デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.262-267(DK300028k) ページ画像

昭和4年9月16日(1929年)

是日、東京ロータリー・クラブノ招待ニヨリ当院巣鴨分院児童並ニ井之頭学校生徒、多摩川園ニ遊ブ。栄一、同園ニ赴キ院長トシテロータリー・クラブ員ニ対シ謝辞ヲ述ベ、且ツ来園院児ニ一場ノ訓話ヲナス。


■資料

東京市養育院月報 第三三八号・第一一―一二頁 昭和四年九月 ○『ロータリー』倶楽部の好意と院児の多摩川園行(DK300028k-0001)
第30巻 p.262-263 ページ画像

東京市養育院月報  第三三八号・第一一―一二頁 昭和四年九月
○『ロータリー』倶楽部の好意と院児の多摩川園行 九月十六日巣鴨分院及び井之頭学校生徒一同は、例年の如く東京『ロータリー』倶楽部の招待に依り、府下荏原郡東調布町下沼部所在の多摩川園に秋季遠足を挙行せり、総員二百五十六名、巣鴨分院児童百四十八名・井之頭学校生徒百八名
 此日天気快晴にして絶好の遠足日和なりしかば、児童等は早朝より雀躍して出発を待つ、斯くて予て『ロータリー』倶楽部より寄贈の手拭を徽章代りに携へ、同じく寄贈のキヤラメルを懐にし、巣鴨分院児
 - 第30巻 p.263 -ページ画像 
童は之れを十六班に分ち、職員十八名附添ひ午前八時出発、又井之頭学校生徒は之れを九班に分ち職員十名附添、午前七時四十分出発、前者は大塚駅より、後者は吉祥寺駅より、孰れも省線電車にて渋谷駅にて落合ひ、此所にて臨時仕立の東京横浜電鉄の電車に乗換へ、沿道の秋色を賞しつゝ、歓喜の裡に午前九時半無事丸子多摩川駅に到着、直に多摩川園に入り倶楽部員諸氏の懇篤なる歓迎を受けて所定の場所に少憩の後ち、此処にて倶楽部員五島慶太氏より懇切鄭重なる歓迎の辞と、園内施設の大要に就き説明あり、之れに対し石崎井之頭学校主務一行を代表して謝辞を述べ、終りて共通遊戯券の配付を受け、各班毎に自由行動に移り、豆汽車・豆自動車・シープレーン・メリーゴーラウンド・ボート・大山辷べり・驢馬等に興じ、午前十時より園内演芸場コトリ座に入り活動写真の映写を観覧す、先是田中本院幹事は午前九時五十分、渋沢院長は同十時半来園せられ、休憩所に於て当日斡旋の為め来園の倶楽部員各位に、院長より『ロータリー』倶楽部の好意に対し深甚なる謝辞を述べられ、次で同倶楽部会長田原豊氏より一場の挨拶あり、終つて院長はコトリ座に於て院児に一場の訓話を試みられ夫れより『夢のお城』を背景に記念写真の撮影後退出せられ、一同は正午食堂に於て心尽しの午餐を饗応せられ、午後一時より再びコトリ座に於て喜劇を観覧し、終つて更に各班毎に分かれて自由行動に移り或は遊戯に、或はお伽館に、鉄塔に各々好める方に馳せ向ひ、興趣津々時の移るを知らざりしが、軈て帰院の時刻迫りたれば再び所定の場所に集り、早川巣鴨分院主務一同に代りて深厚なる謝意を表し、お土産の菓子を頒与せられて午後四時往路を逆に鉄路にて帰途に就き、巣鴨分院児童は午後五時、井之頭学校生徒は同五時二十分、孰れも一日の行楽を尽して喜色を満面に浮べ無事帰院したり
 因に当日児童等の為め、特に接待斡旋の労を執られたる倶楽部員及其家族の方々の芳名を挙ぐれば左の諸賢なりき(順序不同)
  持田巽氏       持田氏令夫人
  持田氏令嬢      篠原三千郎氏
  五島慶太氏      小林雅一氏
  小林氏令夫人     渋沢秀雄氏
  北島亘氏       今泉嘉一郎氏
  本庄忠治氏      本庄氏令夫人
  大島義清氏令夫人   大島氏令嬢
  近藤次繁氏      近藤氏令夫人
  近藤氏令嬢      山口喜三郎氏
  三輪善太郎氏     市原求氏
  市原氏令夫人     赤星陸治氏
  水嶼峻一郎氏     水嶼氏令嬢
  安本明治郎氏     田原豊氏
  田原氏令夫人     堀越善重郎氏
  堀越氏令夫人


東京市養育院月報 第三三九号・第一―四頁 昭和四年一〇月 ○多摩川園に於ける『ロータリー』倶楽部の院児招待に対する謝辞(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300028k-0002)
第30巻 p.263-266 ページ画像

東京市養育院月報  第三三九号・第一―四頁 昭和四年一〇月
 - 第30巻 p.264 -ページ画像 
    ○多摩川園に於ける『ロータリー』倶楽部の院児招待に対する謝辞
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
  本篇は昭和四年九月十六日養育院巣鴨分院並井之頭学校の生徒一同が東京『ロータリー』倶楽部の招待により府下東調布町所在多摩川園に遊びたる際、特に我渋沢院長が同園に出向して同倶楽部会長田原豊氏以下出席倶楽部員諸氏に対して述べられたる謝辞の大要を筆記したるものに係かり、文責一に筆者に在り(石崎生)
 東京『ロータリー』倶楽部のお方々が、夙に我が養育院事業に対し深き御理解と御同情とをお持ち下さつて、曩には巣鴨分院に『ロータリー・ホーム』を建築の上御寄附下さいました外、不絶児童の為めに種々御配慮を戴き、特にこゝ数年来は毎年同分院並に井之頭学校の生徒一同を此の多摩川園に招かれて彼等に慰安をお与へ下さいますことは、誠に辱けない極みでありまして、一度は自ら出向いて親しく皆様にお目にかゝり、篤と御礼を申述べたいと思ひながら、つい其の意を得なかつたのでありますが、今日も亦た院児一同が此処へ御招きにあづかつて居ると云ふことを過日田中幹事から承はりましたので、今日は是非共と存じまして、斯くは此処へ罷かり出で、玆に『ロータリー』倶楽部の皆様方の前に立つて其御好意に対し、謹で御礼を申上げる次第で御座います
 偖て斯く御礼を申述べましたる機会に於て、私は御迷惑かも知れませんが、皆様方に対して養育院事業の沿革に就き一言御聴きを願ひたいと存じます、今日御招きを受けまして本園に参つて居る巣鴨分院の児童と井之頭学校の生徒は合計二百五十六人であり、前者は多く孤児であり、後者は不良行為を為し、又は之れを為すの虞れある者達で御座いまして、然かも養育院には是等の外に、尚ほ二千人に近かい窮民幼児・病者・老癈者を収容致して居るので御座います、抑も養育院の創立は明治五年の事でありまして、実は当時某外国貴賓が日本に渡来せらるゝに当り、市内に多くの乞食が徘徊するは体裁宜しからず、貴賓に対して礼を欠くの虞れもあると云ふので、之れを狩り集めて約三百人の乞食を一ケ所に留置致しました、さうして車善七といふ非人頭に引渡して其世話を託することゝなり、次で本郷の加賀藩邸に移して東京府養育院と称したのであります、而して其の事業資金といふものは、幕末の頃江戸各町に積立てゝあつた七分金と称する市民の共有金を以て之れに充てたのであります、之れは寛政年中時の老中松平越中守定信、即ち白河楽翁公が江戸の町政を改革し、町費を節約して其の剰余中の七分を積立て、更に官金を下附して之れに加へ、所謂備荒貯蓄金として永久に増殖を図らしめたものであります、私の養育院に関係したのは明治七年の事でありますが、先是私は平素の持論を実行する為めに、明治六年に官を辞して野に下り第一銀行を創立して其の頭取となり、随分忙しい身ではあつたが、当時の東京府知事大久保一翁氏の懇請を容れて右共有金の取締の任に就き、次で養育院長の嘱託をも受くるに至つたのであります、而して爾来五十有余年間私は引続き院長の職に在り、微力ながら自ら此事業を手塩に掛けて育て上げ、今
 - 第30巻 p.265 -ページ画像 
日の発展を見るに至つたので、其の間幾多の曲折波瀾があつたのであります、現在では実際の仕事は幹事に一任して居るやうな訳けで、私は時々院内を見廻ることにして居るのでありますが、現幹事の田中太郎君は私の三十年来の知己であつて、同君は社会事業に関する学理実際両方面に亘り造詣深く、嘗ては私費を以て約二年間欧米の社会事業の実際を視察研究せられた位の篤学の士で、こゝ十年一日の如く養育院幹事として克く私を輔け事業の改善に尽されて居るのであります
 尚ほ序でといつては甚だ失礼ではありますが、此の機会に於て皆様に申上げたいと思ひますことは、養育院は前にも申しました如く、始めは白河楽翁公の遺徳に因る七分金にて経営せられたものでありますから、実に養育院事業は楽翁公の遺業であるといつても差支はないと思ひます、斯うした深い縁故関係からして院長たる私は深く楽翁公を徳とし、之れを記念する為めに明治四十三年以来、毎年其祥月命日たる五月十三日を卜して院内に楽翁公記念会を催ほし、毎回記念出版物を調成して、来会者其他への寄贈に充てゝ居るのであります、又私は養育院長として右の記念会を催ほすといふことは、単に今申上げた七分金関係のみではなく、実に楽翁公といふ御方は人格高邁にして、学殖・徳操・才能・識見・趣味・常識何れの方面にも卓抜したる、仁義忠孝に富める偉大なる人格者であつて、此の崇高なる偉人を回顧し其の徳を偲ぶといふことは、誠に有意義なることを私は深く信ずるからであります、又た私は楽翁公の伝記の編纂を先年来より思ひ立ち、楽翁公研究に最も造詣深き文学博士三上参次氏に其編纂方を委嘱し、目下三上博士の高弟文学博士平泉澄氏の手で折角起草中でありまして、不日完成の運びに相成つて居ります
 さて楽翁公の偉大なる人格者であつたことは前申上げた通りであるが、就中私の最も崇敬措かざるものは公の犠牲的精神の強かつた事で御座います、この犠牲的精神の強かつたことに就て私の深く感ずるのは、天明七年に水戸の治保公の首唱で尾紀水の三家申合せて、遂に田沼を排斥して公を老中の首席としたのでありましたが、この天明の初年頃と云ふものは、心ある人が或は之れ徳川幕府破滅の時期ではないかと心配した程の世の中でありまして、政治は田沼の秕政で上下悉く紊乱するし、天変地妖は相次で到つたと云ふ次第であります、夫れで三家の推挙に依つて楽翁公が老中首席となられたのが三十歳で、時の将軍家斉公は十五歳であつた、斯くの如く楽翁公は僅か三十の歳に幕府の老中首座となり、以て救世済民の大業に任ぜられたのであります而して其の職に就くや深く決する所あり、天明八年一月密かに自分の決心を自書して、本所の吉祥院に祀つてある歓喜天に心願書を捧げられました、而して其の心願書の文面は実に涙の流れるやうな、肌に粟を生ずるやうな凛乎たるものであつて、其の始めに『松平越中守儀、一命を懸け奉りて心願仕候。当年米穀融通宜しく、格別の高直無之、下々難儀不仕、安堵静諡仕、並に金穀御融通宜、御威信御仁恵下々へ行届き候様に云々』と書いてあります、さうして神が若し自分の願を聞き届けて下さらぬならば、どうぞ私を殺して戴きたい、独り私の命ばかりでなく、妻子眷族が罰を受けても、一向恨みと思ひませぬとい
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ふ事を書いて、さうして他人に秘して歓喜天に捧げられたのであります、之れを見ても楽翁公が如何に鞏固なる決心を以て政治の衝に当たられたか、実に容易ならぬ覚悟で責任の地位に立たれたと云ふことを深く感ずる次第であります、公は斯くの如き熾烈なる精神、一身を犠牲とする信念を以て頽廃せる当時の風紀を粛正し、財政の紊乱を整理し、一面又大に文武の道を奨励せられたのでありまして、近頃頻りと世間に叫ばれて居る教化運動とか申すものとは、余程覚悟の程が違がつたものと見受けられるのであります
 又楽翁公は年少の頃から文学に長ぜられ、十二歳の時に既に『自教鑑』と云ふ書物を御作りになつた、その文章なとは今日学者が見ても賞め称へるやうな文体で御座います、また所説の筋道も立つて居ります、さういふ文筆のあるお方でありましたから、総ての物事に達して居られたのであります、私は大正十五年に催ほした楽翁公記念会の時に『むら千鳥』と題する小冊子を拵へまして、これを諸方に贈呈頒布致しましたが、其冊子の中には『宇下人言』即ち公の自叙伝記や『自教鑑』や『座右の銘』や『軍の道』や『ある山里』や『両頭の蛇』などいふ公の御作を載せて置きましたが、公は当時既に『軍の道』に於て今日の鉄砲戦争の事を説き、『ある山里』に於ては外国貿易のことを論じて居られるのを見ても、実に其の卓見なるに驚かされるのであります、殊に『両頭の蛇』の如きは或る事を諷刺した文章で、恰度今日の政民両党の関係にも髣髴たるものがあるのであります、それから公が晩年の御住居なりし築地の浴恩園内千秋館の杉戸に掲げて置かれた懸板の文言、即ち『座右の銘』は表面は漢文、裏面は和文で、殊に和文は洵に私のやうな文学の素養に乏しい者でも感服をして読むほどの美文であり、卓越した思想でありますが、然かも一寸難解な書き方とも云ふべき点もあるので、其の解説を文学博士中村孝也氏にお頼みして註釈を施して貰ひ、之れを『楽亭壁書解説』と題し、本年の楽翁公記念会の為めに出版して頒布致したのであります、之れは皆様方にも差上げたいと存じまして幹事に持参致させましたから、唯今一部宛御手許へ拝呈致します、どうぞよく御覧を頂きたいのであります
 楽翁公の偉大な人格者であつたことの梗概は、以上申上げた通りで御座いますが、兎も角此の偉人の遺徳に依つて我養育院事業が創始せられたことを追想すると、転た感慨無量なものがありますので、つひ余事ながら御聞きに入れた次第であります
 私は今日の養育院収容者の中でも老癈者は暫らく措き、今日此処に参つて居りますやうな少年少女達の処遇や、退院後の方途に就きましては、夙夜之れが善処に努力を致して居りますので、是等少年達に対する貴倶楽部員各位の御芳情と云ふものは、私が特に身に泌みて辱けなく存じまするところで、玆に重ねて皆様方に対し篤き感謝の意を表し上げます



〔参考〕竜門雑誌 第四二六号・第五〇頁 大正一三年三月 ○ロータリー・クラブ創立記念祝宴(DK300028k-0003)
第30巻 p.266-267 ページ画像

竜門雑誌  第四二六号・第五〇頁 大正一三年三月
○ロータリー・クラブ創立記念祝宴 ナシヨナル・ロータリー・クラブ創立記念祝日晩餐会は、二月十八日夜東京銀行倶楽部に於て開催し
 - 第30巻 p.267 -ページ画像 
たるが、九月一日の震災当時、約十万円の義金を、世界各国のローター・クラブ員より醵金して本邦に寄附せる記憶の尚ほ新なる折柄として、今年の祝日晩餐会は例年に無き盛況を呈したる由にて、宮岡恒次郎氏の開会辞に次ぎ、米山梅吉氏は同クラブの歴史と精神とを詳述し松井外務大臣・和蘭公使・青淵先生並にウエルシユ博士の演説あり、来会者六十余名にして十時散会せりと云ふ。
 因に青淵先生の院長たる東京市養育院に対し、ロータリー・クラブより最近ロータリー館を寄付建築することゝなり居るに付、当日先生より懇切に誠意を表せられたりと云ふ。



〔参考〕東京市養育院月報 第二八〇号・第九―一〇頁 大正一三年一一月 ○「ロータリー」館建築竣工披露会(DK300028k-0004)
第30巻 p.267 ページ画像

東京市養育院月報  第二八〇号・第九―一〇頁 大正一三年一一月
○「ロータリー」館建築竣工披露会 日本銀行理事深井英五氏の会長たる東京「ロータリー」倶楽部にては、客年九月の大震火災に際し米国「ロータリー」倶楽部員より寄贈せられたる罹災救助義捐金を以て当時罹災者に対する二・三の応急的後援事業を行ひたるか、尚ほ三万七千円内外の残余を有したりしかば、之れを永久的救済施設の為めに意義に使用せんとし、会員藤原俊雄・北島亘・藤田譲・米山梅吉等諸有氏の主唱に依り、田中本院幹事と協議の上、遂に巣鴨分院構内に鉄筋コンクリート造二階建、延壱百坪の女児収容寮舎兼学校一棟を新築寄附せらるゝことゝなり、養育院長及前任市長・助役の諒解を経て、本年四月以来同分院構内運動場の一隅に工事着手中なりし処、本月二十二日無事竣工を告げたりしかば、「ロータリー」倶楽部にては同二十三日の新嘗祭日を卜して、午前十時より現場に於て工事竣工披露会を執行せらるゝことゝなりたり、而して当日は朝来曇天なりしに拘はらず、倶楽部員の参会殊の外多く、曰く北島亘・藤田譲・藤原俊雄・米山梅吉・朝吹常吉・深井英五・井坂孝・清水釘吉・宮岡恒次郎・土肥脩策・井上敬次郎・芝染太郎・長野宇平治諸氏を始め、同伴の夫人・令息・令嬢等合計約一百人に上ぼり、挙式前三越バンドの奏楽裡に孰れも三々五々新築館内を巡覧し、次で定刻には式場たる巣鴨分院大講堂に於て深井英五氏司会の下に式を開始し、初めに倶楽部員にして同時に工事請負者たる清水組店主清水釘吉氏の工事報告、次に同じく倶楽部員たる三井信託株式会社々長米山梅吉氏の建物寄附の趣旨に関する演説、次に渋沢本院長所労引籠りに付、其代理として田中本院幹事の謝辞及本院事業の内容に関する演説ありて式を終り、夫れより余興として音楽演奏並に院児の旗行列等あり、終りに倶楽部より寄附の菓子六百包を院児に頒与し、正午芽出度散会を告げたり、尚ほ倶楽部よりの寄附は前記建物のみに止まらず、必要なる備品・什器・学用具等一式を添へられ、其好意一方ならざるより、本院にても該建物を「ロータリー・ホーム」と命名して、永久に同倶楽部の好意を記念することゝなしたり、又た右建物は不日正式の寄附手続を経て、本院の所有に帰属せしむる筈なり