デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
8款 救世軍療養所
■綱文

第31巻 p.122-124(DK310019k) ページ画像

大正5年11月23日(1916年)

是ヨリ先救世軍ブース大将ノ永眠記念事業トシテ結核療養所設置ノ議起ル。栄一其寄附金募集ニ尽力シ、自ラモ千五百円ヲ寄附セシガ、是日当療養所ノ設立成ル。


■資料

山室軍平手記(DK310019k-0001)
第31巻 p.122 ページ画像

山室軍平手記            (渋沢子爵家所蔵)
    渋沢子爵と救世軍
一、大正二年十一月三日、子爵には大隈伯・石黒男・阪谷男・中野・森村・江原・島田の諸氏と連名にて「救世軍療養所設立に賛助を仰ぐ状」を発表せられたり、其文之を略す、(「ときのこゑ」大正二年十二月一日号にあり)
一、大正五年十一月二十三日、府下和田堀町に救世軍療養所(結核患者のための)を設立するに当り、子爵は風邪のために御出席の運に至らず、左の祝辞を寄せられたり
   拝啓 益御清適奉賀候、今日は爾来御高配にて落成せし救世軍結核療養所開始に付、老生にも是非出席いたし、実況も拝見し、且将来の御経営に付ても何か心附も有之候はゞ、陳上致度と懸念罷在候処、両三日来の風邪気朝来殊に不快を感じ、何分外出仕兼候間、不得止電話御断申上候次第、何卒御諒恕被下度候、一昨年来西欧の戦乱は各種の方面に影響して、一方諸商工業の景気隆昌なると同時に、都会の繁集を加へ随て又落伍者の数も終に増加致は必然の理と存候、此際御同様弱者保護の事を以て任と致居候者は、別して注意を要する事と存候、故に老生は貴救世軍の各種の方面に於て救済事務御尽瘁相成、而して其処置極て親切なるは常に敬服感謝致候所に御座候、今日所労実地に出席仕兼候に付、聊か所感を披瀝して謝意を表し候義に御座候 匆々敬具
   十月廿三日当賀            渋沢栄一
    山室軍平様 机下
  此の療養所の為には、設立費として、金千五百円を寄贈せられたり。
○下略


ときのこゑ 第四三一号 大正二年一二月一日 救世軍療養所設立に賛助を仰ぐ状(DK310019k-0002)
第31巻 p.122-124 ページ画像

ときのこゑ  第四三一号 大正二年一二月一日
    救世軍療養所設立に賛助を仰ぐ状
粛啓、時下益々御清穆被為在奉賀候、陳者先年故ブース大将渡来の節発表せられたる趣意に基き、英国婦人の寄贈金、並に同情諸君の醵金を以て、昨明治四十五年六月東京市下谷区仲徒町二丁目に救世軍病院を開き、其経営日尚浅きに関らず、担当諸氏の熱誠と賛助諸君の厚義とにより、其事業着々歩を進め、一年間外来患者の延数弐万七千三百
 - 第31巻 p.123 -ページ画像 
○六人、往診患者の数、千九百九十七人に達し、今後の冀望益々大に其責任愈々加はることを示し申候、抑々当院の他に異なる特色は、医員・看護婦が貧民窟を歴訪し、自ら起ちて病院に診治を乞ふ能はざる患者に対し巡回救護を行ふこと、及び労働収入の途を妨げざらんが為めに労働時間以外、即ち夜間治療を施す等の点に有之、其事頗る功を奏して、上記の治療数に上ぼり申候、然るに一ケ年余の実験により、担当者に於て看過すべからざる一大要件あることを発見し、痛切の感を懐くに至り候、其れは別議にも無之、社会下層階級の家に、特に結核患者年々増加して、之を防ぐの道なき惨事に御座候、是れ其営養の不十分なること、家屋隘狭にして、空気の流通よろしからざること等に起因し、是等の起因は更に染伝の勢を助長し、又其寝室を同くし、食器を共にする等の関係より、見す見す其一家族を同病に感染せしむるに至り候、是の如き生活状態の患者は、単に投薬施治の能く救療すべきにあらずして、唯其本人及び家族の憫むべきのみにあらず、人口稠密の都会に此患者ありて、其数の増加することは、普通の民家に多量の火薬を密蔵すると、其危険を同くするものに御座候、欧米諸国に於ては、近年結核患者の数減退するに反して、我国は比年増進いたし候、英国は嘗て人口壱万人に対し二十五人の結核死亡者あり、普国は嘗て三十三人の同死亡者ありしが、鋭意其予防に注意尽力せし効果現はれ、英国は十二人に、普国は十五人に減じたるに、我国は明治三十四年には人口壱万に付結核死亡者十六人九なりしに、連年逓進増加して、四十三年には二十二人四と相成候、此勢にして止まざれば、益々増加すべきこと疑なく候、是れ真に国家の一大憂患にして、東京市の如き人口稠密の都会に於ては、特に其救護を要すること切迫の問題に御座候、救世軍病院担当諸員は其直接従事する業務によりて、特に其感を深くし、下層階級の為めに結核患者の救護に手を下さんとの志を起し候、故ブース大将昨年秋長逝せられてより、本年に至り各国其紀念の為めに各種の慈善事業企画中に御座候処、偶々救世軍万国本営より我救世軍病院に対し、三万円を寄贈し来り候に付、此の機会を以て病院の事業を拡張し、貧民結核患者の為めに隔離療養所を設立せんと欲し、右参万円の内弐万弐千円を以て、東京府下中野在和田堀の内村に於て約四千坪の地所を買収し了り、余金八千円を以て療養所内部の設備費に充てんとの設計を立て候、此目的を実行せんとせば、建築費五万円・経営基本金弐万円、合計金七万円を募集する必要有之、是を大方の仁慈義侠に訴へ、広く助力寄贈を仰ぐ次第に候、是唯犠牲的精神を以て救護事業に従ひ居候人々の志を成さしめんとする慈恵的事業に止まらず、内は弐百万の人口を有する都会の危険を防ぎ、外は英人の義侠を空くせしめざらんとする次第に候、救世軍病院の現状は其年報により、又療養所の設計は同趣意書によりて詳知被下度、此に年報及趣旨書相添へ大方諸君の御賛同を奉仰候 敬具
  大正二年十一月三日
                      大隈重信
                      渋沢栄一
                      石黒忠悳
 - 第31巻 p.124 -ページ画像 
                      阪谷芳郎
                      中野武営
                      森村市左衛門
                      江原素六
                      島田三郎


救世軍二十五年戦記 山室軍平著 第三六―三七頁 大正九年一一月刊(DK310019k-0003)
第31巻 p.124 ページ画像

救世軍二十五年戦記 山室軍平著  第三六―三七頁 大正九年一一月刊
 ○下巻 発展時代
    (五五) 結核療養所の開所式
新嘗祭 ○大正五年の当日、結核療養所を東京府下中野在和田堀内村に開いた。此の療養所は、前大将の記念事業として、数年前より計画せられ大隈侯、渋沢・石黒・阪谷・森村の四男、中野・江原・島田等諸氏の推薦状を得て、金を集めたほか、別に山室機恵子によりて組織せられた、婦人後援会の賛助があり。終に山本唯三郎氏の一万円、渋沢・森村両男の各千五百円、古河男・村井吉兵衛氏・原六郎氏の各千円、花の日会の五百円等、計五万円に近い金を得て、之を設立せられたのである。前に 昭憲皇太后陛下御葬場殿の一部を戴いたのを、建直して本館に充て、医員・看護婦の宿舎の外に、二棟の病室があつて、計五十人を収容すべき設備である。 ○下略