デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.210-220(DK300019k) ページ画像

大正11年11月26日(1922年)

是日、当院創立五十周年記念式挙行セラル。栄一之ニ出席シ演説ヲナス。次イデ同年十二月十三日、東京基督教青年会館ニ於テ開催セラレタル、当院慈善会主催ニ係ル、同記念講演会ニ出席シ演説ヲナス。


■資料

東京市養育院月報 第二六二号・第二七頁 大正一一年一二月 ○本院創立五十周年記念式(DK300019k-0001)
第30巻 p.210-211 ページ画像

東京市養育院月報  第二六二号・第二七頁 大正一一年一二月
○本院創立五十周年記念式 十一月二十六日午前十時より巣鴨分院講堂に於て、本院関係官公吏・市会議員・寄附者等六百五十名を招待の上、創立五十周年記念式を挙行せり、当日は生憎雨天なりしにも拘はらず、出席せられたる来賓約三百名に達し、定刻に至るや、田中幹事司会者として記念式挙行の次第を述べ、次で渋沢院長は式辞として、本院創立の由来より過去半世紀間に於ける事業の変遷消長と、将来に於ける希望及び抱負の一端を具さに演述せらる、次に水野内務大臣・宇佐美東京府知事代理福永内務部長・後藤東京市長・小坂本院常設委員長の祝辞朗読又は演説(以上次号掲載の予定)あり、終て渋沢院長より左記十年勤続者三十九名に表彰状を授与したる上、一場の訓示を与へられたるに対し、四谷事務員被表彰者一同に代りて本日の盛典に
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表彰せられたる光栄を謝し、尚ほ将来粉骨砕身益々院務に尽瘁すべき旨の答辞ありて式を閉ぢたり、夫れより来賓をば中庭に設らへたる天幕張の食堂に招じて、立食の饗応をなし、主客歓談に時を移して散会せしは午後一時過なりき


竜門雑誌 第四一五号・第七二―七三頁 大正一一年一二月 ○東京市養育院創立五十周年記念式(DK300019k-0002)
第30巻 p.211 ページ画像

竜門雑誌  第四一五号・第七二―七三頁 大正一一年一二月
○東京市養育院創立五十周年記念式 東京市養育院にては明治五年本院の創立以来、本年を以て満五十年に相当するより、十一月廿六日午前十時巣鴨分院に於て右記念式を挙行したるが、式は田中養育院幹事の挨拶に始まり、次で院長たる青淵先生の式辞あり、夫より水野内務大臣の祝辞・宇佐美東京府知事の祝辞(代読)・後藤東京市長の祝辞朗読・小坂同院常設委員長の祝辞に次ぎ、十年以上勤続者廿九名に対する表彰状授与を行ひ、之に対し青淵先生の訓示あり、最後に表彰者総代の謝辞ありて式を閉ぢ、更に別室に於て食堂を開き立食の饗応に移りたるが、来会者二百余名極めて盛会なりしと云ふ。
 因に同院に於ては当日記念として、青淵先生の演述せられたる冊子「回顧五十年」及び印行せる先生揮毫の扇子を、来会者一同に頒布せる由。


東京市養育院月報 第二六四号・第三―八頁 大正一二年三月 ○東京市養育院創立五十周年記念式々辞(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300019k-0003)
第30巻 p.211-215 ページ画像

東京市養育院月報  第二六四号・第三―八頁 大正一二年三月
    ○東京市養育院創立五十周年記念式々辞
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 閣下並に臨場の各位、声が痛んで居りまして詳しい事を申上げ兼ねます事を遺憾に思ひます、本院の五十年の記念式を今日開くに就きまして、来賓閣下を初めとして、皆様斯く多数の尊来を得たことを深く感謝致します
 此記念会を開きました所以は、斯かる心持からであると云ふ事を、唯今幹事より申上げ置きましてございます、それで其事に就ては重複して申上げませぬ、幹事から申上げました通り、此五十年の歳月は短いやうなものゝ、人の一身から見ますると長い間でございます、而して私は其五十年の内の四十八年間を、或は常設委員長とし、或は其他種々なる名前ではございまするが、要するに院長として継続的に此の場所に関係を持ち来りましたから、今日之を回想致しますと、実に思ひ出の多い事がございます、故に私は「回顧五十年」と云ふ標題を以ちまして、当院の沿革に就き概括的に頗る簡易に、扮飾を避けまして認めた小冊子を作りまして本日皆様に差上げましたが、御小閑の折に御覧下すつて、東京市養育院も長い歴史であると云ふことを御知り下さつたならば、本院の現況を御熟知下さると共に、東京市が斯かる種類の人々に対して、如何に処置して居るかと云ふことは、必ず御了解を為し得られるだらうと思ふのでございます
 今幹事から申上げました中で、養育院が繁昌すると云ふことは、余程おかしい話で、貧民などが増す事を悦ぶが如き誤解を生じますけれども、決して養育院の院長及幹事の職に在る者が、貧民などの多数になる事を悦びは致しませぬ、併し是はどうも社会の免るべからざる有
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様である、一方に富が増し繁昌の加はると共に落伍者も亦増加すると云ふことは、避くべからざる自然の道理でございます、故に之に伴ふ社会政策をして、其の繁昌に汚点の生ぜぬやうに維持すると云ふことを努めねばならぬ、即ち養育院の必要、養育院の繁昌を望むと云ふ意味ではなく、社会の繁昌、東京市の隆昌を望みまするならば、是と同時に斯かる設備を完備させねばならぬと云ふことは、必ず免るべからざる必然の道理である、即ち窮民の多いのを悦ぶのではなくして、社会の繁昌を悦ぶ、養育院に依つて社会の繁昌が擁護せらるゝのであると信じまするのでございます、此点は申上げぬでも皆さん御了解でございまするけれども、誤つて窮民の多いのを悦ぶと云ふやうに、誤解を生ぜぬ為めに一言申述ぶるのでございます
 「回顧五十年」に稍々沿革を申述べてございまするけれども、是等の中で今日回想致しますると、実に今昔の感に堪へぬ事がございます明治七年に当時の東京府知事大久保一翁と云ふ人……此人は静岡の人で、私も静岡藩に居つたことがございますので至つて親しみが多かつたものですから、此人から私は七分金の取締と云ふことを命ぜられた其の縁故によつて七分金で処理されて居る事柄、即ち養育院、或は今は商科大学となつて居りますが当時の商法講習所・共同墓地・橋梁営繕等の事を管掌したのでありますが、就中養育院の事業に付ては最も因縁が深かゝつたのであります、初め当院は、本郷の加州邸内で事業を開始し、次に上野の護国院内に移りましたが、其処では何分にも処置が致し兼ねると云ふので、泉橋の元の藤堂屋敷に移る事にし、続いて本所の長岡町に移転し、明治二十九年に今の大塚に移つたのであります
 左様に変化致しまする中に、最も思ひ出多いのは、丁度明治十六年から十七年にかけまして、養育院廃止の説が東京府会に出ました、私は之に向つて其説の非なることを反駁し、且つ弁明致しましたけれども、とうとう廃止説が多数になつて、十七年に養育院が廃されたのでございます、其の廃止の説の中には皆一時に追出すと云ふやうな過激な議論がありました、私共は段々に之を説きまして、止むを得ねば一歩譲つて、せめて追々に減るを待つて、残留の者は其儘置いて、新しく入れるだけを止めるだけにして呉れたら宜からうと申しましたが、中々それすら府会が承諾をせぬやうな有様でございました、併し段々吾々の運動から結局はさう云ふことになりましたけれども、自ら考へると新しい人を入れぬと云ふ訳にはどうしても行かぬ為めに、又吾々は是は甚だ人道に背いた行動と思つた為めに、遂に関係者が申合せて連中の人名を悉くは覚えませぬが、多分四・五人の人が申合せて一種の私営事業を起して、明治十八年に私設養育院が成立致しました、但し此の養育院はそれ等の人々が醵金をやりますと共に、其お方々の多くは婦人達にお頼みをして、婦人慈善会を設け、又官庁其他から寄附金を戴いて、さうしてそれに依つて維持したのが丁度五年間でございました、長岡町は其私設の際に移転したのでございます、此間の養育院の維持と云ふことに就ては、其当時努力致した人々は、実に苦辛惨憺と申上げても余り過言ではなからうと思ふ位でございました、幸に
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廃止を決議致しましたところの府会も大に養育院の必要を認めて、私に設立した右の事業に対しては相当なる同情を与へて、それ迄院に使つた物品など皆寄附して呉れましたから、大変都合好く維持されたのでございます、明治二十二年自治制が布かれた時に、是等私に設立した人々の協議が、どうも此の養育院を私設の儘永久に存すると云ふこは、どうしても適当な方法でなからうと思ふ、将来斯の如き種類の人人を集めて収容すると云ふ方法は、必ず必要なものと思はねばならぬそれを此儘に置くと云ふことは、所謂社会政策としても、又人道に省みても適当なる事でない、どうしても永久的に是だけのものは保存せねばならぬとすれば、希くば私の設立で存して置くよりは、幸ひ市制が発布せられた場合だから、東京市に交渉して、東京市の事業として将来に存続して置くが宜しからうと云ふことに決しまして、其の当時東京府知事が市長を兼ねて居られたに依つて、其事の話をして、是が市会の決議になつて、遂に東京市の養育院と相成つたのでございます此時の事柄は頗る困苦艱難でございましたので、今も尚記憶して居ります、当時の東京府知事は今は故人になられた芳川顕正君が、内務の次官にして東京府知事を兼ねて居られたやうに記憶致して居ります、同君に就て特に私が一同の総代として屡々交渉をしたものでございますから、是等当時の有様を考へて、あの時は斯う云ふ心配があつた、斯う云ふ議論をした等の事を思ひますると、今申上げた通り実に今昔の感に堪へぬのでございます
 又た此の巣鴨分院を設置したのは明治四十二年のことでございますから、今申上げました通り本院が東京市の手に移りましてから約二十年後の事でございます、本所の長岡町に移りましたのが私設の時代の明治十九年、それから二十九年に今の大塚に移りました、扠て大塚に於ても逐年収容人員が増す、殊に棄児が段々に殖えて参つて、大人と子供を同じ場所に養つて置くのは取締上・養育上にも甚だ遺憾な点がある為めどうか之れを別にしたいと云ふので、いろいろ心配したのが即ち此分院の出来た動機でございます、丁度是が明治四十二年に移り得る事が出来まして、爾来此の場所は少年少女の別置所に相成つて居つて、多い時は五百人、少い時でも三百幾人と云ふやうに世話を致して居ります、又た是れより先、不良少年の為めに感化事業を経営したいと云ふ企てが三十三年頃から起りまして、初めは大塚の本院内で経営して居りましたが、其後、明治三十八年に北多摩郡武蔵野村へ移しました、之れが即ち今日の井之頭学校で、常に百二・三十人の少年を収容致して居ります
 又た房州の船形に虚弱児童の転地保養に充つる為めの分院があり、尚ほ今一つ板橋町にも結核患者の為めの分院があります、然かし是等の顛末は「回顧五十年」中に詳しく書いて置きましたが、一言添へて申上げたいことは房州の分院の事でございます、即ち或方面の人々からは、児童の為めの転地保養院などを養育院が作つて置くのは余り贅沢であるとの批評を受ける事がございます、私も時にさう云ふ非難を聞いたことも記憶致しますけれども、どうも肺尖加答児などの小供を単に本院の病室だけで療養を致しますのは満足でないと云ふ医者の説
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に依りまして、最初房州勝山に少数の小供を送つて試験しました所が大層効能が見えたに依つて、遂に船形に其の場所を選んで建築を行ひ今では百二十人程の虚弱児が行つて居ります
 尚今申上げました二十九年に移転しました大塚の本院は、段々に狭くなりましたと同時に其附近が繁華の場所となりました為め、窮民等の収容所として適当なる所とも思はれなくなつて来ましたから、玆に移転を行ふの企てを致し、目下板橋町に新築工事中で明大正十二年には竣工の予定でございます、此板橋町は市内より多少距離のある場所でありますが、然かし都塵を脱したる高層な健康地でございますから収容者の為めには却つて適当な場所であらうと信じます、尤も此所に移転すれば、果して永久に不足はないかどうか、其辺のことは今から申上げ兼ねますけれども、先づ当分は市の養育院として不足はなからうと思ふのでございます、敷地の総坪数は二万七千坪で、其他に従来の板橋分院敷地六千坪を合すれば、三万三・四千坪の地面になつて居ります、建坪も相当な建築が出来ますので、此処に移転しましたならば、先づ此の場合当分は満足し得るかと私共は考へて居るのでございます
 之を要するに最初上野の護国院に凡そ二百人余の人を入れました明治五年から、五十年の歳月を経た今日は二千有余の収容者と相成つて居ります、即ち十倍の人を収容する様に相成つて居ります、而して其種類は殆ど生れるから死ぬ迄の年齢者を網羅して居りまして、斯く申しては甚だ言葉が悪るいかも知れませぬが、殆ど各種の人間の標本を集めたものだと申しても宜しい位な場所に相成つて居ります、而して又た現在の経営法が決して満足だとは申上げ兼ねます、例へば私に致した所が十分な学問もなし経験も乏しうございますけれども、若し之れを満足にと云ふならば、第一此処に養つて置く小供などに就ては尚ほ一層の方法があらうかと思ひますが、経費なども限り無く求める訳にも行きませぬで、余儀なく先づ差当り今日の程度を以て満足と致して居るのでございます、併し是等も追々に攻究致しまして、歩一歩と良い方に進めたいと考へます
 又た私共は斯かる事業を経営しつゝも、之れを唯一つの資源に依頼してのみ経営するものではなからうと思つて居ります、故に是迄にも種々の設備に就ては、大抵市の支出を願ひませんで、之れを大方同情家の寄附に仰いだのであります、即ち此巣鴨分院の土地家屋を買つたのも、大塚の土地を買ひ家屋を建築したのも、井之頭のも、板橋分院のも、船形のも、総て諸設備は大抵慈善家の寄附金に仰いで居りますので、幸ひに今幹事からも申しました通り 帝室に於かれましても 皇后陛下の御手許から年々御下賜金があり、又一般の寄附金も段々ございまして、設備も先づ先づ不自由はないと申上げ得られるのでございます、然かし今回の板橋町移転に就きましては、其要する所の費用が多かつた為め、移転費用を得んが為めに助成会と云ふものを作りまして、切りに寄附金を募集致しましたが、是がなかなか移転の資金を納め得られませぬので、余儀なく借入金を行なつて建築を完成させることゝ致し、其負債は移転後の大塚の土地の若干部分を売却して償還
 - 第30巻 p.215 -ページ画像 
することに決し、斯くて此大計画を遂げるやうに唯今相成つて居ります、是等は総て「回顧五十年」に書いてございますけれども、斯かる機会に従来自分が多少苦しみました事柄を……自身の口から申上げますのはお聞き苦しうはございませうけれども……私としてはどうか一言致したいやうに思ひましたので、少しく時間を費しまして「回顧五十年」の記事と重複の事を申上げましたのでございます
 終に臨み、私は重ねて今日皆様が御来場を賜りまして、此五十年記念式を意義あるものに為し下されたことを辱けなく御礼申上げます、而して斯かる皆様方は養育院に対して、現在に、将来に、必ず厚き御同情を垂れさせらるゝ御方々なりと信じ、深く感謝致す次第でございます


東京市養育院月報 第二六二号・第二九―三〇頁 大正一一年一二月 ○本院創立五十周年記念講演会(DK300019k-0004)
第30巻 p.215 ページ画像

東京市養育院月報  第二六二号・第二九―三〇頁 大正一一年一二月
○本院創立五十周年記念講演会 凩吹き荒ぶ十二月十三日夜、午後六時より神田美土代町東京基督教青年会館に於て、養育院婦人慈善会の主催に係る本院創立五十周年記念講演会を開催せり、聴衆三百有余名定刻に到るや川口監護課長司会者として先づ開会の辞を述べられ、次で田中幹事は「養育院より見たる世相の一面」てふ演題により約四十分に亘りて、統計を基礎としたる養育院収容者の実状と社会諸現象との関係が奈辺にあるかを、諧謔を混へて聞くものをして倦む所を知らざる得意の熱弁によりて講演せられ、次に前田東京市助役は「都市計画と社会事業」なる演題にて、先づ例を東京市の現状に引き、建築・道路・上下水道・公園等の諸問題と社会事業との関係を、微に入り細に渉りて演述せられ、最後に苟しくも将来に於ける都市計画は須く民人の幸福を主眼とせるものたらざるべからず、随て吾人の提唱する都市計画は即ち社会事業を基礎としたるものなりと雄弁を振はれ、其間約一時間半に亘れり、終りに穂積重遠博士は「親子の法律関係」に就き得意の法律論を極めて平易に講演せられ、聴衆に多大の感動を与へられたり、斯くて最後に渋沢院長立ちて閉会の辞に換へ、創立以来の本院事業の消長を簡単に述べ、終りに院長が大正四年以来殊に親交浅からざるデパートメント、ストアの元祖として又各種社会事業に熱心なる米人ジヨン、ワナメーカー氏の訃報に接せられたるに対し、同氏の事業を賞讚せらるゝと共に其死の速かなりしことを悼む意を表せられ午後十時過ぎ盛況裡に散会せり


東京市養育院月報 第二六六号・第一―七頁 大正一二年四月 ○養育院変遷の跡を繹づねて(子爵渋沢栄一)(DK300019k-0005)
第30巻 p.215-220 ページ画像

東京市養育院月報  第二六六号・第一―七頁 大正一二年四月
    ○養育院変遷の跡を繹づねて (子爵 渋沢栄一)
  本篇は大正十一年十二月十三日午後六時より神田美土代町東京基督教青年会館に於ける養育院婦人慈善会主催に係かる、本院創立五十周年記念講演会に於て試みられたる渋沢院長の講演筆記なり
 本日は東京市養育院婦人慈善会の主催で、養育院創立五十周年記念講演会を開催いたしました所、寒さの折柄斯く多数諸君の尊来を得た事を深く感謝致しますと共に、諸君に挨拶を兼ね一言申述ぶるの光栄を担ひます、政治問題とか、学術講演とは違ひまして、斯う云ふ有触
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れた話は、余程熱心のお方でなければお出でが出来ぬだらうと思ふのに、斯く多数尊来を得たことは、院長として深く謝意を表します
 段々皆様から御講演をお聴きになりまして、長い事は申上げませぬ然かし五十年も経過して養育院が今日に及んだことを、一言私が申上げる事も御参考にならうかと思ひます、私は丁度五十年の中、四十八年間養育院に従事致して居りますから、相当長い間尽力を致したと申上げられるのでございます、只今養育院の起源より、今日迄経過した有様を、事細かに申上げます事は中々長い時間を要しますから、極く簡単に養育院が如何なる縁故から起つて、今日どう云ふ境遇に居るかと云ふことを、一応御参考に供して置いた方が宜からうと思ふのでございます
 江戸が東京に変つた早々、確か明治三年《(五年)》と覚えます、其時分には市中に乞食が大分俳徊して居つた、露西亜から皇族が来られたに就て、其時分の東京の政治を執る人々が、見つともないと云ふので其乞食を狩集めたのが、抑々養育院の初でございます、併し集めた乞食のやり場がないので……以前には非人は車善七と云ふ者が支配して居つた、其善七に引渡し、東京府で費用を供給して善七に収容をさせました、其人数は三百人ばかりでありました、私は之に就て余り精しい事は知りませぬが、抑々養育院の濫觴はさう云ふことから起つたのでございます、慈善と云ふやうなことは今日は大分やかましくなりましたけれども、其時分東京府が幾らか慈善と云ふやうなことを論ずるやうになつて、玆に初めて集めた乞食を、何とか方法を考へて喰はせてやらなければならぬと云ふ議が頻りに起りました、其時東京に一種の共有金があつた、即ち寛政年間白河楽翁公の共有金が積んであつて相当の財産があつた、それの中から供給して窮民を救助しやうと云ふので、窮民を救助したのであります、それで車善七に任せて置く訳にも行き兼ねて、明治五年に本郷の加州屋敷跡に一つの場所を設けて養育院と云ふものが始つたのであります、それから本郷の屋敷にも置けないで上野の護国院に引移つた、それが六年か七年頃である、私は明治七年に共有金の取締を府知事から命ぜられて、続いて養育院の方の事務を見る事に相成つて、玆に初めて養育院との関係が出来たのであります、爾来継続して世話を致して居る、其後に明治十二年に東京府会が出来て、府会で養育院の大体を支配致しました、併しながら数年の後……明治十六年頃でございます、東京府会議員の中に養育院の救助と云ふことは甚だ一般の為めに不利益になる、懶惰の人を作るからと云ふ議論が生じて、養育院廃止説が起りました、私などは養育院の世話係であるから、廃止は残酷であると申して反対を致しました、けれども府会の多数は廃止論に傾いて、とうとう廃すやうになりました、尤もそれにも一理ある、養育院に依つて懶惰な人を助けると云ふことは、自然惰民を養成することになる、斯の如き事は止めたら宜からうと云ふのが廃止論の趣意である、けれども今日のやうに社会政策と云ふやうなことが学問的に論及されずに、私共の意見は府会の多数に徹底し兼ねて、十七年に養育院廃止の議が通過致して止める事になりましたのでございます、私共は明治七年から関係して居つた縁故から如何にも
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遺憾と思ひまして、且つ将来東京市の繁栄は今日の有様に止まるべきものでない、従つて窮民も必ず沢山生ずるに相違ない、此場合さう云ふものを止めるのは東京府会議員達の考が違ふと思ひましたが止むを得ず廃止になつた、そこで有志者が申合せて之を私設のものに致したのであります、其時、今日此講演会を開かれた婦人慈善会が、大に後援をして呉れまして、私設の養育院に年々相当の費用を醵出して保護しやうと云ふことに相成りました、一方は又東京府からも補助金を受けまして、遂に府会から離れて別に組立てた、即ち本所の長岡町に収容所を設けて私設の養育院が成立つたのであります、明治十八年にそれが出来ました、それから東京市制が布かれたのが二十二年である、東京市と相成りましたに就て、私立養育院の人々が申合せて将来を考へて見ると、私設の養育院を以て、満足して居り難い点がある、東京市は人口も増し町も繁昌する、従つて多数の落伍者も出来て来る、養育院の如きは必要は多いが設備が乏しいと云ふことになると非常に困るから、以前東京府会が決議したけれども、東京市に於ては改めて斯かる施設の物を東京市に寄附すれば、市がそれをやれば維持し得るものであらうと云ふので、遂に東京市に養育院を差出すと云ふことを、吾々共が申合せて、東京市にそれを交渉致しまして、玆に東京市……今の市制ではない、其当時は東京府と東京市が併合したやうな、府知事が兼市長であると云ふやうな時代である……其市長も同意をされて市会も議決し、それが今日に継続し来つたのである、是が先づ東京市養育院の極く概要である、故に其時の東京市では制度は東京市で取扱ふと云ふことになつて居りましたけれども、東京市の一種の慈善団体と云ふても宜しいのであるから、寄附金なども一般有志者から受けるやうにして、主なる事業経営は、成るべく有志者の寄附に依る事にして、日常の費用だけは努めて節約して持続するやうにしやう、而して其費用は、成るべく東京市民に賦課する税のかゝらぬやうにして維持するやうにした方が宜からうと云ふのが大体の取定めで、続いて二十六年でありましたか、長岡町から今の大塚に移る計画を立てまして、二十九年に移転致しました
 爾来段々に人が増して参りまして、窮民と云ふ種類の中でも、行旅病人・棄児と云ふやうなものも収容致しまして、其頃は僅に四百人位でありましたが、続いて千人以上にもなるやうになつて、場所が狭い為めに、子供を別置せなければならぬやうな必要を生じて、明治四十二年に今の巣鴨分院に少年を移転させるやうに致しました、それから不良少年も沢山ありますので、感化救済の方もやらうと云ふことを企てまして、明治三十三年頃から計画を致しまして、寄附金を募集して同三十九年井之頭に井之頭学校と云ふものを設けて、此処に不良少年を収容する事になりました、所が尚引続いて巣鴨分院収容児童の多数が、甚だ健康が悪い、営養も不良であり、結核性の子供が沢山ある、どうも十分な治療も出来ないから、是等は空気療養に限ると云ふことから、貧困な者に対しての取扱が甚だ贅沢であると云ふ非難を受けましたが、是等の病児を海岸に別置する方法を講じまして、今房州の船形に分院を設けて百人余りの病児をやつて置きます、体格の良くない
 - 第30巻 p.218 -ページ画像 
者を送り、健康になると連れて帰つて他の者をやると云ふやうな方法にして居る、是等は特に此会を催された婦人慈善会の力である、種々な方法に依つて醵金をせられて船形の分院が出来たのであります、更に数年前井之頭の方も追々狭くなるし、辻町の方も交通機関も整ふた為めに、どうも窮民を繁華な所に置く必要もない、是非移転させなければならぬと云ふ所から、板橋に一つの大きな場所を設ける事になり大塚の本院を其方に移転させようと云ふ今計画中であります、費用が大変掛る為めに、明年の夏は完全に移転が出来るやうにならうと思ひます、是は大きな所でございまして、地所も三万坪ばかり買入れてございます、建増坪数は五・六千坪もありますので、中々高い費用でございます、巣鴨分院も、井之頭も、大塚でも、総て東京市の養育院にはなつて居りますけれども、諸設備は皆寄附金を以てやつて居りまして市からの支出は受けては居りませぬ、板橋の移転は大正四年頃の企てゞ三十万そこそこでありましたが、それが百万円もかゝるやうになつた為め、一方には寄附金の募集をせいぜい努めましたけれども、寄附金のみに依つてやる事が出来ないので、大塚の地所を売却して、其売価に依つて板橋に移転する、東京市は其金融をして呉れると云ふ都合で、来年夏頃には板橋へ移転が出来やうと思ふ
 右のやうに唯今五ケ所に分れて経営を致して居りまして、大塚の本院に居りますのは多く通常の窮民・行旅病者の種類、巣鴨の方は棄児遺児・迷児の種類でございます、不良少年の感化事業は井之頭に置きます、少年の中で病気の気遣ある者は養生の為め船形に行きます、板橋にも特殊の病気の者を置きます、それは移転すべき場所の少し傍に小さい病院を構へて居ります、さうして是等の年々の通常の経費は原則として自給自足で、設備は総て一般の寄附金を以てやつて居りまして、土地も現在では十万坪以上を所有して居ります、諸設備の財産を調べて見ましたならば、数百万円の価が寄附の為めに成立して居ると申上げても宜いのでございます、東京府会が惰民養成と云ふことを懸念して止めたと云ふことも大に道理ある事で、其時分私共残酷と云ひましたが、唯程度なしに窮民を救助すると云ふことは、或は恐る、惰民養成となつたかも知れない、一方から考へると大都市の繁昌を増して来ると共に、落伍者の出て来ると云ふことは免れぬ事である、穂積博士の言はれる如くに、社会の共同生活の間には落伍者が出来る、それを他の方面から援けてやると云ふのは、政策上からも、経済上からも、人道上からも勿論必要なものである、故に世界何処の国でも斯かる設備の完全せない所はないと申しても宜しい、斯の如き完全な制度を経済的に取扱ふと云ふことは甚だ必要である、殊に慈善の事は、悪くすると唯憐れむと云ふ主義にのみ依つて、経済とか道理とかを後にしてやるやうになる、即ち悪くすると慈善救済は惰民養成と云ふ弊害に陥る、弊害を防ぐと云ふことになると甚だ残酷な冷酷な世の中になつて仕舞ふ、冷酷ならずして相当な方法と云へば、則ち社会事業の救済方法が適当な事である、左様考へると今日の東京市養育院などは、稍々其要を得たものではなからうかと私は深く思ふのでございます、而して東京市の人口が増加すると共に窮民も増加して来る事は免れぬ
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事であるから、今日の有様から考へると板橋の本院が完全し得られたならば、東京市が繁昌して窮民の人数が増しても、満足とは申上げられませぬけれども、未だ大分余地も持つて居りますので、二十年や三十年の間は、斯かる制度を適当に経営し得られるかと思ふのでございます、五十年の歳月は短くはございませぬ、其長い間に無数の同情者が力を注がれて、殊に東京市は明治二十二年から全く市のものとして大に力を注いで下すつて、玆に養育院五十年の記念会迄挙行するやうになつたのは、敢て私が養育院を我者顔して申上げるではないけれども、其五十年の長い間の歴史を見ると、聊か形造られ、整頓されたのは、各方面の余恵と深く有難く思ふのでございます
 終りに臨んで申上げたいのは帝室殊に 皇后陛下が始終特殊なる御下賜金を下さいまして度々御使を遣はされて居る、既に一昨日も井之頭へ大森男爵を差遣はされました、大正六年にも大塚と巣鴨に特にお遣はしになりました、其際に御下賜金を戴くのみならず、年々帝室から戴く御下賜金も積立てゝありまして、養育院の基本金と申すものは六十万円近くになりまして、此数年間に百万円になるだけの基礎を持つて居ります、是等の利子も経費の一部に充てることになつて居ります、東京市は大体の監督と少許の繰入金とをして呉れて居りますので斯う云ふことも此場合によく御了解を願つて置いたが宜からうと思ふのでございます、唯単に東京市で養育院をやつて居るものだと云ふ誤解を下さらぬやうにお願ひしたうございます、右様な現況を斯かる機会に一言申上げて置くのは御参考になるだらうと思ひまして、養育院全体の状況を一応陳述して御聞きを願つて置いたのでございます
 尚私は一言申上げたい事がございます、私が大正四年に亜米利加に参りました時に、東京に日曜学校大会を開かうと云ふ事柄があつた場合に、相当の賛助をしたがよからうと考へて、死なれた大隈侯爵、阪谷男爵と相談を致しまして、後援会を組織して、其私は副会長を勤めました、さうして亜米利加に行きました時に、ピツツパークで、ハインツと云ふ人が、亜米利加の日曜学校の世話人である、其の人は立派な商人でありますが、基督教の信者である、日曜学校の大層な有力者であります、それから更にもう一人の有力者はフヒラデルフヒアの商人で、ジヨン・ワナメーカーと云ふ人、此人には私は特に会見して話を致しました、私は元来儒教を信じて居りますので、其意見に就ては大変疑問を持つて居りました、そこで論じ合つて見ました所が、不思議にも意見が一致した、同人も至極面白いと云ふので、日本に開かれる時には是非来る積りだと云ふ話でありました、さうして一昨年日曜学校の大会が日本に開かれるので、其事を言つてやつた所が、残念にも病気で代理を寄越された、誠に残念だと云つて寄越しました、此人は亜米利加人ですが、珍らしい宗教家で、私より一つか二つ年上でありませうか、多分八十五か六でございましたが、是非日本に行きたいと云つて居られた、所が先刻の電報によりますと、此ワナメーカー氏は遂に死なれたさうでございます、誠に遺憾な事で、蓋し養育院に関係は持つて居りませぬが、日曜学校の経営も養育院に似たやうなものである、其日曜学校に尽力された大人物が死なれた事は実に残念な事
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に思ひます、敢て之を諸君に申上げる必要はございませぬが、偶々養育院の記念会に於て斯かる訃音に接しましたのは誠に残念に思ひましたので、一言皆様にも申上げる次第でございます