお正月に、皆さんと一堂に集つて、話をすることの出来るのは年寄りとして最も嬉しく楽しいものである、お正月になつて皆さんも私も共に年を一つ取りましたが、皆さんはよろこばしい事であるが、私には割の悪るいことである、皆さんは大抵十歳内外にして一つ、私は八十六歳にして一つ取つて八十七歳となつた、かう考へて見ると、皆さんは平均十分の一の齢を得たのであるが、私は八十六分の一を得たに過ぎない、然しこの一つ取つた本年を、どうして暮らすかと云ふ考が大切なのである
 子供も青年も壮年も老年も、又た百姓も商売人も軍人も役人も共にこの一つの年を意義ある様に暮らすのが、権利でもあり又義務でもあるのである
 一年の計は元旦にある、一日の計は朝にあると、古人が申した如く今年一年の計画はこのお正月に立てなければならないのである、かくして始めて一年を、意義ある様に送ることが出来るのである
 八十七歳のこの渋沢は、もう本年一年をどうして働かうかと、計画してあるのである、日月を無駄にする空費するといふことをしないやうにすることは、此処で度々云つてあることである、時日を無駄に過すといふ人は、神や仏に対しての、宗教上よりも、今日に対しての、人道上からも悪いことである
 唯今田中幹事から、勤労困苦に耐えねばならないとのお話があつたが私も同感である、私も今幹事が少年時代の山崎亀吉さんに就て話されたと同様な、皆さんに耳よりのお話をいたしませう、私の懇意な本多静六さんと云ふ御人が先達て私の所へ来られて、種々談話中『英才
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は富豪の家には生れずして、貧苦の人の中から生れる』と云ふことを申されたが、皆さんにかういふと失礼かも知れないが、養育院に入る者は富裕なものではない、不幸なものであるが、焉ぞ知らん、本多さんの話に従へば諸君等は成功すべき素質を以つて居る人達である、古諺に『艱難汝を玉にす』と、古人もし吾を欺かず、又た本多さんの話が真理であれば、皆さんは却つて、好い位置にゐるのである、けれども如何に英才であつても、働かなければ英才の英才たることを、発揮することが出来ないのである、即ち英才を英才たらしめるものは努力である、山崎さんも艱難に耐え辛苦を忍び努力されなかつたら、或は今日の成功は遂げなかつたかもしれぬ、皆さんは決して歳月を無駄にせず困苦に堪え、克く努力を尽して貰ひたい
 お正月ではあるが、何時もの通り粗末な菓子を主務さんにあげて置きましたからおあがり下さい、職員の方にも、英才を英才たらしむる為め、深き注意を以て児童の教導に努力して下さることをお頼みして置きます


東京市養育院月報 第二九六号・第九頁 大正一五年三月 渋沢本院長の登庁(DK300001k-0048)
第30巻 p.32 ページ画像

東京市養育院月報  第二九六号・第九頁 大正一五年三月
○渋沢本院長の登庁 渋沢院長は三月十三日午前十時本院へ登庁せられ、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同十一時巣鴨分院に向ひ、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話(別項説苑欄掲載)を試み、終りて正午退庁せられたり


東京市養育院月報 第二九六号・第一―二頁 大正一五年三月 巣鴨分院児童の為めに(大正十五年三月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0049)
第30巻 p.32-33 ページ画像

東京市養育院月報  第二九六号・第一―二頁 大正一五年三月
    ○巣鴨分院児童の為めに(大正十五年三月十三日於巣鴨分院)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 私は当分院に来る度毎に、皆さんの元気な顔を見ることが非常に嬉しくて、自分自身も子供になつたやうに若い気持になります、先月は一寸した病気で来られなかつたが、一月に来た時は皆さんに月日を無駄にしてはならないといふことをお話し致しましたが、其時私の一年は年齢に比べて平均九十分の一にしかならないが、それに較べてみると皆さんの一年は十分の一位に相当する、即ち皆さんは甚だ春秋に富で居ると申しました
 然して皆さんの一生を四季に譬へて見ると、春夏秋冬と自然に変化する中の春に相当するのでありますが、私の様な老人は冬枯の時季に当ります、それで皆さんはこれから良い夏や良い秋を迎え、更に立派な冬を送るやうに心懸けなくてはなりませぬ、春は耕し、夏は栄へ、秋は収め、冬は蔵すと云ふことがあるが、皆さんは其耕すべき春に当るのであるから、今の内十分に耕しておかなくてはなりませぬ
 人は年を取つても若い時と同じ様な精神を持つことが出来るが、身体は自然に衰へて行くものである、之れは人としては自然の勢ひであります、故に身体の盛んな若い時代に充分に耕す、即ち勉強して置くことが最も大切なことであります
 前回のお話では月日を無駄にしてはならぬと云つたが、丁度今は春の時節で皆さんの時代に較ぶべき時であるから、此春の麗らかなるが
 - 第30巻 p.33 -ページ画像 
如く常に心を清くし、先生方の教を守りよく勉強して、将来は盛なる夏、実のある秋を迎へて、私の様な冬(私も成功したと云ふ程ではないかも知れぬが)を迎へるやうになつて貰ひたい、さうすれば始めて世の為め、人の為めになることが出来るのであります、皆さんの現在の境遇は或は貧であり、且つ又た不遇であるかも知れぬが、夫れが却つて諸君の今後の働きの上に良い機会を与へられるものだといふことは、前回のお話の時に申した通りであります
 私は埼玉県の百姓の家に生れ、二十四歳の時家を出で、爾来家人の厄介にならず、自分の力で働いて今日に至つたのであります、『天は自から助くる者を助く』と云ふ言葉の通り、天は常に自から勉めて働くものを助けて呉れるのであります、青春の時季にある皆さんは自から働き自から励み、将来は世の為め人の為めに尽す様な人になることを幾重にも深く希望して置きます


東京市養育院月報 第二九七号・第一〇頁 大正一五年四月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0050)
第30巻 p.33 ページ画像

東京市養育院月報  第二九七号・第一〇頁 大正一五年四月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は四月十三日午前十時本院へ登庁せられ田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同十一時巣鴨分院に向ひ、同院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、終りて正午退庁せられたり
○下略


東京市養育院月報 第二九七号第一―三頁 大正一五年四月 新学期に際して児童に望む(大正十五年四月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0051)
第30巻 p.33-34 ページ画像

東京市養育院月報  第二九七号第一―三頁 大正一五年四月
    ○新学期に際して児童に望む(大正十五年四月十三日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 毎月十三日には板橋の本院へも行けば当分院にも来るので、一月毎に斯うして皆さんと会ふことは、私にとつて此の上もなく嬉れしいことである、今も小長谷さんの御話に学期始めといふ言葉があつたが、学期が新たになると、従つて皆さんも亦新らしい考を持つて居ることと思ふから、私もまた其れに就て玆にお話を致さう
 人は生れつきの遺伝といふことゝ、其の身の境遇といふことゝに依つて、一生を動かされるものである、偉らくなるか、ならないかといふことは、生れつき親から受けた遺伝性にも依るが、夫れよりも毎日毎日の境遇によつて支配されるものである
 或る学者が人の運命は遺伝による方が多いか、それとも境遇に支配される方が多いかといふことに就いて話しをされたことを聞いたことがあるが、其の中の例として次の様なことがありました
 或学校に二人の仲のよい竹馬の友がありました、彼等は毎日毎日共に遊び共に学び、お互に将来を語り合ふ間柄であつたが、或時此の二人が郊外に散歩をして林檎畑の側を通ると、実に美しくうまさうな林檎の実が鈴なりになつてゐるのを見て、つい二人は畑に入り林檎を盗んだところ、不幸にも番人に見付けられ、二人は逃げやうとして駈け出しましたところ、一人丈けは無事に逃げのびたが、一人は垣根につまづいて倒れたので遂に番人に捕まつて訴へられ、刑罰に処せられました、それから後此の二人の者は再び親しく会ふこともなく、別々の
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途を進んで行つたのであります
 斯くて数年を経たる後ち、逃げのびた一人は出世して、或る所で判事、即ち罪人の裁判をする役人となつて勤めるやうになつた、其時ある被告人を取調べると、それは偶然と云はふか何と云はふか、少年の時に林檎畑から逃げた時に分れ分れになつた竹馬の友であつた、件の判事は其時心中には大に驚いたが、先づ一応の取調を終はり、後とから其被告に会つて、君はドウして今日のやうな境遇に陥つたのかと尋ねました、すると其人はあの林檎畑で捕へられてから刑を受け、それからは捨鉢になつて色々の悪事をして、遂に今日の身の上に堕落したのであると申したさうです、此の一例の如きは全く境遇によつて運命が一変したもので、学者が境遇は遺伝よりも力強よしと申すのも、誠に尤もなことであると思ふ、即ち二人の者が斯やうになつたのも、境遇によつて分れたのであつて必ずしも天分に大なる差があつた訳けではない、皆さんは或はよい遺伝を持つて居ないかも知れず、又現在の境遇が必らずしもよい境遇なりと云ふことが出来ないかも知れぬが、然かし少なくとも決して不幸な境遇に居るものでもないのであります
 古人も『艱難汝を玉にす』といつて、饑や寒さを耐へ忍ぶことによつて其の人は立派な玉のやうに成功するものであると云つて居る、皆さんは決して悲観失望をするの必要はない、況して保姆さんや先生方は、皆さんが世の中に立つて行けるやうに心配して世話をされるのである、こゝには又た小学校もあり、尚ほ其の上に職業教育の場所も設けてありますが、今聞くと此実業科の方に男生が四十人許り、女生が二十余人居るといふことであるが、将来尚ほ一層多数の生徒を入れたいと思ひます
 然かし世の中に立つて行くには職業ばかりではいけない、堅固なる意思が最も大切である、即ち皆さんは将来世の為め国の為めに尽くすところの人とならねばならぬ、さうして如何にしたならば最もよく国家社会の為めに尽くすことが出来るかといふことを、能く考へることが大切である、よく此事を考へつゝ職業を忠実に務めて行かなければならぬ、私は十七歳の時から今日に到るまで、今申すやうな考を持つて歳月を送つて来ました
 世の為め国の為めを思へば、仕事は忠実に行はねばならぬ、先輩には従順にしなければならぬ、さうして決して嘘を云はない事が大切である、日本国民であると云ふことは私も皆さんも変はりはない、又女子は国をよくする元素になるのであるから、女子の教育は男子同様に大切なものである
 当分院に在る皆さんの今の境遇は、必ずしも不幸不遇といふべき程ではない、或る一方から見れば寧ろ幸福と申して差支ない位であります、先生方は皆さんをよくすることに骨を折つて下さるし、私は皆さんの父となり祖父となり曾祖父となり、親権を行つて行くのであるから、決して恥かしくもなく、正々堂々と社会に進んで行くことが出来得る筈である、皆さんは此事をよく自覚しなければならない


東京市養育院月報 第二九九号・第一六頁 大正一五年六月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0052)
第30巻 p.34-35 ページ画像

東京市養育院月報  第二九九号・第一六頁 大正一五年六月
 - 第30巻 p.35 -ページ画像 
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は六月十三日午前十一時本院へ登庁せられ、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、正午幹事と共に巣鴨分院に向ひ、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、午後一時退庁せられたり


東京市養育院月報 第三〇一号・第一―三頁 大正一五年八月 精神集中の必要(大正十五年六月十三日於巣鴨分院)(養育院長渋沢栄一)(DK300001k-0053)
第30巻 p.35-36 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇一号・第一―三頁 大正一五年八月
    ○精神集中の必要(大正十五年六月十三日於巣鴨分院)
                  (養育院長 渋沢栄一)
 毎月の例として今日も巣鴨分院に来て、小供達の無事な顔を見ることは私に取つて何より嬉しいことである、然かし私が嬉しいと思ふ程皆んなも嬉しいと思ふかどうかは分からないが、先月の養育院月報の院児の作文の中に尋常四年の女の児が、院長さんの御見へになる日は一番嬉しいといふことを書いて居たが、之れを見て私は誠に嬉しく思つた
 先程幹事さんからの話に、学問も仕事も命懸けの熱心でしなければならぬと云ふことを云はれたが、実際其の通りで、総べての事は一生懸命熱心にすることが大切で、心を籠めない仕事や不熱心にする物事は全く無益な事となる、啻だに仕事ばかりではない、遊ぶ時に遊ぶのも亦た熱心でなければならぬ、心を集中すること即ち精神を打込むことが大切である、上の空で仕事をする事は全く無益で駄目な事である今も幹事さんは先日の慰安会に於ける支那少年の曲芸を例に取つて、人間の為すべき仕事は命ち懸けの覚悟を要すると申したが、私は更らに例を他に求めて、命ちがけで仕事をすることが必要であることを裏書きしませう、それは皆んなも知つて居る通り先月此の講堂で楽翁祭がありましたが、其の楽翁公は天明七年幕府の老中になつたが其の時年齢は三十歳でした、其の次の天明八年、後ちに寛政元年と改まつた年の正月の事である(此の楽翁公は有名な八代将軍吉宗公の孫として田安家に生れ松平家の養子となり、後ち老中になつた方である)深く覚悟する所があつて、本所の吉祥院の聖天様に命ち懸けの誓文を納めて、政治の改革を神明に誓つたのである、其の文言は次の通りである
 天明八年正月二日、松平越中守義奉懸一命心願仕候。当年米穀融通宜く、格別之高直無之、下々難義不仕、安堵静謐仕、並に金穀御融通宜く、御威信御仁恵下々へ行届き候様に、越中守一命は勿論之事妻子之一命にも奉懸候て、必死に奉心願候事。右条々不相調、下々困窮御威信御仁徳不行届、人々解体仕候義に御座候はゞ、只今の内に私死去仕候様に奉願候(生ながらへ候ても、中興之功出来不仕、汚名相流し候よりは、只今の英功を養家の幸、並に一時の忠に仕候へば、死去仕候方、反て忠孝に相叶ひ候義と被存候)右の仕合に付以御憐愍、金穀融通、下々不及困窮、御威信御仁恵行届、中興全く成就の義、偏に奉心願候 敬白
とありまして、即ち命を聖天様に捧げ、一生懸命政治に力を尽して万民が安堵するやうに努め、若し其れが出来なかつた其時には、自分の生命は勿論妻子の命までも差上げて苦しくありません、私は斯の如く命を懸けて政治をする覚悟であります、就てはどうか此志を殊勝と思
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召されて、私の力の不足な所を御加護下さるやうにとの誓文である、是れ等の事は実に命懸けの決心である、一体人は心に深く銘記した事はなかなか忘れないもので、時により折にふれ、鮮ざやかに之れを想ひ起すことが出来るものである、私は若い時に欧羅巴へ行つた、其の行く時は維新前の事で、時の将軍は徳川慶喜公でありましたが、久しく西欧を旅行して帰国した時には幕府は既に倒れて慶喜公は将軍を罷め、 明治大帝御親政の御代となり、慶喜公は静岡の宝台院に謹慎されてゐたのでした、私は帰朝後其処へ御訪ね申上げて、公に御目にかかつたのは夕方の事であつたが、一室の中で私が待つて居ますと、私の後の襖が開いて手に行灯を提げて入つて来た人があつた、私はお茶坊主などであらうと思つて、不図其人を見ると、案に相違して其れは慶喜公御自身であつたので私は非常に驚き、且つ一種の感慨に深く打たれたことであつた、此の時の有様は実に私の心の奥に深く深く感銘されて、今でも時々当時の模様がありありと思ひ出されるのである
 斯くの如く一旦感銘したことは何時でも想ひ出されるものである、故に何事を為すにも深く心に感銘するやうに、命懸けで万づの事に当たらなければならないのである、先頃も伊太利のムツソリニーから日本の青年男女に宛てゝ、日出る国の青少年諸君よ、益々健在に発達し光輝ある国体を弥やが上にも発揮せられ、世界人道の上に貢献されたき旨の『メツセージ』が来たが、実に青少年は将来の国家を維持発展させる所の重大なる任務を持つ人々で、国の宝である、故に青少年たる皆んなは、真に一生懸命に心を打込んで万事をやらなくてはならぬ
いろいろのことを話したやうであるが、畢竟人間が偉らくなるか、ならないかといふことは、其精神の集中如何によるものである、皆んなも精神を打込で万事に当たるといふことが、偉らくなる第一歩であることを忘れてはならぬ


東京市養育院月報 第三〇〇号・第二五頁 大正一五年七月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0054)
第30巻 p.36 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇〇号・第二五頁 大正一五年七月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は七月十三日午前十時半本院へ登庁、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同十一時巣鴨分院に向はれ、正午同分院を退庁せられたり


東京市養育院月報 第三〇二号・第一〇頁 大正一五年九月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0055)
第30巻 p.36 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇二号・第一〇頁 大正一五年九月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は九月十三日午前十時本院へ登庁、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、同十一時巣鴨分院に向はれ、正午同分院を退庁せられたり


東京市養育院月報 第三〇三号・第一三頁 大正一五年一〇月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0056)
第30巻 p.36 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇三号・第一三頁 大正一五年一〇月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は十月十三日午前十時本院へ登庁、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、同十一時過ぎ同幹事と共に巣鴨分院に向はれ、正午同分院を退庁せられたり


東京市養育院月報 第三〇四号・第一〇頁 大正一五年一一月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0057)
第30巻 p.36-37 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇四号・第一〇頁 大正一五年一一月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は十一月十三日午後一時半本院へ登庁、
 - 第30巻 p.37 -ページ画像 
常穀委員会に列席の上、同三時過ぎ委員並に田中幹事と共に巣鴨分院に向ひ、同分院改築工事現場視察の後、退庁せられたり


渋沢栄一 日記 昭和二年(DK300001k-0058)
第30巻 p.37 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 快晴 寒威昨日ト同シ
○上略
養育院巣鴨分院主任小長谷氏来ル、今日例日ナルモ余ノ巡回シ得サルヲ以テナリ、依テ現状ヲ聴取シ種々ノ注意ヲ為ス、本院田中氏モ微恙平臥ノ由ニ付伝言セシム
○下略


竜門雑誌 第四六二号・第六九頁 昭和二年三月 青淵先生動静大要(DK300001k-0059)
第30巻 p.37 ページ画像

竜門雑誌  第四六二号・第六九頁 昭和二年三月
    青淵先生動静大要
      二月中
十三日 東京市養育院ヘ出向。 ○下略


東京市養育院月報 第三〇八号・第一〇頁 昭和二年三月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0060)
第30巻 p.37 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇八号・第一〇頁 昭和二年三月
○渋沢院長の登庁 三月十三日は近年稀れなる大雪なりしにも拘はらず、渋沢院長に於ては例に依り同日午前十時半本院へ登庁、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、同十一時半幹事と共に巣鴨分院に向はれ、正午過ぎ同分院を退庁せられたり


東京市養育院月報 第三〇九号・第九頁 昭和二年四月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0061)
第30巻 p.37 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇九号・第九頁 昭和二年四月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長には定例出勤日なる四月十三日午前九時半本院に登庁、田中幹事より諸般事務報告を聴取し、別項記載の如く看護学並産婆学講習卒業証書授与式に列席、一場の訓示を与へられ、終て田中幹事と共に巣鴨分院に向ひ、同分院に於て収容児童に訓話を試み、同幹事の案内にて改築竣成の寮舎其他を一巡の上、正午過ぎ退庁せられたり


東京市養育院月報 第三一一号・第三―五頁 昭和二年六月 児童に対する訓話(昭和二年四月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0062)
第30巻 p.37-39 ページ画像

東京市養育院月報  第三一一号・第三―五頁 昭和二年六月
    ○児童に対する訓話(昭和二年四月十三日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 久振りで皆さんと会するの機会を得ました、之れは私が来る事が出来なかつたのでもなく、皆さんに会ひたくなかつたわけでもありません、御承知の通り昨年の秋から此の分院を改築して居たから、皆さんを一堂に集めて御話をする場所がなかつた為めである、皆さんの見らるゝ通り、此の分院は今や立派なものになりました、此の立派な寮舎に入る皆さんの心得方は、唯今幹事さんから詳しく皆さんに言ひ聞けた通りであります
 各々方が此の分院に入つて来た事は、幸福であると云ふ訳には行かないが、或点から考へて見れば幸福と云ふことも出来やう、総て人の成功は氏や素性によるものではない、私一個の立場から申すと、私は元来田舎の百姓の息子であつて、世間に広く知られて居る氏素性の者
 - 第30巻 p.38 -ページ画像 
ではなかつたが、勉強もし努力もして、今日の身となつた次第である
 私の今日あるは全く氏素性に依るものでなく、勉強努力の結果なのである、即ち私は氏や素性に依らずして、相当の地位に到達したる最も手近い実例である、関白や大名の氏素性がなくとも、総ての仕事に勉強すれば成功することは明かである、此点から考へて見ると、皆さんの現在は将来成功の余地が沢山あるので、不幸な身柄と云ふよりも幸福な位置にあるものと云つて差支へない
 又た社会に立つて行くのには、立派な者、傑出した者となる前に、先づ完全なる人格とならなければいけない、完全なる人となるには、智識を増すことが大切である、学校は智識を授ける所である、其の智識は社会に出てから有用なる智識でなくてはならぬ、即ち鼻先きの智識でなく、実用智識を取込む様に励まなければならない
 私が養育院に関係してゐることは今年で五十四年になりますが、最初の間は皆んなの如き児童に対する興味は左程でもなかつたが、現在に於ては皆んなに対して非常に深い興味を持つやうになつて来て、一日として各々方のことを思はぬことはない、此の様に分院の建物が立派に出来たのも、結局私や幹事さんが皆んなの為めを思つてしたことである、又た其れと同時に社会の進歩と云ふものが、斯くの如くなさしめたのである
 重ねて申すが人は氏や素性よりも、人格と智識があり、其上正直に働きさへすれば幸福になるのである、諸君は智識を得ると同時に、手に職を覚えることが目前の急務である、人として第一に大切なのは真心である、即ち嘘言を云はない事である、私が子供時代によく親から受けた教へは、嘘言をつくなと云ふことであつた、其の事を私は決して忘れないで今も尚ほ守つて居るのである、次に大切なのは何事にも精神を打ちこむと云ふこと、即ち精神集中が大切である、精神集中がよく行はれた時、始めて其の仕事に対しての深い智識が得られるのである、即ち物事に精神を集中すると、何か事をしたいと云ふ慾が出て来る、其れが即ち勉強になるのである、又次に辛抱すること、即ち忍耐が大切である、忍耐さへあれば不如意の場合に立つても其れを押のけて行くことが出来、遂には其の仕事が却つて進んで行くものである此事は男子のみでなく、女子もよく心得て呉れなければならない、日本の現在に於て婦人の教育は、昔からの影響を受けて、まだ幾分男子と比べて程度が低いが、何時迄も此のまゝで居るわけには行かない、将来の人間の人格養成は婦人の力に依る事が多大である、私の関係して居る所でも目白に女子大学校があるが、まだまだ日本として婦人の教育を為す場所は、此外にも設ける必要があると思ふ
 今度此の巣鴨分院がこんなに立派になつたのは、前にも云ふ通り、私も丹精をこらしたが、幹事さんが大変に心配をされたのである、幹事さんが先程皆さんに、此の分院を自分達の家と思つて大切にすることが必要だと申されましたが誠に其通りで、国も家と同じで、此の日本の国を自分のものと思つて、皆銘々に国を大切にすれば、国は益々盛んになる、皆んなは自分の家を大切にすると同様に、国を大切にする良い人達とならなくてはならぬ
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 今迄云つた事を一言に約めて云ふと、人の成功は、氏や素性によるものではなく、真心を持ち、総ての物事に対して精神集中をなし、一心に勉強し、辛抱強くすることである、尚ほ其上に親切であり正直であれば、人として完全な者となることが出来るのである


東京市養育院月報 第三一一号・第一一頁 昭和二年六月 渋沢院長の動静(DK300001k-0063)
第30巻 p.39 ページ画像

東京市養育院月報  第三一一号・第一一頁 昭和二年六月
○渋沢院長の動静 渋沢院長には六月十三日午前十時半本院へ登庁、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、同十一時半同幹事と共に巣鴨分院に向はれ、同分院に於て収容児童に一場の訓示を与へられたり ○下略


東京市養育院月報 第三一四号・第五―七頁 昭和二年九月 人各々其本分を尽せ(昭和二年六月十三日巣鴨分院に於ける訓話)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0064)
第30巻 p.39-40 ページ画像

東京市養育院月報  第三一四号・第五―七頁 昭和二年九月
    ○人各々其本分を尽せ(昭和二年六月十三日巣鴨分院に於ける訓話)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 久々で皆なに会つてうれしく思ひます、当分院の改築も落成して相当立派なものになりました、唯今幹事さんが申した様に、五月の養育院月報に十二歳の子供で、院長をひきあてに書いた作文があつた、其の中に此分院が綺麗になつたのは、院長さんの御蔭だといつてありましたが、私よりも幹事さんや其の他の職員に御礼を申さなくてはなりません、皆なが此分院で安穏に生活が出来、無事に学業に励むことの出来るのは、此上もない喜ばしい事である
 皆なは今目のあたりに親兄弟がないと云つて心配をするには及ばない、憚りながら此渋沢を親と思つて、一心に学業を励み立派な人となり、世の中に出て働ける人となつて貰ひたい、私のみならず、幹事さんを始め、其他の先生方や保姆さん達を親とも、師匠とも、又兄姉とも思つて頼りにして行くことが、何よりであります
 此中で大きい児達は相応に自分の理想を持つて居る事と思ふ、理想は人各々其境遇によつて違ふものであるが、要するに理想とは将来に望みを以て、其れに向つて到達するやうに努めて行くことである
 私は十六歳の時に初めて理想を起した、其れは私が小供上りの年齢の頃、土地を支配する御代官様の所へ、村の用事で行つた時の事である、其の時代は徳川幕府の末期で、士農工商と云ひ、武士の威勢は大したもので、町人百姓を軽蔑し、甚しきは町人百姓をば人間と思つて居ないやうな時であつた、私も其の時非常に軽蔑され、残念でたまらなかつたから、家に帰る道すがら自分の勉強した知識から考へて見ると、ドウも代官の言ふ事は筋が間違つて居ると思つた、之れは百姓達に知識がないから斯う云ふ目に遇ふのである、自分は百姓を止めて武士にならうと斯う考へて父親に相談をすると、父に叱かられると云ふよりも訓戒されたので、其の時は其儘になつて仕舞つた、それから私が丁度十五歳になつた時の事であるが、米国からペルリが来て開港通商を我国に迫つた、此時は時勢も以前とは大層変化を来たし、日本将来の運命もドウなることやらと思はれる時であつたから、男子一身を擲つて国に報ずるの秋は今なりと決心し、思ひ切つて家を飛出して江戸に出た、此時の私の理想は外国に対して我国をば対等にまで進めな
 - 第30巻 p.40 -ページ画像 
くてはならぬと云ふ考へであつた
 人には夫れ夫れ本分がある、其の本分を出来る丈け充分に尽して、国の為めに働かなくてはならぬ、理想を築き上げる根抵は至誠である又如何に至誠があつても夫れで完全とは云へぬ、尚ほ其の上に智を研くことが必要である、智を研くには書物を読むより他にない、楽翁公の言葉にも読書は智の初めなりと云つてあります、偖て智を研くには勉強心が必要である、勉強心と同時に忍耐力即ち辛抱することが必要である、理想に近づくには、なかなか容易な事では近づく事が出来ない、困難に堪へ得る辛抱が必要なのである、それ以上は天命を待つより外はない、即ち『人事を尽して天命を待つ』の諺の如くである、楽翁公は十二歳で書物を著はされたと云ふが、諸君はそれ程エラクはないかも知れないが、一人前の人間となつて、国の為めに有益な働きを為すと云ふことは出来ない筈はない、若し其れが出来なければ、生甲斐のある人間とは云はれないのである
 幸に改築も成り、皆なも機嫌よく丈夫で勉強をして居るのを見て、私は深く之れを喜ぶと共に、分院の職員諸君にも、此等児童薫育の為め尚ほ一層の奮励を御願ひ致すのであります


東京市養育院月報 第三一二号・第一六頁 昭和二年七月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0065)
第30巻 p.40 ページ画像

東京市養育院月報  第三一二号・第一六頁 昭和二年七月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長には七月十三日午前九時本院へ登庁、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、同十時巣鴨分院に向はれ、同分院収容児童に対し一場の訓話を与へ、終つて十時半退庁せられたり


東京市養育院月報 第三一三号・第二七頁 昭和二年八月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0066)
第30巻 p.40 ページ画像

東京市養育院月報  第三一三号・第二七頁 昭和二年八月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長には八月十三日午前九時四十分本院へ登庁、田中幹事より諸般事務に関する報告を聴取の上、同十時十分田中幹事と共に巣鴨分院に向はれ、同分院収容児童に対し幹事と共に一場の訓話を与へ、終つて同十一時三十分退庁せられたり


東京市養育院月報 第三一五号・第一二頁 昭和二年一〇月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0067)
第30巻 p.40 ページ画像

東京市養育院月報  第三一五号・第一二頁 昭和二年一〇月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長には十月十三日午前十時三十分本院へ登庁、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同十一時巣鴨分院に向はれ、同分院に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、正午過ぎ退庁せられたり


竜門雑誌 第四七一号・第九五頁 昭和二年一二月 青淵先生動静大要(DK300001k-0068)
第30巻 p.40 ページ画像

竜門雑誌  第四七一号・第九五頁 昭和二年一二月
    青淵先生動静大要
      十一月中
十三日 東京市養育院へ出向


東京市養育院月報 第三一七号・第一―三頁 昭和二年一二月 時を大切にせよ(昭和二年十一月十三日巣鴨分院訓話)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0069)
第30巻 p.40-42 ページ画像

東京市養育院月報  第三一七号・第一―三頁 昭和二年一二月
    ○時を大切にせよ(昭和二年十一月十三日巣鴨分院訓話)
                  (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 - 第30巻 p.41 -ページ画像 
 今日は日曜日であるが、例日の十三日でありますから、今朝は板橋の本院へ出勤して、田中幹事から諸般事務の報告を聞いたり、又た仕事の上の相談をしたりして、夫れから今ま此分院へ来たのである、然かし今日はお休みであるから、皆さんの時間を長くつぶして御話をするのは御気の毒だから、簡短に『時間を大切にせよ』と云ふことに就いて、一言お話をすることにいたします
 言ふ迄もなく、人間は毎年一つ宛つ年を取る、さうして私は皆さんの知つて居る通り最早や老人である、そこで私が取る一ツの年と、皆さんの取る一ツの年とは、取る割合が非常に違ふ、皆さんの年齢は平均十歳前後であらうと思ふから、其の取る年は皆さんの年齢の十分の一位に相当する、然かし私は間もなく九十歳に達する老人であるから私の取る一つの年は僅かに約九十分の一にしか当らないのである、即ち割合にして見ると、皆さんの方が私より九倍も多く年を取る訳になります、故に若し私と皆さんとが一時間づゝ勉強したとすれば、皆さんは私の九倍だけ勉強したことになるが、若し之れに反して君達が一時間惰けたとすれば、夫れは私の九倍だけ長い時間を空費したことになるのである、若い人の時間と云ふものは斯程までに大事なものであるから、時間を有益に用ふると、徒らに費すとは、皆さんの将来に取つて非常なる影響を及ぼすものである、よく世間の人は『若い時は二度とない』と云つて、無益な遊び事に耽ける口実として居るやうであるが、私に云はせれば『若い時は二度とない』から、一生懸命に其貴とい時間を、有益に用ひなければならぬと云ふことになる、古語にも『歳月如流』と云ひ、或は『歳月不待人』と教へてあるが、実に歳月即ち時間と云ふものは、真に惜しむべきものである、又た陶侃伝には『大禹聖者乃惜寸陰于、至衆人当分陰』とも教へてあり、尚ほ其の他にも時を惜まなければならぬといふ教へは沢山にあります
 今年も余す所が来月だけとなつて、誠に残り少くなでありますが、勉め励むと云ふことは決して油断をしてはならないのである、寸陰を惜み分陰を惜むで勉め励むことによつて、そこに進歩も出来、発展も現はれるのであります、故に皆さんは出来得る丈け勉強して智恵を増す様に力めて行けば、そこに進歩発展が得られるのである、此の巣鴨分院も昨年までは今の様に住み心地のよい感じのする場所ではなかつたが、所謂『居は気を移す』と云ふこともあるから、ドウか院児たち即ち皆さんの為めに、之れを住み心地のよい清洒なる衛生的な建物に全部作り替へたいと田中幹事が切りに心配して、終に三十万円足らずの費用を工面して、私に改築の許可を求めて来た、そこで私は大に喜んで許可を与へ、其結果終に今ま見る如き立派な心地よき沢山の寮舎が出来上がつたのである、さうして聞く所によれば、此新築寮舎に移つて以来、諸君の健康も気分も大さう改善されたと云ふことで、私は其事を深く満足に思つて居るのである、就ては勉強のことも今後は一層に心を入れて、時間を空費せざるやう精々努力奮励しなければなりません
 先日も東京『ロータリー』倶楽部の御好意で、当分院の児童一同は井之頭の生徒と一緒に多摩川遊園に招待されて愉快な一日を過ごした
 - 第30巻 p.42 -ページ画像 
と同時に、智識を広くする機会にも出会つたと云ふことである、かくの如く人は一歩々々智識を増して行くことが必要であります、一人一人の智識が進歩すれば、やがて国家の進歩となり、国家隆盛の基となるのであるから、小供と雖ども是等のことには能く心を留めなければならないのである
 又た悪るい事と云ふものは、初めは至つて小さな事でも、不知不識の間に根を張り枝を張つて、何時の間にか大きな悪事に到り易いものであるが、善事の方は中々そんなに簡単な進み方をするものではない善の進歩には実に非常なる努力と非常なる忍耐とが是非必要なのであります、此の意味と同様に、不注意の為めに月日を徒費して、一生涯取返しのつかない様な損害を受けるのは誠に容易すいのであるが、之れに反して月日を徒費しない様に、有益に時間を利用すると云ふことは大変な努力と大変な忍耐とが必要である、皆さんは決してうかうかして居てはならないのであります
 今日はこれでおしまひにいたしますが、残る一箇月をよく気を付けて暮す様にして下さい、来月は何にか面白い話をして上げたいと思ひます、此の前の日曜日(六日)には私は井之頭学校の運動会に行きましたが、生徒一同は中々元気で、規律があつて愉快でありました、これから皆さんも行つて見るやうにしたらば必らず得る所があるだらうと思ふ、又た話が後とに戻るやうであるが、私が此処に来てお話をするのも、つまり寸陰を惜むで、一刻の時をも無駄にしたくないからであります、今日は日曜日で皆さんの大切なお休み日で、其時間をつぶして長く話をして気の毒であつたが、年寄の話を聞いて置くのは皆さんの将来にとつて、頗ぶる為めになる事であると思ひます、今から充分寸陰を惜むでお遊びなさい、遊ぶのに時を惜むといふことは変な様に聞こへるが、つまり心を打込むで遊ぶ事です、ぼんやりと時を過ごさないと云ふ事であります、呉れ呉れも申すが、歳月は流るゝ水に似て、人を待たないものであるから、寸陰否な陰分をも惜むで勉強をして貰ひたいものであります


東京市養育院月報 第三一七号・第九頁 昭和二年一二月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0070)
第30巻 p.42 ページ画像

東京市養育院月報  第三一七号・第九頁 昭和二年一二月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長には十二月十三日午前十一時本院へ登庁田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同幹事の案内にて、本院普通収容室・離隔室・日光浴室・看護婦寄宿舎、其他の増改築工事の現況を視察せられ、同十一時三十分同幹事と共に巣鴨分院に向はれ、同分院収容児童一同に対し一場の訓話を試み、午後零時三十分退庁せられたり


渋沢栄一 日記 昭和三年(DK300001k-0071)
第30巻 p.42-43 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒気強カラス
○上略 午前十一時東京市養育院ニ抵リ、田中幹事及他ノ諸氏ト院務ヲ談ス、蓋シ定例ノ巡視日ナルヲ以テナリ、板橋本院一覧ノ後、巣鴨分院ヲモ巡視シ、院内巡見ノ上、児童ヲ集メテ一場ノ訓示ヲ為ス ○下略
   ○中略。
 - 第30巻 p.43 -ページ画像 
二月十三日 晴 寒気強カラス
○上略
本日ハ養育院巡回ノ定日ナルモ病ノ為果シ得サルニ付、田中氏ヘハ電話シ、分院ヨリハ小長屋氏《(小長谷氏)》ヲ招キ、児童ヘノ菓子料ヲ交付シ、伝言ヲ托ス
○下略


東京市養育院月報 第三一八号・第九頁 昭和三年一月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0072)
第30巻 p.43 ページ画像

東京市養育院月報  第三一八号・第九頁 昭和三年一月
○渋沢院長の登庁 本年八十九歳の高齢に達せられたる渋沢院長には昨今の厳寒にも極めて元気にて、定例出勤日なる一月十三日には午前十一時本院へ登庁、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同十一時四十分巣鴨分院に向はれ、同分院収容児童一同に対し一場の訓話を試み、午後零時半退庁せられたり


東京市養育院月報 第三一八号・第一―三頁 昭和三年一月 年頭訓言(昭和三年一月十三日巣鴨文院訓話)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0073)
第30巻 p.43-44 ページ画像

東京市養育院月報  第三一八号・第一―三頁 昭和三年一月
    ○年頭訓言(昭和三年一月十三日巣鴨文院訓話)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 昭和三年のお正月を無事に迎へて、此処で皆さんに会つて年頭の御話をすることが出来るのは誠に喜ばしい事であります、今朝は先づ本院へ行つて田中幹事及び其他の職員に会つて、院の仕事に就て種々相談などをして其れから此分院へ来たのであるが、来て見ると皆んな丈夫さうな元気な顔をして居るので、私は非常に嬉しく感じたのであります、さうして私も此通り丈夫であるから、皆んなも亦た私の為めに大に喜こんで呉れたことゝ思ふ
 偖てお正月を迎へて私も年を一つ取つて、今年は八十九歳となりました、幸にして来年もお正月を迎へて此処に来ることが出来れば、九十歳となつて皆さんに会ふことになるのである、又た先達つて中から度々申したことのやうであるが、私が本年八十九歳となつたのは八十八分の一の年を取つて八十九となつたのであるが、皆さんが此お正月を迎へて一つゞゝ年を取つたのは決して八十八分の一などゝ云ふ低い率の年を迎へたのではなく、極はめて高い率の年を取つたのである、今年八歳になつた児は七分の一の年を取り、十一歳になつた児は十分の一の年を加へ、十六歳になつた児は十五分の一の年を迎へたと云ふやうに、甚だ割合の強よい、即ち率の高い年を加へたのである、故に皆んなが此お正月に取つた一歳と云ふ年は、私の様な老人の取つた一歳よりも遥かに価値の多い、大切な年であると云はなければならぬ、私は此様に年老いても尚ほ一生懸命に総てのことに就て出来得る限り勉強をして居るのであるから、皆さんのやうに年若く前途有為なる人人は決して月日を無為に送らず、私よりも一層真剣の勉強をして、以て自己の修養と向上とに努めなければなりません、此事は決して一刻も忘れてはならない
 今年はお正月になつてから引続いてお天気もよく、極く穏かな日ばかりであつた、之れは真に目出度いことでありますが、偖て昨年即ち昭和二年を思ひ返して見ると、皆さんには分かりにくいことかも知れ
 - 第30巻 p.44 -ページ画像 
ないが、経済界に大きな動揺があつて、不景気を極はめた年であつた然かし斯様なことは精しく言つても皆さんに解からないから、先づ大概にして置いて、一体人は誰でも今の社会がどんな風であるかと云ふことを知つて、さうして此社会に自分はどんな風に働いて行かねばならぬかを考へて行かなければなりません、皆さんは其社会に出て働く為めに今勉強してゐるのである、然かし如何に働かうとしても、畢竟人は身体が丈夫でなければ役に立たない、身体を健康にするには日常の起居を規則正しくし、飲食物にも注意し、運動を適度にすることが必要であります、之れと同時に精神も健全にして行くことが必要である、即ち毎日の仕事は秩序をたてゝ其日其日に処理して行き、斯くして常に明かるい気分で心を生き生きと保つと云ふことは、老も若きも男も女も、皆一様に必要なことであります、此の様な心懸けで日々を送り、時間を空費せず、為す所の一事一物に能く精神を集注して働くと云ふ習慣を付けなければなりません、又た仕事や学問を為すに当つては、仕事や学問に追ひ掛けられ追ひ廻はされると云ふことではいけない、須らく仕事なり学問なりを追ひ掛け追ひ廻はすと云ふ程度に努めなければならない、追ひ掛け追ひ廻はされて苦闘すると云ふことでは、常に気が餒へるのであるが、追ひ掛け追ひ廻はすと云ふ程度になると、自然心に余裕が出来、気に勇みが付くものである、さうして之れは実に成功の第一歩である、而して斯かることも時間を空費せず、寸陰分陰を惜むで勉強をすると云ふ習慣のある人には決して六ケしいことではなく、言はゞ皆んなの心掛け一つで其域に達することが出来るのである、げに歳月には関守なしである、皆さんは決して油断をしてはならない、昔から天物を暴殄すれば罰即ち応報が来ると云ふことを言ひ伝へて居る、即ち物を粗末に費やせば、罰が当たると云ふことである、時の如き貴とい天物を若し我々が暴殄するならば、其応報は必ず我々の上に廻ぐつて来るのであつて、其時は泣いても笑つても既に追ひ付かないのであります、皆さんは是等の道理を能く理解して、他日の悔をのこさぬやうにして貰ひたい
 国家は個人が集合して出来て居るものである、其れ故に個人が光陰を空費せざるやうに心掛けて働けば、延いては国家全体が光陰を無駄にしないことゝなり、其の結果国は益々発展することになつて、国全体が明るい生き生きした国民で満たされる様になつて、真に文明の恩恵を受けることになるのであります、皆さんは未だ年少なる身の上ではあるが、矢張り銘々此日本と云ふ国家を組織する一分子である、故に若し此の愛すべき祖国を隆盛ならしめやうとするならば、皆さん自身が先づ此の新らしい昭和三年を、完全に明かるい生き生きとした年として過ごす様に心掛けなければならないのであります


東京市養育院月報 第三二〇号・第一八頁 昭和三年三月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0074)
第30巻 p.44-45 ページ画像

東京市養育院月報  第三二〇号・第一八頁 昭和三年三月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長には定例出勤日たる三月十三日午後二時本院へ登庁、田中幹事市会予算委員会へ説明の為め出席不在中に付、小木経理課長より諸般事務の報告を聴取の上、同二時四十分巣鴨分院へ向はれ、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、午後
 - 第30巻 p.45 -ページ画像 
三時半退庁せられたり


東京市養育院月報 第三二一号・第一―二頁 昭和三年四月 児童への訓話(昭和三年三月十三日於巣鴨分院)児童への訓話(昭和三年三月十三日於巣鴨分院)(DK300001k-0075)
第30巻 p.45-46 ページ画像

東京市養育院月報  第三二一号・第一―二頁 昭和三年四月
    ○児童への訓話(昭和三年三月十三日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 毎月此処に来て、皆さんと会つて私の顔を皆さんに見せたり、皆さんの顔を私が見たりして話をすることは、私にとつて此の上もない楽しみであります、然しそれは唯だ私ばかりの楽しみでなく、皆さんも共に楽みとして貰ひたいのである
 私は何時来ても皆さんに大して変つたお話しは致しませんが、人間は毎日々々同じ様な事を繰返して居ながら、日を逐ふ間に知らず識らず進歩するものである、誰れでも毎朝起きれば顔を洗ふことを繰返し又毎日の食事も同じことを繰返して居ますが、生きて居る以上はもうこれだけで沢山だから止めてもよいと云ふ時はありません、此の意味で私も皆さんに毎月同じ様なことでも何か話をすることに極めて居ります
 大学といふ書物の中に『湯之盤銘曰 荀日新、日日新又日新』と云ふ事が述べてあります、即ち此の日日に新にして又日に新なりと云ふことは、毎日々々物事は日を逐うて進歩するが、猶其の上にも進歩する様に努めなければならぬと云ふことを申したのであります
 私は今も主務の小長谷さんの話を聞いたのであるが、皆さんが新築の寮舎に入つてから、風邪にかゝるものが大変少なくなつて、近頃世間には悪性の感冒が流行してゐるが、幸にも此の分院には絶無と云つてよい位だと云ふ事を聞いて、真実に喜ばしく思ひました、之れは皆さんの摂生にもよるのであらうが、如何に注意しても摂生しても尚ほ感冒にかゝる場合があるのでありますから、之れは日当りのよいやうに、且つ総べて衛生的に建てられた新寮舎の御かげであると云つてもよいかと思ひます、然し世間では風邪が大層流行して居るやうだから皆さん自身も能く注意をして貰ひたいものである
 畏れ多い事ではありますが、上皇室におかせられても、此の風邪が因で御不幸がおありになつたと承ります、然るに此の分院では風邪引きのないと云ふ事は真に喜ばしい事であるが、尚ほ今後十分に銘々が注意して、之れにかゝらぬ様にせねばなりません
 人が世にたつて行くには、いつも気分良く、快闊で愉快な心持で日を送らなくてはなりません、徒らに煩悶や憂鬱な気分になつてはなりません、即ちつまらない事をくよくよと考へたり、なやみ惑ふ事をつとめて取り去る事が大切です、例を以て云ふならば、身分不相応な望みを起し、自分に出来さうでもない大金持になつてやらうといふ様な考へを出して、其の事の成就せぬ為めに悶える様な愚しい事を止めよといふのであります、即ち云ひ換へて見れば、理想をはづれた夢の様な空想を持つなと云ふ事です、又如何に快闊がよいと申せ、軽はずみな調子になつてはいけません、兎角快闊が通り過ぎると粗暴になり、思慮を深くし過ごすと煩悶に陥り易いのであります、此のことは老いも若きも常に心すべき事であります、少し難かしい事ではあるが、中
 - 第30巻 p.46 -ページ画像 
庸を採る様に努めなければなりません、夫れには先生方の教へを克く守り、又世話をして下さる人達の命を従順に守ることであります
 今月は特別にこれと云つて皆さんにお話することがありませんでしたが、来る五月十三日は楽翁公のなくなられてから丁度百年目の命日で、此処でお祀りを致す筈でありますから、其の日には私は皆さんに楽翁公の子供時代から修養に力められたことや、天稟即ち生れつき偉い方であつた事を、解り易く話をする積りで調べて居ります
 今日のお話はこれだけですが、皆さんは自分の身体に注意して、今度私が来る時には今よりも一層生々とした健康な顔を見せて貰らひたい、又職員の方にはよく面倒を見てやつて下さることをお願ひして置きます


東京市養育院月報 第三二五号・第九頁 昭和三年八月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0076)
第30巻 p.46 ページ画像

東京市養育院月報  第三二五号・第九頁 昭和三年八月
○渋沢院長の登庁 去る四月下旬より病気の為め引籠り療養中なりし渋沢院長は、此程漸やく本復せられ、八月十二日午前八時半本院へ登庁、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同九時半幹事と共に巣鴨分院に向はれ、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話を試み午前十一時退庁せられたり


東京市養育院月報 第三二五号・第一―三頁 昭和三年八月 児童への訓話 (昭和三年八月十二日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0077)
第30巻 p.46-48 ページ画像

東京市養育院月報  第三二五号・第一―三頁 昭和三年八月
    ○児童への訓話 (昭和三年八月十二日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 久々で此の壇に上つて、皆さんと一堂の中に会見して緩る緩る話をする事は皆さんも嬉しく思つて呉れるでありませうが、私も嬉しいのであります、皆さんと私との間の喜びの交換がこんな風にして何時までも続いて欲しいものであります、今幹事さんから話された通り、私は静養の為め明日から上州伊香保に行くことになつたので、例月の十三日よりは一日早く然かも日曜日ではあるが特に参つたのであります
 私の病気は去る四月二十日に、平素私が世話をして居る目白の女子大学校に 皇后陛下の行啓がありましたので私も参りまして、其日は非常に寒い雨天の日であつたので、其為かどうか知りませんが、翌二十一日から軽い感冒に罹かつて病床に就き、夫れは直ぐに快くなりましたが、何しろ老体である身に風邪を引いたものですから他の病気を併発して、其後九十日程も寝てしまつたのであります、私の病気を皆さんが心配して居て呉れたことは月報で度々見てゐましたが、自身としても老人で三箇月にも亘たる長い間の病気であつたから心配もしましたが、幸に全快して本日斯く皆さんに会ふことが出来る様になつたのは、自分としても誠に喜ばしく思ふのであります、而して今後とも私は此老躯を大切にして行くつもりでありますから、是れからも皆さんと屡々会見することが出来ると思ひます
 私が此の養育院に関係する様になつてから最早や五十五・六年にもなりますから、昔の院児は既に立派な人になつて居り、中には老人になつて居るものもあるが、其人達を今見てもやはり昔の子供のやうな感じが致します、夫れも親身の子供の様な感じがするのです、そこで
 - 第30巻 p.47 -ページ画像 
皆さんの現在の境遇は決して不幸ではないといふことを此間井之頭学校の卒業式へ臨まれた東京市の助役小野義一さんが、同校の生徒達に話された訓辞中に述べられたことを月報で見ましたが、現在の幸不幸が必ずしも将来にまで永続するものではありません、世間を見ても子供時代に何不足なく幸福であつた者で、大人になつてから不幸に泣くものが仲々多いやうであり、又成功した者や老後幸福と云はれる人々の前半生を見ると、大抵幼時不幸に泣き困苦と闘ひ、努力奮励、然かも平素勉強を怠らざりし人々に多い様であります、度々申すことですが、私は埼玉県大里郡八基村、昔は榛沢郡血洗島と云つたが、其所の百姓の子に生まれ、父の手助けをしながら勉強をして現在の地位にまでなり、今日では重大なる事ある毎に引出される身となりましたが、これは決して自慢話ではなく、私の衷心名誉と心得て居るところです私が其の血洗島に居て栄二郎と云ふた頃慥かに六歳の時でした、父から書物を読むことを教はり、七・八歳の時には隣村の先生の処へ毎日通つて二時間程勉強しましたが、其の勉強も今日皆さんが学校で学ぶやうに規則正しく丁寧なものでなく、唯だむやみに読むで覚えると云ふ風でしたが、十二・三歳の頃から書物を読むのが面白くなつて色々な書物を読みました、十四・五歳の時には家が百姓であつたので、昔は十五歳といへば一人前と云はれたものですから百姓の仕事もしました、然し当時は町人百姓が学問するといふは贅沢事の様に考へられて居つたのですが、実は私は百姓よりも勉強がすきでありました、夫れが現在に到らしめた基となつたのであります
 只今も自動車の中で幹事さんと話したのですが、幹事さんも日曜を只だ訳けもなく遊ぶよりも、勉強か仕事をする方が楽しみであつたと申して居られました、私も小供時代には唯だ人に後れたくないといふ単純な考へからして学問をしたのが段々人に認められたのです、二十五・六歳の時に境遇上に大なる変化を来たしたのですが、夫れは別として、兎に角今に到つたのは全く勉強の賜と云ふより他はないのであります
 徳川家康の処世訓に『人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如しいそぐべからず、不自由を常と思へば不足なし、心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし、堪忍は無事長久の基、怒は敵と思へ、勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る、己を責めて人を責むるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』と短い中にも親切に云ふて居ります、之は論語の泰伯篇第八に曾子の言として『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎』と云ふのと意味がよく似てゐるのです、又先進篇第十一に『子貢問、師与商也孰賢、子曰、師也過商也不及、曰、然則師愈与、子曰、過猶不及』とあり、孔子は過ぎたるは猶及ばざるが如しと云はれたが、家康は及ばざるは過ぎたるにまされりと教へてあります、皆さんも今のうちに本気を出して将来の成功を理想として進まなくてはなりません、史記陳渉世家に『壮士不死即已、死即挙大名耳、王侯将相寧有種乎』と云ふて、偉らくなるのも決して氏素性に依るものでないと教へてゐます、百里の道も一歩よりで、少しづゝの学問でも
 - 第30巻 p.48 -ページ画像 
不断の努力を以てすると、終には成功の鍵を握ることになります、次に人は快活と従順といふ二つの道をよく調和して進まねばなりません兎角快活と云ふと乱暴になり勝ちであり、乱暴にならない快活さを持つことは中々難かしいものであり、又従順はともすれば卑屈になり勝ちである、常に注意して此の二者を調和して社会に立つて行く事を心掛けなくてはなりません
 今日は休日でありますが、さき程申した如く明日より伊香保に参るので本日来ましたが、来月は丈夫な身体となつて、何か皆さんの為になる問題を持つて来て話をしたいと思ひます


東京市養育院月報 第三二八号・第九頁 昭和三年一一月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0078)
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東京市養育院月報  第三二八号・第九頁 昭和三年一一月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は十一月十三日午前十時二十分本院へ登庁、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同十一時巣鴨分院へ向はれ、同分院に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、正午退庁せられたり


東京市養育院月報 第三二八号・第一―三頁 昭和三年一一月 御即位の大礼奉祝と世界平和(昭和三年十一月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0079)
第30巻 p.48-50 ページ画像

東京市養育院月報  第三二八号・第一―三頁 昭和三年一一月
    ○御即位の大礼奉祝と世界平和(昭和三年十一月十三日於巣鴨分院)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 此の月は御即位の大礼が行はれるお目出度い月であります、皆さんにも私にも、否な国民一般に取りて此の上もない喜ばしい月であります、先月私は少し風邪の気味で此分院へ来ることが出来なかつたが、幸にして今月は風邪も引かず、達者で此所へ来ることが出来、皆んなと会ふことが出来たのは、私の深く喜ぶところである、私のやうに老人になると、気は確かりと若者のやうに持つてゐても、身体は少しのことにも冒され易すくなつて困るものであります
 今日の私の話は幼さない小供には解りにくいかも知れないが、今月の十日即ち再昨日は京都で 天子様が御即位の大礼をお挙げになつた日であります、尤も当日は本院から田中幹事が来て皆んなに御大礼の話を聞かせ、一緒に万歳を奉唱したさうであるから、皆んなも能く分かつたことゝ思ふが、誠に此御即位の大礼と云ふことは、日本国民として真に祝賀すべきことであつて、老若男女貴賤を問はず、皆な心から寿ほぎ祝さなければならないことであると同時に、我 大君の千代八千代に栄えまさんことを心から祈らなければならないのである、実に此 聖天子御即位の大礼が滞ほりなく行はせられたと云ふことは、国家として此上もない慶事であります
 私は此御大礼に因むで、今日より二日前即ち十一日の午前十一時から凡そ三十分許り、ラヂオで私の感想を放送した、ラヂオは皆んなの中にも知つてゐる人があるでせうが、一箇所で話した話や又た音楽などが、遠い所まで聞こへる仕掛けになつてゐるものであります、さうして私は之れから十一日に自分がラヂオで放送した講演に就て、姑らく話をしたいと思ふが、皆んなには些と六ケ敷い話しかも知れないから、直ぐには解かりにくゝとも、其内に追々後から解かるやうになる時が来ると思ひますから、先づ辛抱して聞いて居て貰ひたい、偖て一
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昨日は欧洲大戦が休戦となつてから満十年であり、又御大礼のお目出度い時でもあるからして、世界の平和維持に尽くす所あらんが為め設立せられたる国際聯盟協会と云ふ会の会長として、私は放送局へ行て話をしたのでありました、今其放送した大体の主意を申せば、人間といふものは何処までも強い考へを持たなければならないが、只々強く生きんが為めに争ふことは人道上から見て決してよいことではない、人間には強い勇気が必要であるが、然かし其勇気を乱暴に働かせてはなりません、過を改め善に遷るの大切なることを昔の人が教へたが、人間には勇気と共に此美徳がなくてはならない、喧嘩と云ふことは事物を利己的にのみ考へることが其原因になるのであるからして、其利己的の考を自分から改めて行きさへすれば、仲好く生活することが出来るやうになり、即ち善に遷ることが出来るのであります、国と国との喧嘩は所謂戦争である、この戦争が時々あるものとして其結果を考へて見ると、人類は実に悲惨な有様になるものであります、之に反して平和が続く時は、文化も進歩し、人々は鼓腹撃壌其幸福を亨けることが出来るのであります、その例として我国元亀・天正の昔を想ひ起して見ると、国内には幾度かの戦ひが繰返へされ、民は一日として安堵の日を送ることが出来なかつたのである、然るに徳川氏が天下を平定して、国内始めて平和となつてから、文化も進み富も増し、民も其堵に安んずるやうになつたのである、斯くて引続きたる三百年の泰平も、其末期に於ては国歩艱難となり、政治は中庸を失し、為めに徳川幕府も今から六十年前に打ち倒れ、政権は古の通り朝廷に還へり、所謂王政復古となつたのであります、斯くて 明治大帝の御親政は始まり世は新たに移り変りて、国運は隆々と昌んになつて来たのである、然かるに大正三年の夏より世界大戦争と云はれた欧洲の大乱が起こり大正八年に其戦争が完全に終局を告げ、平和が克復してより玆に十年目の今日、永久に平和を来たさんと欲するならば、総べての人間が人情味を持つて各々の仕事に従事するやうにならなくてはなりません、例へば玆に柿の実があるとしても、その柿の実が人間の数より少なきときに、利己主義の人々が之れを分配しやうとすれば、銘々自分の方に多く取らうとし終には争ひが起ることが必然であるが、之れに反して分配する人々が豊かな人情味を持つてゐて、自分は第二として先づ他人の為めを思ひ、公平に分配をすれば、決して争ひの起こる筈はないのである、即ち人は政治に、経済に、実業に、外交に、其他総てのことに人情味がなくてはなりません、人情味があれば戦争がなく、平和が現出するものであります、世が進めば戦争もあるものだといふ人もあるが、若しさうだとすれば真に嘆げかはしいことであります、世界の平和克復してより丁度十年に当たる本年本月、我日本に於ては 聖天子御即位の大礼に際会したので、偶然とは申せ誠に目出度き限りであつて、世界の平和及び我国の隆昌と云ふことを念とする我等一同の、深く喜び且つ慶賀すべきことであると思ふのであります
 皆んなは幼少と雖ども、能く世界の平和、人類の平和と云ふことを考へて、仲間同志で喧嘩をするやうなことがあつてはならない、争ひごとをしてはなりません、さうして学問や其他のことに互に励み合つ
 - 第30巻 p.50 -ページ画像 
て競はなければなりません、賢者には従ひ、長者は之れを敬し、幼は助けるといふ人情味を持たなければならない、私が今日話したことは少し六ケ敷かつたであらうが、之れを一口に約めて言へば、我国は他に見ることの出来ない難有い国で、国民皆な祖国を大切にしなければならないといふこと、御即位の大礼の誠に祝すべき限りであると云ふこと、世界人類の平和を願ふの心を銘々が持つべしと云ふこと等であります、幼少な者には解からなかつたかも知れないが、今後五・七年も経てば其道理が解かるやうになると思ふ
 それでは今日の話は之れだけであるが、又た来月には此所へ来て皆んなの無事な顔を見、又た私の丈夫な姿を皆んなに見せて、為めになる御話をして上げたいと思ひます、昨年の春頃から皆んなの健康状態が殊の外良くなり、元気も加はつたのを、私は毎月此所へ来るたびに見て非常に嬉しく思つて居る、之れも平素幹事さんの心配や、分院の職員先生方の丹精に因るのは言ふ迄もないが、皆んなも亦た先生や保姆さんの言付けを能く守つて衛生に注意したからであらう、ドウか学業や精神修養のことも私がいつも云ふ通り能く努めて、人に見下げられない有用なる人間になつて貰ひたい


東京市養育院月報 第三二九号・第一三頁 昭和三年一二月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0080)
第30巻 p.50 ページ画像

東京市養育院月報  第三二九号・第一三頁 昭和三年一二月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は十二月十四日午後零時二十分巣鴨分院に登庁、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、同一時二十分本院へ来院せられ、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の後ち午後二時過退庁せられたり


東京市養育院月報 第三二九号・第一―三頁 昭和三年一二月 歳末訓言(昭和三年十二月十四日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0081)
第30巻 p.50-52 ページ画像

東京市養育院月報  第三二九号・第一―三頁 昭和三年一二月
    ○歳末訓言(昭和三年十二月十四日於巣鴨分院)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 今松下さんから話された通り、昨十三日は東京市の御大礼奉祝会であつたので、此所へ来ることを見合せ、今日来ることにしたのであります
 毎月此分院へ来て皆んなに会つて話をするのであるから、別に変つた話の種もないのであるが、其の時々の問題に関係して特に皆んなの為になる話をするのであるから、ドウカ私の話す事を聞流しにしない様にして貰ひたい、啻だに聞流しにしないばかりでなく、よく記憶して何時までも忘れないやうにして呉れゝば、私は非常に嬉しいのである、否な此の渋沢一人が嬉しい許りではなく、皆さん各々が自身の修養になるのであるから、能くおぼへて居て貰ひたい、昔の偉らい人は上長や目上の人の言葉を能く聞いたばかりでなく、自分より目下の者や年少の者、例へば草刈る賤の女や、馬の手綱を牽く馬子の言葉などにも能く耳を傾け心を留めて、己れの参考に資し、身の修養の料として、夫れによつて一層偉らくなつたのであります
 私は老人であるから、世の中に於て経験した事が沢山ある、それ故に若し私の話を聞いて能く覚えて置けば、決して無駄にはならない、毎月十三日に私は本院や此分院に来て事務がどんな風に運んで居るか
 - 第30巻 p.51 -ページ画像 
又入院して居る大人や小供達の健康状態がドンな様子であるかと云ふやうなことを聞いて、夫れから此所に立つて皆んなに御話しをするのが例であつて、いつも同じ様なことを繰返して話すやうだが、つまり人としての本分は如何なるものであるか、人は一体どの様にしなければならないものであるかと云ふことを、多数の皆んなの為めに、其将来を心配して御話しするのであるから、皆んなも能く気を留めて聞かなければならぬ
 人は誰れでも将来国の為になる様な確かりした人間にならねばなりません、何時も自分を例に引くやうだが、私は社会に対して大した功績はないかも知れぬけれど、経験は豊富であるから、斯くの如く老人になつても私に出て呉れ、心配をして呉れと云はれる事が沢山あります、之れは私に取つて大変名誉な事であると思つて居る、人と云ふ者は功労があれば、それと一緒に名誉を伴なふもので、人に重ぜられ尊敬されるには、社会に対して功労がなければならない、皆んなは尚ほ年少と雖ども、社会国家の為めに功労を尽くすと云ふことを、将来の為めに心に誓つて置かなければならない
 皆んなも知つて居る通り、先月には芽出度き御大典が京都で行はれそれに続いて種々の儀式が行はれました、私は此のおめでたい礼典に召されたが、老体ゆえ拝辞して参ることをやめました、昨日も東京市で御大典奉祝会を上野の竹の台で挙行し 両陛下の御出ましを願ひ、二百万の東京市民を代表して市長の市来さんが奉慶の辞を奉りましたが、我々日本国民全体は上 皇室に対し奉りて忠義の心があればこそ市民も市長を代表として表慶の辞を奉つたのであります 畏こくも我が 聖天子に於かせられては総ての政務に御精励あらせられ、我々臣民をよく慈しみ給ふので、誠にめでたくもよき国に私達は生れたものであると云はねばならない
 皆んなは孤独であるとか、不幸な者であるとか言つて、徒らに悲観をしてはいけない、人と云ふものは現在が不幸でも、将来までも其の不幸が続くものではなく、心掛け一つによつてどうともなるのであります、即ち発奮勉励することによつて不幸は翻へつて幸福となるものである、昔の人の対句に『成名常有窮苦日、破事多存得意時』と教へてあるが、即ち名を成すことが出来るのは何時でも困窮してゐる時、困つて苦しんで居る時に奮励努力をして名を成すもので、これに反し物事に失敗し身を破るのは、自分が得意になつてうぬぼれて居る時、即ち油断のある時であると云ふ教へであります、皆んなも此の言葉を忘れずに、常に窮苦の日を有難く感じて、一心に奮発精励しなくてはならない、かくすれば窮苦より脱して幸福な身となることが出来るのである、呉れ呉れも卑屈な心を持つことなく、将来の発展を期して溌刺たる気概を持ち、自重しなくてはなりません
 今年は今月で終はり、又た新しい春を迎へるのである、私も来年は九十歳になりますが、年齢に関係なく、九十であらうが百であろうが生命のある限り社会の為にも尽くし、又た養育院の為にも尽くしたいと思つて居ます、皆んなも勉強して立派な成績を挙げ、新しい楽しいお正月を迎えるやうにして下さい、又職員保姆方にも、引つゞき子供
 - 第30巻 p.52 -ページ画像 
の為めに丹精を尽されんことをお頼みして置きます


東京市養育院月報 第三三一号・第一六頁 昭和四年二月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0082)
第30巻 p.52 ページ画像

東京市養育院月報  第三三一号・第一六頁 昭和四年二月
○渋沢院長の登庁 本年九十寿を迎へられたる渋沢院長は昨今の酷寒にも極めて元気にて二月十三日午後零時半本院へ登庁、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同一時幹事と共に巣鴨分院に向はれ、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、午後二時四十分退庁せられたり


東京市養育院月報 第三三一号・第一六頁 昭和四年二月 巣鴨分院生徒の院長九十寿祝賀式(DK300001k-0083)
第30巻 p.52 ページ画像

東京市養育院月報  第三三一号・第一六頁 昭和四年二月
    ○巣鴨分院生徒の院長九十寿祝賀式
 二月十三日は院長渋沢子爵の第九十回誕生日に相当するを以て、別項記載の如く巣鴨分院に於ては、午後一時十五分より院長の登庁を期し其九十寿賀式を挙行せり、是先式場には紅白の幕を張り、児童の手になる祝賀に因める習字・図画等の製作品を飾り、生徒一同参集の上院長を迎へて開会、先づ早川同分院主務より院長九十回の誕辰の祝意並に本日の挙式の次第を述べ、次で生徒総代落合あき及び浅見、紀元節の祝辞朗読あり、浅見の発声にて院長の万歳を三唱の後ち、記念撮影を行ひ、終つて院長より挨拶に兼ね一場の訓話ありて、同二時二十分式を閉ぢたり


東京市養育院月報 第三三一号・第一―五頁 昭和四年二月 院児への訓話(昭和四年二月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0084)
第30巻 p.52-55 ページ画像

東京市養育院月報  第三三一号・第一―五頁 昭和四年二月
    ○院児への訓話(昭和四年二月十三日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 毎月此の分院に来て君達に会ふのであるが、特に本日は私の九十歳の誕生日に該当するので、其の祝として生徒代表の男女各一名から祝辞を受け、又た生徒達の丹精になる祝賀に関する製作品まで陳列して此場所を飾って呉れて、私に取っては誠に光栄であり、又喜びの至りであります、此の分院の児童一同の為めは勿論のこと、養育院の収容者全体の為めに尽瘁努力することは、私の衷心よりの務めとして過去五十五年間怠らず尽して来たのである、勿論保姆教員の様に朝夕児童等に附きりになって居る訳けではないが、何時も君達のことに就ては忘れたことはないのである、又た啻だに君達が此の院にゐる時のことばかりでなく、諸君の末の末までもよかれと考へてゐるのであります
今日は思ひ設けず、私の誕生日を祝って下さったことを厚く御礼を申します、今日は君達に取り立てゝ御話し申さうと云ふ話題を持って来たのではありません、私が本日九十回の誕生日を迎へたのに対して祝つて下さつたことは、長く記憶して忘れない様にします、昨日も陽明学会の会合がありまして出席致しました、其の時に或る人が、私が年寄りだから年寄りには年寄りの写真がよいと云つて、今年百二歳になる人の写真を見せて呉れました、人間は只長生きをした所で別に手柄にもならないが、生きられゝば生きた方がよいので、生きている間は人間の務めとして何なりと働らきをしなければならない、尤も若年にして死んでも立派な働があれば其の人は実に偉い人であります、孔
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子のお弟子の顔淵と申す人は三十二歳で亡くなりましたが、命は短かくても実に立派な偉い人でありました、又孔子は今から二千四百八年前(我が神武紀元百八十二年)に七十三歳で亡くなられたが、聖人と云はれる偉い方でありました、私は今日でも既に其の孔子より二十年近くも長生きをしているが、然かし昨日陽明学会で見た写真の老人に較べれば十二年も若いのであります、然かし人は必ずしも長寿であるから芽出度いと云ふべきではない、勿論一般的に申せば短命よりは長命の方が芽出度いと云つて差支ないのであるが、厳格に考へると人の寿命は寧ろ其働きに依って計算すべきものであると思ふ、何にも之れと云ふ程の働きもしないで、徒らに長生きをしても、之れは実質上短命と云ふべきものかも知れない、孔子様は未だ左程高齢と申すことも出来ぬ七十三歳で亡くなられたが、其働きから云へば決して短命ではなく、二千四百年後の今日まで我等の間に活きて居られる長寿であつて、之れこそ実に祝すべきの限りである、故に我々人間は成るべく衛生に注意して其の生理的寿命を長くするに努めると同時に、人生の義務たる善き働きに力を尽くし、小は一身一家を治め、大は国家民衆の福祉発展の為めに貢献をなし、以て働きに依りて計算すべき実質的寿命をも長からしむるやうに心掛けなければならぬ、年少とは云へ君達も今から能く此等のことを考へて居なければならぬ、偖て之れにつけても人間は是非記憶をよくしなければなりません、記憶をよくするには感情を溌溂たらしむることが必要であります、孔子は『吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩』と論語為政第二に申されてあり、七十以上のことは何事も申されてありません、之れは即ち孔子が七十三歳で長逝されて八十歳には経験がなかったからであります、私なら八十而何々、九十而何々と云ふことが出来る訳けです、兎に角人は非常に嬉しかつたこと、忿懣に堪へなかつたこと、悲しかつたこと等はいつまでも記憶しているものです、而して此の記憶が土台となつて種々な行動が出て来るものであります、今から私は昔かし強く感じて記憶に残つている一二のことを話して見ませう
 私が十四歳(嘉永六年)の時のことであるが、私の故郷武州血洗島の生家では、農業の傍ら商売として自分の家で作つた藍は勿論、他人の作つた藍をも買ひ集めて藍玉を製造し、之れを信州や上州や秩父辺の紺屋に売つて居た、丁度私が十四歳の時、父は信州や上州の紺屋廻りに出掛けた留守中、お祖父さんに連れられて矢島と云ふ村に藍の買出しに行きました、私は其時心の中で思ふやう、お父さんに連れられて出た時は、お父さんが藍の鑑定が極めて上手で、他人から褒められる程の人でしたから、自分までも鑑定が出来る様な気がして、何となく自慢らしくついて行つたものですが、お祖父さんは鼻の脇に大きな瘤があるので他人が見たらば定めし可笑な顔であらうし、夫れに年も六十を越して居る老人であるから、其の老人に引張られてついて行くのは何んだか気が進まないと云ふ妙な考へを起し、藍の買入れ位は年寄りの指揮を受けないでも、単独に自分一人の見計からひで出来ないことはない、寧ろ此際お祖父さんと離れて、自分だけの働きで一番買
 - 第30巻 p.54 -ページ画像 
入れをして、お父さんを驚かしてやらうと云ふ、小さい名誉を奮ひ起こし、お祖父さんを欺いた訳ではないが、自分一人で隣村辺を廻つて見たいと云ひ出して、幾らかの買入れ資金をお祖父さんから分けて貰ひ、横瀬村とか新野村とかいふところを廻つて藍の買入れをした、トコロが自分が未だ小供だものだから、相手が余り信用して呉れなかつた、然し自分は是まで幾度も父に連れられて行き、買入方を親しく見たことがあるから、其時も之れは肥料が少なかつたとか、乾燥が悪るかつたとかと、父の云つたことを聞覚えて居て、買入れに際し一々批評したところ、其れが出鱈目でなかつたものだから相手の人々はびつくりして、妙な小供が買ひに来たと云つて珍らしがり、段々人々が相手にして呉れたので、其の年一年の藍は殆んど私一人の手で買集めたと云つてよい程でありました、其の内に父も旅先から帰つて来られて私の買入た藍を見て其の手際を褒められたことを覚えてゐます、之れは私が大変嬉しく思つたことの一つである、又た忿懣に絶えないことでは、徳川幕府の末期で勢威の甚だ衰微しつゝあつた時のことですが私の村の領主は安部摂津守といふ小さな旗本で、私の家から一里計り離れた岡部と云ふ村に其の陣屋がありました、或年領主から御用金を命ぜられました、御用金と云ふのはお上の入用金を下々に分割して借入れることであります、尤も借入れると申しても返しては呉れないから取上げも同様です、ところが私が十七歳の時、父の名代となり同じく御用金を申付けられた他村の代表者二人と連れ立つて代官所に行き代官に面会して父の名代として御用伺ひの為め罷かり出ましたと云つたところ、同行の二人は何れも本人であるから直様御用金の事を承知しましたが、私は父から只御用金の趣を聞いて来いと云ひ付けられて来たのでありますから、御用の趣は承りましたが、お受けするかしないかは、一応父に話した上、更らに罷かり出て御答へ申し上げますと云ふと、代官は立服して、嘲弄半分に貴様は何歳だ、十七にもなり父の名代で来ながら、三百両や四百両の金の御請けも出来ず、一度家へ帰つて父に相談して又来るといふ様な手ぬるいことでどうする、直様承知したと挨拶をしろ、万が一にも貴様が出来ぬと云ふなら此方にも考へがあると、威猛高になつて強ひるのでした、然かし私は父から只御用を伺つて来いと申付けられた計りですから、甚だ恐入ますが今直ちに御請することは出来ません、父に話して改めて御答へ申上げますと再三再四申しますと、代官が何んだ貴様は訳の分らぬことを申すやつだ、実に役に立たぬ男だと云つて、ひどく叱責されたり、嘲弄されたりしました、私はこんな理屈に合はぬことはないと思ひました、当然毎年の年貢を取立てながら、返済もしない金子を用金とか何とか名を附けて取立て、其の上言語も動作も智識ある人とは思はれぬ様な人物に軽蔑や嘲弄され、貸したものでも取返す様な風に命令され、いやでも応でもかくの如くせよと云ふ理屈はづれの事を強ひられたのが私には癪に障つて、若し之れが相対的の人ならば撲り飛ばしてやりたい位でありました、自分の身体は如何様になつてもよいが、家名や父母の迷惑になることがあつては困ると考へたので、涙を呑むで私は其場で承知しました、今でも其の時のことが目の前に見える様です、三ツ
 - 第30巻 p.55 -ページ画像 
子の魂百までといふ諺の如く、九十歳の今日迄も此の道理の間違つてゐることを思ひ出すと悔しく思ふのであるが、然し此経験と云ふものは、爾後私の発奮と云ふことに多大の刺戟を与へたのであります
 本日私の九十歳の誕生日を、図らずも君達が祝つて呉れられたことからしてツヒこんなことを話ましたが、私はそればかりでなく二十四の歳江戸に出て勉強し、それから京都に行き一ツ橋家に仕へ、或はフランスに行き、明治二年には明治政府の役人になつて同六年まで約三年半ばかり官職に就き、六年に官を退ぞいて実業界に入り、大正五年実業界を去ると同時に社会的の事業に専念し、出来得る丈けの努力を致して居ます、其の結果今日は君達からこの祝ひをしていたゞき、又昨年は実業界の人達が米寿の祝ひをして下さいました
 終りに臨んで今一言申したい、皆んなは今は不幸の身であるかも知れない、或一面から考へれば幸福な位置にあると云ふことも出来るのだが、此の目下の不幸を切抜けて真の幸福を得る為には、何事にも常に力を込めて行ふことが必要である、即ち依頼心を去り、奮発心を起すと云ふことが大切である、此事は決して忘れてはならない、特に稍や年長なる補習科生徒諸君は、取り分け此のことを念頭に置いて貰ひたいのである


東京市養育院月報 第三三五号・第二七頁 昭和四年六月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0085)
第30巻 p.55 ページ画像

東京市養育院月報  第三三五号・第二七頁 昭和四年六月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は六月十三日午前十時本院へ登庁、田中幹事より諸般事務の報告を聴取の後ち、同十時五十分幹事と共に巣鴨分院に向はれ、同分院講堂に於て収容児童に対し一場の訓話を試み、午後零時半退庁せられたり


東京市養育院月報 第三三六号・第一二―一四頁 昭和四年七月 常に情愛の心を持て(昭和四年六月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0086)
第30巻 p.55-57 ページ画像

東京市養育院月報  第三三六号・第一二―一四頁 昭和四年七月
    ○常に情愛の心を持て(昭和四年六月十三日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 唯今幹事さんから皆んなに良い話がありました、其中に私を誉めた様な話がありましたがそれは当りません、段々年をとつて身体が弱くなりましたが、然かし先月も今月も此の分院へ来ることの出来たのは自分ながら喜こばしく思つています、今月の六日だつたと覚えて居りますが、近頃日本へ来遊した米国のマーザーといふ御夫婦の御方と会見してお話を致しました、其方は社会事業家で特に眼疾の研究をされる方でした、其話に依ると眼病になるのは世間の人が眼に対する注意が足りないからだと思ふ、社会事業の仕事として眼病に就いての注意なり施設なりが必要ではなからうか、日本の社会事業には眼疾者が不幸盲目に陥らない方法が立つて居るか、自分は眼病患者を見ると自分の子供の様な気がしますと言はれた、又奥さんも極めて話上手の方で日本に来て富土山を見ると実に心持がよく、次に日本の偉らい方にお目にかゝると丁度富士山を見た様な心持の良い感じがすると申されました、其他にも色々と社会事業のことで話が出ました、私も自分にも子供もありますが、実子以外の子供が沢山あります、私は永い間養育院の事業に関係していますが、此処には親の無い子や身寄りの無い子
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ばかりですが、実際私は是等の子供を自分の子供の様に思つてゐて、肉親の親がなくとも歎かなくてもよい、及ばずながら此の渋沢が親になつて行くと申して、凡べてに情愛を持つて行くやうにしてゐます、兎に角社会事業には情愛が無ければならないと話し合ひました、古い事を思ひ出して話すやうですが、明治五年に此の養育院が創設されました、私は明治七年に時の東京府知事の頼みを請けて養育院長となりました、其時私は三十五歳でありました、爾来今日迄五十六年間始終子供に対しての感情は変りませんし、従つて皆我が子の様に思つてゐます
 其時分の養育院は上野護国院にありました、子供の係りに飯田某といふ会津の藩士であつた人と、神保某と云ふ旧幕の士とが居りました子供は皆で三十人足らずでありました、其人達の方針は、子供を取扱ふには厳格にしなければいけないと云ふので、小さな事柄まで厳しく叱つたもので、子供等はいぢけてゐて、愉快さうな顔をしてゆつたりした感じがありませんでした、子供がいぢけてゐることを知らずして此処に入つて来る子供は皆体質が弱いと歎じてゐたのでしたが、私は夫れに対して厳格よりも情愛がなければならないと諭したものです、人に対する制度は厳格であるのが当然ですが、又情愛もなくてはなりません、即ち制度と情愛とが工合よく融合して、始めて温か味のある日常が送られるものです、例へば身代のよい家に生れた子供が衣服や食物は充分であつても、其内に情愛がなかつたならばのんびりした子供にはなれず、又親子と雖も情愛がなければ親身になれないのであります、之れと反対に家は貧乏で衣食住に不自由をして居ても、其内に情愛があれば、親しみがありのんびりとした温か味のある生活が送られます、子供が物を親にねだるにしても泣いてねだる、子供の泣くのは自然の情愛の表はれである、前に申した飯田・神保の主張はあまりよくなかつたので、情愛を持つて子供を導く事が必要だと私は信じて木下栄太郎といふ人を採用し、此人に二十幾人かの子供の親代りとして、人情を深く加味してやる様にしたのであります、人間は或る事柄に付いては深い感じを持たなければなりません、さうして其感じを持ち続けて行くやうにして、成る丈け人情味を加へて進み、善いことのみ心がけて行なへば立派な人間になることができます
 私自身としては深く感じたことは何時迄たつても忘れません、即ち非常に嬉しかつた事や、哀しかつた事、悔やしい事等は今も覚えて居ります、度々皆んなに話すことですが、私は埼玉県の田舎なる血洗島の百姓の子に生まれ、十七歳の時岡部の陣屋で代官にひどく嘲弄されたり叱責されたりしたことがあります、其時私は洵に道理に合はぬことだと思つて忿懣に堪へざりし事や、二十四歳の時に江戸に出て来た事、或は京都に行つた事、フランスに行つた事などはつきり覚えて居ます、故郷の血洗島ならば知人や両親も居て親しみがありますが、江戸や京都やフランスなどには見ず知らずの人許りでありましたが、真の情愛を以て交りましたから、後ちには知人も出来ました、こんな風で独りぼつちであつても、情愛を持つて行けば他人と交つて行く事が出来るものであります、斯く或事柄につき深く感じた其経験が、現在
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に役立つて行くものでありますから、過去の経験と情愛とに依つて世の中に出て働くべきもので、自分は孤独だ、頼よりとする者がないなどゝ自から卑下しないで、此処に居る時は院長が居る、世間に出てからは自分と云ふ者が理智と情愛の力を以て自分の進路を展いて行くと云ふ堅い信念の下に、生をうけた此の世に努め働らかなければならないのである、世間に出て発展するも、しないも、自分の心掛けの如何によつて決することでありますから、皆んなは此のことを心に銘して各々向上発展する様に心掛けなくてはならない、私の話を聞くには耳ばかりでなく、心にも能く聞いて貰ひたいのであります
 なほ職員保姆方が日夕丹誠して下さることを御礼申し、子供等の為め尚ほ一層精進して下さることを御願致します


東京市養育院月報 第三三六号・第二〇頁 昭和四年七月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0087)
第30巻 p.57 ページ画像

東京市養育院月報  第三三六号・第二〇頁 昭和四年七月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は七月十三日午後零時半巣鴨分院に登庁本院より出向の田中幹事より諸般事務の報告を聴取の後ち、同一時二十分退庁せられたり


東京市養育院月報 第三三九号・第一〇頁 昭和四年一〇月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0088)
第30巻 p.57 ページ画像

東京市養育院月報  第三三九号・第一〇頁 昭和四年一〇月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は十月十三日午後一時半巣鴨分院へ登庁本院より出向の田中幹事より諸般重要事務の報告を聴取の後ち、講堂に於て同分院児童に対し一場の訓話を試み、同二時半退庁せられたり


東京市養育院月報 第三四〇号・第一〇頁 昭和四年一一月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0089)
第30巻 p.57 ページ画像

東京市養育院月報  第三四〇号・第一〇頁 昭和四年一一月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は十一月十四日午後零時半巣鴨分院に登庁、本院より出向の田中幹事より諸般重要事務の報告を聴取の後ち、同分院講堂に於て児童に一場の訓話を試み、同二時退庁せられたり


東京市養育院月報 第三四一号・第三―六頁 昭和四年一二月 児童訓話(昭和四年十一月十四日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0090)
第30巻 p.57-60 ページ画像

東京市養育院月報  第三四一号・第三―六頁 昭和四年一二月
    ○児童訓話(昭和四年十一月十四日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 今日も皆んなと会ふことが出来たので私は誠に嬉しい、唯今幹事さんから懇切に皆んなの心得に就て話されたが、至極尤もなことゝ思ひます、私も毎月の月報で皆んなの作文を見て其上達を喜んで居る、今幹事さんが呉々も無断で飛び出してはならないと申されたが、苟且にも忘れてはならないことであります、私は毎日分院に来ることは出来ないが、職員一同と打合せて手の届く限りの親切を尽して貰つてゐるのであるから、皆んなが此所に居る間は自分の身に就て心配の必要はないのである、然かし人も二十歳位になれば、如何にして自活して行かうかと云ふこと位の考へが出なくては役に立つ人間にはなれない、何時も例を自分に取るやうだが決して自慢するのではない、手近いからであります、私は二十二歳の時父に願つて、今の東京、其の頃の江戸に出て、二十四歳まで或塾で勉強をして居たところ、父は私が家の稼業である農業と商売とに充分丹精しないで、幕末維新の騒々しい変化の急な時代に、時勢を談論したり、感奮したりしてゐたので、其の
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ことを大層心配されたやうに見受けられたが、私は其の当時より独立独歩の志を立てゝ居たので、学問の勉強にのみ精進してゐたのである私は九十歳の今日まで健在で居ますが、若かい頃には国の為なら何時死んでもよいと云ふ覚悟を以て働いたものである、又た私は小供の時代から非常に苦労をして今日に到つたのである、世間に出で立派な人となるには、種々な事柄に出会つて其の度毎に其の身を試練し、苦労に苦労を重ねて初めて成功の出来るものである、皆んなも今の内に苦労もし、勉強もし、奮励一番努力して将来成功の彼岸に達するのであるから、常に其の心持で進まなければならない、二十歳になつても三十歳になつても尚ほ自活の途を求めず、金持の馬鹿息子の様に遊んで居て暮さうなんと云ふ考へを持つ者が多ければ、其の国家は遂に亡びてしまふのである、仮令金持の人でも出来る丈けは働いて行かなければならないのである、自分の身の上話をするのは少し変で、他の立派に成功した人々に就ての話をすべきであるが、夫れは折を見て話すことにして、今日は手つ取り早く自分のことを話します、私は此所から二十里程隔つた埼玉県大里郡の百姓の家に生れたもので、種蒔きもすれば、刈入れの仕事もした、丁度私が十四歳の時、私は天保十一年の生れであるから十四の歳は嘉永六年に当る、さうして其の年の六月には米艦が浦賀に来たので、黒船が来たと云つて日本では大騒ぎをした時である、其年私の父は信州や上州の紺屋廻りに出掛けたが、其際父は自分の留守中近在の藍を成るべく沢山買入れるやうにしたいのだが自分が留守になればお祖父さんは御年寄だし、栄二郎は未だ小供だし……私は幼名を栄二郎と云つたのである……誠に困まつたが、買へるだけは買入れて置いて貰ひたいと云つて旅立たれた、そこでお祖父さんと私とが藍の買入れに行くことになつたのだが、お祖父さんは鼻の側に大きな瘤があり、よく人が見て笑ふので、何んだか極まりが悪るく、又た余まり老人であつたから一緒に行く気乗りがしないので、自分単独で買ひ入れをしたいと思つて、幾何かの資金をお祖父さんから分けて貰つて、それを胴巻に入れて著物の八ツ口のところから腹に結び著け、お祖父さんと別かれて附近の村々に行き、百姓家を廻はつて藍を買ひに来たと申して取引にかゝらうとしたけれども、其の頃の自分はまだ前髪を上げた鳶口髷の小供であつたので、自然人々が馬鹿にして信用して呉れなかつた、けれども私は是迄で幾度も父の伴をして藍の買入れ方を注意して見て居たので、見様見真似で少しは藍の鑑定も出来たので、其時も自分の見た儘に藍の良否を批評しつゝ買付けたので、人々は大に驚き不思議な小供が来たと云つて却つて珍らしがつて相手になつて呉れたので、其の年の藍は大抵自分一人で買集めたと云つてよい位であつた、父が旅から帰つて来た時大に褒められて農業と藍は家の商売であるから熱心にしなければならぬと奨励されたので夫れ以来力を入れて父の手助をしました、之れは私が物事に注意をする性質であつたから出来たのである、又た矢張り十四歳の時であつたが、或時私の姉が病気になつて父に連れられて転地保養に行つてゐた留守中、親戚の人がこれは何か家に祟りがある為めであらうから、祈祷をするとよいと勧めたので、修験者を招いて御祈祷することになつ
 - 第30巻 p.59 -ページ画像 
た、私は最初からそんなことは迷信だと思つてゐたのですが、弱年者の私が彼れ是れ云つたとて、誰も採り上げて呉れないから黙つて居た父が居れば勿論そんな迷信めいたことには賛成もせず、御祈祷もさせなかつたのであらうが、父は留守で男と云へば家中で私一人で、私も其の御祈祷の席に列らなりました、すると修験者は此の家には無縁仏の祟りがあるのだから、祠を建てゝ、其の無縁仏を祀らなくてはならないと云つたので、私は無縁仏を祀にしても、祠を建てるにしても、碑を建てるにしても、其のことが何年程前であるかゞ分らなければ困ると云ふと、修験者の一人が凡そ五・六十年以前であると云つた、そこで私は押返へして五・六十年以前と云ふと其の頃の年号は何にかと尋ねた、さうすると修験者は困つたやうな顔をして、少し考へて居たが、それは天保三年の頃であると答へた、私は天保十一年の生れで其の時十四歳であつたので、天保三年と云へば二十二・三年しか経つて居ない、そこで私は年号も知らないやうな神の御告げは信仰するに足らぬと云つたので、修験者も極り悪る気に、返へす言葉もなく帰つて行つたことがある、これも私が些細のことに注意したのが役立つたのである、人はある点までは無我の境に立つて勉強もしなければならないが、総ての物事に何んでも無我であつてはいけない、或点には充分注意をすることが肝要であります
 私の父は非常に厳格な気質の人であつた、私が十五歳の時、自分が今迄使つて居た硯箱と本箱とが余り穢なく粗末なものであつたので、お母さんの妹の連合である保右衛門といふ叔父さんと一緒に、江戸へ行くことがあつたのを幸ひに、新らしく買ひ求めたかつたので、父に願ふと買つてもよいと云ふ許しがあつた、そこで江戸へ出て桐の二つ続きの本箱と、硯箱とを買つた、其の代金は一両二分(今は一円五十銭と云ふが、金の力は十円位に相当するであらう)であつたと記憶して居るが、家に帰つてこれこれの二品を一両二分で買入れましたと父に報告したところ、相当に高い代金に就いては何んとも云はれなかつたが、中瀬と云ふ所で船揚げをして荷物が著いたので其二品を父に見せると父は大いに驚いて、非常に立腹した様子で、価格に就ては何の小言もなかつたが、品物を見て之は華美に過ぎる、家にある他の道具類と権衡が取れない、斯ういふ風であるとドウもお前は無事安穏に此の家を保つて行くことが出来ないであらう、自分は不孝な子を持つたと云つて歎息しながら教訓されたのを覚えて居ます、後年になつて考へて見ると、此の様に美麗な硯箱や本箱を買ふやうな気風であると、終には万事に増長して華美を好むやうになることを誡められたのだと云ふことが分かりました、小供時代には余り厳格過ぎて時には無情な父だと思つた私も、今に至つて感謝して居ます、此の厳格な父は私の二十四・五歳の頃には不行跡なことをするな、世間から同情を失ふなと戒められ、又た私が二十九歳の時欧洲に行き、三十歳で帰つて来て大蔵省の役人になつた時には大変喜ばれた、こんな風で私の父は或事柄には厳格で、又或事柄には寛容な人であつた、父のことを回顧する毎に私は難有いと云ふ感謝の念に満たされます、偖て当分院の補習科の生徒達は社会に出て働く時を目の前に控へて居るのであるから、私
 - 第30巻 p.60 -ページ画像 
の身の上噺を聞かせて参考に供したのであります、就ては唯今も幹事さんからお話があつた通り、君達が此所を脱走的に飛び出すやうなことをしてもそれは君達の損になればと云つて決して益にはならぬと云ふことを深く心に銘して置かなくてはならぬ、小さな小供には分らなかつたかも知れないが、先輩の生徒に見傚つて善くなるやうに気をつけなければなりません、今日の話は何事にもよく注意し、無我の境地に入つて勉強し、何事を為すにも決して中途半端であつてはならぬと云ふことであります、尚ほ職員方に申しますが、之れからも尚ほ一層生徒達の為めに懇切に世話して下さるやうにお願致します


竜門雑誌 第五〇二号・第七五頁 昭和五年七月 青淵先生動静大要(DK300001k-0091)
第30巻 p.60 ページ画像

竜門雑誌  第五〇二号・第七五頁 昭和五年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
十三日 ○中略 東京市養育院に出向


東京市養育院月報 第三四八号・第一四頁 昭和五年七月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0092)
第30巻 p.60 ページ画像

東京市養育院月報  第三四八号・第一四頁 昭和五年七月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長は七月十三日午前十時二十分本院へ登庁田中幹事より諸般事務の報告を聴取の後ち、同十一時十分幹事と共に巣鴨分院に向ひ、同分院講堂に於て収容児童に一場の訓話を試みられ午後零時十分退庁せられたり


東京市養育院月報 第三四九号・第一―二頁 昭和五年八月 訓言(昭和五年七月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0093)
第30巻 p.60-61 ページ画像

東京市養育院月報  第三四九号・第一―二頁 昭和五年八月
    ○訓言(昭和五年七月十三日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 今日は日曜日で休日でありましたが、此処へ参り皆んなの元気な顔を見て嬉しく思ひます、只今幹事さんから服装を改良したことに就ての話がありました、此のことは先刻主務さんからも、皆んなが洋服になつて大変見栄えがすると云ふことを聞きましたが、百聞は一見に如かずで、聞いたよりも見た方が遥かによく、キチンとした洋服は何となく見よいもので、皆んなも身軽になつたことゝ思ひます
 扠て凡べて物事は見た目から種々の感想が浮ぶもので、此の室に掲げてある額の文句は、韓退之と云ふ唐時代の人が著はした書物の中に『博愛之謂仁、行而宜之之謂義』と云ふ言葉の一節であるが、古文真宝の後集に、論語の『君子有九思、視思明、聴思聡、色思温貌思恭、言思忠、事思敬、疑思問、忿思難、見得思義』と云ふ言葉の中の『視思明』に就いて詳しく論じた中に、人は見て思を生じ思に依つて人は進むと申してあります、皆んなにこんな難しいことを話しても解かり難いであらうが、先刻幹事さんからも話されたやうに『居は気を移す』と云つて、盂子が『居移気、養移体、大哉居乎』と言はれた通り、人は地位や境遇から、自然に感化を受けるものである、身装が変ればやはり気分も変るもので、例へば我家に居て褞袍でも着て居る時は胡坐をかく気にもなるが、扠て羽織袴を着けた時には整然と坐はらなければならぬ様になる、今皆んなの身装は軽快になつた計りでなく、気分迄も新らたになつたに違ひないと思ふ、気分が新
 - 第30巻 p.61 -ページ画像 
らたになつたとすれば、同時に又た皆んなは大に思を廻らさなくてはならない、それは気分が新らたになつたと云ふことを唯だ当座の感じだけに止どめないで、永く相当の効果を現はすやうにしなければならないからである、皆んなは今から其の効果を現はす責任者であります古文真宝の中にも、よく思ふことに依つて智識は進歩するものであると教へてある、又た思を廻らすか廻らさないかに依つて、人々に利害得失上の大差が生ずるものであるとまで論じてあります、服装が変り気分も新らたになり、嬉しいことではありませうが、こんな変化のあつた時のことは何時迄も忘れない様にして、心の底に刻みつけて置かなければならぬ、私は自分の履歴は大体記憶してゐるが、百姓をしてゐた時分のこと、或は武士となつての生活、浪人時代のこと、外国に行つてゐた頃のこと、銀行家としての三十余年間のこと、其の間には随分種々な事があつたが、大抵は今以てよく覚えてゐる、数多い事柄の内には忘れてもよいこともあるが、なるべく忘れずに覚えてゐる方がよいのであります、これでは執念深いと云ふことになるかも知れないが、何事でも覚えて居れば後々の為になるものである、昭和五年七月十三日に院長と幹事とが当分院に来て、斯様斯様の話をして呉れたと云ふことを、大体でも宜ろしいから覚えておかなくてはならぬ、つまり記憶が必要であります、常々思を廻らせば必らず記憶がよくなるものである、皆んなの身の上は現在順調でないとしても、将来まで必ず不幸なりとは云はれない、思を廻らし努力さへすれば、成功するものであります、私は十七歳の時、郷里岡部の代官が道理に合はないことを云つて自分を恥かしめた時、忿懣に堪へられなかつたことを今でもありありと覚えて居る、大体でよろしいから、皆んなが洋服を着始めの時、院長や幹事が来て、其れに就いて話をして呉れた、其話の筋道が、どうであつたかと云ふことを、よく覚ぼえて置くやうに努めなさい、古人は触れる所に従ひ思ひが変化すると云つてゐます、それは実際で、儀式の場所へ行けば厳粛に、葬式の場所では哀しい気持が出で、お祭にはお祭気分、兵器を見れば戦を思ふと云ふやうに、何でも触れるもの、見るもの、聞くもの総てに就て思ひを廻らさなくてはなりません


東京市養育院月報 第三五九号・第一三頁 昭和六年六月 渋沢院長の登庁(DK300001k-0094)
第30巻 p.61 ページ画像

東京市養育院月報  第三五九号・第一三頁 昭和六年六月
○渋沢院長の登庁 渋沢院長には六月十三日午前十時久方振りにて本院へ登庁せられ、楼上会議室に於て田中幹事より諸般事務の報告を聴取の上、同四十分幹事と共に巣鴨分院に向ひ、少憩の後ち同分院収容児童に一場の訓話を与へ、終つて校庭に於て児童と共に記念撮影を行ひ、正午退庁せられたり


東京市養育院月報 第三六〇号・第一―三頁 昭和六年七月 個人の幸福と国家の幸福(昭和六年六月十三日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300001k-0095)
第30巻 p.61-63 ページ画像

東京市養育院月報  第三六〇号・第一―三頁 昭和六年七月
    ○個人の幸福と国家の幸福(昭和六年六月十三日於巣鴨分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 今日はごく穏やかな日和で、心ものびのびとし、気も晴やかであります、私は分院の君達に会ふことを此上もない喜びとし、又た楽みと
 - 第30巻 p.62 -ページ画像 
して居るのである、近頃差支へが多かつたのでツヒ久しく当分院へも無沙汰をして居たが、先々月の十三日には短時間ながら此所へ来て君達に会ふことが出来、又た先月の十三日には此所で楽翁公記念の祭典があつたので、是非出席しなくてはならぬとは思つてゐたが、身体の工合で参ることが出来ませんでした、然かし今日は好天美日身体の工合もよく、こゝへ来て君達に会ふことが出来たのは、君達も喜こんで呉れるだらうが、君達よりも寧ろ私自身の方が余計に嬉しい位である私と君達とはいはゆる不思議な縁で、私は君達を実の子や孫の様に思つて世話をしてゐるので、その世話も一時的のものではなく、永く君達の幸福になるやうにと思つてやつてゐるのであります、これも私が国家を思ふ観念からであり、又た自分の義務責任と思つてゐるのである、国家といふものは個人々々の集りであるから、個人々々の幸福が集まつて国家全体の幸福となるのである、その反対に一人々々が不幸であれば、国家全体も不幸となるのである、かゝる意味からして個人個人の幸福を望むのでありますが、それも自分ばかり幸福であればよいといふ個人主義的の立場から見た幸福ではない、現在此処に居る君達の境遇は、御気の毒ながら決して幸福であるとはいへないが、然かし君達銘々の努力、勤め方、やり方によつては幸福となることが出来るのである、今も幹事さんから院長たる私のことに就て話されましたが、私が今日九十二歳になるまでの概略を申すならば、私の故郷は埼玉県の今は大里郡八基村血洗島といふ所で、利根川べりの百姓の子として生れたる農民であります、かたはら商人じみたことも営なむで居たが、元々百姓であつた、私の親も百姓でありましたが篤学者であつて、私は六歳の時父から三字経・司馬温公家訓等を習ひました、六歳といふと極めて幼少のやうであるが、養育院に関係の深い白河楽翁公も六歳の頃から学問を勉強されたと云ひます、私も六歳にして漢学を習ひ始め、八歳の時従兄について四書即ち大学・中庸・論語・孟子を学び、それから引きつゞいて五経即ち易経・書経・詩経・春秋・礼記を学びました、易経には卜占の事を、書経には史実から道義を、詩経には孔子が取捨撰定した歌を収めたものであり、春秋には魯国の歴史礼記には礼儀式法をしるした書物であるが、これ等は漢学で一番先きに教はるもので、私も習ひました、農民であつたから閑を見て本を読むといふ風で、君達の様に学校といふものもなく、今の様に丁寧に教へてくれるのでないから、行届いてよく勉強するといふわけに行かなかつたし、又秩序立つたものでもなかつたのであります、親から書を楽しむ様に導かれて、その時は意味もよくわからなかつたが、後にはそれを解すことが出来、又た役立つやうになつたのである、十七・八歳の時分には少し負けぬ気が出て来た、それに我が国と外国との関係が複雑になるに従つて外国の事をも調べ始めた、それで国家を思ふ立場から百姓をするよりも勉強をといふ風になり、政治上・思想上の事からして二十四歳の時家を出てしまつて、現在九十二歳になるまで約七十年間を過ごしたのである、かくの如くして私は兎にも角にも相当に書物を読んだ心算であり、今日の大学教育を受けた者ほどではないかも知れないが、相当に道理や事柄を理解するだけの力がある積りで
 - 第30巻 p.63 -ページ画像 
あります、由来独学といふことは楽でないのであるが、私が現在に至るまでの独学といふものは、尋常普通の苦心ではなかつたのである、社会が変化して行くので、私は一身の為めでなく、国家の為めに相当の功をたてる為めに努力致した、又政治上からして、社会問題といふものは将来には如何なる結果が生れるかといふ事を考へて進まなくてはならないといふ観念を持つてゐた、それで養育院の為めに尽くすといふのも、国家に尽くす為めでありまして、一人でも多く不幸な者を幸福にしたいと云ふ考へからであります、一人でも考へ違ひをして居る者があれば、国家はそれだけ不幸になつてくるのであるし、一人でも多くよい考へをもつた者が出来れば、其れに依つて国家はそれだけ幸福となつてくるのである、私は自分の為めよりも国家・社会の為めをと云ふことを心に留めてきたのである、私の境遇と君達の境遇とは違ひますが、国家の為めに尽くすといふ観念は、老若男女を問はず一様でなければならない、諸君は我祖国の為めに努力し、国家に奉公を尽くさなければならない、而してその結果はその身自身の上にも幸福が来るのであります、私は身体はかくの如く老いてはゐるが、精神は若いときと毫も変らず、国家の為めにと思つて院の事業にも尽くしてゐるのである、諸君は自分さへよければよいといふ観念を捨てゝしまつて、国家といふものを四六時中念頭に置き、うかうかとした心でなく確固たる観念を持つて、自分は日本の大切な一国民であるといふ自重心を奮ひ興こして活動して行かなくてはならない、さうしてそのことについては私を見習へといふのであります、次回に此所へ来る時にはモツとよい例を調べて来てお話をしたいと思ふが、今日は私自身を例にとつて話したので、わかりにくかつたかも知れないが、要するに自己の努力によつて自己を幸福にし、又た国家を幸福にするやう心掛けて貰ひたいと云ふことを希望したのであります