デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.267-365(DK300029k) ページ画像

昭和6年11月11日(1931年)

是日、当院院長タリシ栄一歿ス。仍テ当院本院及
 - 第30巻 p.268 -ページ画像 
ビ各分院・学校ハ同月十六日追悼会ヲ催シ、東京市養育院月報第三百六十四号ヲ、故渋沢養育院長追悼号トス。


■資料

東京市養育院月報 第三六四号・第五九頁 昭和六年一一月 ○故渋沢院長追悼会(DK300029k-0001)
第30巻 p.268 ページ画像

東京市養育院月報  第三六四号・第五九頁 昭和六年一一月
○故渋沢院長追悼会 十一月十六日本院及各分院・学校に於て、夫れ夫れ故渋沢院長追悼会を挙行
 △本院及板橋分院 本院にては当日講堂に祭壇を設け、今や悲しくも渋沢院長の今世に於ける最後の写真となりたる本年九月十七日本院が撮影したる写真を飾り、午後一時より収容者一同を参集せしめ、早川監護課長の開会辞に次ぎ、田中幹事より故院長を偲びて声涙共に下る追悼辞あり、斯くて焼香に移り、田中幹事・早川監護課長・各病室及普通収容室の収容者総代等、夫れ夫れ焼香を為し、哀愁の裡に午後三時閉会したり、尚ほ当日収容者一同には打菓子一包宛を給与せり
 又た板橋分院に於ても本院同様午後一時より追悼会を挙行、若林主務故院長追悼の辞を述べ、各自焼香を終りて同二時閉会、収容者一同に打菓子一包宛を給与したり
 △巣鴨分院 午前十時職員並児童一同講堂に参集の上、二井主務追悼会挙行の次第を述べ、次で当日特に出向せられたる田中幹事は、時余に亘りて追悼の辞を述べらるれば、満堂唯だ粛然として声なし、斯くて田中幹事・二井主務以下、職員・児童総代等引続きて焼香を為して正午閉会、児童一同に打菓子一包宛を給与せり
 △安房分院 午前九時半職員並児童一同講堂に参集、祭壇に飾りたる故院長の写真を礼拝し、次て宮下主務追悼辞を述べて焼香に移り、同主務を初め職員児童総代等順次焼香を行ひて閉会、児童一同に打菓子一包宛を給与したり
 △井之頭学校 講堂正面に故院長最近の写真を掲げて菊花を供へ、午前十時職員並生徒一同参集、大西主務謹で追悼の辞を述べたる後、一同焼香を行ひ、同十一時二十分閉会、生徒一同に饅頭一包宛を給与せり


東京市養育院月報 第三六四号・目次 昭和六年一一月 第参百六拾四号目次(DK300029k-0002)
第30巻 p.268-270 ページ画像

東京市養育院月報  第三六四号・目次 昭和六年一一月
  第参百六拾四号目次
    口絵写真版
○渋沢院長最後の写真と其絶筆
○微笑せらるゝ最後の渋沢院長
○薨去の当日故院長の銅像に捧げられたる追悼の花環
○藪入に集ひたる巣鴨分院々外委託生及出身者と渋沢院長
○今は昔七年前の渋沢院長
○最後に安房分院へ赴かれたる渋沢院長
    弔辞
○東京市弔詞
○養育院職員弔辞
    故渋沢院長を偲ぶ
 - 第30巻 p.269 -ページ画像 
○今は世になき渋沢老院長を偲びて
                養育院幹事 田中太郎
○渋沢養育院長の薨去を悼む
              東京市文書課長
                      川口寛三氏
             元養育院監護課長
○「そりやアいかんヨ」
              東京市統計課長
                      村山正脩氏
             元養育院監護課長
○思ひ出のまゝ
              養育院経理課長 石崎菊次郎
○想ひ出多き十三日
              養育院医務課長 碓居竜太
○故渋沢院長を偲びて
              養育院監護課長 早川秋一
○我が生徒等が慈父と仰ぎ慕ふ渋沢院長
           養育院井之頭学校主務 大西孝美
○故院長を偲びて
            養育院巣鴨分院主務 二井敬三
○一粒の飯
            養育院板橋分院主務 若林金次郎
○噫渋沢院長
            養育院安房分院主務 宮下恒
○噫渋沢院長薨去せらる
                 編輯主任 鮎川利武
○優渥なる皇恩病中の老院長を感泣せしむ
                  編輯員 堀文次

○渋沢青淵翁を悼む
            東京日々新聞社々賓 徳富蘇峰氏
○一世の儀表たる人
            内閣総理大臣 男爵 若槻礼次郎氏談
○東京市の大恩人
                 東京市長 永田秀次郎氏談

故渋沢院長に対する東京市会の弔詞と功労金贈呈
    病中より薨去に至る消息
病中の新聞記事=院の御見舞と弔意=院生の追悼文(三十篇)=巨人の死を悼む諸新聞の社説と諸名士談
    収容者統計
○創立以来の収容者異動
○昭和六年十月中収容者増減(一、種別 二、場所別)
○昭和六年十月中入院者の入院時健康
○昭和六年十月中入院者の入院時年齢
○昭和六年十月中収容者就業人員増減
○昭和六年十月中就学児童増減(巣鴨分院・安房分院・井之頭学校)
    雑報
 - 第30巻 p.270 -ページ画像 
養育院職員異動=渋沢養育院長の薨去=院長事務取扱の任命=例月法要=臨時出納検査=津下医員学位を受く=西村看護婦長表彰せらる=養育院婦人慈善会の寄附=巴里大学教授カピタン博士夫人の本院視察=穂積男爵の本院視察=参観者=巣鴨分院だより=安房分院だより=井之頭学校だより=特志寄附=昭和六年十月中金品寄附報告=昭和六年十月中寄贈図書


東京市養育院月報 第三六四号・第一―二頁 昭和六年一一月 ○東京市弔辞(DK300029k-0003)
第30巻 p.270 ページ画像

東京市養育院月報  第三六四号・第一―二頁 昭和六年一一月
弔辞
    ○東京市弔詞
 昭和六年十一月十一日、東京市養育院長参与正二位勲一等子爵渋沢栄一君薨去せらる、洵に哀悼の情に堪へず、君は高潔なる人格を以て円満なる道徳を躬行実践して一世を嚮導し、高遠博大なる識見を以て夙に眼を経済産業の重きに注ぎ、鋭意力を其の進歩発展に致し、克く本邦実業界今日の盛あるを得せしめ、常に邦家の隆昌と国民の福祉とを念として社会公共に関する万般の事に尽瘁し、殊に帝都の自治政に於ては明治初年東京会議所の事務に参与せられて以来、都政の振興発達に努力し、意を市内窮民の救助に注ぎ、自ら養育院の事業を主宰し其の本市移管後も引続き院長の職に在りて、前後五十有余年献身的に其の経営に任じ、同院の基礎愈固く設備益整ひ、本市社会事業の枢軸たるに至れるもの一に君の熱誠に因らずんばあらず、其の市民の休戚を思ふこと厚く、久しきに亘りて陰に陽に市政の円満なる進展に寄与せられたる功労甚だ大なりとす、今や復興帝都の施設経営多端を極むるの時に当り、市民は斉しく君の徳風を欽慕し長寿の無疆を祈りて止まざりしに、忽ち訃音に接し再び君の温容に見ゆる能はず、追慕切にして哀惜極りなし、玆に市会の議決を経、謹て弔詞を呈す
  昭和六年十一月十五日     東京市長 永田秀次郎


東京市養育院月報 第三六四号・第一―二頁 昭和六年一一月 ○養育院職員弔辞(DK300029k-0004)
第30巻 p.270-271 ページ画像

    ○養育院職員弔辞
 維時昭和六年十一月十一日、東京市養育院幹事田中太郎、同院職員一同に代り、謹みて故養育院長正二位勲一等子爵渋沢栄一閣下の霊に白す
 閣下の生前国家社会に貢献せられたる偉績は呶々を要せざる所、就中明治七年以来連綿として我東京市養育院の院長となり年を閲みすること前後実に五十有八年、此の間終始一貫事業の経営に尽瘁せられ、屡々私財を投じ或は有志の間に奔走斡旋せられ、以て院資の増殖を図かると共に施設の改善振作に努められ、斯くて養育院今日の基礎を築かれたる其功実に偉なりと謂はざるを得ず、今や閣下多年の丹誠其美果を結び、事業の施設は板橋本院の外に巣鴨・安房・板橋の三分院並に井之頭学校を包擁して本邦社会事業の白眉たるに至れり、而して創設以来収容救助せられたる無告の窮民孤児の総数七万有余に上ぼり、現に収容中のもの二千四百名を算す、社会福祉と弱者保護とに貢献するところ豈に大なりと謂はざるを得んや、又閣下の平素余等職員を指導せらるゝ常に慈父の如き温情を以てせられ、而して此の温情は延い
 - 第30巻 p.271 -ページ画像 
て収容者処遇の上に大なる力を及ぼしたり、然るに頃者偶々二豎の冒すところとなり療養人事を尽くされたりと雖も、其効なく今や溘焉として薨去せらる、嗚呼哀しい哉、冀くは在天の英霊永く本院の上に留まり、我等をして其前途を謬らしめざると共に、更に将来の事業進展に力を垂れさせ給はんことを


東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○今は亡き渋沢老院長を偲びて(DK300029k-0005)
第30巻 p.271-276 ページ画像

東京市養育院月報  第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月
  故渋沢院長を偲ぶ
    ○今は世に亡き渋沢老院長を偲びて
                 養育院幹事 田中太郎
○上略
  (四) 養育院を思ひ通ほされた老子爵
 渋沢老子爵と養育院の関係に就ては、私は去る昭和四年の一月号から五ケ月に亘つて本誌養育院月報に『渋沢青淵先生と養育院事業』と題して詳細記述して置いたから、読者の多くは既に御承知下ださつて居ることゝ思ふ、然かし其れは養育院長としての故子爵が公的に如何に養育院の為めに尽くされたかを記述紹介したるに過ぎないので、其の外一個人として即ち一個の渋沢栄一として如何に養育院を愛して居られたかと云ふことに就ては実に幾多の材料がある、今其若干を物語つて見やう
 養育院は明治五年の創立であり、渋沢子爵が院長となられたのは明治七年からであるから、院は創立以来今年で満五十九年、子爵が初めて院長に就任せられて玆に満五十七年、東京市営に移つてからも満四十一年十一ケ月、其間名誉職市吏員として院長を継続せられたのであるから、随分気の遠くなるやうな話である、然かし此長年月の間如何に繁忙な時でも養育院のことを念頭から去られたことはなく、毎月十三日には如何なる用事も繰合せて、御病気でない限り必ず登院せられたのである、之れは十三日が養育院の設立と緊密なる由来関係のある寛政年度の幕閣の老中松平楽翁公の御命日であるから、夫れに因むで子爵は其日を御自分の養育院出勤日と定められ、亡くなる迄で守り通ほされたのである、用があればドシドシ私を呼んで仕事を命ぜられたが然かし毎月十三日には、其前日御目にかゝつて、報告を申上げ、又は用を御命じになつたばかりで、別に新規な用がある筈のなくつても屹度出勤せられ、仮令其日が日曜だらうが祭日だらうが、又た天気の好し悪しなどにも一向介意せられなかつたのである、之れは一寸真似の出来ないことであると私はいつも思つて居た
 在院者の身の上を思ひ遣らるゝことは実に深かゝたが、特に少年少女の福祉増進に就ては全く親身になつて配慮せられて居たのである、昭和二年巣鴨分院の改築が成つて以来、同院児童の健康状態が一新し罹病者が殆となくなつたのを殊の外喜ばれ、改築計画を立てゝ建築費の遣り繰りを付けた私を非常に褒めて下さつて、或時の如きは故大倉男爵にも私の居る前で其事を吹聴せられ、私をして思はず赤面せしめられた程である、斯様に院児の事を一心に思はれて居たので、登院日の毎月十三日には屹度巣鴨分院へも廻はられて、児童に菓子を与へ、
 - 第30巻 p.272 -ページ画像 
訓話を試み、児童の健こやかな顔をながめると同時に、御自分の福々しい顔を児童に見せるのを最上の楽しみとして居られた、左様な次第であるから、院児が院長たる老子爵を慕ふことも亦た人一倍で、過般の御病中の如きは、院長の写真の前で小供達が一心に御全快の祈願を誰れ言ひ付けぬに朝夕熱心に凝らした程である、薨去後去る十六日に巣鴨分院に於て故院長の追悼会を催ほし、幹事としての私が追悼談を全生徒に話し聞かせた時などは、満堂声を忍んで泣き出だした位であつた、又た二十数年前巣鴨分院から出院して、今は市内に相当な工場を所有する某と云ふ男の如きは、平素毎年二期に行ふ同分院旧出身者の藪入会には欠かさず出席し、同じく必ず其れに臨場せらるゝ故院長の御顔を見て無上の楽しみとして居た程院長の恩を忘れぬ人であつたが、院長薨去後十一月十二日の夜飛鳥山の子爵邸まで御悼みに来たが何んとなく気後れがして門に入ることが出来ず、殆と暁天の白らむまで終夜門前の植込みに佇みて心からなる通夜をして悄然帰宅したのであるが、霊前に焼香して回向せざりしことを残こり惜しく思ひ、翌十三日の夜再び飛鳥山邸へ来たり、今度は思ひ切つて門に入り、刺を通じて私共に面会の上昨夜の顛末を述べ、且つ今宵は是非御焼香を致したいと申出た、聞く私は実に其真情に感動して、涙に咽むだのであるそこで人をして同氏を書院に案内せしめ、霊前に心ゆくばかり焼香をなさしめたのであるが、此一話の如きは如何に故院長が院の生徒達から慕はれて居たかを示めす好一例である
 大正十三年の歳の暮れ、当時の養育院常設委員会では渋沢老院長永年の功績を記念する為め、養育院の構内に有志の醵金を以て子爵の銅像を建設することを申合はせ、時の常設委員長たりし小坂梅吉氏は子爵を訪ふて其承諾を求められたが、銅像嫌ひな子爵は切に辞退して容易に其建設方を承諾されなかつたので小坂氏も手を焼き、終に論法を換へて、此銅像建設は単に過去に於ける養育院長としての御功績を記念せんとするばかりでなく、終始御念頭を離れざる養育院の構内に、子爵百年の後も永久に之れを守護せんとする子爵の魂魄の為め、定住所を御造り申上げる意味もあるのであるから、是非御承諾をと云つて切に御頼みしたところ、故老院長は莞爾として、左様な意味からならば謹で御請けをすると、玆に初めて承諾の意を表示せられたので、いつも『養育院の為め』と云ふ一語は子爵の心臓をピーンと突くものがあつたのである、今でも小坂氏は私に会ふ毎によく此話を云ひ出されて、子爵を説得したあの時は実に骨が折れたと同時に、如何に其の謙譲の徳に富めるかに感動しましたよ、と語たられるのが常である、尊き子爵の霊を宿どせるであらうところの此銅像は、死後尚ほ院を護もるが如く、在りし日の温顔を浮べて居るが、朝夕之れを望む我等の目には仰ぎ見る毎にそゞろ懐旧の涙が浮ぶのである
 市内大塚辻町に在つた養育院を今の板橋に新築移転せしむるには、百万円の借入金をしたり、其銷却の案を立てたり、工事監督に関する心配をしたり、揚句の果てが工事竣成と同時に大震災に遭遇し、大塚の旧院が大破したので、咄嗟に一千有余の収容者を僅か一日の中に板橋の新院に移送するなど、私も骨身を削づる様な苦労をしたので、老
 - 第30巻 p.273 -ページ画像 
院長も懇ろに私を犒ぎらふの御言葉があつたが、私は其の記念の為めに私と一緒に写真撮影の御許しを得たいと御願ひしたところ、快よく御承知になつて、翌十三年の三月、私と連れ立つて上野精養軒へ赴かれ、同店内の写真撮影所にて子爵と二人立ちの記念写真をとり、此写真は今尚ほ我家の客間の楣間に掲げてあるが、見れば其時の子爵は未だ驚くほど御盛んだつたし、私も若かゝつた、然かし嗚呼今は……過ぎし日を思ひ出づれば寂びしい気持ちが胸に湧く
 在りし日の老院長は毎月一回十三日に巣鴨分院に赴かれて生徒達に懇篤な訓話をなされ、随伴して行く私にも前座として生徒に何か話してやるやうにと申されることが屡々であつた、年端も行かぬ生徒等が孰れも老院長の御話を喜び聞くことは非常なもので彼等は毎月の十三日を楽しみとして居たものである、然るに同じ養育院の付属施設でも井之頭学校は遠隔の地に在るので、年にやうやく一回位しか同校へ御出向きがなく、従つて同校生徒は同じ養育院の子供でありながら巣鴨の生徒は毎月一回必ず院長さんに御目にかゝることが出来るに引代へ自分達は運のよい年でも一年僅かに一度しか御目にかゝれないと、稍や不平を呟やくやうになつて来た、私は此不平を聞いて誠に尤ものことであると考へたから、両三年前子爵に此事を御話し申したところ、老院長は大に笑はれ、この老人の顔を見たいと云ふのは殊勝なことである、それなら好い機会に自宅に呼んで一日一緒に遊むでやることにしませうと云はれ、其後飛鳥山邸の御庭に井之頭の生徒一同を招いて御自身訓話をして御聞かせになつたり御馳走をしたり、又た同校生徒より成るバンドの演奏を御聞きになつて、奨励の言葉を御与へになつたりして、生徒一同を極度に感激せしめられたることが両三回あつた又た屡々院児等に向つて、君達は徒らに親の無いことを悲しむな『自分渋沢を親と思つて心強くあれ』と申されて、彼等を感泣せしめられたことが再々である、院の少年少女等を思はるゝ老子爵の恩愛の念は実に海よりも深いものがあつたのである、斯くの如き次第であつたから、老院長の精神は知らず知らず我等職員の精神を感激に導き、昔クリストの弟子が『クリストの愛我れを励ませり』と絶叫した如く、院職員中の心ある者は孰れも『老院長の愛我れを励ませり』と胸底深く叫びの声を揚げて居たのである
○中略
 次に故子爵との最後の会見に就て述べれば、其れは本年十月十三日の午後一時頃であつた、当時既に病中の子爵は其日の午前突如田中を呼んで呉れと左右の者に命ぜられた、左右の者は面談などは御病気に障はるといけぬと思つて私に電話を掛けて、子爵があなたを呼べと仰つしやるが、どうか相当の口実であなたの方から断はつて御貰ひ申したい、と云つて来た、長年の間御病中には斯う云ふ例は時々あるのであつて、多くは私も異議なく承知するのであつたが、其日に限つて私は後とから思へば虫が知らせたとでも云ふのであるか頑として右の依頼を断はり、昼食後早々飛鳥山邸に赴き病室で子爵に拝顔したのである、御見掛け申せば御血色もよし御気分もよさゝうだし、之れが数日前腹部の苦痛に烈しく悩まされ、明日は又た塩田博士の手に依つて人
 - 第30巻 p.274 -ページ画像 
工肛門の手術を受けらるゝ御病体とはドウしても見受けられず、私が御部屋に入るのを見ると、『アヽ、来たか来たか』と云つて御待ち兼ねのやうな御様子、別に床を取つて休むで居られる訳でもなく、坐蒲団の上に端坐し左手に最近の養育院月報を持たれて、今迄で其れを読みつづけて居られたやうに見受けられた、私が子爵の前に坐はると直ちに養育院のことに就て御話しを始められ、此頃は基礎が固まつて安心だと云ふことや、目下平素二千三・四百人の収容者を引受けて、大体院の自力で経営して行けるやうになつたのは市なり国なりへの大なる御奉公で、過去五十八年来院長として苦心した自分の努力が無意義に終はらなかつたことが嬉れしいと云ふことや、収容者特に少年少女の将来の福祉に就ては今後尚ほ一層心配をして呉れるやうにと云ふことや私自身の健康を注意せよと云ふことなどをこまごまと御話しがあつて明日手術を受ければ当分会ふことも出来まいと思ふからそれで来て貰つた訳けである、之れと云ふ取り留めた用件もないのに呼び付けて気の毒でしたと、最とも行届いた御挨拶があつたが、今から思へば其時の御話は、誠にシンミリとした平素とは少し変つた調子のものであつた、然かし其時私はさうとも感ぜず、御言葉に対しては、一々相当な御返事を申上げた上、尚ほ二・三の雑談を交はして御別かれしたのである、誰れが此日の会見を子爵と私との最後の会見なりと思つたものがあるであらうか、子爵も多分左様には御思ひにならなかつたらうし私もさうは思はなかつた、然るにいづくんぞ知らん、之れが思ひがけずも最後の会見とならうとは、而して十月十四日以後即ち手術の後ちは外部の人には誰れにも御会ひになれなかつたので、其後家職の人々は、田中さん、あなたが子爵と話し合はれた最後の会見者でした、幸福なことですと云つて居たが、幸福か不幸か、あはれ思ひ惑はざるを得ないのである、尚ほ御病気が益々重もきを加へたる十一月三日の夜飛鳥山邸にて子爵の三男正雄氏に遇つた時、同氏は突如として『田中さん今日父に会ひましたか』と御尋ねになつた、私は『イヽエ、どうしてゞすか』と問ひ返したら、正雄氏は『昨日父が切りと田中を呼べ田中を呼べと言つて居ましたから、或は今日あたり父に会はれたかと思つたからです』と説明された、老院長はまだ何にか私に御申聞けになりたいことがあつたと見える、養育院のことに就て……
  (六) 老子爵の最後の写真
 私は故子爵の御写真を随分沢山持つて居るし、養育院にも沢山ある旧るいのも新らしいのも……然るに何んと考へたか、本年の九月十五日飛鳥山邸に故院長を訪問して、事務に関する諸般の報告を申上げた序でに、近日中に御写真を一つ写つさせて頂きたいと云ふことを申出た、すると子爵は直ちに御承諾になつて、何時でも都合次第に写真師をよこせと仰つしやつた、私は翌日直ぐにと思つたが翌十六日は雨天であつたから見合はせ、翌十七日の午後に写真師をつれて参上すると云ふことを電話で御知らせして置いた、偖て十七日は晴天であつた、私は多年子爵の撮影をして子爵とは御馴染となつて居る上野広小路の横内写真館の主人を連れて午後一時半頃飛鳥山邸に赴き、私だけは客室で暫時子爵と御話しを申上げて居ながら、不図見ると子爵の御顔が
 - 第30巻 p.275 -ページ画像 
非常に綺麗になつて居る、御病中のことゝて前々日御目にかゝつた時のひげだらけであつた御顔とは別人のやうになつて居る、それで私は其事を申上げると、君が写真をとりに来ると云ふから今朝当たらせたのだよ、と仰せられ至極の御機嫌である、然かし着物を拝見すると縞の羽織を着けて居られる、そこで私は無遠慮とは思ひながらどうぞ紋付羽織を召して頂きたいと申したところ、成る程と仰つしやつて奥の間に行かれ服装を改めて出て来られたのを見ると、単に羽織を紋付に変へられたばかりでなく、袴をも着け、其上提げ時計まで帯に巻かれ所謂正装姿で出て来られて『之れでよいかね』と仰つしやつた、良いどころではない良すぎる位である、一体老子爵は、色の白い血色の良い、男として綺麗すぎる方であるから、其日の正装姿は実に立派であつた、そこで直ぐにレンズの前に御直ほりを願ひ、横内写真師が腕に撚りをかけて謹写したのが即ち本月号の本誌巻頭に在る写真で、内微笑の一枚は横内君が御心易すだてに子爵に御笑ひを願ひ、子爵が『可笑しくもない時に笑へと云つてもうまく笑へないよ』と仰つしやりながらニコリと微笑されたのを、横内がパチリとやつたものである
 又た同時に私は記念の為めに私と一緒に御写しを願ひたいとおねだり申したところ、『丁度よい序でだから一緒に写つさうよ』と云はれて一緒に写して下さつた、之れが十月号の本誌巻頭に掲げた『渋沢院長と田中幹事』と題するあの写真である、是等の写真が一ケ月余りの後ちには、悲しくも最後の記念となつて残こらうとは誰れが想像したらうか、十一月二十二日故子爵の御孫に当たる男爵穂積重遠氏が渋沢一門を代表して私方へ挨拶に来られた時『あなたの写して呉れられた祖父の写真が、意外にも真に好箇の最後的記念となつたのは誠にありがたい』と云はれた位で、私自身としてもよくもあの時に撮影を御願ひして置いたものだと、子爵の最後の御写真が私の手で出来たのを心私かに深く喜んで居る、之れも虫が知らせたのか、嬉しいやうで悲しくもあり、悲しいやうで嬉しくもある
  (七) 老子爵の最後の揮毫
渋沢老子爵の揮毫を所持して居る者は、世間に可なりあることゝ思ふが、私も四・五枚書いて頂いたのを持つて居る、子爵に御揮毫を煩はした人は必ずしも珍らしくはないが、子爵の薨去直前に於ける真に最後の御揮毫を持つて居る者は私一人である、左右の人々は随分沢山書いて頂いたさうであるが、然かし何の幸か最後の御揮毫は私の手に留まつた、それは次の様な事情からである
 前項にも申した通り私は九月十七日に飛鳥山邸の洋館で最後の写真を取らして頂いたが……アヽ前項に言ひ漏らしたことがある、其れは写真を撮影した場所のことであるが、場所は洋館のヴエランダであつた、さうしてそれから一と月足らず、秋風そよぐ十月十四日の午前十時平然と手術台に乗つて手術を受けられたのが矢張り此の同じヴエランダである、之れも不思議な因縁のやうに思はれてならぬ……其後私は其写真を御手許に呈する為めに御訪ねし、呈すると同時に別に一枚を取り出だして老子爵に御署名を願つたところ、直ちに御承諾になつて其写真を手にして別室へ御這入りになつた、私は一人静かに客間に
 - 第30巻 p.276 -ページ画像 
待つて居た、それは十月三日の午後のことである、麗らかに晴れた秋の日の光は斜めに洋館の窓より卓上に差入り、聞ゆるものは風もなきに散る梧葉の音と植込みの梢に鳴く百舌のさへずりのみであつた、余りの閑寂に私は少時黙想に耽けつて居ると忽ち廊下に軽き跫音が聞こへ、侍女の随伴もなく子爵は一人で客間に戻つて来られ、先刻私より差出した写真を私の手に渡たされて、『之れでよからう』と仰せられた頂いて一見するとそれは私の願つた以上に多くの文字が記るされてあつた、私は単に御署名だけで満足の積もりであつたが、見ると四ツ切りの写真の左方余白に、『昭和六年十月 渋沢栄一』の十字、右側の余白に、『田中詞兄 恵存』の六字が孰れも方六分大の文字で御揮毫になつて居た、私は謹で御礼を申上げ、尚ほ十月一日私が老院長の代理として安房分院に赴きて挙行したる大震災犠牲者追悼碑除幕式の盛況を御報告申上げ、夫れから昭和三年以来長らく例の市疑獄事件関係の寃罪で難儀をして居られた元養育院常設委員長小坂梅吉氏が、九月三十日無罪の公判言渡しを受け、真に青天白日の身となられたことを御話し申上げたところ、除幕式の件に就ては健康上自身房州へ出向かれ能はざりしことを遺憾に思ふ旨を申され、小坂氏の件に就ては其の青天白日の身となられたことを深く喜こばれ、其旨同氏へ伝へて貰ひたいと申されたが、同時に『小坂さんも飛んだ無実の罪で大迷惑を受けられた段は如何にも御気の毒だが、然かしながら裏ら表て引つくり返へして叩かれても塵一つ出なかつたと云ふのは、安くない受験料は払はせられたが試験は美事に通過したやうなもので、言はゞ永き将来の為め同君の人物に折紙が付いたと云ふものであるから、一時の禍が変じて永久の幸福となつたものだ、自分は小坂さんに御同情は申すが、其れよりも寧ろ同君の好運を祝したい気分がする……』と仰せられた、私は此の含蓄ある御言葉に聞き惚れて少時ポカンと子爵の御顔を見て居たが、不図気がつき『御年は召されても鋭どい良い頭だナア』と失礼ながら感じ入つた、ホントに失礼ながらである
 斯くて斯様な会話に時を移してから急いで御いとまを告げ、御署名を願つた写真を大事に抱へて帰つて来た、然かし此時写真に書いて頂いた御揮毫が老子爵最後の絶筆とならうとは夢にも思ひ知らなかつたのである、さあれ子爵は実際其時以後細字にも大字にも絶対に筆を執られなかつた、さうして斯う云ふ筋道で老子爵最後の御揮毫はゆくりなくも私の手に落ちたのである、今ま此稿を草して居る自分の居間の楣間より、右の御写真は朗らかに私を見下ろして居る、病床にて『田中を呼べ』と仰つしやつた其口は私に向つてまだ何かを申されたげに……嗚呼なつかしの我老子爵よ、我老院長よ、無憂の国への遥るけき其の旅路、希はくは一路平安なれ、アデウ!


東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○渋沢養育院長の薨去を悼む(DK300029k-0006)
第30巻 p.276-278 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○『そりやァいかんョ』(DK300029k-0007)
第30巻 p.278-279 ページ画像

    ○『そりやァいかんョ』
              東京市統計課長
                       村山正脩氏
              元養育院監護課長
 満目これ荒涼たる焼野原、燻つて蜒蜿と繋がつている街路、電車も無い、荷馬車と、トラツクが巾を利かして横行している彼の関東大震火災直後の一日であつた
 其日の全権大使たる私を乗せたガタガタフオードが驀地に丸ノ内で焼け残つた郵船ビルを目指して駛つてゐたのでした
 余燼未だ尽きぬ東京は上を下への大騒ぎの真最中で東京を救へ、横浜を助けよ、と日本全国の津々浦々は勿論諸外国よりの見舞救済に忙殺されて居た時で、帝都の秩序回復罹災者への義捐救助を目的として主なる官民の有志を以て組織された震災善後会が此の郵船ビル内に俄に店開きをして、御多分に洩れず我が渋沢子爵が其会の指揮を采つて居られた、其事務所に子爵をお訪ねしたのであつた
 其日の御使者の役目は外でも無い
 当時養育院幹部達の頭痛の種の一つは、安房分院が震源地に近かつた為めに家屋は大部分丸潰れとなり、十余名の圧死者を出した計りか其日の衣食住にも事を欠き昼夜をわかぬ余震に怯え切つてゐる百数十名の収容児童を、如何にしたら安全に保護救助する事が出来るかと言ふ事であつた
 辻町旧本院のテント張りの本部内で幹部連集つて、あゝでも無い、かうでも無いと色々文珠の智慧を絞つた挙句の名案が、当時海軍省で罹災民の避難救助の為め応急手段として駆逐艦や水雷艇を以て安全地帯迄輸送して呉れると言ふ事であつたので、これこそ渡りに舟で、左様な事が出来れば分院児童の輸送にこんな有り難い安全な安心のゆく方法は無いから、それを一つ子爵の御口添へに寄つて海軍省に便宜を計つて貰ふ様に御願ひして見様では無いかと評議一決したのであつた
 待つ事暫くして通された部屋には徳川家達公、其傍に渋沢子爵を初め二・三の御歴々が何れも震災の善後措置に悩んで憂色に包まれた悲痛な面持で居並ばれていた
 私は子爵の前に進み出て早速に
 『実は本日至急お伺ひ致しましたのは、予々御心配を頂いて居りま
 - 第30巻 p.279 -ページ画像 
す安房分院児童の救助の件で御座ゐますが、交通機関も汽車は無し汽船も止まり連絡の取り様も御座ゐません、就てはこれを巣鴨分院の方へ一時連れて参り度いと考えますが目下仄かに伝へ聞いて居ります処に依りますると罹災民避難の為めならば海軍省で水雷艇を特派して頂けますさうで、若しそれが叶ひますならば之に越した安全な安心の行く方法は無いと考へます、どうか子爵の御口添へを願ひまして私が海軍省へこれから参つて懇請して参り度う御座ゐます』と内心名案だと信じて居りますからお褒めにあづかるかと思つて阿容ず憶せず滔々とやつたのでした
 すると子爵は暫く横を向いて考へて居られました様ですが、徐ろに口を開かれて第一に
 『そりやアいかんヨ』と来ました
 次に
 『今は大きく言へば国の上下を挙げて秩序の回復、安寧の維持、罹災応急の救済措置に就いて力を注いでゐる時である、海軍は海軍として手に余る程のお仕事が有る、高が安房分院児童百数十名を東京へ連れて来るのに態々お国の海軍のお手数を煩はす必要はあるまい、安房分院にも主務が居るぢやらう、主務に言付けて船形で二・三艘の漁船でも心配させ天候の具合を見て連れて来れば善いとわしは思ふ、唯でさへ箇様な忽忙な場合、人民は成可くお上のお手を煩はさず自分で出来る事は自分で処理する様に心掛けねばならぬ』
 とすつかりお叱りを喰つてしまつて二の句が嗣げませんでした
 お立会ひが人も有らうに十六代様と来てゐますからスツカリ面目を施してしまつたぢやアありませんか
 叱られ乍ら染々嬉しいと思ひ有り難いと感じ偉いと敬服して、往きの気勢も何処へやらスゴスゴと特派大使本部へ引上げて院長の御意見を報告に及び、再び鳩首凝議の結果数日後には兎も角も安房の児童は無事に一時巣鴨分院に移送することが出来てホツトした事でした
 大震災の時の人の気分は一種特別になつてゐた様です今思ひ出しても噴飯に堪へぬ事や冷汗を覚える様な事が数々ありますが、私共も聊かあわてゝ居たのかも知れません大節に蒞んで奪ふ可からず、であの時の子爵の毅然とした態度と物の考へ方全くグウの音も出ないのです
 私は今でも何か自分が大事に臨んで考へねばならぬ際には、子爵のあの時に賜つた所謂『そりやアいかんヨ』と言ふお言葉を憶ひ浮べて大義名分を謬らぬ心掛けと致して居ります


東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○思ひ出のまま(DK300029k-0008)
第30巻 p.279-281 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○思ひ出多き十三日(DK300029k-0009)
第30巻 p.281-282 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○故渋沢院長を偲びて(DK300029k-0010)
第30巻 p.283-284 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○我が生徒等が慈父と仰ぎ慕ふ渋沢院長(DK300029k-0011)
第30巻 p.284-287 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○故院長を偲びて(DK300029k-0012)
第30巻 p.287-288 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○一粒の飯(DK300029k-0013)
第30巻 p.288-289 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○噫渋沢院長(DK300029k-0014)
第30巻 p.289-290 ページ画像

    ○噫渋沢院長
                 養育院安房分院主務 宮下恒
 吾等が敬仰する渋沢院長は九十二歳の天寿を全うして遂に薨去せられた、秋正に逝かむとする十月末、御重態の報を得て只管御恢復の期の速かならむことを神かけて祈りし効もなく……
 院長の偉大なる其生涯と、光輝ある御功績とは、現代の師表として世人の遍き欽慕の的であつた、今俄かに其薨去に会ふ、国家多難の秋惜みても尚ほ余りあることである
 我養育院安房分院は其所在が比較的遠隔の地であつた為め、親しく院長の謦咳に接するの機に恵まれることが少なかつた、其最近御来院下さつたのは昭和四年六月十六日当分院開設第二十周年記念会に臨場されたのが最後となつた、あの玲瓏玉の如き温容、春風の如き慈顔は今尚ほ私の眼底に強く強く灼き付けられて居る、其記念会の席上に於て院長は来賓各位に対し『当分院は本年を以て玆に開設満二十年を迎へたのであります、二十年の歳月は決して短かいとは申せませぬが、私と致しましては、開設当時のことを顧みまして尚ほ昨日の如く考へられるのであります、私は今後尚ほ五年も十年も当地に参つて諸君に
 - 第30巻 p.290 -ページ画像 
親しく御目にかゝり、御話もしたいと思ふのであります、兎に角当分院が此天恵豊かにして誇るべき名所旧蹟を有する船形町に所在し、然かも地元有志各位の熱心なる同情援助により、収容児童等が斯く健やかに成育致しつゝある状態を親しく見るを得ますことは、私の真に喜びとする所であります(下略)』と鄭重なる挨拶を述べられ、更に児童には『諸君は身体が弱い為め此処に保養に来て居るのであるから、先生方の云付けをよく守つて、十分身体を丈夫にし、一生懸命に勉強して、将来社会に出たならば必らず御国の為め役に立つ人となるやう心掛けねばならぬ』と、さながら慈父の如き温情を以て懇々其将来をお訓し下さつた御様子を思ひ起し、俄かに院長の薨去に直面した私は感懐更に新たなるものがある
 吾等は院長畢生の御事業であつた我養育院の将来に対し、最善の努力を致し其御遺志に悖らざらむことを誓ひ、謹で薨去を悼み奉る


東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○噫渋沢院長薨去せらる(DK300029k-0015)
第30巻 p.290-293 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第九―四五頁 昭和六年一一月 故渋沢院長を偲ぶ ○優渥なる皇恩病中の老院長を感泣せしめ更にその死後に及ぶ(DK300029k-0016)
第30巻 p.293-294 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第五一頁 昭和六年一一月 ○病中の新聞記事 うは言にまで養育院の事 躍如たる渋沢翁の面目(DK300029k-0017)
第30巻 p.294-295 ページ画像

東京市養育院月報  第三六四号・第五一頁 昭和六年一一月
 ○病中の新聞記事
    うは言にまで
      養育院の事
     躍如たる渋沢翁の面目
 渋沢翁は九十二歳の老齢で病床にあるが、重態の翁が生死の間にありながら今日まで守り育てゝ来た養育院の将来を心配し、時々譫言の中にその事を口走り側近者を感泣せしめてゐるといふ、如何にも一生を社会事業のために傾倒して来た人にふさはしい物語が伝へられた
 翁は病気の疲労のためうとうとと眠りに陥るが、間もなく『田中を呼べ田中を呼べ』と枕頭に詰めて看護してゐる人を驚かすが、またすぐ『養育院のことはよろしく頼む』とうは言のやうに口走るのである、この養育院といふのは板橋・巣鴨・房州船形等の養育院のことで、目下ここには寄るべなきあはれな人々が二千四百人も収容されてゐる
 翁はこの養育院を明治七年から五十八年間といふ長い年月を手塩にかけ、東京市へ移管されてからも全力をあげて育てゝ来たもので、翁にとつてはあらゆる社会事業の中でも思ひ出深いものである、翁のうは言に呼ばれる田中とは田中養育院幹事をさすので、翁は全くこの人に院の将来を託さうとしてゐるものである(報知新聞十一月三日)
 - 第30巻 p.295 -ページ画像 


東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○院長さんの御全快を祈る(DK300029k-0018)
第30巻 p.295 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○院長さんの御写真(DK300029k-0019)
第30巻 p.295-296 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○院長さんの訃報に接して(DK300029k-0020)
第30巻 p.296 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○院長さんの薨去(DK300029k-0021)
第30巻 p.296-297 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○院長さんの薨去を悼む(DK300029k-0022)
第30巻 p.297-298 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○噫院長さん(DK300029k-0023)
第30巻 p.298 ページ画像

    ○噫院長さん
               実補一 高田九一郎(十四歳)
 噫昭和六年十一月十一日、それは又僕等に取つて何といふ悲しい日であらう、数日来危篤の御容態を続けられて居た僕等の慈父とも仰ぐ渋沢院長さんはこの日午前一時五十分を一期として九十二歳の御生涯を終られたのである、今一度あの御懐しい院長さんを我等の講堂に御迎へ出来るやうにと、朝に夕に御写真を前にして唯だ一すぢに祈つた僕等の心からの唯一つの願ひも、神様はつひに容れては下さらなかつたのだ、先生の御話によると院長さんは明治五年に我が養育院が創設されるとまもなく院長として、あの御忙しい御身体にも拘はらず何かと養育院の為に御心配下され、晩年には御自分の御関係なされて居られるすべての会社や銀行から身を退かれる際にも、唯だ一つ我養育院長としての職にだけは留つて居られたのだといふことである、噫さうして御臨終の間際までも僕等のことを御心にかけて居て下さつたのだあの慈愛に満ちた聖者のやうな院長さんの温容をもう永久に仰ぐことができないのだ、ぢつと目を閉ぢると院長さんの御生前に我分院に御出で下さつた時の思ひ出が走馬灯のやうに頭に浮んで来る、ニコニコされながら幼稚園の生徒に御話しかけなされる時の御様子、講堂の御話がすんで御帰りになる時先生方や保姆さん方に叮嚀に御挨拶なされる時の御様子などがアリアリと頭に浮んで来る、去る六月十三日には御病気の御身体を押して御出でになられたが、丁度その日が最後のおとづれとなつたのであつた、その日はいつも来られた時よりも一そうニコニコして僕等にこれから後、世の中に出て働くについての為になる御訓話をなされた、あれが最後の御言葉であつたかと思ふと何だか胸のそこからこみあげてくる悲しみをおさへることが出来ない、噫僕等の慈父と慕ふ院長さんはもう幽明境を異にされたのだ、しかしあのニコニコした院長さんの面影は僕等の胸裏に深く深く刻み込まれてゐる、僕等の頭からは恐らく一生涯院長さんの御姿は消えぬであらう、院長さんはなくなられた、しかし院長さんは僕等の胸裏に生きて居られていつも僕等をお守り下さるのだ、僕はこの事を常に念頭に置いてこれからも一心に学業を励み他日立派な人となつて院長さんの御恩の万分の一でも御報ひしなければならぬと堅く決心してゐる

東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○我等の悲み(DK300029k-0024)
第30巻 p.298-299 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○亡くなられた院長さん(DK300029k-0025)
第30巻 p.299 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○私たちの悲み(DK300029k-0026)
第30巻 p.299-300 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○悲しきお別れ(DK300029k-0027)
第30巻 p.301 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○ゐんちやうさん(DK300029k-0028)
第30巻 p.301 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △巣鴨分院生徒の作文 ○なくなられたゐんちやうさん(DK300029k-0029)
第30巻 p.301 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○僕等の院長さん(DK300029k-0030)
第30巻 p.301-302 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○院長さんの御病気を悲む(DK300029k-0031)
第30巻 p.302 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○院長さんの御病気(DK300029k-0032)
第30巻 p.302 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○院長さんの御全快を祈る(DK300029k-0033)
第30巻 p.302 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○噫私共の院長さん(DK300029k-0034)
第30巻 p.302 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○院長さんの薨去を悼む(DK300029k-0035)
第30巻 p.302-303 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○僕等の院長さん(DK300029k-0036)
第30巻 p.303 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○薨去された院長さん(DK300029k-0037)
第30巻 p.303 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △安房分院生徒の作文 ○ああ院長さん(DK300029k-0038)
第30巻 p.303-304 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんの御病気を見舞ひて(DK300029k-0039)
第30巻 p.304-305 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんの御病気の報に接して(DK300029k-0040)
第30巻 p.305 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんの御病気(DK300029k-0041)
第30巻 p.305-306 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんの御病気(DK300029k-0042)
第30巻 p.306 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○慈父と仰ぐ院長さんの薨去を悼む(DK300029k-0043)
第30巻 p.306 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんの薨去をいたむ(DK300029k-0044)
第30巻 p.306-307 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんの薨去を悼む(DK300029k-0045)
第30巻 p.307 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんを偲び奉る(DK300029k-0046)
第30巻 p.308 ページ画像

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東京市養育院月報 第三六四号・第六〇―七二頁 昭和六年一一月 ○院生の追悼文 △井之頭学校生徒の作文 ○院長さんを憶ふ(DK300029k-0047)
第30巻 p.308-309 ページ画像

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中外商業新報 第一六四四二号 昭和六年一一月一一日 余暇を養育事業に捧げ「仁の道」を実践 多忙な身を毎月養育院訪問(DK300029k-0048)
第30巻 p.309 ページ画像

中外商業新報  第一六四四二号 昭和六年一一月一一日
    余暇を養育事業に捧げ「仁の道」を実践
      多忙な身を毎月養育院訪問
 大往生を遂げた渋沢子爵は市立養育院の殆んど創立以来の院長だつた、養育院は明治五年十月、外国貴賓が続々来朝するのに、帝都に浮浪乞食の群が横行してゐるのは体面上よろしくないといふので、府が一時収容したが、貴賓が退京したからとて直ちに解放するのはどうかと論じられたので、永続的なものとしたので、明治七年渋沢子は院長の職につき、同十六年府会で廃止が決定されたときには、子は同志をつのつて私営で事業を継承することになり、それが廿三年東京に市制が布かれると市営となつたのだが、子は引続いて
 現在までその職につき、市参与として六十年間この職を天職として全うして来たのであつた、病床につくまでは欠かさず毎月十三日に院を訪ねてゐたが、これは丁度この日が養育院事業の先駆者だといはれている松平楽翁公の命日に当つてゐたからで、きまつて大勢の子供達に手土産をふるまひ、頭を撫でゝよい子になるやう言ひきかせるところがあつた、子が財界の仕事に忙しく、寸暇もない身でありながら、この事業に全身全霊を捧げて居たのは子が
 寸時も忘れなかつた論語にいふ、人の道・仁の道を実践しようとしてゐたと見るべきで、子供達に聞かせるやさしいお話にも、きまつて論語を平易にくだいて噛んでふくめるやうに教へたものであつた


社会事業 第一五巻第九号・第一二―一五頁 昭和六年一一月一五日 故渋沢老子爵の追憶(東京市養育院幹事田中太郎)(DK300029k-0049)
第30巻 p.309-312 ページ画像

社会事業  第一五巻第九号・第一二―一五頁 昭和六年一一月一五日
    故渋沢老子爵の追憶 (東京市養育院幹事 田中太郎)
 過日中央社会事業協会から「東京市養育院長としての渋沢子爵」と云ふ題で私に短文を書いて寄稿せよと云ふ御命令があつた。私は其れに就いては既に書いたものを持つて居る。然かしそれを短かく縮めると云ふことはナカナカ容易でない、さればと申して全然寄稿方を御断はり申すのも穏かでない、又た四・五十頁にもなるものを本誌に載せて呉れとも言へない、そこで其代はりとして本題を撰びて短かきものを寄せ、一は以て本会の御要求に応じ、一は以て故老子爵を偲ぶのよすがとする。
 故島田三郎氏の話に、日本でエライ演説家が二人ある。一人は大隈さんで、一人は渋沢さんだと、大隈侯のことはよく知らないが、渋沢子爵はたしかに演説が御上手であつた。用談や坐談は別勘定として私は渋沢老子爵の演説を聴聞したことは、其知遇を辱けなうする過去三十余年間に於て、少なくとも二百回以上に上ぼつて居る。然かし何時御聴き申しても失礼ながら『うまいナア』と云ふ感を禁ずることが出来ない。勿論其論旨には全然賛成の意を表し難い場合もないではないが、演説其のものに就ては何時も引き込まれるやうな心地を以て傾聴
 - 第30巻 p.310 -ページ画像 
するのである。所謂聞き惚れると云ふことは之れであらう。用語の洗錬せられたる点、口調の謙遜なる点、態度の温雅にして悠揚迫まらざる点、音声の抑揚宜しきに適ひたる点等は知らず知らずの裡に聴者をして恍たり惚たり、惚たり恍たらしむるの妙味を有するのである。如何なる名論卓説と雖ども蕪雑生硬なる用語、物識り振つたる高慢チキな口調、焦燥逼迫の感あるアパスパせる態度、犬の遠吠え若くは鋸の目立ての如き蛮音、奇声を以ての演説ならば、何人も之れを傾聴することが出来ないのであるが、然かし是等の点に於て渋沢子爵は誠に饒かなる天分を所有せらるゝのであつて、一度其演説を聴く者は、仮令反対論者と雖も、其の用語、其の口調、其の態度及び其の程よき熱心の現はれ等に引着けられて、覚えず最後の結論まで苦もなく傾聴させられて仕舞ふことになる。余自身の如きも屡々此経験を有し、従つて子爵の演説を聴聞する毎に
  渡水復渡水  看花還看花
  春風江上路  不覚到君家
 と云ふ高青邱の古詩を常に想ひ起こす程である。故に之れを形の上から論ずれば渋沢子爵の演説と云ふものは引着力と説得同化力とに富める演説即ち「アツトラクチブ」にして且つ「ポルシユエシブ」なる演説であると云ふことが出来る。然かし唯だ之れのみではない、子爵の演説は同時に又、聴者を愉快ならしむるところの所謂「チヤーミング」なる演説であり、又た聴者をして或種の教訓を得せしむるところの「インストラクチブ」なる演説であり、又た屡々聴者の心に深き印象感銘を与ふるところの「イムプレツシブ」なる演説である。而して是等の特長は一・二回子爵の演説を聴聞したるものゝ皆等しく認識し且つ驚嘆する所であつて、蓋し之れ子爵自身の人格・修養・学殖等の自然的流露に外ならないのであるが、然かし又玆に見逃がすべからざることは子爵は多くの場合に於て其の演説中に時処位に適したる巧妙至極の譬喩例証を挿入せらるゝことである。巧妙にして場合に適したる譬喩例証を自由に引用するなどと云ふことは多読にして記憶の確実なる人でなければ出来ない芸であるが、子爵は其資格を充分に具備して居られたのである、而して子爵の演説が「チヤーミング」なる所以も、「イムプレツシブ」なる所以も実に玆に存して居るので、仮令如何に理路整然たる演説と雖も頭から尻尾まで一本調子に説明や議論一点張りで述べ立てゝは、決して聴者を引き着けるとか、共鳴せしむるとか、印象を深からしむるとか云ふことは出来ない。即ち斯かる種類の演説と云ふものは演者の努力に引換へて効果の点からは甚だ心細いものであると云はねばならぬ。然し子爵の演説は前にも言つた通り其の引用せらるゝ例証若くは譬喩が誠に適切であり、鮮ざやかであるが為め、効果の点に於ても非常な強よ味が加はり、印象も亦従つて深くなるのである。今其の一例を挙ぐれば大正十四年十一月十五日養育院内に建設せられたる子爵の銅像除幕式を挙行したる際、式後会食の席に於て試みられたる演説が即ち其れであつたのである。当日は誠に除幕式日和とも云ふべき温暖快晴一点の申分なき上天気であり、来賓雲集の大盛会であり、故中村市長の式辞、当時の若槻内務大臣及平塚東京
 - 第30巻 p.311 -ページ画像 
府知事の祝辞、小坂養育院常設委員長の演説等、何づれ劣らぬ懇切熱誠を極はめたるものであつたから、子爵自身に於ても深く満足せられ感激せられたるものと見え、式場に於ける謝辞としての演説も誠にシンミリと委曲を尽した御話で、来賓一同を深く傾聴せしめたのであるが、然かし式後院内大講堂を臨時食堂に充てゝ開きたる祝賀午餐会の席上に於て更に述べられたる感謝の辞に至りては、其引例の高尚なる点、当意即妙なる点、及び場合にシツクリ当て箝まりて生々溌剌の勢を以て聴者に心地よき刺戟を与へたる点等に於て、異常且つ深刻なる感銘を三百有余名の来賓一同に与へたのである。即ち子爵は右の食卓演説の際先づ『多数の知人各位及び養育院事業の同情者が協力せられて養育院長としての五十余年間の勤労を御記念下さる為めに、自分の銅像を建設して下さつたのは誠に身に余まる光栄と深く感謝するのであるが、然しながら自分の些さかなる功労が、果して此偉大なる銅像に値するや否やと云ふことを考へると、心中甚だ安からざるの感がある』と、誠に謙遜なる態度と慇懃なる言辞とを以て自己の衷情を述べられたる後ち、遽然一転して蘇東坡の「喜雨亭記」を引例せられ『偖て自分の衷情は右の如くであるが、玆に端なくも想ひ起こしたるは蘇東坡の喜雨亭の記である。東坡が曾て地方官を勤めて居た時、一と歳其の地方が旱魃で作物は枯死せんとするの状態となり、農民は狂気の如く雨乞ひの祈願に日を重ねたが、其の願ひが天に通じたものと見え一日沛然として大雨到り、其後も引続き数日に亘りて降雨があつたので、作物は此慈雨の為めに蘇生の色を現はし、農民亦た万死に一生を得たるが如き喜びに狂ひ、如何にして此喜びを記念せんかと云ふことを蘇東坡に尋ねたところが、東坡の云ふには慈雨は天の賜物であるから天を記念すべきであるが、無形の天を記念するの方法もない、よろしく之れは或物体に結付けて記念するのがよいのである。就ては物は相談だが、自分の別墅内に近頃作つた一小亭が、未だ亭名を附けずにあるから、之れに雨の喜ぶの意味を以て「喜雨亭」と命名したなら、諸君の目的も達成する訳けであるから、左様にしたらばよいではないかと申したところ、農民一同は直ちに之れに賛成して、其処で其亭を「喜雨亭」と名づけ、東坡は其由来を後世に書き遺す為めに「喜雨亭記」と題する文を草したのであるが、思へば此度の銅像建設のことも稍や此喜雨亭の故事に類しては居ないかと云ふ聯想が起こつたのである。養育院は市民諸君の養育院である、而して其の養育院が過去五十余年間に少なからざる貢献を社会に寄与したとするならば、其れは諸君自身が寄与せられたものである、之れを喜び記念せられんとすることは当然であり又天下美事である、而して如何なる方法で之れを記念せんかと考ふるに、偶々渋沢が過去半世紀に亘つて之れが経営の任に当つて居る、就ては此渋沢を東坡の所謂「喜雨亭」に用ひ、以て其喜びを永久に記念しやうではないかと云ふことに相成つたものと見ることも出来る、自分一己の功労を記念して下さる為めに銅像が建設せられたと考へると、誠に過分だとか、敢て当たらないとか云ふ不安の念が胸中に徂徠するが、然かし自分の身が「喜雨亭」として用ゐられ、自分の銅像が不文の「喜雨亭記」として作くられたと考へれば、不安
 - 第30巻 p.312 -ページ画像 
慚愧の念も軽くなり、晴れ晴れしく諸君と心を一にして本日の盛典を喜び祝することも出来、又た安心して心の底より御礼を申上げることも出来る』と云ふ意味の言葉を述べられたのであるが、此言の畢るや畢らざるや、今まで其の含蓄深き演説の一句々々に魅せられて酔ゑるが如く静まり返りし満堂の来賓は遽然急霰の如き拍手喝采を子爵に浴びせ掛け、以て歓喜と感嘆の情とをフリーリーに発露せしめたのであつたが、其の瞬間に於ける大食堂内の光景と云ふものは洵に一種のシーンであつた、私は其の時是れ程の名演説はメツタに聞かれるものではないと思つた。洵に故老子爵は真正の意味に於ける名演説家でありました。



〔参考〕竜門雑誌 第六〇〇号・第四二―四三頁 昭和一三年九月二五日 養育院長としての青淵先生の思ひ出(小坂梅吉)(DK300029k-0050)
第30巻 p.312-313 ページ画像

竜門雑誌  第六〇〇号・第四二―四三頁 昭和一三年九月二五日
    養育院長としての青淵先生の思ひ出 (小坂梅吉)
 青淵先生が永い御生涯に於て国家社会に貢献せられた偉大な功績は各方面に亘つて極めて数多い事であるが、世の薄倖者の慈父として五十余年の永い間、東京市養育院の為めに院長として尽瘁せられた功労は、実に我国の社会事業史に永久に懐かしき薫りを遺して居る。余は大正七年より東京市会に席を有し市政に関与して居つたので、青淵先生が市参与院長として養育院事業の為め、夙に心血を注いで居られた事は承知して居つたが、大正十一年同院の常設委員長に就任して以来は、一層親しく先生の偉大な人格、宏遠な識見と、溢るゝ許りの温情に接するの機会が多く、余をして及ばずながら同院の為め微力を致し度いと云ふ感を深からしめた。
 時の東京市長は後藤伯爵で、当時東京市役所に於て市の社会局をして、養育院を市の他の社会事業と同様分掌せしむるの議が起つたが、余は先生が永年苦心経営せられた養育院の歴史を思ひ、同院の特色ある発達を希望したので、その併合に不同意を表して居つた所、後藤市長も養育院が先生によつて初めて今日あるを諒解せられ、衷心先生の御努力を感謝されて、市の一般社会事業と別に取扱ふことゝされたのである。
 然し養育院が之れ迄主として院長の力によつて発達し来つた事は、一面市役所が従来養育院を、兎角継子扱する嫌がないでもない事を思ひ、今後市として、出来るだけの援助を為さしむるやう力めたのである。養育院本院が小石川区大塚辻町より今の板橋町へ移転するの計画は、大正三年以来の大事業であつたが、大正十二年の大震災後間もなく予定の移転が行はれ、永年の懸案が完了し、本院も大いに面目を一新され、青淵先生もひと安心せられたので、先生の銅像建設を思ひ立つた処、先生には容易に肯えんぜられなかつたので、余は先生の功労を表彰するのでなく、本院収容の多数薄倖者のため、先生の大精神を此処に永久に遺す為めであると説いて、遂に承諾を得、今見る養育院本院に先生の銅像が建てられたのである。先生が謙譲の徳高きは、薄倖者の為めを常に如何に考へて居られたかゞ伺はれて、只々感激の外はない。先生は平素、人間は共同生活を営む以上、自分に近い者から互に助け合ふことがなくてはならない。之れは人の道であると諭され
 - 第30巻 p.313 -ページ画像 
て居つたが、先生が養育院事業に努力せらるゝのは之を人の務とし、之に努むるを楽しみとせられて居つたのであつて、其崇高な人格は何人も敬慕して措かぬ所である。
 更に余は、先生が晩年一切政治めいた事に関係せられなかつたにも関はらず、余が市会に立候補した際、鄭重な推薦状を認められた時の感銘をいつも忘るゝ事が出来ない。今もその書面を保存し、先生の御厚意と其徳を敬仰して居る次第である。余は養育院常設委員長として先生畢生の尊き事業を通じ、親しく先生の高風に接するを得た事を衷心感謝すると共に、同院の為め聊か微力を献じ得たことを深く光栄とするものである。



〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢院長の遺業を益々発揚せよ(DK300029k-0051)
第30巻 p.313 ページ画像

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〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 精神的要素の重要性(DK300029k-0052)
第30巻 p.313-314 ページ画像

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〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢子爵の遺業・東京市養育院の振興(DK300029k-0053)
第30巻 p.314-319 ページ画像

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〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 青淵先生と東京市養育院(DK300029k-0054)
第30巻 p.319-324 ページ画像

    青淵先生と東京市養育院 (白石喜太郎)
 青淵先生とは故子爵渋沢栄一翁の事であります。青淵先生と特に因み深いこの御場所で青淵先生に関することを申上げることは誠に光栄でもあり又感慨無量でも御座います。先輩の方々も多数居られるのに私如きが、この意義深い会に出まして愚見を陳上致しますのは、僭越至極で御座いますし、殊に講演などと云ふ事に経験もなく、不得手でも御座いますので、二井主務から御勧めを受けましたときも、切に御辞退申上げたので御座いますが、私に御名指があつたのは、私が青淵先生の晩年に親炙したことの為であつて、話は上手でなくともよいから、是非罷出る様にと云ふことで御座いまして、強ひて御断り申すことも却て非礼と考へましたので、遂に此席に立つことになつたのであります。
 私が青淵先生に親しく仕へる様になりましたのは、大正三年三月のことで御座いました。その初対面に関聯しまして、嘗てかう書いたことがあります。
 『「日本の渋沢」から一歩を進め「世界の渋沢」として知られ始めたときでありました。その側近く仕へる為に始めて御目にかゝつたのでありました。如何なることを言はれるかと、興味を感ずると共に、大分硬くなつて居たことは事実であります。然るに子爵に会ふた誰もが経験して驚く所の、あの打ちとけた態度と鄭重な言葉に接して、気も心も軽くなると共に、予想との距りの余りに甚しいのに寧ろ驚きました。この和やかな驚を以て出発した渋沢子爵の教訓と、慈愛と、激励とに充ちた年月は、自分にとつて最も大切な――斯くてこそこの世に生れた意義があると思ふて居る程重大な――ときであります。
 始めて接した当時の子爵の元気は真に溌剌たるものがありました。忙しさも亦格別でありました。喜寿と云へば常人には活動とは縁の遠い感じがありますが、子爵はその輝かしい様子と云ひ緊張し切つた仕事振と云ひ八十歳近い人とはどうしても思ひ得られませんでした。その後新たに関係せられた主なるものを挙げても、明治神宮奉賛会、理化学研究所、日米関係委員会、協調会、日仏会館、大震災善後会、太平洋問題調査会、癩予防協会等があり、此等のものは皆首脳者として尽力せられたものであり、その他にも相当多い団体に関係せられましたから、従来関係したものを合せますと数ふるに堪へない程であります。如何に元気であつたかを推察し得られると思ひます』
 是より先明治四十二年古稀を機として第一回の実業界引退を断行せられたのであります。第一回と云ふのは変でありますが、第一銀行其他特別の関係ある銀行会社は辞職を許さない事情があつた為之を残しましたので、其後此等の関係を絶つたときに実業界引退が始めて完結したと見ねばなりませんから、四十二年のときは第一回と云はざるを得ないのであります。この第一回の辞職によつて実業界の関係が七に
 - 第30巻 p.320 -ページ画像 
減じ、社会公共関係が十七となつたのでありますが、辞職前に実業界の関係が六十を数へ、社会・教育其他公共事業の関係が三十であつたに比し、絶対数の激減は勿論、其内容に多大の変化があつたのであります。曩に七割に近き割合を占めた実業方面の関係は約三割に減じ約三割であつた社会公共関係が七割となり、比率から見て其位置を転倒したのであります。此事実は青淵先生活動方面の劃期的変化として注意すべき所でございます。即ち営利と云ふ物質的の世界の関係を薄くしその姿にさへ聖なる光を見出す様な感じのする精神界の行者としての活動を開始されたのであります。所謂実業界の泰斗、財界の大御所は更に一歩を進めて、霊的活動に入られたのであります。この大変化を始めて後五年にして唯今申上げた印象を受けたのでありますが、更にその翌大正四年の『実業之日本』に先生の活動を具体的に発表して居りますから読んで見ます。
 『男爵渋沢栄一氏は当年取つて七十六歳の高齢を以て、意気壮者を凌ぎ、日々奮闘、平均十五時間に渉るとは驚くではないか。此寒空に男爵は毎日午前六時には早くも床を離れて入浴し、其日の奮闘準備に掛るのが常だ、午前七時頃からモウ客が飛鳥山本邸に続々詰め掛け、中には我れこそ天晴先登第一の名誉を荷はんものと、開門前より押し寄せ、門の開くや否や飛込む大熱心家も居る。午前十時頃まで日々少くとも七・八人の客が引切りなしに尋ねて来るので、どうかすると男爵は朝飯を喰ひはぐることが度々あるそうだ。午前十時頃になると話を切り上げて二十三号の銘打つたる自動車に乗つて警笛勇ましく本邸を出で途中三・四軒の約束先を順次訪問し、それから目下男爵の唯一の実業的事業たる第一銀行に立寄り、其所で重役と食事を同うし、行務を打合せながら昼食をとると云ふ寸法になつて居る。
 斯くて兜町の事務所に、福徳円満のニコニコ顔を現すのが、大概午後一時半頃である。其所には既に数多の客が詰めかけて、男爵の来所を今や遅しと鶴首し待つて居る。後から後からと引切りなしに来る客が日々どうしても二十名以上あるそうだ。親切な子爵は多くは客を引見し、そして噛んで含めるやうな反覆丁寧な談話振り、玄関に客を送り出て尚且つ娓々として尽きない。其中に諸方から電話が引切りなしに掛つて来る、四時頃になるとモウ約束の時間が来て、又もや外出、毎晩止むを得ざる会が少くとも二ケ所はある。それを済まし、漸く其日の活動を終つて飛鳥山の本邸に帰るのが、大概午後十時頃である。それから朝見残した其日の新聞紙や、諸方から寄贈して来た諸雑誌を繙読して、漸く午後十二時頃床に就くのが例だ』と云ふのでありますがこれを読みながら直ちに文字通り席の暖るいとまのなかつた当時の青淵先生を思ひ出します。八十歳に近い頃でさへこれ程の活動を続けて「あくび」をしたことがなく、「疲れた」と云ふたことのない青淵先生は恐らく御想像の外ではないかと思ひます。かく申上げますと直ぐに考へられるのは優秀な肉体的条件であります。晩年先生の主治医であつた林正道氏は『筋骨逞しく、栄養佳良である。東洋人に珍らしい白く緊張した美しい皮膚の持主であつて皮下脂肪に富んだ豊満な様子は其輝いた血色と共に、健康な若き婦人の膚を思はせる位であつて、凋
 - 第30巻 p.321 -ページ画像 
落の兆は何所にも認められない程である』と記して居りますが、これは九十を過ぎた後のことで御座います。この記述がなされた当時即ち九十を過ぎた後でも身長は五尺一寸位でありましたが、体重は十六貫を出て居たのに見ましても林氏の記述には些の誇張のないことが分ると思ひます。肉体の優れて居ることは申す迄もありませんが、今申上げた活動をなすにはそれ丈では足りません。即ち精神的基礎が重大な要素で御座います。人間の脳髄の容積は大体似たものだそうでありますが、其『ヒダ』の多少によつて賢愚が分れると聞いて居ります。先生はジクザクの特別に多い脳髄を生れながらに恵まれて居ります。御会ひになつた方は御承知と思ひますが、七・四分の一と云ふ大きな帽子を用ひて居られました。即ち内容が特別製のヒダの多い上に容積が人一倍大きかつたので御座います。偉大なる頭蓋骨に包まれた特別に『ヒダ』の多い頭脳は文字通り特別製で御座いました。謂ふ所の頭脳明晰とか、思慮周密などの文字では、到底表はすを得ざる透徹さと、デリカシーとフレキシビリチーを持つて居り、その上に熱血躍る心臓をも恵まれて居りました。この頭脳と心臓、即ち知識と、意志と、愛情とが先生の運命の種々相に面して美事な働をなし道徳風教の振作、経済産業の発達、実業教育・女子教育の興隆、社会事業の助成、資本労働の協調、国際親善、世界平和の促進となつて表はれたのであります。その何れもが重要の事であります。その一々に付て御話を致しますと日をかへてもつきないと思ひますが、今はその時もありませんので、社会事業の事に付て考へて見たいと思ひます。社会事業と青淵先生と云ふと直に聯想されるのは東京市養育院の事であります。
 東京市養育院と青淵先生との交渉の最初は明治七年と記憶して居ります。明治七年と云ふのは青淵先生の最初の、而して終世の大事業であつた第一銀行に正式に関係せられた年であります。言を換へますと論語を以て事業を経営せんとの大決心を以て今の大蔵次官に当る大蔵省三等出仕を辞して野に下り、後の所謂実業界の大御所へのスタートを切つた当時であります。そのときから養育院の仕事に関係があつたと云ふことは、当養育院にとつても青淵先生にとつても忘れる事の出来ない所であらうと思はれます。
 嘗て先生の一生を四季の変化にたとへたことがあります。南洋や欧米のそれの如き曖昧なものでなく、日本に於ける四季の如く明瞭である。厳冬をしのげば水ぬるむ頃となり、やがて春を迎へて万朶の桜花を仰ぎ、青葉若葉を見る間に、痛烈なる夏日を浴び、浴衣に厭きる頃ともなれば、可憐な虫が秋の曲を合奏する。虫のオーケストラが低くなり行くと、凩は冬の前駆として駆足で訪れる。この時即ち養育院に関係を生じた時は、青淵先生の『春』は既に訪れ、麦は青み、雲雀の声は聞えんとして居る時でありました。その明治初年から、実業界のリーダーとして縦横の活躍をされた晩春盛夏を過ぎ、次第に物質界との関係を絶つて、九十二年の偉大なる生涯を終る最後の瞬間に至るまで実に六十年の長きに亘り、たとへば第一銀行の関係を先生の活動の本流とし、他の幾多の会社関係を傍流と見るならば、社会事業の関係は絶ゆることなきアンダー・カーレントと見ることが出来ると思ひま
 - 第30巻 p.322 -ページ画像 
す。而して其主流は言ふ迄もなくこの養育院の関係であります。その源に遡るとき、白河楽翁公の七分金に出会ふのであります。先生は明治七年十一月東京府知事から共有金の取締を依託せられました。共有金は楽翁公が江戸の町政を改革し、町費を節約して其剰余金の七分を積立て、更に官金を下付して備荒貯金資金とし、永久に増殖を図らせた所謂七分金の後身であつて、維新後東京府の保管に属し、府は共有金として管理し、之を利用して各般の公益事業、即ち東京市内の橋渠修理、共同墓地の経営、瓦斯事業の施設等を行つたのであります。養育院の事業も其一でありました。蛇足ではありますが、今日の東京瓦斯会社は其の濫觴を共有金に発して居りますし、今の東京商科大学は共有金によつて始められた商法講習所を萌芽として、青淵先生の絶えざる激励と努力によつて今日に至つたものであります。
 さて養育院の経費は共有金のみで賄つて来ましたが、十分に其機能を発揮することが出来ないので、明治十二年東京府開設と同時に府から経費を支出することになりましたが、十五年頃になつて、府会の議論が面倒になり、遂に府の経費支出が廃せられたのであります。
 此時に先生がその天稟の頭脳と心臓を活動させて養育院の為に奮闘することになりました。即ち明治十八年に府の手から離れて独立し、その経費は先生の尽力によつて賄はれたのであります。かくて苦心経営五年、明治二十二年に至り東京市制が布かれ、東京市に於て経営することゝなつたのであります。越えて明治二十四年に小石川区大塚辻町に本院敷地を得、二十九年三月移転しましたが、当時郊外閑寂の地であつた『大塚』は、交通機関の発達と都市膨脹の趨勢により、いつしか殷賑熱閘の地と化し、救済事業経営地としては好適の場所とは言ひ難き状態となつたのと、収容者の増加年と共に激しく、次第に設備の狭隘を感じ、且つ建物の腐朽甚しく、これが修繕に巨額の支出を要するものがあり、更に東京市の人口増加に伴ふ住宅難の声高かりし折柄宏大なる面積を、市内繁華の地にこの目的の為に置くことは当を得たものでない。寧ろ市民の為に開放する方が妥当である事を認め遂にこの板橋本院への移転となつた由であります。その初本郷の加州邸に始まつた養育院が、昭和六年即ち先生薨去の年に所有土地総計八万七千二百十七坪、建物一万二百十一坪、経費五十三万七千八百六十七円入院者二千六百四十三人、出院者千六百八十人、年度末現在収容者二千三百六十九人と云ふ数字を示すに至つたのでありますが、其間六十年に亘る青淵先生の苦心と努力を想返して今更ながら驚くものがあります。爾来六年更に一層の飛躍をして居る事と察しますが、養育院の渋沢子爵か、渋沢子爵の養育院とか云はれた、先生六十年の努力と人類愛の結晶として、先生の永遠の記念碑として年毎に伸び行くことであらうと思ふて居ります。養育院の為に青淵先生が如何に尽されたかを証る事実に付てはよく御承知の事と思ひますから、くどくは申上げませんが、気付きましたことを二・三申上げます。
 毎月十三日には如何なる用事も繰合はせて、病気でない限り必ず登院せられたのであります。之は前に申上げた通り養育院の設立と緊密なる関係のある楽翁公の命日であるから、夫れに因むで先生は十三日
 - 第30巻 p.323 -ページ画像 
を養育院出勤日と定められたそうで御座いますが、終世守り通ほされたのであります。用があれば幹事を呼んで事細かに命ぜられたが、然かし毎月十三日はたとへ其前日幹事と御会ひになり報告を聞かれ又用を命ぜられたばかりで別に新規な用がある筈はなくつても屹度出勤せられ、仮令其日が日曜だらうが祭日だらうが、又天気の好し悪し、どこにも一向介意せられなかつたのであります。又在院者の身の上を思ふこと実に深く、特に少年少女の福祉増進に付ては全く親身になつて配慮せられました。斯様に、院児の事を一心に思つて居られましたので登院の毎月十三日には屹度巣鴨分院へも廻られて児童に菓子を与へ訓話を試み、児童の健こやかな顔をながめると同時に御自分の温顔を児童に見せるのを最上の楽しみとして居られたのであります。晩年兎角健康意の如くでない為先生の所謂『出勤』の出来ないことが多く特に幹事の方などの来邸を求め、種々御話しをして自ら慰めて居られたことを思ひ起します、又外国の人々が来られますと必ず養育院に案内せられたことも思ひ出します。ラビンドラナース・タゴール氏も救世軍の創立者ウヰリアム・ブース氏も相続者ブラムエル・ブース氏やエヴアンゼリン・ブース女史も又フランク・エ・ヴアンダリツプとかウオラス・エム・アレキサンダーとかフランク・エフ・アサトンとかの米国の有力なる人々も訪問せられたと承知して居ります。其他外国の人々の来訪を多く受けた先生が、誇りとしてこの養育院に案内せられたことを皆様はよく覚えて居られたと思ひます。蓋し六十年の間雨の日も風の日も絶ゆる時なく、育てつゞけ愛しつゞけた養育院は、先生にとりて何物にも変へ難きものがあつた為ではないでせうか。さればこの大震災の為安房分院が大破したのを聞かれたときの傷心の状は今も鮮かに思ひ出されるのであります。傷んで破れざる先生は直ぐ復興に努力せられ悔んではゐなかつたこと勿論ではありますが、あの不幸な出来事は先生にとつて非常なシヨツクであつたのであります。
 最後に楽翁公との関係を申上げたいと思ひます。養育院の事業が先に申上げた通り、楽翁公の七分金から発程して居る為であらうと思はれますが、毎年五月十三日の楽翁公記念会は先生の最も楽んだ年中行事の一となつたのであります。先生自身定まつた様に講演をし、更に歴史専攻の学者を聘して、公に関する研究を発表せしめ、其徳を頒ち且必す記念品を配つたのであります。斯くの如く自ら楽翁公に付て講演する為め其材料として研究し、又学者が専攻の立場から見た各種の楽翁公観を聴くにつれ、先生の楽翁公癖は次第に募り、後には恐らく公を知る第一人者と言ふても憚りない程になつたのであります。記念品は公に関するもののみで楽翁公心願書、楽翁公自画像、九思の歌、もとの心、玉川碑と白河楽翁公、関の秋風、むら千鳥、住吉神社奉納百首和歌、楽亭壁書解説、自教鑑等であります。先生程の理解と、同情と、敬意とを、公に対して有する人は恐らくないであらうと思はれます。先生のあの人格を通して、理解あり、同情あり、敬意を籠めた楽翁公観を語られるとき、寧ろ実際以上に公が描き出された嫌はなかつたかと思はれる程であります。世には先生の論語尊崇によつて、孔夫子が実際以上に受取られる感があると言ふものがあります。楽翁公
 - 第30巻 p.324 -ページ画像 
に付ても同様の感を抱くものがあるのは其所であらうと思はれます。この公のことを記されました先生の著書「楽翁公伝」が嘗て先生の首唱によつて設立せられました楽翁公遺徳顕彰会によつて発行せられ、恰度唯今頃、其完成奉告の式が、上野寛永寺の先生の御墓所に行はれて居るのであらうことを申上げて私の御話を終ります。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 渋沢青淵翁の遺業を拡充すべし(DK300029k-0055)
第30巻 p.324 ページ画像

    渋沢青淵翁の遺業を拡充すべし (男爵 阪谷芳郎)
 渋沢青淵翁は我邦商工業の発達に大いに力を尽されたのであるが、常に深く貧富の懸隔より生ずる社会の不安を憂へられ、同時に社会事業に対し大に力を尽すの必要を強調実行せられた、其第一銀行を率卒せられたると東京市養育院の世話を担当せられたると殆と同時であつて翁が晩年に至るまで同一の熱心を以て継続せられた。其晩年に当り我邦社会人心思想の著るしく悪化せるを見られて、翁は我邦富力の増進に自分が力を尽したることは、果して国家永遠の為であつたかどうだか、もつと社会事業に尽した方が善かつたのではなからうか自ら疑ふと言はれて嘆息せられたのを度々聞いた。
 東京市養育院の事業に就ては、多年に渉り朝夕極めて多忙なる青淵翁が毫も時間を惜まず財を惜まず、満腔の熱心を以て我が子や兄弟の面倒を見ると同様、否寧ろ其以上の親切を以て尽さるゝのを目撃して実に感に堪えざるものがある。翁は常に善を言はれて人に教へられた「暇あるを待つて書を読まんとすれば読むべきの暇はない、余りあるを待ち人を救はんと欲すれば救ふべきの余りなし」と翁は即ち其言の如く実行せられた。養育院が其初め上野公園内一寺院の中に微々として存在して居つた時より本所に移り、大塚に移り、終に今日の板橋に移り、漸次事業を拡張し房州の分院、井之頭の感化院と段々に老幼の教育、医療の方法改善に至るまで苦心経営の跡を尋ね、殊に毎月十三日楽翁公の記念日の勤を怠らず、以て院の内外を問はず其従事員と院に在て養育を受くる者とに対し、人間道徳の大切なる報恩の根本観念を言はず語らず自然に扶植することに十年一日の如く力められたる翁の篤志に対しては、養育院庭前にある翁の銅像を見上げるとき市民の一人として覚へず頭下り心中感謝の念に堪へざるものがある。従て院の将来は市の膨脹、人右増加に伴ひ時勢の要求に応じ規模を漸次改善拡張すべきは勿論、之と同時に人間大切の道徳観念の養成扶殖を力め惰民を作らざる注意を忘れてはならぬ。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 社会科綜合大学としての養育院(DK300029k-0056)
第30巻 p.324-325 ページ画像

    社会科綜合大学としての養育院 (窪田静太郎)
 私は安達憲忠・田中太郎・原胤昭・留岡幸助・光田健輔の諸氏と共に早くから社会事業の方面に於て故渋沢子爵に親灸し、教を受けた一人である。子爵は東京市養育院といふ社会科綜合大学で現業に親しまれ、私は内務省で聊か社会問題の研究に志して居たからである。子爵は養育院で救済事業に尽瘁せられたのみならず、養育院を通して社会の病弊弱点を打診せられ之が治療予防に思を潜められ、其の結果段々本邦の救済事業が分科して発達し、科学的に取扱はれるようになつた先に育児事業、次に感化事業、といふ風に後には癩予防事業が分科して我国の癩予防制度が確立した。
 私は夙に子爵を社会科大学総長として仰いでゐた。明治三・四十年
 - 第30巻 p.325 -ページ画像 
の交、中央社会事業協会が創設せらるゝに当り我々同志者が、子爵を会長に推したのも、社会科大学総長の如き地位に立たるる子爵を推す意味であつたと思ふ。而して東京市養育院といふ此の綜合大学は子爵の御尽力に依つて、大学として人材養成の任務をも尽した。此の大学で研究を遂げ現に斯業の泰斗として各方面に活動せらるる人材は一々枚挙の遑ない、若夫過去の東京市養育院の国家社会に対する功績を挙ぐるとなれば、社会科大学として業績が其の一半を占むると云ふも誣言に非ずと信ずる。
 願くは子爵なき今後と雖も子爵の志を襲き、救済事務の能率増進と共に、社会科大学としての業績をも発揮せられんことを切に望む所である。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢子爵の思ひ出(DK300029k-0057)
第30巻 p.325-326 ページ画像

    故渋沢子爵の思ひ出 (小坂梅吉)
 本年早くも故渋沢子爵の七周忌を迎へ、玆に養育院長大倉男爵から同院で発行する雑誌に故子爵追慕の記事を寄せる様にとの事であつたので、余は故子爵が畢生の事業として五十年間心血を注がれた養育院の常設委員長として、在任中微力ながら同院の為め聊か意義ある仕事を為し得たと思ふ事を述べて故渋沢子爵の思ひ出と致したい。
 余が東京市会に再選され、次いで市参事会員に選ばれ、養育院常設委員長に就任したのは大正十一年六月のことであつた。当時の養育院は、同じく東京市の施設でありながら、兎角市役所からは継子扱にされて居る様な感があつた。経営の点でも従来養育院は、自ら篤志家の寄附金や入院料等で所要経費を支弁し、市の一般経済からは殆んど顧みられなかつたのである。余は渋沢院長が永年熱心に、然も多大の犠牲を払はれ尽瘁せられて居るこの養育院事業は独り貧困者薄倖者の為めのみでなく、一般市民の為めにも又人道上の見地からも、極めて重要な市の事業でありながら斯の様に篤志家の苦心に委ねた儘になつて一般から深き関心を払はれないのは遺憾なことである。市は先づもつて之に力を致し、之が改善進歩を援けなければならぬと思ひ、之を時の市長後藤子爵にも説き、或は又池田助役には養育院の予算に対し市経済よりの繰入を増額する様、養育院事業を助成する様要望した事などもあつた。大正十一年は恰も養育院の創立五十周年に相当し、盛大な祝賀式が挙行されたが、其時余は養育院常設委員長として市会を代表して祝辞を述べ、衷心渋沢院長の功績を賞し、永年の労苦に深く感謝の意を表したが、その機会に兎角忘れられ勝ちなこの尊い事業を広く一般市民に紹介宣伝することに努力した。
 養育院の本院は当時小石川区大塚辻町(現在の市立大塚病院や大塚公園、大塚市民館等のある広大な地域)に在つて其建物は腐朽したり狭隘を感ずるに至つたりして、既に本院移転の問題が定つて居つたが漸やく其移転先板橋の敷地に本建築工事が着手されることゝなつたので老院長永年の御心労を察し鋭意之が促進に努め、間もなく本工事が略々竣功を遂げ、愈移転も近づいた処、俄かに大震災に遭つて大塚本院の被害甚大で使用し難くなつたので、直ちに避難的移転を決行し爾後未完成工事の進捗を図り、やがて移転事業も無事完了するに至つたのである。この移転に就いては老院長の御尽瘁殊に甚大なものがあつ
 - 第30巻 p.326 -ページ画像 
た。其初めて現敷地の一部を買収したのが大正三年であつて実に十年来の移転事業である、この永い間の養育院にとつての大事業か無事完了した事は故子爵にとつても非常な御安心御満足と推察することが出来る次第である。是に於て余は是非共老院長永年に亘るこの御事蹟功労を記念し、其徳を永なへに偲ばんが為め子爵の銅像を養育院本院に建設することを思ひ立ち、故子爵に承諾を求めた処謙譲な老子爵は是れ迄にも銅像の話はあつたが「自分は好まぬとて皆御断りした」と云はれ容易に御承諾なさらぬので、余は更に子爵に向つて「我々の建設せんとする銅像は単に御功績を記念する目的ではなく、子爵が五十年間心血を注がれ終生の事業として御努力になる養育院に子爵の御生命を永く遺す為めであるから御異存はない筈でせう」と力説した所遂に御承諾を得たので、直ちに渋沢院長銅像建設会を起し、当時の市長中村是公氏を会長とし余が常任理事となり、時の三助役と他の常設委員の各位が理事となられ、広く醵金を募り、大正十四年十一月十五日盛大な除幕式を挙行したのである。今日養育院を訪づれる者が先づ老院長の銅像を仰ぎ、永しなへに故子爵の高風と遺徳を敬仰追慕する絶好の記念物となつた事は余の衷心欣快とするところである。
 かくて時勢の推移もあつて養育院は本院移転以来内容外観大いに面目を一新し、漸次改善の上に改善が加えられ、余の委員長在任中巣鴨分院には年長児童の職業教育機関等適切な施設が充実するに至つた事は今も顧みて同院の為め慶祝する次第である。故子爵は人も熟知せらるゝ通り、常に温容と慇懃な態度を以て人に接せられ、高位高官の人も一介の書生も、其処に差別を設けず、礼をつくすべきはつくさるゝ其御態度は実に敬服に堪えざる所で、之れ実に故子爵の崇高なる人格の表現と云ふべく、余は故子爵の徳を偲びて常に崇敬追慕の情を禁ずることが出来ないのである。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢子爵の遺業たる養育院の将来(DK300029k-0058)
第30巻 p.326-327 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 前途の発展を期待す(DK300029k-0059)
第30巻 p.327 ページ画像

    前途の発展を期待す (尾崎行雄)
一、渋沢子爵が昼夜寸暇なき多忙の身を以て養育院の為に尽された努力に就ては只管感服の外ありません
二、今や大倉男爵の其志を継て尽瘁せられるあり、前途の発展期して待つべし、国家の為慶賀の至に堪えず。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢子爵の熟誠(DK300029k-0060)
第30巻 p.327 ページ画像

    故渋沢子爵の熱誠 (前田多門)
 想起するのは、故後藤新平伯が市長に選まれてその受諾を躊躇して居られた時、故渋沢子爵は切々の言を以てその就任を慫慂せられ、市の養育院長として、憐れな人達に代つて御願すると言はれた。後藤さんを動かしたのはこの一語であつたと思ふ。不遇者に対する子爵の同情は常に真剣であつた。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故子爵への報恩!養育院の充実(DK300029k-0061)
第30巻 p.327 ページ画像

    故子爵への報恩! 養育院の充実 (大口喜六)
 故渋沢子爵が其の一生を我国経済界に捧げられしことは、国民一般の景仰する処にして、今更特に申述ぶる必要も有之間敷と存ずる次第に候
 又養育院の設置存立が、同子爵の特志によるもの多きことも亦一般の感激拝謝する処と存候、従つて故子爵の遺業の隆昌に赴くことは軈て子爵に対する報恩の一端たるべしと存候。
 - 第30巻 p.328 -ページ画像 

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故子爵の人格の発露(DK300029k-0062)
第30巻 p.328 ページ画像

    故子爵の人格の発露 (安部磯雄)
 若し渋沢子爵が致富の道に専念して居られたならば、大資産家となられたことは何等疑なきことであつたであらう。然し子爵は致富といふことよりも人類愛といふことをより多く考へて居られた。私はあの円満福徳の温顔に接する毎に尊敬と親愛の情を禁ずる事が出来なかつた。我養育院は全く子爵の人格の発露と見るべきである。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故子爵と現在の養育院(DK300029k-0063)
第30巻 p.328 ページ画像

    故子爵と現在の養育院 (小野義一)
一、社会事業は非営利事業なり。従て営利を重しとする財界人中動もすれば社会事業に面を反向くる者多きは自然の数なり。然るに此点に於て断然選を異にせるは子爵なり、流石に渋沢先生なり。財界の偉器たりしと共に社会事業の先覚たりき。今更に敬仰の念に堪えず。
二、院長を初め本院の幹部諸彦は本院の改善整備に就き、絶えず渾身の努力を払はれつゝあり。洵に欽仰に堪えず、本院将来の発展正に刮目に値ひすべし。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 青淵先生の遺志を宣揚せよ(DK300029k-0064)
第30巻 p.328 ページ画像

    青淵先生の遺志を宣揚せよ (大橋新太郎)
一、渋沢青淵先生は、東京市養育院創立の恩人であります。幕府時代から、鰥寡孤独、癈疾の者を憫むべき事とは村々の庄屋の前の高札に書いた相なるも、之を真に実地に行ふた人は青淵先生であり、東京市養育院で、今日までに薄命の棄児・遺児・行路病者・老衰者等で、此所にて救はれた者は、今までに何千人あるか知れません。此等は何れも先生の御蔭です。
一、私は先年奉天で、彼の朝鮮平壌で戦死した左宝貴といふ将軍が、生前に薄倖者救済の場所を立てて、同善堂とか云ふて頗る整頓した設備であるのに感心しました。今も保存せられてある筈です。旧時の支那の満洲にさへ斯かる設備があつて、永く地方の誇りとされて居るのだから、我国の帝都では、創立者青淵先生の意志を継で、益々之を拡張し、世の薄倖なる人々を慰藉せねばならぬと思ひます。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 青淵翁の七周忌に際して(DK300029k-0065)
第30巻 p.328 ページ画像

    青淵翁の七周忌に際して (明石照男)
 拝復、陳者来る十一月十一日は渋沢青淵翁の七周忌に相当するに付本月の貴院時報に於て故院長の遺徳を顕彰可相成由拝承、真に忝く奉存候
一、故渋沢子爵は各種の凡ゆる事業に関係被致候得共、就中最後まで形式上も実質上も深く関与せられたるは経済界に於ては第一銀行にして、社会事業に於ては東京市養育院なりしかと存候。翁が九十の老齢を越えても尚ほ毎月十三日楽翁公の御命日に貴院に赴いて菓子を在院者に配与せられつつありたることは、一面は義務と感じ他の一面は進んで楽しく実行せられ居たるやう記憶致候
二、皮肉に申せば養育院の事業の拡大することは誰しも希望せざる所に有之候得共、是れは社会の実状に即せざる見方に有之候のみならず今日の如き非常時に際会し、而も国運の愈々発展せんとするに当つては、反面に於て斯の如き綜合的社会施設の益々改善整備せらるべきことを所期せざるべからずと存候

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢子爵と社会事業(DK300029k-0066)
第30巻 p.328-329 ページ画像

    故渋沢子爵と社会事業 (高木陸郎)
 故渋沢子爵は現に私が経営して居る中日実業会社の発起人であり創
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立者であり、而して設立後は相談役として御在世中終始一貫一方ならず御世話下さつた。子爵の御心持は全く無我で博愛の観念が世間の何物をも超越して居るので、我々は何時も其感に打たれる。子爵は時々論語の字句を口にせられたばかりでなく常に躬を以て実践されたから真心が犇々として人に迫るものがあつた。之れが社会の為、国家の為延ては世界の為となり、自然の間に感化される訳である。回顧すれば明治三十九年のことである。私は当時湖広総督であつた張之洞氏の代理として来朝した高松如氏と同伴して始めて子爵の御目に懸つて以来引続き御懇情を蒙つたが、特に大正十一年に中日実業会社を引受けるやうになつてから頻繁と温顔に接するやうになつた。当時苦境にあつた会社は色々と子爵の御配慮に預つたことは記憶に新しい。又子爵御自身ばかりでなく周囲の方々殊に正雄君初め御令息の方々も子爵に感化されて居ると見へて、子爵は勿論此等の人々に接すると一種特別な雰囲気に裏まれたやうに感じる位であるから、養育院の方々も子爵が同様の意味で感化されたことと思ふ。実際、子爵は明治・大正・昭和を通じての不世出の偉人、否寧ろ聖人に近い方であつたと思ふ。
 故渋沢子爵が数十年の長き歳月を不断に尽力された養育院は今日の如き時世には必要不可欠な社会的事業である。輓近文化の進展に伴ひ生存競争は漸く劇しく自然落伍者も出て又寄辺なき鰥寡孤独の人々も少くないから、之が救済保護を使命とする斯かる公共的の施設には現在の大倉男には最も格好な事業の一つである。此点に於て敬意を表する次第である。何卒社会大衆の為、国家の為に此上とも大いに尽されん事を切望して止まぬ。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 不遇者のために拡大せよ(DK300029k-0067)
第30巻 p.329 ページ画像

    不遇者のために拡大せよ (木村政次郎)
 故渋沢子爵が過る大正十二年関東地方大震火災を「天譴」と喝破すると共に、不遇者の慈父として救民経世の事業に更に一層の尽力を身を以て為すと同時に一般世間に呼びかけて、当時惨禍になやめる人々に救済の慈手を垂れたことは、故子爵が東京市養育院創立以来五十八年間院長として、その困難なる創始時代から今日の強固なる礎を築いた事と共に永遠に忘るべからざる慈善の光りである。いまや東京市養育院長は、男爵大倉喜七郎氏を院長とし、故子爵の遺志を更に拡大してその将来益々不遇者の為め真に安全に生を楽む浄境となることは我等の共に大いなる喜びとするところである。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢子爵の七周忌に際して所感(DK300029k-0068)
第30巻 p.329-330 ページ画像

    故渋沢子爵の七周忌に際して所感 (坪谷善四郎)
一、方今の東京市養育院は、全たく故渋沢子爵の力で出来たものである。成程最初の基金は、故松平楽翁公が江戸市民救済の為に残された所謂七分金の一部で出来たのであるが、途中東京市会(其頃は東京府会)が、貧民を救助するは、遊惰を奨励することになるとか云ふ理由で、経費を否決したので、一時は渋沢子爵が自ら主と為つて寄附を募集して維持し、其頃は養育院と言へば渋沢さんの事業と思はれたことを、我々も記憶して居る。此の渋沢子爵の功績は、永遠に忘れてはならぬ。
二、東京は全国民の植民地である。随つて成功者もあるが、失敗者もある。其の全国の失敗者の世話は、帝都の市民として必ず焼かねばな
 - 第30巻 p.330 -ページ画像 
らぬ所に容易ならぬ苦心も要し、また莫大な経費も要る。しかし渋沢子爵の苦心の御蔭で、基本財産も大分に出来て居る筈だ。而して帝都が発達するに随つて、失敗者も次第に殖えるだらう。しかし其れを世話することは、帝都の市民としても、また渋沢子爵へ対しても、当然の義務である。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 崇高なる事業(DK300029k-0069)
第30巻 p.330 ページ画像

    崇高なる事業 (赤星陸治)
 二題とも玆に御記しある通りでこれ以上別に申上ぐべき感想もありません。仰せの通り故渋沢子爵の御遺業は、政治・経済・教育、乃至社会事業の各方面に亘つて、枚挙に隙ない様にありますが、就中貴養育院の御事業は、故子爵の偉大なる人格を忍ぶべき、最も崇高なる事業と敬慕してゐる次第であります。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 一層施設を完備せよ(DK300029k-0070)
第30巻 p.330 ページ画像

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〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 宣伝不足の憾み(DK300029k-0071)
第30巻 p.330 ページ画像

    宣伝不足の憾み (五島慶太)
一、渋沢子爵に接すると真に慈父に接するの思があつた。之れは全く我と云ふものがなく、我と社会と一体となりたる所謂「大我」のみであつたからである。子爵は常に自分の子供も他人も等しく自分の子供と考へて居られた。
二、斯る事業は将来益々必要と思ふ。東京市に於て若し力不足の時は国家自ら之れを経営することが本筋である。而して現在の所では宣伝不足だ。之れを可成多数の有力者に公開して、認識せしむることが必要だ。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 科学的研究所の建設(DK300029k-0072)
第30巻 p.330 ページ画像

    科学的研究所の建設 (生江孝之)
一、故渋沢子爵が貴院は勿論、広く一般社会事業の進展に貢献せられた偉大なる功績は誰人も追従を許さざる処で、崇敬の念、追慕の情転た禁じ難きものがあります。就ては「不遇者の慈父」又は社会事業の大恩人として永く之を後世に伝ふべく、記念塔を建立致し度く存じます。然し私の所謂記念塔とは無形のもので、収容者を対象とする完備せる科学的研究所の設立を意味します。之が現在何れの施設に於ても比較的欠乏致して居りますので、この際故子爵の遺績を永遠に讚ふべく之が建立が最も適切と存じます。
一、児童保護方法は近来著しく進捗するに至りました。国家の隆替も軈て明日の成人に托せらるゝのであります。この立場より施設内の児童保護上大切なる一事は家庭愛に親しましむる事であります。それで集団的保護に代ふるに成るたけ家庭委託(里預)となし、之が不可能の場合、家族制度の下の保護を必要と認めます。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 癩秒予防事業と渋沢子爵(DK300029k-0073)
第30巻 p.330-331 ページ画像

    癩予防事業と渋沢子爵 (光田健輔)
 - 第30巻 p.331 -ページ画像 
 拝復 日本全国に癩のあらざる村なく明治三十年迄には年々六百二十名徴兵検査に出場不合格となりたる壮丁癩は今日は充分詮索するも年々数十名の壮丁癩を見、減少の傾向を辿るに至りたる大なる原因は明治四十年発布せられた癩予防に関する法律の制定に大関係がある。其法律の出る迄、渋沢子爵が陰に陽に輿論の興起に努力せられ、又晩年癩予防協会を設立し、二千六百年迄に一万人の収容施設を完成するの基を作られたるは、子爵が常に国家の体面を重んじられた忠義の心と弱者に対する慈愛の心と、一端企てられた事業は徹頭徹尾、完成を期せられた勇猛心により三十有余年努力された結果である。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 社会事業の模範たれ(DK300029k-0074)
第30巻 p.331 ページ画像

    社会事業の模範たれ (布川孫市)
一、故渋沢子爵の七周忌を迎へ感慨無量です。私は曾て「養育院六十年史」編纂の委嘱を受け、爾来一年間その事務に与かりて完成した事歴ある為、子爵御尽瘁の偉大なる消息は、人一倍承知致して居りますので、追慕の念極めて切なるものがあります。同時に幹事として終身子爵の片腕たりし安達憲忠・田中太郎の両友を追想されてなりません
二、田中院長歿後、院主幹の交迭兎角頻繁の観あるは斯業の性質と院の伝統上痛惜されます。幸に大倉男爵の新院長就任は、先考と院との関係を知るものの歓迎措かざる所で、一同その永続を祈つて居りますが、現実に与かる理事者も一時の腰掛とせず、専心一意経営に当られ光輝ある歴史に富む斯院をして、更に斯業の模範たる価値を発揮して戴きたいと存じます。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 社会事業の国際的使命(DK300029k-0075)
第30巻 p.331 ページ画像

    社会事業の国際的使命 (牧野虎次)
一、故渋沢子爵が社会事業界に遺されたる最も偉大なる功績は、斯業の重要性を上下内外に向つて示されたことである。然かも子爵は率先身を挺して、之を天下に示されたのである。即ち子爵の人格が斯界の至宝となつたと云ふことは、我等がいつまでも忘れることが出来ない処である。学識や寄附金を以て、社会事業に尽された功労者は他に尠くはないが、千古不磨の人格を以て斯界の基礎を永久に据へつけられた子爵の偉勲はいつまでも没することが出来ない。
一、更に子爵の偉績として特筆したいことは、斯業の国際的使命に着眼せられ、常に指導奨励を怠らざりしことである。たしか大正八年秋であつたと覚えて居るが北米合衆国の社会事業界の大家ウツド先生が来朝せられ、社会事業を通じて日米親善を増進せんとの提言をせられた時、子爵と故床次内相とは心より賛同せられたことであつた。不幸にして間もなくウツド先生の卒去で、その事の具体化を見るに至らなかつたことは遺憾千万であつた。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 我が社会事業界の中心的地位(DK300029k-0076)
第30巻 p.331-332 ページ画像

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〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 「文明に廃人なし」(DK300029k-0077)
第30巻 p.332 ページ画像

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〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 【拝啓・・・十一月一日 藤山雷太宅】(DK300029k-0078)
第30巻 p.332 ページ画像

  拝復 今般御依頼に接し候へ共、生憎く只今主人転地療養中に御座候間、何卒不悪御諒承被下度御願ひ申上候
  先は右取り敢へず御返事迄如斯御座候 敬具
    十一月一日
                     藤山雷太宅

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 【拝啓・・・十月三十日 黒板勝美】(DK300029k-0079)
第30巻 p.332 ページ画像

  拝復 渋沢子爵には御生前一方ならぬ御交誼に預りをり候間、早速貴意に副ひ度存候へ共、生憎目下病臥罷在り執筆意に任せざる状態に有之、乍遺憾失礼仕度、此段不悪御諒承の程幾重にも御願申上候
  右先は不取敢得貴意度書中如斯御座候 敬具
    十月三十日
                      黒板勝美

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 【拝啓・・・馬渡俊雄宅】(DK300029k-0080)
第30巻 p.332 ページ画像

  拝啓 去る二十七日附御書面拝見、然るに主人目下遠方へ旅行中にて十一月中には帰京六かしくと存じ候につき、折角の御来示には候得共、右御了承願度御返事申上候
                     馬渡俊雄宅

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 【拝啓・・・十月二十九日 清浦奎吾宅】(DK300029k-0081)
第30巻 p.332 ページ画像

  拝啓 益々御清祥賀上候、御書面拝承仕り候処、主人目下病気加療中にて折角の御申越に応じ兼ね候間、御諒恕願上候
    十月二十九日
                     清浦奎吾宅


〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 春洋丸甲板上の老先生を偲ぶ(DK300029k-0082)
第30巻 p.332-334 ページ画像

    春洋丸甲板上の老先生を偲ぶ (岸辺福雄)
        ×
 思ひ出します。
大正十年の九月米国で軍縮第一回の日英米の大会議のありました節。渋沢老大人は、側面から此の世界平和の完璧を援助するのであるとて老齢をもおいといなく勇敢にも渡米されたのでありました。
 之れが東洋汽船会社の春洋丸でありました。
 - 第30巻 p.333 -ページ画像 
 丁度幸ひにも小生も、其春洋丸に便乗してゐた為、老大人には、カンパンに散歩されてゐます時折りお目にかゝり、尚増田義一氏の紹介等にて親しく御話しを伺ふ事が叶つた事を、今尚無二の仕合せであつたと、誇りをさへ感じてゐるのであります。
        ×
 春洋丸が、サンフランシスコに入港し、例の別けても惨々の取扱を受けます三等船客の上陸上の手続きに到ると、米国の移民官は、軍縮会議の為に、渋沢子爵が同船してゐられる事からに、米国最高の敬意を表する意味に於て、日本の三等乗客は、無検査上陸を許可すると言ふのでありました。
 三等船客の人達は、渋沢先生のお陰だお陰だと、夢中になつて喜んだ事でありました。
 側に見て居た私共も涙ぐましい程の船中の喜びであつた事を感銘してゐます。
        ×
 船が布哇を出た頃で、老先生も船にお馴れになつた好機嫌の或日、カンバンの一室で特に御携帯の羊羮でお茶の御馳走に預つた。
 其節私が、東京市養育院の初代頃に、瓜生岩子と申すお婆さんが、入院者世話係りとして勤務して居ました時の逸話を申し出たのでありました。
        ×
 その瓜生媼が、雑務を片付けてゐると、入院中の四・五の爺さん婆さん連が『あさづけでお茶漬が一杯喰べたいナ』と話し合つてゐる。其の当時の養育院も矢張り日日の献立表による食事以外随意の食事はとれなかつたらしい。
 そこで、瓜生媼は『よし、ご馳走して上げる』と、はや請合をしていそいそ町に出かけた、それから間もなく帰つた時には大根を抱へ込んでゐたのでありました。それが、翌日のあさづけのお茶漬けとなつたのでありましたが、其の大根を買つて来たお銭が大問題となつたのでありました。
        ×
 瓜生お媼さんも、其時持合せの金がなかつた。それで思ひ付いたのは、其前年に、時の皇后陛下から御下賜の一とかさねを、箪笥の奥深く仕舞ひ込んで大切にしてゐるに気がついた。浅漬のお茶漬を与へる為めの大根を買ふ為に、其の御下賜の一重ねを質屋に持つて往つて、何にがしかのお銭を借り出して、大根を買つて来たのでありました。
 所が、間もなく其事が、時の事務長の安達氏に知れた。安達氏は瓜生媼の此のとつぴの仕打ちに非常に驚いて、呼び付けて叱つたのでありました。御下賜の御衣を質に置くなどとは、恐れ多い事であるとの純なる小言であつた。それは何人が知つても其安達氏の叱責には同感であらう。所が、瓜生お媼さんは、かんかんになつて叱り付けている安達氏の顔を静に見つめて『私が不心得でありました。早速、質屋から受出してまゐります。再び斯様な恐れ多い事は重ねませんでせう』と素直にわびた後で『しかし私の致しました事は、恐れながら皇后様
 - 第30巻 p.334 -ページ画像 
の御慈悲の御心に叶ふかも知れません』と言ひ終つて泣き伏したのでありました。
        ×
 此の事を、船中の渋沢老先生に御承知でござりませうがと話しかけますと、老先生は『あのお媼さんについては、教へられる所がありましたよ。別けても養育院の事業は、物よりも心でありますナ、情は物外に存すと申しますが、瓜生媼は容易に得られませんヨ、あなたはどうして其話をご承知ですか』と問はれたのでありました。
        ×
 それから、ヒヤデルヒヤのワナメイカア翁に面接しました所が、これを渋沢子爵にお土産に持参してくれよと話されたのは、日本文の聖書でありました。ワナメイカア翁のサインがしてあります。只今でも渋沢家のどこかに保存されてありませう、其時ワナメイカ翁は私に、日本の渋沢子爵は、社会事業に於ても世界の渋沢子爵だと申されたのでありました。私は帰朝早々日本橋の事務所に老先生をお訪ねして其聖書をお渡しました時に、ワナメイカア翁の言葉を添へましたら『此の人は心からの友達です』とニツコリと笑つて話されたのでありました。
 日本の社会事業の実際で、世界に誇るべきものは、東京市養育院以外に幾つありませうか、それが年額壱百万円に近い経費を、東京市の税金一銭も使用しないで、悠々経営してゐる成績を今日に続けてゐるのは、全く渋沢老先生五十年の御苦労による事と敬謝してやまないのであります。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 故渋沢院長の追憶(DK300029k-0083)
第30巻 p.334-336 ページ画像

    故渋沢院長の追憶 (小沢一)
 故渋沢子爵の七周忌が近づきいろいろの追憶が湧いて来る。
 子爵は明治の初年から長逝される迄五十八年間東京市養育院長として同院を守り育てると共に、全国の社会事業その他文化事業の誘導、発達に努められ、真に寧日がなかつた。
 此の長い生涯に子爵が関与された各方面に於て、後進を誘掖し深い感化を与へられたことは、各方面の人々の胸中に無限の思ひ出となつてゐる。
 明治年間に於ては東京市養育院は我国の唯一最大の公的収容救護施設であつた。明治末葉迄は社会事業に社会一般の関心が極めて乏しく東京市養育院の事業も久しく顧みられなかつた。こういふ時代に唯一人帝都の窮民・孤児・不良少年の慈父となり、未だ斯業に無理解な東京市をして此の大切な事業を強ひるが如くにしてやらせて来た子爵の同院経営上の苦心は実に察するに余りあることである。
 東京市養育院は子爵自身が守り育てた事業であり、事実上の経営者たる子爵の人格・信念が基になつた真の意味の社会事業である。而もこの経営者の人格を中心とする社会事業を単に偉大な個人の事業に留めず、帝都の規模壮大な公的事業として発達せしめた事は欧米の社会事業界にも見る事の出来ない模範的事業だと信ずる。即ち社会事業に於ける人格と公的経営との一致について高い規模を示されたものであつて特に現今の形式化し、事務化し勝ちな社会事業が最も省察すべき
 - 第30巻 p.335 -ページ画像 
一事だと思ふ。
        ○
 如何なる偉人でも一人で事業の出来るものはない。東京市養育院の経営・発展は子爵の先覚と献身的努力に依ることは言ふ迄もないが、全く子爵の手足となつてその抱負と理想を実行し、同院の基礎的発達を成就したのは同院幹事として生涯を捧げた故安達憲忠氏である。東京市は渋沢院長と共に院長の蔭に隠れた安達幹事の功労を記憶すべきだと思ふ。
        ○
 渋沢子爵は官僚でも政治家でもなく、一個の純粋な人間として日本の文化的基礎を築かれたのであつて、人間味の豊かな情義に敦いことに最も敬慕させられる。子爵は剛毅な意志と透徹した頭脳との一面に極めて本然的な変らない人情を以て人を遇し、一旦用ひた人間を自ら捨てやうとされなかつた。
 子爵の人生観と信念の根底は、論語にあつたことはいふ迄もないと共に、宗教信仰の探求にも心を注がれたが、宗教に対しては恐らく八宗兼学的であられたやうだ。
 養育院の事業に対しての子爵の態度は誠心誠意といふ言葉では足りない。その仕事が子爵の人生観と信念の実践であり、探求であり、又この仕事に依つて子爵の人生観と信念が深められたであらう。
 東京市養育院長として子爵が松平楽翁公を尊崇されたことは何人も熟知する処であるが、その態度が真に敬虔であつた。子爵が楽翁公の誓文を拝語されるときは、畏敬の真情が肺腑から迸しる如くであつたその誓文には『松平越中守奉懸一命心願仕候。……御威信御仁恵下々え行届き候様に、越中守一命は勿論之事、妻子之一命にも奉懸候事必死に奉心願候事。右条々不相調……候はゞ、只今之内に私死去仕候様に奉願候。云々』とある。
 子爵はそれを謹写して養育院に納めらるゝに当つて之に添書されたが、その文面には渋沢院長の敬虔な至情が溢れてある『公は幕府の衰世に当りて出でて宰輔の職に就き……幕府の危殆を救ひ能く中興の隆治を致せしは固より天授の才識に因ると雖も亦以て正心誠意不自欺の実学修養に職由せずんばあらず。……我東京市養育院の興る亦実に公が遠大なる遺法の余沢に基く所なれば、此文に対し誠を推して敬重の意を表す……恭しく一本を写して之を本院の神位に充て以て永く公の遺徳を諠れざらしめむとす』と。
 渋沢院長は正にこういふ信念に基いて東京市養育院の経営に当られ信念的経営が永久に継承されるのを最後迄念願されたことゝ思ふ。
        ○
 渋沢院長は常に皇国の為御奉公を念とし、諸方面に活動され、寧日がなかつたが毎月十三日、楽翁公命日を養育院出勤日と定められ、めつたに欠かされなかつた。
 その日は本院・分院を廻られたが自分が勤務してゐた当時巣鴨分院講堂にて児童及従事員に対し屡々意義深い訓話をされた。又時々児童に対し「この渋沢が皆の親である」と懇々と慰め且つ諭された。
 - 第30巻 p.336 -ページ画像 
 渋沢院長は自身の信念に基いて誠心誠意養育院の経営に当られたことは上述の如くであつて、欧米の進んだ社会事業にも通じながら我が国情・国風から産れる社会事業の進展を企図された。そうしてその事業振りは極めて質実であると共に、一面理想的・進歩的に考へられ、若いものゝ抱負や研究心を喜ばれた。
        ○
 渋沢院長は院の事業に対して常に極めて熱心であると共に決して事務を忽にされず、自分も安達幹事と共にひどく叱られたことがある、平素の温容と異つて極めて厳しく叱られるが恰も厳父の叱責であり、又誠意の爆発であつた。
 子爵は時々愛敬のある諧謔を言はれた。最近或先輩が自分に思ひ出話をした。『君との初対面はウツド博士が来朝し、養育院の巣鴨分院視察に行つた時であつた。その時子爵が君を紹介し、この人は身体は小さいが心は大きいと言はれたのを覚えてゐる』と。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 渋沢子爵と公人としての私(DK300029k-0084)
第30巻 p.336-338 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 【拝啓・・・矢吹慶輝】(DK300029k-0085)
第30巻 p.338 ページ画像

  謹啓 故渋沢老子爵に関する想出執筆送稿御依願之処、多忙の為時期を失し失礼仕候、乍遅延御挨拶迄右申述候 敬具
                      矢吹慶輝

〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 【拝啓・・・十一月十日 篠崎篤三】(DK300029k-0086)
第30巻 p.338 ページ画像

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〔参考〕救護事業 第三七年第四二三号・第一―六六頁 昭和一二年一一月 社会事業史上に於ける渋沢栄一翁(承前)(DK300029k-0087)
第30巻 p.338-352 ページ画像

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〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 附録・第一―三五頁 昭和八年三月刊(DK300029k-0088)
第30巻 p.352-364 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  附録・第一―三五頁 昭和八年三月刊
  過去六十年間の養育院諸統計
   一、収容者統計
    1. 収容者入出院総数
    2. 収容者入院種類別
    3. 収容者出院種類別
    4. 収容者逃亡種類別
    5. 収容者死亡種類別
    6. 収容者年度末現在種類別
    7. 収容者最近十ケ年収容所別
   二、財産
    1. 基本財産
    2. 土地建物
   三、経費
   四、寄附金
   五、寄附物品評価額
   寄附者氏名
   養育院年表
   本院名誉職員及吏員一覧
  一、収容者統計
    1 入出院総数

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                                                       明治五年を百としての指数 年 度     前年度より越    入 院     出 院     逃 亡    死 亡    年度末現在  入院者    年度末現在者 明治五年        ―     三一三      四〇      六      二二    二四五   一〇〇・〇    一〇〇・〇 同 六年      二四五     四九三     二三四     五八     一九〇    二五六   一五七・五    一〇四・五 同 七年      二五六     六六七     二七五     八三     二〇八    三五七   二一三・一    一四五・七 同 八年      三五七     五七二     二六三     七二     一九八    三九六   一八二・七    一六一・六 同 九年      三九六     三七〇     一八九     一三     一七五    三八九   一一八・二    一五八・八 同 十年      三八九     二九二     一四〇      二     一九八    三四一    九三・三    一三九・二 同十一年      三四一     四〇三     一四六      一     二二七    三七〇   一二八・八    一五一・〇 同十二年      三七〇     五七六     二四一      ―     二三二    四七三   一八四・〇    一九三・一 同十三年      四七三     五八二     二一一      ―     三五五    四八九   一八五・九    一九九・六 同十四年      四八七     四四四     二五三      ―     三三三    三四七   一四一・九    一四一・六 小 計             四、七一二   一、九九二    二三五   二、一三八 明治十五年     三四七     一六八     二〇八      ―     一三五    一七二    五三・七     七〇・二 同 十六年     一七二     一八二      八一      一     一〇〇    一七二    五八・一     七〇・二 同 十七年     一七二     一八四      八三      ―     一一八    一五五    八五・八     六三・三 同 十八年     一五五     一八九      八〇      ―      七八    一八六    六〇・四     七五・九 同 十九年     一八六     四八四     一五〇      二     二五九    二五九   一五四・六    一〇五・七  以下p.353 ページ画像  同 二十年     二五九     二五七     一三二      ―     一二九    二五五    八二・一    一〇四・一 同 二十一年    二五五     二五六     一二〇      ―     一一五    二七六    八一・八    一一二・七 同 二十二年    二七六     三九六     一三一     一五     一八一    三四五   一二六・五    一四〇・八 同 二十三年    三四五     八〇七     二四五     一五     四五八    四三四   二五七・八    一七七・一 同 二十四年    四三四     七六四     二九四     一四     三六八    五二二   二四四・一    二一三・一 小 計             三、六八七   一、五二四     四七   一、九四一 明治二十五年    五二二     七二七     三四三     一〇     三四八    五四八   二三二・三    二二三・七 同 二十六年    五四八     五四七     二六七     一一     二五八    五五九   一七四・八    二二八・二 同 二十七年    五五九     五五四     二四四     一一     二六七    五九一   一七七・〇    二四一・二 同 二十八年    五九一     五九七     二九七     一九     三一四    五五八   一九〇・八    二二七・八 同 二十九年    五五八     四八五     二五五     一三     二五六    五一九   一五五・〇    二一一・八 同 三十年     五一九     五〇三     二〇一      九     二六六    五四六   一六〇・七    二二二・八 同 三十一年    五四六     六二七     二四八     二五     三三六    五六四   二〇〇・三    二三〇・二 同 三十二年    五六四     六〇一     二〇九     三五     三五二    五六九   一九二・〇    二三二・二 同 三十三年    五六九     七二四     二四四     七四     三二〇    六五五   二一三・一    二六七・三 同 三十四年    六五五     八八二     三〇六     五三     三七五    八〇三   二八一・八    三二七・八 小 計             六、二四七   二、六一四    二六〇   三、〇九二 明治三十五年    八〇三   一、一二三     四三三     九九     五一二    八八二   三五八・八    三六〇・〇 同 三十六年    八八二   一、六八一     五〇〇    一七二     七八一  一、一一〇   五三七・〇    四五三・一 同 三十七年  一、一一〇   一、六二三     五九二    一七八     七六五  一、一九八   五一八・五    四八九・〇 同 三十八年  一、一九八   一、五一二     六〇八    一五四     六二三  一、三二五   四八三・一    五四〇・八 同 三十九年  一、三二五   一、七四四     六四七    二三二     八〇五  一、三八五   五五七・二    五六五・三 同 四十年   一、三八五   一、九九八     七七〇    二二四     八〇九  一、五八〇   六三八・三    六四四・九 同 四十一年  一、五八〇   二、三五三   一、二〇五    二四〇     七九七  一、六九一   七五一・八    六九〇・二 同 四十二年  一、六九一   一、九九八   一、〇七三    一五六     七四四  一、七一六   六三八・三    七〇〇・四 同 四十三年  一、七一六   一、八八九     八四八    一六六     七二八  一、八六三   六〇三・五    七六〇・四 同 四十四年  一、八六三   二、〇〇五     八三四    一八一     八三五  二、〇一八   六四〇・六    八二三・七 小 計            一七、九二六   七、五一〇  一、八〇二   七、三九九 明治四十五年  二、〇一八   二、一三三     八四四    一八三     八六六  二、二五八   六八一・五    九二一・六 大正元年 大正二年    二、二五八   二、七四一   一、一五五    一九二   一、一九六  二、四五六   八七五・七  一、〇〇二・四 同 三年    二、四五六   二、八三四   一、二四六    二一八   一、〇三八  二、七八八   九〇五・四  一、一三八・〇 同 四年    二、七八八   二、四八〇   一、二六五    二六六     九八三  二、七五四   七九二・三  一、一二四・一 同 五年    二、七五四   二、〇六六   一、一五二    一七四     八五九  二、六三五   六六〇・一  一、〇七五・五 同 六年    二、六三五   二、〇四二     九八〇    一七一     九六五  二、五六一   六五二・四  一、〇四五・三 同 七年    二、五六一   二、二七九   一、〇二五    二七六   一、一一七  二、四二二   七二八・二    九八八・六 同 八年    二、四二二   二、〇一六     九九二    二五六   一、〇〇〇  二、一九〇   六四四・一    八九三・九 同 九年    二、一九〇   一・七六四[一、七六四]     九一四    一八四     七八四  二、〇七二   五六三・六    八四五・七 同 十年    二、〇七二   一、九六二   一、〇三九    二三七     七七七  一、九八一   六二六・八    八〇八・六 小 計            二二、三一七  一〇、六一二  二、一五七   九、五八五 大正十一年   一、九八一   二、〇四二   一、〇一六    一八〇     七六四  二、〇六三   六五二・四    八四二・〇 同 十二年   二、〇六三   一、五九六     八一四    二一一     六八〇  一、九五四   五〇九・九    七九七・六 同 十三年   一、九五四   一、八四一     八九二    一七九     五七三  二、一五一   五八八・二    八七八・〇 同 十四年   二、一五一   二、〇二六   一、一一一    一四三     六八七  二、二三六   六四七・三    九一二・七 大正十五年   二、二三六   二、一五八   一、三五八    一六六     六九二  二、一七八   六八九・四    八八九・〇 昭和元年 昭和二年    二、一七八   一、四六四     八七二    一一二     五七八  二、〇八〇   四六七・七    八四九・〇 同 三年    二、〇八〇   一、四三一     六一六    一一六     六九三  二、〇八六   四六〇・一    八五一・四 同 四年    二、〇八六   一、六一〇     六九八    一三〇     六五二  二、二一六   五一四・四    九〇四・五 同 五年    二、二一六   二、〇二〇     九五一    一四四     七九五  二、三四六   六四五・四    九五七・六 同 六年    二、三四六   二、六四三   一、六八〇    一七二     七六八  二、三六九   八一二・五    九六六・九 小 計            一八、八三一  一〇、〇〇八  一、五五三   六、八八二 合 計            七三、七二〇  三四、二六〇  六、〇五四  三一、〇三七 




 - 第30巻 p.354 -ページ画像 
 備考 右表中昭和六年度に於ける入院及び出院数が例年に比し著しく多数に上れるは、昭和七年一月一日救護法施行の結果、従来収容中の窮民・棄児・遺児・迷児の四種が救護法窮民・市費窮民・院資窮民の三種に分類せられたるを以て、その組替に異動したる六百五十三人の増を入院者に減を出院者に孰れも計上せり、然れば例年に比すべき入出院数は右の員数より六百五十三人を除けるものにして即ち入院者は千九百九十人、出院者は千二十七人なり
    2 入院者種類別

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  年 度     窮民     行旅病人     棄児     遺児    迷児     感化生     合計 明治五年     三一三       ―      ―      ―      ―      ―     三一三 同 六年     四九三       ―      ―      ―      ―      ―     四九三 同 七年     六六七       ―      ―      ―      ―      ―     六六七 同 八年     五七二       ―      ―      ―      ―      ―     五七二 同 九年     三七〇       ―      ―      ―      ―      ―     三七〇 同 十年     二九二       ―      ―      ―      ―      ―     二九二 同 十一年    四〇三       ―      ―      ―      ―      ―     四〇三 同 十二年    五七六       ―      ―      ―      ―      ―     五七六 同 十三年    五八二       ―      ―      ―      ―      ―     五八二 同 十四年    四四四       ―      ―      ―      ―      ―     四四四 小 計    四、七一二       ―      ―      ―      ―      ―   四、七一二 明治十五年    一六八       ―      ―      ―      ―      ―     一六八 同 十六年     四二     一四〇      ―      ―      ―      ―     一八二 同 十七年     二一     一六三      ―      ―      ―      ―     一八四 同 十八年     四五     一一五     一三      六     一〇      ―     一八九 同 十九年     五七     三二四     七一     二二     一〇      ―     四八四 同 二十年     七二     一四五     三〇      五      五      ―     二五七 同二十一年     六一     一五一     三一      一     一二      ―     二五六 同二十二年    一〇五     二一九     五五     一一      六      ―     三九六 同二十三年    二五五     三三〇    一三五     四〇     四七      ―     八七〇 同二十四年    一八二     四〇四     九九     三二     四七      ―     七六四 小 計    一、〇〇八   一、九九一    四三四    一一七    一三七      ―   三、六八七 明治二十五年   一一七     三九二    一四四     四六     二八      ―     七二七 同 二十六年   一〇四     二九三     九一     二六     三三      ―     五四七 同 二十七年    八九     三〇五     八八     三三     三九      ―     五五四 同 二十八年   一三九     三五四     四一     三三     三〇      ―     五九七 同 二十九年   一二一     二七一     四九     一五     二九      ―     四八五 同 三十年    一五三     二七二     三七     一三     二八      ―     五〇三 同 三十一年   一五六     三四〇     六五     三一     三五      ―     六二七 同 三十二年   一六七     三四二     四六     一五     三一      ―     六〇一 同 三十三年   一四四     四二九     三八     一〇     二二     八一     七二四 小 計    一、一九〇  一六、四二四    三九五     四三    三九三    三八六  一八、八三一 合 計   一一、一四五  五二、六九九  三、五五七  一、〇四〇  三、五〇一  一、七七八  七三、七二〇 




 備考 右表中昭和六年度の窮民数七三七人中には救護法施行前即ち昭和六年十二月末迄に入院の窮民四七人、同七年一月一日同法施行の結果窮民・棄児・遺児・迷児より組替へられたる救護法窮民三七四人、市費窮民二一三人、院資窮民六六人及び一月以降入院の救護法窮民三三人、市費窮民四人を含めり。
    3 出院者種類別

 - 第30巻 p.355 -ページ画像 

図表を画像で表示出院者種類別

 年 度     窮民     行旅病人     棄児   遺児   迷児   感化生     合計 明治五年     四〇       ―      ―    ―      ―    ―      四〇 同 六年    二三四       ―      ―    ―      ―    ―     二三四 同 七年    二七五       ―      ―    ―      ―    ―     二七五 同 八年    二六三       ―      ―    ―      ―    ―     二六三 同 九年    一八九       ―      ―    ―      ―    ―     一八九 同 十年    一四〇       ―      ―    ―      ―    ―     一四〇 同十一年    一四六       ―      ―    ―      ―    ―     一四六 同十二年    二四一       ―      ―    ―      ―    ―     二四一 同十三年    二一一       ―      ―    ―      ―    ―     二一一 同十四年    二五三       ―      ―    ―      ―    ―     二五三 小 計   一、九九二       ―      ―    ―      ―    ―   一、九九二 明治十五年   二〇八       ―      ―    ―      ―    ―     二〇八 同 十六年    三七      四四      ―    ―      ―    ―      八一 同 十七年    三三      五〇      ―    ―      ―    ―      八三 同 十八年    一五      五七      二    一      五    ―      八〇 同 十九年    一六     一〇六     一五    八      五    ―     一五〇 同 二十年    二八      六五     二四    四     一一    ―     一三二 同二十一年    二六      五四     二一    七     一二    ―     一二〇 同二十二年    二九      六七     三〇    三      二    ―     一三一 同二十三年    六四     一二四     一六   一〇     三一    ―     二四五 同二十四年    四二     一四八     三六   一八     五〇    ―     二九四 小 計     四九八     七一五    一四四   五一    一一六    ―   一、五二四 明治二十五年   四一     一七四     八九   一二     二七    ―     三四三 同 二十六年   四四     一四五     二七   一八     三三    ―     二六七 同 二十七年   二七     一三五     二八   一八     三六    ―     二四四 同 二十八年   五四     一四〇     三六   三九     二八    ―     二九七 同 二十九年   三九     一一二     五六   二〇     二八    ―     二五五 同 三十年    二四     一〇三     三七   一三     二四    ―     二〇一 同三十一年    三九     一三九     二一   二〇     二九    ―     二四八 同三十二年    二八     一一二     一六   二八     二五    ―     二〇九 同三十三年    二五     一八四      九    七     一九    ―     二四四 同三十四年    三八     一九四     二〇    五     四七    二     三〇六 小 計     三五九   一、四三八    三三九  一八〇    二九六    二   二、六一四 明治三十五年   三一     三〇四     四〇   一九     三四    五     四三三 同三 十六年   四一     三三五     三三   二一     六六    四     五〇〇 同三 十七年   四五     三九九     五四   二一     六六    七     五九二 同三 十八年   三三     三八八     四七   一一     九六   三三     六〇八 同三 十九年   四三     四四六     五〇   二二     八一    五     六四七 同四  十年   四七     五五一     四九   二一    一〇一    一     七七〇 同四 十一年   七四     九一〇     五三   一六    一四六    六   一、二〇五 同四 十二年   四七     八一四     六七   一四    一二〇   一一   一、〇七三 同四 十三年   五八     五九九     六四   一二    一〇六    九     八四八 同四 十四年   五一     五四六     五七   二三     七九   七八     八三四 小 計     四七〇   五、二九二    五一四  一八〇    八九五  一五九   七、五一〇 明治四十五年   二二     六一七     五八   一二     九六   三九     八四四 大正元年 大正二年     四〇     八九一     五三   一八     七八   七五   一、一五五 同 三年     三四     九一二     七三   四五    一二五   五七   一、二四六 同 四年     七三     八七八     七五   一九    一三七   八三   一、二六五 同 五年     七七     八四七     六八   二六     六二   七二   一、一五二 同 六年     五八     六八四     五四   二二     八三   七九     九八〇  以下p.356 ページ画像  年 度     窮民    行旅病人      棄児   遺児   迷児    感化生   合計 大正 七年    八五     六四四     八三   三二    一一一   七〇   一、〇二五 同  八年    九五     六六〇     五五   一七    一〇三   六二     九九二 同  九年    五二     六八〇     五五   一四     六三   五〇     九一四 同  十年    七六     七五九     七六   二二     七六   三〇   一、〇三九 小 計     六一二   七、五七二    六五〇  二二七    九三四  六一七  一〇、六一二 大正十一年    二四     八五四     五四    六     六二   一六   一、〇一六 同 十二年    一四     七四二     一七    五     二五   一一     八一四 同 十三年    一八     八一七      八    一     三五   一三     八九二 同 十四年    一〇   一、〇四一     二四    七     二一    八   一、一一一 大正十五年    三七   一、二二一     二〇    六     五九   一五   一、三五八 昭和元年 昭和二年     二七     七六九     三二    三     二七   一四     八七二 同 三年     二四     五三三     二六    二     二〇   一一     六一六 同 四年     一四     六三九     一九    三     一一   一二     六九八 同 五年     二三     八八三     一四    二     一四   一五     九五一 同 六年    三四五     九三六    二九一   五四     三四   二〇   一、六八〇 小 計   四、四六七   八、四三五    五〇五   八九    三〇八  一三五  一〇、〇〇八 合 計     五三六  二三、四五二  二、一五二  七二七  二、五四九  九一三  三四、二六〇 



 備考 右表中昭和六年度の窮民三四五人中には昭和六年十二月末迄の出院者たる二三人、昭和七年一月一日救護法施行に伴ひ救護法窮民或は院資窮民に組替へられたる二九七人及び同法施行後の出院者救護法窮民八人、市費窮民一三人、院資窮民四人を含む。而して同年度の棄児二九一人、遺児五四人、迷児三四人中には昭和六年十二月末迄の出院者棄児七人、遺児四児、迷児一二人及び救護法施行に伴ひ救護法窮民或は市費窮民に組替へられたる棄児二八四人、遺児五〇人、迷児二二人を含む。
    4 逃亡者種類別

図表を画像で表示逃亡者種類別

 年 度    窮民   行旅病人   棄児   遺児   迷児   感化生   合 計 明治五年    六      ―    ―    ―    ―    ―      六 同 六年   五八      ―    ―    ―    ―    ―     五八 同 七年   八三      ―    ―    ―    ―    ―     八三 同 八年   七二      ―    ―    ―    ―    ―     七二 同 九年   一三      ―    ―    ―    ―    ―     一三 同 十年    二      ―    ―    ―    ―    ―      二 同十一年    一      ―    ―    ―    ―    ―      一 同十二年    ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 同十三年    ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 同十四年    ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 小 計   二三五      ―    ―    ―    ―    ―    二三五 明治十五年   ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 同 十六年   ―      一    ―    ―    ―    ―      一 同 十七年   ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 同 十八年   ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 同 十九年   ―      二    ―    ―    ―    ―      二 同 二十年   ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 同二十一年   ―      ―    ―    ―    ―    ―      ― 同二十二年   四      九    二    ―    ―    ―     一五 同二十三年   二      九    ―    一    三    ―     一五 同二十四年   三     一一    ―    ―    ―    ―     一四  以下p.357 ページ画像  小 計     九     三二    二    一    三    ―     四七 明治二十五年  ―      八    二    ―    ―    ―     一〇 同 二十六年  三      四    ―    ―    四    ―     一一 同 二十七年  二      五    二    ―    二    ―     一一 同 二十八年  三     一二    二    ―    二    ―     一九 同 二十九年  三      七    二    ―    一    ―     一三 同  三十年  三      五    ―    ―    一    ―      九 同 三十一年  二     一三    五    ―    五    ―     二五 同 三十二年  四     二三    三    ―    五    ―     三五 同 三十三年  三     三〇    五    ―    四   三二     七四 同 三十四年  ―     二四    三    ―    二   二四     五三 小 計    二三    一三一   二四    ―   二六   五六    二六〇 明治三十五年  七     七五    三    一    五    八     九九 同 三十六年  七    一三八    二    ―   一〇   一五    一七二 同 三十七年  五    一五三    二    四   一〇    四    一七八 同 三十八年  二    一〇九    三    ―   二三   一七    一五四 同 三十九年 一〇    一八一    五    一   二五   一〇    二三二 同  四十年  五    一五八    五    三   三九   一四    二二四 同 四十一年  五    一三九   一四    五   五一   二六    二四〇 同 四十二年  一     九八    二    ―   二五   三〇    一五六 同 四十三年  二     九八   一〇    ―   二九   二七    一六六 同 四十四年  二    一〇八    六    三   三六   二六    一八一 小 計    四六  一、二五七   五二   一七  二五三  一七七  一、八〇二 明治四十五年  二    一一一    三    ―   四二   二五    一八三 大正元年 大正二年    二    一一八    六    二   四五   一九    一九二 同 三年    一    一六七    一    ―   三二   一七    二一八 同 四年   一一    一五三    六    一   六二   三三    二六六 同 五年   一〇    一〇五    五    五   二八   二一    一七四 同 六年    二    一一九    二    一   二八   一九    一七一 同 七年    六    一八一   一二    一   六一   一五    二七六 同 八年    七    一五六    四    ―   五三   三六    二五六 同 九年    八    一二九    一    ―   三一   一五    一八四 同 十年    五    一六二    三    ―   四六   二一    二三七 小 計    五四  一、四〇一   四三   一〇  四二八  二二一  二、一五七 大正十一年   九    一二三    一    ―   一一   三六    一八〇 同 十二年  一一    一三七    三    ―   二二   三八    二一一 同 十三年   九    一一一    二    ―   二〇   三七    一七九 大正十四年   五     八七    三    ―   二〇   二八    一四三 大正十五年   八    一一二    四    ―   一九   二三    一六六 昭和元年 昭和二年    七     七五    七    一    八   一四    一一二 同 三年    三     七八    七    一   一〇   一七    一一六 同 四年    六     九二    三    ―    四   二五    一三〇 同 五年    八    一一五    六    一    五    九    一四四 同 六年    九    一三七    六    一    八   一一    一七二 小 計    七五  一、〇六七   四二    四  一二七  二三八  一、五五三 合 計   四四二  三、八八八  一六三   三二  八三七  六九二  六、〇五四 



 備考 右表中昭和六年度窮民数九人は救護法施行前即ち昭和六年十二月迄の窮民七人及び同法施行後即ち七年一月以降の救護法窮民二人を含めり。

    5 死亡者種類別
 - 第30巻 p.358 -ページ画像 

図表を画像で表示死亡者種類別

 年 度     窮民    行旅病人     棄児   遺児   迷児   感化生   合 計 明治五年     二二      ―      ―    ―    ―    ―     二二 同 六年    一九〇      ―      ―    ―    ―    ―    一九〇 同 七年    二〇八      ―      ―    ―    ―    ―    二〇八 同 八年    一九八      ―      ―    ―    ―    ―    一九八 同 九年    一七五      ―      ―    ―    ―    ―    一七五 同 十年    一九八      ―      ―    ―    ―    ―    一九八 同十一年    二二七      ―      ―    ―    ―    ―    二二七 同十二年    二三二      ―      ―    ―    ―    ―    二三二 同十三年    三五五      ―      ―    ―    ―    ―    三五五 同十四年    三三三      ―      ―    ―    ―    ―    三三三 小 計   二、一三八      ―      ―    ―    ―    ―  二、一三八 明治十五年   一三五      ―      ―    ―    ―    ―    一三五 同 十六年   三三      六七      ―    ―    ―    ―    一〇〇 同 十七年   一八     一〇〇      ―    ―    ―    ―    一一八 同 十八年   一六      五八      二    一    一    ―     七八 同 十九年   四五     一九六     一〇    六    二    ―    二五九 同 二十年   二五      九九      五    ―    ―    ―    一二九 同二十一年   二六      八六      三    ―    ―    ―    一一五 同二十二年   五三     一一五      九    四    ―    ―    一八一 同二十三年   一九三    一九七     五六    九    三    ―    四五八 同二十四年   一〇四    一九七     五七    六    四    ―    三六八 小 計     六四八  一、一一五    一四二   二六   一〇    ―  一、九四一 明治二十五年   六一    二一四     六八    五    ―    ―    三四八 同 二十六年   六二    一六五     二九    一    一    ―    二五八 同 二十七年   五五    一七二     三二    八    ―    ―    二六七 同 二十八年   六七    二二〇     二二    五    ―    ―    三一四 同 二十九年   七七    一五三     二三    二    一    ―    二五六 同  三十年  一一一    一三五     一六    四    ―    ―    二六六 同 三十一年  一一〇    一八七     三五    四    ―    ―    三三六 同 三十二年  一三六    一九五     一五    五    一    ―    三五二 同 三十三年   九七    二〇二     一八    三    ―    ―    三二〇 同 三十四年   八七    二八二      六    ―    ―    ―    三七五 小 計     八六三  一、九二五    二六四   三七    三    ―  三、〇九二 明治三十五年  一一三    三七五     一九    三    ―    二    五一二 同 三十六年  一三〇    五九九     三四   一二    六    ―    七八一 同 三十七年   九五    六二五     二六   一三    五    一    七六五 同 三十八年   七五    五一五     二六    五    二    ―    六二三 同 三十九年   七〇    六八一     三七   一二    五    ―    八〇五 同  四十年   九四    六三六     五五   一四    七    三    八〇九 同 四十一年   八五    六四六     五二    六    四    四    七九七 同 四十二年   七二    六三〇     二五   一四    一    二    七四四 同 四十三年   六三    六三三     二二    六    二    二    七二八 同 四十四年   六八    七二〇     二九   一〇    六    二    八三五 小 計     八六五  六、〇六〇    三二五   九五   三八   一六  七、三九九 明治四十五年   八一    七一七     四四   一四    七    三    八六六 大正元年 大正二年     八九  一、〇三四     四二   一九   一〇    二  一、一九六 同 三年     八二    九〇二     三三    九   一〇    二  一、〇三八 同 四年     八五    八五七     二五    九    六    一    九八三 同 五年     五八    七六〇     二七    九    一    四    八五九 同 六年     六七    八五九     二二    七    七    三    九六五 同 七年    一二八    九四二     三一    六    五    五  一、一一七  以下p.359 ページ画像  同 八年    一二一    八二九     二九   一七    三    一  一、〇〇〇 同 九年     四七    六九二     二三   一四    七    一    七八四 同 十年     三四    七〇五     三〇    三    二    三    七七七 小 計     七九二  八、二九七    三〇六  一〇七   五八   二五  九、五八五 大正十一年    三三    七〇八     一九    四    ―    ―    七六四 同 十二年    三五    六〇八     三一    三    二    一    六八〇 同 十三年     九    五二三     三二    二    二    五    五七三 同 十四年    一一    六四二     三二    二    ―    ―    六八七 大正十五年    一三    六六八     一〇    一    ―    ―    六九二 昭和元年 昭和二年     一八    五三三     二五    ―    一    一    五七八 同 三年      一    六三八     一一    一    一    一    六九三 同 四年     三六    六〇一     一二    二    ―    一    六五二 同 五年     四一    七三八     一四    一    ―    一    七九五 同 六年     四七    七〇二     一九    ―    ―    ―    七六八 小 計     二八四  六、三六一    二〇五   一六    六   一〇  六、八八二 合 計   五、五九〇 二三、七五八  一、二四二  二八一  一一五   五一 三一、〇三七 



 備考 右表中昭和六年度の窮民数四七人は救護法施行前即ち昭和六年十二月末迄の窮民三〇人、同法施行後即ち同七年一月以降の救護法窮民一六人及び市費窮民の一人を含めり。
    6 年度末現在者種類別

図表を画像で表示年度末現在者種類別

 年 度    窮民    行旅病人   棄児   遺児   迷児   感化生   合 計 明治五年   二四五      ―    ―    ―    ―    ―    二四五 同 六年   二五六      ―    ―    ―    ―    ―    二五六 同 七年   三五七      ―    ―    ―    ―    ―    三五七 同 八年   三九六      ―    ―    ―    ―    ―    三九六 同 九年   三八九      ―    ―    ―    ―    ―    三八九 同 十年   三四一      ―    ―    ―    ―    ―    三四一 同十一年   三七〇      ―    ―    ―    ―    ―    三七〇 同十二年   四七三      ―    ―    ―    ―    ―    四七三 同十三年   四八九      ―    ―    ―    ―    ―    四八九 同十四年   三四七      ―    ―    ―    ―    ―    三四七 同十五年   一七二      ―    ―    ―    ―    ―    一七二 同十六年   一四四     二八    ―    ―    ―    ―    一七二 同十七年   一一四     四一    ―    ―    ―    ―    一五五 同十八年   一二八     四一    九    四    四    ―    一八六 同十九年   一二四     六一   五五   一二    七    ―    二五九 同二十年   一四三     四二   五六   一三    一    ―    二五五 同二十一年  一五二     五三   六三    七    一    ―    二七六 同二十二年  一七一     八一   七七   一一    五    ―    三四五 同二十三年  一六七     八一  一四〇   三一   一五    ―    四三四 同二十四年  二〇〇    一二九  一四六   三九    八    ―    五二二 同二十五年  二一五    一二五  一三一   六八    九    ―    五四八 同二十六年  二一〇    一〇四  一六六   七五    四    ―    五五九 同二十七年  二一五     九七  一九二   八二    五    ―    五九一 同二十八年  二三〇     七九  一七三   七一    五    ―    五五八 同二十九年  二三二     七八  一四一   六四    四    ―    五一九 同三十年   二四七    一〇七  一二五   六〇    七    ―    五四六 同三十一年  二五二    一〇八  一二九   六七    八    ―    五六四 同三十二年  二五一    一二〇  一四一   四九    八    ―    五六九 同三十三年  二七〇    一三三  一四七   四九    七   四九    六五五 同三十四年  二八三    二三四  一七九   五五    四   四八    八〇三  以下p.360 ページ画像  年 度    窮民    行旅病人   棄児   遺児   迷児   感化生   合 計 明治三十五年 二七七    三一八  一八四   五三   一二   三八    八八二 同 三十六年 二九四    四九一  二一一   五九   二〇   三五  一、一一〇 同 三十七年 二八六    五〇八  二三三   八四   五七   三〇  一、一九八 同 三十八年 二八二    五五七  二七五  一〇一   四七   六三  一、三二五 同 三十九年 二七二    六〇一  二九三   九五   六一   六三  一、三八五 同  四十年 二八八    七一〇  三四六   八〇   六七   八九  一、五八〇 同 四十一年 二九六    六八五  三九〇  一〇八   五九  一五三  一、六九一 同 四十二年 三〇九    六二六  四四八  一〇八   四七  一七八  一、七一六 同 四十三年 三一二    七一八  四三七  一〇二   五七  二三七  一、八六三 同 四十四年 三四二    八三二  四三三   九七   七九  二三五  二、〇一八 明治四十五年 三五八    九八八  四四四  一〇一  一二二  二四五  二、二五八 大正元年 大正二年   三四七  一、一一五  四六六  一三四  一四六  二四八  二、四五六 同 三年   三九四  一、三五六  五〇四  一三八  一四〇  二五六  二、七八八 同 四年   三九九  一、三六七  五三八  一三四   九四  二二二  二、七五四 同 五年   三九八  一、二九二  四八三  一二四  一一一  二二七  二、六三五 同 六年   四〇六  一、二四〇  四八五  一一四  一〇三  二一三  二、五六一 同 七年   四七二  一、〇九七  四五二   九八   八七  二一六  二、四二二 同 八年   四一一  一、〇四〇  四四二   八八   六二  一四七  二、一九〇 同 九年   三八四  一、〇〇三  四〇七   八一   七三  一二四  二、〇七二 同 十年   三五一  一、〇四〇  三五七   六六   四八  一一九  一、九八一 同十一年   三五七  一、一八二  三二三   七〇   一三  一一八  二、〇六三 同十二年   三二七  一、一二四  三〇四   六四   二六  一〇九  一、九五四 同十三年   二九九  一、三五〇  三〇八   六五   三一   九八  二、一五一 同十四年   二九四  一、四二五  二九四   六三   四六  一一四  二、二三六 大正十五年  二五一  一、四〇〇  三二九   五八   二〇  一二〇  二、一七八 昭和元年 昭和二年   二四五  一、三三六  三一二   五五   一五  一一七  二、〇八〇 同 三年   二四三  一、三四八  三〇一   五三   一五  一二六  二、〇八六 同 四年   二六一  一、四六四  二九三   五三   一九  一二六  二、二一六 同 五年   三一〇  一、五三九  二九二   五三   二四  一二八  二、三四六 同 六年   六四六  一、六〇一    ―    ―    ―  一二二  二、三六九 



 備考 右表中昭和六年度末の窮民は従来の窮民と異なり、救護法施行の結果、新しく作られたる救護法窮民・市費窮民・院資窮民の三種を、従前との比較の為め便宜上綜合一括したるものにして、その内訳は救護法窮民三八一人、市費窮民二〇三人、院資窮民六二人、合計六四六人なり。
        7 最近十年間収容者年度末現在収容所別(自大正十一年度至昭和六年度)

図表を画像で表示最近十年間収容者年度末現在収容所別(自大正十一年度至昭和六年度)

     収容所別       大正十一年   同十二年   同十三年    同十四年    大正十五年   昭和二年    同三年     同四年     同五年     同六年                                               昭和元年 板橋本院 院内収容       八九六     八七三   一、〇四九   一、一一七   一、一六〇   一、〇九五   一、一二三   一、二六〇   一、三六六   一、四二一      院外委託 保育預   二九三     二五九     一九四     一五二     一一七     一二七     一〇四      六七      五一      四五           其他委託   五四      六三     一一四     一四七     一五二     一三九     一五五     一七三     一七六     一六二           計     三四七     三二二     三〇八     二九九     二六九     二六六     二五九     二四〇     二二七     二〇七      合計       一、二四三   一、一九五   一、三五七   一、四一六   一、四二九   一、三六一   一、三八二   一、五〇〇   一、五九三   一、六二八  以下p.361 ページ画像  巣鴨分院 院内収容       三四一     四一九     三四四     三三九     二四四     二二六     二一八     二三三     二六九     二八七      院外委託        六一      七〇      六九      六七      六四      七〇      七六      八〇      七八      六四      合計         四〇二     四八九     四一三     四〇六     三〇八     二九六     二九四     三一三     三四七     三五一 安房分院 院内収容       一二二       ―     一〇五     一一五     一三七     一一八      九七      九〇      八九      七七      院外委託         二       二       二       二       二       ―       ―       ―       ―       ―      合計         一二四       二     一〇七     一一七     一三九     一一八      九七      九〇      八九      七七 板橋分院 院内収容       一七六     一五九     一七六     一八三     一八二     一八八     一八七     一八七     一八九     一九一 井之頭学校 校内収容      一〇〇     一〇〇      九一     一〇四     一一三     一一三     一二二     一二三     一二三     一一六       校外委託       一八       九       七      一〇       七       四       四       三       五       四       合計        一一八     一〇九      九八     一一四     一二〇     一一七     一二六     一二六     一二八     一二二 総 計  院内収容     一、六三五   一、五五一   一、七六五   一、八五八   一、八三六   一、七四〇   一、七四七   一、八九三   二、〇三六   二、〇九四      院外委託 保育預   二九三     二五九     一九四     一五二     一一七     一二七     一〇四      六七      五一      四五           其他委託  一三五     一四四     一九二     二二六     二二五     二一三     二三五     二五六     二五九     二三〇           計     四二八     四〇三     三八六     三七八     三四二     三四〇     三三九     三二三     三一〇     二七五      合計       二、〇六三   一、九五四   二、一五一   二、二三六   二、一七八   二、〇八〇   二、〇八六   二、二一六   二、三四六   二、三六九 



  二、財産
    1. 基本財産 (年度末現在)

図表を画像で表示基本財産 (年度末現在)

  年 度      金 額      年 度     金 額               円                  円 明治十八年    三五、〇三一   明治二十四年   一二四、六一一 同 十九年    六七、三二八   同 二十五年   一一九、〇七六 同 二十年    八六、九〇九   同 二十六年   一二二、八〇四 同二十一年   一〇〇、八九三   同 二十七年   一三〇、〇四九 同二十二年   一〇一、四七四   同 二十八年   一三六、四七三 同二十三年   一一八、一〇四   同 二十九年   一五八、九〇〇               円      円 明治三十年   一六九、三八四   明治三十八年   三〇四、一〇〇 同 三十一年  一八〇、三八七   同三十九年    三七〇、一五九 同 三十二年  二三〇、一四九   同 四十年    三八〇、六二四 同 三十三年  二四二、〇三〇   同四十一年    四〇〇、七一六 同 三十四年  二五一、二二〇   同四十二年    三五一、七一三 同 三十五年  二七二、七五五   同四十三年    四三九、三二五 同 三十六年  二六一、八五六   同四十四年    四四〇、八八九 同 三十七年  二八九、五四四   同四十五年    四八六、七八三                   大正元年  以下p.362 ページ画像   年 度     金 額      年 度     金 額              円                 円 大正二年   四八六、七〇五   大正十二年   五七七、六八四 同 三年   三四八、五六三   同十三年    五八九、二六七 同 四年   三八一、七七〇   同十四年    六六九、九〇四 同 五年   四六六、七八五   同十五年  一、〇〇四、〇七七 同 六年   四六六、七八五   昭和元年 同 七年   四八八、七五〇   昭和二年  一、〇八〇、〇六四 同 八年   四九八、九〇九   同三年   一、一五六、二六二 同 九年   五二九、四二八   同四年   一、一六八、九八二 同 十年   五四六、六四一   同五年   一、一七八、〇九一 同十一年   五六一、五六一   同六年   一、一九九、四七六 



    2. 土地及建物 (昭和六年度末現在)

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  種 別      土 地     建 物     所在地              坪       坪 本院      二七、〇一一   五、四九〇   東京府北豊島郡板橋町 巣鴨分院     八、九〇六   二、二八九   東京府北豊島郡西巣鴨町 安房分院     八、四〇七     六〇〇   千葉県安房郡船形町 板橋分院     六、九一五     九七〇   東京府北豊島郡板橋町 井之頭学校    八、九八一     八六二   東京府北多摩郡武蔵野町 在浅草所属地     一八三       ―   東京市浅草区田島町二二・二三番地 在本所所属地     一一四       ―   東京市本所区厩橋四丁目三番地 在上総所属地  二六、七〇〇       ―   千葉県君津郡長浦村 合計      八七、二一七  一〇、二一一 



 備考 本表の土地坪数は台帳面積を、建物坪数は延坪を計上す
  三、経費(歳出決算額)

図表を画像で表示経費(歳出決算額)

 年 度     経常部         臨時部        合 計               円          円          円 明治五年      一、三九三                 一、三九三 同 六年      七、五七二                 七、五七二 同 七年     一八、七七三                一八、七七三 同 八年     一九、〇三三                一九、〇三三 同 九年     一三、四六九                一三、四六九 同 十年     一三、九二〇                一三、九二〇 同十一年     一七、六二三                一七、六二三 同十二年     二一、五六七                二一、五六七 同十三年     二〇、三五二                二〇、三五二 同十四年     一四、九三〇                一四、九三〇 小 計     一四八、六三二               一四八、六三二 明治十五年     七、〇六五                 七、〇六五 同 十六年     五、一一〇                 五、一一〇 同 十七年     四、六三三                 四、六三三 同 十八年     四、二二〇                 四、二二〇 同 十九年     七、〇七二                 七、〇七二 同 二十年     七、一八〇                 七、一八〇 同二十一年     八、一九八                 八、一九八 同二十二年     九、七四一                 九、七四一  以下p.363 ページ画像  同二十三年    一六、〇七四                一六、〇七四 同二十四年    一六、三六五                一六、三六五 小 計      八五、六五八                八五、六五八 明治二十五年   一七、一一二     一二、一〇〇     二九、二一二 同 二十六年   一五、八七〇        一一八     一五、九八八 同 二十七年   一六、九七一      一、五三六     一八、五〇七 同 二十八年   一七、二一七     二五、〇三二     四二、二四九 同 二十九年   二一、六九三      七、四一三     二九、一〇六 同  三十年   二〇、八九五                二〇、八九五 同 三十一年   二四、四九〇      一、三七八     二五、八六八 同 三十二年   二八、一七四      七、二九五     三五、四六九 同 三十三年   三三、七六七      七、四一六     四一、一八三 同 三十四年   四一、〇九〇     一三、七四四     五四、八三四 小 計     二三七、二七九     七六、〇三二    三一三、三一一 明治三十五年   四七、〇四三      三、九〇三     五〇、九四六 同 三十六年   五六、三五二      六、〇〇〇     六二、三五二 同 三十七年   六九、〇四四      一、八六五     七〇、九〇九 同 三十八年   七五、八八四      四、五一一     八〇、三九五 同 三十九年   八一、五三五      二、五二四     八四、〇五九 同  四十年   九七、一七三     一五、〇五三    一一二、二二六 同 四十一年  一一三、一三一    一二六、九一六    二四〇、〇四七 同 四十二年  一二四、七七八      三、五六七    一二八、三四五 同 四十三年  一三五、四九八     二二、五八八    一五八、〇八六 同 四十四年  一三八、三八五     一三、八六六    一五二、二五一 小 計     九三八、八二三    二〇〇、七九三   一、一三九、六一六 明治四十五年  一四九、五五二      二、三二九     一五一、八八一 大正元年 大正二年    一五九、八〇八      七、二〇九     一六七、〇一七 同 三年    一八二、八九三    一九二、〇一八     三七四、九一一 同 四年    一八五、三九一     一〇、二三五     一九五、六二六 同 五年    二二四、〇六三     三八、五一一     二六二、五七四 同 六年    二七八、五四〇     六一、五四〇     三四〇、〇八〇 同 七年    二九三、五八三     一八、五七三     三一二、一五六 同 八年    三二二、四六三     四八、四八六     三七〇、九四九 同 九年    三七九、八三五     三七、九六七     四一七、八〇二 同 十年    三九四、一四八     八三、二三四     四七七、三八二 小 計   二、五七〇、二七六    五〇〇、一〇二   三、〇七〇、三七八 大正十一年   四〇七、九五二  一、〇〇八、〇六六   一、四一六、〇一八 同 十二年   四〇九、六九〇    三四二、三八七     七五二、〇七七 同 十三年   四四六、一七五    二四〇、一九五     六八六、三七〇 同 十四年   四八六、二一九  一、〇八八、五二八   一、五七四、七四七 大正十五年   四七八、七七六    五九〇、九九一   一、〇六九、七六七 昭和元年 昭和二年    四七六、一七六    一六四、九〇九     六四一、〇八五 同 三年    五〇四、九六六     七六、一九八     五八一、一六四 同 四年    五〇八、二五七     四八、六八七     五五六、九四四  以下p.364 ページ画像  年 度     経常部         臨時部        合 計               円          円           円 昭和五年    四九八、〇六九     二五、四五七     五二三、五二六 同 六年    五一〇、九七五     二六、八九二     五三七、八六七 小 計   四、七二七、二五五  三、六一二、三一〇   八、三三九、五六五 合 計   八、七〇七、九二三  四、三八九、二三七  一三、〇九七、一六〇 



    四、寄附金

図表を画像で表示寄附金

 年 度      金 額     年 度     金 額     年 度    金額              円               円                円 明治五年         ―  明治二十二年   四、八三〇  明治三十八年   一〇、六四四 同 六年     一、五四五  同 二十三年   五、二六二  同 三十九年   二九、六六八 同 七年       一三三  同 二十四年   六、四四二  同  四十年   一九、六六三 同 八年       五八八  小 計     三三、五〇九  同 四十一年   四九、五八五 同 九年       一七六  明治二十五年   五、六〇九  同 四十二年   三五、三四五 同 十年       二五二  同 二十六年   四、四八六  同 四十三年   六六、〇三五 同十一年       五三八  同 二十七年   一、〇二六  同 四十四年   四一、九九二 同十二年     一、一四七  同 二十八年   二、六六九  小 計     三〇一、〇八〇 同十三年     二、四七六  同 二十九年   五、一七四  明治四十五年    八、八六九 同十四年       七四六  同  三十年   二、九八九  大正元年 小 計      七、六〇一  同 三十一年   三、九四九  大正二年     一四、六〇六 明治十五年      五九一  同 三十二年  一八、四八三  同 三年     一〇、九八一 同 十六年      二七二  同 三十三年  一五、八二五  同 四年     二七、六八八 同 十七年      二〇四  同 三十四年  一三、〇九八  同 五年     一三、六六七 同 十八年      二三五  小 計     七三、三〇八  同 六年     二六、九三四 同 十九年      三一三  明治三十五年  二四、七六五  同 七年     二〇、四六六 同 二十年    八、四〇六  同 三十六年  一四、四九七  同 八年     二五、四七〇 同二十一年    六、九五二  同 三十七年   八、八八六  同 九年     四〇、三八二                                 同十年      六四、三七〇              円               円                円 小 計    二五三、四三三  大正十五年   七七、三三二  明治[昭和]六年  一九、三五九 大正十一年  一七七、一五六  昭和元年            小 計     六五三、三六二 同 十二年   七八、八五三  同 二年    七七、五二三  合 計   一、三二二、二九三 同 十三年   一七、五七二  同 三年    七四、六五一 同 十四年  一一二、三三九  同 四年    一一、〇九〇                 同 五年     七、四八七 




    五、寄附物品評価額

図表を画像で表示寄附物品評価額

 年 度    評価額    年 度    評価額    円      円 大正四年  二、八六五   大正十三年 一五、一一一 同 五年  四、二三七   同 十四年  二、五二七 同 六年  二、六八七   同 十五年  二、〇二七 同 七年  二、五七〇   昭和元年 同 八年  三、〇一八   同 二年   一、七一二 同 九年  四、〇二六   同 三年   一、七二八 同 十年  三、六三六   同 四年   一、二八三 同十一年  二、四四一   同 五年   三、〇四四 同十二年  四、九二一   同 六年   二、五二〇 



 備考 創立以来大正三年度に至るまで本院へ寄附せられたる物品は品名と数量を掲げ来れるが、大正四年度よりこれが評価額を示すことになつた。依てこゝには同四年より昭和六年度までを表示したのである。


〔参考〕東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 付表 大正一一年一一月刊(DK300029k-0089)
第30巻 p.364-365 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  付表 大正一一年一一月刊
 - 第30巻 p.365 -ページ画像 
創立以来の入院者累年比較
創立以来の経常歳出と収容者一日平均現在数