デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.182-185(DK300014k) ページ画像

大正6年6月8日(1917年)

是日、当院安房分院ニ於テ磨崖碑竣工式行ハレ、
 - 第30巻 p.183 -ページ画像 
栄一当院院長トシテ之ニ列席ス。引続キ新築セル同分院会堂ニ於ケル楽翁祭ニ出席シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

九恵 東京市養育院月報第一九六号・第二〇―二三頁 大正六年六月 渋沢院長安房分院行(DK300014k-0001)
第30巻 p.183-185 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一九六号・第二〇―二三頁 大正六年六月
    ○渋沢院長安房分院行
 院長渋沢男爵は本月八日安房分院に臨まる、一行は令夫人と令息秀雄氏及男女従者両名、三島中州先生の令息復氏、第一銀行の大沢正道氏等七名と安達幹事も案内者として随行せり、午前七時五分両国発の汽車にて発せられ、同十一時浜金谷着、船形町長平野巳之吉・正木清一郎両氏は態々同地へ出迎へられたり、一行は直に自働車にて午後十二時半分院に着、昼餐後磨崖碑の竣工式に臨まれ、引続き新築の同会堂に於て楽翁祭執行あり、三島・大沢両氏は帰京の途に就かれ、院長は来賓百五十余名に対し一場の講話あり、解散後院内巡覧の上、北条なる吉野庵に一泊あり、翌九日は安房中学校長の切なる請に依り北条館山・那古・船形各町の有志者及同校生徒六百余人の為めに一場の講話あり、午後一時再び帰途分院に立寄られ、分院職員の為に勤務上の訓諭あり、二時過ぎ分院を発し帰京せられたるが、今回同分院に臨まれたる用件は種々なりしも、左の三件は其重なるものなりし。
      分院磨崖碑
 安房分院の境内は元採石場たりしより、同院病室の後方に幅三十余尺・高廿尺余の断崖あり、若し之を磨して碑と為さば無類の偉観となり、同地方の一名所たるに至るべしとて、同町正木清一郎・平野巳之吉・岡本鉄郎其他の有志諸氏発起にて、渋沢院長の揮毫を彫刻して、之を永遠の一名所としたしとて、数年前より院長に乞はれしかば、院長にも快諾ありて、安房分院の由来と其成績とを永遠に伝ふべしとて三島中洲先生に嘱して其撰文を請はれ、大正五年夏季中に揮毫せられしを、本年初春以来右有志諸氏其費を醵出し石工に命じて彫刻せられしが、五月末日に至りて竣工したれば、今回院長及三島先生の賢息復氏、並草案を作られ彫刻の指揮等に尽力を煩はしたる大沢正道氏等の臨席を乞ひ、有志諸氏一同列席の上、正木清一郎氏総代として磨崖碑の由来を朗読あり、院長の挨拶あり、終て碑前にて一同撮影したり、其磨崖面は高さ三十尺横巾二十七尺にて全面五寸の深さに切取り、之を磨し、其中に彫刻せるものにて、文字の大一尺四方、文字の数二百七十五、其文章左の如し、恐くは我国に於る磨崖碑の最大なるものなるべし。
      磨崖碑文
維新之後、東京府収養無告窮民於上野護国院内、名曰養育院、後又撫育棄児、凡四十年其数三万七千余人、現在二千四百余人、而児童最多蓋本院資白河楽翁公遣制府民蓄積創之、以慈善家捐資増之、以院長渋沢男尽瘁成之、規摸年宏、三十三年移養甚羸弱者於房州船形町凡百余人、築新屋置小黌名曰養育支院、凡十年、多免夭殤、聞者感歎、東京慈善会大賛助之、郷紳寄贈土地及貨幣者頗多、頃者男臨視大喜、益欲拡張之、徴余銘刻之崖壁、乃作詞曰
 - 第30巻 p.184 -ページ画像 
 哀矣煢独。矧蒲柳質。仁人維謀。養院維築。房海之浜。冬温夏涼。
 疾者乃愈。弱者乃強。爰授生業。爰教綱常。可憐群児。成立思恩。
 安知不出。済民仁人。
  大正三年甲寅十二月
          従三位勲二等文学博士 三島毅撰
          従三位 勲一等 男爵 渋沢栄一書
  発起人総代正木清一郎氏の朗読せられし磨崖碑の由来なる式辞
東京市養育院安房分院磨崖の碑竣成を告けたるを以て、玆に本日を卜し朝野貴賓の臨場を忝うし、聊か其祝典を挙げんとするに当り、不肖発起者を代表して一言其由来を述ぶることを得るは深く光栄とするところなり、抑々養育院は不幸なる同胞を収容して養育する所にして、其当初設立の資金は、寛政の昔幕府の執政白河楽翁公の制定せられたる所謂七分金の法に依り江戸の町費を節約して蓄積せる所のものにかかり、明治維新の後之を利用して設立せられたるものなりと云ふ、爾来幾多の変遷消長ありたるべしと雖も、院長渋沢男爵閣下を始め各役員諸君の鋭意尽瘁せらるゝあり、或は官庁の保護あり、或は慈善家の之を助くるありて事業年々に拡大せられ、明治三十三年に至り其羸弱を保養せしめんとて、試に気候温和、空気清澄なる我房州勝山町に保養所を設けられしに、其効果頗る見るべきものありしかば、次第に拡張の必要に迫り、明治四十二年東京婦人慈善会の寄附に依り地を当船形町に相して分院を新築し、凡そ百余人を収容せらるゝことゝなれり此地たるや北に山を負ひ、南は海に面し、冬暖に夏涼く、加ふるに風光の秀絶なるを以て頗る衛生に適するが故に、此に移さるゝもの多くは夭殤を免れ、弱者も強く痩者も肥え、転地の効甚だ顕著なるものあり、之に因て其人員は遂次増加せられ、規模益々伸張し以て今日の盛大を致せり、斯くて憐れむべき孤児煢独も成立し、天寿を全ふすることを得、洵に聖代の恩沢なり、之れ併しながら創立以来の院長たる渋沢男爵閣下及安達幹事、其他当事者諸君の施設経営宜しきを得たるの致す所なり、然り而して此宏大なる安房分院を此地に置かるゝ事は当町の面目とする所にして、又男爵閣下を始め各位が陰に陽に直接に間接に当地方の発展に助力せらるゝ所鮮少ならざるは、当町民の常に感謝して措かざる所なり、是に於てか益々其事業の発展を希ひ、只其事業沿革の大要を公衆に知らしめ、併せて之を後世に伝へんと欲し、有志者胥謀り崖を磨して碑を作り、銘を文学博士三島先生に、書を渋沢男爵閣下に乞ひ、玆に至りて工竣れり、今より後来り覧る者をして慈善の心を起さしめ、風教の万一を裨補することあらば、建設者の望則足る、仮令風雨多年、其面に苔し或は天変地異の侵すことありとも、必ずや伝へて千載に存すべけん、玆に式典を挙ぐるに当り、謹で其由来を述ぶること斯くの如し、終に臨み初夏薄熱の候に拘はらず特に来臨を忝うしたる貴紳各位、並に此事に助勢尽力せられたる諸君に対して深厚なる感謝の意を表す
  大正六年六月八日        船形町有志総代
                      正木清一郎
  右磨崖碑彫刻の費用義捐者は左の諸氏なり
 - 第30巻 p.185 -ページ画像 
   船形町 正吉清一郎氏《(正木清一郎氏)》  岡本哲郎氏
       平野巳之吉氏           山口弥惣吉氏
       島田熊次郎氏           福井両太郎氏
       高尾米吉氏            庄司善蔵氏
       前田亀三氏            小宮なを氏
       正木保三郎氏           秋山牛乳店主
       仲崎牛乳店主           島田こま氏
       船形生産組合           鈴木むめ氏
       辻八十吉氏
      安房分院の増築
 同分院は明治四十一年初夏より新築に着手し、四十二年三月中に竣工して、同四月十五日勝山町より移転し、四十五年春病室一棟を増築し、病弱児百五十人を収容し得るに至りしも、院児は年一年増加し、昨年に至りては児童のみも千五百人を超過するに及びければ、随て保養所に派遣を要するものも増加したれば、従来の儘にては尚不足を感じ、一昨年来の計画にて、大正二年中に婦人慈善会より購入寄附せられし隣地千二百六十九坪の地を整理して、石垣高九尺長三十余間を築きて敷地と為し、児童の寮舎一棟百五坪二合五夕・会堂三十五坪(本会堂は東京府にて昭憲皇太后の御一週年に代々木練兵場に築造せられし祭場殿の下附を受けしもの)・合宿所十七坪と、其外炊事場・浴場六十余坪の改築、廊下十九坪余等六千六百八十五円の経費を投じたるもの竣工したるを以て、院長は仔細に臨検せられたり。
      分院の楽翁祭
 同祭事は毎年同公の祥月命日なる五月十三日に執行する例なるも、本年は前記新築及び磨崖碑の竣工に依りて、渋沢院長の臨席せらるゝより本月八日に延期し、同祭には山中安房郡長・中目北条町長・島田館山町長・三平那古町長・平野船形町長・正木清一郎氏・山崎安房中学校長・北条警察署長、其外船形町名誉職諸氏、北条館山婦人会員等百五十余名の方々に案内を発したれば、殆ど全部来臨あり、在京の来賓には、院長と同行せられし三島復氏・大沢正道氏・渋沢男爵令夫人令息秀雄氏、院の側にては渋沢院長あり、安達幹事・蓮岡主務以下一同列席、主務司会の下に午後二時より前記新築会堂に於て、大福寺主の導師にて法会を行い、院長を始め各代表者一同焼香式を終り、児童退場後、講演会を開き、安達幹事挨拶を述べ、安房分院開設以来の成績を報告し、院長は本院創立以来の沿革より、年々楽翁祭を執行するに至れる関係より、公の遺徳を讚歎せられて閉会せり。
      院長及令夫人の恵与
 先年院長、安房分院に臨院の際、金五十円を賜ひ同分院児童の為に実業的利殖の方法もあらば之を設けて、時々特に営養品にても給与せよと申されしより、同院児の内を撰みて養鶏を為さしめ、其利益を以て時々特に営養食物を給与する事となしけるが、此度も亦其資にせよとて五十円を蓮岡主務に托され、又令夫人には児童の菓子料として金弐百円を寄附せられ、外に保姆以下の人々へ菓子料にとて金一封を恵与せられたり。