デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.186-193(DK300016k) ページ画像

大正8年11月16日(1919年)

是日、王子飛鳥山邸ニ於テ当院職員慰労会開催セラレ、栄一之ニ出席シ挨拶ヲ述ブ。爾後屡々同慰労会ニ出席シ、挨拶ヲナス。


■資料

九恵 東京市養育院月報第二二六号・第六頁 大正八年一二月 本院職員慰安会(DK300016k-0001)
第30巻 p.186 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第二二六号・第六頁 大正八年一二月
    ○本院職員慰安会
十一月十六日午前十時より飛鳥山渋沢院長邸に於て本院職員慰安会開催せられたり、当日会するもの八十余名、先づ庭園中央に設けられたる天幕中にて田中幹事の開会の辞につぎ、渋沢本院長より巻頭記載の如き挨拶あり、終つて直に模擬店開かれる、一同院長より心尽しの御馳走に預り、午後一時より余興として豊田旭穣師の筑前琵琶あり、後各自思ひ思ひに庭園を散策し、午後三時和気靄々裡に散会したり。


九恵 東京市養育院月報第二二六号・第二―三頁 大正八年一二月 職員諸氏に望む(養育院長男爵渋沢栄一)(DK300016k-0002)
第30巻 p.186-188 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第二二六号・第二―三頁 大正八年一二月
    職員諸氏に望む (養育院長 男爵 渋沢栄一)
 左に掲るは、十一月十六日王子院長邸に催されたる職員慰労会の席上に於ける、渋沢本院長の挨拶を摘録したるものなり(院報参照)
 本日此の会を催すことになりました由来は、只今田中幹事からお話
 - 第30巻 p.187 -ページ画像 
がありました通り、先日幹事より日曜の休日を機会にこゝに一日の集りを催し、看護婦・保姆・其他職員の慰労的園遊会を企てたいとのお話が御座いましたので、直に御承諾申し、折角の御希望とあればお使ひ下さるは自由だが、自分も聊かお慰めもしたいと云ふ考で、此の会が開かれた事であります。
 元来自分は院長若しくは常設委員長の名の下に永年院務に与つて居りまして、既に院の職員諸君をお招きする事については従前心にあつた事でありましたが、自分が院長である関係から殊更らしく見えても如何哉と思はれたので、特に差控へて居たので御座います、然し皆様の方で催されて夫をお助けするのならば一向差し支へはあるまいと思はれまするので御同意申した訳で御座います、こう云ふ訳で開かれました本日の会でありまする故、皆様方の為めに特に心を用ゐる事も致しません、只御用立て致したと云ふに過ぎぬのであります、諸君もこの会を院長の心なしであると云ふ様なことに思はず、一日の骨休みをする積りで充分ゆつくりと遊ばれんことを希望します。但し本日は余興として筑前琵琶をお聞かせする事になつて居ります。
 先き程幹事からお話のあつた如く、引続いた宿雨が今日かくも快晴となり、小春日和の実に近来稀なる好天気となつた事は、主人たる自分の信心と云ふより、寧ろ諸君が平素の心懸けによつて得られた天恵を、諸君がこゝに持参された様な感があります。
 自分は常に院務を看て居るが、院務は日々益々繁雑となり、諸君が平生の勤労頗る大なる事をお察しして居ります、自分の院に対する仕事は、所謂実務の点から云へば諸君の一日の労にも足らぬ訳ですが、然し院の仕事に従ふには斯くありたいものだと心配する点に至つては片時も念頭を去つた事はないと申すも過言でなかろうと信じます、其初め東京府養育院と称せられた時、斯かる事業は人の独立心を傷け惰民養成の機関となり、社会にとつては反つて有害であるとの主張が盛んに行はれ、遂に明治十六年養育院廃止の運命に遭遇したが、之れも一理ある事で、凡て人は自活すべき者であるのに、夫を怠り為めに生活に困難するに対し、他の人から扶養せらるゝは、人の勉強に依頼して自分不勉強を為すの類と云へぬでもない、然しながら之は反面を語つた理に過ぎない、何となれば一体人は何人と雖も自己のみによつて生活する事を得ません、然らば人か世に処して相互に助け会ふことは実に人たるの道と云ふべきであります、其他政治上からも経済上からもこれが救済の事が利益あるを認められます、元来利と云ふ事は慈善の精神からは相反して居りますが、一国の立場から考へても時に困窮せる同胞を困窮のまゝ放擲するは、経済上決して利益とは云へません斯くて都市の発達に伴ひ困窮者が増加するにつれ、救済機関発達の必要は勢動かさるゝのであります、我養育院の如きも、東京市の進歩につれ年と共に漸次拡張せられ、今日では大塚本院の外、巣鴨・板橋・安房・井の頭の四ケ所に分院迄設立せられるに至りました事は、既に諸君の熟知せらるゝ通りであります。
 元来世の中の仕事は種々でありまして、主として金銭を取扱ふ仕事もあれば、物品を取扱ふ業もありますが、吾々の執つて居る仕事は直
 - 第30巻 p.188 -ページ画像 
接人に対する務めであります、而して人に対する務は心を労する事多く、又苦しむ事も少くないのでありますが、殊に人の内でも社会の落伍者に至つては一層苦が多いのであります、或は治療をしたり或は職業を授けたり、又或は就学できぬ少年を就学させたり等、夫れ等の世話は中々容易の事ではありません、之れに当る人々には、何処迄も第一に親切の心が必要であります、古人も心誠に之を求むれば当らずと雖遠からずと云はれた如く、真から誠実に志すを要し、若し誠の心から出る方法であるならば、恐らく其方法は実に最良の方策となるのでありませう、自分は本院の収容者に対しては凡て何処迄も親切第一でありたいと思ふが故に、諸君は余の此の心を掬んで、不幸なる多数の人々に直接され其親切を徹底する様に、常々力められん事を望んで止みません、今日は講義が主ではありませんから之れで終りたいと思ひます、只一言此機会に本日催されたる本会の由来と、平素院長たる自分の抱いて居ります希望とを申述べたに過ぎません、本日は何卒こゝに悠々一日の清遊を尽されん事を望みます。


東京市養育院月報 第二六七号・第一一頁 大正一二年五月 ○従業員慰労会(DK300016k-0003)
第30巻 p.188 ページ画像

東京市養育院月報  第二六七号・第一一頁 大正一二年五月
○従業員慰労会 五月二十日午前十時より巣鴨分院講堂に於て第五回従業員慰労会を挙行せり、参会者は雇員以下の従業員百三十五名、田中幹事開会の挨拶を述べ、直に余興に移り、小金井蘆州の講談「秋色桜」あり、終りて講堂前広場に於て記念の撮影をなし、夫れより食堂を開き午後零時半より再び講堂に参集、渋沢院長は挨拶に兼ねて一場の訓話を試みられ、後再び余興に移り天竜会一座の茶番、竹本久代太夫の義太夫「阿波の鳴門」、桂才賀の紙切り等、何れも大喝采裡に午後三時無事閉会せり


東京市養育院月報 第二七五号・第二一頁 大正一三年六月 ○本院従業員慰労会(DK300016k-0004)
第30巻 p.188 ページ画像

東京市養育院月報  第二七五号・第二一頁 大正一三年六月
○本院従業員慰労会 六月十五日(日曜日)午前十時より飛鳥山渋沢院長邸に於て第六回従業員慰労会を開催せり、朝来梅雨模様なりし天候も、いつしか霽れ渡り、開会前には絶好の初夏日和となれり、当日は雇以下の従業員百四十一名、並に吏員四十五名合計百八十六名の参会者あり、邸内の芝生には天幕張の会場及余興場を設け、定刻に達するや田中幹事の開会辞に次ぎ、渋沢院長より一場の挨拶あり、夫れより一同に折詰・菓子折の配付ありて、園遊会に移り、後庭の見晴しに設けられたるビール・シトロン・鮨・塩煎餅・甘酒等の模擬店を開けば、各好める方面に突撃し、約一時間を以て各模擬店の売切れを見るの盛況を呈せり、園遊会終れば三々五々打連れ、或は翠緑滴る樹間を縫ふて逍遥するもあり、或は花壇の前に佇みて馥郁たる草花を賞するもあり、斯くて午後一時より余興に移り、大丸一座の曲芸各種、小柳連中の安来節・手踊、お伽亭いろは・東喜代駒一座の珍芸音曲道楽、富士松徳太夫・同園太夫の新内「東海道膝栗毛」等、何れも喝采裡に演了を告げ、一日の清遊に歓を尽し、午後四時過ぎ和気靄々の中に散会せり

 - 第30巻 p.189 -ページ画像 

東京市養育院月報 第二九九号・第一七頁 大正一五年六月 ○本院従業員慰労会(DK300016k-0005)
第30巻 p.189 ページ画像

東京市養育院月報  第二九九号・第一七頁 大正一五年六月
○本院従業員慰労会 五月三十日(日曜日)午前九時半より、例年の通り巣鴨分院講堂に於て第八回雇員以下の従業員慰労会を開催せり、前夜より降り続きたる雨は当日の朝に到りて益々激しく、風さへ加はり外出の難渋を感ぜしめ、自然出席者の寡なからんことを懸念せるも事実は之を裏切り、出席者実に百三十二名の多数に及べり、定刻に到りて一同着席するや、田中幹事先づ本会開催の趣旨をのべて開会を宣す、之に引続き直ちに余興に移り斯界の一人者桃川如燕氏の講談『加藤孫六の立志談』を以つて午前を終り、一先づ別室に設へたる食堂に移りて午餐を共にす、斯くて午後一時更に余興に移り、張鳳山一行の曲芸、春本連中の娘手踊り、東喜代駒一座の諸芸道楽等に興を唆られ次で福引に最後の感興を結んで盛況裡に散会せしは午後四時過ぎなりき、因みに当日は渋沢院長も特に午後零時半より臨場あり、暫しの間会衆と興を共にせられたるは一同の深く満足せる処なり


東京市養育院月報 第三一一号・第一〇頁 昭和二年六月 ○本院従業員慰労会(DK300016k-0006)
第30巻 p.189 ページ画像

東京市養育院月報  第三一一号・第一〇頁 昭和二年六月
○本院従業員慰労会 五月二十二日(日曜日)午前九時半より例年の通り巣鴨分院に於て、第九回雇員以下従業員の慰労会を挙行せり、出席者百四十四名、定刻に到り講堂に設へたる会場に一同著席するや、田中幹事先づ本会開催の主旨に付き一場の挨拶をなし、次で当日特に来会せられたる渋沢院長より日常の労を犒ひ、更に将来一層精励ありたき旨の懇篤なる挨拶あり、右終りて直に余興に移り、東家燕左衛門の浪花節義士外伝『弥作の鎌腹』及『清水の次郎長』の二席ありて午前中の余興を終り、一先別室に設へたる食堂を開きて午餐を饗し、斯くて午後一時より更に又余興に移り、丸一連中の中の太神楽、支那人李彩の曲芸、春本連中の娘手踊等に歓を尽し、和気靄々裡に散会せしは午後四時過ぎなりき


東京市養育院月報 第三三五号・第二七頁 昭和四年六月 ○本院従業員慰労会(DK300016k-0007)
第30巻 p.189-190 ページ画像

東京市養育院月報  第三三五号・第二七頁 昭和四年六月
○本院従業員慰労会 五月十九日(日曜日)午前十時より飛鳥山渋沢院長邸に於て第十一回雇員以下の従業員慰労会を挙行せり、当日は朝来降雨の為め自然出席者寡からんかと懸念されしも、事実は之れに反し雇員以下従業員百五十八名並に世話役として吏員四十六名、合計二百四名の参会あり、庭園の芝生には天幕張りの会場及余興場を設らへ定刻に達するや田中幹事開会の辞を兼ね本会開催の主旨を述べ、次で渋沢院長より懇篤なる一場の挨拶あり、夫れより一同に折詰及菓子折の配付ありて、園遊会に移るや恰も朝来の雨霽れ上りて、会衆の感興頓に起り、後庭の見晴しに設けられたるビール・シトロン・鮨・おでん等の摸擬店を開けば、各自好める方面に殺到し、約一時間にして各摸擬店は売切れの盛況を呈したり、斯くて三々五々連れ立ちて翠緑滴る樹間を縫ふて逍遥するもの、或は花壇の前に馥郁たる草花の咲き誇りたるを賞するものあり、午後一時余興に移り丸一宝楽社中の太神楽竹本静香・鶴沢三平の義太夫『三勝半七酒屋の段』及『三十三間堂棟木の由来』、支那人張貴田一行の曲芸、東家燕左衛門の浪花節義士伝
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『勝田新左衛門妻子別れ』等、敦れも喝采裡に演了を告げ、一日の清遊に歓を尽して、午後四時過ぎ和気靄々裡に散会したり


東京市養育院月報 第三三五号・第一九―二一頁 昭和四年六月 ○第十一回従業員慰労会に於ける挨拶(昭和四年五月十九日於飛鳥山渋沢院長邸)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300016k-0008)
第30巻 p.190-191 ページ画像

東京市養育院月報  第三三五号・第一九―二一頁 昭和四年六月
    ○第十一回従業員慰労会に於ける挨拶(昭和四年五月十九日於飛鳥山渋沢院長邸)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 本日は養育院の皆さん方の平日の労をお慰めする為めの既定の慰労会で、私の主催致したものでは御座いませんので、万事は幹事初め幹部職員の御骨折に依つたものであります、唯今委細は田中幹事から話しがあつたので私は殊更喋々と申述べませんが、本日の此天候は私も信心がよくなかつたであらうが、諸君に於ても亦た信心が足りなかつたと思ふ、然かし幹事の申す如く負惜みを云へば、庭園の風情が雨で一層よくなつたやうであるのは何よりであります、既に前にも申した如く此会は私の催ほしではないので、本日は後刻私も諸君と一緒にお鮨も喰べやうし、おでんも喰べやう、又余興も見せて貰つて共に楽みたいと思ふ、どうか諸君も十分今日一日を楽しく、ゆつくり遊んで行つて頂き度いのであります
 偖て世の文化が進展するに伴ひ、落伍者の増加することは誠に止むを得ない次第で、我邦に於ても近時窮民救助に対する施設が漸次整つて来ると共に、其数も亦た殖へて来た、之れは独り日本許りの事実ではなく、英吉利や亜米利加等の先進国に於ても皆同一であります
 私は明治七年より引続き今日迄養育院の世話を致して居るのであるが、明治十七年に東京府会で――諸君も御承知ではあらうが、養育院は最初は東京府の経営であつた――渋沢が余計なおせつかいをするので惰民が増加する、渋沢は惰民製造の本尊だ、即ち養育院の存在は惰民養成の原因を為すものであるから之れを廃止せよと云ふ論が起つた然かし私は事業の将来を考へ、切に此議論を説破すべく努めたが、遺憾ながら遂に其時の反対論を破り得ず、同年限りで新入院者を収容せず、在来の入院者も出院死亡等に依り残余者なきに至るを期として、事業を廃絶に帰することゝなり、明治十八年六月を以て遂に閉鎖の運命に逢著したのであります、そこで私は今迄の養育院の事業を継続経営する決心をなし、二十人余の同志と協力して東京府より事業全体を引受け、明治十八年七月より同二十二年十二月迄、約四年の間私立の東京養育院として経営致したのであります、然るに明治二十二年四月より東京に市制が始めて施行せらるゝ事となつたので、私は養育院事業の如きは、私人の経営よりは寧ろ公営とする事が事業の性質より見て至当であると云ふ考へから、当時の養育院の資産全体と事業を東京市に提供して、将来市営の名の下に事業を継続してお貰ひ申し度いと願出でましたところ、幸ひに承認せられ、翌二十三年一月より東京市養育院と改称せられ、爾来市営事業として今日に至つたのであります之れは沿革の大要でありますが、其後次第に施設も改善せられ、殊に現在の田中幹事就任以来其尽力に依り従来の面目を一新し、本院及各分院共施設に於ても、収容者の処遇に就ても次第に整頓して来たことは、一に諸君の協力尽瘁に負ふところが多大であると信じます、私は
 - 第30巻 p.191 -ページ画像 
斯くの如き老人ですから、諸君に於てはどうか今後一層勉強して頂きたいのであります
 次に救済事業に従事する諸君の執務上には、いろいろ注意すべき点が少なくないのでありますが、最も緊要なることは親切、即ち人情味であります、此事は機会ある毎に私がお話して居るところでありますが――世の中に於ては百の制度も法律も、一の親切には遠く及ばないのであります、明治七年私が初めて養育院に関係した当時、養育院は上野の護国院にありました、当時の主任は神保某・飯田某と云ふ人々であつたが、収容児童に対する取扱方が如何にも厳格で、聊か苛酷に過ぐる嫌がありはせぬかと思はれる位であつた、元来養育院収容の児童は不幸にして、早くより父母の慈愛の手を離れた気の毒な子供達であるので、孰れもいぢけて仕舞つて居た、私は之れでは子供の将来の為め決して策の得たものでないと感じたので、今少しく親切な扱方に改めたがよろしからうと注意したが、二人共子供は厳格に躾けねば惰弱になると云つて反対した、然し私の考へでは、子供が母親の懐ろに抱かれて泣くのは、決して悲みを意味して居るのではなく、寧ろ泣くこと夫れ自身が子供にとり一種の慰めであると思ふので、どうしても心を打込んで、児童の為めに親に代つて心配して呉れる人が必要であると感じ、後ちに木下某を任用して之れが改善を計つた結果、児童の性質が非常によくなつたのであります、是等は私が今更申す迄もないことゝ信ずるが、如何に学問や制度が勝れて居ても、親切と云ふことを欠いては、折角の仕事も所謂仏作つて魂入れぬと等しいことになります、甚だ失礼な申分かも知れないが、私は斯くの如き老人であり、諸君は私の分身なりと信ずるのでありますから、どうか収容者に対しては十分親切を尽して貰ひたい、唯だ玆に注意を願つて置き度いのは子供に決して我儘をさせてはならぬ、即ち正しい躾けの下に親切を尽すと云ふ心掛けが必要であります、之れ以外私は別に何も申さぬが、唯だ最初に院長となつた当時の事柄は斯かる場合にも思ひ出すので、諸君の御参考迄にお話し致したのであります、余り長談義は却つて不用だと思ひますから、私の所感を簡単に述べて御挨拶に代へた次第であります


東京市養育院月報 第三四七号・第一九頁 昭和五年六月 ○本院従業員慰労会(DK300016k-0009)
第30巻 p.191 ページ画像

東京市養育院月報  第三四七号・第一九頁 昭和五年六月
○本院従業員慰労会 六月一日(日曜日)午前十時より巣鴨分院に於て、第十二回雇員以下の従業員慰労会を挙行せり、当日は天気快晴にして青葉を渡る初夏の風も心地よく、定刻前より出席者は陸続として来院し、雇員以下の従業員百六十名の参会あり、定刻に到り一同着席するや、田中幹事開会辞を兼ねて慰労会開催の趣旨を述べ、次で渋沢院長より懇篤なる一場の挨拶あり、斯くて正午食堂を開きて午餐を饗し、少憩の後ち午後一時より余興を開始し、竹本綾枝・豊沢団竜の義太夫『朝顔日記宿屋の段』松旭斎天秀・同津満子の西洋奇術・三遊亭歌奴の漫談落語、三遊亭円福の百面相、花の家連中の舞踊等、孰れも大喝采にて、和気靄々裡に午後四時過ぎ散会したり、尚ほ当日渋沢院長よりは例に依り一同へ御土産ありたり
 - 第30巻 p.192 -ページ画像 


東京市養育院月報 第三四八号・第一―二頁 昭和五年七月 ○第十二回従業員慰労会に於ける挨拶(昭和五年六月一日於巣鴨分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300016k-0010)
第30巻 p.192-193 ページ画像

東京市養育院月報  第三四八号・第一―二頁 昭和五年七月
    ○第十二回従業員慰労会に於ける挨拶(昭和五年六月一日於巣鴨分院)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 一年一度の此の従業員慰労会に本日も臨席致して、御一同に一言御挨拶を申述べる機会を得ましたことは、私の深く喜びと致すところであります、最近私は酷どく歯を悪くしたのと、目下少しく感冒の気味で咽喉を痛めて居りますので、御話し申すことが御聞取りにくいかも知れませぬが、暫らく御清聴を煩はしたいと存じます
 養育院が創立以来既に五十八年の歳月を経過致したことは、今更事新らしく申述べる迄もないのでありますが、なかなかに古い歴史を持つて居る事業であります、私が養育院の事業に携はつたのは明治七年のことで、爾来世相も種々変遷致し、最も手近な社会事業の如きも非常なる発展を見ることゝなり、往時を追懐して転た感慨に堪へざる次第であります、此変転極まりなき人世に於て、千万年も変はらざるものは古聖賢の訓へであります、而して其一つに支那の論語と云ふものがある、之れは四書即ち大学・中庸・論語・孟子の中の一で、其他五経即ち詩経・書経・易経・礼記・春秋等、孰れも幕府時代には湯島の聖堂に於て、林大学頭が頭取として之れを教授したのであります、此四書の中一般社会に最も適応したものが論語であつて、今より二千五百余年前孔子と云ふ高徳の聖人が、主として其門人と交はされたる質問応答の記録であつて、仏教の如く深遠幽奥なる思想を含蓄しては居ないかも知れないが、所謂人間の行為の準則、即ち実践道徳の原則に就て、極めて平明に訓へたるものである、試みに開巻第一を見ると、『学而時習之、不亦悦乎』、『有朋自遠方来、不亦楽乎』、『人不知而不慍、不亦君子乎』等、孰れも日常の事柄に就き人の道を道理正しく説いたものであります、此論語の中に忠恕と云ふことがある、即ち『子曰、参乎、吾道一以貫之、曾子曰、唯、子出、門人問曰何謂也、曾子曰、夫子之道忠恕而已矣』とありまして、之れを解釈すれば、孔子が或時曾子に向つて『吾道は君に事へては忠となり、親に事へては孝となり、兄に事へては友なる如く、凡そ一動一静、一言一行の間にあらはるゝもの多端にして、千差万別なれども、其本は唯一にして仁以て之れを貫通して居る』と云はれたのを、曾子は言下に其旨を会得して『唯』と答へたのであります、斯くて孔子の立ち去つた後ち、他の門人達は前の孔子の言を解し得ず、曾子に向つて唯今孔子の云はれた『吾道一以貫之』とは如何なる意味でありますかと問ふたので、曾子が『夫子の道は忠恕のみ、即ち己の真心を尽し、人を思ひ遣ると云ふ一理を以て万事を貫くもので、此外に更に他意はない』と答へたのであります、朱文公も此忠恕をば『己れを尽す、之れを忠と謂ふ』、『己を推して物に及ぼすは恕なり』と説いて居る、之れ即ち人道の大本であつて、言ひかへれば五倫五常で田中幹事の先程申された『親切』と云ふことにも相当するので、之れが完全に世に行はるれば社会は平和であり、国家は安泰である、而して之れは決して新らしい主義ではなく、先程も申した如く二千五百余年来連綿として動かすべ
 - 第30巻 p.193 -ページ画像 
からざる真理をなし、仮令国柄を異にするも之れを用ひて決して不都合はないのであります、故に諸君は今後共総ての方面に此忠恕の道を遵奉し、之れが実行に心懸けられんことを切望致すものであります、折角諸君の日常の労を犒らふ為めの席上で、甚だ相応はしからざる講釈を申しましたが、私の日頃の信念の一端を些か申述べた次第で、諸君が御清聴下だされたことを感謝いたします、終りに臨み私は院長として、諸君が日常養育院の事業に対し献身的な努力を尽さるゝを謝すると共に、特に取立てゝ申す程の準備もありませんが、今日一日はどうぞゆつくり打ち寛いで遊んで頂くことを希望致します
   ○従業員慰労会ハ右ノ外、大正九年十一月七日(第二回)・同十年十月一日(第三回)・同十一年六月十八日(第四回)・同十四年七月十二日(第七回)・昭和三年五月二十七日(第十回)・同六年五月三十一日(第十三回)ニ開催セラルシガ、栄一之等ニ出席セズ。



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第四七三頁 昭和八年三月刊(DK300016k-0011)
第30巻 p.193 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第四七三頁 昭和八年三月刊
 ○第五章 東京市営時代
    第一七節 年中行事
○上略
 一、本院従業員慰労会 これは雇員以下の従業員の慰労会にて、大正十年《(八年)》より毎年開催し、昭和七年五月はその第十四回を巣鴨分院に於て挙行せしが、来会者は百七十九名を算した。各年とも一同午餐を共にし、種々の余興に歓を尽して散会するを例とする。
○下略