デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
3節 感化事業
1款 全国感化救済事業大会
■綱文

第30巻 p.809-816(DK300100k) ページ画像

明治43年5月22日(1910年)

是日栄一、中央慈善協会会長トシテ名古屋市ニ於ケル全国感化救済事業大会ニ出席シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK300100k-0001)
第30巻 p.809 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
五月二十一日 曇 軽暖
○上略 午後四時名古屋着、地方人士殊ニ慈善会参列ノ諸氏多ク来リ迎フ ○中略 此日田中太郎氏同行終始随伴セラル、蓋シ同氏モ余ト共ニ名古屋ニ開カルル感化救済事業ニ関スル大会ニ臨場シテ、一場ノ講演ヲ為スニ在リ
五月二十二日 晴 暖
○上略 午後一時半本県議事堂ニ抵リ、感化救済事業ニ関スル演説会ニ臨ミ一場ノ講演ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第二六五号・第六六―六七頁 明治四三年六月 ○青淵先生の名古屋御出張(DK300100k-0002)
第30巻 p.809-810 ページ画像

竜門雑誌  第二六五号・第六六―六七頁 明治四三年六月
○青淵先生の名古屋御出張 中央慈善協会々長としての青淵先生には去五月廿一日より三日間名古屋市に於て開催せられたる全国感化救済事業大会の招請に応じ、同会に臨みて一場の講演を試みられんが為め同月二十一日東京発にて同地へ出張せられたり、随行員は同じく右大会より講演の依頼を受けたる本社特別会員田中太郎氏にして、同日午前八時三十分発の最急行車にて新橋を発せられ、午後四時十二分名古屋着、実業家・新聞記者・県官・慈善事業家等数十名の出迎を受け、直ちに県庁差廻しの馬車にて旅館丸文に投宿せられたり、同夜は晩餐後、第一銀行支店長伊藤与七氏等の案内にて共進会余興場に臨まれ、夫れより前記伊藤氏及井上徳治郎・中井巳治郎三氏が主人役として、河文楼に開かれたる宴会に列せられ深更帰宿、翌二十二日は愛知育児院長荒谷氏の請に依り、午前八時半より市外八事山なる同院児童収容所南山寮に馬車を駆られ、九時過同院着、院員の案内にて仔細に院内の設備及収容児の動静等を視察せられたり、十時半頃同院視察を終はり、夫れより更に共進会場に向はれ、県商工課長大塚氏の案内にて陳列館を一巡せられたる後ち、加藤市長及び高橋県事務官の案内にて、場内待賓館に臨みて午餐の饗応を受けられ、夫れより直に今回の全国感化救済事業大会々場たる愛知県会議事堂に赴かれ、午後四時より五時頃迄約一時間に亘りて先生自身の慈善事業に関する所感をば、(一)本邦慈善事業の過去の経過、(二)現在の状態如何、(三)将来に於て採るべき方針如何の三段に分ちて詳細周到に演述せられたり、当日の講演会は大会出席者以外一般市民の傍聴を許したるものから、聴衆満堂、実に立錐の地もなき盛況にて、其数約千二百人と註されぬ、演説
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後先生には出席者一同と共に紀念撮影をせられ、終つて帰宿晩餐後再び伊藤・井上・中井三氏の案内にて共進会の夜景を一覧せられ、十一時頃帰宿、少時休憩後更に田中氏を従へて停車場に向はれ県官・実業家・慈善事業家等数十名の見送の間に、二十三日午前零時九分発最急行車にて帰京の途に上ぼられ、同日午前九時無事新橋に着せられたり


竜門雑誌 第二七〇号・第一一―一九頁 明治四三年一一月 ○慈善事業の過去現在(青淵先生)(DK300100k-0003)
第30巻 p.810-816 ページ画像

竜門雑誌  第二七〇号・第一一―一九頁 明治四三年一一月
    ○慈善事業の過去現在 (青淵先生)
  本篇は本年五月二十二日愛知県会議事堂に開かれたる全国感化救済事業大会に於ける青淵先生の演説なり、今其速記を得たるを以て本欄に掲載す
 斯かる御会合に皆様と御目に掛ることを得ましたのは此上もなく愉快に存じます。御当地の諸慈善団体の御催しで、感化救済のことに就て全国の大会を御開きになりましたに就ては、玆に御来会下すつた御当地の諸君に厚く御礼を申上げます。
 此会合に就きまして、東京の中央慈善協会も御賛同致し、殊に各地の趣味を同じうする各団体に向つて、御誘導的の書状を呈して下すつた方々も大分あるやうでございます。これは殊更に御紹介申上げまして幸に御同意を得ました訳でありまするので、此場合に於て私より御尊来下された皆様に厚く御礼を申上げます。又此会の開かれたに就きまして、当愛知の県知事様を初め、県庁の諸君からして斯かる光輝ある会場を御貸与下され、次いで種々なる御便宜を御与へ下されたことは、御同様に此事を講究する人々として此位有難いことはございませぬので、此機会を以て厚く御礼を申上げる次第でございます。
 段々諸先生方の慈善に関する御話がございましたから、殆んど余蘊ないやうに思はれまする。私が申上げたいと思つたことは、大抵前席の方々で尽されたやうでござりまするで、唯だ一言の御礼を申して御免を蒙りたいのでござりますけれども、私も東京の中央慈善協会を代表して此所に罷り出ましたので、唯だ忝うござると一言で終るも甚だ遺憾でございますから、聊か所感を陳情して趣味を同じうする皆様方の御批評を乞ひたいと思ひます。
 私が玆に申上げようと思ひますることは、第一に日本の慈善といふ事柄が維新以後如何なる沿革、如何なる歴史を有つて居るか、如何にして今日に及んで来たかといふことを少しく回想して、私の聴き知つて居るだけを申述べて見たいと思ふのでございます。それから第二には現在の有様は斯々である、未来はどうなるであらうかといふことに就て、一の感想を申述べて見たいと存じます。果して私の懸念する如きものであるとするならば、我々慈善に趣味を有つて居る者は、向後如何なる観念を以て進行致して宜からうかといふことを申上げて、充分の御批評を乞ひたいと思ふのでございます。故に申上げる廉々が三段に相成ると思ひます。
 日本の慈善事業といふものは、ズツト昔のことは私も充分に調査を致して見ませぬから分りませぬが、徳川が幕府を開いて三百年間の有様を推察致しますると、幕府といひ、若くは諸藩と申し、政治上から
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大なる慈善法が行はれて居つたとは見えませぬ、或は天明の頃松平越中守といふ人が特に救済法を設けられた、尤も天明は元年から六年まで非常に凶歳が続きましたから、其為でもございませうが、これ等が著しく記録にも存して居りまして、石川島の人足寄場を拵へたなどといふのは、越中守の救済法に依つて設けられたやうに見受けます。それで天明七年に大凶歉のあつた頃にも、幕府・諸藩で一時の救米等のことがあつたやうでございます。又時として凶歳に際し各地方に於て其時限りの方法で救助した事もあります、王朝の時分に設けられた福田院とか悲田院とかいふやうな、常置の救済法は余りなかつたやうに見えます。之に引替へ民間の慈善方法は特に能く行はれて居りまして村なり町なり、五人組とか組頭とかいふやうな仕方が、甚だ親切に出来て居りましたから、各戸互に相済ふといふ状態によつて、申さば貧窮なものは外へ出さずに内に救はれて居つたといふやうなのが、おしなべての有様と見受けられました、併し今日のやうな制度などがございませぬから、乞丐といふものが甚だ多かつた、何か人の集つた所へ行つて、御貰ひと称へて食物若くは金品を貰うて歩くといふものが、厳しい制裁がありませぬから始終煩しい程居つた、殊に神仏の盛り場などには必ず乞丐が居つて、悲しさうな声を出して人の恵みを受けることを致して居つたものであります。さうして当時の人はこれに少々づつの銭を与へることを、一の神詣での務めの如く考へて居つたのであります。これ等は多く仏教から来て居るので、所謂喜捨で、其捨てたものは功徳になる、善根であるといふ考で金銭を捨てる。乞丐はそれを拾つて甚しきは酒を飲む、今日は沢山貰ひがあつたというて酒盛をして、与へた人を余程馬鹿な奴だというて、其日を贅沢に暮らすのも知らぬというて笑つて居る。斯かる慈善は必ず効能のあるものとは云へぬ、却つて弊害があることと思ひます。要するにさういふ有様であつて、各地悉く丁寧に研究も致しませぬから玆に申上げ尽せませぬが私の育つた郷里若くは御維新前の東京の有様などを見ますと、今申上げたやうな有様であつたやうであります。
 東京市に今日養育院といふものがございます。此養育院の起りは明治の初に、前に申上げました物貰ひを何とかして無くしたいといふので、其起元は明治二年であつたと申すことであります。記録には明治五年からしかございませぬから、ハツキリしたことは申上げ兼ますが外国の珍客が来るといふので、乞丐を狩集めてこれを収容しようとしたが、場所もなし、扱ひに困つて、其時分非人頭といふ一の特殊の資格を持つて居る車善七と申すものが浅草に居りました、それに預けて東京府にある所の共有金を以てそれを扶持致しましたが、何時までも車善七に預けて置く訳けに参りませぬので、明治五年に初めてそれを車善七の手から東京府に引取つて、東京府がこれを処置するやうに致しました、所が場所がない為に、上野の護国院といふ寺を買取つて其所に収容所を設けましたのが、即ち今の養育院の濫觴であります。それが明治五年のことで、元の起りは乞丐を狩集めてやつたのであります。其時分に乞丐の多かつたことは、此一例でも御分りにならうと思ひます。
 - 第30巻 p.812 -ページ画像 
 追々に物質的或は精神的の種々なる方面から、欧羅巴の文明が這入つて参りまするに連れて、非人に対する方法も何とかせねばならぬといふことは時々講ずるものもあり、説く人もあり、一方には警察権が行はれて、多くの乞丐が市中若くは田舎を徘徊することは、前申述べた如き様子とは変つて、殆んど跡を絶つやうになつたのは最も喜ばしい話であります、而して或る方面から種々なる組立を以て、慈善団体が徐り徐りと出来るやうになつたのであります、今日で見まするとチヨツト此所へ集つても百五十も慈善団体が各地にございまして、其施設規則等に就ても協議し得るやうに相成つたのは、これを昔日と比べると大分の進歩と申して宜しいと思ひます。併し其初めは各地は如何か存じませぬが、東京では或る時節には窮民の救助に対しては悲観を以て、悲観といふよりは寧ろ残酷を以て迎へた時もあつたのであります。今申上げました養育院が、明治五年から引続いて東京府にある所の共有金を以て継承し来つて居りますが、東京府会といふものが出来ましたのは明治十二年でありまして、其後明治十四年に相成つて府会議員中から一つの議論が起つて、斯かる貧民を有限の資金を以て救助するのは惰民を養成する恐れがある、決して国家の為に喜ぶべきことでない、寧ろ斯ういふことは廃めたら宜からうといふ議が強く出ました、其時に例として論じたのは、英吉利の貧民法が却つて国運を妨碍して居ると英吉利の学者中論ずるものが多いと言ふた人もあつたやうであります。英吉利には今もなほ其論者がないのでございますまいが併し其時東京府で議論した論者は、此論だけを聞いて一方の説は見なかつたやうに思ひます。故に果してそれが正鵠を得た議論とは思ひませぬけれども、併し右の説を以て窮民救助は惰民養成になるからこれを廃止したいといふことで、遂に東京府の養育院は一時東京府会で廃めるといふことに議決されたのであります。府会はさういふ議論でありましたが、一般社会は府に同情を表さないで、遂に府と引放して養育院が私の設立になりました、而して会員を多く募て、会員組織で府の経営を引受けて暫く維持して居りました。其後廿二年に府県に自治制が布かれて東京市といふものになりました時、更に又東京市に養育院を附属せしめて、今日まで継続して東京市の養育院と相成つて居るのであります。唯だ一個の東京市に於ける養育院の起りから、其変遷が今申上げるやうに、或は止み或は移り、或は又再び復して今日の如くなつて居るのであります。爾来政治上に於ける傾向も、学者・議論家の評論する所も、慈善といふに就て自働的にしなければならぬといふ説を持つ人もございますが、又惰民養成になるといふ説を以て居る者も多くあるやうに思はれます。而して今日も尚ほ感化救済のことに就ては、其の説が一定したとは申上げられぬやうに思ふのでございます。故に維新以後精神界に物質界に、欧羅巴の文明を移し得て、総てのことが大に進んで参つたことは、先刻来諸先生方からも論ぜられました通り私も頗る喜ぶ次第で、又其通りであるが、弱者を救ふ貧窮の者を助けるといふが如き制度方法に於ては、如何なる仕方が適当であらうか、我国の今日に於て斯くしたら最も相当であらうといふことは政治界にも学問界にも定論が付いて居らぬと私は思ふのであります、
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せねばならぬといふことは申しつゝ居りますけれども、さらばどれ程にして宜しいか、国家が大に力を尽さねばならぬものか、唯だ我々の惻隠の心篤志の働に俟つべきものであるか、其判断に於ては具体的に定まつて居らぬと思ふのであります。然りながら一般の事物の進むと共に、所謂相憐む相愛するといふ情も共に進んで参りますから、何れの地方にも貧困なるものがあれば其儘には棄て置かぬ、殊に幼弱者などに就ては実に見るに忍びぬ、孔夫子も、惻隠の心は仁の端也と云はれて居る、御当地にも種々なる御取設けがありますが、各地さういふことが期せずして進んで参つて、前にも述べました通りチヨツト数でも百五十も団体が成立つて居るといふことは、縦令まだ政治界として論断されず、学者界として定説が立たずに居るにもせよ、一般の人道として既に左様に傾いて来たと思ひます、故に明治十七・八年頃東京府に於て養育院廃止をいふた説は、全く惨酷であり暴論であつたといふことは明瞭になつたと申して宜らうと考へます。弱者保護・慈善救済に関する維新以後今日までの歴史が、斯んな有様であると申して大差なからうと考へます。而して未来は如何にして宜しいかといふことを玆に少しく講究して見たいと思ふのであります。
 既に申述べました通り、御国の風俗として、又人情として、愛する救ふといふ情が深い故に、これから先きの世に種々なる変化を惹起すにもせよ、日一日と貧民が多く生して其為に社会に害を惹き起すなどといふことはなからう、是は私共もさう思ひますが、併し家々に貧窮を救ふといふ様に、家族的に行はれるのが果して美風とばかりいうて居られぬから、これは少しく考へなければならぬことであらうと思ひます。人々其の働を進めて行かうといふには、所謂独立自尊といふことを或る学者は努めていうて居ります。縦令親と子の間でも、子が親の遺産にのみ倚ることは、即ち独立自尊を欠くのである、総て人は己れの働きに依て生活して行かなければならぬのである、一方に国運を進めて行かう、物質的の発展を図らうといふには、どうしても個人的活動を進めて行かねばならぬのであります。
 殊に工業が段々進むに就て、追々に生存競争が烈しくなりて貧富を懸隔せしめ、而して前に申す個人主義が発達したならば、前申した所の美風とか愛情とかいふだけで満足して行けるかどうかといふことは大なる疑問であると思ひます、欧米の今日の有様で見ますると、所謂弱の肉は強の食で、段々生存競争からして、産を破り職を失ふ者の出来て来ることは免れぬ訳であります、個人生活の発達を進めて行く程其人は勉めて其身の経営をしますが、其経営を誤り、或は自身のやり方を過つ者もありませう、又全く時の不仕合に遭遇して、遂に失路の場合に陥る者も少くないでござりませう、故に古風の慈愛、旧習の家族制度は、勢ひ一方には減せしむるのであります、而して物質的の進歩が益々進むとしたならば、貧富の懸隔は益々甚しくなることを予期せざるを得ないのである。今其実例とも見るべきものを申述ますれば現に東京市の養育院の如き、明治五年頃には入院者の数が三百人位であつたが、それから段々に進で四・五百人までになつて、さうして一旦養育院を廃止しまして、これを私設に致した時分にも、亦三百人位
 - 第30巻 p.814 -ページ画像 
収容して居りました、次で又東京市の所轄になつて追々に人が殖ゑて参つて、日清戦争の頃には五・六百人になりまして、本所長岡町より唯今の大塚へ移しました当時は、凡そ七・八百人も収容し得る目的を以つてやつたならば足りるといふ見込を以て家屋を建築しましたが、爾来東京市は人口が次第に増加して、或は百六十万と申し、或は二百万と申し、其調査が明瞭でございませぬけれども、何れ十四・五年以前に比べますれば非常に増して居るに違ひない。而して不景気だと申しても、東京市の繁昌は大に増進して居る、然るに此養育院に這入る人間は、年一年に加つて参ります、東京市が繁昌になつて貧窮者が増して、養育院の入院者が殖ゑるといふのは、誠は不権衡な話である、此が東京市養育院の一例を以て見ましても、一国の繁盛は其間に職業を失ふ人を作り出すものであるといふことは、争ふ可らざる事実であります。即ち前に申す通り、どうしても個々で力を尽すべき仕向が強くなりましては、生存競争の結果産業を失ふものが増して、国の繁昌する程失業者が多く出来て来る、東京市が繁昌して人口が増すと同時に、養育院の収容者を増すことは不思議のやうであるが事実である。既往十年若くは十五年の有様を以て未来を考察するならば、此傾向は長く継続することと思ひます、決して左様に遅々たるものでなからう斯う考へますると、既に明治十四・五年頃東京府に於ては、養育院の如きものは惰民を作る一の害物であると申しましたけれども、是は其時の謬見であつたといふことは、既に明瞭に判断されて居ると思ふにも拘らず今日世間はまだ混沌として其施設の方法確立せずして、尚ほ十四・五年頃疑を持つたと同様な有様に居りはしないかと、私は懸念するのであります。
 斯う考へますると、此の感化救済の事業は今日充分これを講究して相当の方法を立てねばならぬものであると断言し得るかと思ふのでありますが、併し此事は政治界又は学者界、若くは社会一般の人々が今私が申上げる如くにまで思つてをられるかといふことは、自分にはさう信じられませぬ。勿論無用なものである、不急の論であるとまでに看過はせぬやうでございますが、如何にも深く注意して、斯かる方針を立てねばならぬといふことに、思慮を進め行かぬやうに思ふのは、将来の為に、殊に慈善事業に趣味を有つて、此方面に働いて居る御同様の諸君としては、甚だ遺憾ではなからうかと思ふのでござります。
 果して然らば未来は如何にして宜からうか、玆に於て第三段の問題となりて我々慈善事業に従事して居る者は、相当なる観念を以て計画する処がなければならぬ、斯かる方面に立ちて斯かる所に到着せしめたいといふやうな見込がなければなるまいかと思ふのでございます。
 凡そ世の中の事は所謂論より証拠で、どうしても良い仕事をそこに出現して、斯かる手段を以て斯くすれば斯うなつて来るといふことが世間一般、政治界へも学者界へも充分認められるに於て、追々に其説が強くなつて来るのであります。
 斯く申すと聊か自負の言葉に亘りますが、試みに明治の初に当りて商工業者が世間一般から見られる所は、恰も今日の慈善家の有様であつたことを私は回想するのであります、政事家といふ種類のお人々、
 - 第30巻 p.815 -ページ画像 
殊に其目的を以て学問に就く学生などの、明治の初め否初め所ではない十四・五年までの有様は、商工業者をば頗る疎んじ、且蔑視したものでありました、苟くも学問をするならば、其学問の働きは実業界に現はすよりは学者界とか政治界とかに現したといふのが、殆んど一般の目的であつた、学ぶ生徒もそれを希望し、学ばせる父兄も皆同様の方針であつた。又政事家が実業をさやうに軽蔑はせなんだけれども、余り重んぜられぬ、又重んずべき取扱でなかつた、従つて世間からさやうに尊重されなかつたのであります。然るに国家は決して唯だ政治とか学問とかいふものばかりでは、物質的の進歩を遂げ真正なる富をなし真正なる隆盛を為すことは出来ないのであります。
 これは日本ばかりではない、海の東西を問はずさやうである、故に海外の有様に比べて、追々に実業を重んぜねばならぬやうになつて来たと同時に、一方実業界に追々力を現はす人が出来て来て、遂に実業家に重きを置くやうになつた、今日と雖も、まだ亜米利加とか英吉利とか独逸とか云ふ国々とは比較する訳には参りませぬけれども、明治十四・五年頃とは、まるで雲泥霄壌の違ひになつたのであります。試みに教育の方を見ても分ります。明治十四・五年頃には実業教育といふものは殆んど指を折る位でありました、東京にある高等商業学校が唯一の実業学校で、其所で学ぶ学生も其目的は大抵役人にならう教師にならうといふことを主として居つたのであります。後二十年余を過ぎた今日は其有様が全く一変して、実業を軽視するなどといふことは全くないやうになつたのであります、斯う考へますと、政事家・学者若くは社会の目の着け所が、或は少し遅いではないかと思はれるのである、是は少しく我仏尊しといふ嫌があるかも知れませぬが、今日弱者保護に同趣味を持つ者が慈善急なりと云ふことを叫ぶは、何か世に不祥のことを唱ふるやうに考へられるか知れませぬけれども、我々の念慮と我々の施設が其宜しきを得て、慈善に対する事業が相当の方法を以て進んで行き、又其企図する事柄が、例へば今般の集会に於ても務めて必要に応じ、肯綮に適する規模を以て、其筋に若くは社会に打出すといふことが、追々出来て参りましたならば、遂に一般の人情をして、成程是は早く慈善に対する相当な方法を講ぜねばならぬといふことに、遠からずしてなるであらうかと思ふのでござります。併して其域にまで達せしめなければ、私が第二に申述べた懸念を解決することが出来ないやうに思ふのでございます。
 東京に於ける中央慈善協会では、今申上げましたやうな問題に就て此慈善事業に対しては国家としてどれ位の力を入れねばならぬものであらうか、又社会の方面に於て力ある人は如何に務むるが相当であらうか、又一般の公衆に於ても斯く考へなければなるまいかと、充分に講究して、先づ第一には斯かる着手が必要であらう、斯ういふことを進めて行きたいと其の調査を精密にして、これが適当と思ふやうなことを、社会に向つて発表して見たいと思つて今やりつゝあります。是等の意見は幸ひ志を同じうする各地の団体に於ては、斯かる事柄は如何なる方法を以て処するが宜しいかと、追々御意見を伺つて見たいと思つて居るのであります。此場合には是非共団体の諸君にも、腹蔵な
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く御意見の提出を願ひたいと思ふのでございます、故に私は慈善事業が御維新以後、斯の如くであつて又将来斯ういふ必要がある、斯ういふ懸念がある、果して懸念があるとすれば適当なる施設をせねばならず、其の適当なる施設は幸にも斯如き御会合によりて、動かすべからざる立案を為し、或は其筋に、或は社会に向つて、充分に問うて見たいと思ふのであります。御集りの諸君にも直接に其ことに御関りの方もございませう。又趣味を同うして参会下された方もあらうと思ふのでございます。就ては今申上げますることに就ては十分御意見を御陳述下さることを願ひたい。又直接其業に御従事ございませぬでも、既に同趣味を以て御集り下された諸君の多数の御助力によつて、今申上る事柄が世の中に明瞭になるやうに致したいと存じます、尚ほ此上にも御尽力あらんことを御願ひ申して置きます。(拍手)



〔参考〕東京市養育院月報 第一一一号・第一四頁 明治四三年五月 ○名古屋に於ける慈善事業大会(DK300100k-0004)
第30巻 p.816 ページ画像

東京市養育院月報  第一一一号・第一四頁 明治四三年五月
○名古屋に於ける慈善事業大会 愛知県下の慈善事業団体が発起者となり、本月二十一日より二十三日まで、名古屋なる愛知県会議事堂に於て全国感化救済事業大会を催ほすことゝなり、檄を四方に飛ばしたる所、各地より三百有余の出席申込ありて、頗ぶる好景気を極むと云ふ、御祭騒ぎに終らずして、着実なる結果を得んことを切望す。



〔参考〕東京市養育院月報 第一一二号・第一一頁 明治四三年六月 ○全国感化救済事業大会の景況(DK300100k-0005)
第30巻 p.816 ページ画像

東京市養育院月報  第一一二号・第一一頁 明治四三年六月
○全国感化救済事業大会の景況 前号所報の如く五月二十一日より二十三日迄、名古屋市なる愛知県会議事堂に開催せられたる該大会は、発起人総代たる荒谷性顕師(愛知育児院長)等の尽力に依り非常なる盛況を呈し、協議に、講演に、公開演説に、予定の会期を頗る多忙に送り、二十三日午後無事閉会を告げたりと云ふ、 ○下略