デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.132-141(DK300005k) ページ画像

明治44年4月24日(1911年)

是日、伏見宮貞愛親王、当院大塚本院及ビ巣鴨分院・井之頭学校ニ台臨セラレ、栄一御案内ス。此後、大正七年四月二十四日東伏見宮妃、大正十一年十二月四日山階宮武彦王・同妃、昭和五年一月八日高松宮宣仁親王ノ各殿下本院並ニ分院ニ台臨セラレ、栄一御案内ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK300005k-0001)
第30巻 p.132-133 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
四月十二日 晴 軽暖
○上略 一時宮内省ニ抵リ渡辺大臣ト面話ス、後、伏見宮御邸ヲ訪フテ、殿下ニ養育院御一覧ノ事ヲ請願ス ○下略
   ○中略。
四月二十四日 晴 軽暖
 - 第30巻 p.133 -ページ画像 
○上略 十二時自働車ニテ井ノ頭学校ニ抵リ、安達・桜井氏等ト院内ヲ一覧ス、午後二時過尾崎市長来リ、二時三十分伏見宮殿下及渡辺宮内大臣来着セラル、校内ヲ御案内シテ後、井頭弁天境内ニ御誘引シテ御一覧ヲ請ヘ、夫ヨリ大塚本院ニ抵リ各室御巡覧アリ、処々ニテ御説明申上ル、更ニ巣鴨分院ニ抵リ、同シク御巡視アリ、畢テ養育院ノ発端ヨリ今日ニ至ル迄ノ経歴ヲ言上シ、且院務執行ニ関スル三点ノ要件ヲ陳上ス、一施薬救療等総テ済貧事業ハ実況ニ適スルヲ要スル事、医師ノ治療ハ勉メテ試験ニ傾カサル事、一従事者ハ自己ノ奏効ヲ後ニシテ、其事業ニ宜キヲ得ルヲ本務トスル事
四月二十五日 雨 軽暖
○上略 伏見宮殿下ノ御邸ヲ訪ヒ、昨日ノ御礼ヲ申述フ ○下略


東京市養育院月報 第一二三号・第一六―一八頁 明治四四年五月 ○伏見宮殿下の台臨(DK300005k-0002)
第30巻 p.133-134 ページ画像

東京市養育院月報  第一二三号・第一六―一八頁 明治四四年五月
○伏見宮殿下の台臨 四月二十四日 伏見宮貞愛親王殿下には、畏多くも府下北多摩郡武蔵野村字吉祥寺なる本院附属感化部井の頭学校、並に小石川大塚辻町なる本院、及巣鴨村なる巣鴨分院へ台臨あらせられ、親しく本院の経営に係れる各種の事業、並に現況等を御視察あらせられたり、玆に謹んでこの空前の光輝を放てる当日の状況を拝記せんに
此日朝来の好天気は、午後に至りて烈風砂塵を蹴つて面を向くべくもあらざりしに拘はらず、殿下にはカーキ色陸軍大将の軍服を召され、渡辺宮相・御附武官山本大佐御陪乗にて、午後一時自働車を駆つて麹町紀尾井町の御本邸を御出門あらせられ、順路新宿駅より吉祥寺街道を経て同二時井の頭学校へ御到着遊ばされぬ、先是渋沢院長・安達幹事は早朝より御奉迎準備として本校にあり、本校の職員並に保母生徒一同を指揮して表門前に整列せしめ、御到着を今や遅しと御待ち申上ぐる内、尾崎市長自働車を飛ばして来校あり、間もなく殿下には御機嫌麗はしう御着あらせられ、渋沢院長の御案内にて運動場なる設けの御席に着せられぬ、やがて紺筒袖に縞のヅボン下を穿ち、カーキー色のゲートルにズツクの靴を穿ちたる生徒四十余名、孰れも今日を晴れと勇み立ち、体操教師平井軍曹指揮の下に、兵式体操並に発火演習を御覧に供せしに、殿下には絶えず御顔に微笑を湛へ玉ひ、いと御熱心に御覧遊ばされたり、夫より予て設けの御休憩所に成らせられ、当事業に関する御下問あり、渋沢院長並に桜井副幹事より逐一御説明申上げ、校舎の全部隈なく御巡覧遊されたり、本校にては予て当日を紀念せんが為め、職員及各生徒の手に依りて編纂せられたる武蔵野といへる小冊子(武蔵野とは生徒が文学思想普及の為め各自作為せる文章・和歌・俳句等を集めたるもの、毎月一冊宛筆記発行するもの)並に本校十週年紀念号一部及入退表一表を献上したるに、御受納あらせられたり、殿下には尚生徒の入退院に関し委曲の御下問あり、安達幹事より説明を御聴取あらせられたる上、渋沢院長よりは本校の沿革及感化の成績に関する状況の概要を申上げたるに、御機嫌麗はしく還御の際殊に紀念として玄関先に銀杏一樹御手植あり、三時井の頭弁財天の祠に田舎の長閑なる春色を御眺めあり、之れより再び自働車にて本院へ
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御台臨遊ばされたり。
四時二十五分殿下には本院職員並に看護婦共一同奉迎の中に、正面玄関より事務室楼上の休憩室に入らせられ、暫時御休憩あり、渋沢院長より、本院に伝はれる松平楽翁公が天明饑饉の際一身を犠牲に供して民を塗炭に救はんとしたる誓文に就て、詳細なる説明を御聴取りありし後、院長の御案内にて収容者各室並に各工場を御巡覧あらせられ、特に病患者に対していと細なる御下問あり、正五時巣鴨分院に御台臨あらせられたり。
巣鴨分院にては職員並に保母一同奉迎の中に、玄関より予て御設けの席に御通りあり、暫時御休憩の後、副幹事高田法学士の御案内にて各教室・各作業室並に収容室等を御巡覧あそばされ、特に低能児・盲唖児の教育に就ては細なる御下問あり、食堂に入らせられたる際、殿下には院児の食餌に御目を留められ、高田副幹事より一々御説明申上げたり、女児裁縫室御立寄りの際、林トクなる女子が左手にて巧に裁縫しつゝ余念なき有様を御覧あそばされ御下問ありしかば、安達幹事よりトクの身上に就き御説明申上げたるに、殿下には不憫のものよとの御掟を賜はり、トクも感涙に咽びて暫し頭を低れたるまゝにてありき御巡覧終りて御休憩室に入らせらるゝや、院長は恭しく本日台臨の光栄を感謝し奉り、此機会に於いて少しく本院の沿革現状並に貧民救済に関する愚見をも言上致し度旨願出で、御許を得て左の要旨を御聞に達したり。
 抑も本院の創始は、先刻本院にて台覧に供へまつりし白河楽翁の誓文に基きて徳政を施したる余沢とも申すべしとて、旧幕老中松平越中守定信が執政当時の町法を改正して節約を勉め、剰余金を生せし手続、及七分金の起原より維新後其金額の中より養育院の費途を支弁したる事、及明治十七年に至りて府会の決議にて廃院となり、十八年には私設として独立し、二十二年市制施行の際市の所属となし今日に至れる沿革の大要と、尚現状窮民の救助方法・貧病者の救療に関しては、特に衣食住の程度を適当にすべきの理由を申上げ、児童の教養に関しては目下幼稚園及小学教育の設備を為し、在院中は専ら教養に怠りなきも、長く院に止むるは不可なるを以て、一日も速に出院せしむるの手段を取り、専ら養子又は雇預けとして出院せしむる事を努め居る旨を申上げ、井の頭学校に収容せる不良少年に就ては、明治二十七・八年頃より浮浪児の収容を企て 英照皇太后崩御に就て府へ賜はりたる内帑を拝受して基金とし、三十三年に創設し今日に至れる沿革より、感化教育の現状及注意すべき要点等を陳上し、同敷地は御料地を拝借し居る事、並に同地に関する請願の事共をも申上げ、終りに児童の病弱なる者の為め特に安房分院を設置せる事、並に其成績佳良にして肺患の如きは殆ど之を根治するを得るの事実等を逐一言上ありたるに
殿下は不審の廉々は委しく御下問あり、終りに渡辺宮内大臣は鄭重の御挨拶あり、機会を以て 陛下に執奏し奉るべき旨申聞かれ、午後六時過ぎ還御あらせられたり。

 - 第30巻 p.135 -ページ画像 

大正七年度第四十七回東京市養育院年報 第一五頁 刊 四 本年度内主要事項並に各種統計(DK300005k-0003)
第30巻 p.135 ページ画像

大正七年度第四十七回東京市養育院年報  第一五頁 刊
    四 本年度内主要事項並に各種統計
東伏見宮妃殿下御成 四月二十四日午後一時東伏見宮妃殿下台臨あらせ給ふ、田尻市長・渋沢院長御案内申上げ、本部・病室・老廃室を御巡覧の後、巣鴨分院を御視察被遊れ、御機嫌麗しく午後四時御退出相成たり。
○下略


竜門雑誌 第三六〇号・第六九頁 大正七年五月 ○東伏見宮妃殿下の養育院御視察(DK300005k-0004)
第30巻 p.135 ページ画像

竜門雑誌  第三六〇号・第六九頁 大正七年五月
○東伏見宮妃殿下の養育院御視察 東伏見宮妃周子殿下には窮民救護の実況御視察の思召を以て、四月廿四日午後川島別当以下を随へさせられ、小石川大塚なる東京市養育院に成らせられたり。依つて田尻市長及び同院長青淵先生以下各員御出迎申上げ、暫し御休憩の後、院内隈なく御視察あらせられ、更に巣鴨なる同院分院に成らせられ、これ亦隈なく御巡視の後、数々の有難き御下問を賜り、御少憩中、青淵先生は同院の創立由来、並に経過現在等に就き具に言上せられたる由なるが、この日殿下より同院に対して御菓子料金壱封を下賜せられ、尚ほ殿下には同院より献上の生徒手工品(楽焼)及び写真帖・年報・養育院概況等を御嘉納の上、御機嫌麗しく御帰還遊されたる由。
 右に就き翌日の国民新聞は、青淵先生の談として報じらく
 洵に有難いことで、孰れも只今感銘いたして居る所で厶います、当院に高貴の御方が御来臨遊ばしたるは、曩に伏見宮殿下及び村雲尼公猊下が厶いまして、今回が三回目の光栄に浴したのであります。斯う云ふ有難い思召は、惹いて世間一般が、窮民の救護事業と云ふことに多大の注意を深うすることであらうと存じ、此好機に際し、窮民救護に対する私共の平素の主張を貫徹致したいと願つて居るのであります云々。


東京市養育院月報 第二六二号・第三―五頁 大正一一年一二月 ○山階宮武彦王殿下並同妃殿下の本院及巣鴨分院台臨(DK300005k-0005)
第30巻 p.135-136 ページ画像

東京市養育院月報  第二六二号・第三―五頁 大正一一年一二月
    ○山階宮武彦王殿下並同妃殿下の本院及巣鴨分院台臨
 大正十一年十二月四日 山階宮武彦王殿下並に同妃佐紀子女王殿下には、東京市養育院大塚本院及巣鴨分院へ台臨あらせられたり
 先是我養育院に於ては、創立五十周年記念出版の「回顧五十年」なる冊子を 皇室始め各宮家に奉呈せるが、山階宮武彦王殿下には予ねて本院御視察の思召在らせ給ひし折柄とて、十二月三日養育院へお成りの儀遽かに仰せ出だされたりとて、同宮家より本院の都合を問合せありたるを以て、本院よりは十二月四日午後二時お成りを仰ぎ度旨御答申上げ御承知を得たり
 偖て本院に於ては平素在りの儘を御覧に供し度き存念より何等の取繕ひもなさず、唯だ当日は正門の石柱高く国旗を掲揚し、至誠を籠めて奉迎申上げたるのみ、午後二時半宮家より電話にて唯今 両殿下御同車にて御出門ありとの通知あるや、軈がて渋沢院長、大岩・安東両常設委員、田中幹事以下職員は表玄関に整列して御着を待てり、斯くて午後二時四十五分 両殿下には自動車にて香川宮内事務官及菊池御
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用掛を随へ御着院遊ばされたれば、渋沢院長は階上大広間の御座席へ恭しく御案内申上げ、御着座あらせらるゝや、院長は御前に進みて台臨の御礼を言上し、次で委員及幹事以下を御紹介申上げたるに、畏くも一々慇懃なる御会釈を賜はりたり、それより院長は再び御前に進みて本院並に各分院沿革の大要を、又た田中幹事は院の現況につき、其梗概を言上したるに一々頷づかせ給ひ、種々の御下問さへ賜はれり、斯くて本院より奉呈の養育院月報・同年報・同事業概要及楽翁公記念講演集を御嘉納あらせられ、次で 殿下には院内御巡覧の旨仰せ出ありしかば、渋沢院長及田中幹事御先導を承はり、其他諸員扈従し奉りて、男子普通収容室より炊事場・幼童室・女子普通収容室・状袋工場印刷工場・調薬室・治療室・病室等隈なく御覧ぜられたり、而して御巡覧中老病者を臠はしては御同情の御言葉を漏らし給ひ、又た幼者を臠はしては憐憫の情に堪へざる御表情あらせられたる等、洵に恐懼に堪へざるものあり、殊に収容者の食品に親しく御目を留めさせられたる如き、御心の程も推し測かられて畏こさ言はん方なかりき
 両殿下の台臨は我養育院の為めには無上の光栄なるは申すまでもなく、従てこれを永久に記念せん為め、院内御巡覧後御撮影を願ひ奉りたるに快く御聴許相成りたれば、乃ち前庭に於て御撮影申上げ終りて諸員奉送裡に巣鴨分院へと向はせ給へり
 斯くて渋沢院長及田中幹事の御嚮導にて巣鴨分院へ御着ありたるは午後三時半の頃なり、 両殿下には分院職員の奉迎を受けられ院長室にて一先づ御休憩あり、それより附属小学校々舎・寮舎・食堂・炊事場等迄仔細に御巡覧相成り、就中幼稚園及小学校児童の成績品と運動場に於ける児童の活溌なる運動遊戯をば熱心に御覧ぜられ、夕陽の西に没する頃、諸員の奉送並に児童の万歳声裡に御会釈を賜ひつゝ、御機嫌麗はしく御帰還遊ばされたり
 申すも畏きことなれども 両殿下には金枝玉葉の御身を以て親しく本院に臨まれ、収容者起居の状態を察して彼等を撫恤し給ひたるは洵に有難き極みにて、思召の程は唯だ感泣の外なしと云ふべし、尚ほ 両殿下よりは畏くも当日本院に対して金子一封の御下賜ありたり
 因に右 両殿下は十二月二十三日更に府下北多摩郡武蔵野村なる本院感化部井之頭学校へ台臨ありたり、詳細は次号に報ずべし


東京市養育院月報 第二六三号・第一―四頁 大正一二年一月 ○山階宮両殿下の井之頭学校台臨(DK300005k-0006)
第30巻 p.136-137 ページ画像

東京市養育院月報  第二六三号・第一―四頁 大正一二年一月
    ○山階宮両殿下の井之頭学校台臨
 曩に大塚の本院及巣鴨分院へ台臨の上親しく事業の実況を臠はし給へる 山階宮武彦王並同妃佐紀子女王両殿下には、旧臘二十三日を以て本院感化部井之頭学校を御視察被遊度思召の由、同宮家より予め御沙汰ありしかば、本院にては直ちに其旨を同校へ移牒し、当日は渋沢院長・田中幹事等早朝井之頭学校へ出張し、奉迎の準備を為したり、今其状況を記さむに
 十二月十一日 皇后宮御使大森皇后宮大夫視察の光栄に浴せる井之頭学校職員及生徒は、爾来旬日ならずして今復た 山階宮同妃両殿下台臨の報に接し、重ね重ねの光栄に一同いたく歓喜して其御成りを待
 - 第30巻 p.137 -ページ画像 
てり
 斯くて学校にては平素在の儘を御覧に供すべく、殊更らの設備を施さず、単に階上なる講堂に御座席を設らへ、又た生徒の学業及実科の成績品は之れを一室に蒐集陳列し、以て 両殿下台覧の便に供し、校門高く日章旗を掲げて、奉迎の微意を表したるに過ぎず
 十二月二十三日は天気快晴、微風だもなき小春日和なりき、午前十時二十分に至るや、生徒は門内両側に堵列し、渋沢院長・大岩常設委員・田中幹事以下職員は玄関前に整列して 両殿下の御成りを今や遅しと待ち奉りしに、やゝありて閑寂たる井之頭公園恩賜の杜に木霊する警笛の聞ゆるは、之れぞ 両殿下の御召自動車とこそ察せらる、程なく御車の校門に御着あるや、生徒の吹奏する「気を付け」喇叭に一同姿勢を正して最敬礼をなせば 両殿下には軽く御会釈を賜ひつゝ御通過あらせられ、御車は早くも玄関前にて停りたり、両殿下には香川宮内事務官を従へさせ、莞爾として御車を出でさせ給ふを、職員は謹で奉迎申上げ、直ちに渋沢院長の御案内にて階上なる御休憩所に入らせ給ふ、御着座を待ちて一同の敬礼を受けさせられたる後ち、渋沢院長より今日の御成りを辱けなく存じ奉る旨、先づ御礼の言上をなすと共に、感化部の沿革に就き御説明申上げ、次で田中幹事は謹厳なる態度にて先づ本院内に感化部を設置したる動機及端緒より井之頭学校現在の経営方法、其他生徒教養方法に渉り仔細に御説明申上げたるに 両殿下には畏くも一々御頷承遊ばされ、且つ種々の御下問ありしかば御奉答申上げ、終りて生徒成績品陳列室に玉歩を運ばせ給ひ、隈なく台覧を賜はりたり、而も陳列品中、籐細工及指物の緻密なる製作品の如き、又は農作にかゝる白菜・里芋等の出来栄えよきには、いたく御感賞遊ばさるゝを拝せり、夫れより各教室を御巡覧相成り、算術・読方等の授業より、実科作業の実況或は炊事場、また寮舎各室等に至るまで漏れなく御視察の上、尚ほ畏くも 両殿下には院長の願を容れられ、校舎の前庭に一本の若松を御手植あらせ給ひ、永く井之頭学校へ台臨の記念を残させ給ふ、右終つて後、更にまた職員・生徒一同と共に記念撮影の御許しあり、斯くて再び御休憩所にて御少憩の後ち御帰還仰せ出だされ、各員奉送裡に御機嫌いと麗はしく御出立あらせられたり
 因に当日は思召を以て、井之頭学校に対し金子一封の御下賜ありしは洵に感激に堪へざる次第にして、本院よりは養育院月報・同事業概要・記念運動会写真・籐工製作品・ミシン科製作品・農芸科農作物等を奉呈せしに、孰れも御嘉納あらせられたるは、本院の光栄とする所なり
 尚ほ 宮殿下は御帰還に際し、川口同校主務に対し、生徒等に「他日国家の為め奉公すべき善良の国民たることを期せよ」と呉れ呉れも伝ふべき旨特に御言葉ありしを以て、同主務に於ても只管感激恐懼し令旨に副ひ奉らむことを期し居れり


東京市養育院月報 第三四二号・第一―六頁 昭和五年一月 高松宮宣仁親王殿下の養育院お成り(DK300005k-0007)
第30巻 p.137-141 ページ画像

東京市養育院月報  第三四二号・第一―六頁 昭和五年一月
    高松宮宣仁親王殿下の養育院お成り
 - 第30巻 p.138 -ページ画像 
      御仁慈に感泣する院内老幼
 昭和五年一月の八日、初春とは名のみ、二日前から節は寒に入つて峻烈な寒さが帝都に殺到しやうとする頃なるに、この日は又た珍らしく穏やかな日和で、麗日暖かく、秩父颪一夜に凪ぎて樹梢を鳴らさずまこと文字通りの小春日和であつた
 この日! 本院は帝都社会事業御視察の 高松宮殿下をお迎へするの光栄を担つたのである、其前日社会局大野部長の招きにより急遽同局に出頭して宮様台臨の旨を達せられたる田中本院幹事は、帰来其旨を渋沢院長に通ずると共に、感激に瞳を輝かして宮様お成りを一同に発表した、『宮の御仁慈遠く及んで遂に本院にまで』、誰一人としてこの予期せざる光栄に感激せぬものはなかつた
 八日は一同朝から宮様のお噂で持ち切つて居た、未だ上司の指図もないのに看護婦一同は『お出迎への列に入れて頂きたい』と申出て来た、素晴らしい好天気を誰かゞ『宮さま日和』と名付けたのは蓋し秀逸であつた、さうして皆の心は『われ等の宮様へ』と走り、幾百の眼はお成りの時刻へと時計の動きをもどかしく注視して居た
 まづ巣鴨分院、それから本院へ、まだ午後二時だといふのに両院の門前には、この機を逸せず宮様の御英姿を拝さうと群がつて来る民衆で溢れて居た
 こゝは巣鴨分院である、早川主務をはじめ職員児童一統の朝からの努力で、院内は塵一つもない程に清掃されて居た、午後三時、時は刻刻に接近して来る、昨年の暮には 天皇陛下よりの御召しにて御陪食の光栄に浴し、今又直宮様台臨の栄を辱けなうし、重ね重ねの聖恩に感激せる渋沢老院長はニコニコと田中幹事に包み切れぬ喜びを洩らして居られた
 門前の民衆は刻々その数を増し、巣鴨警察署員はその整理に汗みどろであつた、署長村田勇氏は自ら分院に出馬して、警備の指図をして居た
 三時半、二百有余の分院児童は御迎への為に玄関前の馬車廻はしを中に挟んで二組に整列した、拙き運命の子等に宮様の御仁慈は一入深い感銘を与へるものであつた
 午後四時、けたゝましく電話が鳴つて『唯今宮様はそちらへお成りになりました』と、其時まで御視察中であつた啓成社からの知らせである
 『宮様だ宮様だ!』、門前街路の民衆は一時に鳴りをひそめた、やがて静かに門内に進み入りたる三台の自動車
 玄関には渋沢院長・田中幹事・早川主務をはじめ分院の職員が御出迎へ申上げて居た、待ちに待つたわれ等の宮様、御陪乗は石川高松宮別当・吉田社会局長の両氏、随員は大野社会部長・山崎保護課長・藤野福利課長・川西職業課長等の同局高等官数名で、市社会局の安井局長及船津課長の二氏は先着して御出迎への列に加はつて居た
 斯くて先づ御休憩所に充てられたる院長室にならせられた宮様には御出迎への渋沢院長及田中幹事に親しく拝謁を賜はつた、仰ぎ見る長身瀟洒の御英姿! 厳かな御威容の中にも『われ等の宮様』としての
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親しみ深き御人格が漲ぎつて居た
 数歩の御面前に直立して本院施設を御説明申上げる田中幹事、宮様には御椅子によられて熱心にお聞取り遊ばされるのであつたが、其間院長の老体をお労はり遊ばされて、二回までも着席を御促がしになつた一事の如きは、いかに宮様の御仁慈に渡らせらるゝかを覗ふに充分であつた
 田中幹事の御説明終るや、石川別当より『こゝの仕事に従事する人人へ』と宮様の難有き御思召を伝へて、御菓子料一包を渋沢院長の手に賜つた
 かくて早川主務を先頭に、田中幹事の御案内にて院内の御巡視となつた
 教室―雨天体操場―講堂―寮舎―食堂―作業室
宮様には田中幹事の一々の御説明を御聴取遊ばさるゝのみならず、その都度畏れ多いことながら『問題の核心に触れた御質問』を発せられ幹事をしてその御識見の該博、御資性の聡明とにたゞにたゞ感服せしめられたのであつた、一切の御尋ねが総べて『ポイント』へ来た
 児童の居室に成らせらるゝや、入口にて一々寮名を御黙読になり、保姆と共に二列に並んだ恵まれぬ子等の誠心こめたお辞儀に親しく御会釈遊ばされた
 『保姆の前身は大概何か』
 『子供達は保姆を何と呼ぶかね、「お母さん」と呼ぶのか』などゝ御下問遊ばされるのであつた
 双葉寮の幼稚児室であつた、まだいたけな幼児が嘻々として宮様を御迎へして居た、特に子供達に御愛情深く渡らせらるゝと聞く宮様はニコニコと彼等に向かはせられ『実に行儀がよいね』といふ親しみ深い御言葉を賜つた
 補習科の作業室である、印刷場ではもう放課時刻後であつたが、特に宮様の高覧に備へるために一同は作業について居た、皆溌溂たる少年職工である、ニコニコと微笑まれつゝ御興深げに御見学遊ばされる宮様である
 『いつでもこんなに遅くまで仕事をして居るのではないだらうね』と、如何にも少年達の身上を御気遣ひ遊ばしたらしい御下問があつた
 印刷場から次には年長女子寮へ、その間には広い運動場が和やかに暮れてゆく落日の光りに赤く輝いて居た、闊達なステツプ! 朗らかでしつかりした御声! 夕闇迫る校庭に田中幹事との御会話は高らかに続けられた
 『女子寮の生徒はお嫁にやるのかね』
 『どうして配偶者を得るのか』
詳細な幹事の御説明に
 『それならいゝね』と御安堵遊ばさるゝ宮様であつた
 第十一号舎松柏寮、それは年長女子寮の名前である、鉄筋コンクリート造り、清洒な二階建の『ヴヰラ』風建物、分院には特異な建築である、今しも玄関へと進ませられた宮様には、不図その入口に掲げられたる『ロータリ・ホーム』と英語で刻んだ銅板の名札に御目を止め
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させられた
 『大層変はつた名前だね』
 孤児養育施設にそれはあまり懸け離れたやうな名前である、宮様の御不審は御尤もである、田中幹事は直ちにこの寮舎が大震災後東京ロータリ倶楽部の好意により建築の上寄附されたものであり、就ては同倶楽部の好意を永へに記念すべく、且つは欧米のロータリ倶楽部員が時々来り視察するものあるに便せむがため、かゝる名札を掲げたる旨を申上げると、宮様には『成る程』と御首肯きになつた
 寮内では二十余名の女生徒がミシン・裁縫等甲斐甲斐しく作業に就て居た、御熱心に興ありげに御覧遊ばされる宮様であつた
 次で田中幹事が、こゝの寮生は他の一般児童と異なり、家事習得のため彼女等の食物は総べて生徒自身が調理すること、尚ほ分院内二百有余の児童の被服は、全部この女生徒が調製することを申上げると、一層御興味を深かめられた御様子であつた
 かくて御一巡は終つた、再び御休憩室へ、お席の左壁には昨年の五月に本院視察に見えられた徳川喜久子姫及び実枝子母堂の院児と共に写された記念写真が掲げられてあつた、それを御覧に入れた後ち、此写真と共に壁間に掲げられてあつた児童製作の書画数葉を御覧に入れたところ、『図画はなかなかよく出来て居る』とお褒め遊ばされた
 『絵の方は多少とも見られるものもございますが、習字の方はうまく書くものがナカナカにございませんので』と申上げる幹事に
 『いや字の拙いのには同情されるよ』
と御含蓄のある御言葉に、一同は恐懼感歎の外なかつたのである
 斯くて分院を御立出で遊ばされむとするに際し、田中幹事より記念写真の撮影方を御許し相願度旨、石川別当を経て願ひ上げたるところ快よく御聞済み遊ばされ、玄関左側の地点に幼稚園教室と奉送の児童一同を背景として記念撮影を了へられた、御頭上には今にも笑みだしさうな百日紅の大木があつた
 次で午後四時四十五分、夕闇迫る街路を沿道堵の如く立ち並ぶ民衆の奉迎裡に板橋の本院へと成らせられたのであつた
 プリンス日和はとつぷり暮れて、もう本院には灯が入つて居た、院長及び幹事の先駆にて、各課長及び主なる職員の御出迎へに本院へ御到着になつた宮様は、御満足げに一同へ御会釈遊ばされて御休憩所に充てられたる階上会議室にならせられた、然かし時間の切迫せる為め御少憩さへもそこそこに、直ちに田中幹事を御促がし遊ばされて本院施設を御一巡あらせらるゝことゝなつた
 かくて一号―二号―三号病棟と御急ぎにも拘はらず順々に一々室内に入らせられ、熱心に無告の窮民達を御見舞遊ばされるのであつた、人生の路傍に捨てられて顧みるものもないあはれなる収容者、誰れの眼にも難有涙は光つて居た
 本院にも巣鴨分院へ送致するまでの子供を収容する幼童室がある、分院のよりは更にあどけない幼童が火桶を囲んでその日は珍らしく温良なしさうに坐つて居た
 『今日は皆おとなしいね』と幹事が口を切ると
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 『宮様の御出でゞ御座いますからよく云ひ聞かせて置いたのでございます』と、主任の保姆は真四角に坐りながら返答した
ニコニコと微笑んで居られる宮様であつた
 ところがいよいよその室よりお引返しにならうと遊ばされた刹那、今まで猫のやうにおとなしかつた五歳ばかりの一人の子供が、急に御跡を慕ふやうに立上つて来て、『おぢチヤーン……』と叫び出したのには、図らずも宮様を破顔一笑おさせ申した、畏れ多くも本院の幼童室は今回の台臨の光栄に酬ゆるべく、かうした一つのユーモアを宮様に捧呈したのである
 それより普通収容室及び作業室を御巡視になり、作業室に於ては、特に収容者の作業振りを熱心に御視察遊ばされた、X光線室の前では『おや、レントゲンだね』と仰せられ、手術室に於ては『なかなか設備が行届いて居る』とお讚めになり『あまり広いので何処をどう歩いたかわからない位だ』とその規模の宏大さをたゝへさせられるのであつた
 殊に我等の感激措く能はなかつたことは、本院及び分院を御巡視中寮舎や、作業場や、廊下や、病室にてお出迎へ申上げた職員・看護婦等には勿論、収容者の敬礼に対せられてさへも、一々御丁寧に御会釈を賜はつたことで、かゝる御謙譲の徳に富ませらるゝ宮様を上に戴いたことは、我々民草のたゞだゞ難有感泣するところである
 かくて五時二十分、完全に夜になつた本院を、奉送の院長はじめ一同にいと懇ろなる御会釈を賜はり、御帰還の途に就かせられたのであつた
 大風一過! 院内に淋しく残された我等の胸には、朗らかなる宮様の御英姿が鮮やかに刻みこまれて、ナカナカに消え難い感激に高鳴つて居た
 曩には徳川喜久子姫、今また宮様、やがて間近く御慶典を挙げさせ給ふと聞く御二方より、それぞれ御視察の光栄を賜つた本院こそ何と恵まれたものであらう
 既に田中幹事はその翌日渋沢院長の代理として高輪御殿に伺候し、あつく台臨の御礼を言上したのであるが、玆にもまた更めて衷心よりの敬意と感謝を、殿下に対して恭しく表し上げ奉る