デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.148-166(DK300008k) ページ画像

大正2年3月13日(1913年)

是日栄一、東京市会議員ヲ当院大塚本院及ビ巣鴨分院ニ案内シ、当院ノ沿革ト現状並ニ将来ノ計画ニ就キ詳細ニ説明ス。同四年五月十三日、再ビ市会議員ヲ当院ニ招ジテ同様ノ説明ヲナス。


■資料

九恵 東京市養育院月報第一四五号・第二三頁 大正二年三月 市会議員の参観(DK300008k-0001)
第30巻 p.148 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一四五号・第二三頁 大正二年三月
○市会議員の参観 三月十三日午後一時来院せられたる市会議員大内重兵衛・辰沢延次郎・酒井泰・袴田滝三郎・仁科粂次郎・糸川正鉄・中島行孝・松崎権四郎・今井喜八・今野信隆・小柴市兵衛・根岸治右衛門・佐々木和亮・西沢善七等の諸氏にして、一同を事務室楼上に案内し、渋沢院長は先づ起ちて諸氏の来院を謝し、次で院の沿革より現時の状態並に将来の施設に対する院の理想等を述べられ、了て一同は院長・幹事の先導にて院内各室を巡覧し、午後四時三十分退出、直に巣鴨分院へ赴かれ、暫時休憩後院内各室を巡覧せられたり。
 因に渋沢院長の演説は次号に掲載すべし。


九恵 東京市養育院月報第一四六号・第一―二一頁 大正二年四月 本院の沿革と現状(院長渋沢栄一)(DK300008k-0002)
第30巻 p.148-163 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一四六号・第一―二一頁 大正二年四月
    本院の沿革と現状 (院長 渋沢栄一)
 本項は去月十三日参院の市会議員諸君に対し演説せしものなり
今日は誠に御苦労に存じまする、市会議員の諸君に此養育院を視て戴くことは、私始め幹事・副幹事及当所の一同が長く希望して居りましたことでございまして、何時か機会がありましたならどうぞ鄭寧に御覧を願うて、悪い所はお小言を頂戴し、同時に御意見を拝聴致したいと思つて居りましたところが、幸に希望が達しまして、今日お出下されたことを深く感謝致します、唯全体の御人数に対して御会同の方々の少なかつたのを遺憾と思ひますけれども、併し既に斯く多数お出で
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でございますから、尚諸君から寄々に今日御出席のない諸君にお伝へを戴きましたならば、残らずお出でが無うてもお出でがあつたと同じ様な効能があらうと存じます、詰り此養育院は東京市の所轄に属して居りまして、諸君は其立法部でゐらつしやいますれば、即ち此養育院は諸君の管轄内のものであります、其管轄内の事務を取扱ふ吏員、即ち養育院の係の者共は、私始め市吏員の一人たらざるを得ぬのであります、左様致しますれば謂はゞ立法部の方々に対して、御管轄内の仕事を我物らしう講釈するのは頗る憚り多い訳で、冠履顛倒の嫌がありますけれども、此養育院は随分長い歴史を持つて居りまして、現に市会に御列席なさつてござる方々でも、沿革を審に御知りにならぬ方もございませうと存じますから、前に申上げましたやうな冠履顛倒と云ふことは姑く御免を蒙りまして、私は此養育院の沿革に付ては一番能く存じて居りますから、飾らず遠慮せずに詳細申上げて、諸君の現在若くは将来の御考慮の材料に致したいと思ふのでございます。
抑々此養育院の創めを申上げますと、先則概況《(刻カ)》と云ふ印刷物を差上げましたが、是は鄭寧に調査したものではなくして、御一覧なされて要用な事の早分りのするやうにと思うて取調べさせたのでございますから、或は杜撰な所もございませう、又極く簡なものでございます、故に沿革の歴史とまでは申されませぬが、此処に「明治五年十月本郷旧加州邸に於て窮民救助の事業を開始す」とございますけれども、尚此前があるのでございます、それは私も能く覚えて居りませぬが、多分明治三年と云ふことでございました、何んでも海外の―露西亜だと云ふことに聞きましたけれども、或る皇族が日本に来られた、其時分に東京市中を頻に乞食が徘徊するので、外国の貴賓に対して体裁が悪いといふ所から、あれを駆集めて市中の徘徊を差止めやうと云ふのが始まりで、此養育院の元の起りを成したのでございます、成程私共幼年の時分に江戸の町を通りますと乞食が大勢集つて大店などへ物貰ひに行くのを見たことがございます、其体裁が余り見つともないから彼等を駆集めやうと云ふのが、此養育院を造り出すの始でございました、其時二百人許り駆集めたと云ふことでございますが、其集めた者を又直ぐ散乱させるのも困ると言つて、其時分車善七と云ふ非人の頭があつたので、此車善七へ引渡して其始末をさせやうとしたけれども、善七と雖もさふいふ大勢の乞食を始末する訳にはいかぬ、相当の費用を支弁してやらねばならぬと云ふので、当時東京の町に共有金がありました、此共有金と云ふのは沿革を糺しますと、寛政度、松平越中守定信といふ徳川幕府の閣老が、江戸市中に積金の制度を立てゝ貯蓄せられたのに起因して居ります、其金が維新の後東京となつてもやはり存在して居つたものですから、此金は其時に新政府から命ぜられた東京府知事も勝手に使ふと云ふことを憚つて、一の営繕会議所と云ふものを東京に造つたのです、さうして此営繕会議所と云ふものに道路・橋梁、其他今日の所謂市の造営物に関する取扱をやらせたのです、前に述べた乞食を駆集めた費用も其共有金から支出したら宜からうと云ふことに成つて、初めは旧加州邸に収容致しました、続いて上野の護国院の堂宇を借入れて、此処に収容致しました、其際此共有金に依て支
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弁した仕事は今の救済の事と、それから今日は一ツ橋の高等商業学校と称して居りますが、あれが其初は商法講習所と云つて商業学を教ふる場所で、木挽町に設置してあつた、それから現今大きな会社になりました瓦斯事業と、共用墓地、此四つが共有金に依て経営されて居りました、私が此養育院に関係するやうになりましたのは明治七年でございまして、当初は養育院のために命ぜられたのではなくして、共有金の扱い方が官の物とも云へぬが、又市民の勝手にする訳にもいかぬ且つ多くは、貸付金となり、又は土地所有とにて種々に散つて居りましたから、東京府たるものも其処置を唯府の吏員ばかりで致すも何となく一般の人気に対して宜くないと考へましたが、今申す営繕会議所と云ふものが出来て、此営繕会議所で種々なる事を評議して、不急の装飾に属する市の設備といふものに金を使ひ行く虞があつたために、此金の使途を取締る様にしたいといふ考が起つた、時の府知事は大久保一翁といふ人でありました、此人は私が静岡に居る時分に知合つた人でありますから、其人から私が共有金取締方を嘱托されましたのでそこで私が始めて東京府に関係することになつたのであります、其時に此営繕会議所と云ふ名称はおかしいから、単に会議所と直したら宜からうと云ふことで、名称を改めて自分の外に其会議に列席する人の顔触れを東京府から命ぜられて、一の会議体にして知事の諮問に答へることにしたいと云ふ意見を出しました、それで前に申上げました救済事務なども其会議所で知事からの諮問に答へて、其費途の支出其外に付て意見を述べると云ふやうに致し来つたのであります、続いて瓦斯は瓦斯局として経営しまするし、養育院は養育院として同じく共有金から支出を致し、講習所も学校として支弁するといふことに致し来つて居りました、故に此三つは私は其時分から本業の片手間に関係をして時々評議にも与かり、又実務をも見るやうにして居りました。
其後二年経ちまして、多分明治九年と覚えて居りますが、会議所が知事の諮問に答へるのと、実務を取扱ふのと二つ混合するのは面白くない、是迄は会議をして知事の承認を経て其事務を取扱つて居つたけれども、議する者が実務を処理するのは工合が悪いから、実務は東京府の管理に属せしめ、議することだけ知事の諮問に応じて答えることにしやうと云ふので、其方法に切替へました、それで私だけは一方に向つては会議の方に与かりましたけれどもそれは議員としての事で、養育院の方は養育院長、瓦斯は局長、学校は評議員といふものを東京府から申付けられて、此三つだけはやはり同じく実務に関係したのでございます、其後学校は明治十一年になつて商業会議所――其時分は商業でなしに商法会議所と申しましたが、此商法会議所が出来ましたために、商法会議所が講習所の仕事を監督すると云ふことになりました瓦斯も一局として東京府の事務にしました、養育院も全く会議所の手を離れて、取扱ふやうになつたのでございます、併し其資金は前申す共有金から年々支出すると云ふ方法になつて居りました、それで此養育院は明治七年から九年頃迄は上野の護国院といふ寺院で其事務を取扱ひましたが、其時分の入院者は多くは前に申す乞食の徒で、それに新に這入つて来ると云ふのは、やはり今日のやうな体裁で各区があり
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まして、区毎に府に申出まして、府で吟味をして府から其申出た窮民を養育院に送つて来ると云ふ手続であつた、或は警察の手で伴れて来るといふこともあつたやうです、其頃は百七・八十人乃至二百人位の人数であつたやうに覚えて居りますが、別に一般の寄附金を以てやると云ふ途は府に於ても気付きもしませぬし、世間も余りさういふ事に趣味を持ちませなんだから、単に共有金だけに依て経営致したのであります、追々年一年に人数が増して参りまして、はつきりと覚えませぬけれども、護国院ではどうしても取扱がしきれなくなりまして、もう少し広くしなければならぬと云ふので、多分明治十二年と覚えます和泉橋に元と藤堂藩の上屋敷がありましたが、其上屋敷中の一部分の長家を養育院に用ゐるやうになりまして、其処で数年間経営を致して居りました。
ところが明治十五年頃から東京府会に一の説が起りまして、此窮民を府にて養育すると云ふことは、寧ろ惰民を造る原因になる、今養育院で収容して居るが、是から先き貧困者と云ふ者が、年一年に増して来る、終に東京府の富を以て是に充てることが出来ぬやうになりはしないか、現に英吉利などでも、済貧の事は却て惰民を養成するものであるとまで学者が論じて居る、斯る事を東京府でやるのは、実に馬鹿な事だと云ふ議論が起りまして、遂に養育院廃止と云ふ説が高くなりました、其頃府の議員連中には私も至つて懇意な人が多うかつたから、さう云ふ説を聞いて頻に心配をして、懇意の人毎に反駁して決してさう云ふものではない、養育院を廃するやうになつたならば今に東京府が大変な後悔をするやうになる、斯る多数の人の集まる都会、此一等府たる団体が是位の設備を以て窮民を救助すると云ふことは、欧羅巴にも各地にある、窮民を救ふに弊害が伴ふと云ふことは、独り英吉利のみではない何処にもある、くだらなく財物を喜捨して、窮民を助けて行くと云ふことは、惰民を造る弊害のあるは事実であるけれども、仮令其弊害があるにもせよ、多くの窮民を救うて行かなかつたならば彼等は凍餒に迫ると云ふことは免れない、それ故適当の方法を立てゝこれを救ふと云ふのは、所謂人道である、人道を行はぬと云ふことになれば殆ど暴戻の政になると頻に論じましたけれども、其時分の府会議員と云ふものは厳酷な人々が多かつたから、一年丈は私が反対したために僅かの多数で継続に決しましたが、其翌年も又其議論が出て、到頭養育院廃止と云ふことになりました、併し其廃止が私の維持運動によりて向後新しく窮民を入院させぬだけにして、或る年限に残留窮民が全く無くなる時に全廃すると云ふことで、幾らか緩和なる取扱になりました、是に於て已むを得ませぬで、一つ私設を以て此窮民を引取つて、東京府と引離れて経営することに致したいと云ふ考案を私が起しまして、それで現在の財産と相当なる涙金を呉れよと云ふことを東京府会へ請求しました、それは其際和泉橋の地所は政府の物でありましたけれども、これを売却して東京府に貰ふと、二十万円以上の金になる、それで今の通り養育院は逐立てられて是から独立して、一の婦人慈善会を起し、其慈善会で年々数千円の金を集めてそれを以て維持するやうにする、又差向いた所は市内の富豪に寄附金をして貰つて
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これに依て一の新しい場所を設けて私設の養育院を組立てる、併ながら今日和泉橋から他に移転するに付ては相当なる資金を東京府会から涙金として貰いたい、さうすると残留人員は私設のものに収容して救助して行くやうにすると云ふことを申出まして、漸く四万円程であつたと思ひますが、和泉橋の地所を売つて、東京府が政府より貰ふ金の中から養育院の方へ貰つたのでございます、それで以て本所長岡町に移転したのが私設の養育院でありました、暫時の間私が私設養育院の院長となり、故橋本綱常氏が医長となり、其他いろいろな人がありましたが、二十幾名かの仲間と、それから貴婦人連に大に力を入れて貰うて、婦人慈善会を催して年々相当の寄附金を得まして、収容の窮民を取賄つて居つた、此間は府と云ふ公共団体とは全く引離れて私設として、明治十七年から廿一年まで五年の間経営致しました、故に事務も伸びませぬ、又寄附金も余り充分に集めることが出来なかつたのでございます。
明治廿二年に市制が布かれました、其頃私は此私設の仲間と評議して其時内務省から市に属する仕事は此場合に持ち出せば、市で管理をすると云ふ省令が出ました、其趣意及法文は能く覚えて居りませぬけれども、熟々考へて見ますと元と東京府が廃止したのはどうしても間違つて居ると思ふから、此養育院をして私設の儘何時までも継続して行くのは、将来に不都合を惹起するやうになりはせぬか、而して又東京市が決して斯う云ふ設備なしにはいけまいと思ふ、元来東京府で十数年やつて来たものを廃止すると云ふのは間違であるから、幸に今日市が元の如く其管理に属するものとするならば私設をば廃止して、現在の儘で市に引継ぎ、さうして慈善会は継続して寄附金を募り、又仮令慈善会を催さぬにしても一般の寄附金は幾許でもこれを受けると云ふことにして、唯一般私設の救済事業と違つた一種の取扱法を拵へてやつたら宜からう、而して院の医長は夫迄は橋本博士が陸軍の軍医総監でやつて居られたのでありますけれども、将来は帝国大学に依頼して大学から医長を出して貰ふやうにしてやつた方が宜からう、但し其頃は特別市制であつて、時の東京府知事が渡辺洪基君であつたが、私は至つて懇親なりしために知事と相談し、他の人々とも協議しましたらそれは至極宜からうと云ふことになつて、当時の市会は速に養育院を元に戻して市のものにすると云ふことに一決しました、そこで明治廿二年に始めて東京市の養育院と云ふものになつたのであります、爾来年々引続きてやつて居ります中に、追々に市の繁昌と住民の増加と共に此場所の必要が増して参りまして、殊に其頃からして行旅患者を養育院が引受けて世話をする、又棄児・遺児・迷児を養育すると云ふことで、段々取扱ふ仕事が増しました、而して仕事が増すために設備を増さなければならぬので、寄附金を募つては幾許か拡張して参りましたけれども、其設備は寧ろ何時も入院者の希望には充たぬと云ふやうな有様に居りますのでございます。
一体此養育院は前に述べたやうな沿革で、不規則に拡張しましたが、其性質を詳細に分析すると、養育院の本来と云ふものは最初乞食を収容したと同じやうに、其後も養育院の本務として収容すべき者は政府
 - 第30巻 p.153 -ページ画像 
の済貧恤救規則に適する者を入院せしむると云ふことになつて居りました、而して養育院の財産は爾来追々収入する寄附金を基礎として、それから生ずる利足に依つて済貧恤救に応ずる窮民を収容すると云ふのが、当初の取極めであつたのです、其後此の規則のみでは余り範囲が狭いと云ふので、更に幾許か制限を緩めて此度合までは容れると云ふことにして、其初めは二百人位でございましたが、段々と進んで今日では三百五十人位になつて居りますけれども、養育院の基本財産から生ずる資金に依て、年々収容する人員は多く通常窮民と云ふものであります、而して基金から生ずる利息の増加する丈け其収容人員を増すと云ふことになつて居るのです、故に養育院の力に依て収容する人数は限りあるのであります、同時に棄児・遺児・迷児と云ふ者も東京市で世話して養はなければならぬが、別に場所を設けてやるのも不利益である、又其取扱ひも下手だから、養育院は馴れて居る故に引受けてと云ふので養育院に送られました、同時に行旅患者も養育院に引受けることになりました、取も直さず養育院の窮民救助に附加へて、府若くは市から一の請負仕事を与へられ、これを兼ねてやつて居ると云ふ性質になつて居るのです、而して其総体の人員を合せますと今日の所では二千百四十三人、此処に書出してある通りであります、是は残らず養育院が自分の資力に依て収容が出来ると云ふ訳ではなくして、其中の四百に足らぬだけの者が養育院の力に依て収容し、他の者は東京府と東京市と云ふ二つの役所から請負的にお引受をして居るのでございます。それから明治三十年頃でございましたが、東京市内に不良少年が沢山徘徊しました、此不良少年の徘徊する有様は今日とは少し其振合が変つて居りまして、十四・五年以前は警視庁の処置が掏摸と云ふものを優待して、掏摸に対しては殆ど厳しい制裁は無かつた、是は極悪の罪人を逮捕するには掏摸の手に依るが宜いと云ふので、掏摸を寛大に処置した由に承知して居りますが、それと同時に此掏摸が東京市内に跋扈して、多数の者が殆ど白昼公々然として居つた、甚しきは掏摸学校などゝ吾々が言つた位で、此不良少年にして怜悧な奴は多く掏摸の手に附いて掏摸になる、どうも斯う云ふ有様では困る、警視庁の処置が宜くないと言つて小言を言ふても、それは警視庁のすることだから仕方がないとして、何とかして不良少年をして棄児を世話すると同時に、世話して感化改良して見たいと、安達幹事が泣ぬばかりに希望して申されました、其頃甚だ恐入つた申分でございますが、 英照皇太后が崩御に付て慈恵資金を一般に下賜されました、其金額の東京府に与へられたのが一万七千円ばかりありました、当時なかなかに資金が乏しいので、窮民救助のためにさへ困つて居る際に、今のやうな希望があつても如何とも致方がない、何か好機会があつたらばと思うて居りますところへ今の御下賜金がありましたから、内務省や東京府の方へ頻に申出て、其金を養育院に下附してお貰ひしたい、それは院内に一の感化部を設けて不良少年を改良することをやつて見たいと云ふことを述べて、私が頻に諸方を運動しました、幸にして望み通りに養育院の方へ下附になりました、同時に其趣意を以て特に感化事業を始めるから寄附して呉れと云ふて、一般の寄附を募りました、募
 - 第30巻 p.154 -ページ画像 
ると云つても、斯く申すと憚り多いことですが、己れ自ら第一番の寄附者になつてやつたのです、それが丁度七万円余の寄附を得ました、そこで前にあつたのに併せて感化部を組立てるやうにしたのであります、さうして其仕事を始め得たのが丁度明治三十三年で、初めは此本院内に於て試験して見ました。
玆にちよつと問題が戻りますが、此養育院は本所長岡町にやつて居るときに東京市に属することになつて、其中に行旅患者を引受けるやうなことになつたので、長岡町では狭くていけませぬ、どうしてももう一層大なる場所を見付けなければならぬと云ふので頻に心配して、殆ど東京の彼方此方の土地を穿鑿して見ましたけれども、どうも良い場所が無い、丁度此処に一万四千坪ばかりの売地がある、而もそれが蒲義質と云ふ者が持つて居りましたので、此人は曾て私が使つた事があります、そこで段々話をしまして、此地所を買ふことに致しました、それが明治二十七年である、而して移転の手続をしまして、此処に移つたのが二十九年の三月でございました、初めは是程建物は大きくはございませぬでしたが、後に建てまして是だけのものが出来ました、之を建築するのに当時の常設委員の方々にいろいろ議論があつて、随分骨が折れました、妻木頼黄博士に其設計を委託しましたが、伊沢君が常設委員の一人で種々やかましい説があつて、終に妻木博士が憤りてお断りをするなどと言つて騒動したことがありました、それは余計の話でございますが、続いて此処に感化部を置くと云ふことに決定致しまして、先づ試験に五十人の不良少年を収容致しました、此処で二年ばかりやつて見ましたが、是は全く失敗に了つたのです、私共実地の経験に乏しいものですから、同じ処に普通の貧児と不良少年とを置いて取扱ふと云ふことは、寧ろ棄児・遺児の少年が悪い少年に感化されて、良くしやうと思つたのが逆に悪い方になつてしまふと云ふ結果を来たしたので、迚も是ではいけないと云ふ説が起りました、私も毎度実際を視察して、何んでそんな悪い事をするかと言つて訓誡しましたけれども、なかなか悪い奴と一緒に置いては善くなることが出来ずに却て悪くすると云ふ事実でございました、そこで拠ろなく場所を変へるより外ないと云ふので、井之頭に移転しやうと云ふことに決しました、それは明治三十六年の頃でありましたが、彼処に建築を企てまして、建築が成つて井之頭に感化部を移しましたのが明治三十八年でございました、而して此感化部の基金は今でも別種に相成つて居りまして、建築した後も尚ほ六万円許りの金は別種の基金として残つて居ります、其後東京府から代用感化院と云ふことを命ぜられまして、年年六千円宛の補助を受けて居りますから、総人員百三十名若くは多いときには百五十名位を収容致して居りまするが、此感化部に付ては東京市から年々幾許かの経費を補助されて居りますけれども、大本は基金から生ずる利息で大体経営致して居ります、総経費が一万幾許か掛りますから東京市よりの下付及基金利息を合せた八千円を差引いて、二千幾許は東京市から補給して戴いて居ります、是が感化部の経営の概略でございます、感化部の方は前に述べた方法に依つて必適の場所を見立てましたゝめに感化の仕方も宜くなりました、殊に感化部主任
 - 第30巻 p.155 -ページ画像 
の副幹事桜井円次郎と云ふ人が、特に感化のために学問をした人ではございませぬが専心にやつて呉れまして、爾来引続いて小学教育及工芸に属する教授をして、徒弟を出すことを始終其向々に当つて心配して居ります、今日の所ではそれ位しかやれませぬが、併し此感化部の現在の仕事が最終の目的ではない、更にもう一つ工風をしなければならぬ、私の理想としては少し方法を変へなければならぬと考へて居りますが、併しそれを行ふには相当の設備も要りますから、其事は尚将来の理想として今日の経営に属した事は是れだけにして置きます。
続いて今一つ申上げますのは、先年迄は幼児を大人と一緒に此処に置きました、蓋し本院に入院する大人と云ふのは癈疾・不具・老病者、或は一時の行旅患者と称へまする、地方から出稼ぎに来た者が病気に罹つて入院して来ると云ふ、種々雑駁な男女を混淆した貧民であります、此貧民と、棄児・遺児・迷児とを大小相混じて養つて居たのであります、是には実に困つたのです、幼者はどうしても別に養育しなければ、彼等の将来に於て宜しくないと思ひましたが、場所と其資金が無いので困つたのです、丁度明治三十七・八年頃から是非区別したい感化部を分けると同時に幼者を別居したいと云ふことを企てまして、其頃の幼者は乳呑児だけを除きますと三百人位しか無かつたのであります、それにしても大人と一緒に収容して置くことは頗る宜くないと考へましたが、何分場所も無し金もない、然るに東京市の知人が市参事会員になつて居られましたので、其人に御願ひを致しましたが、なかなか養育院に左様に資金を出す訳にいかぬと云ふので、工夫が付かずに困難を致しました、三十九年に至りて余儀なく大に寄附金を募つて、其金に依て幼者を別にしやうと云ふので、院資増殖会と云ふものを設けまして、追々に見込が付いて来ましたに依て、切めて地所でも見附けたいと言つて幹事と共に数箇所見に参りました時に、恰も好し弘文学院と云ふものがある、実は東本願寺の学校であつたのを、嘉納治五郎君が借り受け支那人を容れて学校として使つて居つたのが、即ち今日の巣鴨の分院です、段々聞いて見ると売物になつて居るといふことである、至極都合が宜いから是非買ひたいと思ひましたが、それに充てる金額がまた不足である、一方増殖会では頻に寄附金を募りつつある際でありますから、其売却値段を聞合せて見ると、何んでも十四・五万円位ならば売るだらうと云ふことであつた、因つて一応実地に臨んで見ましたが、土地が一万坪に少し足らぬ位でございまして建物も立派である、唯部屋が少しく大き過ぎるので不満足でございましたが、兎に角手頃であつて場所も宜い、一纏めになつて居りまするからどうかして之を買ひたいと思ひましたが、扠其資金の都合に困る、其前から幼者別置の事は度々市長にも市参事会にも願ひましたけれども、何分いけぬいけぬと云ふことでありましたが、愈々さう云ふ都合になつて、其場所が多分十二・三万円で買へると云ふ見込が付きましたので、浅草本願寺の輪番長をして居る大草恵実と云ふ人とも相談して此度売つて上げると云はれましたに付て、特に私は市参事会に出頭しまして、幼者を別置したいと思ふ次第は斯々と、現状を鄭寧にお話をし、殊に大塚本院は場所も狭くなるし取扱ひに困る、而して院資増殖
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会で金を拵へてから買はうと思ひましたけれども、それまで待つて居られませぬから、是非市より十二・三万円の金額を出して下さいと申出ましたが、市参事会にては迚もさう云ふことは出来ないと言ふ、然らば斯う云ふ方法がある、院資増殖会の寄附金が約束だけは既に八・九万円出来上つて居るが、五年でなければ金が集まらぬ、尚之を継続して十二・三万円の金額は必ず募集する積りでありますから、詰り東京市から元金を出して貰はいでも済むやうになり得るだらうと思ふ、併しそれまで待つて居ると本院の事務取扱ひに困るから少し逆な仕方だけれども、先づこれを買取りて幼者を別置し、それから其金を後に補足するやうにしたいと思ふ、而して今其金額を東京市に出して呉れと言つても困るだらうから、已むを得ず本院の基本金を以て之に充つるやうにしたいと思ふ、且此基本金を以てこれに充つるとそれから生ずる利息が無くなりますから、通常窮民の入院の人数を減らさなければならぬ、それは養育院として甚だ忍びないからどうか其利息だけを市より補給して戴きたい、換言すれば基本金たる公債証書を以てこれに充れば、其公債から生ずる利息を東京市から補給して貰はねば本院の維持が出来ぬ、其代り一方で精々寄附金を募つて向ふ一・二年の間に必ず補足するやうに勉強しますと、段段と懇願の末、それならば宜いと市参事会が同意して呉れました、続いて市会に提出し其可決を経て即ち巣鴨分院が出来たのです、其以来二年を期してと云ふたのが一年ばかり遅引して本年は大抵補足済に相成ります、而して尚一歩進んで更に板橋分院を造る地面代だけを院資増殖会で余分に募集して、一万三千円余の金額を仕払ひましたから、一年遅れた代りに余計の金額を造つたのであります、決して私共の怠りとは思はぬのであります、それで巣鴨分院がすつかり出来上つて、是に越しましたのが四十二年三月で、其六月に移転の御披露を致したと記憶して居ります、今日は幼者の養育に付ては此際の程度に於ては、先づ満足と申上げるやうに相成つたのでございます、而して東京市から年々利息を補助して戴いたのも、今年で大抵其補塡が出来るやうになりまして、却て一万三千円ばかりの余計なものが生じたやうな訳でございます、幼者の養育に付て更に陳上せねばならぬのは、どうも貧児の発育が甚だ悪い、棄児遺児と云ふ窮民の児童が此処に来てから兎角結核性になり易い、結核性に陥つてしまひますと迚も健康なものに仕上げる訳にいきませぬから、成るたけそれを能く養つてやりたいが、食物と云ひ衣服と云ひ到底満足なことが出来ませぬ、然るに其平生の体質も弱い、其上時としては伝染の虞もあると云ふ肺結核の類、又は肺尖加答児と云ふやうな病が往々ございます、之を如何にしたら宜からうかと云ふことに付ては、余程以前から心配して居りました、それのみならず幼児に対して一番心配なのは、真実の父母の手許で育つ児童は、如何に其生計が貧困且つ椀白な性質で、外へ出ると足を汚して来たと云つては叱る、或は棒を振廻して障子を破つたと云つては叱ると云ふ様な有様でも、なかなかに愉快に発達する、ところが養育院の児童は形容枯槁、顔色憔悴として誠に憫れなもので、活溌な様子が少しもない、之は吾々のやり方が悪いのであると毎度やかましく言つても旨くいきませぬ、そこ
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で段々研究して見ますと、食物が悪いと云ふても普通裏店の児童とて決して結構なものは食べて居らぬ、衣服起臥裏店の者と比較してそんなに悪くもないのに、本院の児童に活溌な気質のないのは他に原因があるだらう、真実の親の手許で育つ児童は仮令母親が無くとも、父親が常に愛情を持つて、慰安するから叱られても愉快を持つものだが、此処に居るものは一つもそれが無い、兎角棄児と云ふものはひねくれた心を持つて成長する、どうしても本院の児童をさう云ふ風に育てゝはいかぬから、努めて我児だといふ観念を以て世話しなければならぬと申しました、それは上野の護国院に居る時分から其事をやかましく申して居りましたが、近頃は夫等に付ては大に都合良くなりまして、幹事を首め係りの人々及保姆達が全く親子の関係を以て世話をして呉れますので、昔時の様なる虞は全く無くなりましたが、併し前に述べた病気には困る、といふて良い食料をやる訳にもいきませぬから、如何にしたら宜からうかと段々医師にも相談を致しましたところが、丁度入沢博士が医長の頃であります、同博士の説は是は空気療養をするの外はないから、何処かの土地に転地療養をさせるに限る、宜い空気の土地ならば同じ待遇をしてやつても効能があると云ふことで、最初は房州勝山の法福寺と云ふ寺で試験をして見たのです、ところが果して本院で療養して居るよりも工合が宜い、遂に幼少の児童はどうしても他に保養所を設けて転地さすより外ないと云ふことに決定して、四五年以前東京市から派出員をして貰ひまして、三浦岬・勝山・船形の辺の鏡ケ浦沿岸を詮議して、到頭船形の観音の附近の地面が一番宜いと云ふことになりまして、彼の保養所を造つたのです、地所と家屋とで三万円余の費額でありますが、其保養所が出来ましたので、今其処に遣つて居ります児童が百十二人でございます、それを先頃市参事会員の森久保君がお聴取りで、養育院の児童を保養所へ送つて療養させて置くと云ふことであるが、あゝ云ふことをさせて置くと、養育院の児童は貧乏人の所へ養子に遣つても居られはしない、さう云ふ贅沢なることをしてはいかぬと云ふ御小言でございました、併しそれは事実を御調査なさらないお話で、病気のために遣つて置くのである、若しも贅沢と云ふならばそれは空気が贅沢なので、教養になかなかそんな贅沢なことはしたくも出来ませぬ、事実を御熟知なく左様な事を仰しやるのは困ると御答したやうな訳ですが、其後同君も此処を見て下すつて、私の言つたことは間違つたから取消すと云はれて、私も安心しました、船形の保養所の沿革はさう云ふ次第で、是は多く前に申上げました婦人慈善会の御尽力である、数回引続いて寄附をして貰ひまして、保養所の設備が完全したのでございます。
上来申述べました手続にて大塚の本院・井之頭感化部・巣鴨の分院・船形の保養所と云ふものは次第に出来ましたが、もう一つ心配なのは一般の肺結核病者です、どうも平癒が悪いために残留病者は大抵結核である、殊に此肺結核に至りますと、医学上伝染の虞があるから、成るたけ引離れた病院に収容した方が宜い、普通の病室に一緒にして置きますと、医員の取扱方にも困難である、此処に医長が出席でありますが、近頃伊丹君が医長となられてから大変宜くなりましたが、其以
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前は詰合医員の連中が悪くすると、病者を癒すと云ふよりは、寧ろ自分の修業の材料にしたいと云ふ観念が多いかと思はれたこともある、斯様申すと怪しからん讒謗と医員が言はれるか知りませぬが、さう云ふ嫌がないとは言はれぬ、是は御無理がないのです、元来本院に収容する病者と云ふものは中には長病で、必ず癒らぬと云ふ位な種類のものが沢山ある、而して是等の人々は散々に流浪して来て入院する病者ですから、之を大切な得意の患者同様に、親切心を以て治療をして戴きたいと云ふのは無理な話です、当初本院と大学と聯合を著けて良い医師に診察して戴くことが出来ると云ふのは、一つには先生たる医長が己の教授をするために、相当に医学の出来上つた医員を此処に伴れて来て、学理を実験する為めにやつて下さると云ふ仕組になつて居りますのですから、此先生方は成る可く新しい病気に接触することを好む、普通の病気だと疎略になる、少し種類の異つた病気であると是は面白いと言つて研究のために大層喜ぶ、何年経つても同じことだと云ふ結核病者抔の取扱は、自然と親切が届かぬ、斯る姿ではいかぬと云ふので、之を引分けたいと疾より考へて居りましたが、なかなか力能はぬ、然るに先般漸く児童が分け得られた、保養所が出来たので一段落は著きましたが、長病者を区別すると云ふ事に付ても先頃から心配して居りました、幸に此度東京市から若干の金額を出して戴き、或は前の寄附の残金抔からして丁度五万円幾許と云ふものが出来ましたから、凡そ百人を目的として板橋に分院を建てることに定めたのでございます、但し病者と云ふので板橋地方の人々が、伝染患者を持つて来ると云ふやうに誤解するかも知れませぬが、段々博士方にも研究して貰ひました結果、区劃を立てたる取扱なれば、結核病者とて肺結核の甚しい者を容れると云ふのではございませぬので、決して其地方に危険を及ぼすと云ふ懸念はないと云ふことを、責任を以て明言すると云ふ鑑定を付けて貰つたのです、故に近々愈々板橋に一の分院を造ることに指定めたのでございます、是が不日出来ますると本院に居る病人の一部分を移して、さうして現在の者を減じるやうにするのでございます。
養育院の概況は前来申上げた通りで、大抵尽したやうに思ひます、けれ共更に私は将来の理想として申上げて置きたいと思ふ事がございます、唯今も申す通りに養育院の基金が五拾万円程で、それから生ずる利足を以て通常の窮民を収容する、其他は棄児・遺児・迷児と行旅患者とを引受けて、一年の経費が昨年は拾五万円余、当年の予算は拾七万円と次第に仕事が進んで来ましたが、併し左様に大金を使ふても、其扱ひ方に至つては他の窮民を救助する場所に較べて、本院程低廉にあげる処は無いと明言し得ると思ひます、一切の費用即ち食料、治療又は被服費、事務員の費用等総ての費額を合せて一人当り毎日二十二銭で賄ひ得るのでございます、斯る設備に対してどの位の経費が掛るかと云ふことを試みに諸君が他と御比較下すつたならば、本院の取扱ひ方が至つて倹約であると云ふ事を、必ず御了解なさるであらうと思ひます、若し是より廉く賄ひ得る場所がありましたならば御示を願うて、それに倣つて更に省略したいと思ひます、併し如何に節約すると
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云つて、其取扱ひを粗末にしてはならぬと思ひます、私は日頃百事に注意は与へますが、食物の粗末なるには実に不憫と思ふのです、昨日も分院に行つて見ましたが、分院の児童などは僅に是の位の豆と、香の物で昼食事をすると云ふやうな有様で、一週間に一度位しか美味いと思ふ御馳走はないので、随分気の毒でございますけれども、経費を廉くするには御馳走を良くすると云ふことは出来ませぬので、已むを得ずさう云ふことをして居ります、併し是は決して彼等を酷くすると云ふ意味ではありませぬ、或る場所抔にては普通の分量を超えて費用を余計掛けて、立派なことをして居る、良い待遇をしてやると云ふ事は、貧者に対して結構であるけれども、其待遇が止むと又直ぐ体裁の変つた有様に陥るのでありますから、病院に入つて居る間は大名であつたが、病院から出ると忽ち元の乞食になると云ふことになりますから、即ち適度を誤ることになる、つまり窮民の救助に付ては成るたけ自体の有様に適応してやつて行くが宜からうと思ひます、例へば海外の有様を視察して来た人の話を聞きますと、余り意苦地のないことをしてゐると、時々遺憾に思ひますけれども、それも人に見せるために一時立派なことをして、後に継続せぬのはいかぬと云ふので、成るたけ華美とか一時的な取扱ひにならぬやうに心掛けて居るのであります此間も「アンダーソン」と云ふ米国人が本院に来られたときに、院内の各室が汚いから言訳をしましたら、同氏の言ふには是より立派なものもあるが、自分は亜米利加のやり方は感心しない、此処のやり方が適当と思ふと、半ばお世辞か知りませぬが、さう云はれました、此養育院の経営に付て、諸君の中にも斯う云ふ落度があると御心附の事があるならば、どうぞ御示を戴きたいのです、私は常に適度を誤らぬやうにと云ふことを、一の大なる誡として守つて居るのです。
そこで本院の将来を如何にしたら宜からうかと云ふ事は、つまり市が十分なる金を出してやるから理想通りの事をやれと仰しやれば、やりたい事は沢山ありますけれども、他の仕事の多い東京市に、貧民救助に付て余りに多額の金円を出して戴くと云ふ事は、私も市の全体の経済から観察してお願ひが出来ぬと思ひます故に、成るべく節約を守りて、本院の自動で、即ち種々なる勧財方法を講じて、余り世間から迷惑がられぬ寄附金を以て今の理想を実現させたいと斯う思うて居ります、而して其仕事は何かと云へば第一に婦人を別居させたい、女と男を一緒に置くことは実に面白くない、概略の区劃を立置きますが、同じ建物内に置いてありますから是非全然分け得られるならば分けたいと思ひます、それから病者と健康者と一緒にして居りますが、貧病院と窮民の授産場とは切分けたいと思ひます、是等はどの程度にまで分けて宜いかと云ふ事は未だ十分に講究しませぬけれども、分けると云ふことになると僅かな金額では出来ませぬ、それから今一つは感化部に居る者、及巣鴨分院に居る児童に付ては現在の処は事情已むを得ぬことですから、普通の工芸の素養を少しばかり与へて、諸方へ徒弟に出すより外ありませぬが、良い技術を与へやうと思ふならば、電気であるとか、蒸汽であるとか、丁度大学で云いますと理工科の如きものがなければ、工手学校の程度だけにも教ふる訳に行きませぬ、さう云
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ふ素養を与へるには大なる資金を要するけれども、それ位の事はしてやるやうにするか、然らざれば之を農業に向けるやうにして、然るべき土地に移住的に経営し得る場処でも定めて、之を農業者たらしむる事を講ずるとか、要は此養育した青年が社会に出て、是で生活が出来ると云ふ素地を作りてやらぬと、収容した甲斐がないのであります、今日の所では確かにやれるとは言ひ得ませぬ、独り確かにやれぬといふのみならず、相応の年齢になれば無目的でも逐出してやると云ふことになるのです、徒弟に出しても、当人が知恵も無し、世話する人も親切にばかりやつて呉れませぬから、度々親方が変つて当人が忌嫌になつて逃出すのもあり、向ふから厭きられて逐出されるのもあり、殆ど容易ならぬ骨折を今しつゝあるのであります、是は感化部に属するのが多いのでありますが、是から先き如何にしたら宜からうと云ふ名案が立たぬのです。
感化部の人員は百人か百五十人位だから、まだ始末が宜いのですが、更に多人数なるは巣鴨分院です、是は極く幼少の向は成るべく子の無い人に養子に遣る、又丁稚に出す、若くは徒弟にするので、貰うとか引取るとか、先きを見付るとかで、人数の多い丈け出入も劇しい、此分院の人別表に六百三十幾人と書いてありますが、今日御覧に入れるのは四百六十人ばかりで、他の者は余所に預けてあるので、人別は巣鴨の方に入つて居りますが、それが居据つたのではない、其中に段々居据つて心配のないのもあり、又帰つて来るのもあり、此方から出してやるのもあります、総じて在院の児童は、成るべく早く出すを主義として居りますから、小さい者でも望人があれば直に出すと云ふことになつて居ります、此程度まで教育をして出すと云ふ規定が立つて居りませぬ、例へば或る年齢までに是だけのことを一通り教へて、是だけになつたから徒弟又は養子に欲しいと云ふ向へ出すと云ふことにしたならば、所謂養育して出すことになりますけれども、それを完全にしやうと思ふには、今日の場所を一倍にもしなければなりませぬ、而して年々の経費が莫大に掛る、それは養育院の力云《(マヽ)》では迚も出来ぬのである、経費を支給するからやれと云へば出来ぬことはなけれども、費額が団体《(マヽ)》でないのを成るたけ掛けまいと思ふと今日の有様にして行くより外に方案はないと思ふ、而して今の有様にして行くも、年一年に人数が殖えるから経費も殖える、場所も殖える、随て一時の費額も要る、既に今一年の歳出入が拾七万円と計上するやうに相成つて居ります、是は総てのものを籠めてでございますけれども、満足を望めばまだまだ多額の金が掛るのでございます、故に前来申述べました廉々を満足に仕組を立てろと言ふならば、或は数拾万円の金を望み上げるやうにならうと思ふのです、今日養育院が幾許か基金も出来、地所も出来、家屋も出来、御覧下さる通り収容した者をさう酷たらしう取扱うては居りませぬから、昔日に比較すると、稍々整頓して来たやうでありますけれども、是だけでは此大都会に在る人の屑を、立派に整頓して経済的に人道に適ふた仕組だとは、決して申上かねるのであります、願くば市の御奮発を仰ぐか、又は大なる慈善家の喜捨があつて其処に至らむことを希望して已まぬのでございますが、市からさう金を
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出す訳にいかぬと仰しやれば、一般から寄附金を募るやうな良い方法を講究したいと思ひます、過日日本橋倶楽部に於て、頃日米国より来遊せし「アンダーソン」氏から、亜米利加に於ける救済事業の経過を鄭寧に話して貰ひましたが、「シカゴ」の町の窮民救助に対する費途は一年に七百万弗(千四百万円)を費すと言うて居りました、少し豪いやうに思ひますが、尤も私も同市の貧病院を一箇所見ました、それから感化部的の仕事の場処を見ました、子供の裁判所と云ふものを見ました、多く慈善的事業でありまして、「シカゴ」に於て見たのがそれです、其他の地方にも大きな仕掛でやつて居るものがございましたが、是は事業に属する方で、一方は農業、一方は工業などを見ました、而して貧病院はなかなか建築も立派でありました、其取扱ひも吾々のやつて居るよりは贅沢なやうでございましたが、あれ位の仕組でやつて居りましたならば、亜米利加では「シカゴ」一市で一千万円余の金を使ふのも或は然らんと思ひます、併し余り金を掛け過ぎると思ひます切めて其十分の一でも東京市で掛けて下すつたならば、立派にならずとも相当の事は出来ると思ひますが、是から先きの養育院を如何に考へるかと云ふことに付て自分の愚見を申上げますと、概略前に申す通り婦人と、全くの病者と、又授産すべき貧困者と、此三通りに分ける必要があらうと思ひます、それから感化部の青年と、巣鴨分院の児童は、今は全く費金の掛らぬ姑息の方法でやつて居りますが、之を満足するやうに致すには、相当な教育方法を立てなければならぬ、又は殖民地を見付けて移民でもするとか、詰り一歩進んだ方法を設けて経営するやうにしたい、而してそれと同時に市で経費を出して戴く訳にいかぬとすれば、如何なる手段を執つて此経費に向ける金を得るか、是等に付ては追々に尚考へて、斯くしたいと云ふことを申上げる積りでありますけれども、幸に諸君が御会同下さいましたから、斯くもしたら宜からうと云ふお気付の点は、直接に若くは間接に仰しやつて戴けば大きに有難ふござます。
詰り養育院の起原は斯様であつて、それから変遷した沿革は斯々である、又其資金に付ては斯様々々の収支に相成つて居るのであると云ふことを、大抵お聴に達した積りでありますが、要するに年々の経費に付て今申上げました棄児、或は行旅患者等は、府若くは市から支出されて、丁度請負方法で本院が仕事をして居るやうな訳になつて居ります、それから養育院の基本財産に属するもの、若くは所有地所・家屋等に付ては、市がどれ程の金を出して下すつたかと云ふと、至つて僅少でございます、彼処に一つある学校が東京市で建築して下すつたので、それから今申上げました巣鴨の分院に付て一万四・五千円も利息の補給をして戴いた、先づ重立つたものはそれ位でございます、其他のものは年々に彼方此方から貰ひ貯めたものが是だけに相成つたので決して私の丹精ではない、皆幹事其他の人々の骨折で始終彼処へ頼み此方へ望み、中にはちつとも知らぬ盛屋亀次郎と云ふ人などが一万円を寄附すると云ふ様に、是れから先きも又思ひの外寄附者が現はれて来るかも知れませぬ、実はゑらい有力な人などに是非大に寄附をして呉れと頼んだこともありましたが、考へて見やうと云ふ中に其寄附が
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他に転じて、大に目的が違つたことなどもございました、将来は己の遺産は皆養育院にと云ふ按排に、金満家がドンドン出して下さると、「シカゴ」何んのその――と云ふこともありませうけれども、今数年の間はそれを頼んで居る訳にも参りませぬから、何とか資金をもう少し集めることを心配したいと思ひます、呉々も今日御会君の諸君打揃ひ下すつて、私共が永年希望して居りました事を詳しく御聴き下すつたのを、深く有難く思ひます、今申上げましたやうに本院の経営は決して我々も満足致しませぬ、欠点だらけだと思ひますから、御遠慮なく御注意の廉々ありましたならば、御示し下さることを願ひます。
尚申上げ残した事がございますから一言申添へます、私は前来申上げました通りの沿革で、最初養育院長として従事しましたが、明治二十二年市制が布れたに付て常設委員と云ふものにならねばいかぬと云ふので、十数年の間市参事会員になりまして、市参事会員中から常設委員の委員長となつて、養育院の事務を取扱つて居りましたところが、市参事会員と云ふものになりますと養育院ばかり関係をして居られませぬので、自然他の市吏務に関係せざるを得ぬやうになつて参りましたために、罷めたい罷めたいと思つて居りましたけれども、罷めると養育院の方も罷めなければならぬ、養育院は罷めたくないので、当時の市長松田秀雄氏に相談しまして、十四・五年以前遂に市参事会員を罷めて単に本院の院長となつたのです、但し院長と云へば全く市吏員であるから日々勤めなければならぬ訳でございませうけれども、私は毎日此処に出勤すると云ふ訳にはいかない、但し院長と云ふものは日勤と云ふ訳でなくて宜いならば勤めませう、且安達幹事も既に任ぜられて余程の後でございましたから、大抵の事務は幹事に代理させて、自分の差繰の付く程度で月に二度なり三度なり、都合次第出勤して差支ないと云ふことであるならば勤めませうと申しましたところが、それで宜しいと云ふので、日々院に出て常務を執らずして、院長たる資格で今迄勤続して居るのでございます。
それで毎月十三日と云ふ日を私の養育院出勤日と定めて、必ず参りまして、児童等に菓子を遣るのを常例としてあります、今日は十三日だから院長さんが来る、お土産があると言つて喜んで居る、それが養育院の慣例になつて居ります。
何故十三日を選んだかと申しますれば、此処に書いてありますが当初の共有金と云ふ者は寛政度―天明七年に松平越中守が老中首席になられて、其翌年天明八年即ち寛政と改元したのですが、其年の正月越中守が大決心を以て幕政の改良を企てゝ、身を以て犠牲に供して祈つたのです、それはなかなかの覚悟であつたやうです、若し此事が行はれなければ神は私を罰して呉れ、私のみならず妻子眷族までを罰して呉れと云ふことが書いてあります、それも世間へ披露したのではありませぬ、己は斯う云ふゑらい考を持つて居るといふて新聞に広告したのではありませぬ、全く密に本所の吉祥院と云ふ寺院に其の誓書を納めたのです、どうしてさう云ふ書類が遺つて居りましたか、維新後になつてそれが現れて出て来たのです、越中守はそれ程の覚悟で以て六・七年の間政治を執つた、私は幕府中徳川宗家、家康・家光・吉宗など
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と云ふ人々は申すまでもなく非凡な英傑でございますが、是等を除いては水戸の光圀卿、会津の正之と云ふ人、それから今の定信などゝ云ふ人は、徳川家累代の稀有の人物であると思ひます、殊に定信と云ふ人は誠に円満な人で、各方面に行亘つて芸術にも、兵備にも、殖産興業にも有らゆる事物に精通した人で、又和歌などもなかなか名人であります、此定信が五月の十三日に死なれました、而して江戸市中の共有金と云ふものは此定信の善政が本になつて出来ましたので、其共有金があつたに付て養育院が創まつたのです、さう云ふ縁故もありますし、殊に名宰相でもあり、仁徳に富んだお人でもありますから、旁々これを偲ぶには寧ろ斯う云ふ場所が宜からうと思うて、それで十三日を必ず紀念として毎月本院に参ります、一年に一度五月十三日には祥月命日でございますから、楽翁祭を極く質素に致します、此処に掲げてございますのは是は写しでございますけれども、私が楽翁公の書いたものを写しまして、其理由を其次に認め置きました、御覧下さいましたならば理由が明瞭に分ります、さう云ふ都合で今日即ち十三日に御出でを願ふたのでございます、十三日と云ふ縁故はさう云ふ訳でございますから、念のために一寸申添へて置きます。
折角諸君の御会同に対して、面白くもない貧民又は病者もしくは憐むべき貧児童抔を御目に掛け、更に私の下手の長談議を御聞せ申して、重々の御迷惑と御察し上ますが、其の代り諸君は此上もなき陰徳をなされたと私は深く陳謝いたします。


渋沢栄一 日記 大正四年(DK300008k-0003)
第30巻 p.163 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 曇 少シク寒冷ヲ覚フ
○上略 午前十時大塚養育院本院ニ抵リ、市会議員来観ノ案内ヲ為ス、種種ノ説明ヲ与フ、畢テ巣鴨分院ニ抵リ、同シク院内ヲ巡視ス、後午飧ヲ食シ、食後養育院ノ将来経営ニ関シテ一場ノ理想ヲ演説ス ○下略


九恵 東京市養育院月報第二〇〇号・第一〇―一四頁 大正六年一〇月 養育院将来の企望に就いて(院長男爵渋沢栄一)(DK300008k-0004)
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九恵  東京市養育院月報第二〇〇号・第一〇―一四頁 大正六年一〇月
    ○養育院将来の企望に就いて (院長 男爵 渋沢栄一)
  左に掲ぐるは、大正四年五月十三日院長が東京市会議員諸君に対して試みられたる「養育院の沿革及現在と将来の企望に就て」の演説の一節なり、月報二百号を発行するに至れる養育院が将来如何なる企画の下に進むべきかは、今後の重要問題なるを以て、こゝに此問題に対する院長の演説筆記を掲ぐる事とせり。
 養育院の沿革と現況とは、前来申述べた所を以て大抵尽したやうに思ひますが、更に私は将来の企望として申上げて置きたいと思ふ事がございます、抑々養育院の基金は、目下凡そ五十万円程ありまして、其れから生ずる利息を以て、通常の窮民を収容し、棄児・遺児・迷児と、行旅病人を引受けて、一年の経費が大正二年度は拾七万円、三年度は拾九万円、四年度が廿一万円と次第に進んで行きますが、左様に大金を使うても、其扱ひ方に至つては他の窮民を救助する場合に較べて、本院程其費用を低廉にあげる処は無いと明言し得ると思ひます、一切の費用即ち食料・医薬、又は治療及被服費・事務費・修繕費等、
 - 第30巻 p.164 -ページ画像 
総ての費額を合せて、一人当り一日二十銭内外で賄ひ得るのでございます、斯る設備に対してどの位の経費が掛るかと云ふことを試みに諸君が他と比較して下されたならば、本院の取扱ひ方が至つて倹約であると云ふことを必ず御了解なさるであらうと思ひます、併し如何に節約すると云つて、其取扱ひを粗末にしてはならぬ、私は日頃百事に注意は与へますが、食物の粗末なるには実に不憫と思ふのです、昨日も分院に行つて見ましたが、分院の児童などは午飯の菜は僅に煮豆と香の物と云ふやうな有様で、一週間に一度位しか美味と思ふ御馳走はないので、随分気の毒でございますれども、経費を廉くするには御馳走を良くすると云ふことは出来ませぬので、已むを得ずさういふ事をして居ります、是は決して彼等を酷くすると云ふ意味ではありませぬ、或る場所抔には、普通の程度を超えて費用を余計掛て、立派なことをして良い待遇を与へてやると云ふのもあるやうですが、之は貧者に対して結構であるけれども、其場所から出ると又直に体裁の変つた有様に陥るのでありますから、入院中は大名で出院すると忽ち元の乞食になると云ふ事になります、故に窮民の救助に就ては、成るたけ自体の有様に適応してやつて行くが宜からうと思ひます、海外の有様を視察して来た人の話を聞きますと、余り意気地のない事をして居ると時々遺憾に思ひますけれども、それも一時立派なことをして後に継続せぬのはいかぬと思ふので、成るたけ華美とか一時的な取扱にならぬ様に心掛けて居るのであります、先年米国人アンダーソン博士が本院に来られた時に、院内の各室が汚いから言訳をしましたら、同氏の言ふには、是より立派なものもあるが、自分は亜米利加のやり方は感心しない、本院のやり方が適当と思ふと、或はお世辞か知りませぬがさういはれました、此養育院の経営に就て諸君にも斯う云ふ欠点があると御心付のことがあるならば、どうぞ御示しを戴きたいのです、私は常に適当を誤らぬやうにと云ふ事を、一の大なる誡として守つて居るのです。
 又アンダーソン博士から亜米利加に於ける救済事業の経過を丁寧に話して貰ひました時、シカゴの町の窮民救助に関する費用は、一年に七百万弗即ち千四百万円を費すと言うて居りました、少し豪らいやうに思ひますが、私も先年同市の貧病院を一箇所見ました、それから感化的の作業場及び少年裁判所も見ました、多く慈善的事業でありました、貧病院は建築も立派で、其取扱ひも贅沢な様でございましたが、あれ位の仕組でやつて居りましたならば、シカゴ一市で一千四百万円位の金を使ふのも或は然らんと思ひます、併し余り金を掛け過ぎると思ひました、切めて其十分の一でも東京市で掛けて下すつたならば、立派にならずとも相当の事は出来ると思ひますが、是から先きの養育院を如何に考へるかと云ふことに就て、自分の理想も更に玆に申添へて此演説を結ばうと思ひます。
 大塚の本院附近は近年漸次繁華になつて土地の価格も騰貴し、貧民の収容所としては勿体ない様になり、又一面には東京の膨張と共に年一年入院者が増加して、拡張の必要に迫られて居るが、最早現在地では拡張する事は不可能でありますから、何時かは適当の地を選んで移
 - 第30巻 p.165 -ページ画像 
転せねばならぬと考へて居ました処、板橋へ分院を置く様になりましてから土地の有志者が本院を移すならば土地の買収に尽力すべしとの申込があつたので、好機逸す可からずと種々協議の末移転のことを極め、市会の協賛を得まして二万七千坪の土地を買収致しましたが、追て具体的の案を立てまして諸君の御尽力を煩はしたいと思ひます、此移転費は土地が十四万九千円、地均建築其他が廿二・三万円、合して約三十七万円位を要すると考へます、此移転費の重なるものは寄附金を募集して之を補充し、一部は大塚の敷地を売て充る積りでありますが市政に関する諸君には此際寄附に就ての好い御考へを立てて頂き度いのであります、又本院の常設委員の御方には、特に大に御助力を仰ぎ度いのであります。
 始め大塚の敷地一万四千坪の内、一・二千坪を残して残り一万二・三千坪を売却し土地買収費を埋め建築の方へも廻し、幸にも多くの寄附が得られて剰余を生ずる場合には、基金を増殖し度いといふ希望を懐いて居りましたが、熟考致すと左様に多くの土地を売却する事は出来兼ねるかと思ふのであります、其理由は養育院の経営は追々と疎より精に入ると云ふ状態に進んで参つたのでありますが、尚是より後も種々なる必要があるのであります、今巣鴨には児童が七百廿八人居りまして、其内百余人が雇預けにする目的で試に預け中の者で、本院では保管と申して居ります、之を除くと現在員が六百人ばかりになりますが、此中には盲児・聾唖児・低能児・白痴児なども沢山に一緒に置て教育して居るのでありますが、是は何れも別置して教育する必要があります、先日も滝の川学園の白痴教育をして居らるゝ石井亮一君の所に参りて実地をも一覧し、学説や実験談も聞きましたが、白痴は他の児童と一緒に置ては、自他ともに害を受けるのであります、又幼稚児も百名以上あつて幼稚園を設けて居りますが、管理上の必要から是も別置したい、斯様に各種異りたる児童をば大塚の移転跡へ別置し、外に各種の入院者が始めて入院して参る者の中継所を置く必要がありますから、斯る設備を夫々設けまして、児童の教養上稍完全なるものと致さうとするには、大塚の地所も移転後余り多くの土地を売却し得られぬのであります、是は目下考案中で御座いますから、何れ案を具して高慮を煩はす時機も遠からぬ事と思ひます。
 又各種児童の将来に就て、斯くも致して見たいと希望して居ります一・二を申上げたいと思ひます、前にも申上た通り、安房分院は成績甚だ良好で、同所を設けましてからは、子供の死亡率も三分の一に減じた様な次第でありますが、是も児童の数が殖ると共に、同所に遣はすべき児童も殖るので、同所をも増築する必要に迫られて居るのであります。
 井の頭の感化部の方も今少し理想的に施設しようと思ふと、目今の状況では不満足であります、浮浪状態に放置し置けば必ず悪化する所の児童が、市内に幾許あるか判然しませぬが、仲々少数なものではありますまい、東京丈に千人位はあらうと云ふ人もある、左れば同部も今少し拡張して、尚百人も増員し得る位に至らしむる必要があると思ひます、又感化部及び巣鴨分院に居る一部の児童の為に適当の農業練
 - 第30巻 p.166 -ページ画像 
習地を設け、相当の農業移民とする必要も感じて、数年来種々心配して居りますが、先日も千葉に相当の地があると聞きましたので、幹事に実見も調査も致させて居りますが、適当で廉価な土地は東京附近にはありませんから、何れの地にか得たいと考へて居ります。
 又結核患者も常に床に就て居る所のものは板橋分院へ送つて居りますが、是も成績が意外に宜しく起きて草取位出来ると云ふ者も沢山あります、又本院の健康室に居て病床には就かぬが、結核病であるものが五十人以上常にあります、是が全院に対して危険であり、本人の為にも悪いのでありますから、右等の患者をも児童の為に設けた保養所様のものを設けて、其所に送りて空気療養をさせたなら、一般衛生の上からも本人の回復を計る上からも有益でありますから、数年前から房州太武岬と申す所に、海軍の元射的場で今は使用せぬ半島地を見立て、此場所は人家にも遠くして最も適当と認むるので、海軍省に御願を試みたり、昨年夏も実地を見ましたり、又幹事をして其他の地をも探らしたりして居りますが、養育院将来の処置としては、此種の保養所も遠からず実現せしめたい考であります、以上は本院の沿革及現状並移転に関しての企望と、本院将来の児童並に大人に関しての収容及教養方法でありますが、何れも賢慮を煩すべき事柄でありますから、御尊来の此機会を以て実地も尊覧に入れ、希望をも申述べた次第であります。(後略)