デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
10款 財団法人泉橋慈善病院
■綱文

第31巻 p.147-149(DK310027k) ページ画像

昭和5年7月4日(1930年)

是ヨリ先昭和四年十一月三日、当病院評議員会長井上勝之助卒ス。是日評議員会開カレ、栄一之ガ後任トシテ同会長ニ選バル。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二〇頁 昭和六年一二月(DK310027k-0001)
第31巻 p.147 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調  竜門社編
                竜門雑誌第五一九号別刷・第二〇頁 昭和六年一二月
    大正年代
 年  月
 八  四 ―財団法人泉橋慈善病院評議員― ○中略 昭和五・七―〃〃〃会長―昭和六・一一。


竜門雑誌 第五〇二号・第七五頁 昭和五年七月 青淵先生動静大要(DK310027k-0002)
第31巻 p.147 ページ画像

竜門雑誌  第五〇二号・第七五頁 昭和五年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
○中略
四日 泉橋慈善病院ヘ出向。 ○下略


竜門雑誌 第五〇三号・第五七頁 昭和五年八月 青淵先生動静大要(DK310027k-0003)
第31巻 p.147-148 ページ画像

竜門雑誌  第五〇三号・第五七頁 昭和五年八月
 - 第31巻 p.148 -ページ画像 
    青淵先生動静大要
      七月中
○中略
四日 泉橋慈善病院評議員会(三井合名会社)


時事新報 昭和五年七月五日 渋沢子会長に 泉橋慈善病院評議員会(DK310027k-0004)
第31巻 p.148 ページ画像

時事新報  昭和五年七月五日
    渋沢子会長に
      泉橋慈善病院評議員会
泉橋慈善病院評議員会は、四日午後二時日本橋駿河町三井合名会社会議室に於て開催、評議員会長は侯爵井上勝之助氏死去以来欠員たりし処、本日元副会長子爵渋沢栄一氏が会長に、男爵益田孝氏副会長に選任された、当日出席の評議員左の如し
 佐藤三吉氏・子爵渋沢栄一氏・岡田和一郎氏・入沢達吉氏・田代義徳氏・林春雄氏・塩田広重氏・男爵三井八郎右衛門氏・三井元之助氏・男爵団琢磨氏、


竜門雑誌 第五〇七号・第八一頁 昭和五年一二月 青淵先生動静大要(DK310027k-0005)
第31巻 p.148 ページ画像

竜門雑誌  第五〇七号・第八一頁 昭和五年一二月
    青淵先生動静大要
      十一月中
○中略
十七日 泉橋慈善病院評議員及び理事諸氏招待会(綱町三井別邸)



〔参考〕侯爵井上勝之助君略伝 井上馨侯伝記編纂会編 第二六五―二八〇頁 昭和九年九月刊(DK310027k-0006)
第31巻 p.148-149 ページ画像

侯爵井上勝之助君略伝 井上馨侯伝記編纂会編
                      第二六五―二八〇頁 昭和九年九月刊
    二六、社会事業
○上略
 神田区和泉町にある泉橋慈善病院が、社会救済の一事業として非常な貢献をなしてゐることは、夙に世に知られてゐる。同病院は貧困にして医薬を得ることが出来ぬ病者の為に施療をなす目的で、明治三十九年に三井家の寄附によつて設立することに決し、四十二年三月より開業したものである。而して大正八年に至り病院経営の組織を改正をなし、君は挙げられて評議員会長となつた。同年四月七日に、皇后には、同病院に行啓あらせられ、親しく貧民保護事業を台覧あらせられた。爾来同日を以て記念日となし、毎年大会を催すこととなり、君は毎に之に出席して過去一年間の実績を視、将来を激励して指導する所があつた。かくして同病院の事業が、社会的貢献の実績を挙げて来た時、関東大震災に遭遇して非常なる打撃を受けたが、当時罹災者救済の為に大いに活躍したことは銘記せねばならぬ。ついで間もなく病院事業も復興し、又皇后の行啓を忝うした。その後年と共に事業の発展をなし、昭和三年に朝野の人士を招待して創立二十年記念式を挙げることとなつた。君は当日左の演説をなし、同病院の今日ある所以及び病院事業と衛生思想とが相俟つて発達して、社会救済の実を挙げ得べきことを説いて一般の注意を喚起した。
 - 第31巻 p.149 -ページ画像 
○中略
  本日ハ本院ノ記念日且創立弐十年記念式デアリマスルガ、記念日ト申シマスルト、則チ去ル大正八年四月、忝ナクモ皇后陛下、今ノ皇太后陛下ノ行啓ヲ仰ギ奉リマシタ日デアリマシタノデ、其当時陛下ヨリ種々有難キ御言葉ヲ賜リ、一同感激ニ堪ヘザル次第デアリマシタ。四月七日ハ実ニ本院ニ取リマシテ無上ノ光輝アル吉日デアリマス。則チ本院ト致シマシテハ、其沿革上永久記念スベキ紀元節ト申シテ宜シカラウト存ジマス。又本年ハ、本院創立弐十年記念デアリマスルガ、本院ガ年ヲ追テ発展シ、其創立ノ旨趣ガ次第ニ実現セラレ、今ヤ東京市内外ノミナラズ、全国ニ至リ泉橋慈善病院ノ名声ガトドロク様ニ相成リマシタノハ、諸君ト共ニ誠ニ慶賀ノ至リニ堪ヘナイ次第デアリマス。是ハ必竟過ル弐十年間ニ於テ本院職員各位ノ熱誠ナル努力ニ依リマシテ、救恤的事業トシテ社会ノ為メ貢献シタル所尠カラザル事ト確信致スノデアリマス。而シテ亦タ一面此目的ヲ今日迄能ク遂行スル事ガ出来マシタノハ、全ク三井家ニ於カレマシテ、社会奉仕ノ精神ヲ以テ多年多大ナル犠牲ヲ払ハレタル結果ニ外ナラヌ次第デアリマスカラ、私ハ評議員会長ト致シマシテ、此機会ニ深甚ナル感謝ノ意ヲ表スル次第デアリマス。然シ亦タ退テ一面ヨリ考ヘマスルト、病院ノ入院患者及施療患者ガ段々ニ増加シ、為メニ病院ノ業務ガ、余リ頻繁ヲ加ヘマスルノハ、良シアシノ気味デ、社会ノ為メ如何ガノモノデアラウカトモ考ヘルノデアリマス。即チ病人ガ多ケレバ多イ程、社会ノ損失ニナルノデアリマシテ、一般社会ノ衛生状態ガ不完全デアルト云フ事ヲ裏書スルモノデ、或ハ流行病、又ハ市中ノ衛生設備ガ不十分、又ハ一般ニ市民ノ不注意ニ依ルト云フ事ニナルノデアリマス。病院ト致シマシテハ、患者ノ多イ方ガヨイカモシレマセンガ、社会ノ為メニハ却テ憂慮スベキ次第デハナイカト考ヘルノデアリマス。然シ本院ノ如キ総テノ設備ガ整頓シタル病院ニ、患者ガ余リ少イト如何ニモサビシイノデ、各職員ハ勿論、看護婦達迄モお茶ヲ挽ク様ニ相成リマシテハ亦タ困リマスルカラ、是等ノ点ニ関シマシテハ、内外相待テ人道ノ為メ最善ノ努力ヲ尽スヨリ外致シ方ガナイ事ト存ジマス。井上侯爵家文書
○中略
    二七、薨去及び性格
 君は昭和元年頃より少しく健康を害し、式部長官を辞して枢密顧問官に親任せられ、静養の余暇を得るやうになつたが、高齢の為に十分に恢復することは容易でなかつた。然るに昭和四年二月に至りて胃腸を害し、三月に入りて舌癌を病み、ラヂウム療法その他の医療の限りを尽したが、病勢一進一歩の有様であつて、次第に衰弱が加はり、殆ど病床に親しむこととなつた。かゝる間にあつても、君は国政、殊に外交上の事については念頭を離れず、又公の伝記編纂については何くれとなく思を煩はしてゐた。而して同年夏期に入りてより病勢漸く昂進し、遂に十一月三日午前五時二十五分に薨去せられた。享年六十九である。 ○下略