デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
1款 中央慈善協会
■綱文

第30巻 p.419-453(DK300046k) ページ画像

明治43年4月6日(1910年)

是ヨリ先、当協会評議員・内閣統計局属田中太郎ハ欧米ニ於ケル慈善事業視察ノタメ、明治四十一年五月十三日ヨリ翌四十二年九月二十九日ニ至ル間海外旅行ヲナス。是日栄一、銀行倶楽部ニ於テ同人ノ視察報告会ヲ兼ネテ済貧事業ニ関スル談話会ヲ開催シ、席上一場ノ演説ヲナス。右席上ニ於テ済貧事業ニ関スル講究ヲ継続的ニ当協会ニ委託スベキノ決議ナサレタルニ由リ、同年五月九日ノ当協会評議員会ニ於テ之ガ調査委員ノ指名ヲナシ翌四十四年十月救済事業調査要項成ル。栄一会長トシテ之ニ与ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK300046k-0001)
第30巻 p.419 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
二月二日 曇 寒
○上略 川田鉄弥・猪飼正雄・田中太郎ノ諸氏来話ス ○下略
   ○中略。
五月三日 晴 暖
○上略
十一時半ヨリ田中太郎氏送別ノ為メ小宴ヲ開ク筈ナリシカ、内務省古賀・窪田・井上ノ諸氏、及東京市助役・養育院ノ人々来会ス、一同庭園ヲ散歩シ、午後一時午飧ノ席ニ就キ、予先ツ一場ノ田中氏送別ノ辞ヲ述フ、後田中氏ノ答詞、其他一同ヨリ代ル々々ニ意見ヲ陳述セラレ食卓上頗ル興味ヲ添フ、且細川源太郎ノ講談其他余興アリテ、午後五時散会ス ○下略


竜門雑誌 第二四〇号・第三一頁 明治四一年五月 田中太郎君送別会(DK300046k-0002)
第30巻 p.419 ページ画像

竜門雑誌  第二四〇号・第三一頁 明治四一年五月
○田中太郎君送別会 青淵先生には、本月十三日慈善事業取調の為め欧米漫遊の途に上りたる田中太郎君の為め、本月三日飛鳥山邸に同氏の外、古賀廉造(内務省警保局長)・窪田静太郎(同衛生局長)・井上友一(同参事官)・河田烋(東京市役所助役)・留岡幸助・原胤昭・安達憲忠・桜井円次郎・高畠登代作の諸氏を招待して送別会を催ふされたるが、当日は同趣味を有せらるゝ人々の会合故談論湧くが如く、興の尽くるを知らず漸く黄昏に至り散会せり


竜門雑誌 第二四〇号・第三一頁 明治四一年五月 田中太郎君(DK300046k-0003)
第30巻 p.419-420 ページ画像

竜門雑誌  第二四〇号・第三一頁 明治四一年五月
○田中太郎君 多年慈善救済等の事業に深き趣味を有し、之が調査研究に熱心し、其等の関係より深く我青淵先生の知遇を得、同先生の手
 - 第30巻 p.420 -ページ画像 
より東京市養育院月報の編纂を托されたる内閣統計局属田中太郎君は今般青淵先生の深き援助を以て、多年の宿志に依り、欧米に於ける慈善事業調査の為、往復凡二箇年間の予定を以て、去る十三日横浜解纜の常陸丸にて出発せられたり


竜門雑誌 第二五七号・第六二頁 明治四二年一〇月 ○田中太郎君の帰朝(DK300046k-0004)
第30巻 p.420 ページ画像

竜門雑誌  第二五七号・第六二頁 明治四二年一〇月
○田中太郎君の帰朝 慈善事業調査の為め四十一年五月出発欧米諸国を巡遊せられたる田中太郎君は、略其調査を遂げ、九月二十九日横浜入港の北野丸にて帰朝せられたり


竜門雑誌 第二六三号・第八一―八三頁 明治四三年四月 ○銀行倶楽部に於ける済貧事業談話会(DK300046k-0005)
第30巻 p.420-421 ページ画像

竜門雑誌  第二六三号・第八一―八三頁 明治四三年四月
    ○銀行倶楽部に於ける済貧事業談話会
青淵先生には夙に社会救済事業に対して多大の趣味と深厚なる同情とを有せられ、身繁劇多忙を極めらるゝにも拘はらず、明治初年以来東京市養育院の首脳者として絶えず院務を管掌せらるゝの傍ら、幾多の救済事業の為めにも進んで助力扶掖の労を尽くされ居るは、世人の周ねく知悉する所なるが、近来特に我邦に於ける弱者保護制度の不備と社会事業其物の不振とに就て深き憂慮を抱かれ、機会を得て朝野同憂の士と相会して意見の交換を試み、以て将来に於ける窮民の激増及び貧富の懸隔等より生ずる忌むべき社会的患害を予防するの方法を講究せんものと考へ居られたる折しも、予ねて一昨年来先生の依嘱を受けて欧米の社会事情を視察研鑽中なりし田中太郎氏(本社特別会員)の此程帰朝せられたるを好機とし、同氏の報告演説を聴取り旁々、先生自身の所懐を披瀝し、併せて同好者の意見をも窺ひ知らんとするの目的を以て、四月六日午後四時半より坂本町銀行倶楽部に、学者・官吏実業家中斯業に趣味を有せらるゝ重もなる人々を招待し、一夕の談話会を開催せられたり、今当夜の模様を略説せんに、午後五時頃来賓の稍や打揃へるを機会に、青淵先生先づ演壇に立ちて、当夜の会合を催ほすに至りたる理由と、田中太郎君紹介の辞を簡短に述べられ、次で田中君登壇、欧米諸国を巡回して視察したる防貧・救貧・育児及感化等の事業、並に労働者保護、失業者問題解決策等に関する調査の大要を約二時間半に亘りて演述せられ、終つて荘田平五郎君等の質問あり田中君之れに答へ、夫れより食堂を開きて主客一同食卓に就き、宴闌なる頃主人青淵先生は起立して来賓諸氏の参会を感謝する旨と、併せて今後に於ける済貧事業発展の方法を講ずるの必要をば、政治上・経済上及び人道上の三点より詳細に陳述せられ、且つ来賓諸氏の意見を求められたり、之れに対して穂積陳重博士・江原素六君・平田内相其他二三の演説、若しくは談話あり、終りに岡部司法大臣は、当夜の有益なる会合をば唯だ空しく一場の会合たるに止まらしめず、青淵先生の演説せられたる済貧事業及び其制度の発展に関する方策を、或適当なる方法を以て継続的に講究すべき旨を発議せられ、衆皆な之れに賛して協議の末其任務を挙げて中央慈善協会に託することゝなし、斯くて歓談の裡に無事散会を告げたるは午後十時半の比なりき(青淵先生を始め諸氏の演説筆記は本誌演説欄参照)当夜の来会者は青淵先生の
 - 第30巻 p.421 -ページ画像 
外二十八名にして、其芳名を列記(イロハ順)すれば左の如し
      男爵 石黒忠悳君    養育院副幹事 高田慎吾君
    内務次官 一木喜徳郎君   養育院副幹事 高畠登代作君
    神社局長 井上友一君           田中太郎君
         生江孝之君      衛生局長 窪田静太郎君
         早川千吉郎君   東京市事務員 松尾儀一君
   東京市助役 原田十衛君      文部大臣 小松原英太郎君
         原胤昭君       監獄局長 小山温君
    法学博士 穂積陳重君           江原素六君
    地方局長 床次竹二郎君    養育院幹事 安達憲忠君
  司法大臣子爵 岡部長職君    養育院副幹事 桜井円四郎君
    文部次官 岡田良平君           荘田平五郎君
  司法省参事官 大場茂馬君    内務大臣男爵 平田東助君
         大倉喜八郎君     民刑局長 平沼騏一郎君
  司法省参事官 谷田三郎君           清野長太郎君
岡部子爵・江原素六君の演説は左の如し
    岡部子爵の演説 ○略ス
    江原素六君の演説 ○略ス


竜門雑誌 第二六三号・第八―一四頁 明治四三年四月 ○慈善救済事業に就て(青淵先生)(DK300046k-0006)
第30巻 p.421-425 ページ画像

竜門雑誌  第二六三号・第八―一四頁 明治四三年四月
    ○慈善救済事業に就て (青淵先生)
 本篇は本誌雑報欄に記載せる如く、海外に於ける社会救済事業調査の為め渡航して昨年帰朝せる田中太郎氏の報告を兼ねて、本問題に関し日頃同趣味を有せらるゝ朝野紳士の意見を聞かんが為め、青淵先生が四月六日銀行倶楽部に於いて催されたる会合の席上に於ける演説なり
御忙しい中を御尊来を戴きまして誠に有難う存じます、且つ各救済事業に御関係ある方々、現に其職に在らせらるゝ方々、或は学問上から御研究になり、又は実地貧民救助等に実務を執つて居らるゝ種々の方面の方々の御集りを得ましたのは、誠に此上もない光栄と存じます、田中太郎氏が欧羅巴及亜米利加の事業に就て一応の取調を致しました模様は、大略先刻申述べられましたが、まだ充分に述べ尽くしたとは申されませぬさうで、追て或は報告書等が出来上がりましたならば、印刷に付して更に御覧を願ふ機会も生ずることゝ思ひます、海外の有様を聞くに付けても、内地の模様如何といふことに就て、私は玆に聊か卑見を陳述致し、斯る御寄合に対して充分御教示を請ひ、果して必要と思召されたならば、将来如何なる方法かに依りて、更に調査研鑽等の運びを取るやうに致したいと希望致して止まぬのでございます、実は今夕申上げたいと思ふことを覚書として認めて置きましたから、其覚書に従つて愚見を陳述致しましたならば話が遣り宜からうと思ひます、朗読演説らしくなりますが、さう云ふことに致しますから左様御承知を願ひます。
元来田中氏の唯今述べられましたことに就ては、私は斯る事柄に深い趣味を有つては居りますが、併し学問上からも又一身の身分上からも
 - 第30巻 p.422 -ページ画像 
斯の如きことを研鑽しなければならぬと云ふ訳ではございませぬ、尤も御聞及でもございませうが、私は東京市養育院のことに就て、明治七年から相談相手になつて居ります、ナカナカ充分な訳には参りませぬけれども、相変らず継続して東京市の救済事業を今尚ほ管掌して居ります、而して同院に於ける被救助者の中には、全く老衰救はねばならぬと思ふ者と、小児で養育者がないのと、又は一時職業を失つた者即ち失業者の類、或は貧民が小児を産んで母親が病気になつたとか、又其子の母が死んだと云ふやうな各種の者が皆入つて参ります、それ等の種類を始終世話して居りまするが、それが段々に都会の繁昌の増す毎に斯様な人間が殖へて来る、養育院の人数の増すに就て都会の繁昌が増すと云ふことを始終感じて居ります、国の繁昌は増したいが、国の繁昌は貧民を増すのだと云ふ感じを起すと同時に、年々に其念が深くなるのであります、殊に三十二・三年頃から不良少年の感化事業をも開始致しましたが之れは資金の足らぬ為に満足なことは出来ぬのみならず、実はまだ普通の救助をするにも骨が折れる、ナカナカ私共の地位では感化事業に於ては、いろはとも言へぬ位に思ふ、今夕は其仕事を担当させて居る所の者も参つて居りますが、其等の者と常に且つ論じ且つ行ひして居るのでございます、併し段々世の中を見まするに、国の進むと同時に感化事業などにも一層心を用ゐなければならぬと云ふ感じが、年一年に増して来るやうに思ひまするで、畢竟田中氏が欧米の感化救済事業を視察しやうと思ひ立つたのも其の観念、私が聊か助力を与へましたのも其通り、帰朝以来段々話し合ふて居るのであります、又此事は既に夫々の方々が種々心を労せられて居らるゝから、唯だ二人お互の間ばかりでなしに、又た養育院と云ふものに就てばかりでなしに、広く其局に当る方々及び其他の向きへもお話をしたら宜からうと云ふので、実は今夕の会も催ほした次第で御座います。
偖て玆に私が申上げて見たいと思ひますことは、救済事業と申しますけれども、唯だ窮民を救助すると云ふのみでなく、貧窮を防ぐと云ふ広い意味を以て、所謂弱い者を保護する方法を意味して、之を将来に如何なる方針を取つて行つたら宜からうかと云ふことの愚見を申上げて、御教示を請ひたいと思ふのでございます。
維新以来四十余年、実に我邦百般の事物は皆面目を一新して、政治なり教育なり軍事なり、又た我々が従事して居る実業なり、総て之を維新前に比べて見ると、殆ど隔世の感があつて霄壌の差も啻ならぬと云ふ有様であります、併しながら唯だ文物憲章が左様に光彩を放つからと云ふて、今日は夫れだけで悉く満足して居つてよろしいか、遣憾に思ふものはないかと云ふと、然うは参りませぬ、即ち弱者保護に関する事業と云ふものは、他の国々と比較して甚だ発達して居ないやうに思ふ、是れは大に憾みとしなければならぬことだと、如何はしいことを申すやうではありますが、私には然う思はれます、デ我国も現在に於て救済の事業が絶対にないとは申しませぬ、明治七年の恤救規則があつて、窮民を救助する方法はありますけれども、其の救助する範囲は極く狭少である、而して其規則の下に与へらるゝ救助の人間は、人口百万に対して僅に三十人位、故に其費す所の金額は一年二十万円位
 - 第30巻 p.423 -ページ画像 
にしか当りませぬ、明治七年から四十三年の今日では、養育院の被救助者が増すと云ふ程度から言ふても、決して適当な方法でないと言はなければならぬと思ふのでございます、然らば公共団体の救助事業若くは私設救助団体の事業に大に見るべきものがあるかと云へば、慈恵会もありまするし、三井が救済病院を造られたと云ふこともあり、彼是色々ありまするが、機械工業の発達とか、都会人口の膨張とか物価の騰貴とか云ふことから、貧民の数は逐年増加しつゝあり、業を失ふものも続々と増して参るやうであります、養育院でも日清戦役以前は在院者が凡五百名内外であつたものが、今では千六七百、ことに依ると二千人にもならうかと思はれる程であります、単に養育院の数だけを以て全般を推測する訳には参りませぬけれども、此一事でも大概を知ることが出来るかと思ふのであります、斯の如き事実を見つゝ、之に対する救済事業は現在の儘に放任して置くことが果して適当であらうか、これは大に講究せねばならぬことはなからうかと、深く懸念致しますのでございます、私は斯様に申しまするからと云つて、法律を以て国家若くは地方団体に救助を強ゐるとか、又は都会の力を以て救助したいと云ふ意味ではありませぬ、或は何か方法を設けなければならぬと考へますけれども、将来如何なる手段が此等の窮民を少なからしむるか、又自然と此貧富懸隔の緩和を保たしむるか、而して弊害なからしむるかと云ふ方法の講究が今日甚だ必要と思ふので、斯の如く必要を感じますに就て自身の愚見から推測致しますれは、最も深き注意を以て講究を要することゝ思ふのでございます、今其の理由を玆に申上げて見たいと思ひます。
先づ政治上の理由として申しますならば、諸君の前では憚り多いことではありますが、国家が政を為すの目的は天下の億兆をして生を安んぜしむる、即ち自身が営み自身が生きて、公安も害せず秩序を紊さずと云ふやうにするのが、政治の目的と言はなければならぬ、故に立法とか行政とか云ふ機関が形式上完全であつても、若し人民が生に安んずることが出来ぬとか、窮民路に彷徨ふと云ふやうではいかぬ、貧者が盗を為すとか、弱者が病んで之を癒すことが出来ぬとか、国家が一切之を構はぬとか云ふことは、決して将来左様あるべきものではなからう、今日が左様な状態であると忌はしいことを申すではございませぬけれども、若し果して唯今申しまする如く、段々窮民が殖へると云ふことを懸念致しまするならば、此儘放任して置いたら、遂にさう云ふ忌はしいことが生ずるではなからうかと憂慮致すのでございます、元来日本の制度が所謂家族制度であつて、隣保相扶くると云ふことは美風でありますけれども、悪く申せば一軒の家に無駄飯食ひの人間があつて、それを一人が養つて居るから、戸々に貧院を構へて居ると同じことで、余り宜いことではありませぬ、それを以て貧民が少いと賞めるならば、一方からは世人悉く貧民であると言はなければならない所が前に申す通り、物質的発達が段々進んで参りますると、今日では既に美風でないのみならず、縦しそれを美風とした処で、其美風を何時迄も保つことは出来ないと、斯う考へねばならぬやうに思はれまする、此救済に関する現行の法規はと見ると、恤救規則・行路病人及行
 - 第30巻 p.424 -ページ画像 
旅死亡人取扱法・罹災救助基金法、其他種々の法令はありますけれども、前に申した通り其範囲が頗る狭い、行旅病者の規則は、病者が道路に倒るゝを待つて初めてそれを救ふと云ふやうな有様であるし、罹災救助の法は天災地変に罹かれる難民を臨時的に救助するに過ぎないので、広く一般窮民の為にどうすると云ふ方法は別に存して居りませぬ、或は市町村に貧民救助と云ふことが行はれて居らぬではございませぬが、其経費を調べて見ると、地方の経費に依つて救助する金額は僅に一箇年三十万円にしか過ぎぬやうに見へまする、若し夫れ救助と云ふことは、些かも之を行ふのが、全体良くないと云ふ断案が下ればこれは別段でございますが、併し今の所では満更ないではない、而して在る所のものは唯だ形ばかりで、充分に行はれて居らぬと云ふ姿である、尤も現今の制度では出来ぬのでありませうが、果して然らば今の制度は頗る不満足千万ではないかと思はれまする、若し窮民を救ふと云ふ方法を講ずると云ふことであつたならば、或は職業の紹介をするとか、疾病者の救助であるとか、其他労働者の保険制度であるとか或は貯蓄奨励の方法とか云ふことは、国家としてモウ少し現在より進んだ所の方法を設くる必要がありはせぬかと思ふのであります、政治上から貧を防ぎ貧を憫むと云ふ事に於て、今日の有様で置くは、適当と思はれぬと云ふのが、一の理由として愚見を陳述致す次第でございます。
次に経済上の関係から見ますると、最も力を尽さなければならぬやうに思はれまする、経済上から考へますると、此救済と云ふことが一面に於ては生産的労働力を増加させる、他面に於ては裁判とか監獄とか云ふ費用を減じて、さうして生命財産の安固、国利民福の増進に及ぼす所少くないと思ひます、試みに一例を申さば働いて居た者が一旦病気になる、職に従ふことが出来ない、救助を受くることも出来ぬ為に路頭に迷ふ、困窮極つた結果盗賊を働かぬとも限らぬ、若しさうであつたならば、其の本人の不幸のみならず、種々なる厄介を社会に残す訳になるから、其労働者を助けて遣る費用よりも、更に幾十倍するものを費さねばならぬ訳になる、不良少年などの如き更に大なる影響を及ぼすものであつて、例へば桜の木にある毛虫は小さい間は容易に其駆除も出来まするが、大きくなつて繁殖して来れは、遂に其樹を皆焼いて仕舞はなければならぬやうになる、されば総て斯う云ふことに就て救済の方法を講じたならば、啻に細民の幸福のみならず、国家の損害を防いで福利を増進することが出来るであらう、防貧及救恤の事業は慈悲哀憐の仕事を為すと同時に、一般国家の利益を増すと云ふ結果を来すこと疑ひないと思ひます、斯う考へますると、此救済事業は経済上の見地からも是非主張して、モウ一層力を尽さねばならぬことではあるまいかと思ふのであります。
更に人と云ふ位置から考へて見ますると、即ち人道上から考察して見ましても、所謂惻隠の心は仁の端なりで、救済の制度を必要とする観念は惻隠から起るものと云つても宜からう、現在泰西開明諸国に行はるゝ各種の社会政策の如きは、皆弱者を保護するを其結局の目的とするものでありまして、実に文明国の一特徴として見做さるゝやうに考
 - 第30巻 p.425 -ページ画像 
へられます、現在の有様から社会生存競争の風潮を見ますると、世の中は弱肉強食と云ふやうに見へますれども、若し国家に人道が行はれなければ、其国は滅びると言はなければならぬ、これは歴史に徴しても明かなことで、今何処にどう云ふことがあつたと云ふ例を引いて申上ぐるまでもなからうと思ひまするで、玆には申上げませぬ、惟ふに政治の組織は時勢の変化に伴ふて段々に遷り変つて往かなければならぬと思ふ、幸ひに今日は民を見ること赤子の如く、民亦其徳に化して親族相助け隣保相扶くると云ふ美風は盛でありますけれども、将来は唯だ家族相助け隣保相扶くるの美風にのみ依頼しては居られぬ時代に到達するであらうと思はれるのであります、即ち時勢の変化は人民の移転を盛んならしめ、職業の転換を随意ならしめ、競争心を激甚ならしめ、産業組織の革命は、資本家と労働者とをして利害相反するの二階級として対立せしむると云ふことになりますると、従つて情愛が薄くなるのは免れませぬ、即ち社会の一般の趨勢と云ふものが、どうしても今日弱者保護の方法を講じなければならぬやうになつて来たのであらうと思はれます、併し此世の中が今日の儘に放任して置いては、明日が日にも何うかなると恐れる訳ではございませぬが、幸ひに識者相集つたならば充分に之れを講究しなければならぬことであらうと、私に於ては深く思ふのであります故に、如何なる方法を取つてやつたら宜からうか、政治上からも大なる金を費すに至らぬまでも、適当なものを設けたい、モウ少し防貧とか済貧とかに就て見るべき施設を作くることが必要であるならば、之れを鼓吹したならば成立つものではなからうか、又地方費などに依るべき途がありはすまいか、幸ひに斯るお集りで諸君が之れを必要と考へたならば、どう云ふ様に方針を向けて行くか、或はそれは杞憂であるから此儘に放任して置いて宜しいと云はれるか、私は老婆心かも知れませぬが、此儘放任主義を取つたならば、貧富の懸隔益々甚だしく、其極や遂に大なる害を来しはせぬかと憂ふるのでございます、誠に忌はしい言辞に及びましたが、其段は御宥恕を願ひます、畢竟愚案として唯今陳情致しましたのも、斯く斯くの事を行はふと云ふのではなく、唯だ政治上から見ても、経済上から見ても、将た人道上から見ても、弱者保護の方法を、何んとか講じなければなるまいと云ふことに就て、二三の愚見を述べたに過ぎませぬが、此お集りに於て、幸ひに之を講究して見やうと云ふことに御賛同を得ましたならば、洵に此上もない本望でございます、海外の模様は先刻田中君から申上げましたから、私は本邦に於ける直接問題として、聊か平素考へて居りまる所の卑見を、玆に申述べた次第でございます。


竜門雑誌 第二六三号・第二五―五四頁 明治四三年四月 ○泰西社会事業視察一斑(田中太郎君)(DK300046k-0007)
第30巻 p.425-447 ページ画像

竜門雑誌  第二六三号・第二五―五四頁 明治四三年四月
    ○泰西社会事業視察一斑 (田中太郎君)
 本篇は四月六日銀行倶楽部に於て青淵先生の催ほされたる済貧問題談話会席上に於ける田中氏の演説筆記なり
閣下並に諸君、唯今渋沢男爵から私を皆様へ御紹介の御言葉が御座いましたが、私は此処に立つて自分の視察の結果を皆様に御話し致すの
 - 第30巻 p.426 -ページ画像 
機会を得ましたことを大なる光栄と存じます、然しながら私の見ました位のことは、皆様方に於ても夙に御覧になつたことでも御座いませうし、又私の知つて居りますよりは尚一層多くの事柄を御承知になつて居ることゝ信じて居ります、而して今夕の如き御歴々の方々が御集りになつた席に於てお話しを申上げることは、些と憚りのあることでございますが、渋沢先生から何か御話を申上げよと云ふ御言葉でございましたから、玆に自分の視察の結果を聊か申述べて、閣下並に諸君の清聴を煩はす次第でございます。
偖て這般の海外視察中、私の最も力を尽しましたことと申すと些と大袈裟でございますが、比較的一番力を入れて見ましたのは、感化事業でございます、其他一般の救済事業、私は之を弱者保護事業と自ら名づけました、此の一般弱者保護事業に就ても見ることは見ましたが、重もに感化事業に就て稍や専門的に見たのでございます、それ故に感化事業に就てお話を致しますれば、細かいことに渉つて申上げることが出来やうと思ひますけれども、今日は諸般のことに就て成るべく漏らさぬやうに、大体のことを話せと云ふ渋沢男爵の御注意でございますから、其積りでお話し致したいと思ひます、従つて極く大体のことを申上げて、それで或部分のことは終つて、直ちに次の項に移るといふやうなことがございます、其段は御容赦を願ひ置きます、それで弱者保護事業と云ふことは、其範囲頗る広汎でございますが、保護を受くる目的物に依つて之れを区分致しますれば、矢張り一の分類法が立つて行くのでございます、保護の目的物に就て分類を立てることが果して科学的の分類法であるか何うか存じませぬが、私は便利の為に保護の目的に就いて分類を立てゝ申上げやうと思ひます、私の旅行は英国に於ては英克蘭・蘇格蘭・愛爾蘭、それから仏蘭西・白耳義・和蘭丁抹、丁抹は特に深き趣味を以て見ました、それから普魯士・バイエルン・瑞西、及び北米合衆国で御座いました、就中最も長く滞在致したのが英吉利で約一年間、其他の国々は長くて一箇月、短かきは一週間内外位の処も御座いました、又た米国は単に紐育州だけを調べましたのであります、御承知の通り亜米利加は各州悉く独立国の姿で、立法を異にし制度を区々に致して居りますから、亜米利加のことを周到に調べやうと思へば幾十箇国を見なければならぬことになります、それで一面には時間の関係、一面には金の関係よりして単に紐育州だけで止めたのでございます。
偖て第一に申上げたいことは、嬰児保護の事業でございます、勿論保護と云ふ言葉が何れ丈けの範囲であるかと云ふことは一の問題でありますが、之れはまづ措きまして、嬰児保護事業として見做されて居る仕事の中で最も著るしい二三の事柄を御話申上げやうと存じます、而して第一に指を屈すべきは「クレーシユ」であります、日本語で申しますれば赤児預り所とでも申しませうか、独逸人の所謂「クリツペ」であります、あちらに参りまして、此「クレーシユ」を数多視察致しましたが、都会地に於きましては此事業が盛に営まれて居ります、労働階級の人々にして赤児がある為めに手足纏ひになつて働けない、例へば夫婦共稼ぎで外へ出て働かねばならぬ、然かし仕事場へ赤児を背
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負つて行く訳には行かず、我家に残こして行つては之れを保護する者がないと云ふ場合に、其小児を毎朝労働の出掛に「クレーシユ」へ預けて行つて、夕刻労働の帰りに連れて帰へることが出来る仕組みになつて居ります、預け料は甚だ安いもので日本の銭で大抵十銭乃至十五銭である、私の見た内で料金の最も安い「クレーシユ」は愛爾蘭のベルフアスト市に在る「クレーシユ」で、一日僅かに二「ペンス」即ち八銭でありました、兎に角一日十銭内外の料金を払へば朝から晩まで小児を預かつて呉れて、三度の食事も与へて呉れるし、守りもして呉れるし、遊ばせても呉れる、又た場合に依つては長時日に亘つて預かり切りに預かつて呉れることもあります、即ち乳呑児を残して母親が死んだとか、或は母親が重病に罹つたとか云ふ場合に、父親一人では其小供を何うすることも出来ぬ、斯かる場合には「クレーシユ」で全然其小供を引取つて、数週間に亘つて世話をして呉れることもあります、是等は労働者に取つて頗る便利なる方法と云はねばならぬ。
次に嬰児生命保護の為めに設けられたる事業で「ミルク・デポー」と称するものがあります、之れは私が倫敦で見たので御座いますが、御承知の通り貧民社会に於ては嬰児の死亡率が甚だ高い、之れは日本も同様と思ひますが、悲しい哉我邦には未だ斯かる統計的調査が行はれて居らぬから、判然たることは分かりませんが、泰西諸国に於ては其事実が明かに証明されて居る、而して貧民社会に於ける嬰児の死亡が他の社会に比して多いと云ふ理由は、種々なる原因が伏在して居るのでありますが、然し其最も主なる原因の一は乳の良否と云ふことである、嬰児の飲む所の牛乳が不良であれば、其れが為めに病を惹き起こし、且つ死亡を多からしむると云ふ結果を生ずる、此点を慮つて出来たものが即ち「ミルク・デポー」であります、私が見ましたのは倫敦のバタシー区で営むで居る公設乳屋でありますが、其所には数名の人間が掛かり切りに事務を執つて居りまして、主として区内の貧民の為めに嬰児用の牛乳を販売して居ります、市中の乳屋で買へば一合二銭五・六厘の値段でありますが此「ミルク・デポー」では一合二銭の割りで売り渡し、且つ哺乳器をも貸し与へるのであります、加之ならず牛乳其者が頗ぶる純良なる品である上に、冬は百八十度、夏は二百十二度の熱を与へて蒸気消毒を施こし、至極安全なるものとして売渡すのであります、故に貧民は其赤児の為めに最も純良なる乳も最も廉価に買ふことが出来る、此「デポー」は千八百九十二年に設けられたのでありますが、爾来其附近に於ける貧民社会の嬰児死亡率は著るしく低下したと云ふことであります。
それから日本などで皆様もお気付でございませうが、小児が母と一緒に寝て居つて窒息して死ぬと云ふことがございます、これは無論母親の不注意で、乳房又は夜具の襟抔で嬰児の鼻口を圧して窒息させるので御座いませうが、中には随分故意に近かい程の不注意の為に、死ぬやうなことがないではないのであります、斯う云ふことは小児の生命保護と云ふ問題に就て看過すべからざることで御座います、火傷をして死ぬとか、熱湯を浴びて死ぬとか、母と寝て居て窒息して死ぬと云ふやうなことは、日本にも少なくないと思ひます、欧米に於きまして
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も斯様な死亡が多いので、近頃英吉利に於ては一の法律を作つたのであります、英吉利あたりでは貧民の小供は「フランネレツト」と云ふ日本の綿「フランネル」のやうなもので作つた安すい着物を着て居ますが、それが頗る燃焼し易いもので、冬は此着物に暖炉の火が燃え付いて火傷をして死ぬものが多い、之れを取締る法律が千九百八年に出来まして、昨年から施行することになりました、其他英国に於ては報酬を得て嬰児を預かる人間に対して厳重なる法律上の監督が行はれて居ります。
次に申上げたいと思ひますのは、倫敦に母学校と云ふのが御座います英語で「スクール・フオア・マザアス」と称して居りますが、貧民社会の母親を集めて教育を施こすのであります、所在地はキングス・クロスのチヤールトン・ストリートと申す所で、其附近は所謂貧民窟であります、而して此母学校なるものは何を目的として設立せられたかと云ふと、貧民社会の母親をして母たり妻たるに必須の技能を授けんと欲するにありまして、毎週水木の両日、午後二時間づゝ附近の貧民の母親たる婦人を学校に集めて教育を施こして居ります、即ち其教課目は哺乳法・育児法・看護法・裁縫・料理等の諸科に渉りまして、懇篤に教授をするのであります、例へば生後何箇月位の赤児には一日何回何程づゝの乳を飲ますべきか、如何に病児を取扱ふべきであるか、如何にせば廉価にして味のよき食物を作り得べきかと云ふ様なことを教える、此等の事柄は普通中等社会以上の妻君、又は母親は能く熟知して居る筈でありますが、下等社会の女房連は多くは之れを知らない子を作ることだけは確かに知つて居りますが、偖て生れた小供は之れを如何に取扱ふべきものかと云ふことを知らない、極端に申しますれば赤児を倒かさに抱くべきものか、縦てにチヤンと抱くべきものであるかと云ふことさへ知らぬ有様である、而して此嬰児保育上の無知識と云ふことからして、殺さずに済むべき小供を死なして仕舞ふことが多くある、此等の弊を防ぐのを目的の一つとして右の母学校は設けられたのであります、私は一二回此学校を参観致しましたが、例へば嬰児哺乳法を教授する時は、此の如き掛図を教場に掲げて教へて居ります、(演者此時掛図を示す)即ち此掛図は、生れ立ての赤児の胃の腑は何程の大きさであるか、又た生後一週間、六週間、三箇月、六箇月、一箇年等を経過すればドレ程の大きさになるかと云ふことを教える為めに、実物大の胃腑を画がき、又た一方には御覧の通り通常の水呑コツプ、即ち「タンブラア」を示めして、其れに生後各時期に於て飲ましむべき牛乳の定量を線にて劃し、斯くて生後何箇月を経たる赤児には何程以上の乳を一時に与へてはならぬかと云ふことを教える、又た此学校には常雇の看護婦がありまして、貧民の妊婦を見舞つて種々摂生上の注意を与へると云ふやうなことも行なつて居る、此の外種々の仕事もして居るのでありますが、要するに右申す母学校は其規模未だ大ならずと雖ども、嬰児保護の為めに頗る熱心に努力して居るのであります、又英吉利には「ジストリクト・ナアス」と称する看護婦がありまして、貧病者若しくは貧民の妊婦を看護する仕掛けになつて居ります、之れは救助区即ち市町村が其手当を払ふのであつて、貧民は其
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願に依つて自宅に於て疾病の際若くは妊娠の際、右の看護婦の世話を受けることが出来るやうになつて居る、要するに近時欧羅巴及び亜米利加に於ては此嬰児の生命保護と云ふことに就て非常に力を尽し、又た莫大の費用を投じて居るのであります、然かし其結果として他日健康な国民が出来、健康な労働者が供給せらるゝに至ると云ふことを考へますれば、決して損はないのでございます、尤も之れは単に算盤玉の勘定から幼児の世話をして居るのではありますまい、人道の為にやつて居るので、甚だ宜いことであると思ふ、こゝで日本の一事実に就て私が申上げて見たいと思ひますことは、日本では婦人が妊娠又は産に原因する疾病の為めに生命を失ふ数が、一箇年に六千人以上あることで御座います、これは無論上流社会では摂生及び看護は行届きますから、滅多にないことで御座いませうが、下流社会の者は妊娠中又は分娩の時には適当な保護を受けることが出来ない為に生命を落すものが少なくない、又一面に於ては死んで産れる小児が日本には非常に沢山ある、即ち死産のことであります、而して其数は果して何程あるかと云ふと、年々平均十五万人はある、日本の出産の総数は一箇年平均百五十万人でありますから、其十分の一は常に死胎出生である、文明国中日本程死産の多い国はありません、勿論右申す十五万の死胎出生中には堕胎に因する死産もあり、又た分娩後の殺害も多少包含せられて居るのでありませうが、之れは西洋にも決して無いとは断言が出来ない、兎に角出産の十分の一が常に死産であると云ふ日本の此事実は決して軽々看過すべからざることと言はねばならぬ、今試みに諸外国に於ける死産の割合を申上げますれば、澳地利に於ては総出産数に対して百分の三弱、独逸は百分の三、瑞西は百分の三強、仏蘭西は百分の四半であつて、日本の如く百分の十などと云ふ国は、文明国中に殆とないので御座います、此等の事は前に申上げた堕胎若くは分娩後の殺害と云ふやうな事情もないではありませんが、主として貧民社会の妊婦保護と云ふことの行届かぬ結果ではあるまいかと存じます、今夕は私自身の意見を申述べる考では御座いませんから、之れに就てドウ云ふ事業を起こさねばならぬなどと申すことは玆に述べませんが、唯だ単に日本には斯くの如き事実が存在して居ると云ふことを御参考までに申上げて置きます。
次に少年保護事業に就て申しますると、皆様も御案内の如く、之れ亦た幾多の種類に分かれて居ります、先づ一番最初に来たる所のものは何であるかと云ふと、国民教育のことで御座いますが、日本の学齢児童の就学の歩合は、諸外国に比して劣つて居ないと云ふことは、何人も疑はない、英吉利などに於きましては、強制教育兼無謝儀教育は、極く近頃完全に行はれることになつたのであります、私は教育家でないから其事に就て深く言ふ必要はありませぬが、兎に角教育の「システム」の上に於て進んで居らなかつた、今日でも独逸などに比較すると大に劣つて居ると申さなければならぬ、形の上から言へば英国よりも日本の方が尚ほ寧ろ優つて居るかの如くに私は考へるのでありますが、然かし実際上の事柄に於て若しも劣る点があれば何にもならぬ、無謝儀を原則とする義務教育に対しても、我邦には月謝を取る所が大
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分あると云ふことでありますが、さう云ふ事実のあると云ふことは、多少遺憾とすべきではないかと思はれます、又た一般国民教育のことは別と致しまして、貧児教育のことに就て聊か御話申上げて見たいと思ひます、貧児教育即ち貧窮者の小供には何か違つた教育を施さなければならぬかと云へばさうではない、一般の児童と同じ教育を施すべきで御座いますけれども、適当な保護者がないとか、或は親が極貧で扶養の義務を尽しがたいものであるとか云ふやうな小供は、普通の小学校へ通学せしむることが出来ない、而して斯かる小供の内で悪化の形迹あるものは感化院へ収容せらるゝものもあるが、英吉利に於ては重もに公立の貧児学校へ収容することになつて居ります、此貧児学校の外に幾多の貧児院及び孤児院等が存在して居るのは言ふ迄もないのでありますが、英吉利に於ては窮民救助法に依れる一般義務救助の一分科として、貧児教育の事業を市町村の責任として実行せしめて居るのであります、故に形式に於ては救助でありますけれども、実質に於ては一種の強制教育である、而して此種の公立貧児学校のことを「プアロウ・スクール」若くは¬ジストリクト・スクール」と称して居ります、此学校の経費は窮民救助区即ち市町村の負担でありますが、中央政府も亦た之れに対して補助を与へて居る、私は普通の公立小学校も貧児学校も沢山視察致しましたが、概して貧児学校の方が設備が完全して居ります、且つ普通の小学校では生徒は皆通学でありますが、貧児学校の方は皆な寄宿生のみで、衣食住に至るまで一切公費を以て支弁して居るのであります、又た貧児の救助と云ふものは、英国に於ては必ず之れを大人と区別して、特別の場舎に収容して居る、我東京市養育院の如きも、近頃収容者中の小児が、全然大人と離隔されまして小児だけは、巣鴨の分院の方に移ることになつた、これは院長たる渋沢男爵及び当局の方々の御尽力の結果でありますが、至極喜ぶべきことであります、英国に於ては法律上の救助として貧民の小児を教育する時に、決して大人と一緒には収容しない、純然たる教育機関としての学校に収容して教育をするので御座います。
次に少年保護事業の一分科としての感化教育のことを一寸申述べたいと存じます、之れは一面に於ては懲罰的性質を帯びては居りますが、其実質は純然たる教育事業で、或種類の少年即ち犯罪少年・不良少年遣棄放浪の状態等に在る少年男女を、特設場舎に収容して特種の強制教育、即ち「ツワングス・エルチーフング」を施こすのであります、欧米諸国特に英国の如きは此事業に頗る力を尽くして居るのでありまして、国家も之れが為めには少なからざる補助金を支出して居ります目下英国に在る感化院の数は合計三百十九でありまして、内五十校は甲種感化院即ち「リフオーマトリー・スクール」で十二歳以上十六歳以下の犯罪少年を収容するを目的とし、残余の二百六十九校は乙種感化院、即ち「インダストリヤル・スクール」であつて、十四歳以下の不良少年若くは放浪少年を収容するを目的として居ります、但し時としては十四歳未満の或種類の犯罪少年を収容する場合もありますが、其大部分は犯罪者ではない、而して此三百十九の感化院に果して幾何の生徒があるかと云ふと、千九百七年末に三万八千三百四人の在院生
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があつて、之れを感化教導する為めに同年中に約八百万円の金を費やして居るのであります、御承知の通り英国の感化院は其殆と総べてが私立で、公立即ち県及び市の設立に係かるものは甚だ少くない、又た此八百万円の支出額中、国庫より与ふる所の補助金は約三百七十万円地方公共団体よりの交附金が約三百十万円、扶養義務者よりの納付金が約八万円、慈善寄附金が約五十万円、生徒の作業収入及び其他の雑収入が約十二万円と云ふ勘定になつて居りまして、経費もナカナカ掛りますが事業其物も甚だ盛大である、私は数多の感化院を親しく視察研究致しましたが、英吉利で最も古いのはレッドヒル感化院であつて仏蘭西ではメットレーの感化院であります、レッドヒル感化院は今夕此所に御臨席の平沼法学博士及び床次地方局長も視察せられたことがあるのですが、英国に於ては最も有名な最も古い歴史を有する感化院でありまして、千七百八十八年の創立に係かり、当初は倫敦のハクネーに立てられ、千八百四十九年に今のレッドヒルヘ移転したのであります、現在の院長はバインと云ふ人で主事はトレバルセン氏、此トレバルセンと云ふ人は斯界に於て非常に有名な人物であります、又た総裁は畏くも皇帝エドワード七世陛下であります、序でながら申上げますが、英吉利に於ては皇室及び貴族の方々が慈善事業に力を注ぐことは非常なものであつて、富豪家の如きも驚くべき程の熱心を以て各種の社会事業に肩を入れて居るのであります、例へば貧児救済事業として有名なる「バナアドス・ホームス」即ち夫の「ドクトル」バナアドが今より四十五年の昔に創設したる救児院で、常に八千人の小供を教養して居るのでありますが、其総裁は皇后アレキサンドラ陛下である又た有名なる「ロンドン・ホスピタル」の総裁も皇后陛下であつて時時此等の院へ行啓があるのであります、又た倫敦のバアモンゼー区のジヤマイカ・ロードに「プリンセス・クラブ」と称する女工学校がある、其附近は工場が沢山ありまして、貧民の子女が女工となつて働いて居るものが沢山あるのであります、而して其風儀は甚だよろしくない、之れを善導し教育する為めに右の女工学校が有志者に依つて立てられたのであります、夜学校でありまして毎夜多数の女工を集めて、他日人の妻となり母となるに適当なる教育を施こして居る、何故に之れを「プリンセス・クラブ」と称するかと云ふと、現皇帝陛下の姪御たるルイス・オウガスト内親王が会頭をして居らるゝが為め、其れに因むで「プリンセス・クラブ」と名付けたのである、此内親王は決して名ばかりの会頭ではなくして、御自身其事業を常に監督指導して居られるので、委員会毎には必ず此学校まで出張せられて、親しく事務の相談に参加せらるゝと云ふことであります、私が此女工学校を参観した時に、校長「ミス」ヒンドレーと云ふ人が私に申さるゝには、次の水曜日の午後に再び来訪せらるゝならば、内親王に拝謁することが出来ると云ふことでありました、私は他に約束があつて遂に拝謁の機を得ませなんだが、実に其御熱心には恐れ入る次第であります、又た冬期間貧児に営養に富む食物を与ふるを目的として居る「貧児デンナア協会」と云ふ事業がある、倫敦内の各所に四十箇所の食堂を有して毎週一回貧児に御馳走をして居りますが、其会頭は皇后陛下である、
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警察官孤児院の総裁は皇帝陛下である、皇太子及皇太子妃殿下も其れ其れ各種の慈善事業を総裁して居らるゝのであつて、斯かる類例は一一枚挙に遑あらざる程でありますから、別に管々しく申上ぐることは致しませんが、兎に角英国の皇室及び貴族富豪の人々が誠実に慈善事業の為めに努力尽瘁して居らるゝの有様は、唯だ感服の外はないのである、自己の満ち足りて而して余まれる所の力を以て、乏しき者弱き者を助くるの事業に傾注すると云ふことは、実以て美事と云はなければならぬ。
却説レツドヒル感化院は、英国に於ける最古にして且つ最大の感化院の一つであつて、収容生の定員は三百名、悉く皆な犯罪少年であります、教育及び訓練に関する詳細のことは唯今申述ぶる時間が御座いませんから申上げませんが、感化の成績はナカナカ良好でありまして、最近五年間の統計に依りますれば、出院者百中其九十は兎に角遷善感化の功を奏したものとなつて居ります、私が英国に於て視察致しました数多の感化院中、特に優秀のものと認めましたのは、英克蘭に於ては東倫敦感化院・エッセックスの「チェルムスフオード」感化院・「ウオルサムストウ」感化院・パアフリートの「コーンウオール」感化院「アドルストーン」女子感化院、及び右既に申上げた「レッドヒル」感化院等でありまして、蘇克蘭に於きましては、ベニクックの「ウエリントン」感化院、此院は特に有益に感じたのであります、それから「ベアースデン」女子感化院、愛爾蘭に於ては「バルモーラル」感化院・「ハムプトン・ハウス」女子感化院・「ビクトリヤ・ホームス」女子感化院等でありまして、其他視察致したる数多の感化院も皆な相当な成績を挙げて居るのでありますが、唯今列挙致したる諸院は、私の目には特に良好に見えたのであります、又た大陸欧羅巴に於きましては、仏蘭西・独逸・瑞西・和蘭・丁抹等に於て数多の感化院を見舞ひましたが、就中最も目新らしく感じたのは、和蘭のフエルゼンに在る「ツクト・シユーレ」と称する感化院、及び同国アルクマールの感化院の二つでありました、即ち此二院は収容生の分類法に就て、甚だ緻密なる且つ感化の上に於て頗る有効なる方法を採用して居りまして、甚だ有益に感じたのであります、之れに就ては精しく御話し致したいのでありますが、矢張り時間の都合上遺憾ながら詳細のことは略します、又た仏蘭西のメットレーの感化院、之れは世界に於て最も有名なるもので、私は二度目に仏蘭西へ渡つた時に特に視察致しました、ナカナカ立派な感化院ではあるが、現院長の方針として規律が余り厳重過ぎるの嫌ひがありまして、恰も監獄の如くに感じました、又た亜米利加に於ても感化院の視察を致しましたが、之れ亦た英国に劣らざるの有様でありまして、紐育のランドールス島に在る感化院の如きは、誠に立派な事業であります、要するに欧米の感化院に於ては作業教育に極めて力を尽くして居りまして、出院後其学び得たる技能に依つて生計を営ましむるの手段を講じて居る、而して其作業教育の種類は木工・造靴・裁縫・鉄工・洗濯・農業・煉瓦積み等が普通でありますが中には複雑なる機械工業を教えて居る所もある、現に仏国セーヌ州モンテッソンの感化院を視察致しました時、教頭の案内に依りて機械工
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業の教場を一覧し、生徒の手に成りし精緻なる水圧起重器の模型を示めされまして、深く技術の巧みなるに感服したことがありました。
感化院に関する御話は先づ此位と致しまして、次に少年保護の一方法として英国に於ては「チルドレンス・デンジヤラス・パアフオーマンス・アクト」と云ふ法律があります、十四歳以下の少年をして生命身体に危害を与ふるの虞れある演芸をなさしめたる者、若くは之れを容認したる父母、又は保護者は百円以下の罰金に処せらるゝことゝなつて居ります、若し其演芸の為めに該少年が負傷したる場合は、興行主は傷害罪を以て問はるゝことになつて居る、我邦に於ても曲芸の内には見物が手に汗を握るやうなことを少年が演ずることがありますが、英国に於て是等の取締を厳重にすると云ふことは誠に適当なことだと考へられます、又た英国に於ては妻子を置去りにして失踪した男は、法律上厳しき制裁を加へられる、是等の事は日本に於ては如何でありませうか、成る程刑法第二百八十一条には、老幼者・不具者・病者を保護する責任ある者が之れを遺棄し、又は生存に必要なる保護をなさざる時は、三箇月以上五箇年以下の懲役に処すると云ふことが書いてありますけれども、此種の罪に問はれた者は甚だ少ない、少ないのは事実其物が極めて少ない為めであるや否やと云ふことは一の疑問であります、特に私生児の場合の如き、女が妊娠するか乃至小供が生まれると同時に男が逃げて仕舞ふことが沢山ある、而して其結果として女は赤児と共に養育院等の救助を受くるに至るとか、或は赤児の生命に危険を及ぼすの虞れあるにも拘はらず、多少の金銭を付けて如何はしき人間に呉れるとか、或は甚だしきに至つては女自身が其子を殺すとか云ふ様なる悲惨な事実が、頻々として生じ来たるのであります、此場合に於て逃げた男は法律上全く無責任であつて、逃げれば逃げ徳と云ふことになつて居ります、此等のことは日々の新聞紙で御同様に屡屡見掛けることであるが、此事に就ては丁抹では甚だ面白い法律があります、即ち丁抹に於きましては私生児の父が逃げた場合、若くは其子の養育費を負担せざる場合には、女は直ちに市町村に向つて救助を出願することが出来る、又た市町村は直に其女に対して小供の養育料として一箇月十「クローネ」の金を与へる、而して此金は其女若くは其小供に対するの救助とはならずして、父たる男に対するの救助となり、其男は其金額の弁償をなさゞれば、換刑として二十「クローネ」に付き一週間の割合を以て懲戒労役場に拘禁せらるゝのであります、之れは千九百八年五月公布の法律第百三十号で斯く定められたのであります。
又た一般育児若くは救児事業の外、父の職業に依りて専門的に分類したる救児事業があります、例へば警察官のみの遺児を教養する事業とか、海員の小供、又は兵卒の小供、又は酒屋の小供、或は又た僧侶の小供と云ふやうに、其れ其れ親の業務に従つて分類的に営む所の幼少年保護事業があります。
次に申上げたいと思ひますのは遊園問題即ち「プレー・グラウンド」の問題でありまして、欧米に於て此問題はナカナカ熱心に講究せられて居ります、之れは一面に於ては保健即ち衛生問題に密接の関係を有
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して居りますが、幼少年保護の問題としても亦た重大なる関係を有して居る、小供は遊戯を要する、小供は遊ばずには居られない、上流社会の小供は自分の庭園で遊ぶことも出来るが、中流以下の家の小供は其便宜を有して居りませぬ、況して貧民の小供などは遊ぶ部屋もなければ庭もない、仕方なしに道路で遊ぶ、さうすると怪我をする、故に大都会に於てはドウしても小供の為めの遊園が入用である、唯だの公園でも間に合はぬことはないが、小供の遊び場としては又た夫れ夫れ特別の設備が要るのであります、紐育の「シユーワード・パアク」の如きは専門的に「プレー・グラウンド」の設備がありまして、市は此遊園を造る為めに三百六十万円を投じ、尚ほ将来遊園を増加する為めに、紐育市は年々六十万円づゝを積み立てゝ居ると云ふことであります、又た遊園問題とは少しく関係が違ひますが、都会人口の膨脹並に土地の面積に対する人口の密度が愈々強くなるに従つて、公園の必要が益々緊切に感じられて来るのであります、之れは一般保健問題及び風致問題に属すべきものでありますが、「プレー・グラウンド」のことを申上げた序でありますから御話し致すのであります、欧洲の大都会に於ては公園の数及び其面積がドノ位あるかと云ふと、伯林には八十三の公園がありまして、其面積は合計千二百六十「エーカー」、市の人口一に付き一坪弱に当つて居る、白耳義のブラツセルの公園は十一箇所で、面積が四百「エーカー」、市民一人に付き丁度一坪であります、蘇克蘭のエデンバラの公園は十五箇所で、面積が千三百「エーカー」、市民一人に付き六坪弱に当つて居る、又た倫敦の公園数は非常に沢山ありまして、官有公園・県有公園(即ちカウンチー・オブ・ロンドンで持つて居る公園)・市有公園・区有公園を合して、三百六箇所あります、勿論此内には「パアク」と名の付いて居ないものもあつて、「コンモン」とか「グリーン」とか「ガアデン」とか云ふものを包含して居りますが、実質に於ては何れも公園である、而して其面積の合計が一万五千七百六十六「エーカー」で、一「エーカー」が日本の千二百坪余でありますから、合計約一千九百万坪で、人口一に付き約三坪六合に当つて居ります、殊に倫敦の公園中で最も多いのは区有の小園でありまして小なるは百坪内外、大きくても三・四千坪といふ位のものが夥しく在るので御座いますから、風致及び保健の上からも、又た幼少年に安全なる遊び場を供給すると云ふ上から申しても、至極都合がよろしいのであります、又た大きなものに至りましては「ハイド・パアク」の四十四万坪、「ケンジントン・ガアデンス」の三十三万坪、「ハムステツド・ヒース」の二十九万坪、「リチモンド・パアク」の三百三十万坪等の大公園もありますが、小供の為めには矢張り小公園が各所に沢山散在して居る方が必要と考へられます、又た大陸に於ける大公園として有名なる巴里の「ボア・ド・ブーローン」が二百六十万坪、伯林の「チヤガルテン」が七十六万坪であります。尚ほ少年保護の事に就ては、少年裁判所の模様などをも御話し致す価値があるので御座いますが、先きを急ぎますから玆には略すことゝ致します。
次に申上げたいのは、一般救済事業即ち救貧及び防貧のことであります、御承知の通り救済事業には公設のものと私設のものとがあります
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が、先づ公共的救助のことを申しますれば、国々に依つて無論其仕組みが異なつて居ります、大別すれば法律を以て市町村に義務的救助を行はしめて居る国と、然からざる国との二種であります、英吉利の如き、独逸の如き、丁抹の如きは即ち第一種に属するもので、英吉利は千八百三十四年の窮民救助法に依り、独逸は千八百七十年及び千八百九十四年の法律に依り、丁抹は千八百九十一年の法律によりて義務的救助を施行して居る、即ち市町村及其他の地方団体は法律上国家に対するの責務として窮民救助を行なつて居るのであります、但し独逸帝国の救助法は、バイエルンとエルザス・ロートリンゲンとには行はれて居ない。
先づ英吉利のことから申しますれば、法律上の救助事務は「ユニオン」の仕事になつて居ります、即ち「プアロウ・ユニオン」の略称で、救助組合若くは救助区と申したら適当であらうと思ふ、此救助区は一市町村より成ることもあり、数町村聯合して一救助区を組織することもあり、各其区内の住民より救貧税を徴収して費用を支弁して居るのであります、私の知れる限りに於ては窮民救助の為めに特別の税を徴収するのは英国のみであります、之れには歴史があるのでありますが、兎に角風変りの遣り方である、又た救助の方法に就ては自宅救助即ち窮民を其自宅に於て救ふの方法と、収容救助即ち窮民を特設の場舎に収容して救ふの方法とがあります、特設場舎とは救貧院・施療院・貧児学校等を重もなるものとし其他二・三種の場舎がありまするし、別に浮浪乞丐の徒に無料宿泊をなさしむる「カジユワル・ワード」なるものがあります、救助の事務・救助機関の組織・救助を受くる資格・救助区の責任、其他救貧行政に関する種々の事をも申上げたいが、時間が許るしませぬから省きますが、一体英吉利には窮民救助法に依つて救助を受けつゝある民が何程あるかと云ふと、平均一日の現在数が最近の統計によれば百十万余人で、之れが為めに費やす一箇年の救助費は約一億八千万円、実に驚くべき事実と云はねばならぬ有様で御座います、而して此他私設慈善事業が、右の法律的救助に要する費用に幾倍する所の金を費やして居るのでありますから、救助の為めに全体に於て果して幾何の金を遣つて居るか数が知れないので、或人の推算に依れば英吉利は公私を合して一箇年に約十億円、即ち一億磅を下だらざる金を救助の為めに費やして居ると云ふことでありますが、私は之れを誇大なる推算とは思はないのであります。
抑も英吉利に斯く窮民が沢山あると云ふ理由は、畢竟寛大なる救貧法の存在するが為めであつて、誰れでも飯が喰へなくなつて公けの救助を受けたいと思へば、直ちに救助を受けることが出来る、又た中には狡るい奴がありまして、身体は至極達者であるが稼ぐのが嫌やだ、働いて飯を喰ふよりは救助を受けて据膳で飯を喰ふ方がよいと思ふやうな人間もあつて、遠慮もなく救助を願ひ出す、直ぐ許るされると云ふ訳けで、真実憐むべき貧民も、怠惰な貧民も、其現在の状態が極貧でありさへすれば、一様に救助を与へらるゝのであります、丁抹の如きは公けの救助を受けつゝある人間は、市町村長の許可を経るに非ざれば結婚を為す能はざることゝなつて居りますが、英吉利に於ては随意
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に結婚が出来る、収容救助を受くる者は不可能でありますが、自宅救助を受くる者は結婚が出来るのであつて、其日から女房の分の救助をも願ひ出るなどと云ふことが、時としては起るのであります、兎に角救助が寛やかであつて、苟も窮民にして公けの救助を受け能はざるものはないのであります、而して又た何故に斯かる寛大なる救貧法が英吉利に存在して居るかと云ふと箇人主義の盛に行はれて居る結果と見做さなければならぬ、親は親、子は子、兄弟は兄弟で、各々独立の人間である、妻子に対する扶養の義務はあるが、其他に扶養の義務はない、親が貧乏して公けの救助を受くるに至れば、子たる者は救助費の弁償を裁判所から命令されるが、必ずしも子が親を養はねばならぬと云ふことはないのであります、故に老衰若くは病弱となつて稼ぐことが出来なくなつても、親族の扶助を当てにすることは出来ぬ、玆に於てか右の如き救貧法の必要も生ずる訳けで、我邦などとは全然其趣きを異にして居るのであります、ドチラが良いか悪いか、長短優劣は大早計に断ずべからずでありますが、我邦に於きましては一人が一生懸命に稼ぐと妻子や親は別としても、兄弟姉妹・親類縁者までが寄り集まつて其脛をボリボリ噛ぢる、噛ぢる者は其れを当然の権利の如くに考へ噛ぢられる者は噛ぢらせるのを、名聞の如くに考へて居ると云ふ有様で、何時まで経つても稼ぐ丈けは皆な噛ぢり取られて、滅多に富むことが出来ない仕掛けになつて居ります、一門一族相倚り相助くと云へば頗ぶる美風の如くに聞こえますが、倚頼心を助長させる恐れありと云ふ点から見れば、一種の弊害とも申すことが出来ませう、斯かる国風からして自然公けの救助を受くる窮民が甚だ少ない、要するに我国民は自活し能はざる人間を一族故旧が集まつて救助して、之れを社会の御厄介に掛けぬことにして居るので、美風良俗には違ひないが然かし一面から観察すれば皆んなが脛を噛り合つて、怨みつこなしに仲よく互に気を揃えて貧乏しやうと云ふ申合はせを作つて居るやうなものであります。
英国の如き救貧法も弊害が多いのでありますが、然かし日本の如く救貧法のないのが、果して称すべきであるや否や、之れは疑問である、尤も日本には全然窮民救助法がないと云ふのではない、明治七年十二月公布の太政官第百六十二号達恤救規則は我邦の救貧法でありますが其救助の範囲は老衰・病弱の極貧なる鰥寡孤独に対して、一箇年に米一石八斗の割りで下等米の米代を給与するのであつて、金で勘定すれば一箇年僅かに二十円内外の救助金となるのでありますから、之れが為めに国庫が支出する金額も非常に少なく、一箇年に二十万円内外に過ぎぬ、而して此恤救規則に依つて救助を受けつゝある人数は平均一万三千人程に止まつて居ります、又た市町村は任意に救助を行なつて居ますが其金額とても一年僅かに三十万円内外で、人数は分かりません、又た明治四年六月に公布になつた棄児養育米給与方と称する布告に基きて、棄児の十三歳に達する迄で養育米として一箇年米七斗づゝを官より給与することゝなつて居りますが、其人数は約二千人で、費やす所の養育米費は一箇年僅かに一万六千円程に過ぎませぬ、其他行旅病人取扱法とか、罹災救助基金法とか申すものもありますが、之れ
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は一般救貧法とは少しく類を異にして居るもので御座います、要するに我邦の救助制度は、未だ完備して居らないと云ふより外はありません、然かし斯く申すものゝ、私は決して救助法が完備して居ないのを悲しむとは云ひません、救済制度が完備して居るが為めに、一箇年に二億円近くの公金を之れに費やすと云ふ英国の事実は、大に鑑みねばならぬ事柄であります、保守癖の英国も近年此点に留意して、数年前に救貧法調査会なるものが出来て、種々取調の末此程報告書を公けにしましたが、遠からず現行の窮民救助法に一大改正が加へらるゝに至るべきは人々の確信する所であります、日本でも明治二十三年の第一議会に政府案として窮民救助法案が提出されましたが、通過を見ずして其儘葬むられて仕舞ました、当時私は一少年の身ながら、甚だ遺憾千万だと思つて居りましたが、今から考へますれば或は仕合はせであつたのかも知れません。
救貧制度に就きましては、丁抹の方法が最も私には有益且つ面白く覚ぼへらるゝのであります、即ち丁抹の救貧法に依りますれば、市町村をして一般窮民に対する義務救助の責任を負はしめ居るの点は、英国と同様でありますが、其内容を調べて見ますると、受救者の分類及処遇法に就て非常に巧妙なる規定がありまして、英吉利の如く救貧法の存在に依つて却つて惰民の発生を見ると云ふやうな恐れは一つもないことになつて居ります、即ち丁抹の救貧法と云ふものは、世界到る所に賞讚を博して居るので、英吉利人の如き国自慢の人間も、丁抹の救貧法は採つて以て、英国の模範とすべしとまで言ふて居るのであります、私は丁抹に参りました節、救済局長アレキサンデル・ハンゼンと申す人と懇意になりまして、同氏より詳細に救助事務のことを聴取りまして、大に感心致したのであります、精しいことは唯今申上げる余裕が御座いませんから、大要を摘むで申しますれば、丁抹に於きましては、何人と雖ども市町村に対して救助を請求することが出来るのでありまして、苟も請求した者は救助を拒まるゝと云ふことはない、病人でも達者なものでも、善人でも悪人でも、老人でも青年でも、皆救助に浴することが出来るのである、斯く申せば甚だ寛大な法の様に聞こえますが、決して左様ではない、救助は一様に与へらるゝのでありますが、其人間の素行如何に依つて、処遇を著るしく異にするのでありまして、概約的に申せば、先づ性質善良なる貧民には自宅救助を与へる、其れから収容救助の方は三種に分かちまして、第一を「ツワングス・アルバイツハウス」とし、之れには平素の品行最も悪しかりし者を収容して労働を強制する、即ち強制労役場でありまして、乞食・醜業等を営みたる廉を以て、刑罰的に入院せしめらるゝものをも収容して強制労働をやらせるのであります、其取扱は頗る厳峻である、第二は「アルバイツハウス」即ち普通の労役場でありまして、之れには平素の行状が大して悪いと云ふでもないが、勤勉を欠いた為めに困窮したと云ふやうな者を収容する、第三は「アルメンハウス」即ち通常の養育院でありまして、之れには労働不能の病弱者又は老衰者を入れる、而して其取扱は寧ろ頗る寛大であります、又た各院とも其収容者に就きて常に行状の審査を行つて、其良否に従つて同一院内に於ても
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其れ其れ待遇を異にするのであります、其他収容者の分類及び処遇に関して、頗ぶる思慮深き規定が行はれて居る為めに、幸にして丁抹の公共的救貧事業なるものは英国に於けるが如き弊害を生ずることなく却つて惰民発生の防禦物となつて居るのであります、英吉利に於ては素行の善不善に拘はらず、収容救助は皆な同一の「ウオークハウス」に打ち込んで仕舞ふので、収容者の分類と申すことは甚だ等閑に附せられて居ります。
又た丁抹には市町村に補助基金と称する公金の積立てがありまして、一時的貧困に陥りたる良民に対して救貧法以外の救助を行つて居る、救助法の救助を受ければ公権及び私権の一部を停止されるが、此補助基金の補助には斯かる恥辱が伴はない、之れ頗ぶる称すべきの制度と云はなければなりません。
救貧の事務に防貧の用意を添えて行ふて居るのが独逸の「エルベルフェルド・システム」である、之れは普魯士のエルベルフェルド市の創設したるもので、今日は其他の市及び諸外国にも行はれて居ります、又た広く防貧と申せば児童教育の普及・労働者の保護・貯蓄制度の改良・強制保険・労働紹介等の仕事も之れに包含せらるゝのでありますが、今一々之れを申述ぶる時間が御座いませんから右の内二・三の点を掻い摘むで御話致したいと存じます、要するに是等の事は或は法律の結果により、或は公共団体の任意により、或は私人の尽力に依つて成り立つて居るのでありますが、英国に於ては私設事業が頗ぶる多い従つて一般の慈恵事業などにはナカナカ弊害も少なくないと申すことであります、御参考の為めに一例を申しますると、私が倫敦に居りました時に一の事件がありました、裁判所の手に掛つたのでありますが或田舎に孤児院を拵へた婦人があつて、其院には一人か二人の孤児を申訳けに収容して、大袈裟に寄附金を集めて銭儲をしやうと企てたのであります、さうして院長とか役員とか称する人間が倫敦に来て寄附金を集めた、金を出す者は事業の実際を見た上でなければ出さないとは云はない、孤児院と聞けば直ちに同情して金を呉れる、中には同情はしないが面倒だから金を呉れると云ふ人もある、同情であらうが無からうが、金さへ奪ひ取れば目的を達する訳けであるから、盛んに収容児の多数にして、経費の足らざるを訴えて金を集めた、然かし幸にして其詐偽行為が発覚して、尤も院長の為めには不幸にして発覚したのであるが、遂に処刑せられたのであります、斯くの如きことが時々あるので、英国特に倫敦に於ては、慈善事業に対して常に寄附を為す所の紳士淑女達が相談して一の同盟を作つて、特に事務所及び役員を置き、各種の慈善事業に対して絶えず精密なる調査を行ひ、怪しき事業には決して金を出さぬと云ふ約束をして仕舞つた、私は日本にも此種の同盟の必要があるであらうと思ふ、金持が事業の性質をも構はずに金を出すのは其人の勝手とは云ふものゝ、盲目的に無差別の寄附を行ふと云ふことは、適ま以て偽善事業の跋扈を来たし、誠実なる事業の発達を阻害する虞れがある、日本には斯かる詐偽的慈善事業が全く無いと云ふことであれば仕合はせであるが、実際はナカナカ少なくない様であります、現に私は昨日の東京朝日新聞の記事で見たのであり
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ますが、本所区中の郷とやらに東京養老院と云ふ慈善事業があつて、院主とか院長とか称する人間は、詐欺取財及び牙保罪に依つて二回監視付きの刑に処せられたる前科者で、明治四十年に右の養老院を設立して悪徳を働いたと云ふことであります、尤も前科者であつても目下善人になつて居れば差閊ないが、然かし新聞の記事に依れば、慈善の美名を利用寧ろ悪用して悪徳を行つたと云ふことである、例へば寄附者に見せる為めに木賃宿から貧乏人を雇つて来て収容者と一緒に写真を取つて、多数の収容者あるが如くに見せ掛けたと云ふやうなことも致したさうであります、新聞の記事が必ずしも誤謬なしとは云はれませんが、若し大体に於て誤りなしとせば、此養老院の如きは偽善事業の一標本であると云はねばならぬ、又た聞く所に依りますれば内務省は事業奨励の為めに此程右の養老院に対して五・六百円の金を下附したと云ふことでありますが、さうして見ると世間の盲目千人を欺いたのみならず、慎重なる調査を行ふたる内務省までをも巧みに欺いたものと見える、其他慈善事業が寄附者付きで売物に出たと云ふ話もある丁度御得意付きで商店を売る様に心得て居る、此等の弊害を考へて見れば其筋の取締は無論必要であるが、寄附者自身に於ても前申上げた様な同盟を作ることが強ち無用ではなからうと思ふのであります。
次に労働者保護のことに就て、一二視察の結果を申上げたいと存じます、第一は失業者に対する職業紹介若しくは労働紹介とも申しますが所謂「エムプロイメント・エキスチエンジ」の仕事であります、目下欧洲に於ては、此失業者問題と云ふものが由々しき大問題になつて居る、英吉利に於ては一昨年末には百万人の失業者があつたと云ふことで御座います、失業者を如何に処置すべきか、即ち如何にして職業を与へんかと云ふに、多くは労働紹介の方法に依つて居るのであります或は公立のものあり、私立のものあり、一様ではありませんが、仕事の遣り方は大抵同じであります、即ち雇主と就業希望者との中間に立つて無手数料で紹介をする、手数料を徴収しないのが原則でありますが、或は極く僅少の手数料を取る所もある、其れも五銭位なものであります、一方から人を雇ひたいと思ふ人が、紹介所へ斯く斯くの人間が欲しいと申込む、之れも無手数料である、又た一方には失業者が来て、自分は何職の者であるが雇はれ口を探がして貰ひたいと申込む、其処で紹介所の役人が雇主の希望に副ひさうな失業者を見立てゝ紹介をする、斯くて仕事にありつくと云ふ順序になつて居るのであります日本にも雇人口入宿と云ふものがありますが、アレは営業者であつて公益の為めにやつて居るのではありません、私の調べました紹介所中で一寸面白く感じましたのは、コーペンハーゲンの市立労働紹介所とミユンヘンの市立労働紹介所でありました、コーペンハーゲンのは失業者を成るべく都会に置かずして、之れを田舎に送り、農業労働者としての仕事を得させんが為めに特に力を尽くして居りましたし、ミユンヘンのは小学校卒業者の為めに特に方法を講じて居りました、義務教育を終了してから、尚ほ一層高等の学校へ進むものは別問題でありますが、小学校を出てから直ぐに職業に就くものゝ為めに、特別の注意を払つて居るのであります、小学校を出た儘で直ぐ確実なる職業見
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習に就くことが出来れば幸ひであるが、若しブラブラして居れば其の年頃の少年は甚だ危険であると云ふ所から、小学校と聯絡を通じて、特に其等の少年の為めの紹介を行ふて居る、千九百五年中にミユンヘンの労働紹介所で業を与へた数は男女合計六万七千人で、申込みの十分の八は業を得たと云ふことでありますが、之れは他に比して例外の好成績であります、其他英国に於ても仏蘭西に於ても労働紹介事業を見ましたが、大体同じでありますから申上げません。
次に御話致したいのは労働者住家供給事業であります、是れは今日我国に於ては格別緊急な問題ではないかも知れませぬが、私が特に精しく見ましたのは倫敦の住家事業でありまして、倫敦では「カウンチー」即ちロンドン県で経営して居る公立貸長家もあれば、私立のもある、尤も私立の貸長家は、営利の為めにして居るのが夥しいのでありますが、私の今申すのは公益の為めに行つて居る私立貸家事業のことであります、「居は気を移す」と古人も申しましたが、穢さくるしい家に住ふのは衛生上に害があるのみならず、道徳上風俗上にも害があるのであります、此点よりして所謂住家問題即ち「ハウシング・プロブレム」と云ふものが生じて来たのであります、要するに此種の貸長家は衛生上間然する所なき建築であつて、貧しき労働者に低廉なる家賃を以て住はせると云ふのが目的である、故に収入の比較的多い人には貸さない、家賃は一週間払でありますが、滞納は厳禁で、払はなければ立退きを命ずることになつて居る、而して公立私立を問はず、家賃滞納者は甚だ稀れであります、蓋し安い家賃で衛生的の家に住へるのでありますから、立退きを命ぜらるゝのを恐れるからでありませう、公設の分を別として、倫敦には私立協会で経営して居る貸家事業が目下三つあります、即ち一番古いのが「ピーボデー・ドーネーション・フアンド」之れは有名なるピーボデー氏が生前及び死後の寄附金を以て創設したもので、初めの資本金は五百万円でありましたが、今は事業其物の財産が千六百万円以上になつて居る、次に古いのが「ギンネス・トラスト」である、之れはギンネスと云ふダブリンの麦酒醸造家でありますが、此人が私財二百五十万円を投じて始めた仕事である、此人は今も達者で其後貴族に列せられて、今はアイビー子爵と称して居りまして上院議員であります、ナカナカ唯だの「ビール」屋さんではない次に一番新らしいのは「サツトン・トラスト」でありまして、サットンと云ふ倫敦の運送屋が作つたのであります、運送屋と云ふと荷車でも引張つて居る様に聞えますが、さうではない、「シチー」のバアビカンと云ふ所に在る大きな運送店の主人で、此人が十年前に病歿した時二千万円の大金を貧民住家事業を起こす為めに寄附した、之れが「サットン・トラスト」で、一昨年の夏から実際の仕事が開始され、ベスナル・グリーンの貧民窟に第一の貸家が立てられたのであります、特に「サットン」では同じ労働者から借家を申込んでも、子供のある者は生計が一層困難であるから、先づ子供のある者に保護を与へなければならぬと云ふ考へから、成るべく子供のある人に貸す方針にして居ります、又た此等の貸家には種々便利なる設備が出来て居る、私は此等の貸家に就て精密に視察致しましたから内部の模様を御話しすれば
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面白いのでありますが、時間の都合上之れを略します。
又防貧上密接の関係あるは慈善病院の事業であります、労働者等が一朝病気に罹かる、さうして貧乏で療治の途がないと云ふならば、其れが為めに其者は死ぬかも知れず、死なぬ迄も零落して、永久的窮民となるの恐れがある、英国に於ては救貧法に依れる施療院の外、沢山の私立慈善病院があります、之れは実に羨ましく思ひました、有名なる「ロンドン・ホスピタル」の如きは、入院患者の為めの「ベツド」が九百三十箇あつて、平均一箇年中の入院総数は一万四千人、外来患者の数は平均一日に千五百人あると云ふことを同院の役人が説明し呉れましたが、実に盛んな事業であります、而して之れは無論私立であります、私の見ました内で最も大きい慈善病院は、蘇克蘭エデンバラの「ローヤル・インファマリー」で、「ベツド」の数は千二百箇御座います、其他倫敦の「セント・トーマス・ホスピタル」、「ガイス・ホスピタル」等もナカナカの大病院であります。
先づ病院のことは之れだけにして、次に老人恩給のことを少しく申上げて見たい、目下老人恩給法の存する国は、何処何処であるかと云ふと、独逸は労働保険の一種として、千八百八十九年の法律で養老年金の制度を定め、丁抹は千八百九十一年の法律で老人恩給法を公布し、ニウジーランドは千八百九十八年、ニウサウスウエールス及びヴエクトリヤは千九百年、英吉利は千九百八年の法律を以て、孰れも老人恩給法を作りました、仏蘭西は千八百五十年以来恩給法があつたのでありますが、現行法は千九百五年の法律である、要するに老人恩給と云ふものは、御案内の通り老年に達して働らくことの出来ない貧しい人民に法定の恩給を与へて、窮民救助法に依らず無事に生活させやうと云ふのが目的でありまして、或は壮年時代に一定の掛金をなさしむる国もあり、又た平素何等の掛金を要せずして一定の年齢に達し、且つ法定の条件を充たして居るものに与ふる国もあります、独逸のは保険であるから無論掛金が要るのであるが、英国及び丁抹の如きは掛金を要せざることに規定されて居ります、法定条件に就て一例を申上げますれば、丁抹では六十歳に達したる丁抹臣民で、犯罪の為め処刑せられたることなく、奢侈怠惰の為めに自から困窮を招きたるにもあらず又た救貧法の救助を受けたることなく、且つ恩給受領前十年間丁抹国内に住居したるものにして、自活し能はざるか、若くは収入の高が生計費を充たすに足らざる者に若干の恩給を与へるので、其金高には定額がなく、実際生存するに足るだけの補助を与へるのであります、又た英国の法律は昨年の一月一日から施行せられたので、其条件は七十歳に達したる老人で、恩給受領前二十年間英国臣民として英本国内に住つた者であつて、窮民救助法の下に救助を受けつゝあらず、又た受刑者たる場合は刑期満了後十箇年を経過せる者にて、一箇年の収入三百十五円を超過せざるものに対し、一定の「スケール」に従つて毎週五十銭乃至二円五十銭の恩給を与へることになつて居ります、目下受恩給者の数は約六十五万人、一箇年の給与額約八千七百万円でありますから、英吉利人に取つても少からざる負担である、然かし此恩給を受けたい為めに人民が平素の品行を慎み、其結果犯罪が減少し、又は
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救助費が減少するならば結構でありますが、如何でありませうか、之れは数年の後ちでなければ分かりません。
又た私は英仏に於て質屋を少しく調べましたから、其御話を少し致して見たいと存じます、世人は能く質屋のことを貧民の銀行であると申しますが、必ずしもさうではない、質屋の庫に這入つて見ますと高価な物品が沢山質に取つてある、貸出金額の上から云へば寧ろ中等以上の人が質屋の上得意であるかも知れませんが、然かし貧民の為めにも確かに金融機関の任務を尽くして居ります、英国では日本と同様に質屋は皆な私人の営業であります、日本の質屋の利息は法定制限がありまして、十円以下の貸金は月利二分五厘、五円以下は月利三分と云ふやうに定めてあります、質屋は此制限以内に勉強をして、東京では十円に付き二十銭位ださうでありますが、法定制限は十円以下五円以上の貸金は月利二十五銭となつて居ります、英国の質屋は千八百七十二年公布の質屋条例の下に営業をして居るので、利息の制限は二十円及び其以下の貸金に対しては一円に付き月利二銭、即ち十円に付き二十銭で、二十円以上百円までは一円二十五銭に付き二銭、即ち十円に付き十六銭の月利である、而して百円以上を一口に貸すことは禁じられて居ります、之を以て見れば英吉利の質利は日本の質利よりも少しく安いのであります、又た英国の質屋は毎年八月より翌年七月までを一期として、年々七十五円の手数料を納めて営業免許の「ライセンス」を受けることになつて居る、又た百円以上の貸金をしたければ、千九百年公布の金貸業者条例に依つて免許を受くるのであります、右の外質屋は品物の預り証書として質入主に交附する質券に対し金高に依り二銭若くは四銭の料金を受くることゝなつて居り、流れ品は必ず之れを競売人に托して売ることになつて居ります、次に仏蘭西に於きましては、質屋は総て公立で市の経営に属するのであります、而して仏蘭西では此質屋を「信心の山」(モン・ド・ピエテ)と称して居ります、欧羅巴で公立質屋のあるのは仏国ばかりではなく、白耳義・独逸・澳地利・匈牙利・和蘭等も同様であります、私は巴里のフラン・ブルジヨア街に在る市立質屋を視察したのでありますが利率は一定して居らず、年に依つて変化するのであるが、大抵年利六分でありますから非常に安い利である、何故年々変動があるかと云ふと、一年毎に貸出資金の借入れをするから、其利子の変動に従つて質の利息も変動するのだと云ふことです、何にしろ低利である、貸出金は三「フラン」以上に限るのでありますが、多い方には制限がない、毎年度末に利益を計算し、純益は之れを巴里の慈善事業の経費に充つるので、決して営利の為めに営むで居る事業ではありません、質入品の流れた場合は之れを競売に附する、さうして貸付金額と利子を差引いて、尚ほ余りがあれば其剰余金を品物の質入れ主に返附するのであります、是等は誠に面白い遣り方であると思はれます、英吉利の質札は之れを転売することが出来まして、何人でも其質券を持参すれば品物を受け戻すことが出来るが、仏蘭西の質札は転売を許しません、私は役人の案内に依つて「モン・ド・ピエテ」の各事務室及び倉庫をも見ましたが、実に夥しい質物が保管してありまして、自転車ばかりも三千輛あると云ふこ
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とでした、又た一寸可笑つたのは倉の中で日本刀を見かけたことで、之れは数年前に四「フラン」で質に入れたものだと云ふことでありましたが、拵らへ付きの大刀が四「フラン」即ち一円六十銭で質に取られたとは、安いにも程のあるものと思はれます、昔は何の某と名乗る武士の腰に厳かめしく帯びられて居た大刀が欧洲三界へ流れ渡つて、終に質屋の倉庫に曲げ込まれたとは誠に気の毒な訳で、時世時節とは云ひながら、刀も嘸ぞかし感慨深きことであらうと、私は坐ろに同情の念に堪えなかつたのであります。
次に貧民保護の意味を以て行はるゝ食品、及び其他日用品の検査のことに就いて一言申上げたいと思ひます、英国では此種の検査が常に励行されて居ります、例へば一定の量目を有し居るべき麺麭一「ローフ」が、若しも目方が切れて居れば罰金を取られる、石炭の如きは袋入りにして配達しますが、一袋が一「ハンドレツドウエート」づゝで二十袋で一噸になる、貧乏人は一噸など買入れることは出来ませんから、一袋か二袋づゝ小買に買ひ入れる、日本でも貧民は計り炭と云ふものを買ひます、御歴々の皆様は御承知のないことでありませうが、彼等貧民は炭を一俵とか二俵とか買ふことは出来ませんから、貧民窟の炭屋は俵を崩づして、炭を小さな笊に入れて一杯二銭とか三銭とかで売る、之れと同様に倫敦辺の貧民も石炭を一噸買ひは出来ない、一「ハンドレツドウエート」位つゝ買ふ、それで石炭屋が袋に入れて配達する途中などで役人が不意に検査をする、而して検査の結果量目が少ないことを発見すれば、直ぐに重い罰金であります、飲食品の良不良を検査するのは主として衛生上の取締りでありますが、唯今申上げた麺麭や石炭の量目検査の如きは、一般消費者の損害を保護する為めでもありますが、貧民は一層緊切に保護を受ける道理であります、日本でも米屋が霧を吹いて米を膨くらませ、又は不正桝を用いて升目を誤魔化すことが珍らしくない、而して特に影響を蒙むる者は貧民でありますから此等は検査が必要ではあるまいかと存じます。
私は先刻英吉利に貧民の多い理由に就て一言述べましたが、尚ほ他の理由は農業の衰頽と云ふことであります、農業衰頽の原因は、人口の都会集中と云ふことも一原因でありますが、一面には英国に「コオペレーシヨン」が農村によく行はれて居ないと云ふことも、亦た農業不振の原因であると認められます、丁抹に参つて感じたことは「コオペレーシヨン」の盛んなことでありまして、同国は鶏卵・「バタ」・「ベーコン」等の輸出が非常に多い、千九百六年中に丁抹から英吉利へ輸出した右三品の価額は、約一億六千万円である、小さな丁抹でドウして斯く莫大なる農産物の輸出をすることが出来るかと云へば「コオペレーシヨン」の盛んなる御蔭である、百姓が数羽の鶏を飼つて日に五つか六つの卵を得る、之れが直ちに産業組合の手に集められて良い値で輸出される、若し「コオペレーシヨン」が行はれて居なければ、空しく自家で喰べて仕舞ふのであるが、「コオペレーシヨン」の力で金になる、一・二頭の牝牛を飼つて居る百姓も矢張り同様の訳けで七升か八升しか取れない乳が、組合の手で毎日集められて「バタ」に作くられて輸出される、百姓は右から左りに金になる、斯う云ふ有様で百姓は
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懐ろが温かになり、農産物の輸出は盛んになるのであります、然るに英国に於ては此種の「コオペレーシヨン」が盛んに行はれて居ない、之れが農業不振の一原因であらうかと存じます、又た他に一原因がある、其れは鉄道運賃の高いことであります、此席に御出でになつて居る清野満鉄理事にも先刻御話し申上げたのでありますが、実に英国の鉄道運賃は方外に高いので、之れが為め田舎の百姓が其産物を都会に送くつて金儲けをする妨げになつて居ると信ずるのでありす、御承知でも御座いませうが、倫敦からグラスゴウまで四百哩と二分の一御座いますが、其乗車賃は三等で三十三「シルリング」即ち十六円五十銭であります、三会社の線がありますがドレに乗つても同賃金である、斯かる高い賃金は大陸諸国にはないのでありまして、若し独逸で四百哩の線を三等で行けば十一円足らずの賃金で乗ることが出来る、又た澳地利では同じく四百哩の線を八円で乗ることが出来る、貨物運賃も英国の鉄道は高いのでありまして、独逸に比すれば、農産物の運賃の如きは殆んど倍額であると言つて差閊ない、英吉利の百姓は之れが為めに大に困難を感じて居ります、産物を倫敦に送ればよい値に売れるとは知りながらも、運賃が高い為めに引き合はない、加之ならず、英国の鉄道会社は競争の結果、外国産の貨物に対して格外の割引を行つて居るから、内地の農民は益々困難を感ずるのであります、海を隔だてたる大陸欧羅巴の諸国からは、野菜とか、果物とか、魚とか、肉とか、卵とか云ふものがドシドシ英吉利に入つて来る、内地の物産に対しては高い運賃を取るが、此等の輸入品に対しては貨物吸集の目的のためか、鉄道会社は格外の割引きを致します、例へば和蘭や仏蘭西あたりから倫敦まで持つて来る貨物賃金の方が、英吉利のドーバア附近の百姓が倫敦まで其産物を送る運賃よりも、実際の金額に於て低廉なのであります、まるで嘘のやうな話ですが、和蘭のフラッシングから英吉利のクヰンボロウを経由して倫敦まで果物を送るに、一噸に付き僅かに六円余に過ぎませんが、英吉利の百姓が自分で作つた果物をクヰンボロウから倫敦まで送るには、鉄道会社は一噸に付き十二円五十銭を要求する、クヰンボロウから倫敦までは僅かに四十九哩四分の三でありますが十二円五十銭を要し、フラッシングから海を渡つてクヰンボロウへ送り、更らに同地より倫敦へ送くる貨物の通ほし運賃が其半額に過ぎないと云ふは、誠に馬鹿らしい話だと思ひますが、事実は事実で、英吉利の百姓は此点に於て大に「ハンデカツプ」を背負つて居るのであります、之れが為めに農業は衰へざるを得ない、農村人口の減少は農業不振の原因でありますが、同時に亦た農業の不振は、農村人口の減少と都会人口の膨脹の原因となつて居ります、斯くて農業衰頽と云ふことが、英国の窮民問題及び失業者問題に大関係を有することとなるのであります、私が昨年英国から亜米利加に渡つた時、船中で蘇克蘭アバデヰーン港の漁業家と懇意になりまして、種々漁業の話を聞きましたが、其人の言に依るも、輸入の魚類は内国の魚類よりも低廉なる賃銭で倫敦に運ばれると云ふことで御座いました、要するに之れ各鉄道会社競争の結果であると云ふので、此経済上の理由から目下英国には鉄道国有説が稍や盛んに行はるゝの傾きとなりました。
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次に今日欧米諸国に於て盛んに論ぜられて居ることは、都会人口の還元問題であります、地方人口が減じて都会人口が激増する、如何にして之れを地方に還元しやうかと云ふ問題、之れは大問題であります、此風潮は日本にも現はれて来たのであつて、今から十二・三年前に於ては我邦の都会人口は総人口の約百分の十二に過ぎなかつたが、今日では既に約百分の十六に達せんとし、尚ほ将来愈々膨脹の度を加へんとするの傾きがある、私が紐育に参りまして驚いたのは、人口の稠密なる一事で御座います、外には別に驚くことはありませんでしたが、人口の稠密には驚かざるを得ない、面積僅かに二十万「エーカー」、即ち我八万町歩に過ぎざる一市内に、約四百五十万の人口が生息して居るのでありますから、其密度の如何に強いかは言ふ迄もない、又た合衆国全体を通じて都会人口は総人口の四分の一強を占めて居る、普魯士では十分の三が都会人口である、英吉利に於ては英克蘭及威爾斯の人口三千三百万中、千四百万は都会人口で、十分の四に当つて居ります、特に倫敦の如きは倫敦だけで英威人口の十分の二を占めて居る有様で、各国とも都会が非常に膨脹して、地方の人口が稀薄になると云ふことは、一般の傾きであります、で今日は田舎生活を復活させると云ふ問題、即ち「リバイバル、オブ、カントリー、ライフ」の叫びが高くなつて参りまして、何んとかして地方へ人口を適度に配置しやうと云ふことを、国家又は地方団体が計画することになつて来ました、私立協会又は会社の手に依つて近年実行せられつゝある「ガアデン・シチー」若くは「ガアデン・サバアブ」の事業も、其目的の一部は右申す都会群集問題の解決に存するや疑なしであります、英吉利に於ては十数年来各種の法令を以て、人民を田舎に落ち着けやうとすることを努めて居りますが、最近に公布せられたる法律は千九百八年の「スモール・ホールジングス・アンド・アロツトメンツ・アクト」で、千九百九年一月一日より施行になりました、訳して小農地法とでも申しませうか、要するに立法の趣意は田舎へ人民を据置けて土地の利用及び農業の発展を図からうと云ふのでありまして、地方政務省が其事務を監督し地方公共団体をして一「エーカー」以上五「エーカー」まで及び一「エーカー」以上五十「エーカー」までの二種の土地を、地方人民に低廉なる地代を以て貸付け、若しくは年賦払下げを行なつて耕作に従事せしめんとするのが目的であります、人間が土地に結付けられて居る間は決して逃げない、土地から離れると直ぐに都会へ逃げて行きます、故に成るべく人間を土地に結付けて置くと云ふ政策は、今日に於て大に必要なことであらうと考へられます。
又た此の問題に関聯して近来英国に講ぜられて居るのは「アッフオレステーシヨン」即ち植林問題であります、米国の如き国柄でさへ近年は識者が留意して来て、現に千九百七年の十二月、時の大統領ローズベルトが国会へ送つた教書の中にも、森林問題のことを憂慮するの一言があつた位であります、況して英国の如き森林の面積の最も少ない国に於て、此問題が久しく等閑に附せられたるは寧ろ不思議な位でありますが、近年は八釜しくなつて来た、勿論一面には経済上の理由もありまして、英吉利は木材及びパルプを買入れる為めに、年々約三億
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円の金を外国へ払つて居る、故に植林の結果は他日木材の輸入を防ぐことが出来やう、目下英国全体に於て植林に適当なる空地が千六百万「エーカー」即ち我六百四十万町歩だけある、之れを百年計画にして造林して行くも、数年後には幾十万の人間を要することとなり、為めに失業者に職を与ふることも出来れば、都会人口を地方へ還元することも出来ると云ふ勘定になる、此等の事は社会問題解釈の方法として実に遠大なる政策であると思ふ、慈善救済の事業などに関聯して居る者は、矢張り斯かる遠大なる根本的問題に着眼するの必要があるのであります。
次に最も根本的なる問題は、国民の元気振興問題であります、之れは単に社会問題・経済問題等に大関係があるばかりではない、実に国家の存亡隆替に関する事柄で、如何に国が富めりとも、国民の元気が衰へれば国の将来は危険を免かれない、近年此問題が英国に於て識者の注目する所となつて、特に青年の元気振興事業が盛んに行はるゝ様になつたのであります、或は皆様も御承知のことでありませうが、例の有名なる「帝国運動」、即ち「エムパイヤ・ムーブメント」の事業の如きは、青年及び少年の元気奨励の為めに活発なる運動をして居ります以前は「エムパイヤ・デー・ムーブメント」と称して居たもので、其創設者であり、且つ会長である所のミース伯爵は、私が渡英以来別懇になつて、種々視察上の便宜を与へられたのでありますが、同伯の語たる所に依れば、今日の英国人は男女とも快楽を追求むる人間が多くなつて、昔日の元気を喪つて来たと云ふことである、日本にも同様の傾きがありますまいか、之れは大に考へなければならぬことであります、一昨年私は倫敦で名士ウヰンストン・チヤーチル氏の演説を新聞で読むだ、同氏の言に、若し英国が商工業の覇権を他の国に奪はれると云ふことがあるならば、其れは自由貿易とか保護貿易とか云ふ商業政策の如何に依るのではなく、全く英人の勤勉何如に依るのである、即ち「デリジエンス」の問題であると云ふて居りました、勤勉問題は之れ亦た元気問題の一つであります。
「エムパイヤ・ムーブメント」は、国民の眠りを覚まし、之れを激励して、敬神・忠君・愛国・友愛・克己・忍耐等の精神を熾んにするを図かり、少年に向つて頻りに奨励を加へて居るのである、我等の父祖は百難千苦に耐えて、瘴煙蛮雨の中に働いて英帝国をして今日の大を致さしめたではないか、今日の若者は楽をしたがつて懦弱な有様に陥つて居るが、夫れで国家の前途は差閊ないと思ふか、モツト気を引き締めて、労苦を厭はず真黒になつて働く気はないかと云ふ風に激励して居るのであります、私共が英国に行つて見れば人民は元気に見える国は富むで居る、実業は隆盛だ、人々は礼儀を重んずる、誠に羨むべき有様に見えるのでありますが、然かも国民間には元気沈衰を深く憂慮する者があつて、其振興の必要を唱へ鞭撻を青年に加へつゝある、他人は結構だと云つて寧ろ褒めるが、自身は己れを責めて克己勤勉の精神を奮起する事に努めて居る、之れ実に英国の偉大なる所以であると感じました、是等は深く我邦の参考に供すべき事柄であらうと存じます。
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偖て以上申上げましたことは、私が今夕御話し申上げたいと存じて居りました所の十分の一にも足らぬので御座いますが、余り長くなりましたから之れで終りに致さうと存じます、外国人たる私が短時日の間諸国を遍歴して、夫れで各国の状態が鏡にかけて見る如く明かに分かると云ふことは出来ない相談であります、自分の生れた国の事さへ知らぬことが沢山ある、一年や二年の旅行で国々のことが能く解かつたと云ふ人があれば、其れは確かに間違である、故に私は能く分かつたとは云はない、単に自分の見たいと思ふ事柄だけを気を着けて見て来たと云ふに過ぎないのであります、唯だ満足を致したことは、旅行先の国国に於て親切に待遇されて、視察上にあらゆる便宜を朝野の人々が与へて呉れた一事で御座います、然しながら短日月の旅行、しかも未熟不敏の致すところ、皆様に御耳新らしき有益の御話を申上ぐることの出来ないのは、誠に慚愧の至りに存じます、唯だ今夕は渋沢男爵が御自分の御演説の前に、私にも何か御話しをするやうにと云ふ御註文に従ひまして、敢て一二視察の結果を申上げたまでに過ぎませぬ、終りに臨み、内務・司法・文部の三大臣閣下を初めとして、其他の諸閣下並に諸君が長時間に亘つて清聴を賜はりました光栄に対し、玆に謹で感謝の誠意を表する次第で御座います。       (終)


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK300046k-0008)
第30巻 p.447 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
五月九日 晴 暖
○上略 午後五時学士会ニ抵リ、中央慈善協会ノ評議員会ニ出席シテ種々ノ協議ヲ為シ、一案ニ対スル調査員ヲ指命ス(久米・窪田・井上・桑田・田中ノ五氏)後其調査方法ヲ談シテ夜十時散会帰宿ス、蓋シ其案ハ余カ客月六日ニ坂本町銀行集会所ニ於テ提案セル、弱者保護ニ関スル問題ナリキ


財団法人中央社会事業協会三十年史 同協会編 第九三―九七頁 昭和一〇年一〇月(DK300046k-0009)
第30巻 p.447-450 ページ画像

財団法人中央社会事業協会三十年史 同協会編
                      第九三―九七頁 昭和一〇年一〇月
 ○第一部
    第六章 救済事業の調査要項決定す
      附恩賜財団済生会の創立せらる
 協会創立後に計画着手した事業は種々あるが、特に挙ぐべきものゝ一つとして渋沢会長が、協会の評議員であつて社会事業の各方面に尠からざる理解のあつた田中太郎氏を欧米に派遣し、公私に亘りて其の施設の実際を視察見学させたことであらう。明治四十三年五月に約二年の日月を外遊に費し、同氏が帰朝するに及んで其の報告を聞くと共に、我が国当時の社会事情に照し何事を緊急施設して計企すべきであるかといふことに関する朝野識者の意見を知りたいといふ趣旨を以て明治四十三年の夏渋沢会長は、内務大臣平田東助氏・文部大臣小松原英太郎氏・内務次官一木喜徳郎氏・文部次官内田良平氏・地方局長床次竹二郎氏・刑事局長平沼騏一郎氏・穂積陳重氏・石黒忠悳氏・江原素六氏・大倉喜八郎氏・荘田平五郎氏等を招待され、協会幹部と共に一堂の裡に会合し、親しく趣旨の在る所を述べられた。その結果当日
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来会者の誰でもは当時の社会情勢に照し、国家又は公共団体及私設団体等の事業として緊急を要する種々の施設あるを認めたが、如何なる事業を第一着とすべきやに就ては中央慈善協会に調査を附托し、其の結果を待つて大に世論を喚起して之が実現を期すべしといふに一決した。依つて調査委員に、久米・窪田・井上・桑田・留岡・生江・原及由中の八氏を挙げて、之を委托したので、前記の委員は前後九回に亘るの会議を開催して、反覆審究、其の調査を完了し「救済事業調査要項」と題してその報告を会長に提出した。時は明治四十四年の秋で、日露戦争終了後約七年、日韓併合後一年、明治大帝が時の首相桂公爵に済生治教の詔を賜ひ、恩賜財団済生会の組織成つて約二ケ月、社会民衆の視角一転し、済民治救の事は新なる意義を加へられると共に各種の施設が大に重視せられんとするの時機であつた。而して此の要項中に於て、当時の情況に照して最も急を要するものと認めたのは巻頭の趣意書にもある通り十数種の多きに上るのであるが、劈頭に掲げたものは施薬救療事業である。此の報告書が完成したのは、前にもいふ通り明治四十四年夏秋の候であつて、委員会に於て施薬救療事業の急を要すると認めたのは既に四十三年中のことではあつたが、当時は大阪の山田俊卿氏が僅に救療事業の殊勲者を認められて居つた位のもので、明治大帝の聖旨を奉戴し、挙国の有志を糾合して恩賜財団済生会を組織する如き盛事が行はれようとは夢想だもしなかつた時代であつて、救療事業の緊急の必要なることは只僅かに委員一同のみか痛感する処とのみ自信して居つたのに、思ひ懸けなくも明治四十四年の紀元の佳節に際し、救療事業に依つて済生の道を弘めるようにとの聖詔を拝したのは、当時此の案の起草に心を籠めたものが誰彼となく感泣した処であつた。本要綱は明治末期に於ける協会の活動中の至要なるものであり、又後来の社会事業企劃の要素ともなつたものであるから、此には其の一部施薬救療の項を抄出して、参照に資することにする。
 予等ハ曩ニ救済事業ノ緩急得失ニ関スル調査ノ件ヲ委託セラレ、四十三年六月以降、委員会ヲ開催スルコト既ニ九回ニ及ビ、以テ斯業ニ関スル各種ノ問題ヲ調査攻究セリ、其結果委員ハ何レモ施薬救療事業ノ発達、児童保護事業ノ整斉、細民保険事業ノ新設、並ニ政府ニ於ケル救済事業統一機関ノ設置ヲ以テ、現今我邦ニ於ケル最モ緊切ノ事項タルコトヲ認ムルニ一致セリ、且ツ之ニ亜グノ事業トシテハ、養老事業・不良少年感化事業・不良青年矯正事業・浮浪徒処分事業・出獄人保護事業・業務紹介事業・労働者移住事業・低利質屋事業・貧民住宅改良事業・大学移殖事業・精神病者保護事業等ノ外教化事業トシテハ子守教育・下婢教育・盲唖教育・白痴教育・通俗講話・通俗文庫及ビ良書普及事業等モ亦均シク我邦ニ於ケル必要ノ事業ナルコトヲ認メタリ。
 因テ是等ノ梗概ヲ記述シ、玆ニ之ヲ会長ニ報告スルコトヲ得ルニ至リタルハ、予輩ノ中心欣幸ニ堪エサル所ナリ。
  明治四十四年十月
            救済事業調査委員
             久米金弥  窪田静太郎
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             井上友一  桑田熊蔵
             留岡幸助  生江孝之
             田中太郎  原胤昭
    中央慈善協会会長 男爵 渋沢栄一殿
     救済事業調査要項
      施薬救療事業
 病苦に呻吟するも身貧窶にして医薬の途なきものあらんか。之を治療し、之を保護すべきは、人道に於て正に然るべきのみならず、所謂起死回生の術を以て無告の貧者を救療するは、是れ人情の自然発露と云ふも不可なし。我邦古来の救済事業に就て見るも、他の事業に先き立ちて施薬施療事業を経営せしは、世人の均しく認る所なり。
 無告の病者を救療すべきは、独り前掲の理由のみならず、一国一家の富力を増進するに於て、更に大にその必要を認めずんばあらず。若し病者にして治療の途なからんか。之が為め遂に病死するに至るもの又は生涯癈疾となるもの、然らざるも一日長く病床に呻吟すれば、一日長く病者及一家の生産力を減殺し、之をして遂に窮民に伍せしむるに至るべきや明なり。東京市養育院が明治三十四年四月より四十三年三月に至る満九ケ年間、同院に収容せる窮民に就き、其の原因を調査せるものを見るに、総員千二百八十七名中、其の重なるものを挙ぐれば、二百三十九名は扶養義務者の貧困のため、二百七十三名は扶養義務者の失踪及死亡のため、二百八十三名は疾病又は虚弱のため等之なり。知るべし、疾病又は虚弱の故を以て遂に窮民に陥りたるものは、最多数にして総員の二割以上に達するを。疾病と窮民の関係は此一例を以てするも、尚能く之を証明するを得べし。是を以て之を観れば、無告の病者を放棄して顧みざるは、一国一家の上より考ふるも、その損害実に莫大なりと云はざるべからず。是の見地よりせは、施薬救療の如きは、単に慈悲博愛の精神に基ける消極的事業にあらずして、一身一家の繁栄と、国家社会の富力とを増進せしむべき積極的事業と云ふも敢て不可なかるべし、救済事業豈等閑に附すべけんや。況や結核症の如き伝染病者に対し之に施薬救療を与ふるに於ては、独り病者其人を救済し得るのみならず、依て以て悪疾の伝播を防止し、幾多の生民を救護するの利益頗る莫大なるものあるに於ておや。
 以上列記の理由に徴すれば、無告の病者を治療すべき施薬救療の事業は、現今の状勢に照らし、最も必要にして最も緊切なるものと謂ふべし。然るに従来我邦に於ける救療事業を見るに、施療病院即ち専ら救療を行ひ、又は主として救療をなすもの全国を通じて其の数僅かに十四に過ぎず、普通病院にして施薬救療を兼ぬるもの其数二百三十八ありと雖、概して僅々の患者を救療するに止まり、効果の見るべきものなきは一大欠陥たりしが、曩に紀元の佳節に当り聖詔を賜り、無告の窮民にして、医薬給せず、為めに天寿を終ふること能はざる者あらんことを御軫念遊ばされ、済世の道を弘めよと宣はせられて、特に内帑より資金を御下賜あらせらる、天恩の広大なること国民の斉しく感泣する所なり。而して克く深遠なる聖旨を奉体して、博愛慈善の人道を完くすると同時に、各人をして健全なる発達を遂げしめ、以て国運
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の発展に資するは、国民の義務たらずんばあらず。翻て泰西諸国の状況を見るに、英米独仏を始めとし、其他の諸国に於ても、病者救療に対し、公私諸種の方法を講じ、巨額の資金を費すは一般の能く認る所にして、近時特に乳児の保護又は其救療に力を尽すこと、一層大なるものあるに至れり。是弱者の保護は勿論、畢竟強健なる国民を作り、国力を振興せんとする積極的思想の結果なりと云はざるを得ず。今試みに一般救療事業に関し、英独両国の事例を記さんに、英国に於ては伝染病者に対する隔離病院を除く外、概ね私立の慈善病院にして、其の数五・六百に達すべく、倫敦のみに於ても、慈善病院の数百二十八一ケ年の入院患者延数三百二十五万余人、外来患者延数五百二十二万余人を算するを見る、而して之に要する経費は千有余万円に達し、更に救貧法に依りて救助せらるゝ者の中、癈疾又は病者の取扱に要すと認むべき公費約一千万円を算し、別に精神病者救護に要する公費約一千万円を算す、故に三者を合計せば倫敦に於ける救療費は年々三千万円に達するを見る。又独逸に於ては細民患者の救療に際し自宅及び入院救済の二方法を設け、前者に関しては一定の細民医を置き、就褥せる者には往診治療をなし、其然らざるものは外来患者として治療を施すものとす。而して伯林に於ては人口二万に対し、又「ハンブルグ」市に於ては人口一万八千人に対し、各一名の細民医を置く事となし、之に要する年々の手当金は伯林十五万円、「ハンブルグ」市は約五万五千円なり。更に全独逸に於ける入院救療に就ては諸種の病院ありて、其の数通じて六千余、其寝台三十七万、一ケ年の入院治療数百七十万の多きを算す、然れ共此等病院は凡ての私費患者をも入院せしむるを以て、其中より細民患者のみを計上せば約四・五割に達すべし。是単に一二の例に過ぎざるも、海外に於ては如何に病者の救療に多大の資金を投じ、諸種の設備をなすやを証するに足る。然りと雖、病者救療の事たる他の救済事業と同じく、一度其方法を過たんか、之が為め反て独立自治の精神を阻害するに至る。故に海外に於ける救療事業の方法は軽々に之を移して我邦に施すべきにあらざるや勿論なり。然れども海外諸国に於ては是等の事業に対し、長き経験を有するを以て、採て以て他山の石となし、本邦に於て特に大に起らんとする救済事業をして、措画経営宜きを得せしむるは、又頗る緊要の事なりとす。



〔参考〕田中太郎 田中清編 第五七―六一頁 昭和八年五月刊(DK300046k-0010)
第30巻 p.450-452 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕全国社会事業名鑑 昭和二年版 中央社会事業協会編 第六二四―六二五頁 昭和二年一〇月刊(DK300046k-0011)
第30巻 p.452-453 ページ画像

全国社会事業名鑑 昭和二年版 中央社会事業協会編
                     第六二四―六二五頁 昭和二年一〇月刊
    ◇中央社会事業協会
所在地  東京市麹町区元衛町一社会局構内
代表者  会長 子爵 渋沢栄一
事業種別 連絡・調査・研究
経営組織 財団法人
維持方法 会費・補助金・寄附会
宗教関係 なし
○中略
 - 第30巻 p.453 -ページ画像 
     一、本協会の沿革
本協会は全国社会事業の連絡並に指導援助の中枢機関として、明治四十一年三月中央慈善協会なる名称の下に設立せられ、其の後大正十年四月慈善の名を社会と改め、更に大正十三年四月には財団法人の認可を受けて、財団法人中央社会事業協会と改称し、創立以来二十年一意我国社会事業の普及発達の為めに尽しつゝ今日に到れり。
     二、事業の概要
○中略
  一、雑誌の発行
本協会は創立の当初より、社会事業に関する智識の普及に便する為め雑誌を発行せり。最初は「慈善」と題し、次で「社会と救済」と改め現在は「社会事業」と称し、目下第十一巻を毎月発行しつゝあり。
○下略