デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.63-115(DK300002k) ページ画像

明治43年5月13日(1910年)

是日、当院巣鴨分院ニ於テ楽翁公記念祭ヲ開ク。是ヨリ毎年恒例トナシ、或ハ学者ヲ聘シテ事蹟ノ講演ヲ乞ヒ、或ハ記念印刷物ヲ頒チ、栄一自ラモ亦屡々講演ヲナス等、公ノ顕彰ニ努メ、昭和六年ニ及ブ。


■資料

養育院六十年史 東京市養育院編 第四七〇―四七一頁 昭和八年三月刊(DK300002k-0001)
第30巻 p.63-64 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第四七〇―四七一頁 昭和八年三月刊
 ○第五章 東京市営時代
    第一七節 年中行事
○上略
 一、楽翁公記念会 ○中略 渋沢院長は平素深く楽翁公の善政と高徳を偲ばれ、五月十三日は公の祥月命日に該当する為め、明治二十年代より毎月十三日を卜して養育院登院日と定め、当日は万障を排して登院するに勉められ、又毎年五月十三日には公の祭典を営み来つた。明治四十三年(一九一〇)五月以来、楽翁祭講演を開催することゝなり、
 - 第30巻 p.64 -ページ画像 
祭典は大正元年(一九一二)まで仏式によりしが、同二年後神式に改めて執行し、終りに公に関する講演会を開き、広く院外の有志をも招待して公の徳を偲び、随時その述作又は遺墨を印刷して、来会者に配布したることも数次に亘つた。これ一に渋沢院長の特志に成つたものである。 ○下略
   ○栄一ノ日記ニヨレバ明治四十一年五月十三日ニ院内ニ於テ公ヲ祭レリ(本資料第二十四巻所収「東京市養育院」明治四十一年三月二十日ノ条参照)恒例トセルハ本年ヨリナス所ナリ。


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK300002k-0002)
第30巻 p.64 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 曇 暖
○上略 九時巣鴨養育院分院ニ抵リ、楽翁公ノ忌日ニ付其紀念会ヲ開キ、式ヲ挙ケ且一場ノ講話ヲ為ス ○下略
   ○講話筆記ヲ欠ク。


東京市養育院月報 第一一一号・第一七頁 明治四三年五月 楽翁公の紀念祭(DK300002k-0003)
第30巻 p.64 ページ画像

東京市養育院月報  第一一一号・第一七頁 明治四三年五月
○楽翁公の紀念祭 徳川幕府時代に於て尤も力を民政に注ぎ、殊に孤貧の民に対して救済の途を講ぜられ、其遺徳百載に及び明治の聖世に至つて殊に其光輝を発揚し、本院も亦其余沢に浴して以て今日に至れる、尤も縁故深き松平楽翁公の紀念祭を、其命日に相当せる五月十三日を以て巣鴨分院に於て執行せり、当日重なる来賓には阪谷男爵を始めとして、時事・朝日・読売・万朝報其他の各新聞記者並に藤波・田中・原の諸氏等数十名車を聯ねて来会せられ、午前九時高田副幹事開会の辞を述べ、次で嚠喨たる音楽に連れて生徒一同は君が代を合唱し職員生徒総礼の後、本多教誨師楽翁公の追福を祷り、渋沢院長は代拝を了へ、次で安達幹事登壇頌徳の辞を述べ、最後に渋沢院長は更に生徒一同に訓示する所あり、同十時三十分頌徳の唱歌を以て首尾克閉会を告げたり、其れより当日参会の井の頭学校生徒は直に運動場に下りて兵式体操を演じ、以て来賓者一同の観に供せり、午飯後は余興に移り横井・小林両女史の薩摩琵琶、山田紫弦氏の玄海琵琶、並に金子正光・福島一・粕川クラ子諸氏の剣舞、併せて柔術真剣取・逆投・袖取ハンケチ取、並に春風亭柳仙・黒柳勝見・蔦屋鶴芝一座の手踊手品及茶番狂言等の催ほしあり、児童の満足一方ならず、余興一番を終ゆる毎に拍手急霰の如く満場どよめき渡りて、歓笑の声暫しは鳴りも止まざりけり


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK300002k-0004)
第30巻 p.64 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月七日 雨後半晴 軽暖
○上略
白河楽翁公ノ起誓文ヲ浄写ス、蓋シ養育院ニ寄附スル為メナリ、且其添書ヲ作リテ本院ト分院トニ各一通宛ヲ作リタリ ○下略
   ○中略。
五月十三日 晴 暖
○上略 午後一時半巣鴨ナル養育院分院ニ抵リ、楽翁公ノ紀念会ヲ開キ、江間政発氏ト共ニ公ノ施政ニ関スル行動ニ付意見ヲ述フ ○下略
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東京市養育院月報 第一二三号・第一九―二〇頁 明治四四年五月 松平楽翁公の紀念祭(DK300002k-0005)
第30巻 p.65 ページ画像

東京市養育院月報  第一二三号・第一九―二〇頁 明治四四年五月
○松平楽翁公の紀念祭 五月十三日巣鴨分院に於て松平楽翁公の紀念祭を執行せり、来賓の重なるものは法学博士小河滋次郎・癈兵院長川崎大佐・中央慈善会幹事長久米金弥・聾唖学校長小西信八・東京市助役田川大吉郎・東京市庶務課長松尾儀一・東京市吏員近藤千賀蔵・東京出獄人保護事業主原胤昭・東京基督青年会副主事小山均吉・救世軍大尉青木賢次郎・藤波芙蓉・長沢禎蔵・江間万里・和田綱紀・菅野伊智子等の諸氏、並に日々・都・日本・万歳・国民・万朝・時事・読売中外日報・朝日・婦人画報・斯民家庭・精神修養・日の出公論等の各新聞雑誌の記者諸氏にして、午前十時三十分分院内会堂に於て開催せらる、会堂の正面には楽翁公の小照を奉置し、左側に渋沢男爵の謹写せる公の誓文一軸を垂れ、右側の案上には生花を供へ、来賓は右に、本院職員は左に、中央に児童一同を着席せしめ、劉喨たる奏楽の下に君が代を三唱し、次て頌徳歌を二唱し、了て本多・蓮岡の両教誨師酬恩の勤行を為し、安達幹事登壇、紀念祭の由来を児童に了解し易からんしめん為め極めて平易簡明に叙説し、終て金剛石の唱歌にて午前十一時四十分式を終りたり、午後二時再び会堂に於て渋沢男爵・江間政発氏の演説あり、江間氏は旧桑名の藩士にして楽翁公の事蹟に就ては造詣尤も深く沈重の態度、遒勁の弁、克く公が青年時代に於ける逸事と天明年間白河に藩主たりし時の惨憺たる経営の事蹟を縷述して、公の面目を躍如たらしめ、縷々数千言愈々出で々愈々痛快を極む、約一時三十分間にして降壇、次で渋沢男爵登壇、公の逸事に関して猶述ぶる所あり、殊に公が御誓文の一節に至つては、満腔の熱血迸りて至誠鬼神を泣かしむ、満場粛然として襟を正さゞるはなかりき、四時三十分閉会、余興として田村滔水氏の薩摩琵琶赤穂義士の打入、鳥居喜登女史の筑前琵琶桜井の駅並伊藤公の二曲を演ぜり、孰れも壮絶悲絶能く当時の面影を偲ばしむ、又児童側の余興としては食堂に於て地天斎貞玉一座の西洋手品、小山一座の浪花名物引抜足踊、皿の曲芸、七福神宝船踊、あやつり獅子舞、馬鹿婿、及び野村氏のお伽噺西遊記等ありて、児童は孰れも手を拍つて雀躍し、半日の歓を尽して同六時三十分晩餐に就けり、当日尤も来賓の目を惹きしは井の頭学校(感化部)より五里に余れる遠路を事ともせず同校副幹事桜井円次郎・教師平井槙次郎氏は生徒四十余名を率ゐて徒歩来院し、運動場に於て平井教師指揮の下に発火演習を為したるは如何にも壮快にてありき、児童製作品の陳列場、学校の成績表陳列場には来賓交る交る入場し、製作品販売場も亦相応に賑はしかりし、かくして首尾克く当年の紀念祭を終了せり。


東京市養育院月報 第一二六号・第三―八頁 明治四四年八月 白河楽翁公の遺徳(渋沢院長)(DK300002k-0006)
第30巻 p.65-72 ページ画像

東京市養育院月報  第一二六号・第三―八頁 明治四四年八月
    ○白河楽翁公の遺徳 (渋沢院長)
 本篇は五月十三日巣鴨分院にて開かれたる楽翁公紀念祭に於ける本院長の演説筆記なり。
 満場の諸君、今日は当養育院に深い縁故のある、白河楽翁公の祥月
 - 第30巻 p.66 -ページ画像 
命日でござります、養育院に於きましては毎年この公の命日には一日打寄つて紀念祭を致すを例として居ります、殊に本年は此分院に於きまして、皆様の尊来を乞ふて、楽翁公の事蹟に就て最もお精い所の江間政発氏に一場の御講話を願ひましたのでござります、只今同氏から公の御幼少の時から御家督、其他公が学問に精励されたこと、政治に勤労されたこと、国家に或は我か藩に、総ての方面に於て深く心を用ひ、篤く力を致されたことを承りまして、お互に之れを了知することを得ましたのは、尤も喜ぶところでござります。数年前に築地の浴恩院の古蹟で、楽翁公の昔偲《(を脱カ)》ぶ為に、遺墨其他の品物を陳列致しまして楽翁公の事蹟を種々講演したことがありましたが、其時に私もヤハリ其一人として出席して、楽翁公と当養育院との関係を精くお話したのでござります、只今江間君から公の勤倹のお話がありましたが、其勤倹の遺徳が、維新以前殆ど百年の昔から今日に伝つて、追々是が拡大せられて、今日の時世に応ずる慈恵の事業に成りいつたのでござります、当時精しくお話致したから少し重複の嫌ひがありますれども、養育院の元の興りと云ふものは何であるかと云ふと、明治五年に上野に窮民を集めて、救助しましたのが抑の起源で、其資金は何に依つたかと云ふと、東京市の共有金と云ふものを是に充てたのであります、其共有金は何から生じたかと申すと、寛政の頃に楽翁公が天下の政治を執る時に非常に倹約を奨励され、方々の町に皆積立金と云ふものをさせました、其積立金の残りが御維新後になつても東京市の共有金となつて居りまして、其共有金が窮民救助に使はれました、今日本院が救助しまする資金が敢て楽翁公の遺された金ではござりませぬけれども今申すやうな性質の金から成立ちましたから、今日でも公の遺徳を慕ふて、毎年五月十三日には必ず紀念祭を開くと云ふことになつて居るのであります、又私は院長として始終本院に参りますが、月の十三日には必ず是へ出て、幹事其他の人々と事務上の打合せを為し、窮民なり病人なり棄児抔を見廻つて、其取扱上に就て協議を致すと云ふことを一ツの例と致しまするのも、楽翁公の昔をどうぞ忘れぬやうに致したいと云ふ趣意なのであります。当時の楽翁公の積金と云ふものは、さまで複雑な方法ではなかつたやうです、至つて簡易な仕組で、町方に諭して、精々倹約して残つた金の中から一部分は町費を補助し、一部分は其扱をした者に褒美として与へ、さうして残つた金に更に幕府から補給して、段々に利殖の途を計るやうにした、恰度一割の物の内から三分を取つて、七分を積むやうにしたので、此積金を七分金と通称して居つたのでございます、単純にそれ丈けの事ならば誠に容易なことでありますけれども、畢竟其事の起る所以は、只今江間政発君の述べられた如き原因があつて、さう云ふ事に相成つたと、深く其徳沢を忘れぬやうに吾々は致さなければならぬと思ふのでござります、楽翁公が田安の家を出られて松平家の養子になられたのは、多分十七歳の年であつたやうであります、而して松平家の家督を相続されたのが二十六歳の時、老中になられたのが三十歳の時である、ですから至つて若い時分に最早家事に、若くは天下の政治に力を尽されたお方である、然るに此お方が、――只今江間君も段々と若い時分から勉強の有
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様を述べられたが、楽翁公の遺書などに依つて見ますと、小供の時分から天才のあつたお方と見えるのでござります、多分十三歳の時だと思ひますが、自教鑑と云ふ書物を著して居る、短い書物でありますが自己の修身上、学問上の事などを、片仮名混りで書いてあります、中中十二・三歳の少年の文章のやうには拝見されませぬ、十二・三歳の時にさう云ふものを書かれた、更に今一ツ申すと中々気性の闊達なお方で、どちらかと云ふと短気なお方だと思はれる節かある、是も江間君などは詳かに知つてお在でゝせうが、小説家の碧瑠璃園と云ふ人が著した楽翁公と云ふ書物に依つて見ても、少年の時木馬で花畑を乗廻さうと云ふのを、お附の左枝とか云ふ女中が止めたところが大層腹を立つてお前などが何を言ふ、自分の勝手だと云つてどうしても聞かなかつたが、此女中も中々偉い女で、トウトウ親御様に対して済みませぬぞと云つて厳しく苦諫しましたので、其声に吃驚して止めたと云ふことがあります、或は少し修飾かも知れませぬが、さう云ふやうな塩梅に、我が思ふことは何処までも通すと云ふやうな、気象の強いお方であつたやうに思はれる、それから其書物の中にある、白河に行かれた時の話でありますが、余程の美男子であつたと見えまして、或る料理屋の娘とかゞ、恋々の結果、遂に発狂したと云ふことが書いてある是れは余り附会し過ぎたかも知れませぬが、併し、全然無根の事ではないと云ふ事から考へれば、眉目清秀と云ふやうなお方であつたに違ひない。更にモー一つ其気象の事に就きまして、申すことが出来るのは、公の書かれたもので宇下の人言と云ふ公の著作の書物がある、是は其当時は人に見せなかつたが、後には現れて出た、其書物の中に、種々なる感想録がござります、其の感想録は悉く覚えて居りませぬが田沼玄蕃頭の事に就て、殆ど毛髪逆に立つと云ふが如き意念を以て書かれた一節がある、其の趣旨は田沼に政治を執らして置いたならば徳川氏は全く滅亡する、どうしても国の為に田沼を罷免しなければならぬと云ふことが書いてある、是等を見ても余程剛毅な人であつたと云ふことが分る、只今の江間君の話なり、又十二・三の時の自教鑑なり更に今の宇下の人言の中に、田沼玄蕃頭に就いての覚悟を書かれたに就ても、精神の逞しいお方であつたと云ふことが想像し得るやうであります、而して徳川家なり、国家に対して実に憂慮措く能はざる有様であつたと云ふことを想像するに余りあるのでござります。
 淳信院と云ふ徳川九代の将軍は、八代吉宗の中興の後を承けて相当な智略のある人であつたが、併し晩年には政を老中に任せて、風流韻事に耽つたやうに見受けられる、其政に倦んだ君主に楯を取つて、田沼玄蕃頭が当時の徳川の政治を専らにした、殆ど田沼でなければ夜も日も明けぬと云ふやうな有様であつた、此田沼が何れ位の間政治を取扱つたかと云ふことは、当時の事を調査すれば分りますが、私はそこまでは調べませぬ、段々秕政が重つて来た、秕政が重なると共に所謂天変地異、天譴を徳川氏が受けたと見へて、江間君のお話の如く、天明の初年から六年まで、毎年続いて、災害並び起つた、浅間の噴火したのも其の時である、東京の大火のあつたのも其時である、大饑饉のあつたのも其時である、其甚だしい凶年は天明六年であつて、餓莩道
 - 第30巻 p.68 -ページ画像 
は横はると云ふやうな有様で、人の肉を食ふて飢餓を凌いたと云ふ事である、そこで如何にも当路の人の政が善くないと云ふ事を、幕府の三家即ち三親藩が、評議をして、遂に田沼の役を免ずると云ふことになつた、恰度其時が天明六年の八月で、其翌年の六月に松平定信公が老中首席となられた、公は既に天下の政権を執る前に小藩たり共、己の一家の政治に於て、相当な治績を挙て居つた、そこで、天下の大権を執ると、直ちに大なる改革を行ひ、単り表ばかりの節倹でなしに大奥にまで此節倹を及ぼし、天明八年に寛政に改元して、寛政の六年まで七年の間十分に善政を行はれたのである、其七年間の政が徳川家の其後百年の寿命を続けたのであります、若し此人無かりせば、徳川家は何うなつか、王政維新にならない前に何う云ふ変化で、倒れる事になつたか、是は既往の事で私共何とも申すことは出来ませぬが、松平定信と云ふ人の政は徳川家百年の寿命を続けたと云ふて少しも過言ではないと、私は思ふのであります。
 殊に私が深く楽翁公に感服するのは、前に申した通り漢学が十分に出来る、国学をも併せ修めてお在でになる、又他の方面から云ふと絵を画き、歌を詠むと云ふやうに頗ぶる芸術のあるお方であつた、又書道・美術・古器物等には中々趣味を有つて居り、風流韻事も相当に嗜まれて居つた、私共、聊か漢籍を修めまして、兎角神や仏に祈るとか頼むと云ふことは余り心に留めぬやうに致して居りまする、自己の信仰は所謂安心立命を論語と云ふ書に依つて孔子の教を学んで、此の教に違はなければそれで宜しいと云ふやうな事に致して居りまする、是は私が物心覚へてから、時に或は過がないとは申されませぬが、今此席で殊更に申上げるではござりませぬが、孔子の教に服従して、孔子の教に間違はぬやうにせねばならぬと云ふやうに信じて居りますが為に、仏に念ずるとか神に誓ふとか云ふやうな事は少しも致しませぬ、然るに定信公は只今申す通り十分の学識もあり、芸術もあるお方であつて、総ての方面に発達して居ながら、真宗の老婆が門跡様を信ずるが如き、法華宗の人が日蓮様を崇めるが如き行動に出られたことが一つある、是は余程信仰の厚かつたと云ふことを観察しなければならぬのであります、而してさう云ふ精神でありましたから、総て行ふことが切実であつた、真摯であつたと考へますると、吾々は平生の覚悟が乏しいと、深く羞ぢねばならぬやうに思はれる、公の心神の堅固な証拠は此処にあるのであります、(演者、床に懸けたる楽翁公誓文の幅を指し)是れが天明八年の正月二日に書かれた誓文でござります、先日私は之れを清書しまして、此分院及び本院に一幅宛、守本尊に致す為めに奉納しました、私は過日私の関係して居る実業家連中の集会の席でも此誓文を朗読して、楽翁公の意志の鞏固であつたと云ふことをお話しましたが、幾度読みましても始終敬服して居るのであります、さらば其文章が如何にも名文であらうと申すと、其様に漢学的の六ケ敷字句ではないです、さう申上げては恐れ入りますが頗る俗用である、『松平越中守義奉懸一命心願仕候。当年米穀融通云々』、と云ふて国富み民安んじて、政治が順当になることを神様が私にさせて下さい、若しそれをさせぬならば、私の一命を取つて下さい、私の一命ばかりで
 - 第30巻 p.69 -ページ画像 
はありませぬ、妻子眷族まで皆殺して下されて宜しうござります、生き長らへて其苦難の有様を見る位ならば、寧ろ私は死んだ方が養家に対しても申訳があります、養家に対して申訳がないのは私の苦痛であります、どうか此職を十分に尽し、人民安堵になるやうにするには、金穀の融通が好くなり、庶民豊に暮し得る政が出来ねばいかぬのであります、それをやるには人力では出来ませぬ、神様に助けて戴くより外はない、と云ふ、其覚悟を以て一身を犠牲として行くならば、所謂精神一到何事か成らざらん、であらうと思ふ。斯の如く智識あり、学問あり、芸術あり、見聞の博い人であつて、尚且斯の如き深い信念を持つと云ふことは実に罕に見る所ではござりませぬか、近頃は段々科学が進んで来ました、又文学も流行して来る、さう云ふことが一方に開けて来ると、智慧のある代りに、精神は甚だ浮薄である、虚弱である、ナニそれ位の事はと云ふやうな有様で、甚しきは大功は細瑾を顧ずとか、彼も一時此れも一時とか、君子は豹変するとか云ふやうに、種々なる理窟をつけて自己を弁護して、さうして、精神一到と云ふやうなことは何時も無くなつてしまう、試みに之を直言しますならば、今日の社会に、公の如き精神で政を執つて下さるお方が何人ありませうか、又斯の如き心を以て実業を経営する人が今日の実業界に何人ありませうか、斯う云ふ人がドシドシ出て来なければ、真正の国の富を増し、国の力を発達せしむることは出来ないと思ふ。徳川氏が既に絶えなんとしたのを、公の精神で百年続けたとしたならば、今日斯の如き人が頻々と出たならば、此隆世を尚ほ五倍十倍も盛んにすることが出来ると云ふ計算が申上げ得るであらうと思ひます、是は私が、楽翁公に最も深く敬服するところであります、併し私は更に、モー一ツ敬服する所がある、是は、江間君は松平家の御家臣であつて、楽翁公の事蹟には最もお精い方でありますから、或場合には私の説を「否」と云ふ、お言葉が生ずるかもしれませぬが、私は楽翁公の事蹟に立入つて研究して見ると、斯う申上げたい一事がある。楽翁公の老中首席になられたのは天明七年の六月で、それからして寛政の六年迄其職を続けられた、即ち七年の間将軍の補佐役で居られたのであります、勿論学識と云ひ、徳望と云ひ申分のないお方でありましたが、当時の将軍は誰であつたかといふと、十一代の将軍、徳川家斉公であつた、楽翁公は家斉公と幾つ年が違つて居つたかと云ふと、十五歳の長者であつた楽翁公が三十の時に家斉は十五であつた、そうして楽翁公の辞職する時分が二十一か二であつたと思ふ、斯る幼主に対して楽翁公は之を奉じて政を執られたが、併し此家斉公と云ふ人も中々の英主であつて、徳川の十一代程国家が無事に治まつて人民安逸に暮したことは罕である、初代の家康公・二代の秀忠公などよりも位官が進んだではないけれども、此家斉公と云ふ人は一度も上洛しなかつたのである、幕府代代の将軍中に上洛をせぬ人は皆太政大臣の官職にはなれぬを例とせしに、此家斉公は上洛もせずして太政大臣になつた、故に其時の落首に
  上洛もせずに太政大臣は
    これぞぶしやうの初なりけり
と云ふのがありましたが、其「ぶしやう」と云ふのは、横着と云ふこ
 - 第30巻 p.70 -ページ画像 
とゝ将軍と云ふことゝを懸けたのであります、それで、又其返歌に
  ぶしやうとも物臭いとも言はゞ言へ
    くらひ過ぐればうごかれはせず
と付けたことがある、其の位に権勢が盛んであつて、徳川末路の栄華を示し、殆ど徳川氏の命脈を縮めたと云ふても宜いのであります、是は私の推断かも知れませぬけれども、頼山陽が外史を書いた、其外史は源平に始めて徳川に止めて居る、今の文恭院家斉公で止めてあるが徳川氏の盛んなる玆に至つて其の極に達す、と云ふことを書いて、是が絶筆になつて居る、蓋し山陽が深い考を以て書いたのだらうと私は思ふ、春秋の筆法で云へば、盛んなれば必ず衰ふ、徳川氏の盛玆に至つて其極に達すと云ふまでに、家斉公の驕奢、家斉公の権勢が、朝家に対し、諸侯伯に対して強かつた、又位官の陞つたことも例外であると云ふやうなことを叙し来つて筆を止めて居る、此家斉公と云ふ人には六十七人の子があつた位の人であるから、其後宮に婦女の多かつたことも推して知られる、又頗る華麗の事を好む驕奢な人であつた、併し悪人ではなかつた、悪い人ではなかつたが、楽翁公とは、気の合つた人ではなかつたと思ふ、其証拠を一つ申すと、田沼玄蕃頭の出頭の時分に、田沼に附随して最も力のあつたのは水野出羽守であつた、此水野出羽守も田沼の罷められた時に罷められた、所が楽翁公は寛政六年に職を辞して、其後任は松平伊豆守と云ふ人が承継した、其伊豆守と楽翁公とは稍々意志の合つた人のやうに見受けられる、彼の尊号美談と云つて世間に伝へられて居る、家斉公の父の位を進める為に、時の天皇の父君に太上天皇の称号を奉らうと云つて、中山大納言と云ふ人が関東に於て幕府の同意を求めたところが、それを楽翁公が弁駁してとうとう説破つてしまつたのである、即ち尊号に付て朝廷と幕府との間に大取合がありました、其一方の執政者は楽翁公である、公は此事に関して尊号美談と人に称せらるゝ迄に、中山・正親町の両勅使の関東に来られた時に、此松平伊豆守と協議して之を処置した、故に楽翁公が職を辞した時には水野は直ぐ出ぬが、其翌年に再び老中となつて居る、玆に私は其順序を調べてありますが、其時の事は斯う云ふ有様になつて居る。
 田沼玄蕃頭の御役御免になつたのが天明六年の八月二十七日である是が楽翁公の老中になる前年である、此時に田沼は大変に罰せられて二万石を取り上げられた、其後三万七千石を返上した。それから田沼に附随して、才略もあり其時のやり手と言はれた水野出羽守は七年の三月に罷められた、此の七年の二月に楽翁公が老中になられた、さうして此水野出羽守は楽翁公が辞職した後、寛政八年の十二月に再び老中になつて居る、楽翁公が罷めた直ぐの後任は松平伊豆守信明と云ふ人であつたけれども、一年経つと出羽守が老中の筆頭になつた、此水野出羽守を専ら用ひたのは大御所様、即ち徳川家斉公である、であるからして此事実を調べて見ると、家斉公と、楽翁公とは意志が合はなかつたに相違ない、其為に早く職を引かれたと云ふことは、争ふ可らざる事実と思ふ、併し楽翁公は非凡の賢者であつたから、数年の間に相当の事業を徳川家に為した、僅か七年の政事が徳川氏百年の寿命を
 - 第30巻 p.71 -ページ画像 
続けたと思ふ、而して公は七十二迄長寿をした人であるから、更に二十年も三十年も在職することが出来たならば、徳川の政事は充分に改革が出来たに相違ない、漸く改革の緒に著くと、家斉公が邪魔をした又別動隊としては大奥と云ふものが中々の跋扈であつて、此大奥の方からも公をいぶせく思ふて、其面倒なることが段々に大きくなつて来たものだから、公自らもこれを覚つて其の職を去つたに相違ないと思ふのであります、若し之れに相違ないとするならば、実に楽翁公と云ふ人の性質の惇朴であつて、人格の高潔であつたと云ふことを証拠立て得ると思ふ、何故なれば、此辞職に於て、一も時の将軍と説が合はなかつたとか、或は大奥と紛議を生じたとか云ふことを表に露さずにしまつた、其有様が、江間政発君などにも一ツも分らぬと云ふは、全く楽翁公と云ふ人は自身椽の下の力となつて、徳川家の倒れんとするを支へたんであると云ふ事が分る、最早自分の説が行はれぬと見たから拠なく、敢て争ふ場合でないと考へて、恨も言はず、苦情も称へずに、風月を友とし文墨に親しんだ、而し成るべくたけ世の風潮の改善に力めたけれども、大勢はさうはならなかつた、如何に楽翁公が在るにもせよ、驕奢は次第に増長し、風俗は次第に衰頽して、遂に山陽をして、玆に至つて其極に達すとまで言はしむる迄に至つた、其山陽が書いた外史の中にも、楽翁公が時の将軍と材格《(扞)》のあつたと云ふやうな事は少しも見えぬ、前に申した通り楽翁公の気象は、是非とも田沼玄蕃頭を罷めさせたと云ふやうな、至つて気性の強い、思ふた事は何処までも通すと云ふ人であつて、三十五・六や四十位になつて其精神が変し、気風が移る筈はない、変せずに移らずに、さう云ふに柔かに治め得たと云ふことは、実に聖賢の徳がある人と言はねばならぬと思ふのであります。それと相照応して面白いのは、前に申した山陽が其頃に、徳川の驕奢が余りに過る、今に幕府は倒れると云ふことを思ふたから、今のやうな筆を執つたに違ひない、さうして其の外史は誰れに依つて世の中に発表したかと云ふと、現在山陽の外史には、山陽が楽翁公に奉つた文章が楽翁公の序文と共に載つて居る、楽翁公が特に侍臣を遣はして外史を見ることを求めた、其為めに山陽が、楽翁公に奉るの書と云ふものを書いたのである、其文章には宋の蘇轍が時の宰相韓魏公に奉つたと云ふ文章を土台にして、さうして昔蘇轍が韓魏公の人物を名山大川に比して、これを偉として其文の骨子としたと云ふことは、我心を世間の人に知つて貰ひたいが為めであらうと思ふ、然るに頼襄は此の書物を作りましたが、未だ人に知らせやうとは思はない故に私は求めなかつたが、閣下が人を遣して此書を見たいと云ふて、見て下さる、蓋し蘇轍は韓魏公に求めたが、私はさう云ふ事はない、却て閣下が私に求めた、併し私は今此書の世の中に知られることは求めぬ、今知られることは求めぬが、百年の後に知らる事を好まぬぢやあない、閣下が見て下されば後に見る人があるだらう、後に見る人は頼襄は如何なる心を以て外史を書いたかと云ふことを知るに相違ない百年の後には知れるであらうと思ふ、是は頼襄も心に思はぬ訳には参りませぬと云ふ趣意である、即ち其文章は、徳川家が終に倒れるといふ意味を表面にこそ現はさね、裏面には含んで居るのである、其の外
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史は楽翁公が非常に尊んで、それを世の中に紹介してやつたのであります、だからして、賢者学者の奇遇と云ふものは甚だ面白いものであると私は思ふ。そこで、其れ等の意味よりして申しては甚だ恐れ入るけれども、今の誓文に対して、其終りに私は斯う云ふことを書き添へて置きました。先ず誓文の方を読みます。
 天明八年正月二日、松平越中守義奉懸一命心願仕候。当年米穀融通宜しく、格別の高直無之、下々難儀不仕、安堵静謐仕、並に金穀融通宜、御威信御仁恵下々へ行届き候様に、越中守一命は勿論之事、妻子之一命にも奉懸候て、必死に奉心願候事。右条々不相調、下々困窮御威信御仁徳不行届、人々解体仕候義に御座候はゞ、只今之内に私死去仕候様に奉願候、生ながらへ候ても中興の功出来不仕、汚名相流し候よりは、只今の英功を養家之幸、並に一時之忠に仕候へば、死去仕候方、反つて忠孝に相叶ひ候義と被存候、右の仕合に付き、以憐愍、金穀融通、下々不及困窮、御威信御仁恵行届、中興全く成就之義、偏に奉心願候。敬白
これが誓文の本文であります、それから書き添へましたのは
 此誓文は松平定信公幕府の執政となられて後八箇月を経て、天明八年正月二日本所吉祥院に祀れる歓喜天に捧げられし密封の心願書なり、公薨去十数年の後、寺僧これを発見せしも寺宝として秘蔵せしを以て、世人未だ曾て此事ありしを知らざりしが、明治の初其寺の衰頽と共に世にいでて、今は公の後胤たる松平子爵の家宝となれるなり、抑も公は幕府の衰世に当りて出でゝ宰輔の職に就き、一身を以て中流の底柱となり、幕府の危殆を拯ひ、能く中興の隆治を致せしは、固より天授の才識に因ると雖も、亦以て正心誠意不自欺の実学修養に識由せずむばあらず、今此文を読みて当時を回想すれば、公の精神躍如として楮墨の間に溢れ、人をして悚然として容を改めしむるものあり、而して我東京市養育院の興る亦実に公が遠大なる遺法の余沢に基く所なれば、此文に対して誠を推して敬重の意を表すれば自ら公在天の霊相感応するを覚ふ、乃ち恭しく一本を写して之を本院の神位に充て、以て永く公の遺徳を諠れざらしめむとす。
  明治四十四年五月十三日     東京市養育院長
                   男爵 渋沢栄一
斯う云ふ書き添を致して此処に納めました次第でござります、白河楽翁公が多方面に渉つて偉大なる功能を現はしたと云ふことは、先刻江間君からの叮嚀なお話で諸君も大抵御了解下さつたでせうが、此の養育院が公に負ふ所の多いのは前に申しました通りでありまして、斯の如き公の遺徳を永久に忘れぬやうにしたならば、即ち公の在天の霊は何時までも此養育院にあつて保護して下さるであらうと私は思ふのであります、聊か平素の所感を述べて、諸君の御賛成を乞ふた次第であります。


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK300002k-0007)
第30巻 p.72-73 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年    (渋沢子爵家所蔵)
五月十日 晴 軽寒
○上略 安達憲忠氏来ル ○中略 来ル十三日楽翁祭ノ事ヲ談ス ○下略
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   ○中略。
五月十三日 晴 暖
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リ、楽翁公忌日ノ祭典ヲ挙行シ、読経・祭文朗読ノ後、児童ニ公ノ履歴ヲ通俗的ニ談話ス、畢テ午飧ヲ食ス ○下略
   ○栄一ノ談話筆記ヲ欠ク。


東京市養育院月報 第一三五号・第一〇頁 明治四五年五月 松平楽翁公の紀念祭(DK300002k-0008)
第30巻 p.73 ページ画像

東京市養育院月報  第一三五号・第一〇頁 明治四五年五月
○松平楽翁公の紀念祭 五月十三日巣鴨分院講堂に於て松平楽翁公の紀念祭を執行せり、蓋し本院の創設に関しては実に公の遺沢に依るもの少なからず、乃ち同日午前十時十分開会、職員児童着席後引続き来賓の着席を請ひ、高畠副幹事開会の辞を述べ、了て児童一同起立して君が代を合唱し、一同敬礼の後、蓮岡・本多の両教誨師の勤行あり、夫れより安達幹事渋沢院長に代りて祭文を朗読し、院長更に児童一同へ対して尤も懇切簡明に祭文の意義を説明せられ、最後頗る熱烈に児童に訓誨する所あり、十一時四十五分頌徳の唱歌にて一同退場せり、午後一時再び講堂に於て講演会の開催あり、安達幹事演壇に起ちて七分金の由来を話し公の遺徳を頌述し、井上法学博士は公が為政上児童保護に対し苦心せられたる事蹟の講述あり、余興としては井の頭学校生徒の小舞及狂言、石原女史の薩摩琵琶、柳家連中のお伽噺手品等ありて、児童の喜び一方ならざりき、又出院児童寄贈の製作品、並に本院児童の製作品等は幼稚園及階下第二号室に並列し、孰れも来賓の目をひかざるはなかりき、斯くて午後五時芽出度閉会を告げたり。


九恵 東京市養育院月報第一四七号・第一七―一八頁 大正二年五月 巣鴨分院の楽翁祭(DK300002k-0009)
第30巻 p.73-74 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一四七号・第一七―一八頁 大正二年五月
○巣鴨分院の楽翁祭 五月十三日巣鴨分院に於ては例年に倣ひ白河楽翁公の祭典を執行せり、当日は折悪しく雨天なりしにも拘はらず、来賓には内務省嘱託生江孝之・岡田次郎作・市会議員西沢善七・小柴市兵衛・今野信隆・秋虎次郎・坪谷善四郎・糸川正鉄・女子大学校長成瀬仁蔵・三井顧問益田孝・第一銀行重役佐々木慎思郎・瓦斯会社重役福島甲子三・同支配人萩原源太郎等の諸氏、並に高橋板橋署長・大塚駅長、無料宿泊所・労働共済会・救世軍月島労働宿泊所等の各主任、及び日本・二六・万朝報・東京朝日・中外日報・大和・都各社新聞記者等の諸氏、其他百余名を算し、皇典講究所国学院大学講師青戸波江氏司祭の下に、午後一時より院内講堂に於て左の順次により、いと厳粛に其式を了せり。
 午後一時    一同式場へ参列
 一 祭員着席
     予め祓式を行ふ
 二 降神    管掻警蹕此時一同起立
 三 献饌    此間奏楽
 四 祝詞    此時一同起立
 五 玉串奉献
 六 撤饌    此間奏楽
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 七 昇神    管掻警蹕此時一同起立
終了後渋沢院長・江間政発・文学博士三上参次諸氏の楽翁公に関する講演あり、拍手喝采裏に閉場せしは同六時二十分にありたり、当日尤も来賓諸君の注目せられしは、本院保存の楽翁公が町法改正に関する古文書にして、其他児童の製作品並に就学児童の成績表等一々手に取りて感嘆せられたる模様なりき、食堂には余興として丸一の大神楽、梅の家一派の落語等ありて、収容の児童は勿論、奉公先より来院せし児童に至るまで孰れも大喜びにて見物せり、猶来賓諸君への土産として楽翁公の誓文、並に院長よりの寄贈に係る頼子成上守国公書並に院の概況書各一部を進呈せり、又瓦斯会社よりは該祭典資の中に加えられたしとて金五拾円を寄贈せられたり、玆に記して其厚意を深謝す。


九恵 東京市養育院月報第一四九号・第一―七頁 大正二年七月 論説(院長渋沢栄一)(DK300002k-0010)
第30巻 p.74-78 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一四九号・第一―七頁 大正二年七月
    ○論説 (院長 渋沢栄一)
 今日は雨天で甚だ御迷惑とお察し申しましたが、斯く多数お出でを戴きましたのを深く感謝致します、白河楽翁公と養育院とは其関係甚だ遠いやうで、亦頗る密着して居るのでございます、故に月の十三日を私は養育院の巡廻日と定めまして、殆ど二十年ばかり毎月必ず罷出て居ります、殊に五月の十三日は公の祥月命日に当りますから、昔を偲ぶために年々心ばかりの祭典を営むのであります、昨年までは仏式を以て致しましたが、寧ろ神式に依つたら宜からうと云ふことで、本年は御覧の通り神式の祭典を営みましてございます。今日は三上博士と江間政発君に御話を願ふ筈になつて居ります。私は唯々御礼を簡単に申上げるに過ぎませぬが、それに添へて聊か感想を述べやうと思ひます
 養育院と云ふ名のまだ起らぬ前、初めて市内の乞食を集めました時に、如何なる金を以て其救助に充てたかと云ひますと、それは江戸市中の共有金と云ふものを使ひまして、爾来明治十二年に東京府会の成立つ迄は引続き共有金を使つて居りました、而して其共有金なるものは楽翁公が寛政度の善政により市中に積立つたもので、其れが維新以後まで残存して私の記憶に依りますと、東京府会の成立つた時に継続した金額の総計が六十余万円であつたと思ひます。故に此養育院と云ふものは若し楽翁公の積立金がなかつたならば、其成立を見ることが大分後れはしなかつたか、して見れば寛政の善政は後代にまで大に裨補する所があつたと云ふことを深く感謝致すのであります。のみならず唯今祭典の祝詞に神官の述べられました通り、例へば石川島の寄場を造つたこと、又は救育場を造つたこと等の、済賑恤救の政はなかなか届いて居ります、今日から見れば開けない封建時代に於て此の如き美事善政の行はれたのは、楽翁公あつてでございます、況や其善政の余慶が此養育院の基を成して居りますので、其徳を追慕するために年一回の祭典を営みまして、諸君の如き方々に御出席を請ふたのでございます
 殊に今日御手許に養育院から差上げました、楽翁公が聖天に捧げた祈誓文のことでございます、楽翁公は天明七年に老中首席に任ぜられ
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て、其翌年(寛政と改元す)の正月に本所の吉祥院と申す寺院に勧請してある歓喜天に此心願書を捧げた、それは御自身書かれたものであるから、其儘写真にしまして印刷し、今日御出席の皆様に進呈致しましたから後で篤と御覧を願ひます、此心願書は其当時には世に顕れませぬで、維新後に漸く吾々の知ることが出来たのであります、これに就いて見ましても楽翁公はどうぞ執政在職中に善政を行ひたい、若し誤つたならば己れ一身は勿論、妻子眷族までを罰して下されと其身を犠牲に供して聖天に祈願を籠めたのである、其精神のある所を考察しますると、実に涙の溢ぼれるやうな仕方であつた、世間には兎角名を衒ふ人が己れは斯ふ云ふ偉い念慮であると云つて他人に知られることを力める者があるが、是れは寧ろ卑しむべく嫌ふべき行為と謂はなければならぬけれども、楽翁公のはさう云ふ意志でなくして、誰にも知らせぬ、秘密の心願であつて維新まで分らなかつたのが、維新以後初めて世に顕れたのであります、真に尊ぶべく敬ふべき事柄でありますから、養育院は之れを一つの神体として祭つて置くのであります、先刻一つの筒に容れて差上げましたのは、祈誓文と、併せて其事由を私が書添へましたものでございます、どうぞ御緩りと御覧を願ひます
 更に一本の小冊子を私より差上げました、是は諸君の御存知の頼山陽先生が外史を編纂になりました後に、楽翁公に呈した所の「上楽翁公書」と云ふ文章でございます、其文章は先生が自ら執筆せられ草書でも行書でもなく、恭しく楷書で書かれて、而も極く沈着した書方でございます、時の老中首席を勤められた所謂大宰相に呈するのであるから、充分に敬意を尽されたものと見へます、其本書が現に松平家に保存されて居ります、嘗て拝見を致しましたが、余りに其文章も筆蹟も慕はしく思ひますので、之れを松平家に願つて私が印刷を致しましたのでございます、楽翁公に上つた山陽先生の自筆と、風月翁と云ふ名を以て楽翁公が外史の序文を書かれた公の自筆と、両々相対して頗る珍しいものでありますから、前に申述へた祈誓文の理由書と併せて差上げましたのでございます、祈誓文に付ては前に申上げました通りでございますが、山陽先生の楽翁公に上つた書面に依りますと、洵に其当時が追懐さるゝのでございます
 楽翁公は天明七年から寛政六年まで七年間政治を執られまして、職を退いて後十数年の間閑散な位地に居られたが、矢張り白河の藩主で五十五歳の時に藩主を嗣子にお譲りになつて致仕されたのは文化九年であつた、又山陽先生が上けた書面を受取られたのは文政十年で、同十二年五月十三日に逝去されましたから、丁度逝去の二年前でございます、それから風月翁といふお名を以て外史の序文を書かれたのが十一年正月でございます
 山陽先生が差上げた文章には何ふ云ふことが書いてあるかと申しますと、先生が例の雄大の筆を揮つて、宋の蘇轍が韓魏公に上げた書に擬ふて縦横に論じて、此外史を著述せしは斯る理由で編纂したのである、又徳川家に対する評論は決して憚らずに褒貶してある、善を善とし、悪を悪と書いて、聊も阿諛の言を用ひぬ書方になつて居ります、それから特に注目すべきは、宋の蘇轍は韓魏公に求める所があつた如
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くに人に言はれたけれども、それは韓魏公が其時宰相であつたからである、然るに閣下は先年宰相であられたが、今日は職を罷められた御方であるから、私が何を申上げても聊か求める心のないと云ふことは世間が知つて呉れるであらうと思ふ、且私は求める心がないから此書面を上げるのである、此外史は私が一家の私乗として調べたのであるから杜撰な所もあらう、併し自分は深く心に期する所があつてこれを編纂したのである、而して私は今日に求める心はございませぬけれども、百年の後には必ず求める所がないとは申されませぬ、此事は閣下も必ず御了解なさるであらうと書いてあります、蓋し山陽先生は徳川幕府の末路の人である、十一代将軍家斉公が徳川家十五代の中で全盛を極め、且っ驕奢を尽した人であるが、先生は其頃の人であります、当時の極盛を見て徳川家の末路と断案し、外史の末文に於て、徳川氏の盛なる是に至つて其極に達すると云ふと書いてある、又楽翁公は田安家の生れで、徳川家の血統にして殊に執政も勤めた人である、此楽翁公に此文章を呈したのは大に注目すへき処かあると思ふ、先生の心事は楽翁公に対して、不言の中に閣下の執政たりし寛政の政を継続せられたならば徳川家は維持し得らるゝであらうが、爾後の徳川家の有様にては到底物極れは必す変せさるを得ぬといふことを、陰に筆誅したと言ふても宜い、それと知りつゝ楽翁公が此外史を受取つて序文を書かれた、尊卑懸隔して居るから席を同ふして談じたことはなかつたらうが、所謂意気の投合して居る所が頗る慕はしく考へられるのであります、其事に関して松平家に縁故の深い江間政発君に質しましたら同君は種々調査して呉れましたが、楽翁公に書面を出した時の山陽先生は如何なる感想を有つて居つたかと云ふと、楽翁公の御側に居たりし田内主税と云ふ人に宛てゝ、斯う云ふ書翰を山陽先生は出して居るこれを見ても大分そこらの消息が分るやうであります、玆に其書翰を朗読して御聴に入れませう
 御状拝見仕候、御上益々御機嫌能被為在奉恐悦候、貴公様愈御安健被成御勤仕珍重奉存候、然者先達被仰遣候拙著外史、略思召に相協候に付、為御会釈、御纂集之集古十種全部二函、加之白銀二十枚御恩賜被仰付、不存寄栄耀之至、長蔵家貽子孫可申 誠恐感戴仕候、誠に数十年尽心力候儀、得有識鉅公之寓目候さへ忝次第に奉存候、不図更辱此賜候段本意至極に奉存候、早速国元老母抔へも申遣し、一同感佩仕候事に御座候(此場合に直様国元の老母に言つてやつて喜ばせると云ふのでも、先生が孝道に深かつたことが分ります)亡父在世に候はゞ如何程か相喜可申、是又設位祝告仕候、是等の趣乍恐可然御取成仰上可被下候、奉話上候集古は未得詳覧、猶追々可申上、御謝詞迄如斯に御座候、恐惶謹言
尚所感を述べた詩が一つございます
流行に背いて姑く辛い世の務をして居る、其骨折に依つて出来た外史は決して官を求めやう抔と云ふ野心を有つた訳ではない、故相といふは楽翁公を指すのです、故宰相は何う云ふ心で此書が欲しいと云ふて御取りなさつた、定めて冷かな処で門を閉じて見て下さるであらうと斯う云はれて居ります、是れは楽翁公たる人が徳川家の当時の驕奢を
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見て、心に深く憂苦せらるゝであらうと云ふ想像を置いたに相違ない此の如きは楽翁公の心と、山陽先生の心と相懸隔して居る中に相投合したものと論断しても、決して間違ひではなからうと思ふのでございます
 前に申上げました通り、楽翁公は徳川家の政治を改革するに当つて命を懸けて神明に誓はれたと云ふ、実に畏敬すへき御方でございまして、其等の点から見ましたならば、今此養育院が広い東京で貧民二千人を収養するは何のものかはございませう、此等の貧民をして安処を得せしめたと云ふて、迚も楽翁公の如き大偉人を見傚ふ訳にはまいりませぬけれども、私初め養育院に従事する人々が矢張り一身を犠牲にして是れに当り、公の遺された徳を拝受するのみならず、其精神を拝察して聊かたりとも是れを修得して、追々と此等の事業を秩序的に発展させたいと考へて居るのでございます
 此処に持出しましたのは楽翁公の愛用された杖でございます。今日友人の益田孝君に案内状を出して同君も来られる筈であつたけれども俄に差支が出来たによつて自分の名代として此杖を差出すと云ふて送られました。何うしても此杖が益田君に伝はつて居るかと云ふと、楽翁公の幾代の後であるか、板倉伊賀守(幕末の御老中)の御家が松平家の縁家でございまして、其家へ此楽翁公の杖を贈られた。それを又板倉家から益田君に贈られて、現に益田君の愛蔵の品でございます。よく見ますると、楽翁公だけのことがあります。多分これは長過ぎるので短くしたものと見える。それから杖の頭の部分が開くやうになつて居りまして、此中に筆がある、此処が墨壷です。(実物説明)。弾機があつて、押すと中からビストルでも出るかと思はれるが、ビストルではなくして矢立が出た。楽翁公としてさもありさうなことで、甚だ面白く感じました。益田君は折角秘蔵の宝物を今日のお祭に際して見せて下されたことを喜びます。実に楽翁公と云ふ御方は、独り誠忠を以て国家に尽されたのみならず、多方面に渉つて居つた人で、即ち此の如きことにも必ず考案を出された様に察するのであります。今も別席でお話致しましたが、私は一幅の画を有つて居ります、それは彼の三国志の関羽を画いたものでございます。其画は実に立派なものでございます。此の如く多芸であつた。多芸な人は悪くすると軽薄に陥り易いが、如何にも敦厚な御方であつたと云ふことは感服の外ございませぬ
 申上げますることが錯雑致しましたが、要するに楽翁公の祈誓文を捧げた精神は、実に国務を執る人々は然うあつて欲しいと思ふのであります。養育院に従事する人々は成可く其心を取失はない様にしたいと思つて居ります。私初め一同今日楽翁公の事を御披露すると共に、吾々共も其心得で此養育院に従事して居ると云ふことを申上げて、諸君の御同情を請ひたいと思ふのでございます(拍手)

 先刻一言申落しましたことがございますから附加へて置きます、御手許に差上げました中の演説筆記は、先月十三日に市会議員の方々が大塚の本院に御出で下されました時に、私が養育院の沿革と将来の希
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望とを申述べました筆記でございます、印刷したのを今日添へて差上げたのです、今日の楽翁祭には殆ど関係がないと云はなければならぬから、諸君に強ひて御覧に入れるのは烏滸がましいやうな訳で恐縮でざいますけれども、養育院の今日に至りますまでにはいろいろ混雑して居りますから、其性質沿革等は誠に分りにくいのでございます。それを成べく分らせたいと思つて、明治三年頃から大正二年の今日に至る迄の経過を稍々秩序的に申上げまして、それから現在は斯うなつて居るけれども、東京市として貧民其他救助すべき者を収容するには斯くしたいと云ふ理想も書添へてございます、又現在の地所は何万坪、建物は何千坪、基本金は幾許と云ふ様な現況も添へてございます、只今三上博士から御話のございました如く、此東京市に於ける有力な御方々に成可く見て戴くは勿論のこと、他の方面の人々にも成可く御知りを願ふやうに力めたい、是れは度々思ふことでございますので、丁度市会議員の諸君が御出で下された時に、之れを詳しくお話して置いたら宜からうと云ふので、私の記憶を主として申上げたのが印刷されたのでございます、此事を先刻申上げませぬでございましたから一寸申添へて置きます

 唯今江間君が御話し下すつた通り、楽翁公の事は凡ての方面に於て面白いことは申す迄もございませぬが、養育院の関係は積立金が主でございます、市中に積金をした金が残つて居つたと云ふことが養育院の起原であります、それは本院の幹事の安達君が余程叮嚀に調べて居ります、実は時節あつたら御耳に入れやうと考へて居りましたが、遅くなりましたから略して申上げませぬ、就きましては将来本院の月報に出しますから、其れに依つて御覧下されますならば有難う存じます


九恵 東京市養育院月報第一五九号・第二三―二四頁 大正三年五月 楽翁公記念祭(DK300002k-0011)
第30巻 p.78-79 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一五九号・第二三―二四頁 大正三年五月
○楽翁公記念祭 本院に尤も縁故深き松平越中守定信公の祥月命日たる五月十三日、恒例に依り巣鴨分院講堂に於て楽翁公記念祭を執行せり、当日来賓の重なりしものは、東京市長阪谷男爵・田川助役・富士川游・三輪政一・佐藤正興・藤井源兵衛・藤岡真一郎・塚田幸三郎・佐々木和亮・松下善太郎・岡田治郎作・村瀬戒興・芳野世経・森利平松濤神達・景山佳雄・高田慎吾・今道小十郎・佃与次郎・松田良雄・藤井庄一郎・藤田豊吉・長岡安平・柳沢栄一・島峰伊智子・古橋幸正久保田清・鈴木審三・花井源兵衛・戸井時子・小西信八・森田章三・田中太郎等の諸氏、並に都・中央・婦女新聞・万朝報等の記者諸氏にして、午後一時三十分一同式場に参列の上、皇典講究所講師平岡好文氏司祭の下に尤も厳粛なる祭典を挙げたり、而して其次第は左の如し
 (一) 一同式場に参列
 (二) 祭官着席     予め祓式を行ふ
 (三) 降神(管掻警蹕) 一同起立
 (四) 献饌       奏楽
 (五) 祝詞       一同起立
 (六) 玉串奉献
 - 第30巻 p.79 -ページ画像 
 (七) 撤饌       奏楽
 (八) 昇神(管掻警蹕) 一同起立
右了て二時二十分よりドクトル富士川游氏が、専攻の医学史観より楽翁公が医学及医事教育に関する逸事に就て講演を試みられ、次て阪谷市長は、公が勤勉・節約・慈愛の三徳を兼備せられし事実に就て尤も興味ある講話あり、四時三十分来賓一同暫時休憩の後、院内各室を巡観し、殊に児童製作品陳列室に入りては、暫し歩を停めて感嘆せられき、了て解散せられしは同六時四十分にてありたり
   ○栄一、中国旅行中ノタメ出席セズ。


渋沢栄一 日記 大正四年(DK300002k-0012)
第30巻 p.79 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 曇 少シク寒冷ヲ覚フ
○上略 午後一時ヨリ楽翁祭ヲ開ク、祭典畢リテ講演会アリ、佐久間氏・戸川氏ノ演説後、楽翁公ニ関スル撥雲録及宇下人言ニ就テ一場ノ講演ヲ為ス、午後六時散会 ○下略


竜門雑誌 第三二五号・第六六―六七頁 大正四年六月 ○楽翁公祭(DK300002k-0013)
第30巻 p.79 ページ画像

竜門雑誌  第三二五号・第六六―六七頁 大正四年六月
○楽翁公祭 東京市養育院にては例年の通り五月十三日午後一時より大塚本院に於て楽翁公祭を執行したり。当日の来賓は府・市・内務省等の救済事業に関係ある役員及市会議員等約二百余名にて、院長青淵先生並に戸川残花氏等の追悼演説あり、尚ほ同院収容の五百六十余名の子供達には別室に於て茶菓を与へ、余興として丸一の太神楽其他の催しありたれば、一同心より嬉しげに日の暮れるのを惜めりとは左もありけん。 ○下略


九恵 東京市養育院月報第一七七号・第一―一二頁 大正四年一一月 楽翁公の人格(渋沢男爵講演)(DK300002k-0014)
第30巻 p.79-87 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一七七号・第一―一二頁 大正四年一一月
    楽翁公の人格 (渋沢男爵講演)
諸君、私は昨年の今頃は丁度支那へ旅行を致して居りましたので、例年の此楽翁祭に出席することも出来ませんでしたが、本年は幸に支障なく出席することが出来ましたのを甚だ喜ばしく存じて居ります。
先刻来佐久間君及び戸川君より段々有益な御話を承はりまして、此会の為に諸君と共に両氏へ深く御礼を申上げて置きます、佐久間君の御話は御自分の実歴論で、楽翁公の御心配によつて積立てられた七分金が幕末に於て如何に始末されたかと云ふことからして、維新革命の落着に至るまでの御自身の経過を精しく御述べ下さいましたので、私共も坐ろに当時を想起こす感がございます、同君に於ては定めし御苦心もなされたことであらうと存じますが、然し又其御尽力が江戸の町をして焦土たらしめなかつたと云ふことは大なる隠徳で、此場合に於ても同君の御苦労を深く感謝せねばならぬやうに思ひます、又戸川君のは極く趣味の深い御話で、我々に於ても興に入つて拝聴致したのであります、楽翁公が政治以外の方面にも大層御心を用ひられ、又優れた能力を御持ちになつて居られたのみならず、文芸上にも豊富なる智識と技能とを持つてござつたと云ふこと、及び其御注意が如何にも優美であつたと云ふことは、真に感服に堪えぬ次第でございます、私も楽
 - 第30巻 p.80 -ページ画像 
翁公の詠ぜられた和歌などを書いた書物を持つて居りますし、殊に自身が一つ珍重して持つて居りますのは画幅であつて、何れに伝はつたのであるか分かりませんが、私は江間政発と云ふ人から引受けて珍蔵して居りますが、着色と云ひ絵柄と云ひ誠に立派なものでございます斯の如く歌も御詠みなされ又絵画もなされ、其他園芸に、美術に、総ての事柄に優れてござつて、而して民政及び国防等経世的の御考にも甚だ優越した見識を以て居られたと云ふことは、甚だ珍らしいことであります、兎角多芸な人には一心の堅固と云ふことが乏ぼしく、或は意思が堅実でないとか、精神が透徹しないとか云ふやうなことがあるが、楽翁公は之に反して極く精神堅固な御方であると同時に、又た多能多技な御方であつて、普通凡庸の徒には望み難いやうに見えるのでございます、実際公は凡庸どころではなく、非常な傑物であらせられた、故に其御一代の事に就て御話しすれば実に際限のないことでありますから、今日は私自身の感想等に就て申述べることを致さす、玆に公の自著に係かる撥雲秘録と申す書物を持参致しましたから、之れを少しばかり読むで、楽翁公の御人格・御精神等を諸君に能く御知らせして見たいと思ふのであります。
先づ此秘録が如何なる書物で、又たどう云ふ訳で私が之れを見たかと云ふと、それは松平家に極秘してある箱があつたのであります、此書物の現はれた謂はれは、江間政発氏が序文を書て居りますので、これを読めば明かに分るのでありますが、然し此序文も中々長いもので、悉く読むと頗る時を費しますから大要を御話しすると、一つの大切な箱が松平家に古るくから伝はつてあつた、然し其れは極秘の箱で松平家でも開けることが出来ないであつた、偖て或時其箱が破れたに付いて其の破ぶれ目を少しばかり開けて見ると、封印がしてあつて、其部分に職に就いた者でなければ開封してはならぬと云ふ楽翁公自身の封印がしてある、職に就くと云ふのは老中の職に就くと云ふ意味であるが、維新後になつては老中になることはないから開けて見ても宜からうと云ふので定教子の時代に其れを開けて見ました、定教子爵は曾て養育院の常設委員にお成りなさつたことがある御方で、今の御当主様の先々代に当りませうと思ひます、其御方が開けて見ますと、撥雲秘録と云ふ標題で、尊号事件の顛末などが余程詳らかに書いてありました、当時に於ける京都の公卿衆の評議とか、又関東に於ては老中の評議廻しとか云ふことが、皆仔細に書いてある、而して其事件の結末に就ては余程心配されたものと見えて、総て其書類を一纏めにして他人に見せない為に開封を許さぬと云つて封じ込めて、焼く訳にも行かぬから、何かの時に或は見る人があるかと云ふ考を持たれたものと見えるのです、此秘録の中に「宇下人言」と云ふ標題の一巻がある、宇下人言とは何の意味やら一寸分かりかねる文字であるが、能く考へて見ると定信と云ふ字を分解して書いたものゝやうに思ひます、定と云ふ字はウ冠の下に下の字と人の字を書き、信と云ふ字は人と言の二字で出来て居る、故に人と云ふ字だけが共通で、宇下人言の四字を組合はせると定信となる、御自身が認められたものであるから、それであるからそれで宇下人言と云ふ分からぬ標題としたものと見えます、即ち
 - 第30巻 p.81 -ページ画像 
一種の自叙伝であります、誠に面白く且つ切実に書いてある、元来之れは秘書であるから、松平家でも世の中に公けには致されませぬが、其秘書を開く時に江間政発氏は之れに列席した一人であつた為め、写して持つて居ります、私は一冊を同氏から借覧したので、それで此書物があることを知つて居るのであります、楽翁公の伝は大抵世間皆どなたも知つて居られるし、私も御話し致したことがありますから、申上げることが自然重複する虞れがある、又た此書は秘密になつて居りましたから、其内容を余り喋々御話することも如何と思ひますが、さればと申して今日の時代となつてまで秘して置くべきものでもあるまいと考へまして、本日此席に持参致したのでございます。
先づ此書の初めに斯う云ふことが書いてある。
 「宝暦八年歳星戊寅にやどる十二月二十七日に生る、生れてより虚弱なりければ、いたつきにのみ罹りて、成育の程頼みなかりしとぞ伊東江雪法眼なんと云ふ医師灸薬を施したりければ、稍長じぬ(生母は香詮院といふ、我名は賢丸といふ)五つの春二月田邸災あり、予は乳母の腹にし上苑の滝見の茶屋に遁れたり」
田邸と云ふのは田安家の御屋敷でありまして、公五才の時之れが焼けたのであります、上苑とは御城内吹上の御庭のことで、即ち将軍家の御庭と云ふ意味であります。
 「今にも其炎火のさま覚えて居侍るなり、上使ありて御城に退き侍れとの仰せにて、悠然院殿・宝蓮院殿・高尚院殿御始めとして、予が如きまでも皆々上りたり」
是等の何院殿と仰せらるゝは、楽翁公に対して何う云ふ御間柄の方々であるかは、調べて見ぬと能く分りませぬが、兎に角其等の方々と共に御城内へ避難されたのである。
 「将軍家治公いとまめやかに仰せ言ありて、くまくまの御恵み浅からず、此時百猿の御巻物と山本大夫の奉りし伊勢の御祓を賜りしなり、其時暫く御城に居たりければ、心や鬱し侍らんとて吹上の上苑に伴ひ給ひ、或は能興行ありたり、悠然院殿・宝蓮院殿は五・六日もやたちけん、宮内卿殿の別業の芝と云ふ所にあなるを借りて住み給ふとて、御城を罷ん出給ひぬ、予等は久しく御城に居たりけり、いと御恵み浅からず、将軍家にも殊に鐘愛し給ひける御事とて、後後に語り聞かせ侍ることなり、それより田邸の別業四谷の里に仮の殿造り出来にければ、余等も皆御城をば罷ん出侍りぬ、明けの年田邸の御館出来にければ、皆々移りぬ
 六つの年に大病に懼りたり、生くべき程心許なかりけれど、高島朔庵法眼等多くの医師打集ひて医しぬ、九月の頃平療す、七つの頃にやありけん、孝経を読み習ひ、仮名なんど習ひたり、八つ九つの頃人々皆記憶もよく才もありとて褒めのゝしりければ、我心ながらさもあることよと思ひしぞはかなけれ」
之れは御悧巧だ御悧巧だと皆が御世辞を言ふから、自分自身も悧巧な積りで居たのが恥かしいと云ふ懐旧の情を叙べられたので、甚だ床しき述懐であります。
 「其後大学など読みならひたる頃、幾かへり教えられ侍りても、得
 - 第30巻 p.82 -ページ画像 
覚え侍らずして、さては人々の褒めのゝしりけるは、諂らひ阿ねるにこそ、実はいと不才にして不記憶なりけりと、八つ九つの頃ふと覚りぬ、之を思へば幼き時褒めのゝしるは、いと悪しきことなるべし、十余りの頃より名を代々に高くし、日本・唐土へも名声を鳴らさんと図りけるも、大志のやうなれども最と愚かなることにぞ侍りける」
之れに依つて見ると、十歳位の時から海外にまで聞える程の人物になりたいと思はれた、之れは実に非凡なことである、然かし御自身ではそれは大志のやうではあつたけれども、烏滸の次第であつたと謙遜して居られるのであります。
 「其頃より大字など多く写して人の需めに応じたりけり、皆々請需めしも諂ひの種に生ひ出でしことなれば、其需めに応じて書きける心いと浅かりけり」
私共も時々字などを書かせられるが、或は楽翁公が玆に言はれたやうなことがあるかも知れませぬ。
 「十余り二つの頃著述を好みて、通俗の書など集め、大学の条下にあふ事々を書集めて、人の教戒の便りにせまほしく思立ちて書きけれども、古きことも覚え侍らぬ上、通俗の書は偽り多しと聞きければ止めたり」
もふ十一・二歳の頃から著述をして人の教にならうと思ふことを書き始められたのであるが、然かし古いことは知らず、又た通俗の書を参考にすると事実を失ふて居ることがあるから、読者を誤らしめてはならぬと思返へして止められたのである。
 「今思へば、真西山の大学衍義の旨趣に類したる大旨なれば、蒐め侍らざりしぞ幸ひとも云ふべきにぞ、此頃より歌も詠みたれど、皆腰折の類にて覚えもし侍らず、又頼よる人もなければ、自からよみて反古にのみしたり、鈴鹿山の花の頃、旅人の行きかふ様画きたるを見て
  鈴鹿山旅路の宿は遠けれと
     振捨てかたき花の木の下
 と詠みたるも十余り一つの頃にありけん」
十一歳の時に既に斯う云ふ歌を詠まれたのは、文芸上に於ても天才であつたやうに思はれます。
 「十余り二つの時自教鑑と云ふ書を書きたり、大塚氏に添刪を請ひたれは、其うちの書にしては見よきなり、今もあり、清書の頃明和は七つとあれども、五年の頃より作りたり、父上悦び給ひて史記を賜ふ、今も蔵書になしぬ、十余り一つ二つの頃より詩を作りけれど平仄も揃ひかねて人にも言ひ難き程なり
  雨後の詩に
   虹晴清夕気  雨歇散秋陰
   流水琴声響  遠山黛色深
  又七夕の詩に
   七夕雲霧散  織女渡銀河
   秋風鵲橋上  今夢莫揚波《(夜)》
 - 第30巻 p.83 -ページ画像 
 とよみたるも多く師の添削にあひたれば、斯かる言葉とはなりたりける」
之れで見ますると楽翁公と云ふ御方は、生来非常に多能で、少年の時分から余程優ぐれて居つた御人のやうであります、自教鑑と云ふのは楽翁公蔵書の中に出て居りますが、自分の身を修めると云ふことを自から戒めた書で、余り長篇ではないやうに記憶して居ります、私も昔之れを読むだことを覚えて居ります。楽翁公は又た甚だやさしい性質の御方であつたが、然かし老中田沼玄蕃頭の政治をひどく憂へて、迚も是では徳川家は立行くことは出来ぬと云ふ位に憤慨して、是非此悪政を除くには田沼を殺す外はないから、身を捨てゝ田沼を刺さうと云ふことを覚悟したと云ふことが、此書の中にも書いてあります、元来至つて温和な思慮深い御人であつたが、或点には余程精神の鋭どい所のあつた方のやうです、尚ほ続いて読んで行きますと癇癖の強い所があつて、それを侍臣が厳しく諫めたことが書いてあります。
 「明和八年予は十余り四ツになれり…………予此頃より短気にして僅かのことにも怒りふづくみ、或は人を叱怒し、又は肩はり筋いだして理をいひなんとしたり、みなみななけかしとのみいひたり、大塚孝綽ことによくいさめたり、水野為長常にいさめて日々のよしあしをいひたり、聞けばいと感じけれど、ふづくみの情に堪がたきに至る、床に索道のかきし大公望の釣する画をかけて、怒の情おこれば独りそれに打向ひて其情をしづめけれども堪かねたり、ひと日全く怒の情なくくらしたく思ひしかど、終に其頃はなかりき、此くせも十八の歳より洗ひそゝぎしやうになりたるこそ稀有なれ、全く左右の直言ありし故なるべし」
之れに依つて見ると此御方は天才を有つて居られて、而して或点には余程感情の強い性質を持つて居られたが、之れと同時に大層精神修養に力を尽くされた御方である、だから善い性質の御人が尚ほ努めて修養に意を用ゐ、遂に楽翁公の楽翁公たる人格を築き上げたものと見えるのであります。
又た公は世の奢侈を憂へられ之れを禁じ、倹徳をすゝむるを以て治国の第一義とせられたのであります、此事に就き撥雲秘録中に公は次の如く記るされました。
 「いにしへより治世の第一とするは、花奢をしりぞけ末を押へ本をすゝむることにぞあんなれ、然るに宝永・正徳の頃より花奢になりもてゆくといへども、前にもいふ如く宝暦・明和の頃の二十年は世風くづるゝ事早く、前の二十年はくづるゝことおそかりけり、既に今にも七十ぢ八十ぢの老婆は、いづれも銀のかんざし・たいまいの櫛などさしたるは一人もなし……笄なども竹などをさしたりといふ今の世にては竹の笄など見しものもなく、銀など差す人も稀にて、符《(斑)》のなきたいまいの櫛・笄などさすなり、裏屋なんどに住むものもたいまいのかうがい差すものもあり、衣服などいふも二十年前なかりし品々織出すなり、京縮なんどいふは、近き頃出でしを老中・重役の面々着たりしかば、越後にて織出す縮は営中へは着ても出でがたき程なりけり、其外女の衣服など、画にかくとも及びがたき縫な
 - 第30巻 p.84 -ページ画像 
どして出すなり、既に今はいかなる田舎の山中にても砂糖入りし餅なんどはあり、是等のこと枚挙すべからず」
又た公は今日欧米諸国及び我国に於ても八ケましく論議せらるゝ農村荒廃問題、即ち人口の都会集中問題に就ても深く心配をせられて、次の如く言つて居られます。
 「……町方人別の改てふものも只名のみになりければ、いかなるものにても町に住みがたきものはなく、出家の定めもなければ、実に放蕩無頼の徒すみよき世界とはなりたり、さるにより在方人別多く減じて今関東の近き村に荒地多く出来たり、やうやう村には名主一人残り、其外は皆江戸へ出でぬといふが如く末にのみわしりけり、これによつて其制度なければ費すものかく多く、生ずるものかく少なければ、いかにして生財の道を開き、いかにして物価を平らかにし、いかにして治世の御術をなし給はんや、天明午の年諸国人別改められしに前の子の年よりは、諸国にて百四十万人減じぬ、この減じたる人皆死うせしにはあらず、只帳外となり又は出家山伏となり又は無宿となり、又は江戸へ出でゝ人別にも入らずさまよひありく徒とはなりにけり、七年の間に百四十万人の減じたるは紀綱くづれしか、斯くばかりのわざはひとなり侍るてふことは、何ともおそろしといふもおろかなり」
斯くて公は浮華を却け、節用を専らにし、帰農勧本の必要を主張せられたのであります、之れに依つて見ても、如何に公の着眼が遠大であつたかと云ふことが想像せらるゝのであります。
尚ほ今日序ながら玆に御話して置きたひと思ふことは、例の尊号事件の一条です、世は尊号美談などゝ云ふて、中山大納言が大層偉らい公卿で、又関東では松平越中守が名宰相で、此二人の間に重大なる交渉談判が行はれたと云ふことを一の美談として言伝へ、特に福地源一郎即ち桜痴居士などは、尊号美談と題す書物を拵へて、一時世人は盛んに之れを愛読しましたが、然かし其書いてある事実は誤りが多く、撥雲秘録に依て見ますると、あんな華やかなものではなかつたのです、尊号一件の起つたことは、時の天子即ち光格天皇が其御実父に太上天皇の尊号を差上げやうと云ふ御考へで、之れを関東へ御相談になつたのが起因であります、其時分には総てさう云ふことは京都と江戸の評議に依て決するやうに相成つて居つたから、武家伝奏を以て関東へ御相談になつた、然るにそれは御宜しくあるまいと云ふことを関東から御諫めした、さうして其主張者は越中守であつた、其御諫めした顛末が所謂尊号事件なるものとなつたのであります、而して此問題に就て幕府が之れを承知せぬものだから、京都に於ては関白以下夫れ夫れの役人が種々評議をして、全体幕府がそれを承認するとかせぬとか云ふのが間違つて居る、怪しからぬ次第であると云ふて、種々京都の方に議論があつて、再三関東へ高圧的の御沙汰があつたが、飽く迄もそれを押し返へして不同意を主張したので、遂に其事に就て深く心配されたる中山大納言及び正親町大納言、それからもう二人ばかりあつたと思ひますが、兎に角此両卿が関東へ下向されて、幕府の当局者と大に議論を闘はされると云ふことになつたのであります。伝ふる所によれ
 - 第30巻 p.85 -ページ画像 
ば之れは、幕府が尊号問題に就いて再三京都の御沙汰を突返した結果京都に於ては何か考ふる所があつたと見えて、俄然尊号に関する御沙汰を徹回せられ、其れにて万事解決が着いた筈であるにも拘はらず、幕府は右撤回の理由を取調ぶる為め非公式的に両卿を関東に召喚したのだと云ふ説もありますが、此間に処して楽翁公即ち松平越中守が国家の為め非常なる苦衷を尽くされたと云ふことは、陰れもない事実であります、而して両卿の江戸着後、将軍に代つて両卿、特に中山卿と論難せられたるは越中守であつて、其苦心は蓋し一通りではなかつたのであります、故に事の結果より見れば、越中守と云ふ方は天子の孝道を御尽しなさるのをお妨げ申したやうな形ちになつて居るので、尊王どころではない、甚だ皇室を侮蔑したと見受けられるのですが、然かし其所が大層むづかしい所であつて、従つて其顛末も世の中に知らせぬやうにして仕舞つたやうに見えます、全体此尊号事件と云ふものが単に皇室に関することのみでなくて、寧ろ是は関東に関することであつた、其時の将軍は十一代で徳川家斉即ち文恭院と云つた人で、近頃まで世人は之れを大御所様と称なへた御人である、此家斉と云ふ人と松平越中守、即ち楽翁公とは従兄弟である、八代将軍吉宗の子供の一人が田安家へ行き、他の一人は一橋家へ行き、両方とも御孫があつて、一橋の方の孫は宗家の相続をした、之れが家斉で、一人は田安家の方から松平越中守に養子に行つて老中になつた、さう云ふ関係でありましたから、時の将軍家斉と云ふ人と楽翁公とは、年が幾つ違つたかと云ふと丁度十五歳違つて居つた、楽翁公が老中になつたのが三十歳の時で、其時に将軍家斉公は十五歳であつた、それから数年経つて多分寛政の五年であつたかと思ひます、家斉公が二十歳程になつて、一橋家の我が実父の為めに徳川家累代に未だ曾つて受けたことのない儀同三司と云ふ職を是非貰受けやうと云ふことを思ひ立れた、近侍の重臣などは将軍の意を迎へる為め熱心に賛成し従慂したのでありました、其処へ丁度尊号問題の御沙汰があつたので、将軍及近侍の士は機乗すべしと私かに喜んだのであります、何となれば、取らんとすれば先づ与へよと云ふ諺の通り、天子の御実父へ太上天皇の尊号を奉ることに賛成し、之れを成就せしめて置けば、皇室に其例を開らくことになつて、将軍の父へも高位を貰ひ受けるに都合がよいと云ふ、悪く申せば自家の為めに尊王をダシにつかはふと云ふ考であつたのです、之を楽翁公は知つて居たから、斯くては徳川家をして驕奢に長ぜしめ、家斉将軍の一身を誤るのみでなく、悪くすると天下の害になると云ふことを深く懸念して、遂に尊号問題に不同意を主張し、断然京都の御趣意に背いて之れを排斥して仕舞ふた、是が尊号事件の大要であります、此事を研究して見ると、段々松平定信即ち楽翁公の苦辛が更に明らかになつて来るやうです。
偖て楽翁公が老中になられたのが天明の七年である、天明六年には田沼玄蕃頭の悪政が極点に達した、殊に天明の初年からして数年来引続いて種々なる天変地妖が生じて、或は浅間山が大噴火をしたとか、大凶作があるとか、大洪水があるとか、毎歳さう云ふ災害ばかりが続いて来た、それと云ふも田沼の悪政に対して所謂天が災を来たらすのだ
 - 第30巻 p.86 -ページ画像 
と云ふやうな観念が世人の胸中に生じて来たから、とうとう親藩たる御三家に於てもぢつとして之れを見ていることが出来なくなつて、やかましく言い出し、遂に田沼玄蕃頭は閣老の職を罷められた、其処で生じて来た大問題は、此頽廃した幕政を誰に依て回復せしめたら宜からふかと云ふことであつた、其時分に松平越中守定信は、家柄と云ひ又身分と云ひ、申分なく、且つ頗る賢明な人だと云ふことが知られて居つたので、若年にも拘はらず推されて老中の職に就いたのである、越中守は其時に深く覚悟して、愈々職に就いた以上は善政を以て民を済ひ、徳川家の勢威を再興したいと云ふ決心から、丁度天明の八年正月の二日に、本所の吉祥院に祀れる歓喜天に、誓文の如き心願書を捧げた、之れは老中の職に就てから八箇月目のことであります、即ち幕府の政治を充分に改革し、人民を塗炭の苦しみより救はんとする熱心なる精神を以て神に祈願を懸けられたのであつて、多分諸君も御承知のことであらうと思いますが、念の為の[念の為め]一寸読み上げて、諸君の御聞きに入れます。
 「天明八年正月二日、松平越中守儀奉懸一命心願仕候。当年米穀融通宜しく、格別の高直無之、下々難儀不仕、安堵静謐仕、並に金穀御融通宜く、御威信御仁恵下々へ行届候様に、越中守一命は勿論之事、妻子の一命にも奉懸候て、必死に奉心願候事。右条々不相調、下々困窮、御威信御仁徳不行届、人々解体仕候儀に御座候はゞ、只今の内に私死去仕候様に奉願候、生ながらへ候ても中興の功出来不仕、汚名相流し候よりは、只今の英功を養家の幸、並に一時の忠に
 仕候へば、死去仕候方、反て忠考に[忠孝に]相叶ひ候儀と被存候。右の仕合に付、以御憐愍金穀融通、下々不及困窮、御威信御仁恵行届、中興全く成就之儀、偏に奉心願候。敬白
実に一読涙下だる底の熱血を籠めたる誓文であります、之れを見れば楽翁公は命懸けの覚悟で責任の地位に坐したので、理想的政治家と云ふのは斯かる人物のことを申すのでありませう。
偖て斯くの如き覚悟で政柄を執り、諸般の改良も稍や端緒に就いた時に、思掛けなくも前申す尊号事件が起つたのである、即ち将軍家に於て其実父の為めに前例以上の待遇を朝廷に望むと云ふ意思があつて、其望を遂ぐるに就ては、先づ第一に新天子の御実父を太上天皇に崇め奉つて、其を例として将軍家の実父にもさう云ふ高位を貰ひたいと云ふ考であつたから、楽翁公は之れは所謂名を正しくせぬ仕方であると云ふことを深く考慮された、是が尊号一件の情である、故に其ことが終ると間もなく楽翁公は職を辞した、将軍家に於ても此事件から多少不快に感じてゐたのでありませう、若し時の将軍が楽翁公をして、其職に留まらしめんと希望したならば、無理にも止めたかも知れぬけれども、左はなく辞職を許しました、さりなから辞職後も殆んど十四・五年間は丁度今言えば元老のやうな位地で、政治のことに相談に与かつて居りますが、其後は全く天下の政治に関係を絶つて、其れから尚ほ十四・五年も経過して七十二歳で薨去になりました、故に尊号一件と云ふものは実に公一生中の困難事であつたことは、此書物に依ても見えまするのですが、是等のことは余り世間に今まで広く知られて居
 - 第30巻 p.87 -ページ画像 
りませぬ、今日と雖も極めて秘書として松平家に存されてあるのを、深い縁故ある江間政発氏が写取り置きましたる為め、幸に私は之れを見るを得たのでございます、右様の書物であるから公会の席で御話することは憚り多いかも知れませぬが、此前々の会にも私は申したことでありますが、楽翁公は唯だ慈善とか又は節倹とかに御注意が行届いたばかりでなく、深く徳川家の将来を慮つた偉人であるが、其苦心された事柄を文書に認めた儘単に之を家に伝えて、世に公けにせず、俗に申す縁の下で[椽の下で]力持をして仕舞つた所が、寧ろ大功績であると思ひます、総して世の中は兎角自分に先見の明もなく、才識乏しいに拘はらず、あの時に乃公は斯く将来を見透ほしたとか、或は斯かる功業を遂げたとか自分で自個吹聴したがるのが一般の人情である、それ程結構な品物でなくとも無闇に立派な広告をする、其実物を見ると凡庸であるが、百倍にも二百倍にも嵩をかけて吹き立てるのが世の中の常であるが、楽翁公のなされ方は全く之れと反対で、事実御尽しなされた所の功業も成るべく之れを晦まして人に知れぬやうになし、所謂縁の下で[椽の下で]力持をすると云ふ犠牲的観念の最も強い御方であつた、之れは真に床しいこと貴いことであり、其人格の如何に高かつたかと云ふことも之れに依つて想見せらるゝのであります。
先刻来、段々佐久間君・戸川君から各方面に於ける楽翁公の働きを賞賛されましたが、私は又見えぬ所、即ち隠れたる[陰れたる]所に公の大なる功績が存して居ると云ふことを御話し致したのであります、想像ばかりでは御話が抽象的になりますから、丁度斯かる書物があつた為に、一部を読むで其一端を玆に御披露致したのであります、若し時間の余裕が御座いますれば他の部分をも読みまして、尚ほ種々の方面に於ける公の余影を察見したいのでありますが、段々薄暮になつて参りましたから遺憾ながら今日は之れで止めまして、他日又機会を得て御話し申上ることゝ致します。


大正五年度第四十五回東京市養育院年報 第一七頁 刊 大正五年度主要記事(DK300002k-0015)
第30巻 p.87 ページ画像

大正五年度第四十五回東京市養育院年報  第一七頁 刊
    大正五年度主要記事
○上略
楽翁公紀念祭 五月十三日例年の通り巣鴨分院講堂に於て楽翁公紀念祭を執行せり、朝野の来賓百余名、渋沢本院長・辻文学博士の講演あり、頗る盛会を極む。
○下略
   ○栄一ノ講演筆記ヲ欠ク。


竜門雑誌 第三四九号・第九七頁 大正六年六月 ○白河楽翁公記念祭(DK300002k-0016)
第30巻 p.87-88 ページ画像

竜門雑誌  第三四九号・第九七頁 大正六年六月
○白河楽翁公記念祭 東京市養育院巣鴨分院にては恒例に依り、本年も五月十三日午後一時より楽翁公の記念祭を執行し、院長青淵先生を始め各役員恭しく玉串を奉献して荘厳なる祭典を執行し、式後午後二時より講演会に移り、大日本史の関係者たる水戸の栗田勤氏、特に上京して楽翁公の老中に推挙せられたる当時の事情に付き詳細なる新史料の講演あり、次で青淵先生には天明の饑饉と楽翁公に就きて興味あ
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る講演を試みられ、普通道徳家は経済的知識に乏しく、又経済的知識を有する人士は徒に蓄財にのみ没頭して他を顧ざるを常とすれども、我が楽翁公に至つては、彼れ程の道徳家たるにも拘らず、他面に於ては大なる経済的知識を倶有して、乱れに乱れし幕府の財政を整理し、其余沢の深遠なる、今日に至る迄尚ほ我が東京市の諸施設に偉大なる恩恵を被むれるが如き、道徳及経済の両方面に卓越せる翁の如きは、未だ他に其類を見ずとて、熱心に公の偉業を歎称せられ、其散会せるは午後五時なりきと云ふ。


九恵 東京市養育院月報第二〇七号・第二〇―二一頁 大正七年五月 ○楽翁祭(DK300002k-0017)
第30巻 p.88 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第二〇七号・第二〇―二一頁 大正七年五月
○楽翁祭 五月十三日例年の通り巣鴨分院に於て左記次第により楽翁公の祭典を挙行す、当日来賓百余名盛況なり
 式次第左の如し
  一、一同入場(午後一時半)
  二、祭官著席(予め祓式を行ふ)
  三、降神  (管掻警蹕―一同起立)
  四、献饌  (奏楽し楽人三人)
  五、祝詞  (一同起立)
  六、玉串奉献
  七、撤饌  (奏楽)
  八、昇神  (管掻警躍―一同起立)
  九、講演  (井野辺茂雄先生)
        (渋沢本院長)
 一〇、退場  (四時半)
因に当日は田尻市長の講演ある筈なりしが、公務差支あり臨席なかりしは遺憾とす、猶当日の講演書記《(筆)》は次号の月報に連載すべし
   ○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。


渋沢栄一 日記 大正八年(DK300002k-0018)
第30巻 p.88 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 曇 軽寒
○上略 午飧後巣鴨分院ニ抵リ、養育院ノ白河楽翁祭ヲ執行ス、式後一場ノ感想ヲ演説ス ○下略


九恵 東京市養育院月報第二一九号・第二八頁 大正八年五月 楽翁祭(DK300002k-0019)
第30巻 p.88-89 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第二一九号・第二八頁 大正八年五月
    ○楽翁祭
五月十三日午後一時より例年の通り巣鴨分院に於て楽翁祭を執行せり式次第左の如し
  一、一同入場(午後一時)
  二、祭官着席(祭官ハ皇典講究所講師今光慥爾氏外三名、並ニ伶人三名)
  三、降神(管掻警蹕一同起立)
  四、献饌(奏楽)
  五、祝神(一同起立)
  六、玉串奉献
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  七、撤饌(奏楽)
  八、昇神(管掻警蹕一同起立)
式終つて講演会に移り、沼田頼輔氏の考古学上より見たる楽翁公につき極めて有益に興味深き講演の後、渋沢院長の挨拶にて盛会裡に閉会す、当日の参列者は官公署慈善団体関係者等百二十余名なり。


楽翁公記念祭講演集 東京市養育院編 第三巻・第七九―八八頁 大正一一年刊(DK300002k-0020)
第30巻 p.89-93 ページ画像

楽翁公記念祭講演集 東京市養育院編  第三巻・第七九―八八頁 大正一一年刊
    ○楽翁公の心事 (子爵 渋沢栄一)
      (大正八年五月十三日楽翁公記念祭に於ける講演)
 例年の楽翁祭に斯く多数皆さんの御臨場を辱けなうしたことを感謝致します、私も毎年出席して楽翁公の事蹟に就て御話を申上げますことに致して居りますが、幾回も同じことは申上げられず、又私の浅い学問では精しいことを申上ぐることも出来ませぬが、幸に今日は沼田氏の「考古学上より見たる楽翁公」てふ有益な御講話を諸君と共に拝聴致すことを得まして、楽翁公の御力が各方面に這入つて居つたことを承知することが出来たのであります、私は此記念祭の節数回楽翁公のことに就て申上げたことがございますが、尚ほ玆に繰返して申上げて見たいと思ふことは、元来楽翁公は極めて御熱心な極く一徹なお方のやうに推察する者もありますが、決してさうではないと云ふことであります、私の知人に桑名藩の旧臣江間政発といふ方がありますが、此人の写本したもので撥雲録といふ書物がございます、之れは楽翁公のお家の秘書になつて居りまして人に見せなかつたものださうでございますが、明治二十七年に初めて土用干か何かの時に開けて見たのださうでございます、之れは松平定教といふお方が秘め置かれたもので同家の土蔵の中に誰れも開けて見てはならぬといふことを書き附けて封印してあつた、それが段々長い間に木は腐り縁なども壊はれて、何時の間にか破れ目から中が見へた、それから開けて見ると、将来老中になつた人だけは見ても宜ろしいが、其他の者は見てはならぬといふことが中の方に書いてありました、併しながら幕府が亡び、老中などの職制がなくなつた明治二十七年のことでありますから、如何にお書き置きになつても、老中が見ることは到底出来ない、ソコで開けて見やうといふことで、打寄つて評議の上、改めて見られたのでございます、それは勤王美談といふて其前後に頻に持て囃された中山大納言東下りの事が記録されて居ります、之れは寛政四年の頃、楽翁公が老中筆頭の時分に処理された事件で、御自身でも大層苦心して記るされたのでございます、然し事徳川家に関することでありますから、厳密に秘め置かれたやうであります、モウ一ツは宇下人言といふ書物で、此の宇下人言と云ふ語は定信といふ御自分の名を分解して作くられた文字であつて、之は定信即ち楽翁公御自身の自叙伝の如きものである。御自分が宝暦八年十二月二十七日に御生れになつて、文政十二年五月十三日御他界の時まで、七十有余年の寿をお保ちになりました其間のことが詳らかに書いてございます、子供の時は斯ういう風であつたとかいふことが書いてございます、此御自身の伝記に依つて見ますと、文学趣味等も大変に深くあらせられたやうに思ひます、併し御自身は
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甚だ卑下して書いてございます、人に褒められるなどゝいふことは考へて見ると甚だツマらぬものである、家来などが自分を褒める、褒められる其時は嬉しく思つたが余り褒められるのは決して其子供の為にならぬ、或る場合には奨励になるが、或る場合には自慢の種を作るやうなことがある、故に注意すべきものであるといふことを、幼少ながら御感じになつたことが書き連ねてある所など、相当年輩の者よりも勝れた点がございます、又十二歳の時ですか自教鑑といふ書物を作られた、即ち修身上のことに就て心に期する所を書き連ねたものがあります、之れは楽翁公の至情から出て居るもので、其著作をした時には大変親御から賞められて、史記一冊を褒美に頂戴して大層嬉れしかつたといふことが書いてあります、又十六歳の頃より能楽に心を寄せ頻に謡曲又は能などを始められた、絵画も其時分に始め、歌も其時分から始めたと細かに書いてございますが、悉くは記憶致しませぬ、併し此書の中には殊に老中田沼の政治を酷どく憤慨せられ、之れでは徳川家はどうなるか判らぬといふ所から田沼を刺さうかと考へたが、再び思案するに若しさういふことをすると、自分だけは意志が達し得らるるが、第一徳川家に大変傷を附け、其罪悪を世に発表する訳になる、唯自分の意志を遂げるだけで効果がない、何うかして大事に至らぬ間に国家を救ふことに努めたいと思つて、遂に自ら短慮を出来るだけ取抑へたといふことが書いてあります、是等を思つて見ましても、只今沼田氏のお話しの如く考古学上から申しても、大変に勝ぐれて国といふものを深く思はれたお方でございます、さうして又た青年時代の溌溂たる有様はなかなか一途な気象で、悪く申すと癇癖の強い感情の昂かぶつたお方のやうに見受けられます、三十歳の年即ち天明七年に老中の職に就かれましたが、之れは水戸の治保公といふ方が主唱して、何うしても定信公が国家の重責に任ずるに一番適任であるといふので御三家評議の上遂に首席老中の職に就かれたのである、而して其職に就かれてから間もない時のことですが、越前家に御嫁しになつて居られた妹君……之れが又大変な賢婦人であつたが、兄上を御訪問になつて、此程は老中に御就任になり祝着に存ずるが、定めし御覚悟のあらるゝことであらう、閣老の職は唯尋常一様のお職ではないと思はれますが、如何なる御覚悟を以てお勤めになりますかと御尋ねになりました、スルト公は唯一死国に報ゆるより外はないと答へられたので、其御覚悟ならば何も申すことはありませぬと云つて帰へられたといふことなども書いてあつたと思ひます、蓋し公は夫れ程の覚悟を以て職に任ぜられたのでありますから、それ故でございませう、天明八年の正月即ち老中の職に就かれてから、半年経つか経たぬ時に本所の吉祥院に心願書を上げられたのは、余程深い決心を持たれたからであると察せられます、其心願書は御自身にお書きになつたものでございますが其れを写しまして石摺りにして数年前の楽翁公記念祭の節臨場の方々に差上げたことがございます、今日玆にはございませぬが、全くの御誓文で一命を差上げた書方でございます、其書き出しは「松平越中守儀一命を懸け奉りて心願仕候」と云ふ文句で段々と心願の次第を書かれ、若しも此願が遂げられぬならば、私自身は勿論のこと妻子眷族の
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一命を断たれても怨に思はぬといふことが書いてあります、此の心願書を拝見すると一種迷信家であるかの如く思はれるかも知れませぬが決してさうではなく、真実の御意念から命がけで国家の為めに神明の加護を祷つたものであると信じます、総じて意志の強い人は物事が野暮であつて、且つ何事も一途になり易く、広い考を以て各方面に渉るといふことの少ないもので、兎角狭隘に失し易いのでありますが、然し楽翁公と云ふお方は只今沼田氏の御演説にもありました如く、各種の方面に通じて居られる御人でございます、或は工芸のこと、所謂集古十種編纂のこと、絵画及び歌のことなど一として通ぜざるなしと云ふ御方でありました、公は抹茶をなすつたが、それは茶を茶にしてなすつたので、文晁に茶腕と棗と茶筌と茶杓を描かせそれに讚をなさつたが其れが誠に洒落たお歌でございました、又前にも申した通り十六歳の時能をやつて見たくなり、暫ばし稽古せられたが、然かし之れはどうも士君子のやるものでない、斯様な舞は子供の興に過ぎぬ、例へば或武士が敵に卑り下だつて捕はるゝ所などを平気で舞つて居る、武士は己れの意地を尊重せねばならぬといふ点から考へて見ても、自分で自分の境遇を卑しくするものであるとて、二十歳の時スツパリ止めたと書いてございます、さういふやうに一方には広い御考があると同時に他方には極く集中的のお考を兼有されたお方のやうに拝見されます、歌なども悉くは覚えて居りませぬが、極く優しいお歌があるかと思ふと随分硬い御歌もあります、一・二覚えて居りますが、夕顔の歌の如き「心あてに見し夕顔の花ちりて、尋ねぞわぶるたそがれの宿」
誠に優美な歌であります、私は今日の記念祭にも何かよい記念品を呈したいと思ひましたが、別によい思ひ附きもございませぬため、公が年々元旦に読まれたお歌二・三を写すことを松平家に許して頂きまして其れを皆様に先刻差上げましたと思ひますが、次の歌などは元日にお読みになつた歌としては極く珍らしい型のやうに拝見されます、即ち「末終にあたちが原の露の身も国を守りの鬼とならなん」此歌の如きは死するも護国の鬼とならむと云ふ意味に拝察されます、なかなか窮屈のやうに見へますが、方面の非常に広いお方で何の方面にも御意志が届くものと信じます、尚ほ先年も一度申上げたと思ひますが、楽翁公の御心事を拝察してどういふ御考へでなされたのであらうかといふことがある、其れを申して見たいと思ひます、事柄は頼山陽の日本外史と楽翁公との関係ですが、日本外史に公は序文を書いて居られる今其全文は記憶して居りませぬが、凡そ歴史は兎角叙事が鄭寧に失すると冗漫に流れ、簡に失すれば要を逸する虞れがあるものであるが、然し其中庸を得たるものは此書であるといふ極く短い序文を書かれたので、之れは文政十二年正月のことでございます、山陽が日本外史を著はしたに就ては自身も容易ならぬ決心で書いたもので、山陽は此書によりて王政維新の基を開いたものと申しても宜ろしい位であつて、徳川家の為めから申せば此日本外史は幕府に一の致命傷を与へたものといふても宜ろしいのである、而して斯かる著書に対して、幕府の老中をも勤め、血統から云へば身自からは徳川家の連枝の一人であつた楽翁公が序文を書かれ、且つそれを大層珍重して立派な褒美を著者に
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贈られたといふ、此関係は何ういふ御精神に基づいたかといふことを考察して見たいと思ひます、山陽が外史を編纂するに就ては之は一朝一夕のことではない、山陽は春水の子で幼名を久太郎と申し、子供の時は至つて弱かつたのですが、六ツの時春水が保元平治物語りの小説体のものを買つて江戸から送つて遣つたのを七・八ツの頃から読み始めました、而して此山陽が外史を書くやうになつて、保元平治の時代から書き始めたのも妙な因縁でございます、之れは春水が一旦政治史としての日本の歴史を書かうといふことを考へて少し筆を執りかけたが広島藩の或る関係に依て遂に仕事は止めました、それが為めに山陽をして遂にあの意気で外史の著作に一身を投ずるやうになつたものと察せられる、故に二十歳の時脱藩を企てゝ廃嫡され、自分の子に水野某なる妻を迎へ、家は弟に相続させ、自分は浪人の身となつてしまつたのである、蓋し本当に歴史を書かうと思ふには、それより外に途がないと覚悟したのでありませう、世間では甚だ不身持な親不孝な学者であるといふて非難し、京都に出て儒者になる時も、中井竹山などは大変に嫌つて不孝な子であるといふて相手にせなかつたといふことです、之れは山陽の未だ若い時分のことであります、彼れは筆の達者な人であるが、文章を始終書き直して居つたやうに思はれます、故に十八歳の時両親と一緒に江戸に出る時、一の谷・湊川の長篇を作りましたが、之れなども終ひには余程変つて居ります、筑後川の詩なども三十余歳で京都から出て直ぐ九州に廻ります時に作つた詩でありますが是等も最初に作つたものを其後に三回も四回も直したものであると云ふことです、楽翁公が日本外史の存在を知り得たのは、田内主税といふ入が日本外史の出来て居ることを承知して、楽翁公にお話をしたからである、トコロが丁度其頃、時の十一代将軍家斉が太政大臣となり世子即ち将来の十二代将軍家慶が従一位内大臣に陞進せられたるにつき、幕府より謝恩使として、掃部頭井伊直亮及越中守松平定永の二人を京都に遣はしました、之れが文政十年のことであります、而して此副使格で行かれた松平定永と申さるゝのが楽翁公の御子でありましたから、公は其随員に旨を含め、山陽の家に就きて日本外史の稿本を需めしめ、斯くて終に外史を一読せらるゝの機会を得られたのである、公は此書を読まれて甚だ有益に感じられたと見え、稿本を返すと同時に其書の為めに一篇の序文を書き送り、且つ集古十種二部に、白銀二十枚を添へて贈与したといふことであります、又右申す通り公が藩吏を山陽の家に遣はして稿本の借覧を需めしめたのに対し、山陽は深く之れに感激して、昔宋の蘇轍が韓魏公に上りし書に模して、楽翁公に上るの書を作つた、之れは有名な文章であります、是等を見ましても両者相互の関係は極めて深いと思ひます、又外史の本文の最終の文章には酷いことが書いてある、即ち日本外史は十一代将軍の時代を以て筆を止どめ「武門平治天下、至是極其盛云」と申すのが其末文になつて居る、春秋の筆法で云へば殆んど今が徳川の末路であるといふやうな、所謂徳川の命脈は玆に尽くるものであると言はぬ許りの文章が書いてあります、其山陽の外史に楽翁公が序文を書かれたのであります之れがどう云ふ御考へでなされたのであらうかと云ふことが一つの疑
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問であります、蓋し楽翁公の徳川家に対する観念は前にも申上ぐる通りで、尊王のことなどに就ても固い意見を持つて居られたと同時に、其事を成るだけ外間に現はれぬやうに取扱つて居られたことは、撥雲録に依て見ても判ります、さういふやうに徳川家の臣下として固い観念を以て事を処理するの外に、山陽の外史に就ても矢張り相当な心を以て其出版に助勢し、之れに対して序文を書いたといふことは、或る点には正義を重んずる所があり、日本国体に深い尊重の念を持つて居つたといふことが察し得らるゝと思ひます、然るに此間に於て公が斯ういふ観念を抱いて居るといふことを、一も他から端倪することが出来ないやうにして居られたのが、楽翁公の楽翁公たる所以ではなからうかと思ひます、それと同時に之れは想像説でございますが、寛政八年頃時の将軍の後見のやうな位置に置かれて居つても政治の重任に携はらず、後には風月の人となつて全く政治と関係を断たれたのですがそれは蓋し其頃の政治は公が自分の考へ通りにすることが出来得なかつたのかも知れませぬ、将軍家斉といふ方は楽翁公とは全く性格の異なる人であつて、段々年を取られ知識は進み才能も発達して、或は松平定信の執政を好まぬやうになつたのでもあらうと思はれる、其証拠は楽翁公が引退せられると、丁度田沼に随つて居た水野が老中の筆頭となつて主なる政は全く此人が取つたのでも判ります、甚だしきは土方縫之助が時の老中を倒したといふこと迄伝つて居ります、トコロが楽翁公は長い間、八年も政治を本当に執られましたが、徳川家の将来に就て憂慮を持つて居られたであらうと想像さるゝ所が多いのであります、此想像が果して当れりとするならば、山陽の所謂「武門平治天下、至是極其盛云」と云ふ言に対しても、深い意味を以て序文を書かれたので、其心事はどんなであつたらうと、私かに察し上げたいやうに思ふのでございます。
 私の話は総て楽翁公の或る一・二の事柄に就て推察を下したに過ぎませぬから、或は自分の見解が大に誤つて居るかも知れませぬが、然し前申上げた通り、公は至つて内輪の所が多く、苟も公関係のことなどは成るべく世間に現はれないやうにし、尊王問題などに就ても、遂に死なれる迄其書類を秘め置かれたといふことは、公の御性格から来たものであると思ひます、さりながら又最後に山陽の外史も矢張り世に必要なものであると認められたことは、唯徳川家にのみ私する観念でなかつたといふことを窺ひ知ることが出来ると思ひます。
 以上楽翁公に関する自分の観察、殊に楽翁公の日本外史に対することなど、総て私の推察に過ぎぬかも知れませぬが、唯本日の記念祭に当りまして、聊か自分の所懐を述べて、御清聴を煩はした次第であります。                       (完)


九恵 東京市養育院月報第二三一号・第九頁 大正九年五月 楽翁祭(DK300002k-0021)
第30巻 p.93-94 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第二三一号・第九頁 大正九年五月
    ○楽翁祭
五月十三日午後一時より第十二回楽翁祭を巣鴨分院にて執行せり。
式次第左の如し
  一、一同入場(午後一時)
 - 第30巻 p.94 -ページ画像 
  二、祭官着席(祭官は皇典講究所講師今光惟爾氏外三名。並に伶人三名)
  三、降神(管掻警蹕一同起立)
  四、献饌(奏楽)
  五、祝神(一同起立)
  六、玉串奉献(院長、内務大臣代理、東京市長代理其他)
  七、撤饌(奏楽)
  八、昇神(管掻警蹕一同起立)
式終つて講演会に移り、文学博士三上参次氏の楽翁公に関する講演の後閉会す(講演筆記は次号に掲載すべし)当日の来賓は約三十名なりき。


東京市養育院月報 第二四三号・第二三頁 大正一〇年五月 楽翁祭(DK300002k-0022)
第30巻 p.94 ページ画像

東京市養育院月報  第二四三号・第二三頁 大正一〇年五月
    ○楽翁祭
五月十三日午後一時より第十二回楽翁祭を巣鴨分院にて執行せり。
式次第左の如し。
  一、一同入場(午後一時)
  二、祭官着席(祭官は皇典講究所講師大塚承一氏外三名並に伶人三名)
  三、降神(管掻警蹕一同起立)
  四、献饌(奏楽)
  五、祝詞(一同起立)
  六、玉串奉献(院長、東京府知事代理、東京市長代理、其他)
  七、撤饌(奏楽)
  八、昇神(管掻警蹕一同起立)
右終つて講演会に移り、文学博士黒板勝美氏の「賢宰相楽翁公」と題する講演の後、渋沢本院長の挨拶ありて閉会す。
尚当日の来賓は約六十名なりき。


楽翁公記念祭講演集 東京市養育院編 第三巻・第八九―九六頁 大正一一年刊(DK300002k-0023)
第30巻 p.94-98 ページ画像

楽翁公記念祭講演集 東京市養育院編  第三巻・第八九―九六頁 大正一一年刊
    ○楽翁公の犠牲的精神 (子爵 渋沢栄一)
      (大正十年五月十三日楽翁公記念祭に於ける講演)
 私は演説ではございませぬが、一言御礼を申上げます、楽翁公の例祭は毎年行ひます、今日も幸に諸君の尊来を辱けなう致しまして祭典の相済みましたことを深く感謝致します。
 唯今黒板博士より公の御事蹟に就て平素のお蓄へになつて居る御説を詳しく御述べを戴きまして、且つ其末段に於て、養育院がお祭りをするばかりが楽翁公を大にするものではなからう、日本国民として崇敬すべきものであると云ふ一語は御尤でございます、決して本院が楽翁公を私するとか、本院のみの楽翁公としたいと云ふ訳ではございませぬけれども、此養育院が楽翁公に対する関係が甚だ深うございます本院の成立が楽翁公の御遺図と云ふのではございませぬが、明治五年の養育院の発端が、楽翁公が江戸の町法を改正して剰し得た積金が東京市に存在した、其積金が基礎となつて今日に及んだと云ふことが一
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つである、又幕府時代に楽翁公が種々の社会事業殊に済貧恤窮に就て心配をされた故に、当時私共は幕府時代に於てすら尚ほ然り、明治昭代に当りて相当の事がなければならぬと既往を追想する趣意から起つたことも其一つでございます、是れが本院に於て十数年前からして此楽翁祭を行ひます所以でございます、決して楽翁公を小さくするやうな訳ではございませぬから、宜しく御諒承を願ひたうございます。
 楽翁公の事に就きまして更に申上げたいのは、例の白河楽翁公と一般に称へる奥州白河に居城をして御座つた定信公は、田安家から十六歳の時に御養子に行つた方であります、御養父を定邦と申して早く老衰したので、公が青年の時から家政を執られた、後に白河に於て種々仁政を行ひ、白河の町から凡そ半里ほど隔つた所に南湖と云ふ山水明媚の勝地がある、公は此南湖に於て閑暇あれば詩歌又は他の雅典を催ふして遊息された場所だに依つて、数年前より白河の町民が挙つて此南湖に楽翁公を奉祀し、之れを名づけて南湖神社として永遠に伝へたいと云ふことを企てられましてから、最早四・五年の歳月を経過しますが、漸く近頃神社の建築が其緒に就きまして、本月五日柱建の式がありました、私にも此式に参列するやうにと云ふ白河の有志者からの案内を得て、実地に参列して今や神社の建築されむとする有様を拝見して参りました、楽翁公のまだ至つてお若い時分に白河に入府ありて地方の形勝を見て、山があり水があり、至つて風景の佳しい所謂遊息の地である、其場所を南湖と命名して当時の文人墨客が詩歌を寄せられたものを印刷して小冊子となつてあります、私は其冊子を白河の有志者から貰ふて帰りましたので、今日尊来を下された方々に差上げます、幕府の儒官林家を始として、柴野栗山・尾藤二洲、其他歌人も多く有名な人々の詩歌が揃ふて居ります、其詩歌に賞讚してあるやうな大きな勝地ではございませぬが、天然の美景を具へて居ります、此南湖に神社を奉祀するのであります、湖水正面の小山を後にして、水に面して山麓の小高い所に神社が出来ます、真に好い風景でございます私は柱建の式に臨んで、実地を見て真に嬉しく感じました、社殿の出来ますことは悦ばしうございますが、遺憾ながら白河の町が大なる資力を以て其建設を援助する訳にはいかぬから、東京の有志諸君にも多少の御寄附を請ひつゝあります、殊に国家とか地方庁とかで補助するとか云ふのでない、詰り有志者の醵出した金額に依つて建築するのでありますから、其建築の費用は左まで大きなものではありませぬけれども、白河町の有志が土地を一万坪ばかり神社の境域として寄附され又金額でも数千円を醵出しました、社殿の建築に二万四・五千円を要し周囲の整理に一万円余を見積ります、而して神社には相当の基金がなければならぬ、これにも一万円以上を要するから全体では少なくとも五万円位の金額を計上するので、まだ満足に集りませぬから、私は白河の有志と共に此不足を補ふことを目下種々心配を致しつゝございます、今日御列席の諸君に寄附を勧誘するのではございませぬけれども、実際の有様を序ながら陳情致すのであります、楽翁公が国家的の大人格者であられた故に、養育院だけで之れを私して尊敬すべきものでないと云ふ黒板博士の御論は御尤千万でありますが、前に述べた如
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く南湖神社が建立されましたならば、自ら一般の人が楽翁公の偉大なる人格を知り得て、縦令其神社は左まで大きなものでなくとも、永久に楽翁公の精神が広く日本の人々に知れ渡るやうになるだらうと思ふのでございます
 唯今黒板博士から楽翁公に対する至極叮嚀なる御話がございましたから、私は御挨拶に止めて多言は要しませぬけれども、末段に一言公に対する感想を添へたいのは、公は各方面に偉大なるのみならず、真に至誠一貫して犠牲的観念の極めて強いお方でおつたと云ふことを別して崇敬するのでございます、此犠牲的観念の強かつたと云ふことに就きて、私の深く感ずるのは天明七年に水戸の治保公の首唱で、尾紀水の三家申合せて遂に田沼を排斥して、公が老中上席となられたのでありました、此天明の初年頃は徳川幕府破滅の時ではないかと心ある人は憂慮した、政治は田沼の秕政で上下悉く紊乱する、加之天変地妖並び到つて、天明元年より六年までに浅間山が焼ける、江戸に大火事がある、凶作が続く、時の将軍家治公も初めは相当政務を執つたけれども、次第に田沼に籠絡されて百事其意の儘といふ有様であつたので是は大変だと云ふので三家申合せて楽翁公を推挙せられ、公が老中首席になられたのが三十歳で、家斉将軍の十五歳の時であつた、其翌年に寛政と改まりましたが、天明八年一月に、公は自分の決心を自書して本所の吉祥院に祭つてある聖天に心願書を差上げた、今黒板博士の言はれた通り其心願書の文面は実に涙の流れるやうな、肌に粟を生ずる程の凛乎たるものである、極めて通俗なる文章で、其初めに松平越中守一命にかけて奉心願候云々と書いてあります、神がもし聞届けて下さらぬならばどうぞ私を罪して殺して戴きたい、独り私の一命ばかりでなく、妻子眷族が罰を受けても一向恨みと思ひませぬと云ふ事を書いて上げた、さうしてこれを他人に秘して聖天に上げたのが維新後に松平家に戻つて、私共も其真物を拝見することが出来たのであります、是に於て私は楽翁公が如何に鞏固なる決心を以て老中になられたか、実に容易ならぬ覚悟であつたと深く感佩したのであります、要するに公が如何に犠牲的観念に強かつたかと云ふことは、是等を以ても証明し得るのでございます。
 又世間に評判する尊号問題に就ても、真相はまだ誰にも分らぬ、尊号美談として曾て福地桜痴居士が書きまして、演劇にも致しますが、世俗に伝へられて居る尊号美談は全く間違つて居ります、其事に就ては特に実録がございますが松平家で秘してある、今も尚ほ世の中に現はれませぬ、四冊の秘書として現存して居ります、先年江間政発と云ふ人がありまして松平家の旧臣で、文学のある人で、私の為めに慶喜公御伝記編纂のことで種々助力して呉れた人でありますが、此江間氏が松平家に存してある秘書を拝見致しまして、私も其写本を一覧しましたが、これに拠ると其尊号問題の評議書などは多く公が御自身に起草されてあります、且其秘録の外に一冊の自伝のやうな物がありますが、これは「宇下人言」と題してある秘書であります、宇下人言と云ふのは、想ふに定信と云ふ文字を引離したのであつて、幼少の時より自己の感想を遠慮なく記載したる伝記であります、宝暦八年十二月二
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十七日に生れて、五つの時田安邸が焼失して吹上の御茶屋に居つた、時の将軍から大に愛せられたと云ふやうなことから筆を起して、七つの時に書物を読み始めて十一の時に歌を詠み詩を作つた、十二の時に自教鑑といふ小冊子を著述をして、父上から褒美として史記一部を与へられたとあります、先刻黒板博士が公は十三の時に著述をしたと言はれましたが、それは十二の時でございます、此自伝も尊号問題を記録した書類と共に、松平家に秘蔵されて世の中には出ませぬ、蓋し斯様に尊号問題などが秘蔵されたのも、即ち公が犠牲的観念の強い御方であつたからであります。
 特に私が公の犠牲的観念に敬服致しますのは、幕政を執つて居る中に頗る節倹を主として、鞏固なる精神を以て政治を行はれたことである、然るに十一代将軍は頗る驕奢なる人である、徳川十五代を通じて最も盛んなる幕政誇張の時であつた、上洛もせずに太政大臣となつたので「上洛もせずに太政大臣は是ぞ武将の初めなりけり」と云ふ落首のあつた位で、徳川氏の命脈も長くはあるまいと云ふことは、楽翁公には常に憂慮されたに相違ない、殊に先刻黒板博士が、私が頼山陽の日本外史に就て一場の意見を述べたさうなと言はれましたが、数年前の楽翁祭の時に私は其事を申したのであります、楽翁公が外史の著述を知つて、京都なる山陽の家に侍臣を遣して其原稿を徴したのは、多分文政十年の頃将軍家斉公が太政大臣に、家慶公が内大臣に宣下があつたので、井伊掃部頭が正使、松平越中守即ち楽翁公の嗣子が副使で京都へ行つた時に、副使に随従した田内主税といふ人に命じて、山陽の家に就て外史の稿本を得て帰東したのである、さうして之に対して叮嚀なる礼状を以て白銀二十枚と集古十種二部を贈つて、其上山陽の望みに応じて風月翁と云ふ名に於て、外史の序文を書いたのであります、此時の楽翁公は如何に考慮せられたか、嘸苦痛であつたらうと追想すると、公の為に今も暗涙を催します、惟ふに楽翁公は徳川血統の人で八代将軍の孫に当つてゐる、殊に数年間老中の職に居り、将軍輔佐の位地にも数十年任じたのでありますから、徳川家に対する感情は深いに相違ない、然るに前に述べた如く、外史の文章にはどう書いてあつたか、即ち日本外史は筆を家斉公で止めて、さうして春秋の筆法で評すれば徳川幕府を呪ふたと言ふても宜い、保元平治以来武門の天下を制すること数百年続いて居るけれども、此に至つて其極に達すと云ふことで結んである、楽翁公も文学の人であります、其極に達すると云ふは変ずるを意味するのである、極に達したら変ずると云ふことは誰でも理解する、悪く評すれば山陽が徳川家に止めを刺したやうなものである、其止めを刺した山陽の外史を請ふて、さうしてこれに序文を書いてやると云ふことは楽翁公の胸中如何であつたか、此点から既往を察すると、公も山陽も共に徳川家の未来を推知したと云ふことになる、併ながら当時楽翁公と将軍との間には少しも疎隔の有様がない、将軍が楽翁公を嫌ひもせず楽翁公も将軍を誹りもせぬ、飽迄も君臣の礼節を守りて一生を終つた、斯の如く謹厚の性格にして犠牲的観念の強いと云ふことを私は真に敬服するのであります、過刻黒板博士が外史に就て渋沢が云々と申したのは、前陳の事を嘗て何かの機会に
 - 第30巻 p.98 -ページ画像 
博士に御話したのを記憶されたのだらうと思ひます。
 既に黒板博士の御話があつたのですから、特に蛇足を添ふるの要はありませぬけれども、楽翁公は決して唯養育院の為に、又東京市の為に尊敬すべき御方と云ふ訳でないが、近く神社も出来ますれば、吾々が崇敬するのみならず、満天下の人が崇敬するやうにならうと思ふて悦んで居ります、併し天下悉く崇敬するからと云つて、養育院が特に崇敬しても決して悪いことはなからうと思ひます、故に此祭典は年々永久に継続しやうと思ひます、幸に今日は諸君の尊来を辱けなうして是等のことを申上げ得たのを、私は此上もなく悦ぶのでございます。
                          (完)


東京市養育院月報 第二五五号・第一四―一六頁 大正一一年五月 第十三回楽翁公記念祭(DK300002k-0024)
第30巻 p.98 ページ画像

東京市養育院月報  第二五五号・第一四―一六頁 大正一一年五月
    ○第十三回楽翁公記念祭
五月十三日午後一時より第十三回楽翁公記念祭を、巣鴨分院に於て挙行せり。
 式次第左の如し。
  一、一同入場(午後一時)
  二、祭官着席(祭官皇典講究所講師大塚承一氏外三名、並に伶人三名)
  三、降神(一同起立)
  四、献饌(奏楽)
  五、祝詞(一同起立)
  六、玉串奉献
  七、撤饌(奏楽)
  八、昇神(一同起立)
右終りて記念講演会に移り、東京帝国大学教授文学博士宇野哲人氏の「孔子教より見たる楽翁公」並に渋沢院長の「楽翁公に就て」の講演ありて午後五時閉会せり。
 因に当日の来会者は市名誉職員・官公吏・実業家・宗教家・新聞雑誌記者等八十三名に達し中々盛会なりき(宇野文学博士及渋沢院長の講演は次号に掲載の予定なり)
      祝詞 ○略ス
尚ほ当日本院に於ては特に木村事務員を深川霊岸寺なる楽翁公の墓前に参拝せしめたり。


東京市養育院月報 第二六七号・第一二頁 大正一二年五月 楽翁公記念会(DK300002k-0025)
第30巻 p.98-99 ページ画像

東京市養育院月報  第二六七号・第一二頁 大正一二年五月
○楽翁公記念会 五月十三日午後一時より巣鴨分院講堂に於て第十四回楽翁公記念会を挙行せり、式次左の如し
  一、一同入場(午後一時)
  二、祭官着席(祭官皇典講究所講師大塚承一氏外三名、並に伶人三名)
  三、降神(一同起立)
  四、献饌(奏楽)
  五、祝詞(一同起立)
 - 第30巻 p.99 -ページ画像 
  六、玉串奉献(渋沢養育院長・宇佐美東京府知事・大岩養育院常設委員・小栗市参事会員・広橋市会議員・川崎白河町有志代表・田中養育院幹事)
  七、撤饌(奏楽)
  八、昇神(一同起立)
 右終りて記念講演会に移り東京帝国大学史料編纂官文学博士渡辺世祐氏「楽翁公の財政及文教」なる演題の下に約一時間半に渉りて有益なる講演をせられ、終りて渋沢養育院長より参会者に対し一場の挨拶ありて午後四時半閉会せり
 因に当日の来会者は市名誉職・官公吏・実業家・宗教家・新聞雑誌記者其他を合し約百名に達し盛会なりき


東京市養育院月報 第二七四号・第九頁 大正一三年五月 第十五回楽翁公記念会(DK300002k-0026)
第30巻 p.99 ページ画像

東京市養育院月報  第二七四号・第九頁 大正一三年五月
○第十五回楽翁公記念会 五月十三日午後一時より巣鴨分院講堂に於て、恒例に依り第十五回楽翁公記念会を、左記執行順序に従ひて挙行せり
  一、一同入場(午後一時)
  二、祭官着席
  三、降神(一同起立)
  四、献饌
  五、祝詞(一同起立)
  六、玉串奉献(渋沢養育院長・小坂養育院常設委員長・宇佐美東京府知事代理・子爵松平定晴氏代理)
  七、撤饌
  八、昇神(一同起立)
 右終りて記念講演会に移り東京帝国大学史料編纂官竜粛氏「楽翁公の寛政の治に就て」(次号掲載の予定)なる演題の下に約二時間に亘りて有益なる講演をせられ、次に渋沢院長より参会者に対し一場の挨拶ありて午後四時半閉会せり
 因に当日の来会者は市名誉職・官公吏・宗教家・新聞雑誌記者・寄附者等約六十名に達し盛会なりき


東京市養育院月報 第二八六号・第五二頁 大正一四年五月 楽翁公記念会(DK300002k-0027)
第30巻 p.99-100 ページ画像

東京市養育院月報  第二八六号・第五二頁 大正一四年五月
○楽翁公記念会 五月十三日午後一時より巣鴨分院講堂に於て、市名誉職・本院関係官公吏・養育院婦人慈善会員・新聞記者・寄附者等五百余名を招待の上、第十六回白河楽翁公記念会を左記執行順序に従ひて挙行せり
  一、一同入場(午後一時)
  二、祭官着席
  三、降神(一同起立)
  四、献饌
  五、祝詞(一同起立)
  六、玉串奉献(渋沢養育院長代理田中幹事・大岩養育院常設委員中田市会議員・丸野白河町長・川崎白河町有志総代)
 - 第30巻 p.100 -ページ画像 
  七、撤饌
  八、昇神(一同起立)
 右終りて記念講演会に移り、講演に先ち当日渋沢院長微恙引籠中につき田中幹事より参会者に対し一場の挨拶あり、次で東京帝国大学史料編纂官文学博士山本信哉氏『楽翁公の敬神観』なる演題の下に約一時間半に亘りて有益なる講演あり、終りて午後四時過ぎ散会せり


渋沢栄一 日記 大正一五年(DK300002k-0028)
第30巻 p.100 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年     (渋沢子爵家所蔵)
三月二日 晴 寒
○上略 田中太郎氏ノ来訪ニ接シ、本年五月ノ楽翁祭ニ提供スヘキ記念物ノ事ヲ協議ス ○下略


東京市養育院月報 第二九八号・第一二頁 大正一五年五月 ○楽翁公記念会(DK300002k-0029)
第30巻 p.100-101 ページ画像

東京市養育院月報  第二九八号・第一二頁 大正一五年五月
○楽翁公記念会 五月十三日午後一時より巣鴨分院講堂に於て、市名誉職員・本院関係官公吏・養育院婦人慈善会員・新聞記者・寄附者等五百余名を招待の上、第十七回楽翁公記念会を左記執行順序に従ひて挙行せり
  一、一同入場(午後一時)
  二、祭官着席
  三、降神(一同起立)
  四、献饌
  五、祝詞(一同起立)
  六、玉串奉献(渋沢養育院長・高橋市参事会員・川口市社会局保護課長・永井環氏・松平子爵代理松平稲吉氏・安達憲忠氏・川崎白河町有志代表・小木養育院総理課長・村山養育院監護課長・小長谷養育院巣鴨分院主務・田中養育院幹事)
  七、撤饌
  八、昇神(一同起立)
右終りて記念講演会に移り、史料編纂官兼東京帝国大学助教授文学博士中村孝也氏『経済史上より観たる白河楽翁公』なる演題の下に約一時間半に亘りて有益なる講演あり、次に渋沢養育院長「楽翁公の遺著に就て」なる演題にて一場の講演ありて、散会したるは午後四時半過ぎなりき、尚ほ当日参列せられたる主なる来賓の氏名を録すれば左の如し
 市原求氏    花井源兵衛氏  太田秀穂氏
 小畑久五郎氏  折居竹治氏   川口寛三氏
 川崎大四郎氏  川村やす氏   高橋俊太氏
 伊達宗康氏   武田真量氏   中田敬義氏
 永井環氏    仲佐久次郎氏  納谷ハツ氏
 上杉章雄氏   山田健太郎氏  松平稲吉氏
 町田則文氏   布留川亮助氏  小西信八氏
 児玉繁太郎氏  安達憲忠氏   青山一雄氏
 浅子栄之丞氏  斎藤恒助氏   斎田栄太郎氏
 - 第30巻 p.101 -ページ画像 
 光田健輔氏   宮島家栄一氏  広橋嘉七郎氏
 鈴木隆氏    杉本清作氏


東京市養育院月報 第二九九号・第一―五頁 大正一五年六月 ○白河楽翁公の遺著(大正十五年五月十三日於楽翁公記念会)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300002k-0030)
第30巻 p.101-104 ページ画像

東京市養育院月報  第二九九号・第一―五頁 大正一五年六月
    ○白河楽翁公の遺著(大正十五年五月十三日於楽翁公記念会)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 私のは講演と申す程のことではございませぬが、今日の楽翁公記念会に皆様方の尊来を辱うしたことに就ては先づ以て御礼を申上げます
 唯今中村博士の公の経済に関する精しい御話を御同様拝聴しましたが、楽翁公は各方面に優れた御方でありまして、決して経済一点ではないのですが、私は楽翁公に対してさう精しく申上げる程の準備もございませず、唯だ今日諸君の御手許へ差上げました一冊の書物に就て一言申述べたいのであります、右の書物は甚だ拙筆ながら私自身で認めまして、楽翁公の御書き遺しのものを皆機に御紹介の意味で拝呈したのでございます、さうして其の顛末は緒言として書中に認め置きましたから御覧下さるであらうとは思ひますが、然かし今日は其事を直接申上げて見たいので御座います、御覧下されば分かることを講釈じみて申上げるのは或は無用と思召すかも知れませぬけれども、暫時清聴を煩はしたう存じます
 私の楽翁公に私淑して居ることは長いことでございますし、殊に我養育院は楽翁公に深い縁故を持つて居るのでございます、事の起りは明治五年、江戸に於ける乞食狩をしたといふのから起つて、遂に此の養育院といふものを組織するやうになつたので、其の貧困者を収容するに就て初め別に政府から金を出すといふ途も無かつたものですから如何なる財源で経営するやうになつたかと云ふと、其れは唯今中村君の御講演中に在つた七分金、それが当時府の共有金となつて居りました、此金で経営したのであります、七分金のことは本日玆に御列席の安達憲忠君などは綿密に御調になつた一人で、寛政の頃の制度上から見ると種々楽翁公の施こされた善政がありますけれども、其内に特に町内の費用を節約し其の節約し得たる金額の七分を積立て之れを七分金といふたので、其の金が維新の際各町内に残つて居たのを府の共有金として引継いだ、其共有金から養育院の初めの事業資金を得たもので、楽翁公の此積金があつたればこそ養育院も創立されるやうになつたので、遂に此の楽翁公を養育院の守本尊と致した訳でございます、而して長く此の養育院の事に関係して居ります私は別して公の遺徳に就て深き感じを持つて居りますため、何かの方法に依つて公を記念崇拝するやうな仕組をと考へましたが、斯かる集会をするといふやうなことは当時の養育院では出来ませぬ為めに、思ひながら月日を送つて居る内、丁度明治四十二年此の場所が養育院の分院として出来るやうになりまして、斯かる講堂もありますところから、此処で一つ楽翁祭といふものを起さうと考へ着き、翌四十三年から毎年五月十三日に此会を開き続けて来た次第で、之れも最早二十年近い昔の事となり、本年は実に其十七回目の会合であります、本日即ち五月十三日は公の祥月命日でございます、而して此の会には第一に公を御祭りする為めに
 - 第30巻 p.102 -ページ画像 
先刻御覧下さる通り祭官を聘して公の御来歴を祭文として読むで御貰ひし、又特に公の事に精しい御方々に講演を願ひ、即ち今日は中村先生を御願ひしましたが、是等の御講演等に依つて各方面から公を偲ぶやうに致したいといふのが大体の趣意でございます、然かし唯だ単にそればかりでなく、折角御参会の御方々に対していくらか御参考になるべき刷物などをも差上げたいと存じまして、或は此記念講演会に於ける講演筆記を印刷して御配ばり申したことも数回御座いましたし、又た公の遺著等を複製して贈呈したことも御座いましたが、今回は公が少年の時に御作りになりました自教鑑を始めとし二・三公の筆に成る小品文を御覧に入れたいと思ひまして、特に拙筆ながら私自身で之れを書写致したる上印行して御手許へ呈したので御座います
 先づ此の自教鑑と云ふ書は公が如何なることを書かれたのであるか其の理由がないといかぬと思ひましたが、私が殊更に理由を書くよりは公の逸話と申すべきものが、松平子爵家に一つの秘密文書として遺つて居ます、それは例の尊号美談といふて或劇場で上演されたことがございますが、是は少し事実が違ひます、然かも福地桜痴居士が市川団十郎に演じさせたものでございますけれども少し事実が違つて楽翁公が大さう中山大納言に凹まされたやうに書いてあります、朝幕の差別を論ずる為めに時に応じてあゝいふ書き方をされたのでせうが、実はその事に関する書類が一つの秘書として松平家に保存されて居ります、あの事は楽翁公が最も苦心されたことで、光格天皇の御父上に太上天皇の尊号を上ることに反対をなし、又同時に将軍家斉の父を大御所とすることは宜しくないと主張されたのが事の起りでございます、是は楽翁公が大義を紊すべからずとして一身を擲つの覚悟でやつたことで、容易ならぬことでございます、其の為めに寛政五年に老中首席の職を引かれたといふことは或は事実かと思ふのでございます、又た右の秘書の中に公の自叙伝がございます、其の自叙伝は『宇下人言』と題するもので、其の内の一節を本日御手許へ差上げました『むら千鳥』の中に抜萃致して置きました、其の『宇下人言』によれば公は十二歳の時に前に御話しました『自教鑑』といふ書物を著述されたことが詳らかに書いてございます、故に唯今中村君から公の御勉強のことを精しく御述べになりましたが、実は勉強ばかりではない、特殊な天才を持つてござつたやうに御察し申上げます
 此の『宇下人言』に依つて見ますと、公は十一歳の時に歌を詠まれ十歳の時既に一の理想を以て天下に名ある人になりたいといふ考で居られたといふ事すら書いてございます、一途に勉強に依つて仕上げた御方のやうにも見へますが、又優れた天才的の御方の様でもあつた、両方が秀でた御方と申しても宜しい様でございます、斯かる事柄を或る機会に於て同好の人々に御知らせしたいと思つて居たのが、遂に此の第十七回楽翁公記念会に於て、甚だ拙筆ながら公の遺著たる『自教鑑』や『座右銘』等を自から書き認めまして玆に差上げるやうに致した動機で御座います、又た此の宇下人言といふ名称は此書の中にも書いて置きました通り、定信といふ字を崩すといふと宇下人言となる、それで定信を分解して宇下人言と申したやうに察せられます、此の宇
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下人言は玆にも申す通り公が十二歳の時の作でありますが、其の事柄は君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の常道を誠に短い平易の言葉に説かれたに過ぎないので、申さば誰でも言へることであるが、然かも誰でも容易に行ひ得ぬことでございます、又座右銘といふのは、是は御年を召されてから書かれたやうに察せられますが、漢文と和文と両様に書かれてございます、漢文の方は至つて簡易な例へば「寧静是養心第一法」、「謹謙是保身第一法」、「読書是広知第一法」と云ふやうに都合十ケ条のものを書かれて、人間の修徳は斯くすべきであると云ふことを短い文字で表はしてございます、和文の方は極めて風雅な枕の草紙体の文章を以て意味深長な、又た見方によつては皮肉とも申すべき深刻なことを仰つしやつて居られます、卒爾として御読みになれば唯だ風雅な文章のやうに見へますが、能く玩味すると深長なる意味が分かりますので是等は朗読を省きますが、丁寧に御覧下さいましたなら公が深い文学の趣味を持つてござることも御諒解になるだらうと思ひます、更に巻末には花月草紙から撰び出しました「軍の道」今一つは「ある山里」及び「両頭の蛇」の三篇を掲げて置きました、さうして私の拝見したところの是等の三篇は所謂諷刺的の文章で、当時の社会に対して、深刻なる注意を与ふる為めに御作りになつたやうに拝見致します、第一「軍の道」といふのは其の時分までは日本の軍学では鉄砲は余り用ひませぬ、甲冑剣戟の戦が多かつたのであります、然しどうしても此の戦法は近く大に変ずるであらうといふことを洞察なさつたものと見受けらるゝので、「軍の道」には全く砲術に関することが書いてありますが、当時に於てどうして斯かる戦法の変化などゝ云ふことに気付かれたか、誠に深い御観察力の結果であると思はれます、今考へると何でもないことのやうでありますが、当時に於ては実に非凡なことであります、又た「ある山里」といふのは、之れは他日外国との貿易が開かれた時国家がどうなるかといふことを想像された諷刺の文章のやうに拝見されます、此事は果して公の考へられた通りであつたかどうか知りませぬが、将来外国との通商貿易の結果は用心せぬと斯くなるだらうと考へられたので、其点は深く御胸中を偲ばなければならぬやうに考へます、又た「両頭の蛇」は、国家は一人の君で治めなければいけないといふことを強く諷せられたもので、一つの譬喩として両頭の蛇の進路が一致協調をせざる場合と、一致したる場合のことゝを述べて居られます
 之れを要するに最初に『自教鑑』と申すのを誠実に御守りになつた其他『座右銘』と申し更に又た唯今申上げました二・三の花月草紙から抜きましたる事柄、皆各種の方面に於て深く御注意なされ御実践なされた公の御事蹟でございまして、而して是等の事柄は唯智識とか学問とかばかりでございませぬ、畢竟之を貫徹するに一の最も尊いものがあつたに由つて斯くの如きことが為し得られたと申上げたい、其の一つの尊いものは何かと云へば公の忠誠の御心でございます、即ち精神でございます、元来天明七年の末に御三家の中の水戸の文公即ち中納言治保といふ御方が、田沼の秕政を是非とも改革せねばならぬといふので、文公が主唱して御三家の申合せで、丁度御一族ともいふべき
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八代将軍吉宗からは孫に当る楽翁公が老中主席に推薦されたのであります、其の時にどうしても此の暴政の改革をしなければならぬといふことを、楽翁公は心中に固く誓て居られる、即ち聖天に奉納した書付に其の事があります、是は私早くに松平家で拝見しまして、殆ど守神の如くに保存して居りますが、即ち聖天に上げた心願書にあるやうに深き決心を以て其の職に就かれた、然し不幸にも其の時の将軍は従々弟に当る家斉、此の家斉といふ人は、楽翁公とは全く反対の性質の人である、大分策略のある人で豪邁且驕奢の人、楽翁公は至て忠誠な人謙遜な人、人格としては大変偉い御方だけれども、意中は相合はなかつたやうであります、況むや前に申上げた通りの尊号論で大分将軍の意に逆ひましたので、余儀なく老中職を去つたのであります、そればかりではありませぬ、倹約主義の実行から幕府の大奥に多少睨まれた然しそれにも拘らず、七年の間政権を掌握して幕末の制度を直したといふことに就ては、実に私は楽翁公を真に尊敬せざるを得ぬと思ひます、天明の末、田沼暴政の後ちを承けて幕府老中の首班となり、将軍の信任甚だ厚からず、奥向きの嫌忌頗る強かりしにも拘らず、毅然として朝廷に忠節を竭し、幕府の危殆を救ひしは固より偉大の人格と天授の才識とに由ると雖も、亦以て忠誠の覚悟に基かずむばあらず、天授の人格と希代の才学とばかりではない、如何にも忠誠な真心が之れ丈の事を為し遂げさせたといふて宜しからうと思ふ、而して公の事蹟を尋繹して当時の国情を追懐すると同時に、今日の政治の有様を拝見致しますると、転た感慨に堪へざるものがあります、斯かる時機に楽翁公の事蹟と御精神とを世の中に御吹聴申すのは、即ち忠誠を鼓吹する上に於て或は必要ではなからうかと考へて、此の楽翁公記念会に於て、公の御遺しになつた御著述中から斯ういふものを拙筆ながら自身書き写して皆さんに御覧に入れたので、私の微衷は能く御察し下されたことゝ存じます


東京市養育院月報 第三一〇号・第二〇頁 昭和二年五月 ○楽翁公記念会(DK300002k-0031)
第30巻 p.104 ページ画像

東京市養育院月報  第三一〇号・第二〇頁 昭和二年五月
○楽翁公記念会 五月十三日午後一時より恒例により巣鴨分院に於て市名誉職員・本院関係官公吏・養育院婦人慈善会員・寄附者・新聞記者等数百名を招待の上、第十八回楽翁公記念会を挙行せり、定刻に到り一同著席するや田中幹事司会者として開会を宣し、続いて楽翁公記念会挙行の趣旨を述べ、直に神式に依る祭典に移り、渋沢養育院長・小俣同常設委員長・宇田川同委員・菊地東京府内務部長・御厨東京市社会局長・松平子爵代理松平稲吉氏・中目白河町有志代表・田中養育院幹事・碓居同医務課長・小長谷同巣鴨分院主務、順次玉串を奉献し玆に滞りなく祭典を終りて、直に記念講演会に移り、史料編纂官文学士花見朔已氏『寛政異学の禁に就て』なる演題の下に約一時間に亘る有益なる講演あり、次に渋沢養育院長『楽翁公遺詠に就ての所感』なる演題にて一場の講演ありて、散会したるは午後四時半過ぎなりき、尚ほ当日参列せられたる主なる来賓の芳名を録すれば左の如し(順序不同)
○下略
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東京市養院育月報[東京市養育院月報] 第三一三号・第一七―二一頁 昭和二年八月 楽翁公の住吉神社奉献百首和歌に就て(昭和二年五月十三日於楽翁公記念会)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300002k-0032)
第30巻 p.105-107 ページ画像

東京市養院育月報[東京養育院月報]  第三一三号・第一七―二一頁 昭和二年八月
    ○楽翁公の住吉神社奉献百首和歌に就て
           (昭和二年五月十三日於楽翁公記念会)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 今日の楽翁公記念会に斯く多数皆様の御臨場下さいましたことを感謝致します、唯今花見文学士から楽翁公の寛政異学の禁に就て当時の学者の有様のみならず、徳川時代に伝はつて来た漢学の系統を各方面から詳しく御論じ下されたことは、御同様拝聴致して甚だ有益に感じました次第で御座います
 私は今日あまり長いことを申上げる材料を持つて居りませぬが、嘗て楽翁公が住吉神社に奉献致されましたる百首の和歌の原稿が松平子爵家に保存されてあるのを拝借致しまして、之れを私自身が拙筆で書き写し、其れに自分の序文を添へまして今日の記念会に之れを祭壇に供へ、併せて来会各位にも呈上致して置きましたので、其れに就て一言御話をして見たいと思ひます
 序文にも断はつて置きました通り、私は和歌に就ては余まり素養が豊富でないと同時に、仮名を書くことも拙劣で、件の歌集の筆写も見苦しい字体とは存じますが、唯だ楽翁公を御慕ひ申す念の深き為め、右の御歌を拝見して頗る感慨を深かめましたところより、遂に之を筆写して同志の方々に御目にかけることも、公を追慕する好箇の方法なりと信じまして、玆に此歌集を御頒ち申上げた次第で御座います
 又自分の序文にも認めて置きましたが、一体楽翁公と云ふ方は総ての方面に材能の能く展びた御人でありまして、殊に和歌の如きは至つて敏速に詠出せられたやうでございます、御家来に命ぜられて題を出させて其の題に依つて作られる、花と出せば花の歌、歴史に因みては歴史の歌と云ふやうに、題を得れば響の物に応ずるが如く直ちに詠み出でられ、其速かなることは驚くばかり、其処で御家来が出す題に困つて躊躇して居ると『切りて出すだいのなければ言の葉の花のつぎ穂は咲くよしもなし』といふ即吟を遊ばして御家来を椰揄せられたといふことも書物に書いてございますが、蓋し是は形容の話ではなく事実あつたことでございます、斯様に速吟に歌を御詠みになつたから単に形容に流れる歌を詠まれたのかと申しますと、決してさうではない、諸君が此本の御歌を御覧なさいましても御気付きになる通り、甚だ真摯な態度で、奥行きの深い歌を詠まれて居ります、例へば『鷹狩』のことに就ては深く農家の苦を察し、民政を重んじなければならぬといふことの意味を歌ふて居られます、又た同じく、此本の中に在る『懐旧』といふ題で御詠みになつた『おもふぞよ新羅百済の国までもわが日の本の波かけし世を』と云ふ御歌の如きは、実に雄大なる気魄を以て、国を愛し国を思ふの御精神より詠み出だされた歌であつて、実に古文書でも読むやうな心地が致します、或は又た『釈教』と云ふ題で『我国のひろき教の道なれば仏の法もあるにまかせつ』と詠まれた御歌の如き、実に抱擁の広い悠揚迫らざるの御精神が能く現はれて居ります、斯くの如く公は単に敏才にして詞藻に富むのみの歌人ではなく
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誠に深遠高尚にして胸宇の広き御心を以て歌を御詠みになつたと云ふことが、此の百首和歌の中の数々によつて之を窺ひ知ることが出来るのでございます、実に此楽翁公と云ふ御方は其人格及理想と云ひ、学識及材能と云ひ、文武諸芸と云ひ、孰れも衆に秀いでられた御方で、顔淵は孔子を評して『仰之弥高、鑽之弥堅、瞻之在前、忽焉在後』と歎称しましたが、我々が楽翁公を見ますると、平素は非常に穏健な御容子に見えるが、然かも其れでなかなか剛毅な所がある、又剛毅であるかと思ふと頗る雄大な所がある、雄大かと思ふと又た至つて繊細優雅な気品もある、即ち孰れの方面にも偏せず円満に諸徳を具備せられた御方であつたと私は思ふのであります
 唯今花見文学士の述べられた寛政異学の禁は、政治上から必要と見傚して御立てになつたのでもありませうが、結局は風教を維持する為に禁じられたので、唯だ学問に就て狭く御考へなさつたのではないといふことを花見学士も御述べになりましたが、私もさう感じて居るのでございます、尤も時代が少し違ひますけれども試みに其一例を申上げるならば、文政の頃に丁度将軍家斉が太政大臣となり、世子即ち将来の十二代将軍家慶が従一位内大臣に陞進せられた時に、幕府より謝恩使として京都に遣はされたのが井伊掃部頭直亮と松平越中守定永の二人であります、而して此両人中副使格で行かれた松平定永と申さるるのが楽翁公の御子でありましたから、其の時に公は副使の随員たる田内主税といふ人に旨を含め、頼山陽を訪ふて日本外史の原稿を需めさせたのであります、当時日本外史はまだ出版になつて居らなかつたので、公は予め之れを借覧せられたのであります、而して山陽は深く之れに感激して即ち彼の楽翁公に奉るの書といふものを作りました、此日本外史の出版は武州川越藩、松平大和守の御家でなされたやうに思ひますが、之れに対して楽翁公は著者の為めに序文を書いて居られますが、それらの関係からでありませう、楽翁公薨去の後ち、即ち文政の十二年であつたか、山陽は楽翁公を祭るの文といふ祭文を作りました、之れは山陽遺稿の中に載つて居ります、此祭文中に彼れは楽翁公の事蹟及自分との関係を詳しく書いて、斯くの如き政治家を失つたのは如何にも遺憾なことであるといふて、其の徳を十分に称へて書いてあります、而して其の終の末文には『敢て来り饗くるを望まず』と書いてある、蓋し是は身分の相違を遠慮したもので、自分の如きものが書いた祭文に対して来り饗くることを望むと云つては礼を失すると思ひ、わざと来り饗くるを望まずと書いたものだらうと察します
 一体山陽の日本外史と云ふ書物はどういふものであるかといふと、封建制度を止めろといはぬばかりの文章でございます、往時藤原氏が権勢を専らにしたことから次で平家が専横を為し、其の平家を滅ぼしたのが源氏で、それから続いてだんだんと元亀天正の乱世時代となり其乱極つた後に徳川が遂に幕府を開いて、二百年間封建制度で治めて行つたが、是は日本の政治として完全なものでないといふこと、徳川家に向つては明らかに非難攻撃は加へてありませぬが、或は北条に対し、或は足利に対するの議論から見れば、其の意思は蓋し明かに分るので、然かも此外史に対して楽翁公が賞讚をなさつたのを見ると、異
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学の禁を行はれたと云ふことも、唯だ狭い御考へで朱子学以外のものはイケぬとされたのではなく、余程深い御考へを以てなされたのだと申しても、私は決して誤りでなからうと思ふのであります
 昨年私は『むら千鳥』といふ名を附けて公の遺著『宇下人言』中の一節、それから『自教鑑』といふ公が十二歳の時に御作りになつた修身上の書物、其他晩年まで其の書斎に存置せられたといふ和漢二様の座右銘、並に花月草紙の中にあります『軍の道』、『ある山里』、『両頭の蛇』斯ういふやうな小品文とを書写して印刷に附し皆様に差上げましてございますが、之れを見ましても楽翁公の御見識の程は能く察せられるのであります
 私は異学の禁などに就ては深く詮索したのでは御座いませんから、之れに関して長く申述べることは致しません、唯だ今日は住吉奉納の百首和歌を認めて御手許へ差上げましたといふ極く簡単な御挨拶を申述べるに止めるので御座いますが、前席の花見君から異学の禁に就て詳しく御述べ下さいましたので、異学を禁ずるといふ公の御精神は唯狭い御考へでなかつたといふこと、さうして之れには幾らも例証があるといふことを申添へたのみでございます、尚ほ明昭和三年は公の百年忌に相当致しますので、明年の楽翁公記念会には、特に思案致して何か公の御遺績に就て世の中に公けにする適当な物を作りたいと、今から考へて居ります、然かし此の住吉奉納百首和歌も之れを読むで、公の思召の程を拝察致しますと、決して尋常一様の御歌でないといふことを申上げ得ると思ひますから、何卒十分御熟読下さいまして、公の御考へを深く御推察あるやうに御願ひ致します
 終に臨み斯く多数皆様の御出で下さいましたことを私共に於ては篤く御礼申上げます(拍手)


東京市養育院月報 第三二二号・第一二頁 昭和三年五月 ○渋沢院長の病臥と楽翁公記念会(DK300002k-0033)
第30巻 p.107 ページ画像

東京市養育院月報  第三二二号・第一二頁 昭和三年五月
    ○渋沢院長の病臥と楽翁公記念会
本院々長渋沢子爵は四月下旬より違和を感ぜられ目下病臥中なるが、遠からず平癒せらるべく、又た毎年五月十三日に挙行すべき恒例の白河楽翁公記念会も、本年は故公の百年忌に相当するを以て特に盛大に催ほすべき筈の処、院長罹病の為め之を延期し、他日更めて挙行することゝなりたり


東京市養育院月報 第三三四号・第一五頁 昭和四年五月 ○楽翁公記念会(DK300002k-0034)
第30巻 p.107-108 ページ画像

東京市養育院月報  第三三四号・第一五頁 昭和四年五月
○楽翁公記念会 本年五月十三日は白河楽翁公の百周年忌に相当するを以て、本院は同日午後一時より巣鴨分院に於て、市名誉職員・本院関係官公吏・養育院婦人慈善会員・寄附者・新聞記者等数百名を招待の上、第十九回楽翁公記念会を挙行したり、定刻に到り一同著席するや、田中幹事司会者として開会を宣し、続いて楽翁公記念会挙行の趣旨を述べ、直に神式に依る祭典に移り、祭官皇典講究所講師大塚承一氏祝詞を奏上し、次で渋沢養育院長・松平子爵代理松平稲吉氏・東京市会副議長溝口信氏・東京市参事会員高橋秀臣氏・貴族院議員水野錬太郎氏・同大橋新太郎氏・医学博士入沢達吉氏・文学博士平泉澄氏・
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川崎白河町有志代表・村山監護課長・早川巣鴨分院主務・田中幹事等順次玉串を奉献し、玆に滞りなく祭典を終り、夫れより記念講演会に移り、東京帝国大学助教授文学博士平泉澄氏『楽翁公に対する誤解』なる演題の下に約一時間に亘り有益なる講演あり、次に渋沢養育院長『楽翁公の壁書に就て』なる演題にて一場の講演あり、極めて盛況裡に午後四時半散会せり、尚ほ当日参列せられたる主なる来賓の芳名を録すれば左の如し(順序不同)
○下略


東京市養育院月報 第三三五号・第一五―一八頁 昭和四年六月 ○楽翁公の壁書に就て(昭和四年五月十三日於楽翁公記念会)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300002k-0035)
第30巻 p.108-110 ページ画像

東京市養育院月報  第三三五号・第一五―一八頁 昭和四年六月
    ○楽翁公の壁書に就て(昭和四年五月十三日於楽翁公記念会)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 今日の記念会に斯く皆様の尊来を戴いたことを私は厚く感謝致します、養育院の濫觴と深き関係のある白河楽翁公を記念する為め、此の楽翁祭を起しましたのは既に二十年ばかりの歳月を経て居りまして、其の由来等は今更ら玆に喋々申上げる必要もなからうと存じます、唯今は楽翁公に対する世の誤解のことに就きまして、平泉博士から極めて重要の御解釈を御聞かせ下ださつたことを、諸君と共に甚だ有益に拝聴した次第でございます、私は特にこの事に就て取調べたとか研究したといふ程のことはございませぬから、これらに就て申上げる程の材料を持つて居りませぬけれども、例年本日を以て記念会を行ひまして、追々公の遺徳が顕はれて来るやうになりますことは、私の公をお慕ひ申すこと、公を尊敬致す上から深く喜ぶところであります、蓋し正しいことが世に広く伝はつて行くことは、満場の諸君が皆期待せられるところでありませうが、今までは楽翁公の徳性と云ふものがそれ程よく明らかになつて居なかつたやうに思はれます、今日世間一般に段々と公の道理正しい徳性が重んぜらるゝやうになりましたのも、結局は国の品格を高かむることでありますから、これ程喜ばしいことはないと思ひます、斯くては養育院が年々記念会を開き祭典を行つたことも、徒労には帰さなかつたことゝ思ひ、深く満足を感ずると同時に本日玆に御尊来を賜はつた皆様方に対し、深く感謝の意を表する次第であります
 平泉君の楽翁公に対する丁寧な御説明は、洵に有益であつて、私は如何にもさうありさうに思ふて理解致しました、私は大正十五年の記念会の時に『むら千鳥』と題する小冊を拵へまして、これを諸方に頒布致しました、これが先刻平泉君のお話にあつたやうに、楽翁公が外国の関係などに就て、如何に考へてござつたかを知る手頼りともなるので、『むら千鳥』の中に「軍の道」といふのがございますが、これらに依つて見ても、兵事に関する事も深く考へてござつたやうに思ひますが、外国に関する関係は「ある山里」といふ標題で、日本をある山里に譬へて、他の国から貿易を開いて来る有様を書いてあります、なかなか具合よく書いてはありますが、然かし今日の日本は楽翁公が書かれた程の有様ではございませぬが、又た其嫌ひが必ずしもないとは言はれませんから、楽翁公に先見の明がなかつたとは言はれぬのでご
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ざいます、尚ほ更に今日『楽亭壁書解説』と題する一書を皆様の御手許に差上げましたが、私は壁書といふよりも、座右の銘としたがよいと思ひます、元来楽翁公は年少の頃から文学に長ぜられ、十二歳の時に『自教鑑』といふ書物を御作りになつた、その文章などは今日相当の学者が見ても賞め称へるやうな文体でございます、又た所説の筋道も立つて居ります、さういふ文筆のあるお方ですから総てのものに達して居られたやうですが、私が大正十五年に出しました『むら千鳥』の中で「座右の銘」と題しましたものは、素面は漢文、裏面は和文で殊に和文は洵に私のやうな文学の素養に乏しいものでも、感服をして読むほどの美文であり、卓越した思想でありますが、然かし今の若かい人には一寸難解な書き方とも云ふべきで御座います、そこで昨年来一・二の知人からあれは大変面白い、然かし漢文の方は大抵よいが、和文の方はよく分らぬ点があるではないか、もう少し分からせるやうにしたらばどうか、うまく書いてあることは如何にもうまいが、唯憾むらくは普通の学力の人には十分の理解をし兼ねる嫌があるではないかといふ説を承りましたので、さういはれゝば自分共も解釈に苦しむことがあると思いましたから、多少の研究をしました上で解説を中村孝也博士にお頼みして出来ましたのが、今日差上げました『楽亭壁書解説』といふのでございます、これは『むら千鳥』に出しました「座右の銘」の註釈でございまして、漢文の方は十箇条ありますので、之を渉世十法と致しましたのでございます、それから更に和文の方は楽翁雅言といふことにしまして、中村博士が解し易く註釈をしましたのをお手許に差上げましたので、よく御覧を頂いて、公の文学及び其思想に就き、十分にお味ひを戴くやうに願ひたいのであります
 私は楽翁公の御功績に就て賞讚し上げたいことも色々ありますが、それに就ては今日差上げた『楽亭壁書解説』の私の序文中に聊か書いて置きましたので、それを御覧を願つて置きます、偖て公は天明の末年、田沼玄蕃頭の秕政と天明の大饑饉と相俟ちて、天時人事倶に非なるの危機に際し蹶然と起ち、三十の歳に幕府の老中首坐となり、以て救世済民の大業に任ぜられた、其職に就くや深く決する所があつたればこそ、密に本所吉祥院の歓喜天に心願書を捧げられた、それを拝読すると、自身の命を捧げて……一身一家の生命を犠牲として其職務に尽くすと云ふ、如何にも精神をお込めなさつた誓文である、斯様なる烈烈たる精神を以て寛政五年まで国務に御尽しになつて、段々と諸般の政治も御改革になつたのである、然るに同年老中職をお退きになりましてからは、全然政治上のことに御関係なく、死に至るまで三十有余年の間静かに風月を友として、跡を逸人隠士に託せられたるが如き高風は、公の別して偉らい所であると、讚し上げなければならぬと思ひます、その点を精しく述べますと、時の家斉将軍及びそれを輔佐した人々を誹るやうになりますから、その事は申しませぬけれども、『宜なるかな、在職僅に六年余にして勤倹自ら率ゐて能く財政の紊乱を整理し、文武を奨励し、風紀を粛正し、禁裏の造営に当りては規模を復古して皇室尊崇の誠を表し』……それから更に『昌平黌を釐革して学問の大本を定めて綱常の維持に務め』と私が序文中に讚し置きました
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ことは、平泉博士を始め皆様に於ても御同意下さることであらうと思ひます
 斯ういふやうなことで、楽翁公は老中を罷められてから死なれるまでの三十余年間、胸に卓抜の経論を蔵しつゝ、敢て時務を批判し政治に容喙することなく、悠々天命を楽しまれたと云ふ点は、水戸烈公などとは全く行き方が違つて、如何にも穏健の御方で、所作が誠にしとやかであられたといふことが察せられますが、之れ蓋し人格の致すところであらうと思はれます
 尚ほ玆に特に申上げて置きたいことは、唯今平泉博士も仰しやつたが、公は退職後政務に関したる御自身の覚書等の書類をお焼捨てになつたといふことに就てゞ御座います、これは公が何故お焼きなさつたか、若しお残し置き下さつたら大変有益な面白いものであつたらうと思って残念に存じます、唯だ尊号問題についてお取調べになつた書類だけは、深く秘してお置きになつたから今も残つて居りますが、其他の書類も保存して置かれたら、定めし後世の為めに有益なる史料となつたであらうと存じ、甚だ遺憾に思ふので御座います
 以上の外、尚ほお話し致したいと思ふことも多々御座いますが、時刻も段々経過致しましたで、其等は他日の機会に於て種々申上げて見ることゝ致し、本日は之れにて終りと致します、従来楽翁公に就て此記念会を開いて、公の遺徳を偲ぶ為に斯様な御話しを申上げるのは、私の此上もない楽み、といふと語弊があるかも知れませんが、誠に本懐とするところで御座います、今日は幸に斯く多数の御参会を得まして『楽亭壁書解説』を作つたのは斯ういふ所存からであつたといふことを申上ぐる機会を得ましたることを、厚く御礼申上げ、併せて平泉博士の有益なる御講演に対して、深く感謝の意を表します


東京市養育院月報 第三四六号・第一三頁 昭和五年五月 ○楽翁公記念会(DK300002k-0036)
第30巻 p.110-111 ページ画像

東京市養育院月報  第三四六号・第一三頁 昭和五年五月
○楽翁公記念会 五月十三日は白河楽翁公の祥月命日に相当するを以て、本院は恒例により本年も同月同日午後一時より巣鴨分院に於て市名誉職員・本院関係官公吏・養育院婦人慈善会員・寄附者・新聞記者等数百名を招待の上、第二十回楽翁公記念会を挙行したり、定刻一同着席の後ち、田中幹事司会者として開会を宣し、直に神式に依る祭典に移り、奏楽・献饌等の後ち、祠官皇典講究所講師大塚承一氏祝詞を奏し、次で渋沢養育院長・松平子爵代理松平稲吉氏・東京市参事会員高橋俊太氏・東京市収入役小木千丈氏・同社会局長安井誠一郎氏・史料編纂官高柳光寿氏・前養育院幹事安達憲忠氏・奥州白河町有志総代川崎大四郎氏・本院経理課長石崎菊次郎氏・同監護課長村山正脩氏・巣鴨分院主務早川秋一氏・井之頭学校主務大西孝美氏並に田中幹事等順次玉串を奉献し、玆に滞りなく祭典を終り、夫れより記念講演会に移り、渋沢養育院長の『白河楽翁公の伝記編纂に就て』なる講演に次ぎ、史料編纂官高柳光寿氏の『徳川家康公と白河楽翁公』なる演題の下に約一時間に亘る有益なる講演あり、極めて盛会裡に午後三時過ぎ散会せり、尚ほ当日参列せられたる主なる来賓の芳名左の如し(順序不同)
 - 第30巻 p.111 -ページ画像 
 松平稲吉氏      岡田和一郎氏   笠井重治氏
 岸辺福雄氏      大崎清作氏    村田忠三郎氏
 新甫寛実氏      高橋俊太氏    小木千丈氏
 見山正賀氏      安井誠一郎氏   福井正太郎氏
 金谷重義氏      土生文之助氏   三村一氏
 岩本秀雄氏      船津新四郎氏   宮川宗徳氏
 田中謙吾氏      村田勇氏     中孜氏
 早田正雄氏      内田親雄氏    三浦清八氏
 新海金太郎氏     金子勝治氏    矢田部清次郎氏
 小島武人氏      山口広作氏    三村鶴太郎氏
 藤原誠氏       安達憲忠氏    太田秀穂氏
 川崎大四郎氏     二六新報社代表  東京毎夕新聞社代表
 東京朝夕新聞社代表  窪沢富太郎氏   西山金蔵氏
 関口小十郎氏     伊藤清三郎氏   小松直幹氏
 水村清氏       山田元弘氏    鈴木直吉氏
 花井現造氏      田中端氏     留岡幸助氏
 秋葉馬治氏      浅子栄之丞氏   岩野慶男氏
 水田しな氏      神部幸次郎氏   白井誠造氏
 丹波貞子氏      金子政吉氏    谷口いう氏
 村松仙之助氏     納谷ハツ氏    小村宗七氏
 石川省三氏      葉多野太兵衛氏  玉井仙太郎氏
 松井錦橘氏      斎藤義政氏    羽場順承氏


東京市養育院月報 第三四七号・第一―三頁 昭和五年六月 ○白河楽翁公の伝記編纂に就て(昭和五年五月十三日於楽翁公記念会)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300002k-0037)
第30巻 p.111-113 ページ画像

東京市養育院月報  第三四七号・第一―三頁 昭和五年六月
    ○白河楽翁公の伝記編纂に就て(昭和五年五月十三日於楽翁公記念会)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 唯今田中幹事から申上げました通り、本日玆に挙行致しまする楽翁公記念会の講演は、第一席に史料編纂官の高柳氏に『徳川家康公と白河楽翁公』と題する御話を願ひ、第二席に私が『楽翁公の伝記編纂に就て』と云ふ御話を申上ぐる順序になつて居りましたが、誠に止むを得ない用向が差起こりまして、本日午後三時までに宮内省へ罷かり出なければならぬ都合と相成りましたので、甚だ勝手ながら高柳氏に御願ひして講演の順序を変へて頂き、私が是れより第一席に御話し申すことゝ相成りましたで、左様皆様の御了承を仰ぎます、私自身と致しても高柳氏の有益なる御講演を親しく拝聴するの機会を失しましたることは誠に遺憾に堪へません
 本日皆様の御手許へ拝呈致しましたる楽翁公の心願書、此の心願書は先年不図した所で私が拝見致しまして、深く感動致したのであります、此の心願書のことに就ては従来此の記念会の席上でも時々御話申上げたやうに記憶して居りますが、本日も亦たそれに関して一言申添へたいと存じます、一体楽翁公は文学の蘊蓄及び才能に長けた御方で先づ学者的の御人と申すべきであるが、然かしこの心願書を読むで見ますと、悪るく云へば迷信家ではなからうかと云ふ気も起こる位であるが、果してどういふものであるかと、私は初めてあれを拝見した時
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に聊か考へさせられた程で御座います、丁度天明の七年に時の政治を改革するために、水戸の文公……治保と仰しやつた御方です……この文公の推薦によつて、松平越中守定信即ち楽翁公は老中上席に就任せられたので、あの時分の政治の有様はなかなか困難を極めて居つたやうに見えます、年歯僅かに三十で首相の位地に立ち、幕政を根本から改革遊ばしたのでございます、而してその職に御就きになるに当つては、実に容易ならざる御決心がなければならぬことで、即ちその御決心の程がこの心願書に表はれて居ると申してよからうと思はれます、それ故にあの心願書は初めて私が読むだ時には、何やら迷信的のもののやうに思はれたが、翻つて深く考へて見ると誠に御尤もな次第で、堅き深い御決心をもつて神明に誓ひ、天下の政治の改革に取り掛かられたものであると解さねばならぬと思ひます、楽翁公の御偉らい所は各方面にございますが、あの心願書の一条は特に敬服申上げなければならぬやうに感ずるので御座います、実に此の心願書に現はれたる公の御精神と云ふものは、鬼神を泣かしめ惰夫をして起たしむるの概があるのでありまして、誠に価値あるものと存じましたので、今より約二十年前記念出版物として本記念会の節来会者へ進呈したのでありますが、其後絶本となり且つ最近希望者が続出すると云ふ有様で御座いましたので、本年は田中幹事の勧めにより再び玆に版行して各位に差上げた次第で御座います
 却説、本日私が一言申上げたいと思ひますのは楽翁公の御伝記のことでありまして、従来世間に此偉人の正伝なるものが未だ出て居りませぬ、勿論二・三のちよいよいした著述はありますけれども、権威ある正伝とも申すべきものが出て居りませんので、私は従来甚だ之れを遺憾に思ひ、数年前故穂積陳重男などとも相談し、又た本院の田中幹事にも心配をさせて、終に楽翁公研究の権威者とも申すべき三上参次博士に其伝記編纂方を御願ひすることに致したところ、幸に同博士も同じ目的を以て資料等を取集めて居られた関係上快よく承諾せられ、爾来玆に四・五年同氏は門下の学者を補助員として、楽翁公の御家たる松平子爵家とも連絡を取り、孜々其編纂に努力せられましたので、唯今は幸に略ぼ出来の域に進むだのでありますが、尚ほ精査補訂を加ふるの必要があると云ふので未だ完成は致さないのであります、実は昨年の五月十三日が故公の満百年忌に相当するので、其時までに世に公けにするやうに致したいと望むで居りましたが終に其運びに参らず本年に至つては略ぼ右申上ぐる程度にまで進捗致したのでありますから、多分明年の楽翁公記念会前には編纂も完了し、印刷も出来上がり三上博士を始めとして私共が数年来努力を尽くしたる白河楽翁公伝が芽出度出版に相成りましたと、皆様に御披露を致すことが出来るであらうと存じ、且つ希望致して居るので御座います、尤も此伝記は何時までに編纂し何時までに公けにすると、世間に公表致した次第では御座いませぬから、其れに就て彼れ是れ御報告を致す必要はないかも知れませぬが、然かし楽翁公の伝記編纂の企てに就ては曾て此席からも御披露致したことがありますから、自然皆様の中にはドンな程度に仕事が進むで居るだらうかと御懸念下さる向もあらうと拝察致しますで
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此機会に於て玆に一言経過の模様を御報告に及び、決して私共が怠つて居るのではないと云ふことを申上ぐる次第で御座います
 私は是れだけで御免を蒙りまして、次に高柳氏の家康公と楽翁公を対比せる有益にして面白い御講演があることゝ思ひますから、何卒その御心組で御清聴の程を願上げます


東京市養育院月報 第三五八号・第一五頁 昭和六年五月 ○楽翁公記念会(DK300002k-0038)
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東京市養育院月報  第三五八号・第一五頁 昭和六年五月
○楽翁公記念会 五月十三日は白河楽翁公の忌辰に相当するを以て、本院は恒例により本年も同日午後一時より巣鴨分院に於て市名誉職員本院関係官公吏・養育院婦人慈善会員・寄附者・新聞記者等数百名を招待の上、第二十一回楽翁公記念会を挙行したり、当日は朝来雨模様なりしが後幸に晴れて至極快晴、定刻田中幹事司会者として開会の挨拶を兼ねて当日出席の筈なりし渋沢院長が気候不順の為め遺憾ながら欠席の止むなきに至れる事情を披露し、直ちに祠官皇典講究所講師大塚承一氏主宰にて神式に依る祭典に移り、奏楽・献饌等の後ち同祠官祝詞を奏し、次で渋沢養育院長代理田中幹事・松平子爵代理松平稲吉氏・奥州白河町有志総代川崎大四郎氏・東京市参事会員村田忠三郎氏東京市会議員高橋俊太氏・渋沢子爵家々職酒巻幾三郎氏・東京市文書課長川口寛三氏・本院医務課長碓居竜太氏・同経理課長石崎菊次郎氏同監護課長村山正脩氏・同巣鴨分院主務早川秋一氏・同井之頭学校主務大西孝美氏・同総務課庶務掛長二井敬三氏等、順次玉串を奉献して滞りなく祭典を終り、夫れより記念講演に移り、史料編纂官文学博士鷲尾順敬氏の『楽翁公の信仰に就て』なる題下に約一時半に亘る有益なる講演あり、極めて盛会裡に午後四時散会せり、因に当日記念品として渋沢院長より、楽翁公十二歳の作たる『自教鑑』の印行本一巻を各来賓に贈呈ありたり、尚ほ当日参列せられたる主なる来賓の氏名左の如し(順序不同)
 松平稲吉氏   津村重舎氏   笠井重治氏
 大野伝吉氏   大崎清作氏   安部利七氏
 村田忠三郎氏  川村正夫氏   高橋俊太氏
 川口寛三氏   見山正賀氏   船津新四郎氏
 宮川宗徳氏   大堀佐内氏   榛葉金吾氏
 佐藤繁太郎氏  小野木史郎氏  中山清松氏
 三村鶴太郎氏  早田正雄氏   仲佐久次郎氏
 内田親雄氏   神谷馬男氏   新海金太郎氏
 吉田重一氏   佐々木利平氏  高田利吉氏
 酒巻幾三郎氏  川崎大四郎氏  中目瑞男氏
 真田左平氏   井熊順次郎氏  松本兵助氏
 貴具正勝氏   水村清氏    中村藤吉氏
 篠崎晸氏    保盛匡氏    田中正氏
 花井現造氏   花井源兵衛氏  秋葉馬治氏
 水田しな氏   神部幸次郎氏  納谷ハツ氏
 横田富太郎氏  平井弥五郎氏  松井錦橘氏
 羽場順承氏
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東京市養育院月報 第三五九号・第一―三頁 昭和六年六月 ○松平楽翁公記念会に就て(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300002k-0039)
第30巻 p.114-115 ページ画像

東京市養育院月報  第三五九号・第一―三頁 昭和六年六月
    ○松平楽翁公記念会に就て (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 渋沢院長は、本年五月十三日養育院巣鴨分院に於て挙行したる『楽翁公記念会』には、微恙の為め欠席せられたるが、当日出席の場合院長が右記念会に於て述べらるべかりし講演の大要左の如し
 養育院事業の創始と不思議な関係のある松平楽翁公のことに就て、私は一言御話し致したいのであります、然し私は歴史家でもなければ又た特に楽翁公に就て深い知識があると云ふ訳ではなく、ふとした事が縁になつて、公を知つたのでありました、私は東京市養育院を五十八年間継続して世話して居りますが、此の養育院の起りは明治の初年何処か外国の高貴な方が御出になるに就て、乞食が市中を徘徊するのはよろしくないから、これを始末せねばならぬと、旧幕時代から乞食の世話をして居た者に申付けて一個所に集めさせた、しかしそれを養ふには相当の費用が必要である処から、いろいろ評議した結果、東京府に共有金として積立てゝある七分金と称する金がある、それは官のものでもなければ、私のものでもないので、その内から費用を支出したのでありましたが、私は明治七年、東京府知事大久保一翁と云ふ人から、此の七分金の管理取締を嘱されて居りました、それは私が大蔵省を辞して銀行業者になつたのと、大久保氏とは静岡藩時代からの知合であつた関係からでありました、偖て此の七分金の起りは天明年間に松平越中守が老中となり、田沼意次の暴政を改革したが、尚それに満足せず町内の者が貧乏であるから、これを救ふため、毎年の町費を出来るだけ節約せしめ、その内二分を町内の費用を負担した者に割戻し、その一分を町の為め働いた人の労に酬ひたり、賞に用ひたりしてそして残りの七分を積立て、相当纏ると、米を買つて備荒貯蓄としたり、土地を買つて置いたのであります、斯くてその蓄積高の少ない間は、幕府から相当の差加へ金をして、一種の共有財産としたのであります、明治になつてからその額が幾らあつたか判然とした記憶はありませんが、略ぼ百六・七十万両に上ぼつて居たのでありまして、私が養育院に関係するやうになつたのは、即ち此の金で、集めた乞食を養ふ仕事を創めたからであります
 其処で私は此の資金の由来に就て調べて見たのであるが、是れこそ松平越中守の心配で積立られ、それが明治の時代にまで残つて、親のない子供や、職に就けぬ病人や、老人のやうな人達を救済する資金となつたと云ふことは、誠に奇特なことゝ申さずには居られないので、さう云ふものを遺した楽翁公とは如何なる人であるかと調べました、すると此の人は、有名な徳川八代将軍吉宗公の孫に当る、田安家から出た人で、学問もあり、人格も高く、政治上の改革を為し、また趣味も非常に広いお方であると云ふことが判明しました、或る時養育院の幹事が私の処へ、公の心願書なるものが本所の吉祥院から出て来たと云つて持つて参りましたが、それには、自分が政治を執るに就ては、己の生命は勿論のこと、妻子の命をも懸ける云々、と云ふ意味が書かれてあつたので、私は多少迷信じみた人でもあらうかと疑ひました、
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然し桑名の人で江間政発と云ふ、楽翁公の事蹟を詳しく研究して居る人からいろいろのことを聞いたり、その後引続いて調べて居ると、余程変つた偉らい方であることが、次第次第に判つて来たのであります殊に松平家に伝はる秘函の中から、偶然に詳細な公の手記が出て来たそれは子孫の者も此の封を破つてはならぬと戒められて居たものであるから、長く手を着けなかつた処が、その封印が自然に切れたのと、世は既に明治になつて、旧幕時代とは全く変つて居るので、最早差支はあるまいと、開いて見たと云ふのであります、すると四冊の書物が出て参つたさうでありますが、その内の一つは『撥雲秘録』と題せられ歴史上に種々の説があつた尊号問題に関する公の秘録でありまして
 光格天皇がその父上に太政天皇《(上)》の尊称を奉らうとなさつたに就て、公が幕威を張つて朝廷を圧迫したと云ふ風に一般に解釈されて居りますが、事実はかなり相違して居て、決して朝廷をないがしろにしたのではない、寧ろ公は非常に尊王心の厚い人であつたのであります、故に京都から中山・正親町などゝ云ふ人々が江戸へ下つて、此の問題を交渉したこととか、老中が寄つて協議した有様などが書かれてありました、又『宇下人言』と題するのは、定信と云ふ公の名を分解した題名で公が自分の履歴を親しく書かれて居ります、それによると六歳で読書を学び、十二歳で自教鑑を作つたとか、死ぬ覚悟で田沼を刺さうと考へたことがある、などゝ云ふやうな秘事まで書いてありました、是等の事柄を江間氏から聞いて、私は初めて公の人格の高い、学問の広い、そして尊王心の厚い、立派な人であることを知つたのでありました、事実公は水戸の文公などから推されて老中になつた御方でありまして、その点から見ても凡人でないことは判ります、然かし程なく十一代将軍家斉公が水野出羽守を用ひるに及んで退きましたが、老中になられた時の年は三十歳で、将軍は十五歳でありました、兎に角歴史上にも著名な、あれだけの政治及財政の改革を実行されたのでありますから、私等の敬服するのは当然であらうと考へます、家斉将軍とは意見が一致しなかつたのでありますけれども、決して人と争ふことなく、我意を張らず、程よく人に接し、書物の編纂などをして、老後を趣味の方面に用ひられた稀に見る方であり、且つ七分金の積立とか石川島の細民救済など、社会事業に力を尽されて居ります、従つて私はその人格識見に心酔せざるを得なかつたのでありまして、その遺徳を数へるならば、なかなか僅かな時間に、お話は尽されないのであります
 近く私の名で楽翁公伝を世に出す筈でありますが、さうした公の伝記を編纂するに至つたのも、右の如き事情からであります、また五月十三日は公の祥月命日に当るので、恒例により養育院巣鴨分院で記念会を挙行し、本年は公が十二歳の時お作りになつたと云ふ『自教鑑』を印刷に附し、来会各位其他の向へ御頒ち致しましたが、真実楽翁公の如き円満に、才気あり、篤実なお方は少いと思ひまして、私は深く常に公の徳を仰いで居る者であります