デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
7款 全生病院
■綱文

第31巻 p.110-118(DK310017k) ページ画像

大正11年11月3日(1922年)

是日栄一、ハワイ大学総長アーサー・ディーン博士ヲ案内シテ当病院ヲ視察シ、患者・職員ニ対シ一場ノ慰問演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四一五号・第七三頁 大正一一年一二月 ○全生病院視察(DK310017k-0001)
第31巻 p.110-111 ページ画像

竜門雑誌  第四一五号・第七三頁 大正一一年一二月
○全生病院視察 青淵先生には、十一月三日午前九時半より、布哇大学総長にして癩治療研究の大家たるデーン博士を東村山村全生病院に案内せられ、我邦に於ける癩病患者治療の実地を視察せしめられたるが、当日院長兼医長たる光田健輔氏の説明に依り博士は親しく注射の実況を見、且つ自ら患者に手を触れて診察する所あり、尚ほ院内の礼拝堂に患者一同を集めて青淵先生及博士の講話ありたる由なるが、引続き正午より博士を始め刈米・石津・三宅諸博士、並に窪田行政裁判
 - 第31巻 p.111 -ページ画像 
所長官・横山衛生局長・田子社会局部長・田中太郎氏・安達憲忠氏等を日本工業倶楽部に招待の上、午餐会を催されたりと云ふ。


集会日時通知表 大正一一年(DK310017k-0002)
第31巻 p.111 ページ画像

集会日時通知表  大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
大正十一年十一月三日(金) 午前九時半 デイン博士ヲ村山全生院ヘ御案内


芳名録 【○上略 大正十一年十一月三日】(DK310017k-0003)
第31巻 p.111 ページ画像

芳名録                    (全生病院所蔵)
○上略
  大正十一年十一月三日
                渋沢栄一
      Arther L.Dean,Honolulu T.N.
○下略


山桜 第四巻第一〇号・巻頭―第四頁 大正一一年一一月 デーン博士を迎ふ(DK310017k-0004)
第31巻 p.111-113 ページ画像

山桜  第四巻第一〇号・巻頭―第四頁 大正一一年一一月
    デーン博士を迎ふ
明治天皇祭と云ふ目出度き三日、全院患者に取りて何といふ楽しい、しかも紀念すべき日であつたらう、日本晴の空には一片の雲影だになく、時折所沢より飛行機が飛来し、諸名士を歓迎するが如く日米両国旗は微風に翻り、真に平和の気に満ち満ちて居た
午前十時布哇大学総長デーン博士・渋沢子爵閣下、三宅驥・石津利作博士、古見・外米内務省技師等の諸名士は此の別天地を親しく御視察下され、そして礼拝堂に於て別項の如く私等の為めに御同情の言語を注がれたのであります、其一言一句私等の冷たき胸を暖め、且つ光明を与へられたのであります、玆に満腔の熱誠を披瀝して感謝の意を表する次第であります
                      全生院患者一同
    渋沢子爵の講演要旨
私が此の病者に対して、少年の時より同情を以て居りました、而し只今院長さんの言はれた程尽しては居りません、陰に陽に微力を尽した積りであります、此後も又微力を尽す積りであります
一体人間には運と云ふ者があつて、其れを人力を以て如何ともする事が出来ないもので、それで諸君が此の疾病に罹られたと云ふ事は、実に同情に堪えないのである、それで天命に打ち勝つ事は出来ないものであるから、天命にまかせて、安らかに過される様にせんければなりません
而して近代医学の進歩に依つて、癒らないにも限りません故、体を大切にして、此後社会に出て大に活動の出来る日を待つて居なさい
今日御紹介したデーン博士は、世界有名の新案を発見した人であります、併し其の為めに御出になつたのではなく、米国と日本との国交上御話したい事がありまして、御招きしたのであります、そこで光田さんと色々相談して、此病院を見て貰ふのに御出を御願したのであります、私は前座として一寸御話したやうの次第であります
    デーン博士の講演要旨
 - 第31巻 p.112 -ページ画像 
横浜より汽船に乗りて太平洋を東南に向ふて二千五百五十哩ばかり行くと、其処に日本の本土より小さい布哇と云ふ一小群島があります、其島中のオアフ島と云ふ島の首府ホノルヽを去りて、海岸に沿うて行くと三哩にしてか病院があります、其処にはやはり貴郎方と同じ不幸の方々を収容されて居ります、病院の名はカロヒと云ふております、其処は至つて地勢か低くて、ふさはしくはないが、其の小丘を「幸福山」と名づけたのであります、そして病院に居る患者は二百名で、日本人及び米国人も少しは居りますが、其の多くは、布哇土人であります、一体布哇の土人はニコニコとした快活の性質であります、私が時折見舞に行きますと非常に喜んで、何時も階段の側に並んで歌を唄ふて迎へて呉れるのであります、非常に親んで居りますで、私も親みを以て居ります、患者もデーンと云ふ友達を以て居ると思ひ、私も又患者を友人と思ふております、そして悲みと云ふ事を少しも知らんかの様に、何時もニコニコしております
若しも彼等が、貴郎方の前に私が立つてゐると云ふ事を知つておつたならば、必ず彼等は真心から祝福の言葉を以て、皆様へ宜敷と私に頼んだ事と思ひます、それは土語に「アロハ」と言ふ言葉であります、尤も此言語の内に籠りたる友情と云ひ愛と云ふ事は、全く国境も人種も超絶したものでありまして、世界平和の源であります
私が今回此方に参りまして一番驚へたのは、此様の設備と治療上に完全に行はれ、斯ふした空気の清い中に居らるゝと云ふ事は、皆様の此の上なき幸福で、又日本の誇りとする処であります
元来「レプラ」はヅツト、古くからある病気で、一名ヲ刑病《(天脱)》と云へ、又不治の病として各国の記録にあるのであります、然るに今日科学と医学の進歩に依つて、必ず全治しないとも限らず、きつと全治すべきものであると思ひます
故に玆の院長さん始め日本の医学者が、熱心なる研究に依る事と思ひます、総べて人類の間に起る色々の難関は神が人間の力を試す為めであるから、我々人類は飽迄其難関に打ち勝ちて、必ず其の解決をつけなければなりません、又必ず解決のつくべきものと信じます、でありますから皆様は院長さん始め職員の方々の仰せに従つて、体を大切にしておゐでなさい、米国合衆国の人々は一億余あります、其中に「レプラ」は僅一千名ばかりしか居りません、私は布哇へ来て初めて患者を見た様の有様であります、それで日本にも近き将来に、又近き未来に於て、必ず「レプラ」と云ふものを見る事が出来ない様になるであらうと確信して居ります、又私が日本に来て間違つた話を二つ程聞きました、それは「レプラ」に罹ると本人も家族も恥辱と思ひ、又社会もそう思ひつゝ居るのが、大なる間違であります、病気に罹つた人々は其れは非常に不幸ではありますが、けれ共決して恥辱ではありません、法律を犯した罪人でも何でもなく、貴郎方は立派の日本国民であります
恥辱と不幸とは、全く別問題であります、それで此病は不治ではない故、真実の望を以て体を大切にしてゐて貰へたい、終りに臨み、布哇土語のアロハを以てお別れの言葉と致します(終)
 - 第31巻 p.113 -ページ画像 
    渋沢子爵追加
只今デーン博士の御ことばに、あなた方は不幸の方であるが、恥辱ではないと仰しやつたが、誠にその通りで、今年支那の孔子様の二千四百年に当るので、盛に祭典が行はれた、其の孔子のことば、即ち論語は、私の常に尊信して居るのでありますが、孔子は徳行は顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語は宰我・子貢、政事は冉有・季路、文学は子遊・子夏と、自分門下の十哲を算へ上げられたが、其内の徳行随一の冉伯牛が癩病にかゝる病状に居つた時、孔子が見舞れて、まどより其手を執り、斯の如き病気にかゝる事は運の悪ひのである、斯の徳行の君子にして斯の疾あり、惜しや惜しや、斯人にして斯疾ありと云はれた。私もデーン博士と共に、諸君の不幸には限りなき同情を有するものであるのみならず、梅毒の如き罪の病でもなければ、此迄考へられた様な恥辱の病でもない、故に孔子様と同じく、重ねて諸君を御尋ねして、手を取り、斯の人にして此病あり、斯人にして斯疾ありと慰め惜しみたいのであります、諸君は何卒気を広くして充分に養生に励みなさい。


渋沢栄一書翰 アーサー・ディーン宛 一九二三年五月二九日(DK310017k-0005)
第31巻 p.113-114 ページ画像

渋沢栄一書翰  アーサー・ディーン宛 一九二三年五月二九日
                (アーサー・ディーン氏所蔵)
              (COPY)
        VISCOUNT SHIBUSAWA
        2 Kabutocho Nihonbashi
            Tokyo
                    May 29,1923

 Dr.A.L.Dean,
 President, University of Hawaii,
 Honolulu, Hawaii.

 My dear Dr. Dean,
   You may be pleased to know that Mr.K.Mitsuta who is the Director of the Higashi Murayama Leper Asylum and with whom you met on different occasions while you were in Japan last year was appointed by the Government to attend the World's Leprosy Prevention Conference which will be held in Strasburg, France for three days (27th, 28th and 30th) in the month of July. Mr.Mitsuta will sail from Yokohama on board the Tenyo Maru on June the 6th. The steamer will arrive at Honolulu on the 15th. He is desirous to take this opportunity to call on you personally, in order that he may pay his respect and express his thanks for your exceeding kindness shown at the time of your visit to the Asylum. He also desires to confer with you on the subject he is interested in.
   I shall greatly appreciate your courtesy if you can
 - 第31巻 p.114 -ページ画像 
receive him when he calls on you. As I worte to the Consul-General Yamazaki about Mr.Mitsuta's wish for calling on you, the Consul-General will be able to tell you details about it.
   Trusting that this will find you and Mrs. Dean in the best of health,
              Yours very truly,

                  E. SHIBUSAWA.


(アーサー・ディーン) 書翰控 渋沢栄一宛 一九二三年六月二一日(DK310017k-0006)
第31巻 p.114 ページ画像

(アーサー・ディーン) 書翰控  渋沢栄一宛 一九二三年六月二一日
              (アーサー・ディーン氏所蔵)
            (COPY)
       THE UNIVERSITY OF HAWAII
          Honolulu, Hawaii
                    June 21,1923

 Viscount E.Shibusawa
 2 Kabutocho Nihonbashi
 Tokyo, Japan

 Dear Viscount Shibusawa:
   Doctor Mitsuta arrived on the Tenyo Maru and I was glad to be able to see him again. Mr.Fujimoto who is an assistant in our laboratory working on chaulmoogra oil accomanied me to the boat to meet Dr.Mitsuta. The three of us went to the Kalihi Hospital where Dr. Mitsuta spent some time examining patients. We had luncheon together at the University Club and in the afternoon came back up here to the University; later in the day we took a drive to the Pali where Dr. Mitsuta experienced a real wind.
   I have spoken to Mr. Atherton and he is very willing to act with Ex-Governor Frear and me in organizing our local committee. I think your selection of Mr. Atherton is a very fortunate one.
               Sincerely yours,
                    A. L. DEAN
                     President.


渋沢栄一書翰 アーサー・ディーン宛 一九二三年七月二七日(DK310017k-0007)
第31巻 p.114-115 ページ画像

渋沢栄一書翰  アーサー・ディーン宛 一九二三年七月二七日
               (アーサー・ディーン氏所蔵)
            (COPY)
         VISCOUNT SHIBUSAWA
         2 Kabutocho Nihonbashi
             Tokyo
 - 第31巻 p.115 -ページ画像 
                      July 27, 1923

 President A. L. Dean
 University of Hawaii
 Honolulu, Hawaii

 My dear Dr. Dean.
   Your kind letter of June the 21st was duly at hand. It was exceedingly kind of you to give Mr. Mitsuta such a loyal welcome as to take him to Kalihi Asylum, Mount Pali and later to the laboratory of your University. He sent his impressions of Hawaii and stated very fully about what you did to, and for him. Let me thank you for all that you did to make his short stay in your city so interesting and profitable.
   I was much pleased to learn that Mr. Alexander during his visit to Honolulu took occasion to ask you and Ex-Governor Frear to act as nominating committee of the Japanese Relations Committee of Honolulu now to be organized. I felt it almost supererogation on my part to add another name to such an excellent committee. However, I nominated Mr.F.C. Atherton since you asked me to nominate one sometime ago, and I am delighted to know that you approved my nomination. Let me assure you that I am very anxious to see the organization completed.
   Our mutual friend Dr.I.Mori is to leave Japan on the 28th inst. I intrusted him with a box of package to be delivered to you at his arrival. I wanted to present you a souvenir which commemorates your visit to Japan. It is a humble present in the form of a flower vase of porcelain. I shall be delighted if you accept it.
   Please very kindly remember me to Mrs. Dean.
              Yours very truly,

                E. SHIBUSAWA.


(アーサー・ディーン) 書翰控 渋沢栄一宛 一九二三年八月二三日(DK310017k-0008)
第31巻 p.115-116 ページ画像

(アーサー・ディーン) 書翰控  渋沢栄一宛 一九二三年八月二三日
              (アーサー・ディーン氏所蔵)
             (COPY)
         THE UNIVERSITY OF HAWAII
            Honolulu, Hawaii
                    August 23, 1923

 Viscount Shibusawa
 2 Kabutocho Nihonbashi
 Tokyo, Japan
 - 第31巻 p.116 -ページ画像 
 Dear Viscount Shibusawa:
   On his return from Japan Dr.Mori called upon me and delivered the Satsuma vase from you. You may be sure that this beautiful gift is appreciated both for its self and because of the pleasant memories which it evokes. Please accept our thanks.
   Mr. Atherton is away from Honolulu on a trip to the mainland. As soon as he returnes we shall take up the organization of the Japanese-American Relations Committee of Honolulu.
   With best wishes,
              Sincerely yours,
                    A. L. Dean



〔参考〕渋沢栄一書翰 光田健輔宛 大正一五年四月三〇日(DK310017k-0009)
第31巻 p.116 ページ画像

渋沢栄一書翰  光田健輔宛 大正一五年四月三〇日   (光田健輔氏所蔵)
拝啓、追日春暖相催候処、貴台益御清適之条欣慰之至ニ候、然者此一書を以て御紹介致し候新井智信と申御婦人ハ、阿波徳島郡之人にて、老生ハ初面会なるも縁合之関係も有之、従来其地方に於て癩病患者之救済に尽力致居候由にて、向後其施設ニ付て種々之企望有之趣を以て来談有之、且現下貴病院之状況参観之上、貴台御経営之次第及将来之御企図等詳細ニ承知いたし度と申事にて、即ち此書状相添候義ニ御坐候間、何卒御引見之上貴院之現状充分ニ御説明被下、本人之意見ニ対し成るへく詳細ニ御教示相成度拝願仕候、前陳之如く老生も初回之会見にて、是迄之経営ニ付而も何等聞知する処無之ニ付、余り空想ニ過候点も有之候様御察しニ候ハヽ、精々御訓示も被成下度候、右添書迄匆々如此御坐候 敬具
  大正十五年四月三十日
                      渋沢栄一
    光田健輔様
  尚々、老生も久敷貴院之実況見聞不仕候ニ付而ハ、其中参観いたし度と期念罷在候、又曾而毎々御申聞之自宅療養之癩患者離隔之方法設置ニ付而も、何か新規之御立案も御坐候ハヽ、御示し被下度、乍序此段申添候也



〔参考〕論語講義 渋沢栄一口話尾立維孝筆述 乾・第六八―七〇頁 大正一四年一〇月(DK310017k-0010)
第31巻 p.116-118 ページ画像

論語講義 渋沢栄一口話尾立維孝筆述  乾・第六八―七〇頁 大正一四年一〇月
伯牛有疾。子問之。自牖執其手曰。亡之。命矣夫。斯人也而有斯疾也。斯人也而有斯疾也。
訓読伯牛疾《はくぎうやまひ》あり。子之《しこれ》を問《と》ひ、牖《まど》より其手《そのて》を執《と》つて曰《いは》く。之《これ》を亡《ほろ》ぼす。命《めい》なるかな。斯《こ》の人《ひと》にして斯《こ》の疾《やまひ》あり。斯《こ》の人《ひと》にして斯《こ》の疾《やまい》ありと。字解伯牛 姓は冉。名は耕。字は伯牛。魯の国の人。孔子の門人なり。徳行を以て名を著す。○有疾 七十二弟子解に曰く悪疾ありと。淮南子精神訓に冉伯牛厲疾とあり。○自牖 自は徒なり。牖は窓なり。○亡 喪なり。疾甚し。故に其手を持て。之を喪と曰ふ。○命 天命なり。
 - 第31巻 p.117 -ページ画像 
講義孔門の中でも。冉伯牛は顔淵、閔子騫に次ぎ徳行の高かつた人である。其疾は悪疾即ち癩病であつたと古来いはれて居る。或は然からん。孔子が態々其疾の篤きを聞き。見舞に往かれながら。強て室内に入られなかつたのも之が為めならん。伯牛は己れの身体が膿壊して居るので師の御目に懸るを憚り。室内に請じ入れざりけん。然るに孔子猶窓より手を差入れて伯牛の手を取り。其疾既に篤く。到底快復の望みなきを見て。之を喪ふは誠に痛惜に勝へざれども。今は天の命なれば致方なしと慨き給へるなり。「斯の人にして斯の疾あり。斯の人にして斯の疾あり」と。同じ言葉を二度まで重ねて繰り返したるを観れば。孔子が如何に人情に厚く。門人を愛する情の深かりしかを知り得らるゝなり。二千四百年後の今日に至るまで猶ほ支那は勿論日本の人に尊敬せられ。近頃は欧米の人々にも畏敬せられる所以の原因は。全く斯く人情に厚かつた所にある。才や力ばかりでは。迚ても永く人を心服さしてゆくことは能きぬ。人情に厚い人のみが能く衆に懐かれ永遠に尊敬せらるゝものである。
「斯の人にして斯の疾あり」の嘆辞中には。「此れ程徳の高い前途多望の伯牛にも。猶斯んな悪るい病があるか。何といふ情ない事であらう」といふ意味を含み。誰れでも孔夫子と同じやうに斯の嘆息を発せざるを得なくなるもので。「なぜ斯んな疾に罹つてくれたのだらう」といひたくなるのが人情の自然である。況んや伯牛の疾は世に天刑病と称せらるゝ悪疾であつたとすれば。孔夫子は一層この感を深くせられたであらうと思はれる。余も是迄永年の間に知り合つて居る人物の
中で。斯人こそ将来必らず豪くなるらめと思ひしに拘はらず。早世したと聞き。誠に惜しい事をした。残念な事をしたと思つた場合が度々ありき。其一例を申せば。水戸の藤田東湖の四男小四郎が二十四歳にして武田耕雲斎の乱に加つて斬首の刑に処せられたと聞た時など。余は斯人にして斯厄に遭ふとは。何たる事であらうと愛惜の念を禁じ得なかつた。
更に一例を申せば。大亦興治といふ青年ありき。紀州の生れであつたが。明治二十年頃。余が深川の邸宅に住つて居た折に。同人の母が余の邸の召使になつた関係から。便宜上余の邸へ寓居して居つたが。興治は十六歳であつたやうに記憶する。頭脳明敏一を聞て十を知る智能あり。別に何学校で学んだといふのでも無い。唯生れついて読書が好きで。隙さへあれば手当り次第に読書し。殊に新聞を精読したが。何か解らぬ不審の点があれば。それを直ちに余に質問する。その質問が要領を得て居て。之を説明してやれは。普通の青年には理解し得られぬやうな難問題でも。興治は直ぐに理解会得が能きたのである。余は痛く感心して。興治の事を或時第二十銀行頭取西園寺公成氏に話した処。氏も甚だ感心し。「そんな青年なら是非欲しい。使つて見るから。と申されるので。余より西園寺氏に遣す事になつたが。氏は随分思ひきつて之を二十銀行の支配人に重用した。是れ興治が二十二歳の時であつた。余も西園寺氏の思ひ切つた登用には少し驚かされた。多少不安にも思つたが。流石に一を聞て十を知る大亦だけあつて。二十二歳の少年でありながら。能く其重任に堪へ得て。支配人の任務を立派に
 - 第31巻 p.118 -ページ画像 
遂行した。才智の秀たものは。とかく機敏に立廻り。狡猾になり易く。往々悪い事をする傾きがあるものだが。興治は是ほど鋭敏で非凡の才能を持ちながら。毫も曲つた処がなく。悪い事などは決してせぬ。故に信用も加はり。将来有望の実業家を以て目せられて居つたのだが。惜い事には肺患に罹り。僅かに二十四歳になつたばかりで死んでしまつた。余は大亦が肺病に罹つたと聞た時には。孔子が伯牛の死病に取つかれたのを見舞はれた時と同じく。「斯の人にして斯の疾あり」の歎声を発せざるを得なかつたことがある。