デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2023.3.3

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.235-245(DK300023k) ページ画像

大正14年11月15日(1925年)

是ヨリ先、東京市長・助役・東京市会議員及ビ当院常設委員・当院幹事等相図リ、栄一ノ銅像ヲ当院構内ニ建設シ、是日除幕式ヲ挙行ス。栄一之ニ出席シ謝辞ヲ述ブ。


■資料

東京市養育院月報 第二八〇号・第一〇頁 大正一三年一一月 ○本院常設委員会(DK300023k-0001)
第30巻 p.235-236 ページ画像

東京市養育院月報  第二八〇号・第一〇頁 大正一三年一一月
○本院常設委員会 十一月二十四日午後二時より本院楼上会議室に於て常設委員会を開会せり、出席者は小坂本院常設委員長、天利・大岩
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安東の三委員にして、渋沢院長銅像建設の件に関し協議し、午後四時二十分閉会せり
 因に当日理事者側より田中幹事・小木経理課長・川口監護課長・石崎総務課庶務掛長列席せり


東京市養育院月報 第二八一号・第八―九頁 大正一三年一二月 ○渋沢養育院長銅像建設会(DK300023k-0002)
第30巻 p.236 ページ画像

東京市養育院月報  第二八一号・第八―九頁 大正一三年一二月
○渋沢養育院長銅像建設会 本院常設委員諸氏の間に於て這般来、渋沢院長が過去半世紀間一日の如く養育院発展の為め努力せられたる偉大の功労を表彰し、永久に之れを記念するの方法につき寄々協議中の処、此程東京市長・助役・市会議員及本院常設委員一同並本院幹事の諸氏を以て発起人と為し、標記団体を組織して汎く賛成者を募り、経費三万余円を醵集し、以て養育院内に渋沢子爵の銅像を建設し、大正十四年末迄に竣工せしめ、之れを同院に寄附すべく着々具体的実行の歩を進むることゝなれり、尤も経費の三万余円は最小限度の見積にして、自然之れ以上の醵金ある場合は附帯工事をも施行する計画なり、因に本会の目的を賛し会員たらんとせらるゝ向は一口以上の醵金を為すべく、而して醵金一口の金額は五円にして大正十四年三月末日までに第一銀行本店又は市内支店、東京貯蓄銀行本店又は市内及市外支店振替貯金口座「東京七〇一五八番」若くは養育院内の本会事務所へ金額を一時に払込むものとす、尚ほ本会の役員は左の如し
 理事
  会長   中村是公氏   専任理事 小坂梅吉氏
    男爵 大倉喜八郎氏       天利庄次郎氏
       大岩豊吉氏        安東正臣氏
       岡田忠彦氏        三井元之助氏
       田沢義鋪氏        荘清次郎氏
       田沼義三郎氏


時事新報 大正一三年一二月五日 三万円募つて渋沢子の銅像を養育院に建てる(DK300023k-0003)
第30巻 p.236 ページ画像

時事新報  大正一三年一二月五日
    三万円募つて渋沢子の
      銅像を養育院に建てる
東京市参与養育院長渋沢栄一子の功労を表彰するため、養育院内へ子の銅像を建立しやうと、市の養育院常設委員長小坂梅吉氏や天利委員などが院長銅像建設会を設け、資金三万円を一般から募集する事となつた、渋沢子は明治七年以来養育院がまだ東京府所管の時代から今日まで終始一貫、無慮六万の老癈窮孤の薄幸な同胞を救護し、今日一ケ年七十万円からの経常費を要するに拘らず、市費として市民が負担するのが僅に三万円に過ぎないといふのは、全く渋沢子の努力によるものである


養育院六十年史 東京市養育院編 第四四五―四四七頁 昭和八年三月刊(DK300023k-0004)
第30巻 p.236-237 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第四四五―四四七頁 昭和八年三月刊
 ○第五章 東京市営時代
    第一四節 渋沢院長の銅像建設
 本院の正門を入り、桜の並木道を通過すれば、数歩にして子爵渋沢
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院長の慈眼愛腸宛ながら活けるが如き、巨大なる銅像に直面するであらう。これ永しなへにその徳を偲び、敬愛思慕の念を禁ぜざらしむる一大記念物である。その由来は大正十三年(一九二四)十二月末、「東京市養育院長渋沢子爵の功績を記念する為め、其銅像を養育院内に建設し、同院に寄附するを目的」とする「渋沢養育院長銅像建設会」の発起せられたるに基づく。該会の発起人は当時の東京市長・同助役・東京市会議員及養育院常設委員一同、並に養育院幹事等より成り、その役員は左の通りであつた。
 会長 中村是公   専任理事 小坂梅吉
 男爵 大倉喜八郎  大岩豊吉   岡田忠彦
    田沢義鋪   田沼義三郎  天利庄次郎
    安東正臣   三井元之助  荘清次郎
                        (以上理事)
 斯くて江湖諸氏より醵金を得、大正十四年(一九二五)三月中、彫刻家小倉右一郎に託して、銅像の製作及附帯工事の造営に着手し、同年十一月初旬に至り一切の竣工を告げ、本院に寄附せられ、同月十五日を以て除幕式を挙行した。この像は青銅坐像にして、総高さ十尺、重量四百八十貫、台石は花崗石にして、総高さ十六尺、平面方二十尺の巨大なるものである。尚ほこれが建設の収支決算の概要を挙ぐれば左の通りである。
      収入
  一、金参万参千四拾弐円九拾六銭也 醵出金並に利子収入
      支出
  一、金弐万八千四百円也      工事費
  一、金四千六百四拾弐円九拾六銭也 雑費
 該銅像建設に対し、醵出せられたる人員は六百五十人、醵出の口数は六千五百四十八口、醵出金額は参万弐千七百四拾円に達した。
○下略


東京市養育院月報 第二九二号・第一一―一三頁 大正一四年一一月 ○渋沢養育院長銅像除幕式(DK300023k-0005)
第30巻 p.237-238 ページ画像

東京市養育院月報  第二九二号・第一一―一三頁 大正一四年一一月
○渋沢養育院長銅像除幕式 渋沢養育院長が過去五十年間に亘り、終始一貫養育院事業に心血を注がれ、孜々として拮据経営せられつゝある偉大なる功績を記念するの方法に就ては、夙に養育院常設委員諸氏の間に於て考究中なりしが、遂に工費三万余円を以て養育院構内に子爵の銅像を建設して之れを養育院に寄附することに決し、客年十二月中、東京市長・同助役・東京市会議員及養育院常設委員一同並に養育院幹事を発起人として、渋沢養育院長銅像建設会を設立し、本年一月より資金の醵集に着手したることは、曩に本誌上に報じたる通りなるが、爾後幸ひにして多数有志の賛同を博し、予定資金の醵集確実なるの見込立ちたるを以て、本年三月中彫塑家小倉右一郎氏に嘱して該銅像の製作及び附帯工事の造営に着手し、工程亦た順調に進捗し、十一月二日に至り遂に一切の工事竣成を告げたるを以て、同月十五日午前十時半より養育院構内の銅像前広場に於て、子爵並に其同族各位・市名誉職・本院関係官公吏・醵出者・新聞記者、其他八百余名の紳士淑
 - 第30巻 p.238 -ページ画像 
女を招待の上、盛大なる除幕式を挙行せり、今其模様を概記せんに、当日は晩秋稀なる小春日和にて、定刻前より或は自動車に或は徒歩に続々参着せらるゝ来賓織るが如く、真に板橋町に於ける未曾有の光景を呈したり
 軈て開会を告ぐる一発の煙火沖天に轟くや、主賓渋沢院長並に渋沢子爵の同族を始め来賓一同は予て設らへたる銅像前の式場に参入、一同着席を了はらるゝや、当日の司会者田中本院幹事先づ開会の辞に次ぎ銅像建設の経過並に工事報告を為し、次で中村市長は銅像建設会長の資格にて式辞を述べられ、右終るや渋沢子爵令孫昭子嬢(十一歳)は田中幹事の介添へにて幼なき花の姿を銅像の直下に運ばれ、粛然として除幕の紫紐を惹けば、紅白色鮮やかなる覆幕は微風に翻へりつゝ颯と辷べり落ち、見るも心地よき白色の花崗岩台石上、十有六尺の中空に温容玉の如き子爵の青銅坐像活けるが如くに現はれ出でしかば、急霰の如き拍手と歓呼は期せずして会衆の間に湧き起これり、斯くて芽出度く除幕終れば渋沢院長はやをら老躯を演壇に運ばれ、感慨無量の態度にて鄭重なる謝辞を述べられ、次いで若槻内務大臣及び平塚東京府知事の孰れも老子爵の功績を称へたる懇篤なる祝辞朗読あり、最後に小坂本院常設委員長は建設会専任理事として閉会辞を述べられ且つ同氏の発声にて子爵の万歳を三唱し、之れにて滞ほりなく式を閉ぢ直に来賓を本院大講堂内に設らへたる食堂に案内し午餐を饗応せり、斯くて宴方に酣なる頃、小坂専任理事より一場の挨拶を述べらるゝところあり、次で近藤東京市会副議長は市会議員を代表して乾盃辞を述べられ、老子爵の万歳を祝する歓呼の裡に一同の乾杯あり、終りて再び渋沢子爵の蘇東坡の喜雨亭の記に因める含蓄深き一場の演説あり、最後に枢密院議長穂積陳重男は渋沢子爵家親族を代表していと鄭重なる謝辞あり、和気靄々裡に散会せしは午後一時過ぎなりき、因に当日の来賓其他参列者は渋沢子爵の外、若槻内務大臣・平塚東京府知事・中村東京市長・穂積男爵及令夫人・阪谷男爵・松方公爵・渋沢正雄氏同敬三氏・高田早苗氏・浅野総一郎氏等、朝野の紳士淑女無慮四百名の多きに達したるが、今其主なる芳名を録すれば左の如し
○出席者氏名略ス
 因に当日式場に於ける田中幹事の開会辞及報告、中村市長の式辞、渋沢子爵の謝辞、若槻内務大臣及平塚東京府知事の祝辞、小坂常設委員長の閉会辞及び食堂に於ける渋沢子爵の演説、並に穂積男爵の謝辞は、之れを次号に掲載すべし


竜門雑誌 第四四八号・第九六―一〇〇頁 大正一五年一月 ○青淵先生説話集其他(DK300023k-0006)
第30巻 p.238-241 ページ画像

竜門雑誌  第四四八号・第九六―一〇〇頁 大正一五年一月
 ○青淵先生説話集其他
    銅像建設に対する謝辞
 閣下並に諸君、今回計らずも斯の如き光栄を辱けなう致しましたことは、私の八十六年の生涯中真に此上なき名誉と存じまして、唯だ唯だ難有御礼を申上げる次第で御座います。
 実は昨年末私の為めに銅像を御建て下さると云ふ御企てに就て一応御話しを承はりました際、私は極力之れを御辞退申上げたので御座い
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ますが、発起人方の御熱心な御勧説もだしがたく、終に御厚意に任かせることゝ致しましたものゝ、私としては別に取立てゝ申す程の功績がある訳でもなく、唯だ五十年間養育院事業を経営したと云ふ事だけで、斯かる過分な名誉を担ひまする事は、心中甚だ心苦しく感じて居る次第で御座います。
 御承知の通り養育院は明治五年に設立せられたるもので、其設立の動機は極く偶然な行掛りから今日あるを致したので御座います。即ち明治初年外国貴賓の本邦に渡来せらるゝに際しまして、東京府では首都としての体面上、市内に散在浮浪する乞丐の徒を一ケ所に纏めて収容いたしましたが、之れは決して将来を慮ばかつた企てゞはなく、単に一時の方便に過ぎなかつたので御座います。然し一度収容致して見ますると、偖て之れを追払ふ訳にも行かぬ状態に立至りましたので、継続して収容することになり、玆に初めて東京府養育院なるものか生れ出でたので御座います。然かし其当時は別に将来如何に之れを経営すべきかと云ふ点に就て、確然たる腹案のあつた訳でもなく、唯だ大都市殊に首都としての東京に斯かる施設もなくてはならぬものだと云ふ、漫然たる大体論を基礎としたに過ぎず。又当初の経費が彼の有名な松平楽翁公の遺こされた七分金によつて支弁せられたのも、真に偶然の仕合はせであつたので御座います。斯くて年と共に収容者の数が増加するにつれ、漸次経費も膨脹して参りました結果、明治十五年に至り東京府会議員の間に養育院無用論が起つたのであります、其要旨は府が窮民を救助すると云ふことは惰民の発生を促がす原因となるもので、年毎に増加する貧困者を一々救助して居た日には、如何に東京府の力を以てするも之れが維持は到底困難であると云ふ、誠に一理屈ある議論で御座いました。然かし当時養育院長であつた私としては、国家の発展に伴なひ落伍者の漸次増加することは免かるべからざる自然の趨勢であり、之れを救助することは素より弊害となるが、相当の方針の下に救助を行なふは所謂人道上の義務である。亦た一国の首都としても斯かる事業の存在は是非必要であると云ふ見地から極力廃止説を反駁し、以て養育院事業の継続を高調したので御座いますが、大勢の趨く所は如何とも致し方なく、終に府会の議決に依り、府営の養育院は明治十七年限りで廃止の運命に逢着いたしました、玆に於て私は養育院事業を此儘中止すべきか、或は将来に亘つて存続せしむべきかに就き自問自答致しましたが、私の持論としては如何にしても之れが存続を計らねばならぬと考へましたので、終に私営として事業を継続すべく決心し、同志を語らひ資金の調達に努め、一方名流婦人の同情によりて養育院婦人慈善会なる後援団体を組織し、時々慈善観劇会又は慈善市などを開いて貰つて多少の金を集め、此れ等を経営の資に充て、又た内務省よりも娼妓賦金を本院へ補助として下附されることとなりましたので、幸に爾後私営として小規模ながら経営を続けることが出来たので御座います。然かし其当時の苦心は自分の口から申しては如何かと存じますが、実に一通りならぬもので御座いました。斯くて明治二十二年まで継続し来たりましたが、其年四月より東京に市制が施行せられ、東京市と云ふ自治体が成立することゝなりましたの
 - 第30巻 p.240 -ページ画像 
で、私は此養育院を東京市の事業として頂くことが適当なりと考へたのであります。蓋し個人経営の事業なるものは、其経営者の亡びる場合には、事業其物も兎角経営と運命を共にすることがあるので、事業其物の永続安全を期する上からも、又た事業其物の性質の上から、之れを公共団体に委することが適当の措置なりと考へましたので、終に本院の全事業と全財産とを東京市に提供し、市営として引続き経営せられむことを申請いたしました処、市当局に於ても之れを諒せられ、翌二十三年一月より東京市に移され、玆に東京市養育院と改称せられて今日に至つた次第で、以上は本院設立当時の事情及び其経過、就中私営時代に於ける経営困難の有様などを極めて簡単に申述べましたもので、是等に就ては大正十一年末本院創立五十周年紀念会の節、私の口授を田中幹事に筆記せしめて公けに致しましたる『回顧五十年』と題する冊子中に、詳細に縷述致して置きましたので、既に御一読下された御方もあらうと存じます。然して今春私が会長を致して居ります中央社会事業協会が主催となつて、東京に全国社会事業大会を開催致しました際、堀江帰一博士が、社会の進運に伴なひ落伍者の増加することは自然の勢ひで、之れを救済するは社会政策上必要な事柄であると云ふ意味の御講演が御座いましたが、之れは私の府立養育院廃止当時の持論が、偶然にも四十余年後の今日に至つて学者の意見と一致したのでありまして、当時に於ける私の努力が必ずしも無益の業でなかりしことを、今更らながら心嬉しく感じますると同時に、一面養育院が今日の大をなすに至つたことを喜び、又た反面より、其隆昌を見るに至つた今日の社会の状態を憂ふるもので、私が今日皆様方より与へられた此名誉も畢竟社会進運の結果にして、私の喜びに堪へざる所で御座います、尚ほ申上げ度きことも種々御座いますが、万感胸に迫つて之れを表現し得ぬことを遺憾に存じますので、其点は充分に御推察を願ひたいので御座います。尚ほ終りに臨みまして、私の銅像建設に付き、一方ならぬ御骨折下さいました中村会長はじめ理事の方々に厚く御礼を申上げます。(十四年十一月十五日養育院に於て)
    銅像除幕式当日食堂に於ける演説
 真に存じも寄らぬ多数養育院に同情を寄せらるゝ御方々の御尽力で私の望外なる銅像が本院に建設致されましたこと先刻式場に於ても申述べました通り御礼の申上やうもない次第で御座います、元来私の持論として、銅像なり或は碑なりを作つて、其功績を表彰せらるゝことは、国家的に異常の功労のあつた人々に於て初めて意義あるものと云ふべきで御座いますが、然かし日本の現状より見ますると、左迄必要もなき者にまで之れを建てると云ふ有様で、寧ろ濫設の嫌ありはせぬかと思つて居ります。然かしながら凡そ人は喜びある時に、其喜びを何物かに表現して後世に遺すと云ふことをするもので、之れ人情の然らしむる処で御座います。例へば戦捷を記念すべく之れに因める名を其子に附けるとか、或は国の年号として之を記念するとか、総て其歓喜の情を永久に記念して置きたいと云ふことは一に人情の発露であります、之れに就て唯今私は支那に於て私の好むところの一人である蘇東坡の喜雨亭の記を思ひ浮べました、それは東坡が地方で県令の如き
 - 第30巻 p.241 -ページ画像 
職に在つた際のことでありますが、或年其地方が非常な旱魃で、農作物は申すに及ばず草木迄でも枯死せん許りの有様となり、農民は何れも塗炭の苦しみを嘗めて、雨乞ひの為め狂奔して居たのであります。ところが其等の人民の真心が天に通じたものか、一日沛然として多量の降雨があり、其後数日間に亘り雨が続きましたので、さしも枯死せんとした農作物が此慈雨の為めに蘇生しましたので、農民等は孰れも狂喜して、此喜びを何によりて記念としたものであらうかと東坡に相談致したのであります。其処で東坡が風雨は天の賜であるが、天を記念すべき方法はない、又天子の御徳と申しても一地方に限られた事柄では別に記念の方法はないが、偶々以前から私が建てさせて居た別墅が幸ひに出来上つて居るから、之れに何か記念となるやうな名を附けたならば、私も皆さんと一緒に其喜びを頒つことが出来るから、それを以て記念としては如何かと申しますと、農民達も大いに喜び、東坡の提案に従つたのでそこで、其別墅を『喜雨亭』即ち雨を喜ぶの亭と名附け、同時に東坡は『喜雨亭記』なる詩を賦して、雨の徳を称へたのであります。
 私は曩に自分の銅像を建設して下さると云ふ御話しを承はりましたる際、養育院今日の隆昌は決して私一人の力ではなく、上皇室の御恩寵は申すも更らなり、大方同情諸氏の御庇護並に市当路者諸君の御助力に因りたるに外ならぬのでありますから、之れを私の功績なりとせられて、銅像建設の栄与を荷ひますのは誠に心苦しい次第であると申上げたのでありますが、然かし又た私が最も長く本院の事業に携はつて居るのであるから、此渋沢を皆様の総代として、本院事業発展の喜びを永遠に記念せらるゝものであるかも知れぬ、即ち農民多数の喜悦の情が蘇東坡の別墅喜雨亭の名に依りて記念せらるゝと同様の意味合であらうかと考へまして、之れが為め自分の心苦るしさも幾分緩和せられた次第で御座います。尚ほ、私の今日の此の喜びは単に私一人のみならず、家族・親戚一同の者が何れも衷心より喜んで居ります次第で、其れに就ては此所に出席して居らるゝ穂積男爵に、親族一同を代表して謝辞を申述べて貰らふことゝ致します。
              (東京市養育院月報二百九十三号所載)


中外商業新報 第一四二六七号 大正一四年一一月一六日 令孫の手で除幕された銅像(DK300023k-0007)
第30巻 p.241-242 ページ画像

中外商業新報  第一四二六七号 大正一四年一一月一六日
  令孫の手で除幕された銅像
    社会事業家としての渋沢老子爵の面かげ
      昨日午前十時養育院で挙式
東京市養育院長として渋沢栄一子爵が養育院事業のためにそゝいだ努力はなみなみならぬものであつた、養育院関係者はこの大きな子爵の
 功労に報ゆるためと、また一つには、子爵の面影を永久に残し、その徳を偲ぶために、昨年の暮から府下板橋町東京市養育院構内に、子爵の銅像建設を思ひ立ち、工事中のところ、先ごろ立派に竣成したので、その銅像(十三日紙上所載)除幕式が十五日午前十時半から催された、紅白の幔幕をめぐらした式場では、中村市長以下市吏員たちが来賓の応接につとめてゐる、来賓の中には若槻内相・穂積陳重男・阪
 - 第30巻 p.242 -ページ画像 
谷芳郎男・平塚東京府知事・松方厳公・高田早苗・浅野総一郎氏らの顔も見え、その他市関係の人たちや、社会事業関係の人々五百名ばかり、子爵の
 徳を慕ふ人々で一ぱいであつた、定刻を知らせる煙火があがると、病後とも思へぬ元気な子爵が令息・令孫など一族の人々と共に席に着く、かくて田中幹事が開会の挨拶を述べ、銅像建設会長としての中村市長の式辞があつて、子爵令孫昭子嬢がいたいけな手で綱を引くと、温容玉のごとき子爵の銅像がぬつと現れ、式場からは一度にパチパチと拍手が起る、ついで子爵は「私は八十六年の過去を振返つて、今日のやうな光栄を感じたことはありません――」と謝辞を述べた、つゞいて若槻内相と平塚知事とが子爵の功労をたゝへた
 祝辞を述べて式を終り、大講堂で午餐の卓を開いたが、この日遠く奥州白河町から川崎大四郎氏が町を代表して参列したのは人目をひいた、社会事業家としての子爵の面影が除幕式を通じて窺はれる


東京市養育院月報 第二九三号・第一―五頁 大正一四年一二月 ○渋沢養育院長銅像除幕式開会辞及報告(大正十四年十一月十五日)(養育院幹事田中太郎)(DK300023k-0008)
第30巻 p.242-245 ページ画像

東京市養育院月報  第二九三号・第一―五頁 大正一四年一二月
    ○渋沢養育院長銅像除幕式開会辞及報告(大正十四年十一月十五日)
                  (養育院幹事 田中太郎)
 定刻と相成りましたから之れより除幕式を開始致します、而して之れと同時に、私は中村会長の命に依りまして、銅像建設会設立前後の事情及び経過等に就き一言御報告を申上げます
 我渋沢養育院長の功績記念の為め其銅像を建設致したいと云ふことは現任養育院常設委員各位が数年前より熱心に希望して居られた問題で御座いましたが、然かし何時迄でに作らねばならぬと云ふ仕事でもない為めに、ツヒ昨日と過ぎ今日と暮らして、荏苒時を経たのでありましたが、昨大正十三年の十一月中旬渋沢子爵が不図御病気に罹かられ、御経過も捗々しからず、御容体も平素御病気の際とは少しく異なり余り楽観は出来ぬと云ふことを聞き及びました為め、常設委員の方方に於ても俄に其銅像建設の計画を取急ぎ実行することに相談一決せられ、子爵閣下の御発病後間もなき十二月初め諸般の準備を整へ、東京市長・同助役各位・東京市会議員及び養育院常設委員各位並に養育院幹事たる不肖私が発起人と相成り、臘末終に『渋沢養育院長銅像建設会』なるものを設立致したので御座います、而して其趣旨は子爵閣下が明治七年以来満五十年間即ち半世紀の長きに亘りて養育院事業に御尽瘁相成りましたる御功績に対し、我々有志に於て之れを御表彰申上げたいと云ふことで、勿論公法人としての東京市も市自身として他日適当なる方法で其功績に酬ゐらるゝことでは御座いませうが、其れは別問題として、我々有志に於ても其功労に酬ゆるの途を取りたいと云ふのが、実に発起人一同の精神であつたので御座います、尚ほ付け加へて申しますれば、渋沢養育院長は唯だ一養育院の院長として五十年間尽瘁せられたと云ふばかりでなく、実に維新直後百事未だ其緒に就かざりし五十余年前に於て、早くも既に社会事業に興味を持たれ必要を感ぜられ、挺身養育院長の職に就かれて其事業の発展に苦心せらるゝと同時に、天下未だ共鳴者なき時代に於て、将来必ずや社会事業
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の必要止む能はざるに至るべきを高唱強調せられ、以て斯業開拓の為めに不屈の努力を尽くして、遂に天下の情勢を今日の如くに導びかれたる功労は、実に我々東京市民否な日本国民、特に社会事業に若干の関係を有する我々共の永久に感謝記念せざるべからざる所なりと信じ遂に今回の此挙に及びたる次第で御座います、而して其建設の場所も子爵が半世紀間心血を注いで経営し来たられたる此養育院の構内に撰ぶと云ふことが最も適当であり、且つ子爵御自身に於ても寧ろ御満足下さることゝ信じ、斯くは此場所に建設致しましたる次第、此等の事も御参考までに御報告申上げて置きます
 偖て此銅像建設会も設立済みと相成り、子爵に更めて其話しを申上げ御諒解を願ひました処、子爵に於ては固く之れを辞退せられたのであります、蓋し子爵の意は、微々たる一養育院に関する功労などを、業々しく銅像などで表彰されると云ふことは、寧ろ赧顔の至りであるからドウか止めて頂きたいと云ふ御考であつたので、之れも普通のお座なり的辞退に非ずして、生来謙譲の徳に富まるゝ子爵の誠意誠心よりの御辞退であつたので、常設委員の方々も之れには閉口をしたのでありますが、遂に小坂常設委員長を始めとして常設委員各位の熱誠なる勧説により、漸く御承諾を得たのであります、其処で愈々事が極まつたので、本年一月下旬から向ふ二ケ月の期間を以て、醵金の勧募に着手致すことゝなりました、然かし此場合となつてからも尚ほ我々共が一思案しなければならなかつたことは、時恰も世間不景気の極であり、且つは事業進行の便宜上、発起人を市長始め市関係者のみに限ぎり予め財界其他の向へ御相談を致さなかつた関係上、果して予定資金の三万円が二ケ月間に集まるかドウかと云ふ問題でありました、募集期間を長くすれば金は確かに集まる見込であるが、然かしさうすれば自然工事も後くれ、竣工期も遅くなると云ふ勘定である、さうなれば折角除幕式と云ふ時に、或は当の子爵の御病気が万一重もられるやうになつて、御臨席が願へないと云ふ状態にならぬとも限ぎらず、若し左様な事情ともなれば、遺憾此上なき次第である、故に醵金募集の期間は延ばせぬ、若し醵金が不結果に終つたならば其時は其時の覚悟で責任を果たさう、我々は既にルビコンの河水に一足踏み入れたのである、彼岸に達せざれば已まざるべしと云ふのが、理事始め私共の決心で御座いました、然るに一度醵金募集の儀を天下に発表致しますると渋沢子爵の徳望の然からしむるところ、幸にして各方面よりの醵金も順調に集まりさうな形勢と相成りましたので御座います、其処で予じめ子爵昵近者の内意をも御尋ねして、人選致しましたる本邦彫塑界の大家にして予ねて子爵の銅像製作に経験ある小倉右一郎氏に、更めて銅像の製作及び附帯工事一切の御引受けを願ひ、三月末より工事に着手し只管工程を急ぎました結果、遂に本月二日に到りて一切の竣工を告げましたので、病後の子爵の御為めにも成るべく寒さの加はらざる内に除幕式を挙行せざるべからずと考へ、夜を日に継いで諸般の準備を整へ、玆に今十五日を卜して芽出度挙式を致し得ることゝ相成りました次第で御座います、然るに幸ひなる哉、本日は御覧の如き快晴無風の好天気の上に、気温も霜月中旬とは思はれぬ程の小春日和の暖か
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さで、之れでは病後の渋沢老子爵の御健康にも万々御障はりもあるまじく、又た多数来賓各位にも格別の御迷惑を相掛くることなしに、四方八方円満に芽出度此式を挙ぐることを得ましたのは、我々当局者の洵に欣幸と致たすところで、之れ蓋し本会理事者各位の熱心が天に通じたる為めか、将た又渋沢老子爵の積徳に神明が感応せられたる為めか兎に角天佑の然からしめたる所なりと云はざるを得ざる次第で御座います、又た各位の御手許に記念品と共に本日差上げ置きましたる、報告書中にも記るして御座います通り、銅像台石は岡山県万成産の美麗なる花崗石を用ゐましたもので、「ベース」の平面方二十尺、高さ十六尺、其上に安置せられたる子爵の銅像は椅子に倚られたる青銅坐像でありまして、高さ十尺、重量四百八十貫と云ふことで、此偉大にして万世に残こるべき立派な銅像の出来致しましたのは、一に醵金者各位御賛同の賚でありまして、発起人一同の感謝措く能はざる所であります
 以上を以て報告は尽きて居りますが、尚ほ一言玆に申加へたいことは、本日の此除幕式を挙行致しまするに当り、若槻内務大臣閣下及び平塚東京府知事閣下が特に御臨席の上祝辞を賜はることゝなつた一事でありまして、過日私が中村会長の御使番となつて、本日の此式に御臨場の上祝辞を賜はりたき旨を両閣下へ御願に及びましたるところ、大臣に於かせられましても、知事に於かせられましても、外ならぬ渋沢老子爵の銅像除幕式のことであるから、万障差繰り喜んで出席も致さう、祝辞も朗読しやうと云ふ快よき御承諾で、御蔭げを以て今日の此盛大なる除幕式に錦上更に花を添ゆるの光栄を得ましたることは、洵に此上もなき仕合はせでありまして、僭越ながら司会者と致して私よりも一言玆に感謝の誠意を表する次第で御座います、尚ほ今一つ此機会に於て御礼を申上げたいことは、新聞記者各位の御好意であります、即ち今春新聞広告其他に依りて、本会が渋沢子爵の銅像建設の為め有志の賛同を求めつゝあることを知らるゝや否や、都下各新聞の記者諸君、特に市政記者各位に於かせられましては孰れも熱烈なる賛意を表せられ、各自椽大なる筆を揮はれて銅像建設の為めに甚大なる後援を御与へ下され、為めに資金募集の上に絶大なる便宜を得ましたることは、蓋し筆舌の尽くす能はざるところでありまして、実に此一事を此席に於て御披露致し且つ御礼を申上ぐると云ふことは私の義務なりと信じましたので、之れ亦た僭越ながら玆に感謝の誠意を表する次第で御座います、以上を以て私の開会辞を終はります(拍手)
    ○渋沢養育院長銅像除幕式々辞(大正十四年十一月十五日)
             (銅像建設会長 中村是公君 〔朗読〕)
 吾人の尊敬する子爵渋沢栄一君の銅像除幕式を挙行するに当り、名誉ある多数各位の列席を忝ふしたるは余の最も光栄とするところなり
 東京市養育院長渋沢子爵が終始一貫、毎に先憂後楽を己の任とせられ、身を以て社会公共の為に尽瘁せられしは、天下周知の事実にして今更贅言を要せざるところなり、而して本院亦其の功績を称ふべき一記念物にして、子爵の慧眼なる夙に五十余年前養育院事業の緊要なるを思ひ、爾来畢生の使命として絶大なる熱誠を本院の経営に注がれ、
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以て今日の隆盛を見るに至り、鰥寡孤独にして前後救護を受けし者無慮六万を数ふ、誰か其の偉績を仰がざらむや、是れに由り世上等しく其の功、其の労、其の徳を欽仰して已まず、乃ち何を以て之を記念すべき乎は実に永年の宿題なりき、偶々昨年十二月吾等同志相図り子爵の銅像建設会を起したるに、各方面よりの賛助油然として起り、早くも本年三月工を起し、本日玆に其の竣工を告げ、寿像除幕式を挙ぐるに至れり、時恰も子爵は近く米寿の嘉齢を迎へられむとす、洵に慶賀に堪へず
 此の挙素より子爵の偉大に比すれば之を以て充分酬ひ得たりと言ふ能はずと雖も、聊か子爵の功労を敬慕し、併せて其の歯徳を後世に伝ふるの微意を表したるものと信ず、玆に謹んで子爵に敬意を表すると同時に、此の建設に多大の賛助を賜はりたる各位に満腔の感謝を捧ぐ之を式辞とす(拍手)